則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2017年02月

讀んで戴ければ幸甚です。

『中心に歸一する道』

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中心に歸一する道

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本書出でてことに最高最大なるの本精神の眞髄彌々燦として輝き、我國體明徴は、はじめて其の完全なる結論を得た!我國體に最も適合しい大宗教は何であるか?それをかくも深くかくも明快に説ける書を、今我々日本人は與へられたのだこれは眞に日本人として、此際是非讀まるべき最高の中心指導原理である。

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中心に歸一する道・『生命の藝術』誌(胃腸病征服感謝特輯號)

 

 

 

 

 

あなたの眞の幸福は中心に歸一することより始まる。中心は何處にあるか。日本だ、日本國家だ。日本は大和(彌全止(やまと)・大調和)である。一切世界を中心にまとめて大調和せしむるのが日本國の使命なのだ。この使命を悟ることが日本國民としての悟りなのだ。日本人にとっては國を愛することがそのまま自己完成の道である「空」に捉はれて神國を説かざる迷蒙の宗教よ消えよ、個人我の無を知って、國家我のみが存する、大毘廬遮那佛の本地は日本である。佛教は神國を説かぬのではないぞ。

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中心に歸一する道

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非常時日本國民の指導書

 

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中心に歸一する道

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここで70

暗雲は低く垂籠めてゐる。全社會を覆ってゐるこの鬱然とした氣風は、生活の面前を低迷して霽れようともしない。全世界がこの危機の泥沼から脱出する道は如何?此處に肇国固有のミチがある。ミチとは宇宙に滿ちて自らの久遠の實在を自證してゐる。それが中心であり、一切のものそれに歸趨す。

我れ今道を示さんとす。現下世界救濟の道は唯一中心に歸一する道あるのみ。この中心よりの離反が凡ゆる不安の禍根であったのだ。この絶對歸一の精神は、全宗教の確信となしてゐる事を谷口先生は常に説かれて來た。そして今、この非常時に海陸の二将軍と共に本書を上梓されたのだ。生長の家の光明思想は一切の迷蒙を照破して實相を輝き出さしめる。國家の實相を輝き出さしむる時國家興隆し、一家の實相を輝き出さしむる時一家興隆す。豈に『生命の實相』の功徳は病氣治しのみならんぞ。今日本の心の糧として本書の右に出るものはあるまい。

『中心に歸一する道』という谷口雅春先生の書が出版された時は信徒のみならず日本国民が驚天動地の思いだった。

上記は昭和11223

同じく229日。37日・10日の東京朝日新聞から掲載致しました。

コメントありがとうございます。

メ-ルありがとうございます。
そうですね、是非とも陵墓参拝に行きましょう。

それと、古代史で探るには地理的な要因というのが大切なのです。
古墳を造るには多量の石垣や土砂などが必要となってきます。それを運搬するにはどうしたらいいのかを常に頭に入れながら散策します。
また、山を利用したりする場合もありますので、その方角や地政学というのが最終的にこの場所に陵が築山が可能なのかどうかと、代表的な前方後円墳などに濠などがある場合にどこから水を引いたのかを探ったりします。

その為必ず御陵を周囲を一周します。また培冢の位置やその大きさなど自分なりに分析していきます。
ただ、古代と近代とでは全く様相が変わります。

また天皇観をしっかりと持つことが一番重要になってきます。
現在の古代の学者は左翼に占拠されています。そういうことに流されないようにしっかりと歴史を勉強することが大切なのです。
私も常に勉学しています。


例えば、仁徳天皇陵等では明治17年頃の地図などで分析しています。
だから、宗教的な要素と古代史のロマンとを錯綜しないようにしていきます。また近くに神社などがありますので、どういった神社があるのかも調べます。




