則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2017年03月

讀んで戴ければ幸甚です。

忠義の人「楠木正成」

忠義の精神を産経新聞では「楠木正成考」として連載をしている。

東京だけではなく、大阪に住んでいても、そうした「楠木正成」を考えることもなく「忠義」といえば戦前の思想という短絡的な思考が根底にある。

 

また、時代によりその「楠木正成」という人物評価も分かれる。室町時代では「裏切者」とされていた、それが一変するのが「水戸光圀」である。

 

「水戸黄門」として知られる徳川光圀は、若い頃に『史記』伯夷伝を読んで衝撃的な感銘を受け、人の心をうつのは史書しかないと思い、日本の史書編纂を志す。1657年(明暦3年)、江戸駒籠(駒込)の藩邸に史書編纂所(のちの彰考館)を設置し、『大日本史』の編纂に着手した。儒学に基づく尊皇思想と史書編纂の考証を通して、室町幕府が擁立した北朝ではなく、吉野などを拠点とした南朝を皇統の正統とする史論に至った。当然それは南朝側武将への顕彰に繋がり、『太平記』によって英雄化された楠木正成はその一番の忠臣として挙げられた。

 

こうして、光圀は楠木正成の顕彰のための建碑を思いついたのである。

 

この墓碑創建には、立案者であり、出資者である光圀のほかに、重要な役割を果たす2人の人物がいる。一人は光圀の家臣、広く「助さん」として知られる佐々介三郎宗淳であり、もう一人は廣嚴寺の僧侶の千巖である。光圀の墓碑建立は実はこの2人の出会いにより、実現への運びをみるのである。

 

佐々宗淳(佐々十竹)は、もと京都妙心寺の僧侶で還俗したのち、延宝年間(1673 - 1681年)に史臣として水戸藩に仕えることとなった。佐々宗淳は楠木正成墓碑建立の実務を総括することとなる。

 

私は以前に「楠木正成」の生誕地である千早赤阪村に行って驚いたことがある。それは千早赤阪郷土資料館で「楠木正成」は英雄以外に何者でもない。そうした土壌が生み出した英雄というのが「楠木正成」である。近くに「生誕地」もあり、その隣の市である河内長野では観心寺がある。この観心寺には楠木正成の首塚があるが、その楠木正成は大楠公として崇められている。大阪や神戸では「楠公さん」として親しみを込めて呼んでいる。

また四条畷では「楠木正行」を小楠公と呼んでいる。

親子の決別の地である「櫻井」では小さな公園となっているが、それほど関心もないように思う。戦前は阪急電車の京都線の水無瀬駅は開業時は「櫻井の駅」駅と駅が二つつく駅名であった。昭和14年の年は櫻井の駅に参拝する人も随分多かった。

 

その所在地である島本町の市章は菊水を島本を図案に考えられている。


島本市章

 

 

湊川神社は皆様御存知の「湊川の戦い」で自害した地であります。

その名を残すように「多門通」として楠木正成(幼少名 多門丸)から付けられている。

 

下記に【 あの人の人生を知ろう ~ 楠木 正成 】 から抜粋させていただきます。

 

 

 

南北朝時代の武将。大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。

 鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞がなく権威が失墜していた。執権の北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々。民は重税に苦しみ、世の秩序は乱れた。1331年、幕府打倒を目指して後醍醐天皇が京都で挙兵。しかし、幕府軍の巨大な軍事力に恐れをなして倒幕勢力に加わる者は少なかった。焦る後醍醐天皇。この時、駆けつけた数少ない武将の中に当時37歳の楠木正成の姿があった。

 

 正成の前半生は不明だが、楠木一族は地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた新興の土豪(地方豪族)。河内地方の商業や輸送の利権をめぐって、これを独占しようとする幕府側と対立関係にあった。天皇に謁見して戦への意見を求められた正成は「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし策略をめぐらせば勝機もあるでしょう」と答えた。この言葉は後の戦いで証明されていく。

 

 地元に戻った正成は山中に築いた山城・赤坂城を拠点に挙兵する。“挙兵”といっても正成の兵力はわずかに500。これに対して幕府は数万の討伐軍を差し向けた。甲冑(かっちゅう)を着て武装した幕府軍に対し、正成軍の大半は普段農民の地侍であり、兜もなく上半身が裸の者もいた。粗末な山城を見た幕府軍の武将からは「こんな急ごしらえの城など片手に乗せて放り投げてしまえるではないか。せめて1日でも持ちこたえてくれねば恩賞に預かれぬぞ」と声が聞こえた。

 油断した幕府兵は各自が勝手に攻撃を始め、城の斜面を昇り始める。ところが、兵が斜面を埋めた瞬間に突然城の外壁が崩れ(二重の塀だった!)、幕府兵の頭上にドデカい岩や大木が地響きをあげて転がってきた!1対1で戦うことを名誉とする鎌倉武士と異なり、武勲にこだわらない地侍たちは集団での奇襲を得意とし、この初戦だけで幕府側は700名も兵を失った。藁人形であざむく、熱湯をかけるなど奇策に翻弄された幕府軍は力押しをやめ、城を包囲して持久戦に持ち込んだ(この時、幕府軍の中には足利尊氏もいた。彼は「正成という男は只者ではない」と感心したという)。

 兵糧攻めの結果、正成軍は20日で食糧が尽き、そこへ京都で後醍醐天皇が捕らえられたと急報が入った(天皇は隠岐島に配流された)。正成は城に火を放ち、火災の混乱に乗じて抜け道から脱出、行方をくらます。

※この時、幕府側の武将の誰もが、“正成は武士の伝統に従って炎の中で自刃した”と考え、「敵ながら立派な最期だった」と言い合ったという。このような従来の価値観で動かず、舌を出してサクッと逃げているところが、型に収まらない正成の正成たる由縁だろう。

 

