則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2016年08月

讀んで戴ければ幸甚です。

立仙淳三と生長の家

立仙淳三というと分かる人は『生長の家五拾年史』を精読された人であろう。

この人の経歴は変わっている。『日本経済学大意』『日本経済学の話』の著書である。生まれたのが明治20年前後とはっきりとわかる資料がない。

為藤五郎編『現代教育家評伝』によると、高知県の出身で小学校を卒業してすぐに小学校教員検定試験を受験して、小学校准教員と尋常小学校本科正教員の資格を同時に取得している。

 その後次々と文部省教員資格検定試験に応じて、教育科、法政経済科、商業科等資格取得をしている。その後小学校訓導から小学校校長を務めた後に、和歌山県商業学校教諭になり、年齢も若くして33歳で商業学校長になった。

 

この学校こそ高校野球で有名な箕島商業学校(現和歌山県立箕島高等学校)である。

大正101226日に5代目の校長である。

 

その後箕島商業学校を退職して、上京した。『生長の家五拾年史』において、小石川の立仙淳三氏邸での誌友会(70人)を谷口雅春先生を講師として招かれておられます。

その年月は昭和9117日です。

これからは少し推測ですが、昭和5年から6年には支部として開催されていたのではないか。

昭和108月に『生命の教育』誌が創刊されていますが、発行されたのが昭和10715日です。その編集の手伝いをされています。昭和10111日に設立された「生長の家花嫁学校」の「家庭光明寮」の主事を努めておられます。その後生長の家教育部長の任に就かれています。

その数年後から生長の家から名前が出なくなります。

ただこの立仙氏の経済学は変わっている。

皇室中心の皇道経済

「むすび」の道に立つ経済

 

この「むすび」こそ生長の家の教えそのものではないか。経済学に「むすび」を取り入れたのは、私達のような「谷口雅春先生」を学んだ人間としてはよくわかる経済学であります

朝日新聞に見る「生長の家」の広告

 




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記事

朝夕


大正

 

               

9

7

11

皇道靈學講話

大本時代

朝刊

1

12

3

17

聖道へ

立教前

朝刊

3

7

28

神を審判く

立教前

朝刊

1

15

9

21

錬心健康術

立教前

朝刊

1

昭和

9

12

11

生命の烈風・出世前・生死・死後の研究

無代進呈

朝刊

1

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10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1

 

 

5

生命の烈風・出世前・生死・死後の研究・生命の實相

生長の家開祖

朝刊

1

7

宗教革命(生長の家の広告)

 

朝刊

9

19

生命の烈風・出世前・生死・死後の研究

 

朝刊

3

2

 

 

 

 

 

 

4

『生命の實相』全10冊(無代進呈「生長の家」誌)

谷口雅春先生の霊感執筆

朝刊

1

9

生命の烈風(書店版)

生命の實相

29日九段下軍人会館講演会―無限生命の顕現

朝刊

3

 

14

生命の實相全集(黒布革表紙)

 

受講者に閣下5名・博士1

支部所在地

朝刊

1

16

生命の實相全集

全人類光明化運動・支部所在地

朝刊

3

24

生命の實相全集

子供の教育に悩む父兄に

朝刊

1

3

31

生命の奔流(書店版)

見よ此の禮讃の雨・稱嘆の暴風!!

朝刊

1

4

15

生命の奔流

書店で販売される

朝刊

3

22

生命の藝術・生命の奔流(第一篇)・新生活の出發(第二篇)・生命の實相

生長の家の奇蹟を疑ふ者は書店にて左書を見よ・主婦の友5月号

朝刊

1

 

29

 

生命の實相書店販賣版(黒布革表紙)・生命の奔流・新生活の出發

谷口雅春先生の本

 

朝刊

 

1

 

30

生命の奔流・新生活の出發

「主婦の友」読者に謹告

「奇蹟的な精神療法の眞相を探る」

朝刊

12

5

 

 

 

 

 

 

 

1

 

生命の藝術・生命の奔流(第一篇)・新生活の出發(第二篇)・生命の實相全集

これぞ萬古不磨の指導精神

支部の紹介

朝刊

 

1

 

5

 

生命の奔流・新生活の出發・生命の神秘・地湧の浄土・生命の烈風

奇蹟を演ずる谷口雅春氏著述

 

朝刊

 

1

 

16

 

新生活の出發(生命の實相の書店版)・生命の實相書店版

 

 

朝刊

 

3

 

26

 

いのちのはやて・生命の奔流・新生活の出發・生命の

 

「女性美の創造」山野千枝子著(生命の藝術社)

朝刊

 

1

 

6

 

 

 

 

 

 

2

神秘・地湧の浄土・生命の烈風・生命の實相

 

朝刊

1

5

 

人類光明化運動講演会

 

65日九段下軍人会館「生きて歩む宗教」

夕刊

 

2

 

16

 

いのちのはやて・生命の奔流・新生活の出發・生命の神秘・地湧の浄土・生命の烈風・女性美の創造

支部所在地

 

朝刊

 

1

 

26

 

本當の教育・いのちのはやて・生命の奔流・新生活の出發・生命の神秘・地湧の浄土・

生命の藝術は必ず宣伝

 

朝刊

 

1

生長の家の立教から昭和9年末から昭和17年頃までの朝日新聞と読売新聞での広告はその大きさと規模は驚く程です。戦前にはこの6年位で『生命の實相』は500万部を売り上げている。その要素は広告の影響と奇蹟の続出であろう。自信のある格言が多くの国民を揺り動かしたといえます。
この話はここまでとします。
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慈雲尊者に見る釈迦への回帰

法灯継承というのは大変難しいことであると思っています。

すべての仏教においては佛の教えを守り、それを後世に伝えるということが法灯という言葉であらわしています。

それはお寺であればその継続性を大変大切にします。

しかし、どこの仏教でも釈迦の教えに帰らないで少し歪めた考えで押し通そうとします。

そのような考えはどこの宗教にもあります。その継続性というのは歴史を護ることに繋がるのです。私も仏教徒ですが、私の祖先からの宗教は『融通念仏宗』です。『融通念仏宗』は国産第一号の「仏教」であることがあまり知られていない。天台宗、真言宗に続き、『融通念仏宗』があります。平安時代後期に誕生した宗教でもあります。

 その宗教が「釈迦」の教えは古いから「新しい教え」「時代に合った教え」ということを教祖が言ったならば、信徒や檀徒が間違いなく反対するでしょう。

 

 「訳のわからない、梵語より新しく日本語に訳した言葉で唱えたほうがいい。」

「平安後期に出来た教えなど現代では通じるわけがない」それを言った途端、その教祖は「教祖の椅子」から下ろされるでしょう。

それは何故ですか?皆さん「生長の家」信徒の人ならば誰でも答える事が出来ます。

 

普通、仏教徒ならば当たり前の事がどうして「生長の家」では通じないのでしょうか?それは近代宗教でも同じことが言えるのです。

「御筆先」が根本の教えと説く、「天理教」「大本」「道ひらき」「ひかり教会」などがそれに属しますが、それを否定すればどうなるでしょうか?

教祖としては失格の烙印を捺されることとなります。

 

ここで、仏教徒はそうした「釈迦」の教えというのを当たり前だが全面に出してその規律を遵守させる。だが、戒律となると話が変わってくる。仏教の戒律もそうですが、それを守っているような人は極わずかです。一番有名なものは「五戒」です。

 

1、不殺生戒(ふさっしょうかい 生きものを殺してはならない)

  2、不妄語戒(ふもうごかい 嘘をついてはならない)

  3、不偸盗戒(ふちゅうとうかい 盗んではならない)

  4、不邪淫戒(ふじゃいんかい 姦淫してはならない)

  5、不飲酒戒(ふおんじゅかい 酒を飲んではならない)

上記は釈迦が規範として設定したものですが、実際そんなこと出来ている人は極わずかである。

 

キリスト教ではあの有名な「十戒」

 1、あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない。

  2、あなたは刻んだ像(偶像)を造ってはならない。

  3、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。

  4、安息日を守ってこれを聖とせよ。

つぎに、人間側の倫理に関する教えが説かれます。

  5、あなたの父と母を敬え。

  6、殺してはならない。

  7、姦淫してはならない。

  8、盗んではならない。

  9、隣人について偽証してはならない。

  10、隣人のものをむさぼってはならない。

 

そこであまり有名ではないですが、「慈雲尊者」という人の話をします。

 

大阪の中之島のリガ-ロイヤルホテルのすぐ近くに「慈雲尊者生誕地」という碑がこそっりと建っています。ここは昔の高松藩蔵屋敷跡です。慈雲尊者は高松藩の子供でしたが出家の道を選びます。この界隈には川を挟んで向かいには「福沢諭吉生誕地」があります。

その碑の前が「朝日放送」です。

 

さて、この「慈雲尊者」という人物ですが

真言宗泉涌寺派大本山法楽寺ではわかりやすく「慈雲尊者」のことを書いていますので抜粋させていただきます。

 

慈雲尊者とは、江戸中期に大阪を中心として活躍した、日本が世界にも誇りうる偉大な僧侶の一人です。

 

享保3年(1718)7月28日大阪中之島に生まれ、文化元年(1804)1222日京都阿弥陀寺にてその生涯を閉じられました。享年87歳。俗名は上月平次郎、僧名は慈雲飲光(じうん・おんこう)。号に百不知童子、雙龍叟、葛城山人などがあり、やや後代の山岡鉄舟からは「日本の小釈迦」とまで讃えられています。

 

慈雲尊者は、律宗野中寺(やちゅうじ)派出身の律を重要視する真言僧で、信州の曹洞宗正安寺にも参禅するなど冥想にも長けていました。そして信州から帰り、大阪高井田の長栄寺に入って後に、「正法律(しょうぼうりつ)」という一つの思想を唱えて実行されます。それは、仏弟子であるならば誰でもまず釈尊が定められた戒と律とにのっとり、宗派の祖師の思想に基づくのではなく、経典や律蔵に説かれる仏陀の教えを直接に、そして忠実に行うことを目指したものです。