1. hino      

2017年02月22日 08:28

『日本書紀』が「西南」を「東南」と間違えたのかどうかは、古代の文献ですので史料批判は難しいでしょうが、現地に行かれた方の言には説得力があります。

歴史を調べる際、文献調査も当然大事ですが、正しい文献解釈を行おうとすれば、現地の神社で神想観をするのが一番確実です。

陵墓・神社の参拝は山ちゃん様が先達ですので、機会がありましたら、山ちゃん様と一緒に現地に行きたいと思います。

よろしくお願いします。

2月11日の大和三山と橿原神宮の参拝と初代から4代までの陵墓参拝-2

橿原の宮は私は現在の橿原の地にはなかったと思っています。

それは文献と地域の標高などを実際に歩いてみてそのように思っています。

それは持統天皇が藤原京を建てた時にその当時ではかなり大きな都であったことはわかります。ただ694年から710年までの16年間であり、その後に平城京に遷都されています。ただどうして大きな藤原宮がたった16年間でその役目を終えたかというと、やはり地域の標高の低さが問題であった。汚物なども含む衛生的な問題である。そのあたりからコレラや赤痢などの発生によることではないかと思っています。現在の藤原京を歩いてみると周りは古池や湿地帯が現在でも多く存在し、藤原京の周辺はいたるところに小さな川が縦横にあり、昔は水捌けが悪かったことがわかる。

 

万葉集に次の歌がある。

 

 

大君は神にしませば 赤駒の 匍匐ふ田井を都と成しつ

 

大君は神にしませば 水鳥の すだく水沼を都と成しつ

 

大君は天武天皇、都は藤原京である。

「赤駒の匍匐ふ田井」や「水鳥のすだく水沼」を都にしたことを讃えている。

逆にみれば、それだけ条件の悪い土地だったことになる。

建設前から水はけが悪いことは周知のことだった。つまり、平城京へ遷都する理由とは考えにくいということである。やはり病気の発生が大きな起因ではないかと考えてみてもいい。

 

そこで気になるのは橿原宮である。藤原京時代でもそれほど水捌けが悪いのに、実際橿原の宮に建立出来たのかどうかである。

私はその考えはNoであるといわざるをえない。

そこで考えるのは以前に紹介した御所市の柏原付近ではないかと考えている。201616日のブログを見て下さい。

 

今回はtetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」から抜粋させていただきます。

東征を果たし大和を平定した神武天皇は、橿原の宮で即位した。『古事記』に《荒(あら)ぶる神等(かみども)を言向(ことむ)け平和(やは)し、伏(まつろ)はぬ人等(ひとども)を退け撥(そけはら)ひて、畝傍の白檮宮(かしはらのみや)に坐しまして、天の下治らしめしき》とあるとおりで、今はその宮跡伝承地に橿原神宮(橿原市久米町)が建つ。

 

 橿原神宮は《記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、明治23年(1890年)42日に官幣大社として創建された》(Wikipedia)という神社である。明治21年に当時県会議員だった西内成郷氏(高市郡上子島村=現在の高取町)が内務大臣・山県有朋に請願したもので、『橿原神宮史』には「同地ヘ一ノ建碑ヲナシ其碑文ノ如キハ勅裁を仰ギ奉ラントス」とあり、もともとは神社ではなく「記念碑を建ててほしい」というつつましいものだった。

 

 一方、「畝傍の白檮宮」は橿原市ではなく、御所市柏原であるという説がある。ウチの会社に、代々柏原に住み、「神武天皇社」(御所市柏原字屋舗)という神社の総代を務めておられる先輩(ハンドルネーム「国見山」さん)がいて、現地の写真をはじめ、いろんな情報を提供してくださった。

 

 

 かくれ里 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

白洲正子

講談社

 

白洲正子も『かくれ里』(講談社文芸文庫)に、神武天皇社について書いている。《なぜそんな所に興味をもったかといえば、神武天皇が即位されたのは、今の橿原神宮ではなく、おそらくこの柏原の地だからである。何度も人に尋ねながら行くと、その社は、柏原の町中の、藤井勘左衛門氏という家の前を入った、小路の奥に鎮座していた》。何を隠そう、藤井勘左衛門氏こそ、国見山さんの曾祖父でいらっしゃる。ご自宅で白洲正子に応対されたのは、国見山さんのお母様だったそうである。サインはいただいたのだろうか。

 

 

 神武天皇社本殿。トップ写真は参道から撮った拝殿。写真はすべて国見山さんが撮影されたもの

 

