則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2016年07月

讀んで戴ければ幸甚です。

『限りなく日本を愛す』『聖道へ』と左翼書

今日は2年ぶりに大阪教化部に行った。
書籍売り場には下記の三点が堂々と置かれている。

①『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(中島岳志・島薗進 著)

②『「憲法改正」の真実』(樋口陽一・小林節 著)

③『日本会議の研究』

谷口雅春先生関連の書棚には『限りなく日本を愛す』がある。『聖道へ』がある。
なんとも言われない気持ちが奥深くに沈んだ。

なんとも言われないというのは全く真逆な本が書籍棚にあることである。
どうして反対できないのであろうか?

己の良心というのはなんだったんであろうか?生長の家を一生に捧げて貫こうという気持ちが折れてしまったのか。とりわけ教化部長の久利さん。恥ずかしくないのかこんな書物を置いて…私の先輩でもある久利さん。
雅春先生が歩まれた道をもう一度勉強して欲しい。本当に勉強すればこんな本は置けないはずである。役員を集めてどうして決起しないのであろうか?
今の生き方は「生長の家」の生き方ではない。単なる背教の総裁の尻尾に付いている紐ではないだろう。

色々な人にそんな思想で講話したらダメである。

私の知り合いでも子供が幼いからまだ辞めること出来ないと我慢しながら奉職されている。子供のことを考えるとそのまま職を続けたほうがいいと勧めた。だが彼は3年後には辞めるという。
生長の家に一生を捧げた人が多いが決起して欲しい。

『聖道へ』は一篇は大正11年8月末であったが、その後控訴院の要望で『お筆先』『大本神諭』に不敬罪に当たる箇所がないかチェックするために依頼され、約40日間その作業に追われる。その後東京へと引越しするが当初「東亜公論」という会社へ入社したが半月でやめられ、11月中頃から再び残りお9篇を1ヶ月半で完成させ『聖道へ』という本を出版されるのである。

若き日の谷口雅春先生の「生長の家」の確立のための御本である。

私の尊敬してやまない阪田先生の言葉がある。それを掲載させていただきます。



           【 生長の家長崎北部教区教化部長  阪 田 成 一


 「青少年時代の読書の種類によってその人の将来の運命を決することにもなる」 とは、よく言われることですが、私にとってもまさにその通りでありました。

 中学3年生の時に手にした、谷口雅春先生の著書である 『限りなく日本を愛す』 と 『聖道へ』 は、今の私へと導いてくれた掛替のない書物です。



  昭和35年5月、未だ祖国日本に復帰されていない沖縄に行く機会を与えられました。 私の出身県である兵庫県の坂本勝知事が 「沖縄へやまびこの鐘を贈る運動」 を提唱され、県下一斉に1円募金が展開されました。 兵庫県民の真心をこめて贈られた “やまびこの鐘” の鳴りぞめ式に子供の代表として沖縄に行くことになったのでした。 

 その際に訪れた先の戦争の大激戦地であった南部の戦跡、とりわけ若きいのちを祖国防衛のために捧げられた人々を祀る “健児の塔” と “ひめゆりの塔” に詣でて、その時聞いた数々の悲話に、当時の私は強い衝撃を受けました。 終戦の年に神戸に生まれた私は、こうした祖国の防波堤となって下さった人達がおられたからこそ、自分がこうして生きてることが出来るのではないかとその時気づいたのでした。

 沖縄から帰った内地では、日米安保条約の改正をめぐって、日本全体が安保反対の赤旗に埋まり、文字通り革命前夜の騒乱の場と化したあの “60年安保闘争” が、激しくなろうとしていました。 そうした中で、明石で戦前より熱心に 「生長の家」 の活動をしていた伯母の書棚にあった 『限りなく日本を愛す』 の御本に出会ったのでした。

 中学生の私にはとうてい読み通すことの出来ない難しい内容ではありましたが、題名の 『‘限りなく’日本を愛す』 という言葉が、沖縄に行って、いわゆる日本人としてのアイデンティティに目覚めつつあった私の心に強く共鳴したのでした。

 この本との出会いによって、当時結成されて間もない 生長の家高校生連盟 〈略して 生高連〉 に入れて頂くことになりました。 因みに生高連が結成されたのは、昭和35年5月1日のことです。 神戸市の西の端にある舞子に住んでいましたが、明石の生高連に入っていました。 生高連活動を通して、 「生長の家」 の御教えを学んで行きましたが、その頃私達の指導をして下さったのが、今も兵庫県で特務講師として活躍しておられる 福島正俊講師 でした。 この方より神想観をすることと、 『生命の實相』 を読むことの大切さを徹底して教えて頂いたことは、実に有難いことでありました。