 

しかし、これは本来、仏教徒であるならばごく当たり前の態度であって、取り立てて主張するべきことでないはずのものです。

 

ところが、日本仏教各宗派は、それが祖師()教とも言われるほど非常に偏向的・排他的であって、その宗祖をまるで仏菩薩や神の化身であるかのように崇拝するのがほとんどです。彼らは、祖師無謬説とまで言われるように、その思想を無根拠に、もしくは経説を牽強付会して絶対視するため、そこに属する人々は、そのような宗派の枠内でしか釈尊の教えを捉えることがありません。そしてその様な態度は、これは現在も同様なのですが、日本仏教ではむしろ常識的なものでした。

 

よって、そのような日本仏教各宗派は、それがいくら仏像を礼拝して経典を読み、頭を丸めて袈裟をまとい、仏教の看板を挙げていたとしても、「もはや仏教ではない」と断じても差し支えがない程のものです。

 

尊者は、そのように人が一宗一派に拘泥し、宗派の祖師を盲信して宗派びいきすることを強く批判されました。それぞれの祖師の思想には長所もあるものの短所、誤りも多く、もしそれに依るとしても参考する程度に留め、学び行うべきはあくまで釈尊のお言葉そのものであるとしたのです。しかも、それはいずれか一つの経典に説かれている教えに固執するのではなく、三蔵を通じて学ぶべきであるとされたのです。

 

尊者は、仏教における諸思想については勿論のこと、儒教など中国古典にも精通されており、それらについての著作も残されています。また、晩年には神道を研究し、それまであった諸説の短を捨て長を採って「雲伝神道(うんでんしんとう)」を創始されるなど、その活動は多岐にわたっています。

 

尊者は数多くの優れた著作を残されていますが、その中で最も学問的に注目されるのは『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』一千巻であり、宗教的一般的に最も重要であるのは『十善法語(じゅうぜんほうご)』または『人となる道』であると言うことが出来ます。

 

明治31(1898)年、当時のサンスクリットの権威フランスのシルヴェン・レヴィ博士が来日されたおり、偶然にして尊者の『梵学津梁』の話を聞いたことから、博士は興味をそそられて尊者が住されていた河内高貴寺を訪れます。そこで『梵学津梁』を見た博士は、その内容と質の高さに驚嘆し、帰国後、世に非類無き貴重な著作として広く世界に紹介されます。尊者が『梵学津梁』編纂の中でなされたサンスクリット研究は、西洋に先駆けること一世紀も前だったのです。

 

慈雲尊者は、サンスクリットこそ釈尊が使われていた言語である、という当時の認識に従って、誤りや意味不明瞭な点の多い漢訳された経典ではなく、直接梵語で記された原典たる経典を読むべきであると考え、独学でサンスクリットを学ばれたのでした。これも尊者の「正法律」という、釈尊の純粋な教えとあり方に立ち返ろうとする、真摯な姿勢の表れであったと言えます。

 

さて、現在残されている慈雲尊者の御尊像・御影は皆、立派なヒゲが生えた状態で描かれています。実際、尊者は立派なヒゲが生えていたと尊者伝にも書かれています。しかし戒律を厳守し、実行されていた尊者からすれば、これは非常におかしなことなのです。何故なら僧侶は毛髪は勿論のこと、ヒゲもすっかり剃り落とさなければならないと律で定められているからです。

 

もちろん、尊者はお洒落で髭を延ばされていたわけではありません。尊者のヒゲはよほどの剛毛だったようで、剃ると血がダラダラと流れるほどだったそうです。困った尊者は、律にある「病比丘は四指(約10cm)まで髭を伸ばしても良い」との記述によって、やむを得ずにヒゲを伸ばされていた、ということです。

 

それほど、慈雲尊者は釈迦の教えを忠実に伝えようとしました。

雅宣総裁のように行うと似非宗教の極みとなってしまうことに信徒は早く気がつかなければならない。

 

「生長の家」の開祖といえば「谷口雅春先生」です。その教えにより、幾多の人を救ってきたでしょうか?それこそ「救いの原理」蔑ろにしている現在の総裁は「総裁」として失格であると断じても良い。生長の家は戒律こそないが、本尊こそ「生長の家の大神」「宇宙の大生命」です。その「生長の家の大神」である。生長の家の副斎神さえ葬り去ろうとしているのが現実です。しかも主斎神である、天照大御神の現人神さえも熱心にご祭祀をしない。

本当の現実の総裁はこういう人物であることが詳らかになっている。

愛国心というのを葬ったことでさえ、生長の家の信仰の意義がわからない人物である。

下記の「生長の家」の意義を深く噛み締めることが必要です。

 

【生長の家の主斎神】

『古事記』に、「天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原に成りませる神の名は、天之御中主神」とこう書かれてあるところの宇宙の大神であらせられます。天之御中主神は斯くの如く、幽(おく)の幽(おく)の大実在であられますが、この宇宙の大神が、依然として幽玄にましまして、吾等の思慮の及ぶところではございませんが、幽之幽なる天之御中主神よりも一段ハッキリと、『日本書紀』に録されたる通りの「光華明彩六合に照徹(てりとお)れる」神として顕現あそばされたのが天照大御神であらせられ、更にその天照大御神様が御肉体を以って現人神として現われていらせられる神様として天皇を礼拝する――これが生長の家誌友が心に主斎する神様でございまして、御宮のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎すると申すのであります。即ち吾々は天皇様を宇宙大生命の全徳の御顕現としてそのまま現人神として拝し奉るのであります。歴代の皇霊に対して尊崇を捧げるのも同じ意味であります。『神の真義とその理解』より

【生長の家の副斎神】

 次に宇宙大生命(みおやのかみ)即ち宇宙大生命の道を現わし、日本国威を発揚し、国体を明徴にするところの導きの神様として心に幽斎する副斎神として生長の家を礼拝すると云うことをハッキリ本尊の項目にあらわして置きました。

  この生長の家大神とは誰方(どなた)であるか、生長の家大神と言う文字の下に括弧をしまして、(『古事記』、『日本書紀』に現われたる住吉大神(すみのえのおおかみ))と申しました。これは阪神間の本住吉神社にお祭りしてあるところの神様でありまして、『古事記』に天照大御神様がお生まれになるのに先立って、此の大宇宙浄めの神として、水と塩とを以て浄めるところの海の神様として現われられたところの上筒之男神(うわつつのおのかみ)、中筒之男神、底筒之男神と云われる三柱の神様で住吉大神(俗称すみよしの大神)と申しているのであります。

永井古書店で販売致します。

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「谷口雅春先生著作一覧表」ですが
永井古書店で販売致します。
現在3冊という限定です、価格も永井古書店にてご確認下さい。

http://ameblo.jp/nagaikoshoten/

実はこの冊子を作成するときに10年以上前にご協力を戴きました。
もし、永井様の協力がなければ作成出来なかった資料です。
永井様とは彼が生学連で私が青年会の専従でした頃からの付き合いです。

永井君がここに「谷口雅春」先生があるとかいろいろ教えてくれたのも
今回の作成では役に立っています。永井古書店ではいろいろ購入させて
いただきましたこともこの一覧表を作成できたことと繋がります。

また初期の頃に本の発行日がわからなく困っていた時に沢山の資料を教えていただきました。
また、彼ほど雅春先生を尊敬している人物はいないと思っています。

実はもう一人の大きな協力者は「あまむし庵」様です。「あまむし庵」様と40年以上の
付き合いです。当初、資料作成は40年前からになるのですが、いろいろと教えていただきましたのも
あまむし庵様です。一回目の手書きの一覧表が擦り切れて、二回目に作成する時に自宅にお伺いして
教えていただきました。また京都の古書店に二人で行ったのが楽しい思い出でした。

また、それ以外に協力していただきました人がいますが、ここでの公表はすみませんが出来ません。

沢山の人に協力して作成した資料です。

またこれを作成するのに40年という歳月を費やしました。

大本へ行ったり、一燈園に行ったり、島根県立図書館に行ったりしました。
大本へは四回通いました。

一番大変なことは『生長の家五拾年史』も発行されていない時でしたから、資料が次々に増える。
『新百事如意』ではハ-ドカバ-とソフトカバ-があり、表紙の図柄も異なります。また普及廉価版と改装版もあり
合計四種類探しました。また戦時版や日本新体制版(84銭本)や『天皇絶対論とその影響』も紙の紙質により二種類発行されています。
『生長の家叢書』も二種類あることを永井古書店に教えていただきました。
また『光明叢書』のナンバ-リングが1のものが最初は『生長の家の経済学』から『現代に機会ありや』に置き換えられたりしました。
また戦後に日本教文社以外では「萬成書房」と「北海道民主同盟出版部」が発行している本があります。
一冊は『養心と健康』もう一つは『建民』です。

またそれ以外に「各県の教区」が発行しているものもあります。
それで下記の出版された日時がわからないものがあります。
ご存知の人がおられましたら、ご連絡お願いします。

下記三点は出版年不明の著書

現行の日本国憲法前文の非合法性と非真理性を明らかにする

 

政治結社生長の家政治連合福岡県支部

神想観の実修法

 

生長の家大東京練成研修会

自民党に要望する日韓条約締結祝賀会における挨拶

 


また、大本での雅春先生の出版された冊子も今回公表させていただきました。亀岡叢書です。

それぞれの年月日で間違いもあると思いますが、何卒ご指導をお願いします。

けもの道と自然

けもの道と自然

先日、近畿日本鉄道(近鉄)が鹿による電車と鹿との衝突を防ぐ手段として、獣に嫌な音を発信させるシステムで線路内に入る鹿を未然に防ぐことを発表した。

 