《村の鎮守といった格好で、みすぼらしい社殿があるだけだが、畝傍の裏にひっそりとかくれて、村人たちに「神武さん」と呼ばれて護られている姿は、土豪に擁されて即位した磐余彦の、ありのままの姿をほうふつとさせる。人も知るように、現在の橿原神宮は、明治の中頃できたもので、地名も橿原ではなく、白橿の村といったと聞く。どういういきさつで、そこが正しい宮跡とされたか、私は知らないけれども、徳川時代にはすでにわからなくなっていたらしい》。神武天皇の宮=柏原説の論拠は、鳥越憲三郎氏(大阪教育大学名誉教授)の『神々と天皇の間』(朝日文庫)に詳しい。

 

 神々と天皇の間―大和朝廷成立の前夜 (朝日文庫)

鳥越憲三郎

朝日新聞社

神武天皇は大和を平定したのち、橿原宮で即位された。『日本書紀』によると、「夫(か)の畝傍山の東南、橿原の地(ところ)は、蓋し国の墺区(もなか)の可治之(みやこつくるべし)。すなわち有司(つかさつかさ)に命(ことお)せて、帝宅(みやこ)をつくり始む」とあり、『古事記』にも「畝火之白檮原宮に坐しまして天下治しめしき」と記している。そのため畝傍山の東南麓に橿原神宮が建てられたが、『日本書紀』の記す東南は西南を誤ったらしく、実際の橿原の土地は畝傍山から約四キロメートル西南にある柏原村のようである。本居宣長も明和九(1772)年の『菅笠日記』の中で

  

うねびやま見ればかしこしかしばらの、ひじりの御世の大宮どころ、今かしばらてう名はのこらぬかととへば、さいふ村はこれより一里あまりにしみなみ(西南)の方にこそ侍れ、このちか(近)き所にはきき侍らず。

 

とのべているが、その柏原はいまの橿原市域ではなく、御所市に属し、古くは柏原郷と呼ばれた。天平10738)年の『東大寺奴婢帳』に大倭(おおやまと)国柏原郷とあるもので、そこには柏原造(みやつこ)の名さえみえる。さらに「続日本紀」によると、その25年前の和銅6712)年11月の条にも、柏原村主(すぐり)の名がみえているので、柏原の地名は古い。

 

その柏原村を『和漢三才図会』(1713年)は「柏原、高市葛上郡界也」と記し、『菅笠日記』よりも古い享保211736)年の『大和志』では、すでに「橿原宮。在柏原村」とのべている。そのため、その後の『大和名所図会』や『西国名所図会』なども、すべて柏原説を踏襲している。そうしたことから、この地が橿原の宮址に擬せられて、いつのころ建てられたのかわからないが、集落の中に神武天皇社という小さな社まである。社頭には、神式天皇の名をしめす「祭神 神倭伊波礼毘古命」と彫った石柱が立っている。(中略)

 

 集落の北側に13メートルの丘がある。神武天皇はこの丘に登って国見をされた。『日本書紀』によると、

 

卅有一年夏四月、乙酉朔。皇輿巡幸(すめらみことめぐりいでま)す。因りて腋上(わきがみ)の嗛間丘(ほほまのおか)に登りまして、国の状(かた)を廻望(めぐらしおせ)りてのたまわく、研哉(あなにえや)、国之獲矣(くにみえつ)。内木綿(うちゆふ)の真迮国(まさきくに)といえども、なお蜻蛉(あきつ=トンボ)の臀呫(となめ=交尾)せる如くあるか。これによりて始めて秋津洲(あきつしま)の号(な)あり。

 

と記しているが、「腋上の嗛間(ほほま)丘」の腋上(今は掖上)も、柏原の西に接する古い地名である。しかも、この丘の西半分は字本馬(ほんま)といい、丘すそに本馬村があり、いまは御所市に入る。『日本書紀』のホホマがホンマに訛ったものだといわれてきたが、それは事実であろう。その本馬の丘から御所市の町にかけての広い水田地帯が、日本の国号の起こりとなった「秋津洲」と呼ばれたところである。

 

 

 拝殿は約5年前に建て替えられた。向こうの山が、掖上の本馬の丘(腋上の嗛間丘)

 