 1332年(38歳)、赤坂城の攻防戦から1年が経った頃、再挙兵の仕込みを完璧に仕上た正成が姿を現す。彼は河内や和泉の守護(幕府の軍事機関)を次々攻略し、摂津の天王寺を占拠、京を睨む。これに対し北条氏は幕府最強の先鋭部隊を差し向けた。正成側には敵の4倍の兵が終結しており、臣下は「一気に踏み潰しましょう」と主張したが、正成は「良将は戦わずして勝つ」と提案を退け、謎の撤退をする。幕府のエリート部隊はもぬけの殻になった天王寺をなんなく占領。ところが夜になると、天王寺は何万という“かがり火”に包囲され、兵士達は緊張で一睡も出来ないまま朝を迎える。しかし夜が明けても正成軍に動く気配はない。次の夜になると再び無数のかがり火が周囲を包囲した。「いつになれば正成の大軍は総攻撃を始めるのか…」4日目、精神的&肉体的に疲労の極致に達した幕府兵は、ついに天王寺から撤退した。実は、このかがり火は「幻の大軍」で、正成が近隣の農民5000人に協力してもらい、火を焚いたものだった。正成軍は一人の戦死者を出すこともなく勝利する。

 

 1333年2月(39歳)、幕府は目の上のコブ、正成の息の根を止めるべく、8万騎の大征伐軍を追討に向かわせる。正成は千人の兵と共に山奥の千早城に篭城した。幕府軍は大軍でこれを包囲したものの、正成の奇策を警戒するあまり近づくことが出来ない。結局、2年前の赤坂城と同様に兵糧攻めを選んだ。ところが、今回は勝手が違った。なまじ8万も兵がいる為に、先に餓えたのが包囲している幕府兵だったのだ。正成の作戦は、目の前の大軍と戦わずに、その補給部隊を近隣の農民達と連携して叩き、敵の食糧を断つという、「千早城そのものが囮(おとり)」という前代未聞のものだった。山中で飢餓に陥った幕府兵に対し、抜け道から城内へどんどん食糧が運び込まれていた正成軍は、3ヶ月が経ってもピンピンしていた。やがて幕府軍からは数百人単位で撤退する部隊が続出し、戦線は総崩れになった。

 

 8万の幕府軍がたった千人の正成軍に敗北した事実は、すぐに諸国へと伝わった。「幕府軍、恐れるに足らず」これまで幕府の軍事力を恐れて従っていた各地の豪族が次々と蜂起し始め、ついには幕府内部からも、足利尊氏、新田義貞など反旗を翻す者が出てきた。尊氏は京都の幕府軍を倒し、義貞は鎌倉に攻め入って北条高時を討ち取る。正成が庶民の力で千早城を守り抜いたことが、最終的には140年続いた鎌倉幕府を滅亡させたのだ。6月、正成は隠岐へ後醍醐天皇を迎えにあがり、都への凱旋の先陣を務めた。

 

※赤坂城、千早城の合戦の後日、正成は敵・味方双方の戦死者を区別なく弔う為に、「寄手(よせて、攻撃側)」「身方(味方)」の供養塔(五輪塔)を建立し、高僧を招いて法要を行なった。敵という文字を使わずに「寄手」としたり、寄手塚の方が身方塚よりひとまわり大きいなど、残忍非情な戦国武将が多い中で、人格者としての正成の存在は際立っている。誠実な人柄が垣間見える感動的な供養塔だ(現在も千早赤阪村営の墓地に残っている)。

 

1334年(40歳)、後醍醐天皇は朝廷政治を復活させ、建武の新政をスタート。正成は土豪出身でありながら、河内・和泉の守護に任命されるという異例の出世を果たす。後醍醐天皇は天皇主導の下で戦のない世の中を築こうとしたが、理想の政治を行なう為には強権が必要と考え独裁を推し進める。まずは鎌倉時代に強くなりすぎた武家勢力を削ぐ必要があると考え、恩賞の比重を公家に高く置き、武士は低くした。また、早急に財政基盤を強固にする必要があるとして、庶民に対しては鎌倉幕府よりも重い年貢や労役を課した。

 朝廷の力を回復する為とはいえ、こうした性急な改革は諸国の武士の反発を呼び、133511月、尊氏が武家政権復活をうたって鎌倉で挙兵する。

 京へ攻め上った尊氏軍を、楠木正成、新田義貞、北畠顕家ら天皇方の武将が迎え撃った。尊氏軍は大敗を期し、九州へと敗走する。

 

 正成はこの勝利を単純に祝えなかった。逃げていく尊氏軍に、天皇方から多くの武士が加わっていく光景を見たからだ。「自軍の武士までが、ここまで尊氏を慕っている…!」。新政権から人々の心が離反した現実を痛感した正成は、戦場から戻ると朝廷に向かい、後醍醐天皇に対して「どうか尊氏と和睦して下さい」と涙ながらに進言する。ところが、公家達は「なぜ勝利した我らが尊氏めに和睦を求めねばならぬのか。不思議なことを申すものよ」と正成を嘲笑する始末…。

 

1336年4月末、九州で多くの武士、民衆の支持を得た尊氏が大軍を率いて北上を開始。後醍醐天皇は「湊川(みなとがわ、神戸)で新田軍と合流し尊氏を討伐せよ」と正成に命じる。“討伐”といっても、今や尊氏側の方が大軍勢。正面からぶつかっては勝てない。策略が必要だ。正成は提案する「私は河内に帰って兵を集め淀の河口を塞ぎ敵の水軍を足留めしますゆえ、帝は比叡山に移って頂き、京の都に尊氏軍を誘い込んだ後に、北から新田軍、南から我が軍が敵を挟み撃ちすれば勝利できましょう」。しかしこの案は「帝が都から離れると朝廷の権威が落ちる」という公家たちの意見で却下された。彼が得意とした山中での奇策も「帝の軍の権威が…」で不採用。

 失意の中、正成は湊川に向かって出陣する。天皇の求心力は無きに等しかった。尊氏軍3万5千に対し、正成軍はたったの700。戦力差は何と50倍!正成は決戦前に遺書とも思える手紙を後醍醐天皇に書く。「この戦いで我が軍は間違いなく敗れるでしょう。かつて幕府軍と戦った時は多くの地侍が集まりました。民の心は天皇と通じていたのです。しかしこの度は、一族、地侍、誰もこの正成に従いません。正成、存命無益なり」。彼はこの書状を受け取った天皇が、目を開いて現実を直視するように心から祈った。

 

 5月25日、湊川で両軍は激突。海岸に陣をひいた新田軍は海と陸から挟まれ総崩れになり、正成に合流できなかったばかりか、足利軍に加わる兵までいた。戦力の差は歴然としており即座に勝敗がつくと思われたが、尊氏は正成軍に対し戦力を小出しにするだけで、なかなか総攻撃に移らなかった。今でこそ両者は戦っているが、3年前は北条氏打倒を誓って奮戦した同志。尊氏は何とかして正成の命を助けたいと思い、彼が降伏するのを待っていた。しかし、正成軍は鬼気迫る突撃を繰り返し、このままでは自軍の損失も増える一方。尊氏はついに一斉攻撃を命じた。6時間後、正成は生き残った72名の部下と民家へ入ると、死出の念仏を唱えて家屋に火を放ち全員が自刃した。正成は弟・正季(まさすえ)と短刀を持って向かい合い、互いに相手の腹を刺していたという。享年42歳。