鹿でもそうですがケモノというのはけもの道があります。だから踏切を渡る位置というのがわかります。そこに踏切(音波を発信させるだけの通路)を作り、電車が来る前に鹿にとり嫌な音を発信させ、未然に鹿との衝突を防ぐのに成功したというものです。

 

私のように山を登り、いろいろな道を歩いたりすると、けもの道というのがわかる場合があるのです。それは糞や臭いと足跡と糞虫などがケモノ道を知る要因です。

 

鹿やイノシシなどは糞をする場合に石の上などにすることがあります。それはマ-キングと同じことです。樹木に時折、強烈なケモノの臭いがする場合がありますが、マ-キングした臭いです。数時間前にケモノが通ったなとかを察知するわけなんです。

 

また、そうした通り道はどうしても植物が生えない場合にそうした場所であると考えてもいい場合がある。また人が通る道とケモノと重なる道もあり、足跡や動物などの動きなども考えて散策するとおもしろい。下草が食われ、樹木が折られたりする所など様々あります。

獣などもそうですが、山を登る場合は出来る限り最短の道を通ります。その最短道に鹿の糞や猪の糞などや動物が擦りつけた樹木に獣の毛が付いている場合がある。

そうしたことも、自然ということを意識する上で大切なことです。

 

以前に書いたことですが、戦前と違って、木を伐採することが少なくなっています、その為に雑草が生えて困る場合があるのですが、そういう箇所に鹿等の生息があればそうした雑草も反対に無くなる。また、環境的には狩猟などを行う人が少なくなり、鹿や猪や猿などの田植えや野菜栽培や果実の被害は馬鹿にならない。ここ数年で近畿圏内では作物の動物被害を無くすため、電源柵を設置したりしています。その設置率は大変高いですが、農産物を作付するうえで余計な金がかかります。

 

野生ザルの増加

 

地域によっては野生ザルが増加して困っている所もあります。人に被害がある所もあり、しかも出産率が低いといわれている猿でも増加の一途であり、農地被害は甚大である。

 

鹿の増大

昨年、奈良県十津川村の釈迦ヶ岳に行く道中で鹿に60頭に囲まれた、実際見える範囲で数えたので、周囲には100頭近くいたのではないかと想像できます。見える範囲が山の凹凸で70mが限界です、それから換算すると鹿がいかに多いかがわかります。

 

猪の増大

猪は繁殖率が高く、近畿でいえば六甲山界隈に多数見かけます。夜など六甲山界隈を歩いていると、何匹も見かけます。

また、昼間でも時折見かけることがあります。六甲でハイキングすると、猪に噛まれたという被害の報告があります。

 

こうして考えると人間がけもの道を占拠し、野生動物が身近となっています。

 

だからこそ、山奥と里山と住宅地と峻別しながら生息地域を人間が決めていくことが大切なのです。八ヶ岳のような山林には本来人間が住むような場所ではないのです。

 

八ヶ岳であれば熊の出没もあります。普通、そういう所に家を建てたりするべきではないし、生物保存を考えると一番ダメな考えであります。

 

ここの題材である、けもの道と自然というのはけものの通る道には人間が入ってはいけない所であります。それは動物が知っていることであるのです。

それを阻害するのは人間のわがままに過ぎない。

日本人の植林という考え

下記の文章は自然とは何かを考察し、日本における植林とその歴史を書いてみた。難しい言葉がならびますが、重要なことだと思いますので、是非読んでいただきたい。



「生長の家」は、歴史を風化させています。現在の状況は悲しい気持ちを反復させる。

昔は良かったというような戯言は言っても自分が情けないだけである。それよりも細々と資料の精査を行うほうがいい。



「生長の家」はどうして左翼的な考えになったのであろうか?それを考えると自分に返ってくるのである。二度とそんなことをさせないように考えなくてはいけない。

雅宣総裁は

【さて、翻って考えてみると「自然と人間」とを分けて考え、自然より人間を優先する考え方、人間のためには自然を破壊したり、改変したりすることは自由に行われてよいという考え方が、まだ世界には蔓延しています。しかし、「人間と自然の一体性」については、日本の文化・伝統では当たり前のこととされてきたことを忘れてはいけません。これは、『古事記』や『日本書紀』に出てくる神々の話に始まり、日本家屋の建築様式、茶道・華道・書道、さらには俳句、短歌などの芸術、里山を育ててきた生活の伝統……このような日本人の考え方、生き方の基本には、人間と自然の一体性が前提としなっていることを思い出してください。このことを思えば、経済発展のためならば自然破壊は仕方がないという考え方は本来「日本的でない」と言わねばならないのです。ところが、不思議なことに、政治的には“保守”とか“右側”を自認する人々の多くは、自然を犠牲にした経済発展で人間の幸福が実現すると主張しています。私は、口では「日本の伝統を大切にする」と言う人々が、日本人の自然観と自然を敬う心をいとも簡単に捨て去ることが、不思議でなりません。】



こういう決め付けの言葉が下記にあります。

【経済発展のためならば自然破壊は仕方がないという考え方は本来「日本的でない」と言わねばならないのです。ところが、不思議なことに、政治的には“保守”とか“右側”を自認する人々の多くは、自然を犠牲にした経済発展で人間の幸福が実現すると主張しています】



だれが、右派の系統に「経済発展のためならば自然破壊は仕方がない」などという戯言を誰が言っているのか、申し上げて欲しい。



私は奈良県や兵庫県の過疎の村など古墳などの調査やトレイルの為に行きます。そのときに感じるのが、「トンネルを作って欲しい」「道路建設をして欲しい」とかの横断幕をよく見かけます。

それは、自然破壊に繋がることですが、地域住民にとり自然災害などでの孤立や都会までのアクセスを感じて、住民からの強い要望があります。

申し訳ないが、雅宣総裁の「保守」とか全く関係がないことが多い。



現在関西には新名神道路建設で自然破壊が行われています。そういう反対運動で私も行った事があります。それは新名神の川西市平野に通る路線に景観の地があり、それを破壊するということです。市会議員などでは「右派」とか「左派」など関係がない。景観を守ろうとしたのですが、やはり難しいこともわかりました。



それならば、何故総裁は自然豊かな「八ヶ岳」という地に森林を破壊して施設を作ったのでしょうか?言っていることと行っていることが噛み合わない。総裁は誰が見ても「左派」です。左派の人も自然破壊を行うことの証明になっていると思います。



「江戸時代における殖産」

それと日本の歴史というのは里山という「伝統」を作っていったのであろうか?そういう歴史があったのであろうか?

私は日本の森林事業というのは江戸時代からであると言っていい。それ以前はほとんどが放置された状態であったのである。



 【日本の森が辛うじて破滅を免れ、その生存を保持出来た理由として、雨の多い湿潤な気候に加え、あまりに深くて峻険な山岳地帯が多いこと、それに聖域としての鎮守の杜、寺社の所有林の存在が挙げられるが、なによりも増して有効だったのが、江戸幕府による世界でも珍しい積極的森林保護策としての「植林事業」であった。



 コンラッド・タットマン『日本人はどのように森をつくってきたか』は、「江戸時代における日本の森林保護育成の成果は、日本人の有した造林の知的背景にあり、世界的に見ても高く評価出来るものであった」として、当時数多く出版された造林手引書の存在と、17世紀には、すでに政治的指導者や政府の顧問などが、森林の安定性・生産性の維持を主張していたさま、たとえば1650年ころ桑名藩主、松平定綱は伐採事業者に対して「一本伐ったら千本植えよ」と指令していることなどを詳しく紹介している。



 ドイツのビスマルクが「樹木一本を切ると二本植えように」という規制に比べても、いかに厳しい森林保護意識を持っていたかがわかる。曰く、



 (前略) 政治評論家であり顧問であった山鹿素行も、適切な時期に伐採すること、過剰に伐採 しないこと、収穫したところには植林するよう忠告している。一八世紀になると、こうした勧告は より具体的になってくる。小大名の助言者である貝原篤信が1709年に述べたところによると、 もし伐採事業者が「山の森林を数十の区画に分け、一年に一区画ずつ伐採すれば、全森林は青々と 維持され、材木は増える」といっている。



 タットマンは、これは世界的に見ても先進的な輪伐理論であり、すぐれた森林保護テクノロジーだと評価する。江戸時代には、こうした指導者による啓蒙が進んで、この「輪伐」という理論をはじめとして、的確な造林原則が知られるようになると、マツの燃料生産についてのマニュアル書『地方聞書』など、いわゆる造林ノウハウとかマニュアルを教示した農書が、いくつも書かれはじめることになったのだ。彼は、有名な『農業全書(宮崎安貞 全十巻(1697)』は、最後の二巻を割いて樹木と森林にあてているなど、当時の日本の森林保護思想の高さを評価する。



 たとえばこれらのマニュアル書には、「いたずらに山間部に穀物を作っても鳥類に食われるだけだから、クワ・コウゾ・ウルシ・チシャなどを植える方が得策である」とか、「土壌の特性を掴んでそこに適した植樹をする」こととか、その「維持が大切で地味を保持しなければ成果は得られない、家の回りに木を植えれば冬風を防ぎ、強盗の侵入を防ぐ」などなど微に入り細に亘って記載しているという。



 森林保護の中心となったのは、森林の約4分の1を保有していた幕府であった。例えば今の林野庁に当たる「山奉行・森奉行」などという森林官吏を置き、「留山・留木」などという制度をもうけて、積極的な生産林から伐採制限の保安林を作り上げていき、各藩も次第に幕府を見習い、森林保護を進めていくことになった。こうして江戸時代に定着した森林保護策と造林ノウハウが、現在の日本の森林の現状を留保し得た最大の原因だったし、それが自然萌芽による植生の再生力の利用だけでなく、それに実生・挿し木・枝切り・間伐などという技術となって今に活かされ続けているのである。