うーん、なるほど。白洲正子だけでなく、『大和志』(江戸幕府が編纂した地誌)も、古事記研究に一生を捧げた本居宣長も「柏原説」だから、これは有力な説なのである。「掖上の本馬の丘」(秋津島の伝承地)が残っている、というのもすごい。ちなみに『角川 日本地名大辞典』で「柏原(御所市)」を引くと《柏原は柏樹の密生地であった。現在も地下に柏の巨樹が埋まり、上前柏・下前柏・前柏・才柏などの字名が残る》《神武天皇の橿原宮は現在橿原市に比定されているが、江戸期には当地に比定する説が有力であった(大和志・大和名所図会・西国名所図会・大和遷都図考・菅笠日記など)》。

 

 神武天皇社には、御所市教育委員会と御所ライオンズクラブが、こんな看板を建てているそうだ。《神武天皇社 祭神は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト=神武天皇)である。葛城王朝の初代である神武天皇の即位した場所であるといわれている。本殿は流れ造りで4尺に3尺。天保4年(1833)9月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社、厳島社、ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にありサワリの神とも称する。祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある》。

 

 

 《社殿の巨石は明治年代に「越智山」から搬出したもの。本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字「御神酒田」は神社に献上するおみきの米をつくった田であるという。享保21(1736)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。里の北西に143メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の嗛間丘に登って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上という》。

 

 

 嗛間神社の祠。アヒラツヒメが住していた場所ともいわれる。

 

さて水平社といえば「反天皇」ということを思い起こす人が多いが実際のこの水平社の運動は神武天皇を御護りする人々であった。それがどうして「部落問題」とかで「反天皇」と翻ったのかというとやはり部落問題で天皇制が登場するのは、コミンテルンの1932年テーゼからである。従って部落の生活経験から反天皇の思想が生まれたのではなく、国際共産主義運動から反天皇が持ち込まれたということについては、師岡佑行氏(元京都部落史研究所所長)・灘本昌久氏(京都部落問題研究センター所長)両者ともに事実として認めるところである。

そこが戦前のコミンテルの前は純粋な天皇の気持ちがあり、皇国の民としての誇りがあった。

2月11日の大和三山と橿原神宮の参拝と初代から4代までの陵墓参拝-1

211日 神武天皇橿原の宮に行ってきました。午後3時頃でしたので朝の騒然とした雰囲気とは違って、橿原の宮はなんだか閑散としていた。

どうして朝が騒然としていたのがわかったかというと、実はこの日は橿原神宮の北側にある近鉄大和八木駅をスタ-トして目標として大和三山を巡り、神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇の御陵天皇の参拝してから、橿原の宮に参拝した。

 

その大和八木駅から軍歌が聞え、紀元節の歌が聞こえたからである。距離が離れているにもかかわらず、遠くまであの街宣カ-から流れる音が聞こえたからであります。

 

さて、今回は畝傍という地に畝火山口神社がありますが、畝傍と畝火とどうして字が異なるのか、また、耳成山口神社が山頂ちかくにあり、畝傍山は裾野に畝火山口神社があります。

畝火山口神社も頂上に設営されていたのが、橿原神宮を眼下に見下ろすのはよくないということで、裾野へ移動したのです。

 

また、香久山(天香久山)には山口神社がありません。裾野には天香久山神社があります。

その不思議と私の考えも併せて考証していきたい。

 

 大和三山の天香久山だけは別格であったことがわかります。それは香久山とも呼んでいたのですが、その上に「天」を付けている。それは神聖な意味が含むと考えてもいいと思います。まずは持統天皇の

 

    春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 

    衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

 

           持統天皇(2番) 『新古今集』

 

万葉集の最初に出てくるのが下記の詩です。

 

大和には 群山あれど

 とりよろふ 天の香具山

 登り立ち 国見をすれば

国原は 煙けぶり立ち立つ

海原は 鴎立ち立つ

 うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は

 

どうしてこの歌では天の香久山としているのか。

 

そこを詳しく詳述しているのが『釋日本記』の「伊豫國風土記」には

 

伊予の郡。郡家より東北のかたに天山(あめやま)あり。天山と名づくる由は、倭(やまと)に天加具山あり。天より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端(かたはし)は倭の国に天降(あまくだ)り、片端は此の土(くに)に天降りき。因りて天山と謂ふ、本(このもと)なり。

伊予天山というのは実際にあります。

 