 正成の首は一時京都六条河原に晒されたが、死を惜しんだ尊氏の特別の配慮で、彼の首は故郷の親族へ丁重に送り届けられた。尊氏側の記録(『梅松論』)は、敵将・正成の死をこう記している「誠に賢才武略の勇士とはこの様な者を申すべきと、敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける」。

 

 

尊氏の没後、室町幕府が北朝の正当性を強調する中、足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱ったため、彼は死後300年近く汚名を着せられていた。たとえ胸中で正成の人徳に共鳴していても、朝廷政治より武士による支配の優秀さを説く武家社会の中で、後醍醐天皇の為に殉じた正成を礼賛することはタブーだった。

 正成の終焉の地・湊川にある墓は、もとは畑の中の小さな塚で荒廃していたのを、1692年に“水戸黄門”徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立、整備した(墓碑銘に「嗚呼」とあるのは正成だけと思う。ちなみに工事の監督を指揮したのは“助さん”こと佐々介三郎)。光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めた。墓の傍らには水戸光圀像がある。

 正成の墓碑は大きな亀の背に乗っている儒教式だ。古来から中国では、死後の魂が霊峰・崑崙山(こんろんさん)に鎮まることが理想とされている。亀はこの山に運んでくれる聖なる生き物とされており、こうした墓の形になった。

 

 室町時代の軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻んでいる。

 

※正成が子と別れた史蹟桜井駅跡(大阪)の石碑「楠公父子訣別之所」の字は乃木将軍が書いたもの。

※正成の故郷、大阪・河内長野の観心寺の境内には彼の首塚がある。法名は霊光寺大圓義龍卍堂。

※正成討死の半年後、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開く。翌1337年、新田義貞が敗死。1339年には後醍醐天皇も他界する。正成の死の12年後(1348年)、息子の楠木正行(まさつら、22歳)は南朝方の武将として父の弔い合戦に挑んで破れ、父の最期と同様に、弟の正時と互いに刺し違えて自害した。

 

誤解を與えるコメント

テレビ大好き

2017032405:27

送金したなら縁を切ったとは言えないでしょう。
どんな言葉だったのですか?

 

 

上記のメ-ルをいただきました。

少し、私の言葉足らずでしたね。送金などはしていません。

ただ、どんな言葉だったんですか?という問いは答えるつもりはありません。

もう少し誠意のある書き込みをして下さい。

 

こういう短い言葉で簡単に問いをかけるというのは、やはり失礼であると思っています。

そういうマナ-は社会人のイロハではないかと思います。そういう所から修正して「テレビ大好き」さんは書き込みをして下さい。


私も書き込みで誤解を與える書き込みをした。言葉の不足をしていたことを教えて頂いた。

金鵄像


近鉄大和八木駅の北側のロ-タリに神武天皇の金鵄像があることを知っている人は少ない。

  神武天皇(カムヤマトイワレビコノミコト)は日向(宮崎県)の高千穂宮を発って東征の途次、長髄彦(ナガスネヒコ)との戦いで苦戦を強いられました。このとき、金鵄(キンシ、金色の鳶)が天皇の持つ弓の上端に飛来してとまり、金色のまばゆい光を発して敵兵の目をくらまして戦意を削いで勝利をもたらしたと伝えられます。その後、神武天皇は、大和を平定し、橿原(かしはら)で初代天皇として即位されたとされます。

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車内から
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鳥見山の霊畤




私は日本人としての基礎的な役割は先祖の遺した遺産というべきものを学習することが大切なんです。

谷口雅春先生は『親鸞の本心』にて

3      私の模範とする妙好人

1章 播州の卯右衛門---------------------------------265

2章 筑前の正助---------------------------------------274

3章 播州の市五郎------------------------------------281

4章 蒲生郡のかよ女---------------------------------292

5章 大阪の北山壽庵---------------------------------300

6章 越中の政藏---------------------------------------306

7章 越前の次左衛門---------------------------------313

8章 石州の善太郎------------------------------------321

 

こうした偉人というべき人の伝記を学んでほしい。その生き方や大切な考えなどを学ぶことです。

 

私は『古事記』『日本書紀』を通じて、そうした精神がいまだに残っていることに感動した人間ですので、そうした精神を是非伝えていきたい。

 

御存知でしょうが、神武天皇の伝説というのが各地に残っていますが、先日鳥見山という所に行きました。

そこは神武天皇が皇祖神・天神を祀った場所であります「靈畤」(まつりのにわ)という伝承があります。その由来こそ奈良県に榛原という地名の由来なんです。

但し、鳥見山は2カ所あります。二カ所共、「靈畤」という伝承があります。

そうしたことを学ばない現在の学校ではなんのことかわからないのです。

 

因みに桜井の鳥見山と榛原の鳥見山とわけて云います。

 

桜井の鳥見山は西麓に等彌神社があり、外山(とび)という『古事記』に出てくる名前の地名があり、そこに鳥見山があります。

 

榛原の鳥見山は

『日本書紀』神武天皇四年春二月壬戌朔甲申の条に

 

詔曰。我皇祖之霊也、自天降鑑、光助朕躬。今諸虜已平。海内無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。乃立霊畤於鳥見山中。其地号曰上小野榛原。下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

詔(ことよさ)して曰(のたま)はく、

 「我(わ)が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天(あめ)より降(くだ)り鑒(み)て、朕(わ)が躬(み)を光(てら)し助(たす)けたまへり。今諸(もろもろ)の虜(あたども)已(すで)に平(む)けて、海内(あめのした)事無(ことな)し。以て天神(あまつかみ)を郊祀(まつ)りて、用(も)て大孝(おやにしたがふこと)を申(の)べたまふべし」とのたまふ。乃(すなは)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、其地(そこ)を號(なづ)けて、上小野(かみつをの)の榛原(はりはら)・下小野(しもつをの)の榛原と曰(い)ふ。

 用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭(まつ)りたまふ。

 