 コンラッド・タットマンは「決して日本人が森を恐れそして愛してきたから森が残ったのではない。それは江戸時代の植林事業があったからだ」と明確に言ってのける。日本人誰しも心して聴くべき苦言である。】



里山と「ハレ」と「ケ」

また、日本における里山という言葉は江戸時代からである、だがそれが「古事記」「日本書記」に由来しているかである。

私は否である。日本人の考えは当初は「古事記」からきているのは「晴れ」「ケ」である。「け」は勿論「穢れ」の「ケ」である。「ケ」は「気」であり「怪」であるのです。雅春先生がいわれている通りなのであります。

「気」というのは或るときは「怪」として顕れるのです。日本語ではその「怪」を「もののけ」と言っているのです。「もの」というのは「怪」であり「気」でありますので、ある時は「邪悪」な「鬼」となり、ある時は「お多福」のように「仏」のような姿になるのであります。それが混然一体と成り立っているのが日本文化なのであります。

それは「古事記」としての思想を考えると「ケ」は「気配」の「気」であります。それと「ケ」は「霊」であり霊怪というのも同じ言葉が重なっている。

もともとハレとは、折り目・節目を指す概念である。ハレの語源は「晴れ」であり、「晴れの舞台」(=生涯に一度ほどの大事な場面)、「晴れ着」(=折り目・節目の儀礼で着用する衣服)などの言い回しで使用されている。これ対し普段着を「ケ着」といったが明治以降から言葉として使用されなくなった。また、現代では単に天気が良いことを「晴れ」というが、江戸時代までさかのぼると、長雨が続いた後に天気が回復し、晴れ間がさしたような節目に当たる日についてのみ「晴れ」と記した記録がある。



ハレの日には、餅、赤飯、白米、尾頭つきの魚、酒などが飲食されたが、これらはかつて日常的に飲食されたものではなかった。また、そのための器もハレの日用であり、日常的には用いられなかった。



さてこの「ハレ」と「ケ」の根本は「古事記」における「禊払い」でありその対語として、「黄泉」の「ヨモ」であり、語源では「ヤミ」であり「闇」である。そうした考えで捉えるとわかりやすい。

その「ハレ」と「ケ」をもう少し詳しく書くと



【まず、「ハレ」と「ケ」についてですが、「ハレ」と「ケ」は共に、日本を代表する民俗学者・柳田國男(明治8年~昭和37年)によって唱えられた、日本人の生活リズムを表現した言葉で、漢字で書く場合ハレには「晴」、ケには「褻」の字が当てられます。

柳田は、かつての日本人の生活にはハレとケの二つの時期があり、両者ははっきりと区別されていた、と主張しました。「ハレ」とは、神社の祭礼や寺院の法会、正月・節句・お盆といった年中行事、初宮参り・七五三・冠婚葬祭といった人生儀礼など、非日常的な行事が行われる時間や空間を指し、そしてハレ以外の日常生活(普段の労働や休息の時間・空間)が「ケ」であるとして、両者の違いを明確にし、このハレとケとの循環リズムから日本の生活文化が分析できると唱えました。



非日常であるハレの日は、単調になりがちな生活に変化とケジメをつける日でもあり、この日には人々の衣食住に大きな変化が表れ、例えば特別な日にのみ着用される「晴れ着」を着たり、家や部屋には普段とは違う装飾を施したり、酒・米・魚・餅・団子・赤飯・肉・寿司といった普段の生活では口にする事のない食物が供せられるなどし、非日常的な世界が設定されました。中でも、ハレの場における酒は、味を楽しむためというよりも、酔う事によって異常心理を経験し、共同体を構成する人々が集団で共に酔って連帯感を深める事が目的であったと柳田は述べています。また、今でも使われる「晴れ着」「晴れ姿」「晴れ舞台」などの言葉は、いずれもハレの概念に基くものです。



一方、ケの時空とは、普段の生活そのものを指し、朝起きて食事をして昼間は働いて夜になったら休眠する、という日常の状態の事であり、ケは、普段着を意味する「褻着」(けぎ)や日常食を意味する「褻稲」(けしね)などの民俗語彙から抽出された概念といわれています。

柳田は、このハレとケの循環の中に稲作を基礎とする民族生活があった事を指摘しながら、近代化と共にその両者の区別が曖昧になってきている事を指摘しました。事実、江戸時代後半以降は普段でも酒が飲まれるようになり、魚食や肉食も日常化し、人々の服装も色鮮やかになっていくなど、ハレの日常化は着実に進んでいました。

このように、柳田はハレとケという二つの生活リズムによって民俗生活のリズムを強調しましたが、この二つに加えて新たに「ケガレ」という三つ目の概念が、昭和45年以降に唱えられるようになりました。柳田は主にハレを中心として民俗生活を捉え、ケは単にハレに対立するもの、ハレ以外の日常生活と位置付けましたが、これに対して文化人類学者の波平恵美子氏は、ハレとケのいずれとも対立する「ケガレ」という概念を加えて民俗生活を捉えたのです。



「穢れ」(けがれ)という概念が不浄を意味する語として用いられている事例としては、『古事記』の中で、黄泉の国(死者の国)を訪問した伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が死の穢れに触れてしまった、というエピソードにまで遡る事ができますが、波平氏は、古来から語られてきたその「穢れ」を「ケガレ」とカタカナで表記して民俗学の分析概念として用いる考え方を提示したのです。

波平氏によると、ハレは清浄性・神聖性、ケは日常性・世俗性、そしてケガレは不浄性をそれぞれ示す概念であり、日本の民間信仰のバリエーションは、このハレ・ケ・ケガレの相互の関係の差異によって生じるものであり、この三者がどのように絡み合っているかが重要な問題であるとしました。



しかし、それに対して柳田門下の民俗学者・桜井徳太郎氏は、ハレとケの媒介項としてケガレを設定し、ケガレは稲の霊力であるケが枯れた状態、つまり「ケ枯れ=ケガレ」であり、そのケガレを回復するのがハレの神祭りであると唱えました。つまり、波平氏が「ハレ⇔ケ⇔ケガレ⇔ハレ」と相互間が対立概念であると主張したのに対し、桜井氏は「ハレ⇒ケ⇒ケガレ⇒ハレ」という循環論を唱えたのです。



また、民俗学者の新谷尚紀氏は、ケガレとは究極的には死とその力であると規定し、ケガレが祓われた時、ケガレの逆転現象が起こって神々や生命が誕生すると唱えており、このように、研究者間のハレ・ケ・ケガレの議論の隔たりは現在も解消されておらず、統一的な定義は打ち出せていないのが現状です。

ハレ・ケ・ケガレに関する代表的な論争としては、葬式はハレなのかケガレなのか、という論争があります。一般的な社会通念でいえば、葬式は不幸事であるため、初宮参り、七五三、結婚式などのお祝い事とは区別するのが当然であり、波平氏はこの立場に立って葬式はケガレであると規定しているのですが、しかし、桜井氏をはじめとする民俗学者の多くは、葬式に赤飯を炊くという民俗事例や晴れ着を着て喪に服するという民俗事例などを挙げて、葬式もハレであると主張しています。今の所はどちらの論も、なぜ葬式がケガレであるのか、あるいはハレであるのか、十分説明しきれていないため答は出ておらず、この論争はまだ暫く続きそうです。

もっとも、これはあくまでも民俗学での話であり、神道の立場では、死やそれに直接的に関わる儀礼は明確に「穢れ」と捉えています。但し神道でいう死の「穢れ」とは、死に至る病気や事故、その苦しみや、遺された人達が悲しみ嘆く状態の事を、気が枯れた状態=気枯れ=ケガレと解釈しているのであり、死そのものが穢れであるとか、死んだら穢れた存在になるとか、そういった意味ではありません。】



だがそうした「ハレ」と「ケ」の文化としての「気枯れ」というのが「里山」に繋がるかである。私はそうした「里山」文化というのは「江戸時代」に熟成した思想であり、それまでは荒はてていた、植林であり穢れという思想がそのまま「里山」には繋がらないのである。

さて、最初に書いたように「江戸時代」における里山という思想は文献上、最初に「里山」という単語が現れるのは17596月に尾張藩が作成した「木曽御材木方」という文書においてである。これによると里山とは「村里家居近き山をさして里山と申候」と定義されるものである。また奈良県の吉野山地では、山を村落から近く標高が低い順に「サトヤマ」「ウチヤマ」「オクヤマ」「ダケ」と区分しており、「サトヤマ」に該当するのは集落の周囲の斜面にある畑や雑木林である。



一方、現在のような里山の再評価に直接繋がる言論活動を開始した人物という意味では、京都大学農学部・京都府立大学などの教官を務めた四手井綱英がいる。四手井は今日的な意味での「里山」という言葉の使い方を考案したと言われる。

里山という語の普及に大きな影響を与えた人物としては、四手井の他に今森光彦を挙げる意見もある。飯沢耕太郎は、1995年に今森が発表した写真集『里山物語』(後に木村伊兵衛賞受賞)によって、里山という語に具体的なイメージが与えられたとしている。他に、市民の立場から1983年から「里山一斉動物調査」などの活動を行い里山の語を普及するとともに実地体感や動物のフィールドサイン観察などを伝えた(社)大阪自然環境保全協会と、それを指導し各地の講演会などで講師等を務めた木下陸男(むつお)の功績も大きい。



歴史

日本列島において、継続的に人間の手が入る森林が出現した時期は、少なくとも縄文時代までは遡ることが出来る。三内丸山遺跡の研究によって、この遺跡に起居していた縄文人集団が近隣の森に栽培種のクリやウルシを植えて利用していたことが明らかとなっている。