この昔の天加具山から気が付くのが火之迦具土神と同じ字を書いていることです。つかり迦具とは「輝く」という語源と同じであるから、光輝く山として、信仰の対象としての神々しい山として昔は捉えられたのではないかと思っています。

 

また、当日は天香久山神社と天岩戸神社(天照大神)にも参拝してきました。この山腹にはそれ以外に伊弉諾命と伊弉冊命祀る上の御前と下の御前がある。

 

中大兄皇子の歌

「香具山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」 (1-13)原文「高山波雲根火雄男志等耳梨與相諍競伎神代従如此尓有良之古昔母然尓有許曽虚蝉毛嬬乎相挌良思吉」

 

大伴旅人の歌

「わすれ草 わが紐に付く 香具山の 故(ふ)りにし里を 忘れむがため」 (3-334)

 

作者不詳

「いにしへの 事は知らぬを われ見ても 久しくなりぬ 天の香具山」 (7-1096)

 

 

柿本人麻呂の歌

「久方の 天の香具山 このゆふべ 霞たなびく 春立つらしも」 (10-1812)

 

さて書きたいことも沢山ありますが、当日(211日)は橿原神宮参拝後に孝元天皇陵の参拝と素戔嗚命神社と植山古墳と丸山古墳と行ってきました。植山古墳は初めてで当日は舗装工事をしていました。ただ、古代の古墳というイメ-ジはなくなり単なる公園となっているのが残念であります。いろいろと私も古墳を巡っていますが、どれも同じように古墳を坊主山にして公園にするのである。どうせこんな公園にしても維持費が嵩み、荒れ果てるだけである。神性聖など感じないのが教育委員会の役員の感じる浅はかな知恵であろう。

ただ、植山古墳は近くの見瀬丸山古墳以上の大きな古墳であったことがわかります。前方後円墳の二つの古墳は巨大で竹田皇子の墓とされている。

 

また、見瀬丸山古墳は出土内容からしても舒明天皇の墓ともされている。また持統天皇とか欽明天皇陵とか、言われているがその真意はわからない。ただ大きさは古墳では全国第六番目の大きさですから驚きます。また内部の一部が盗掘され、その多くが大英博物館にそれがあります。国際条約からしてみると完全な盗掘の品物であり、盗掘した人物はウィリアム・ゴ-ランドであります。

『續々甘露の法雨』について

『續々 甘露の法雨』についてですが、戦後の昭和251220日が最初の折本として出版されます。

何故、續々なのかというのは「生長の家の歌」として発表していて『甘露の法雨』と『天使の言葉』が『續 甘露の法雨』として、そして『續々 甘露の法雨』が発表されるのですが、戦前の『生長の家』誌の昭和1811月號で『續々 甘露の法雨』が発表されるのですが、それも「生長の家の歌の一部」として発表されています、現在の『続々 甘露の法雨』とも少し内容も違っています。

 

私より詳しい人がおられましたら、教えて頂きたいのですが、それ以前にこの「生長の家の歌」として発表されているのか教えていただきたい。

 

よろしくお願い致します。

 

コメントありがとうございます。

寒坐様

亀の子様

 

コメントありがとうございます。

私が答える必要がないので、少し経緯だけを話させていただきます。

 

以前に『大日本神國觀』につき下記の文章(前半のみ掲載)をこのブログで発表しました。

 

大日本神國觀   『生長の家』誌 昭和41年 3月号より

 

 

 

それにしても『日本回復』といふことは結局無門關第六則の世尊が拈華によって示されたる金波羅華の世界を實現することにほかならないのである。金波羅華の世界が實現するとは、金波羅華の十六花辮がことごとく中心に歸一して各々處を得て爭ふものなく相食むものなき大調和の世界が實現することであり、それが日本の回復であると共に、現象の全世界に失われてゐた「みこころの成る世界」を復活することにほかならないのである。

 

 

 

從って吾々の神癒祈願部は単に病気の治療や、入学試験パスのためのみの祈願であってはならないのである。本部の新組織に於いて神癒祈願部長に有留弘泰氏を新任したのもそのためである。すると有留氏から次のやうな手紙が來た。

 

 

 

『神癒祈願は信者に對する本部よりの愛行とし、與へる行として創められたものでありますが、今や天下の大生長の家となりましては

 

日本國の神癒

 