わが皇祖の神霊の御加護によって大和を平定することができた。

よって天神を郊祀し、大孝を申べようとおもう。

よって霊畤を鳥見山の中に立てて、皇祖天神(みおやのあまつかみ)をお祀りもうしあげた、とあります。

 

 

■どうして榛原の鳥見山なのか

 奈良県内には鳥見山霊畤伝承地が六ヶ所ありますが、どうして榛原の鳥見山なのかをお話いたします。

まず、『日本書紀』の記述

 

乃立霊畤於鳥見山中。其地号曰上小野榛原。

とあるからです。

そして、『日本書紀』の神武天皇即位前紀に記載されている「墨坂」や「鳥見」という地名もまた鳥見山のすそ野に位置しています。

  『日本書紀』は榛原をハリハラとふりがなが附けられていますが、現代ハイバラと訓んでいるのは リ の音便イが訓み僻となったと考えられます。

 今の榛原が、上古の小野榛原であったという記録は、墨坂神社(すみさかじんじゃ)(奈良県宇陀市榛原区萩原)の神宝赤盾の裏面に「小野榛原」と明記し、又同社の神鏡の縁に「小野榛原」と刻まれています。

 

 墨坂神社の神宝赤盾は『日本書紀』の崇神天皇九年の条に記録されています。

 崇神天皇九年春三月甲子朔戊寅の条

 

九年春三月甲子朔戊寅。天皇夢有神人。誨之曰。以赤盾八枚。赤矛八竿。祠墨坂神。亦以黒盾八枚。黒矛八竿。祠大坂神。

天皇の夢(みゆめみ)に神人(かみ)有(ま)して、誨(をし)へて曰(のたま)はく、「赤盾(あかたて)八枚(やつ)・赤矛(あかほこ)八竿(やさを)以(も)て、墨坂神(すみさかのかみ)を祠(まつ)れ。亦(また)黒盾(くろたて)八枚(やつ)・黒矛(くろほこ)八竿(やさを)を以て、大坂神(おほさかのかみ)を祠(まつ)れ」とのたまふ。

○大坂神・・・奈良県香芝市穴虫に鎮座する大阪山口神社

 

 

  墨坂・大坂はそれぞれ大和の国から東方と西方へ通じる要路の境界点です。

 重要なのは、鳥見山のすそ野に大和の国の境界である墨坂が位置していることです。

 

 

  墨坂はカムヤマトイワレビコ(神武天皇)の軍が菟田(うだ)に入られた時この墨坂において賊軍が焼き炭を置き防戦したため、イワレビコ軍は苦戦し、菟田川(うだがは)の水で炭火を打消して進軍した所でもあります。

 

また桜井の鳥見山は

桜井市の鳥見山中の「白庭」の位置づけ

 

◆ 神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)を築かれ、天皇みづから皇祖天神を祭祀された「下小野榛原(しもつおのはりはら)という」とあるのは、「神武天皇大和進入」の推定では、宇陀市の「墨坂伝承地」にあたる。

  「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たるのであろう。

  神武天皇即位の大礼のとき、星の使いをされた天富命が、祭主になっている。

  第10代祟神天皇のとき、「下小野榛原(しもつおのはりはら)」に相当していた宇陀市の「墨坂伝承地」に祀られていたものが、宇陀市の墨坂神社に祀りかえられた。

  宇陀市というのは、「星の使い」に深く関わる土地であることも示されたのだと思う。

 天富命の伝承を踏まえた大田種子の記述に従えば、上のようになるのが自然な気がする。

 しかし、皇紀2600年祭のとき、奈良県のそれぞれの町の名誉をかけて関連する町々で大論争を巻き起こしたといわれる。

  「鳥見山中霊畤」伝承地に選ばれればそれだけでも名誉なことであった。

  その影響を受けて、奈良県内には「鳥見山中霊畤」伝承地が6箇所あることになった。

◆ 桜井市の鳥見山は「白庭」伝承を持っている。

 桜井市の鳥見山は「白庭」伝承をもっており、神武天皇即位四年の伝承と絡めて語るには不適切な観が拭えない。

  紀元前1,552,847年の第一次天孫降臨と神武天皇即位後4年では時間の開きが155万年もある。

  神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)は宇陀市のものが有力であるにも関わらず、桜井市になぜ、鳥見山と等彌神社の伝承が残るか今まで判らないままでいた。

  神武天皇即位四年春鳥見山中に霊畤(まつりのには)の「下小野榛原(しもつおのはりはら)」とあるのは、天富命の住居に注目すれば宇陀市の「墨坂伝承地」と墨坂神社である。

  「上小野榛原(かみつおのはりはら)」が宇陀市鳥見山公園内の「鳥見社」に当たる。

  それでは、桜井市の鳥見山と等彌神社に伝承されている霊畤(まつりのには)伝承は何か、という問題が残る。

 山頂付近にある「白庭」が鍵だと思う。

それでは
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桜井の鳥見山の山頂です。この場所が「靈畤」です。


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榛原の鳥見山の山頂です。周囲は木々で覆われて何も見えません。

行宮遺趾と行在所(後醍醐天皇)

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方向指示が倒木で下の方を向いていました。
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倒木で道が塞がれています。
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見上げると高さ3m、幅が1mという巨大な石碑です。

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眼下は木津川が見えます。ちょうど正面の山は海住山寺がある山です。
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後醍醐天皇御製

 うかりける 身を秋風に さそわれて
 おもわぬ山の 紅葉をぞ見る
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行在所遺趾です。



 3
18日(土)経過は後程にして、このブログを見ておられる人は御存知だと思いますが「行宮遺趾(あんぐういせき)(遺跡」」という言葉をこれ以外には全国各地にある「行在所(あんざいしょ)」があります。この言葉を衝撃的に覚醒しましたのが奈良県橿原市今井町は戦国時代の街並みを残しており、今井御坊とよばれ、寺内町の独特な風貌をあらわしています。その場所です。

そこで中心となる寺院が称念(稱念)寺の門の入った所に「明治天皇今井行在所」という石碑に圧倒されたのであります。門に入った左側です。右側には「明治天皇駐蹕之處」という石碑でした。駐蹕(ちゅうひつ)という字が読めなく、ガイドの人に教えてもらいました。

 