しかし歴史時代に入るとともに日本列島の里山は乱伐と保護を繰り返していくこととなる。最初に里山のオーバーユースによる森林破壊が顕在化したのは畿内であり、日本書紀によると、天武天皇の6年(676年)には南淵山、細川山などで木を伐採することを禁じる勅令が出されている。



都市近郊に残された里山(神戸市北区山田町、帝釈山より俯瞰)

だが日本列島における森林破壊は進行し、800年代までには畿内の森林の相当部分が、また1000年頃までには四国の森林も失われ、1550年代までにこの二つの地域の森林を中心にして日本列島全体の25%の森林が失われたと考えられている。

織豊政権期、江戸時代に入っても日本列島の森林破壊は留まる所を知らず、1710年までには本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半は失われた。こうした激烈な森林破壊の背景には日本列島の人口の急激な膨張による建材需要や、大規模な寺社・城郭の造営が相次いだことがあったと考えられている。

すなわち、18世紀まで日本列島の里山は継続的に過剰利用の状態にあり、「持続可能な」利用が為されていたわけではない。こうした広範な森林破壊は木材供給の逼迫をもたらしただけでなく、山林火災の増加、台風被害の激甚化、河川氾濫の増加など様々な災厄を日本列島にもたらすことになった。

このような状況を憂慮した徳川幕府は1666年以降、森林保護政策に乗りだし、森林資源の回復促進と厳格な伐採規制・流通規制をしいた。こうした対策の結果、日本列島の森林資源は回復に転じ、里山の持続可能な利用が実現した。

 アズマネザサに覆われた里山
放置されアズマネザサに覆われた里山

だが、近世の持続可能な里山利用は近代に入ると3度の危機に瀕した。最初の危機は明治維新前後で、旧体制の瓦解とともに木材の盗伐・乱伐が横行し、里山の森林が急激に失われた。その後、社会の安定とともに里山の植生は一定の回復を見たものの、太平洋戦争が始まり物資が欠乏すると再び過度の伐採が行われ、各地に禿げ山が出現した。このときは、軍需物質として大木が次々に供出させられたとされる。戦中・戦後の乱伐からの回復は、1950年に始まる国土緑化運動の成果を待たなければならなかった。



そして3度目の危機が、現在まで続く里山の宅地化・里山の放置である。1955年頃から始まった家庭用燃料の化石燃料化が1975年頃には完全に完了し、家庭用燃料としての薪・木炭は娯楽用途を除きほぼ姿を消していた。また化学肥料の普及、使役家畜の消滅も里山の経済価値を失わせた。こうして経済価値を失った里山は、1960年代に入ると次々に宅地化されて消滅した。中でも大規模なのが千里ニュータウン、高蔵寺ニュータウン、多摩ニュータウン、千葉ニュータウンなどのニュータウン群であった。これら郊外の宅地化は、高度経済成長時代に都市に流入した労働力に住居を供給する為のものだった。宅地化を免れた里山も、利用価値の殆どが失われた為に放置され、人間の関与が失われたことによる植生の変化(極相林化や孟宗竹の侵入による竹林化)、不法投棄される粗大ゴミや産業廃棄物による汚染にさらされている。



私も「里山」についてはいろんな「里山」に行ってみた。

まず、里山について重要なことがあります。「里山」は人間が作った自然なのであります。そこを弁えないと、雅宣総裁のように基本的な間違いを起こすのであります。

「里山」は植林を手入れして、周囲には雑草を増やさないように人間が管理しなければならない。それにより豊かな生活が保障されるのであります。それは樹木により台場を作り、それを「再生」させるのが「里山」であるのであります。



それと、里山と「深山」を分ける境界線であるのであります。獣がそこ以降の人間の居住地に侵入を防ぐための防御であり、山林火災などを未然に防ぐものである。

里山は自然でもなんでもない。生活に根差した日本の植林産業を支えた知恵であるのであります。なんでも自然といえばいいというのではない、「宗教施設」により「森林」が崩壊する場合もあることを雅宣総裁は知るべきである。



日本に森林を破壊し「平和記念塔」などを建てているのに等しい。そういう建物が日本のあちらこちらにあることを知るのは智慧でもある。「自然」というのは神であれば「自然の崩壊」により人が死ぬのも「自然」なのかである。山道には崖崩れを防ぐために、コンクリ-トで崖を硬化させ、水質を悪化させている。紀伊半島に起こった大水害は上流にダムが無かったからあれだけの被害を生じたと言える。

もし、そこに人間の智慧が図らなければ、自然というのは時として、人の生命を奪うものである。それを神とイコ-ルとするのは智慧がないからである。

私は単純に「自然」を謳歌するわけにいかない、自然の造形美は人間が手を加えなければ美しくならない事が多いからである。


 今は紅葉の季節でもある、京都のあちらこちらで京都の紅葉として観光をアピ-ルをしている、だがそのほとんどは人間が手を加え植林させていることに気が付いて欲しいものである。

江戸時代でも安藤広重の描いた絵には禿山が多い、それを考えて見るのも一考であろう。

それも人間が薪として多くの樹木を伐採したからである。だが何も人間の働きが加えられないものであったなら、松は松くい虫にやられてしまう。現在東日本大震災後の福島の周辺は私たち戦後に鬱蒼と生えた「セイタカアワダチソウ」で一部覆い尽くされているのを見るのである。

それを見て美しいというのであろうか?外来種である「セイタカアワダチソウ」は肥沃な土地でも他の花を咲かせないほど他の植物は衰退するのである。

日本の幕末期、珍しい未知の植物の採集を目的にした、プラントハンターという特異な職業の第一人者英人ロバート・フォーチューン『幕末日本探訪記(江戸と北京)』は、そうした瀬戸内海の荒れた山林について、



 【何かの理由があるにしても、この地方では何千エーカーの土地を荒廃させたままにしたり、価値 のない草むらを茂らせている。とにかく瀬戸内海の海岸は美しいけれども、航海者には不毛の光景 を呈する。



と、この地方のすさまじい森林被害の様子を記している。もともと花崗岩の風化した真砂土主体の土壌である瀬戸内地帯では、乱伐による攪乱で極相=陰樹である照葉樹林から、陽樹のアカマツ林へと逆行することになった。結果として広島地方が戦前から松茸の日本一の産地になったのだが、これはいかにこの地の樹木の収奪が激しかったかということの証明でもある。



 現在に至って、プロパンガスの普及によって木を燃料として利用しなくなった結果、里山の放置による土地の肥沃化が進み、痩せ地を好むマツは徒長して虚弱になってしまう。現在著しい松枯れの進行は、排気ガス・マツクイムシの被害をいう前に、直接の原因として里山の放棄からくる肥沃化に負うものが大きいことを知るべきである。



 広島県を中心に瀬戸内周辺に見られる白骨化し枯死した松の目を覆うような惨状の下から、次第に極相林としての照葉樹が繁茂し始めているということを忘れてはならない。当然ながら、松枯れの進行と同時に(かつて日本一といわれた)マツタケの生産減少が顕著になるという皮肉な結果を招いたのである。

人間が手を加え、枝を伐採し日光を充てるようにしなければ、紅葉もその美しさを維持出来ないのである。



私のような雅宣総裁のいう「右翼」であろうとも、「里山」については随分と勉強したものである。安田喜憲氏の本の「環境考古学」というのを何冊か読み漁った。

それといろんな里山に行き、美しさもあろうが崩壊している現場も見た。

そういうものを知ってこそ「自然」というものの価値を捉えて欲しいものである。「棚田百選」という言葉をご存知であろう。昔風にいえば段々畑である。リアス式段々畑は瀬戸内海で有名であるが、手入れが行き届かなければその美しさも半減してしまうのである。



そこに「保守」とかそういう思想が入り込む余地はない。自然の景観を残すには人間智と科学との融合が必要です。山村など行くと、山の傾斜にビニ-ルシ-トが覆いかぶさっていることをよく見かける。壁の地すべりの保安のための対策である。これ以上崩壊を防ごうと鉄の杭を打ち込み、コンクリ-トを流し込む。これも自然破壊である。だが果たして、自然破壊と一言で決めつけてもいいのであろうか。



総裁にはそうした自然破壊イコ-ル「保守」とかの決め付けはいけないことがおわかりだろうか。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

本の管理は公的機関でないと無理なものがあります。2

第二十四冊  

ウェルチの全托信仰論(上)(輝かしき神の俘虜)

谷口雅春監修・谷口清超共著


 

S24.2.01


 


 

766-792

第二十五冊  

ウェルチの全托信仰論(下)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S24.2.01


 


 

793-821

第二十六冊

フィモアのユニティ-無宗派運動(我は神の無限生命の顕現)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S24.2.01


 


 

822-856

第二十七冊

ウィリアム・ジェ-ムズの哲学(上)(プラグマティズムの批判)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S24.5.01


 


 

857-887

第二十八冊

ウィリアム・ジェ-ムズの哲学(下)(真理とは如何なるものであるか)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S24.5.01


 


 

888-917

第二十九冊

ジトコ-の新世界の宗教理想(新世界より来る光の翩旗)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S24.10.01


 


 

918-944

第三十冊

ジトコ-の言語理想と神学(霊学的訓練と霊界の組織)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S24.11.10


 


 

945-964

第三十一冊

薔薇十字の輪廻転生論(前篇)(人間は果して生れ更るか)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S25.1.25


 


 

965-993

第三十二冊

薔薇十字の輪廻転生論(後篇)(人間は果して生れ更るか)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S25.3.15


 


 

994-1022

第三十三冊

喩伽のプラナ哲學及びその應用

谷口雅春監修・谷口清超共著


 


 


 

1023-1057

第三十四冊

チャ-ルズ・フィルモアの聖書の新解釈(上)(法則の擬人化としてのエホバ)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S25.6.05


 


 