世界各國の神癒

 

全世界の神癒

 

 

 

を祈願する責任を痛感致します。

 

 立教三十七周年を迎へ乍ら、日本國内殊に立法の府たる議會は益々修羅闘争の場と化し、交通事故は頻發して死傷者續出、火災爆發等こもごも起り、強盗殺人等いよいよその數を加へつつあります。

 

世界的にはベトナム戦爭、インド、パキスタンの紛爭、インドネシアの内亂等々戦爭の絶えざるあり、又、米ソの對立はいよいよ激化し、米ソ關係又豫斷を許さざるものがあります。

 

 これら悉くは結局宇宙大神の大本営たる生長の家の責任と存じます。

 

 而してその責任はそのまま神癒祈願部長たる有留の責任とならざるを得ません。

 

 もとより、惟神の大道は天地開闢と共に發生し、釋尊生まれて三千年、キリスト出でて二千年、今なほ世界が修羅地獄の様相を呈するに比すれば、その責任は輕さに似たるもこれら成の宗教を以てしては救はれざる」が故に、最後の救として現れたる生長の家が今之を救はずんば何者かよく之を救はんやでございます。

 

 

 

そこで個人や家庭や會社、工場等に關する救ひは、そのまま國家、世界に救ひにつながる重大事なるは勿論で御座いますが、それらに就ての神癒祈願は從來のまま繼續し、日本並びに世界各國、更には之を包容する太陽系、宇宙に對する神癒祈願をすることが最も喫緊事と存じます。

 

 

 

その祈りは過去に頂きました大日本神國觀を復活して頂きたいのであります。大日本神國觀は生長の家の當面の大使命たる日本の實相顯現にも最も適する神想觀と存じ上げます』

 

 

 

さて、その大日本神國觀といふのは、連合軍の日本占領後、私は“執筆追放”となり、日本國の優秀性を説く自由を剥奪され、追放解除後も日本國の優秀性を説いたら、一般社會から反動だとか非民主的だなどと批評されて、生長の家の教への弘まる妨げになるので時期至らずして光を和らげ塵に同しうして今日に至ったのであるが、に時期來れりといふ譯で、『無門關解釋』の本が昨秋愈々出版されて、宇宙の實相“金波羅華の世界”の實現こそ、釋尊出生の本懐であることを明らかにしたのである。

 

 

 

大日本神國觀といふ觀法は、釋尊教示の“金波羅華の世界”の中央にスメラミコト在ますところの實相を觀ずるところの神想觀であって、戦前に本誌に發表されたものであるが、日本神國觀を日本國から追放するといふ戦後の占領軍の政策により、發表も實行も不能状態のままに今日に至ったのであります。

 

 

 

神癒祈願部長に有留弘泰氏が就任して以來、神癒祈願部は單に病人を治癒させる位の小さな役割の部ではない、日本國の現状を神癒し、全世界の現状を神癒して、地上に永久平和の世界の基礎を築くことこそ、わが神癒祈願部の責任であるとの自覺から、大日本神國觀によって、金波羅華の世界の實相を重點的に觀ずる提唱となり、實践となって來たのである。その實修法は次の通りである。

 

 まづ正座、瞑目、合掌して神招歌四首を唱へ、次の如く念ずるのである。

 

吾れ今、五官の世界を去って實相の世界に入(居)る

 

と念じて、“ここが實相の世界、神の世界、神靈滿ちみつる世界である”と觀ずるのである。次に

 

遥々(はるばる)と目路(めじ)の限り眺むるに十方世界悉く神なり。吾れ十方世界を禮拝す。

 

と念じ、十方世界の一切のものが悉く神靈の示現であると観じ、

 

天よ、ありがとう。地よ、ありがたう。空気よ有難う、

火よ、水よ、かみよ、冷たさよ、

天地一切のもの神の顯はれであります。ありがたうございます。

 

と念じつつ、神の惠み滿ち足りて、光り輝く實相の世界を静かに觀じて、

その圓滿完全光明遍照の大宇宙が、十方花辮の金色の蓮華の花の姿にて、その中央座にスメラミコトの玉座ありと觀じ(眼の内に描いて、それを諦視する)

 