それからは出来るだけ「明治天皇」「神武天皇」などの御遺跡などを見るようにしています。

たとえば今回の「行宮遺趾」などは全国的には少ないと思います。そのなかで「後醍醐天皇」の行宮された遺跡です。

その場所は京都の南端の笠置です。元弘の乱で有名な場所であります。この時に初めて「楠正成」が後醍醐天皇の身を守ろうと河内長野から駈け付けるのです。

笠置山の中腹にその遺跡があり、人も行かないようになったのか、道は荒れ果てていました。

また笠置山の頂上には「後醍醐天皇行在所」があります。









聖徳太子に対しての尊崇な信仰者達

日本の歴史は京都や奈良を観光して感じるのは京都は平安遷都が生きている土地柄と奈良の場合は聖徳太子が脈々と生きているのです。

それを感じない歴史家は最早歴史家としては失格である。

 

私は偶然にも「聖徳太子」のゆかりのある父母がいました。

父は奈良県の龍田という所に生れ、直ぐ近くには「法隆寺」があり、それこそ誰しも聖徳太子のゆかりの地であります。

また先祖からの伝来の宗教である「融通念仏宗」は良忍上人は「聖徳太子」を尊敬し、四天王寺から近い「平野」にその伝道の地を求めました。またそれが「太子の夢のお告げ」だと云われています。

また墓所は聖徳太子御廟の横にあります。

また母の生れた地は姫路の太子町という「聖徳太子」ゆかりの地であります。近くには斑鳩寺があり、聖徳太子とともにその生活はあります。

 

そうした聖徳太子という存在は私にとりまして、日本の歴史そのものであるということを感じるのであります。以前にも書きましたが、法然しかり親鸞しかり、空海もそうです。

宗教界の開祖である人達は皆んな「聖徳太子」に憧れていました。

 

そこで法然の場合は

 

真宗のお寺には、本堂右余間に「七高僧(しちこうそう)」と「聖徳太子(しょうとくたいし)」の画像が並んで安置されています。これは親鸞聖人(しんらんしょうにん)が聖徳太子を日本のお釈迦(しゃか)さまと仰がれ、太子の仏徳(ぶっとく)を讃歎(さんだん)されたからです。

  『皇太子聖徳奉讃(こうたいししょうとくほうさん)』には

  大慈救世聖徳皇(だいじくぜしょうとくおう)

   父のごとくにおはします

  大悲救世観世音(だいひくぜかんぜおん)

   母のごとくにおはします

 と、あります。聖人は幼少の頃、父と別れ、母と別れられました。けれども聖徳太子さまを父のように、観音菩薩さまを母のようにお慕いして、父母にあっていますと尊ばれたのでした。

 

親鸞の場合は

 

建久2年9月12日といえば、親鸞聖人19歳の時ですが、比叡での求道に行きづまられた聖人が、かねて崇敬されていた聖徳太子の御廟へ参籠されて、生死一大事の助かる道を尋ねられたことがありました。

 

この時は、13日より15日までの3日間、おこもりなされたのですが、その間のことを聖人自ら、次のように書き遺しておられます。

 

〝夢に如意輪観音があらわれて、五葉の松を母に授けて私の出生を予告した〟という、かつて母から聞かされていた話を私は思い出し、観音の垂迹である、聖徳太子のお導きによって太子ゆかりの磯長の御廟へ参詣した。

 

3日間、一心不乱に生死出離の道を祈り念じて、ついに失神してしまった。

 

第二夜の14日、四更(午前2時)ごろ、夢のように幻のように、自ら石の戸を開いて聖徳太子が現れ、廟窟の中はあかあかと光明に輝いて驚いた。その時、聖人に告げられた聖徳太子のお言葉を、次のように記されています。

 

「我が三尊は塵沙の界を化す、日域は大乗相応の地なり、諦に聴け諦に聴け、我が教令を。汝が命根は応に十余歳なるべし、命終りて速やかに清浄土に入らん。善く信ぜよ、善く信ぜよ、真の菩薩を。

 

時に、建久二年九月十五日、午時初刻、前の夜(十四日)の告令を記し終わった。

 

仏弟子 範宴」

 

範宴とは、当時の親鸞聖人のお名前です。

 

この時、聖人に告げられた聖徳太子の言葉の意味は、こうです。

 

「弥陀、観音、勢至の三尊は、チリのようなこの悪世の人々を救わんと尽力されている。

 

日本は真実の仏法の栄えるに、ふさわしい所である。よくきけよ、よくきけよ、耳をすまして私の言うことを。

 

そなたの命は、あと10年余りである。その命が終わる時、そなたは浄らかな世界に入るであろう。だから真の菩薩を、深く信じなさい、心から信じなさい」

 

ということでした。

 

空海は

 

最澄は弘仁7年(816年)のある日、聖徳太子を慕い、四天王寺を参詣し、この詩を聖徳太子を祭った上宮廟に奉納したのでした。ご覧下さい。

 

 

       求伝法華宗詩

 

 

海内求縁力   帰心聖徳宮

我今弘妙法   師教令無窮

両樹随春別   三卉応節同

願惟国教使   加護助興隆

 

(平声東韻)

 

 

 序文には、(法華経に深い帰依を示された)聖徳太子(日本最古の肉筆、法華義疏は、太子の筆とされています。)は天台高僧の生まれ変わりであり、自分は(仏法における)聖徳太子の「玄孫」である、太子への「渇仰」の思いに堪えず、謹んで一首を奉る、旨が述べられています。

 

それより、魏志倭人伝のように怪しい書籍を信じて「卑弥呼」とか「邪馬台国」とかなど教えるほうがよほどどうかしている。

そういう検証をしていないのに「卑弥呼」などは信じてどうして「聖徳太子」は不在だというのか不思議である。

 

下之太子である『大聖将軍寺』

中之太子である『野中(やちゅう)寺』

上之太子である『叡福寺』

 

とその信仰は各地にあります。

そうした信仰の否定というのが歴史学者にはある。唯物的根拠しかその人はわからない。しかし「卑弥呼」は信じる。

私人と公人の峻別が出来ない人

破邪顕正さんは本当に誤解をする人ですね。

 

怒りが品性を失わせるようなことではいけない。

 

まずはちゃんと文章を読んで下さい。

 

それと、私人と公人との違いを理解していないから、このような投稿をしてしまうのです。

 

私が縁を切ったというのは、相手がそういう「言葉」を発したからなんです。

 

しかし、「学ぶ会」は何も籠池氏から言われていないのですよ。それを何故態々と「関係ない」というようなことをいうのですか?臭いものには蓋をするような遣り方に見えてしかたがないのです。

 