1058-1091

第三十五冊

チャ-ルズ・フィルモアの聖書の新解釈(下)(法則の擬人化としてのエホバ)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S25.7.05


 


 

1092-1125

第三十六冊

自己訓練の価値と方法

谷口雅春監修・谷口清超共著

S25.10.25


 


 

1126-1166

第三十七冊

不可視の世界に潜む無限の力(上)(エマニュエル運動)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S26.3.05


 


 

1167-1199

第三十八冊

精神分析より祈へ(下)(祈りは如何になすべきか)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S26.3.15


 


 

1200-1234

第三十九冊

グレン・クラ-クの半生と其の足跡(上)(光に向って歩める人)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S26.4.15


 


 

1235-1272

第四十冊

グレン・クラ-クの半生と其の足跡(下)(祈りは斯くして成就する)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S26.4.15


 


 

1273-1304

この御本は谷口雅春先生が「生長の家社会事業団」の事業は谷口雅春先生の公職追放により大きく後退することとなったのですが、「欧米科学文獻および文学書類の翻訳」事業だけは先生の念願でした。
その翻訳刊行の募集で当時の荒地清超先生が応募された。
その本が上図の本です。
上記にその要項をまとめます。


この本は素人が蒐集するのは難しいというのは戦後間もない本は紙質が悪く、いわゆる、酸化してしまうのです。蛍光灯に数時間でも当てれば紙が黄色に変色するのがそれです。

そして剥離してボロボロになっていくのです。

古本蒐集とかする場合は本の管理は大変なんです。私の所有している本もそういう状態の本が沢山あるのです。

それを本気で解消するには個人での蒐集は無理なのです。よく本を蒐集していますとか簡単に書いていますが、それならばこうした本をいつまでも管理出切るかといえば、あと10年も持てばいいという本が沢山あります。

だから、そうした公的な管理がどうしても必要になります。しかもデジタル化可能な図書館しかありません。一番いいのは「国会図書館」です。

図書館管理に万全を尽くしています。また図書館に寄付すれば永久に保存出来、万民が見れます。

前のブログでそんなことを書いたのは、こういうことだったのです。

本当に雅春先生の教えを残そうとするならば、こういうことも考えなければならない。

 

本の管理は公的機関でないと無理なものがあります。1

P1180208
上図は戦後間もない頃に出版された、世界光明思想全集です。

昭和二十一年(1946)



 



 



 



 

  世界光明思想全集 40巻(共著)(40巻バラ)



 



 



 



 

第一冊

佛教光明思想基本篇

S21.6.01



 



 

48

第二冊

無限供給の黄金律(日本敗戦の心理的原因)

S21.8.25



 



 

49-80



 

第三冊

攝理による運命の修正(附 日本敗戦の摂理)



 

S21.11.15



 



 

81-119

第四冊

-ドマン神學の解説(神癒力のある新しき基督教)

S21.12.05



 



 

120-154

第五冊

-ドマンの心理學(日常生活の霊的導き)

S22.1.20



 



 

155-186

第六冊

即身成佛の眞理(眞言密教・阿字観の実修法)



 



 



 

187-221

第七冊

光明思想の先驅者(ユニテリアンの思想)谷口雅春監修・谷口清超共著

S22.4.25



 



 

222-251

第八冊

ディワ゛イン・サイエンスの解説(上)モリガンの神癒科學)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S22.6.20



 



 

252-281

第九冊

ディワ゛イン・サイエンスの解説(下)神癒理論及び応用

谷口雅春監修・谷口清超共著

S22.8.20



 



 

282-320

第十冊

ハンブリン氏の想念の科學(苦難と恐怖の克服法)谷口雅春監修・谷口清超共著

S22.10.20



 



 



 

323-351

第十一冊

接神學による心・靈及び體の研究(人靈は何処へ行く)谷口清超著

S22.11.10



 



 

352-378

第十二冊

靈智学による預言と夢の説(預言の必然性と変改性)谷口清超著

S22.11.01



 



 

379-400

第十三冊

大クヰンビ-博士傳(及其の人間無病の哲学)谷口清超著

S22.12.01



 



 

401-434

第十四冊

初期のクリスチャン・サイエンス(靈的に解訳されたる聖書)谷口清超著

S23.2.15



 



 

435-471

第十五冊

クヰンビ-の傳承とエディ夫人の獨創(眞理と健康及びその論争)

谷口清超著

S23.3.01



 



 

472-506

第十六冊

オリヴァ・ロッヂの「人間と宇宙」(上)(科学と宗教との調和論)

谷口清超著

S23.4.01



 



 

507-535

第十七冊

ロッヂの科学と奇蹟論(附宇宙構図に於ける人間の位置)谷口清超著

S23.5.01



 



 

536-572

第十八冊

神通行者ヨ-ガナンダ略伝(瑜伽行者の近代的教団)谷口清超著

S23.7.01



 



 

573-611

第十九冊

瑜伽行者の祈り(永遠者の囁きと聴く法)谷口清超著

S23.7.01



 



 

612-653

第二十冊

米国光明思想の幽祖エマ-スン(環境は心の影なる「霊の法則」)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S23.7.01



 



 

654-684



 

第二十一冊

エマ-スンの恋愛論(至福の愛への出発としての恋愛)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S23.8.15



 



 

685-710















 


 


 


 


 


 


 

第二十二冊

エマ-スンの自己信頼論(自分が自分の主人公である)

谷口雅春監修・谷口清超共著

S23.11.15



 



 

711-733

第二十三冊  

ジェ・ブライアルの宗教論(奇蹟と平凡生活との境)

谷口雅春監修・谷口清超共著





 


 

S23.11.15



 



 

734-765

戦前の新聞広告

戦前はかなり頻繁に新聞にて広告していました。
とりわけ驚くのは、東京朝日新聞が新聞一面で「生長の家」の宣伝をしているわけなんです。


現在ならば信じられないことですが。日付昭和11年11月20日 朝刊 六頁
しかも大変「生長の家」を高く評価している内容なんです。
JPG

また宣伝ですが、頻繁に宣伝していることがわかります。
P1180202
P1180204
P1180196
P1180197



ただ、この戦前の新聞広告より驚くのは、戦後間もない昭和20年10月22日朝刊に宣伝広告を掲載しているのです。下図がそうです。(朝日新聞)
P1180201

『神霊と人生』と『生活者』の変更

心霊会及び神霊会を修正致します。

 

『心霊界』『心霊と人生』浅野和三郎編纂

心霊科学研究会誌「心霊会」第一巻 -投稿文より 

第六号(七月号)大正131924)年71                             

「浄土教擁護」

P3137

 

第八号(九月号)大正131924)年91

「新世界を支配する法則」                        

P1926

第九号(十月号) 大正131924)年101

「如何にせば運命を支配し得る乎」                    

P1524

 

第十号(十一月号) 大正131924)年111

「如何にせば運命を支配し得る乎」()                                    

※ ()の誤りか、詳細は不明。

 

P1418

 

心霊科学研究会誌「心霊界」第二巻 -投稿文より

第二号・第三号合冊   大正141925)年211

「人格価値と霊力の問題」         

※ 以後、誌名は「心霊と人生」(第二巻第七号)に変わる。

P2628

 

 

心霊科学研究会誌『心霊と人生』-投稿文より

 

第三巻 第九号 大正1591日(1926

「正者及び死者の幻影」

 

P32P36

第三巻 第十号 大正15101日(1926

「正者及び死者の幻影」

 

P25P32

第三巻 第十二号 大正15121日(1926

「呪はざる生活の提唱」

 

P30P32

第五巻第五号 昭和351日(1928

「一つの提唱」

 

P10P13

第五巻第九号 昭和391

「セオソフィ-霊学」

P21P24

第五巻第十号 昭和3101

「セオソフヰ-霊学」(二)

 

P16P19

第五巻第十一号 昭和3111

「セオソフィヰ-霊学」(三)

 

P11P16

第五巻第十一号 昭和3121

「セオソフヰ-霊学」(四)

 

P22P29

第六巻第三号 昭和431日(1929

「戯曲」たましひの黎明

 

P39P47

第六巻第四号 昭和441

たましひの黎明(下)

 

P39P46

第六巻第五号 昭和451

たましひの黎明(續)

 

P39P47

第六巻第六号 昭和461

たましひの黎明(續)

 

P38P47

第六巻第七号 昭和471

霊魂論の命題と科学の使命

 

P9P15

第六巻第八号 昭和481

霊魂論の七命題と科学の使命(中)オリヴァ-・ロッチ

宗教的超越と藝術的超越

 

P8P11

P32P34

第六巻第九号 昭和591

霊魂論の七命題と科学の使命(下)オリヴァ-・ロッチ

 

P12P17

第八巻第三号  昭和731日(1932

「内からと外からの解決法」

 

P32P34

第八巻第六号 昭和761

ひとりでに健康になる話

 

P7P17

第八巻第十号 昭和7101

内観的精神統一に就て

この題名は九月号に浅野和三郎の寄稿した「精神統一(P7~P22)につきて」の批評

(この文章の後に谷口君の批評の批評/浅野和三郎)

 

P14P15

 

P16P18

第八巻第十一号 昭和7111

心霊科学的立場と宗教的立場の相違

 

P32P35

第九巻第一号 昭和811日 (1933

幽閉された霊が何故霊媒にかかるか

 

P27P28

第九巻第二号 昭和821日 

(谷口雅春氏提出の問題に就いて NH生)

 

P30P34

 

生活者を修正致します。

山口悌治氏と雅春先生はこの『生活者』誌から縁となり、生長の家に入信されます。

『生活者』倉田百三編集のご寄稿 後ろの記載は掲載なしは国立図書館での調査より・なしは国立図書館所有無し

 

大正15

 

 