 そして素晴しい先輩にもめぐまれ、多くのことを教えて頂きました。 教化部長として活躍しておられる 森田征史さん、 中田安里さん、 亡くなられた 濱田雄作さん、 これらの方々は大学生として高校生、中学生の育成に献身的に尽して下さいました。 私も大学生になって、先輩達のようになろうと思った人は多かったに違いありません。 私もその中の一人でした。


 その年の年末から正月にかけて、私は、 「伊勢神宮奉仕実践練成会」 に参加いたしました。 これは昭和34年9月26日の夜半から27日にかけて、東海地方を襲ったいわゆる伊勢湾台風によって愛知、三重、岐阜の3県は史上未曾有といわれる大被害を受けました。 この時、日本民族のふるさとである伊勢の皇大神宮も甚大なる被害を受けました。 神域を包んでいた樹齢何百年という杉の大木が根こそぎ倒れ、或いは裂け、手のつけられぬような荒廃ぶりでした。

 それは、日米安保条約をめぐって国論が左右に分かれ、国民の精神が大揺れに揺れていた当時の日本を象徴している感がありました。 しかし現行の日本国憲法は、伊勢神宮を一介の宗教法人としてしまったが故に、その荒廃を国家予算をもって修復することを許さなかったのです。 こうした時、谷口雅春先生は 『理想世界』誌 を通じて  「われ愛国の青年に嘱望す」  という御文章を発表され、それに応えて実施されたのが 「伊勢神宮奉仕実践練成会」 でした。

 この練成会には全国から愛国の熱情溢るる青年たちを中心に、生長の家信徒が続々と馳せ参じ、遠くブラジルからも奉仕団が結成されて参加されて、誠のかぎりを尽して復旧作業にあたったのでした。 谷口雅春先生は、とくにこの練成会のために 「伊勢神宮の神前に於ける神想観」 を授けられました。 それは天照大御神の大生命と一体なるわが生命を観ずるものでした。

 昭和35年12月31日から元旦にかけて、伊勢神宮の内宮の内陣の玉砂利の上で行なわれた神想観は、私にとって終生忘れることのない尊い体験でした。 この伊勢練成会の帰り道のことです。 5月に開かれる生長の家青年会全国大会で行なわれる弁論大会の予選に出ることを勧められ、兵庫県での予選に出場することになりました。 まだ中学生でしたから本当は出場権はないのですが 〈当時は 「中学生ジュニア友の会」 はなかった〉 4月には高校生になるというので認められました。 

 兵庫県の教化部で行なわれた県の予選大会で、沖縄での体験を中心に発表しましたところ、優勝してしまいました。 中学生であるということが採点に有利になったに違いありません。 その時に賞品として頂いたのが、 谷口雅春選集第7巻 『聖道へ』 であったのです。

 主催者は、よもや中学生にこの本が手渡されるとは思ってもみなかったのでしょう。 「あなたの好きな本と替えてあげよう」 と言って下さいましたが、内容の難しい本であるとも知らず、 『聖道へ』 という今まで見たことのない題字に、強く惹かれてそのまま頂きました。 私はその時、口には出しませんでしたが 「せいどうへ」 と読んでいましたし、むろんそれが如何なる意味であるか知るよしもありませんでした。

 どなたであったか忘れましたが、 「この 『しょうどうへ』 と言う本は、谷口雅春先生の若き日の求道論文集で、生長の家を深く知るためには、ぜひ読まなければならない本である」 と教えて下さり、その時 『しょうどうへ』 と読むことを知ったのでした。

 全国大会での弁論大会に出場するには、さらに上の予選大会を突破しなければなりません。 どういうわけか兵庫県は近畿地方であるにもかかわらず中国ブロックの予選大会に出場することになっていて、尾道で開かれた予選大会に出場しました。 その時は春休み中で、既に高校受験にパスしていましたが、残念ながら優勝はむろん入賞することも出来ませんでした。 因みにその時の優勝者は、後に 劇団「春の鳥」 を作り、谷口雅春先生や谷口清超先生の戯曲を上演された島根県代表の 青砥洋 さんでした。


 ところで 『聖道へ』 を頂いた私は、その日早速紐解きましたが、目次を見て今の自分には到底読み進んで行くことすら困難であろうことが直に判りました。 と同時に 「生長の家」 をより深く知るために必ず読まねばならない本であることも肝に銘じたのでした。