だから「冷遇」なんです。そのことを考えればわかることです。

 

例えば、籠池氏の関係はここで壊れても、団体が見守る場合があるのです。

 

今回の件でも日本会議や「学ぶ会」といった団体が相次ぎ「関係ない」との声明を出した。

 

まさか、宗教団体として地位を築こうとする「学ぶ会」までもがそういう仕打ちをするようなことでは、いけない。

 

 昔は村八分を言い渡されても、二分の赦しがあったのであります。例え非道なことをしても少しはその人が懺悔して戻れるような門を開けることも必要だと思っています。

 

それこそが宗教家として詮議しなければならないことです。

 

私は籠池詢子氏に電話で言われた内容はここでは書けないのですが、そんな事言われたら誰だって縁を切ります。それほど人間関係を崩壊させるような言葉でした。だから、私が突然にそういうことを言われたので縁を切った。

 

私の場合は個人的な問題であって組織とは異なります。組織としては残って欲しい。籠池さんにはそういう思いがあります。

 

だからその後も谷口雅春先生を語る会にいっていました。

 

学ぶ会は組織で人物を切ったのです。

 

例えば破邪顕正さんは「学ぶ会」をほぼ代表しているといっても過言ではない。そうすると掲示板で書き込んでいる内容は「学ぶ会」の言葉なんです。その事を重々に考えて行動してほしいものです。

 

そうすれば、怒りも少しは収まることとなるでしょう。

 

また籠池氏は元々生長の家の人です。元信者として生長の家の教団は「関係ありません」とメッセージを出しましたか?

 

それといろいろと投稿していますアクエリアンさんには頑張って欲しい。


籠池氏の今回の騒動は残念

今回の森友学園の騒動はあの菅野完という怪しい人物で一挙に籠池氏の株を下げてしまった。申し訳ないが、どうかしている。あの人物(菅野)は利用するだけ利用して、裏切りや騙しなどのテクニックは長けている。

 そういうことを知らなければならない、私も少しは擁護していたが、菅野の名前を聞いただけで、擁護など出来ない。そりゃ、日本会議などにソッポを向かれ。愛国団体もこれなら誰も味方してくれないであろう。

もちろん、行っていることは立派でも、多くの人の信頼を勝ち取らなければならない。そこに菅野が熱心に話を聞き、ついつい、そちらの方に行ったのであろうが、それが間違いであることを知らないと駄目である。

 あのように国会議員の多くがいるまえで、すぐわかるような「嘘」は絶対にダメである。本当に社会人としても失格である。

 

私は籠池氏の奥さんの詢子氏とは何回か電話のやりとりはしたことがあるが、ある言葉で直ぐに縁を切りました。(いまでも、携帯電話の番号を知っています)

 

それ以降、今回の「瑞穂の國小學校」のパンフレットや寄付金のお願いなど来ていましたが、それに関しては応援していました。

あのパンフレットが来たのが3年程前です。その時期から豊中市に小学校建設は決まっているような感じでした。

一年ぶりの六甲全山縦走大会


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下記の道路は二号線。一の谷付近になります。
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スタ-トは遅くなったので人は閑散
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明石海峡を望む
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正面の島は淡路島。うっすらと明石大橋が見えます。
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少し明石海峡大橋に接近
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正面の山に登ります。
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中央左側は登ってきた山々
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長い階段です。
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須磨アルプス
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なんとかゴ-ル。宝塚に着いた。


今日(3月12日)は久々の六甲全山縦走大会である。いつもなら
11月の第二日曜日か23日の参加であるが、今回は兵庫労山の主催です。何とか完走を目指して歩こうと考えています。

始発の電車に乗って須磨浦公園駅に集合。

到着は640分、既に瀬戸内海は明るさを増している。ちょうど一年前にこの大会に参加している。

その時は練習を重ねていたので、目的地の宝塚も430分には到着した。体力も自信があったので問題はなかった。

 

7ヶ月の間、こうしたロングランニングなどのトレーニングを積まなかった体はブヨブヨである。

 

全く自信がないというのが正直な感想である。

先週、トレーニングの為少しだけ歩きましたが、激減の体力の低下です。

筋力は全盛期の半分以下です。走る事に関してもスピードも遅く、自分ながら情けなく思う。

 

そんななかでも光明は筋肉痛等がないというのが、救われます。

翌日も痛みもなく過ごせています。

ただ距離的に45キロ程度なんで、六甲等の起伏のある所に対処出来るかが問題です。

そんな想いでスタート地点に立ちました。

 

縦走の序盤の高取山の登頂で早くも息が続かなくなり、菊水山でも度重なる階段で四苦八苦して、何度も人に道を譲って登頂。鍋蓋山では右脚に痙攣が起り、頂上付近では左脚にも痙攣で次の所で棄権であると、早々から思っていました。

 

摩耶山では最早スピ-ドもなく、グダグダと歩いている自分がそこにいた。早く中間地点まではと思い、こんなにも摩耶山が遠いものかと思い知らされた。

それならば、なんとか六甲最高峰までは頑張ろうと思ったが、六甲ガ-デンの手前で脚の痙攣とその痛さを思い知らされた。しかし、それでも今迄大会では棄権はないので、とりあえず脚が持つまで頑張ろう。

 

六甲最高峰のチェックポイントでは1658分である。ここから2時間半ゴ-ル目指そう。

 

塩尾寺のゴールに着いたのが1921分、将に死闘であった。

 

但し、筋肉痛というより、一部の筋肉のみが痛く、通常通り歩ける。

これもサボっていたが、これまでの訓練の賜物である。

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何故、本質を語ろうとしないのか

国有地というのはこんなに割安で売買されるものであることを10年程前の近くの内科病院での土地売買で知りました。

 

それは国有地で【畦畔】という水路の場所があるのですが、その医院は国有地にも関わらず、一切の税金も払わずに30年程住んでいた。

通常ならば、そんな馬鹿なことがあるかとお思いでしょうが。結構そういう国有地にも関わらず税金も払わない人が多いとその時に聞きました。

 

宗教施設なども国有地の払い下げで他の物件と全く安価の値段で取得した話はよく耳にする話です。きちんと調べればそんなことわかる話ですが、互いに傷をもつマスコミですから自分の事は調べない。

 

私の近くの医院は無償でその畦畔が土地の真ん中にあるため、国から頂いたのです。

その後すぐに高い値段で土地を売却し、その土地は7階建てのマンションになっています。

 