6

仏蘭西美術家の心霊現象(1) 研究

P83~90

7

仏蘭西美術家の心霊現象(2) 研究

P82~90

8

石地蔵の如き善人  

P51~54

10

仏蘭西美術家の心霊現象(3

P60~66

11

仏蘭西美術家の心霊現象(4)なし

 

12

仏蘭西美術家の心霊現象(5)なし

 

昭和2

1

仏蘭西美術家の心霊現象(6)なし

 

2

仏蘭西美術家の心霊現象(7)なし

 

3

仏蘭西美術家の心霊現象(8)なし

 

4

仏蘭西美術家の心霊現象(9)なし

 

5

仏蘭西美術家の心霊現象(10

P37~44

6

仏蘭西美術家の心霊現象(11

アンデルナハのハインリッヒ-(戯曲)/ウンルウ作 山口悌治訳

P47~55

P128~140

8

 

仏蘭西美術家の心霊現象(12

アンデルナハのハインリッヒ-(戯曲)/ウンルウ作山口悌治訳)

P43~50

P98~111

9

仏蘭西美術家の心霊現象(13

P5865

10

仏蘭西美術家の心霊現象(14)完

P32~39

12

奉仕する者の悩み(1

P45~54

昭和3

 

 

 

 

 

 

 

 

1

奉仕する者の悩み(2

P80~87

3

神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(1) 

P54~60

6

神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(2

ウツドワ-ス・エツタ-

P47~52

 

7

 

神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(3

汝ら人生のあるうちに道を進め(詞)

P46~51 

P77~79

8

神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(4

P47~53

9

神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(5

P53~57

10

神異と奇蹟(翻訳)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(6)つづくと記入していますが、本文もって終稿

P6366

昭和4

6

8

(パウロと猶太人/フランツ・ヴエルフェル山口悌治訳)

(パウロと猶太人/フランツ・ヴエルフェル山口悌治訳)

P8599

P92110

『読売新聞』の御投稿の雅春先生の御文章

『読売新聞』の御投稿の雅春先生の御文章 

昭和351120日 朝刊 気流  「中立主義は戦争を誘発」 3

昭和36328日   朝刊   「萬教は如何にして歸一すべきか」

生長の家は各宗教の真髄を生かす地下水         

昭和36329日   朝刊   「萬教は如何にして歸一すべきか」

団結は力だ!一人でやるより皆集って 

P1180199
昭和36328日   朝刊


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昭和351120日 朝刊

佐藤勝身と松本竣介

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昭和11年1月
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佐藤俊介氏の「民治」

佐藤勝身氏といえば「生長の家」では現在『法華経解釈』で谷口雅春先生の共著である。佐藤勝身さんです。その長男が佐藤彬氏であり、次男は佐藤俊介氏です。『生命の藝術』誌 昭和98月(『生長の家新聞』を廃刊にして)→昭和1111月号より『生命の藝術』を改題し『いのち』を創刊→昭和143月号『いのち』を改題し『行』~昭和1610月 号にて終刊



佐藤彬は当時は全国講師でもあり、『生命の藝術』の編集を担当した。次男はその兄の手伝いとして編集を行った。佐藤勝身氏は谷口雅春先生に手紙を書いて辞めたとなっていますが、眞相はわかりません。

ただ、佐藤俊介氏はインタ-ネットではそれとともに辞めたと書いているが、最近の博士論文で吉井宏平氏や小沢節子の「15年戦争と芸術家」との意見が微妙に異なる。



佐藤俊介は後ほど松本禎子氏と結婚し、養子となり名前も松本俊介、そして松本竣介と変えています。

松本竣介とは難聴で36歳という短い人生ですが、画家では大変有名な人です。



『生命の藝術』の編集して2年、次第に画家として多忙を極めて、その当時の思いが忘れられなく、雑誌の編集していたこともあり、自ら『雑記帳』という雑誌を作っています。



定斎屋の薮入り様から抜粋

佐藤勝身「泥の道へ傘をたゝんで土下座してしまつたのです」





 『生命の教育』の昭和1012月号は第1巻第5号。「左翼転向者の座談会‐思想教育の問題‐」が載ってゐる。出席者は谷口雅春・佐藤勝身、中林政吉・小西茂國・佐野哲生・山口悌治・村上幸一郎、佐藤彬・松本恒子。左翼が転向して如何にして生長の家に縁ができるやうになったかを話してゐる。



 佐藤勝身の小見出しは「私の体験は書物に魅せられて」。





正則の文学的教育を受ける余裕を持つてゐない為に、教科書代用として、当時青年の間に愛好されてゐた『萬朝報』といふ赤新聞を読んで居たのでありました。その新聞を読んでゐると、其の中には宗教家として内村鑑三、それから思想家には幸徳秋水、堺枯川といふやうな人があり、殊にその堺枯川の丸みのある文章、幸徳秋水の如何にもかう秋水の如しと申しませうか、素晴しい才気煥発的な筆致といひますか、それから内村鑑三氏の実に熱のある宗教的な文章を好きで読んでゐました。(略)この社会主義といふ思想に引ずられて、今考へて見ると畏れ多いことまでも考へたりしたこともありました。(略)朝日新聞か日本劇場のある辺に小さな長屋のやうなものがあつた、そこで『平民新聞』といふ小さな新聞を出したのでありました。そしてこの両人の思想に憧憬を持つてゐた私は引きつヾきその新聞を耽読して、本当に斯うでなければならぬ、さうしてこれこそ本当の偽らざる人間としての生活だといふやうな感じを益々熱烈に持つやうになつたのでありました。



 そんな佐藤に転機が訪れる。まだ舗装前の泥深い道路を、神田橋から内堀沿いの道を、坂下門の方に向かって、蝙蝠傘をさして歩いてゐた。門からは近衛の儀仗兵と馬車が出てきた。





その頃は徳大寺サンと云つたと記憶します、その当時の侍従長が馭車台を後にして畏つて居られ、相対されて、申すも畏いことですが、 明治天皇さまがお乗りになつて、お頬髯を深くお垂れさせられた龍顔に咫尺し奉つたわけでした。さうしましたらこの刹那、私は雨の降つてゐる泥の道へ傘をたゝんで土下座してしまつたのです。龍顔を拝したてまつゝた瞬間に、そこにぴつたり手をついて、さうして何といふのか判りませんでしたが辱けなさに泪零るゝとふやうな、何の理由もなくたヾ止め度なく泪がこぼれるのでした。お馬車が通り過ぎてしまつたものですから、起き上りました、袴はすつかり泥まみれでした。人が見たら、さぞおかしかつたらうとも思ひました。社会主義カブレの私が何故かういふことをしたか、何か知りませんが、このさうしなければならなくなつた自分がそこにあつたのでございます。



 この後に主義者の文章を読んでも何とも思はなくなり、生長の家に繋がる。一般人でも、明治天皇を見かけられる環境だったことがわかる。他にも親や軍隊への反抗、貧乏等から左翼になった体験談が話されてゐる。



 奥附を見るとこの佐藤勝身、編輯兼発行者の名前としても載ってゐる。転向者が『生命の教育』を編輯してゐたことになる。赤い主義者も陛下の赤子。









松本竣介 年譜

1912年(明治45年)

419日、東京府豊多摩郡渋谷町大字青山北町7丁目27番地(現在の渋谷区渋谷1丁目61号)に佐藤勝身とハナの次男・佐藤俊介として生まれる。

1914年(大正3年) 2

父・勝身の林檎酒醸造の事業参画に伴い、一家で岩手県稗貫郡花巻川口町大字里川口第13地割170番地(現在の花巻市南川原町)に移る。後に、花巻川口町館町(現在の花巻市花城町一区)に移る。

1919年(大正8年) 7

4月、花巻川口町立花城尋常高等小学校(現在の花巻市立花巻小学校)に入学。

1922年(大正11年) 10

3月、父の関係した貯蓄銀行開設にともない、一家は郷里の盛岡市紺屋町に移る。
4
月、岩手県師範学校附属小学校(現在の岩手大学教育学部附属小学校)に転校。

1925年(大正14年) 13

3月、附属小学校を卒業。
4
月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学。のちの彫刻家舟越保武と同学年。 入学直後、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴覚を失う。

1926
(大正15年・昭和元年) 14

102日から再登校、中学1年生を繰り返す。
この頃、大正12年に設置された測候所下の、岩手郡浅岸村大字新庄第4地割字山王33番地(現在の盛岡市山王町)に移る。

1927年(昭和2年) 15

春、父・勝身から写真道具一式を贈られる。
3
歳違いの兄・彬は、友人・古澤行夫(のちの漫画家・岸丈夫)のすすめにより、油彩道具一式を買い竣介に贈る。
6
月から8月にかけて、《山王風景》や《山王山風景》を描く。
この頃、盛岡中学校の弓術倶楽部に属し、部活動に励む。

1928年(昭和3年) 16

春、盛岡中学校に絵画倶楽部が創立され、入部する。
12
17日、岩手日報に投稿した詩「天に続く道」が掲載される。画業に専心することを決めた心情を述べる。

1929年(昭和4年) 17

3月、中学3年を修了して間もなく、盛岡中学校を中退する。
4
月、兄・彬の東京外国語学校ドイツ語部入学を機に、母・ハナに付き添われて上京、現在の豊島区西池袋に住む。
太平洋画会研究所選科に入り、鶴田吾郎、阿以田治修などに指導を受ける。

1931年(昭和6年) 19

6月、石田新一、薗田猛、勝本勝義、田尻稲四郎らと太平洋近代芸術研究会を結成する。麻生三郎、寺田政明も参加。太平洋近代芸術研究会の研究会誌『線』を発行する。誌名は竣介が命名。
9
14日、会誌『線』第2号を発行し、同号で廃刊となる。
北豊島郡長崎町字並木1336番地(現在の豊島区長崎1丁目20番地)に転居。
この頃から谷中にある茶房リリオムに仲間たちと通い始める。
この頃、父・勝身が谷口雅春の主唱した「生長の家」の運動に傾倒し始め、兄・彬、竣介にも影響を与える。