中央に すめらみことの御座あり、すめらみこと高御座(たかみくら)に坐し給ふ。

これをめぐりて百官もろもろの司あり。

すめらみことに向いて禮拝し奉行し奉る。

 

と念じ、その有様を觀じ、眼の裡(うち)に百官綺羅星の如く、玉座を中心に至誠をもって

職域に奉行しつつある實情實相を心に描いて觀ずる。次に

 

十方に八百万の神々あり、護國の英靈あり、十方の諸佛あり、諸天あり、すめらみことに向いて禮拝し守護し奉る。

 

と念じ、大宇宙の地平線の彼方稍ゝ(やや)高きところに光明燦然と輝く星の如き神々と

十方諸佛、諸天、恭しくすめらみことに禮拝し守護し給へる荘嚴なるありさま

を心に描きて、次いで

 

すめらみことの御座より御光さし出でてあまねく六合に照り徹(とお)らせり

 

と念じて、天皇(すめらみこと)の御座より、金色(こんじき)の光まばゆきばかり

さし出でて、光華明彩(ひかりうるわしく)、六合に照徹せる相(すがた)を観じ、

 

六合照徹光明遍照、六合照徹光明遍照、六合照徹光明遍照、六合照徹光明遍照、―

 

と幾回も繰り返し念じつつ、すめらみことの御光が恰も、太陽の光が全宇宙に

光被するがごとく照り徹り一切にいのちをふり濯ぎ、之を生かし之を愛護し給ふ

光明遍照なる實相の世界を心をもって諦視する。

而して、すめらみことの大御生命(おおみいのち)に生かされる一切の生物に

心を轉じて、

 

すべての生きとし生けるもの、すべての青人草すめらみことを仰ぎ見て禮拝し

讚嘆し感謝し奉る。

 

と、地上にみちみちてゐるすべての人々が天皇の御徳を讚嘆し、感謝し奉る有様を

心に見つめつつ、自己もそのうちの一人として感謝の念を深く起して、

次の如く念ずる。

 

天皇陛下、有がたうございます。有がたうございます。

皇祖・皇宗の御神靈ありがたうございます、ありがたうございます。

百官もろもろの司、有がたうございます。

十方、八百萬の神々様、護國の英靈様、有がたうございます、ありがたうございます。

十方の諸佛・諸天様ありがたうございます。

 

かく念じつつ光明遍照の調和せる荘嚴なる實相世界を心に描きつつ

 

に大宇宙の救濟は成就せり。

金波羅華実相の完全圓滿の相(すがた)、地上に隈なく反映し實現して

中心歸一、萬物調和の永久平和の世界今現ず。

 

一切の生物ところを得て爭う者なく、相食(は)むものなく、病むものなく、

苦しむものなく、乏しきものなし。

 

實相・現象渾然一體、實相・現象渾然一體・・・・・(繰り返す)

 

みこころの天に成る世界、に地に成就せり、

有りがたうございます。有りがたうございます。

 

上記は戦前や昭和41年に行われた「大日本神國觀」です。最近のものとは言葉の追加もあり少し違います。旧漢字でそのままで記入しています。

 

 

 

 立教35周年全国信徒大会を記念して 谷口雅春先生著 『無門關解釋』 が出版されているが、これは注目すべきことであった。 というのは『無門關解釋』という書物は、昭和15年に出版された『無門關の日本的解釋』の復刻であったからである。

 

  これは谷口先生が禅宗第一の書といわれる『無門關』に初めて日本的新解釈を与えたものであり、蓮華蔵世界を理想世界の大日本国家と観る所以を説かれ、さらに天皇信仰と大日本国家の礼拝こそ唯一の正しい宗教なることを明らかにされたものであった。 とりわけ、序文に書かれた 「天皇信仰」 の一文は、生長の家の根本義を説かれたものであると言ってよく、戦前ニおいてもそれを本当に理解し、体得し得た人は少かったと言われている。

 

  その本が、真理の例話を挿入されている箇所についてのみ加筆されただけで、戦後20年を経たこの時に復刻されたということは、そこに、住吉大神の神慮を感ずると共に、生長の家出現の使命である 「天皇の生命の実相」 「日本国の生命の実相」 「人間の生命の実相」 を堂々と説くべきが来たことを示すものであった。

 