そんな事を体驗していますので、今回は左翼のリ-クだと思っています。

 

日本維新の会の木下議員は国会の予算委員会でこんな話をしているのです。

 

 森友学園への国有地売却に関連して、223日の衆議院予算委員会分科会で日本維新の会・木下智彦議員が豊中市も国有地を実質2,000万円で取得していたと発言し注目を集めています。

 

 木下議員はこれまで約142,000万円だったとされる豊中市による土地取得が、補助金によって実質的には2,000万円だったとこのように説明していました。

 

 142,000万だったと言ってるんですね。142,000万豊中市が負担したのかというと違うんですよ。

 私これ豊中市から引っ張ってきたんですけどね、142,000万の内訳。

 これですね71,000万円が公庫補助金、住宅市街総合整備事業ということで71,000万円国から補助金が出てるんです。

 で、プラス臨時交付金、地域活性化公共投資69,000万円出てる。豊中市の負担額はですね、なんと2,000万円なんですよ。」

 

 この話題が関心を集めるのはこれまで、同規模の土地を豊中市が142,300万円で取得していたにも関わらず森友学園が13,400万円と破格の金額で取得していたと報じられていたためで、

 29日の朝日新聞はこれを「学校法人に大阪の国有地売却 価格非公表、近隣の1割か」というタイトルで報じ、これまでにFacebookだけで13,000回以上シェアされるほどの反響が集まっています。

 

 「財務局が森友学園に売った土地の東側にも、国有地(9492平方メートル)があった。

 財務局が10年に公共随契で豊中市に売ったが、価格は約142300万円。

 森友学園への売却額の約10倍とみられる。ここは公園として整備された。」

 

 木下議員はこれらの取引における国の姿勢に対しては疑問を呈す立場で、このように発言を続けていました。

 

 「これ国も国でですね、果たしてこの周辺の土地っていうのをですね、もう何でもいいから兎に角、公共のであるんであれば二束三文で売ってもいいと、早く処分しちゃえという風に思ってたんじゃないかなとこういうの見ても思ってしまう。」

 

だから、これは「森友学園」というより、【愛国者】を抹殺しようとする「左翼」が仕組んだ罠であることがわかるのであります。

 

長谷川豊氏はブログで

 

 

森友学園問題 論点は二つだけ

 

 

森友学園の話に関しては、元衆議院議員で弁護士の早川忠孝さんがコラムを書いていました。

ほぼ同意見なのでシェア。

 

■森友学園は、予算が上がってしまえばみんな忘れてしまうような話かな(早川忠孝の一念発起・日々新たなり)

 

 「なんか変だよ、という印象はこれからもずっと付き纏うだろうが、会計検査院が調べても検察庁が調べても、国有財産の払い下げ等について特定の政治家の不当な政治介入などの事実は多分出てこない」

 

 「これで安倍内閣の足元が揺らぐようなことにはならない。

 多分、民進党はこの問題で得点を上げることも出来ないだろうし、民進党に対する国民の期待が大きくなることもない」

 

そうだと思います。

 森友学園に関しては論点と言えることは2つしかなくて

 

 ・「国有地はみんなの財産なのに不当に安い値段で売られた」問題

・「ひょっとして安倍総理や大阪の維新が絡んでんじゃないの」問題

 

の二つです。

 私が以前上げたコラムに対して

「民間に対して売却するのと自治体に対して売却するのは同列ではない」

という理解不可能なコメントがTwitter上で見られましたが

 

「みんなの財産である」「国有地」が

「安い金額で売られた」

 

 事が問題なのですから相手がどことかは別に論点じゃないです。

 

そもそも私は同列に論じているわけでもないので何が何だかですがみんなの財産が二束三文で売られたのなら相手が自治体であろうが民間だろうがダメなものはダメです。

 

 逆に「民間相手には安いと問題」だけれど「自治体相手」には「みんなの財産」を「たたき売り」していいという根拠はなにもありません。

 

ただ…この問題は「印象操作ニュースの典型」だと私は思っています。

 

 正直な話をしますと、私も社会問題を追及するコーナーを…むかし朝の番組で担当していた時に何度か取り上げたことがありますけれど、そもそも「国有地」を「実際の評価額とかい離した値段」で払い下げられていたり譲渡・貸与されている問題って…

けっこうどこにでもある話です。

なので、本音を言ってしまうと、なんで今更こんな問題を?という気持ちがどうしても出てしまいます。

 

 論点を整理するとこうなります。

 

・「国有地はみんなの財産なのに不当に安い値段で売られた」問題

 

→問題にすることはいいと思います。しかし大事なことは…ほかのも同列にやるべき。ここは大事。日本全国で森友学園だけなら今の報道でもいいのですが、他もあるなら当然みんな一緒にやるべき。たとえその場所が大手マスコミの本社とかであってもね。

 

・「ひょっとして安倍総理や大阪の維新が絡んでんじゃないの」問題

 

→好きに報道したらいいと思いますが、早川さんの指摘の通りで、こんなもんに安倍さんや松井さんは絶対に絡んでないし、物的な証拠なんて今後も出てこないです。そもそも、この二人はそんな下らないことする人じゃない。

 必死の印象操作をしているメディアが多いですが、やるなら人の評価を左右する話なのでちゃんとした物的証拠を明示すべき。

 

ただの印象論を決めつけたように報じているメディアが多いのですが、安倍さんが口利きした証拠や松井さんが便宜を図った物的証拠を…一つでもいいの見せてみたらいいのではないでしょうか。

 

ハッキリ言って申し訳ないが、アホらしい。

この二人はそんなことしないから信頼されてるリーダーなのです。

 印象操作報道に必死過ぎて、元メディアの人間としてバカバカしくなります。

 

 森友学園の話は

 

 やるなら「ほかのも同列にやれ」

やるなら「法的・物的な根拠とともにやれ」

 

という当たり前すぎる指摘でおしまいです。やれやれ。

本質を見抜く力

塚本幼稚園での籠池さんの話をマスコミで聞きますが、いい話はありません。全否定です。

しかし、部外者で籠池夫妻のことを知らない人まで簡単に批評する怖さを私が感じています。籠池さんとも全く話もしたこともない人がマスコミの垂れ流す情報だけで、善惡を判断するのですから大したものである。