1932年(昭和7年) 20

4月、太平洋近代芸術研究会の中心メンバーとともに赤荳会を結成。北豊島郡長崎町北荒井(現在の豊島区要町1丁目)の雀ヶ丘に貸しアトリエを共同で借り研究所とする。
この頃、靉光との交流も始まる。
5
8日、兵役免除を受ける。
9
月頃、赤荳会内で衝突があり、会が解散する。解散後も、仲間はリリオムに集い、交流は続く。鶴岡政男、難波田龍起、麻生、寺田らも集まる。

1933年(昭和8年) 21

4月、第5回北斗会美術展に《肖像》など5点を出品。
8
月、兄・彬が「生長の家」の機関誌『生命の芸術』の創刊に携わる。竣介も10月から193610月の最終号まで「でつさん」「人間風景」等の文章や挿絵を寄稿し、編集にも携わる。

1934年(昭和9 22

24日、慶應義塾大学予科英文学教授の松本肇(後の夫人・禎子の父)死去。肇は生前『生命の芸術』を通して兄・彬と交流があったことから、この時、肇の次女・禎子を知る。
6
月、第6回北斗会美術展に《風景A》など3点を出品。
夏、「生長の家」の出版物を販売する「光明思想普及会」設立に際して、父・勝身と母・ハナが上京し、一家は渋谷区原宿2丁目170番地8号(現在の渋谷区神宮前3丁目14-15番地)に移る。竣介も光明思想普及会の宣伝広告や編集の仕事を手伝う。
12
月、NOVA美術協会の機関誌『NOVA』第2号に「画室の覚え書き」を寄稿。
鶴岡、難波田らとの交友を深める。

1935年(昭和10年) 23

1月、第5NOVA美術協会展に《並木道》など3点を出品し、同人となる。『NOVA』第3号にも「画室の覚え書き」を寄稿。
9
月、第22回二科展に《建物》を出品し、初入選を果たす。

1936年(昭和11年) 24

1月、第6NOVA美術協会展に《洋館》とデッサンなど15点を出品。
2
3 日、松本禎子と結婚し、戸主として松本家に入籍、松本姓となる。淀橋区下落合4丁目(現在の新宿区中井)に新居を構え、義母・恒、義妹の泰子、栄子と同居する。
この頃、自宅のアトリエを「綜合工房」と名づける。
9
月、光明思想普及会から退く。
同月、第23回二科展に《赤い建物》を出品。
10
月、『生命の芸術』が10月号で廃刊となる。高見順、佐藤春夫、高村光太郎、長谷川利行、福沢一郎、靉光、麻生ら多くの作家、画家が随筆や素描を寄稿する。
同月、以前から禎子と構想を温めていた月刊の随筆雑誌『雑記帳』を創刊。発行所はアトリエ「綜合工房」。同誌には林芙美子、萩原朔太郎、高村光太郎らが文章を、藤田嗣治、福沢一郎、鶴岡らが素描を寄せ、原奎一郎は経済的にも援助する。また、自ら「雑記帳」等の文章や素描を手掛ける。

1937年(昭和12年) 25

1月、第7NOVA美術協会展に《有楽町駅付近》や《婦人像》など21点を出品。
4
4日、長男・晉が誕生するも、翌日、死去する。
9
月、第24回二科展に《郊外》を出品。
11
月、赤荳会およびリリオムのメンバーと共に、黒豆会を結成し、毎月会合を開く。
12
月、『雑記帳』を第14号をもって廃刊する。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

『生命の實相』と川上哲治

皆さん、川上哲治さんという人はご存知ですか。

私のような年配だと全員がご存知です。

巨人の選手であり、巨人軍がV9時代の監督です。その川上監督が?

私達の年代であるならばよく知っている内容ですが、新しい人などはご存知ではないと思っています。



朝日新聞の19581024日に掲載されていた内容です。



サザエさんをさがして

奥義きわめた神に興奮



「神様・仏様・稲尾様」とあがめられた元西鉄ライオンズ投手の稲尾和久さんが11月中旬、70臓で急死した。当時、同じく「(打撃の)神様」と称されていた元巨人軍の川上哲治さん(87)は「1958(昭和33)年の日本シリーズでは、稲尾君一人にやられた」とコメントした。



 西鉄の21歳エース稲尾の活躍で、3連敗後に4連勝。球史に

残る大逆転となった同年の日本シリーズは、「赤バット」川上の引退の舞台であった。最終戦の翌日、1022日の朝日新聞社会面で、引退の記事とともに談話が載っている。「皆さんにかわいがっていただいた背番号16はドロにまみれないうちにお返ししておきたい」

 

漫画は2日後の掲載だ。野球を直接、題材にした作品カが少ないサザエさんには珍しい。引退記念に「16」を集めるマスオの思いは、巨人ファンの気持ちを代弁していただろう。「16」は巨人の永久欠番になった。



 戦後生まれには、川上哲治というと巨人V9時代の「管理野球」の印象が強い。だが、選手としては、「青バット」の大下弘とともに、戦争で疲れた国民に希望を与えるスターだった。



 昭和のプロ野球の名実況で知られ、野球殿堂入りもした元NHKアナウンサーの志村正順さん(94)は2人を比べて「ともに人気はあったけど、大下は派手で華やか、川上は地味でまじめ」と評する。

 息子の川上貴光さん(61)が書いた評伝ノンフィクション『父の背番号は16だった』(朝日文庫)は打撃の奥義をひたすらきわめようとするストイックな川上の姿を描いている。



 東大の物理学教授を訪ね、球を遠くに飛ばすバットの形を研究したこと、球場に通う電車で電柱の広告の文字を読む訓練をしたこと、精神に興味を深め谷口雅春著『生命の実相』などの書物に浸ったこと……。



こうした努力の到達点が練習中突如得た感覚―「球がとまって見える」だった。志村さんは、川上と大下の打球を比較してこう語る。



「大下の打球は山なりでスタンドに入るが、川上の打球は上にあがらない。鋭く低いあたりが右中間へ飛んで、どんどん伸びる。川上と一緒に後楽園のネット裏で大下の打球を見ていて、川上が『これからの野球は大下君のような打ち方ではダメです』と言ったのを覚えています」



神様の打撃術は理にかなっていた。特徴や個性の入り込むスキがあまりなかったからか、後の王貞治の「1本足打法」、落合博満の「神主打法」、イチローの「振り子打法」のように「(○○打法)という形容のされ方を聞いたことがない。



むしろ、打球の方に「弾丸ライナー」と名前がついた。打球を戦争の道具で形容したこの名コピーは、戦時ムードが強まり、プロ野球から英語が追放され始めた40年の11月の記事で初めて使われ、長く定着した。



 川上引退の翌59年6月、初めての天覧試合が開かれ、長嶋茂雄がサヨナラホームランを打った。当時のサザエさんには、スポーツといえば、相撲を題材にしたものが目立つが、同年には、野球のボールで遊んでいて部屋の窓ガラスを割ってしまうカツオを描いた作品も掲載され、野球人気の浸透ぶりもうかがわせる。  (中島鉄郎)




P1180205



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

「幸運」や「不幸」は心の持ち方

下記の総裁のfacebookは話題となっている。

《生長の家総裁 facebook 平成28年8月22日

「蒔いた種が生える」とはいうが、わが家の畑では、蒔きもしないカボチャが生えて育っ
ている。コンポストに種が混じっていたのだ。こういう‘’無意識”の種蒔きで、「不幸」
が来ることもあるのである。》

この内容というのはたぶん、「生長の家」の信徒の中に「スリ-パ-・セル」が混じっている、そんなことしていたら貴方には不幸が来るぞ、という脅しのような言葉と理解します。

ただ、素人が畑などの作業する場合は、時たまあることです。父親は私が生まれた時から亡くなるまで、仕事とは別に畑の作業をしていました。
キュウリの横に人参が生えていたりすると、すごく喜んで「これはいいことがある」「たまにこういうことがあるのが幸運をもたらすのだ」

それを「不幸」と感じるのか。「幸運」がやってくると感じるのか。
人間の度量の違いがわかります。

それにしても「下手」な文章である。ただ上記のように訳するとわかると思います。

「幸運」や「不幸」は心の持ち方です。生長の家でそのように教えられたのではないでしょうか?

ただ理解すれば、総裁は今不幸の真っ最中ということですね。

戦後谷口雅春先生の御寄稿文章


『産業と産業人』における雅春先生の御文章 

1949年 11月号   せまき門より入れ        P26-27

1949年 12月号   與えよさらば與えられる     P31-32

1950年 新年特大号  貧しきは罪悪なり(宗教の頁)  P38-41


『出版ニュ-ス』における雅春先生の御文章 

1965年 4月号  わが著書を語る   限りなく日本を愛す        P23

1966年 1月号  わが著書を語る   女の生き甲斐           P28

1966年 7月号  わが著書を語る   幸福はあなたの心で        P23

1966年 8月号  わが著書を語る   能力と健康の開発         P23

1967年 1月号  わが著書を語る   いのちの革命           P26

1967年 1月号  わが著書を語る   憲法の正しい理解(鹿沼景揚)   P26


『実業之世界』における雅春先生の御文章 

1968年 6月号  「日本神話と日本国の荘厳」             P49-51


『社会人』における雅春先生の御文章 

1962年 2月号  「今月の生活指針」から               P74-75


『学校教育』における雅春先生の御文章 (広島大学附属小学校教育研究会)

1960年 3月号  「小学校教師は何を考え、何を研究すべきか」     P84-85


追加致します。
なかなかまとまらないのですみません。今回出版した『谷口雅春先生書作年譜集』に追加します。

 

 

 

 

 

ギャラリー
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