  戦後占領下においては、天皇と日本国の実相を説くことは許されなかった。 『生命の實相』全集も、その中に収められていた「神道篇」を除外しなければ出版が許可されなかったほどであり、光明化運動は、さまざまな制約のもとに運動を進めてゆかなければならなかった。 

  むしろ占領後は、6年余に及ぶ日本弱体化政策によって日本人の多くが、日本民族の建国の理想を喪失しつつある状況の中で、まずは日本人に自信と誇りを取り戻すための努力がなされなければならなかった。 また生長の家の信徒においても「天皇信仰」が説かれるには、未だ信仰の姿勢が個人救済の傾向にありすぎたのであった。

 

  こうした中で谷口雅春先生は、『新生の書』 『限りなく日本を愛す』 『解放への二つの道』 『我ら日本人として』 『日本を築くもの』 といた、いわゆる愛国書と言われる書物をつぎつぎと出版されて、蒙を啓くことに懸命に努められたのであった。

 

  このようにして次第に、戦後の人類光明化運動は、終戦直後に、谷口雅春先生が 「従来の魂の救済、病気の神癒、苦難の解消等の単なる宗教運動から、その精神を政治力にまで発展させ、生長の家立教の使命である政教一致、世界救済の悲願を成就するための運動を進めてゆく」 と言われた方向に発展し、ここに時期来って再び『無門關解釋』が出版されて、「天皇信仰」の神髄が説かれることになったのである。

 

  さらに昭和41年の『生長の家』3月号において谷口先生は 「大日本神國観」 を再び公開されて、その実修を力説されている。

 

  生長の家の瞑想法である神想観は、まず現象界の存在の完全否定の後、自らを神の個性的顕現者として自覚を高めて行なわれる“絶対力の行”であるが、谷口先生によって、かかる「神我一体」の自覚の深化を主眼とする「基本的神想観」を第一段階として、この「大日本神國観」を最終段階とする16種の神想観が説かれている。

 

  最終段階の「大日本神國観」は、「天皇」という実相世界の中心者の生命に帰一することを教えるが故に、人類光明化という大業の実現には、極めて重要な役割をもつものであり、言わばその中心的役割を果すものである。 そして人類を最大最勝の中心に帰一せしめるという意味において、この「大日本神國観」は従来の世界の瞑想法はもとより「生長の家」の全ての神想観を完成するものと言えるのである。

 

 

 

        『生長の家五十年史』 481~482頁

 

戦前は亀の子様がご記入されているように昭和16年『生長の家』誌1月号に掲載されたのが最初です。

ただ、時代的にもその昭和16年1月号の『生長の家』誌の、『神國日本観』(別名、蓮華藏世界観)は当時の状況をみれば納得できます。

その前年には『慨世血の書』『戰線消息』『天皇信仰と日本大乗佛教』『驀進日本の心と力(日本新體制版)

昭和16年には『天皇絶対論とその影響』『谷口雅春選集』と生長の家の教義の基本というべきものが続々と出版されるのです。

そのなかでこのなかで『神國日本觀』は占領の圧政のなか次第に消え去ろうとしたのである。

そこで、有留弘泰氏である。有留氏は大本の出身でもあり、大本時代の谷口雅春先生を知る本部講師であった。

兵庫県の篠山出身で家系には『学ぶ会』の会員である吉井氏がおられます。また戦前の本に『養心健體法』の表紙の写真は有留弘泰氏本人である。生長の家の聖典で表紙に掲載されている顔写真は有留氏ただ一人です。それ以外に写真が掲載されたことがないのです。

また、昭和41年3月號に『大日本神國觀』が掲載されると是非、新たに印刷の申し出があり、昭和4151日に現在の折本が完成したのです。

 

ただ、不明と記入したのはそれ以降どうして聖典などに掲載されなかったのかという疑問です。

たしかに、『新版 詳説神想観』には補遺として掲載されるようになりましたが、その内容(講義)の意味は昭和41年の『生長の家』誌で説かれた以降はありません。

光明思想社が『聖経 甘露一切を霑す』に初めて掲載されるようになったというのも感無量なことなのです。

注)平成101028日 中程「皇祖皇宗の御神霊ともなり」を「皇祖皇宗の御神霊とともなり」に変更

 

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