先日その息子さんと名刺がわりの挨拶をしましたが。議員になるのかなと思うほど律儀な感じでした。

また、私自身先日ブログで書きましたが、印象はあまりよくないのです。だからといって、自分までがマスコミの語調に乗って、あいつは悪いとか言いたくないし、籠池夫妻のほんの一部しかしりませんので、マスコミの言いなりには自分はなりたくないし、素晴らしいところの方が多いのも事実です。それを見失った書き方の方が礼儀知らずの卑怯な人間です。そこまでいうのだったら、ちゃんと本名を名乗って堂々と書いてください。


「学ぶ会」の冷遇

下記の御意見がありました。

私もこの意見に賛同しています。

先日のブログで塚本幼稚園に四回程行ったと書きましたが、初めて関西の地域で『谷口雅春先生を語る』という当時の谷口雅宣の反谷口雅春先生の真逆な暗黒思想そのものでしたから、衝撃的な役割を位置付けたものでした。それは現在の『谷口雅春先生を学ぶ会』に大きな影響を与えています。その塚本幼稚園で二回の講演会は大成功の内に終了しました。

その先導的な役割を果たしたのが、籠池ご夫婦でした。

其の後、私は二回程、今後の会の方針とかで行きましたが、やはり方針の違いが明らかになり、足が遠のきました。

 

だから、その時に籠池さんとは話をしたことはあります。

 

其の後、「元住吉神社」での開催で「谷口雅春先生を語る」會には二回程行きました。

 

しかし、塚本幼稚園で行っていることには頭が下がる思いです。日本にこんな素晴らしい幼稚園があるかといえば、もう日本にはありません。それを「谷口雅春先生を学ぶ会」の公式の見解ともいえる【 「谷口雅春先生を学ぶ会」と「森友学園」(籠池ご夫妻)とは関係ありません 】

には、少しおかしいぞと思いました。

私も「背教」と蔑まれ、ブログに書かれました。併し、こんなこと書いて恥ずかしくないのか、「生長の家」の同志であった人をもう少し温かい心を持たれないのか、仮にそのように思っていたとはいえ、公式に書かないほうが私は良いと感じる。

こういう「学ぶ会」の冷たさ、私は淋しさを感じる。

まるで現「生長の家教団」とおなじではないか。

 

それでは潮さんが書かれた内容を抜粋させていただきます。

 

【 「谷口雅春先生を学ぶ会」と「森友学園」(籠池ご夫妻)とは関係ありません 】NEW (5178)

日時:20170304 () 0005

名前:潮

【 「谷口雅春先生を学ぶ会」と「森友学園」(籠池ご夫妻)とは関係ありません 】

 

これを読んで、これほど情けなく、恥ずかしい想いをしたのは、実に久方ぶりです。何と情けないことを書かれるものかは。

 

事実はその通りでありましょう。

學ぶ會の会員ではないのだから。

 

籠池御夫妻は確かに激しい方だ。學ぶ會設立当初の方々との意見の違いは当然あったでしょう。

 

しかし、生命の實相を勉強し、谷口雅春先生をこよなく敬愛し、この御教えをとにもかくにも広めようとした方ですよ。

 

しかも、今問題になっているのは、民族派の学校設立を許すな!!! という左翼の動きに、浅薄で、これまで散々籠池御夫婦によって叩かれていたメディアが、左翼労組が、こぞって週刊誌的に大騒ぎしているだけの話ではありませんか。

 

そうして、騒ぎが大きくなると、いつものように、政治家が、私は知らぬ、潔白だ、と逃げを打つ。

 

一体何が問題なのですか!! どのような不正があった??というのですか!!!

 

学校法人認可というのは、それは大変な大事業と聞き及んでいます。

 

それを、新聞テレビが大騒ぎするから、我々は、関係ございません、 とシレーと表明するのですか?

 

幼稚園で、毎朝教育勅語を朗誦しているのです。

 

自衛隊のパレードには園児が日の丸の小旗を振って送迎に出かけるのです。

 

以前には、左翼が、労組が、園の正面入り口にバキュウムカーで糞尿をまき散らしたり、暴力団まがいの被害行為もあったと聞きます。

 

それでも、谷口雅春先生の御教えは、断じて違えず、尊皇の旗を決して降ろさず、とこれまでやって来られたのです。

 

単に、銭金欲しさで、目立ちたがりで、ここまで一体誰がやりますか!!!

 

組織からは離れていても、組織としての応援は出来ないにしても、どうして心中 “がんばれ!!” くらいの想いになれないのか?

 

私は學ぶ會の幹部でも何でもない、一会場リーダーに過ぎない。しかし会場をどんどん増やし、谷口雅春先生の御教えをどうしても広めたい、その一念で、これまで参りました。

 

県下二会場で誌友会勉強會を開催していた。先月念願の新会場が出来、やっと三会場。本年新設五会場と考えていたから、あと四会場。しかし必ずできる!!! そう信じ且つ動いてもいた。

 

しかし、あまりに情けない!!!

 

あまりに腹立たしい!!!

學ぶ會幹部の方にお伺いしたい。

 

掲題の

 

【 「谷口雅春先生を学ぶ会」と「森友学園」(籠池ご夫妻)とは関係ありません 】

 

これは學ぶ會の公式な返答なのでしょうか?

 

もしそうであるのなら、私も少し冷静になって今後のことを考えたい。

 

私はそのような “冷たい”組織 にはあまり関わりたくないから。

 

近況報告

最近はこのブログに書くことは満載しているが、なかなか書けない。時間的な問題であるが、最近の休みは太くなった体形を少しはスリムにしたいと日曜日は再び歩いたり走ったりしています。


平日の時間を見つけては『谷口雅春先生著作一覧表』の作成に没頭しています。また仕事で遅くなることも多くあり、時間の割り振りが大変です。


他のブログでの「塚本幼稚園」のことも、私なりに話をしたい。塚本幼稚園には4回程行ったことがあります。

そのうち二回は『谷口雅春先生学ぶ?』(学ぶ会の前身)です。産経新聞社でのウェ-ブで集まった人が沢山いました。


また、以前の『紀元節』での話や今日の新聞に掲載されていました。”「舒明天皇初葬墓」か「蘇我蝦夷の大陵」か 研究者を二分する論争に”という話題ですが、2月19日にその舒明天皇の陵墓の参拝に行きました。

また、神武天皇の鳥見山に行きました。桜井の鳥見山と榛原の鳥見山と行きました。
その件についても書きたいこと満載です。

それと、「六甲全山縦走大会」にチャレンジします。久しぶりなので完走できるかが不安です。

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