 幸いにもその内容が少しでも理解できる機会がその後すぐにやってきました。 それは、私がはじめて参加した、その年 〈昭和36年〉 の青年会全国大会のテキストの一つが 『聖道へ』 であり、さらに尊師谷口雅春先生が、この 『聖道へ』 をテキストにされて 「若き日の求道生活」 と題してお話し下さったからでした。 

 その御講話も当時の私には難しいものでしたが、また幸いにも、この青年大会の主要な講義がのちに本として出版されたのでした。 それは 『真理は人間を解放する』 と題する本で、これによって 『聖道へ』 の内容が少し分ってきました。 さらに有難いことにちょうど 『理想世界』 誌上でも、 『聖道へ』 をテキストにした御講義がつぎつぎと発表されてゆき、徐々にではありますが、 『聖道へ』 の内容も、理解されて行きました。

 この本を読み切ることが出来たのは、生涯を人類光明化運動に捧げたいと決意して、飛田給練成道場の練修生になってからで、大学2年になる春休みに一気に読み通しました。



 そもそもすべての存在は、歴史的現実として今ここにその姿を表わしているのですから、歴史を切り離しては、正しく理解することは出来ません。 「生長の家」 も同じであって、「生長の家」 を正しく理解するには、生長の家が出現するにあたっての、谷口雅春先生の信仰・思想史を知る必要があります。 この 『聖道へ』 には、谷口雅春先生が 「生長の家」 の信仰と思想を創(ひら)かれるまでの、先生の心の歴史が録されています。 

 生長の家の説く有神論は、現象宇宙 〈物質宇宙〉 の創造神を、仏教的な無明縁起によって完全に否定し去った後に、肯定されたる有神論ですが、それに至る先生の思想の発展の過程が 『聖道へ』 に書かれています。


 谷口雅春先生ご自身も 「生長の家思想の骨髄を知って貰うためには、その思想の淵源を知らなければならぬ」 〈『佛教の把握』 “はしがき”〉 と言われましたが、私もこの機会に自分の生涯の方向を決めた、この2冊の書物を読み直し、「生長の家」 を正しく把握して行きたいと思います。

 因みに 『聖道へ』 が出版されたのは、大正12年2月13日のことです。 私は偶然にもその初版本をふと入った古本屋で見つけましたが、その時の感激と言ったら言葉で表わすことが出来ません。 現在それは 温故資料館 に展示されています。 谷口雅春先生は 「偶然は一つもない。 若し偶然があるとすれば神の摂理の及ばぬ事物が何処かにあると云うことを認めなければならぬ。 そしてこれは神の全智に対する甚しい冒涜となるであろう」 〈『日輪めぐる』〉 と言われました。 私はこのお言葉を大切にして行きたいと思っています。


                『生長の家』誌  昭和63年2月号より】

総裁の今まで行った行為の検証が必要

 見にくい文章になっていたことをお詫び申し上げます。


 歴史を自ら封印した総裁谷口雅宣。彼の人生としての価値はどうして生まれたのか、彼により不幸に貶められた人物は沢山いる。宗教家は本来「人を救うのが役目だが、それを行ってこなかった」自分は総裁の器でも、一般社会の常識すら通用しない人物である。彼は今や独裁者であり、カルトである。

  しかし、今まで巧みに「生長の家」を利用していった。私は最初に「生政連」の解体。そして「青年局」の解体が大きく彼を独善的な人物をして「創作」させていった。 とりわけ、驚いたのは「雅春先生」でも間違えるという妹尾先生の言葉を承諾していく。そうした妹尾先生は次第に「生長の家」の役職から遠ざかっていく。

  聖典さえ絶版とし「生長の家」は宗教として放棄したものと同然である。何故、聖典まで放棄していこうとしたのか、取り敢えず破邪顕正さんの下記の文章を読んでいただきたい。

 【《『聖典』絶版とその背景にあるもの》 (10372) 日時:2014年07月23日 (水) 19時46分
名前:破邪顕正

  何かにつけ、谷口雅宣総裁を擁護する人が、未だに明確な反論ができないでいるのが、谷口雅春先生の『聖典』に対する絶版処分であります。
 本来であれば、この一つだけをとってみても、谷口雅宣総裁を擁護などできるものではないのです。 それほどまでに、重大なこの問題について、改めてその背景からここで整理しておきたいと思います。

 (1)『聖典』絶版の前史
  中村燦先生の『大東亜戦争への道』や高橋史朗先生の本、そして蔡焜燦先生の『台湾人と日本精神』が「日本教文社」から出版されなくなる。
  もちろん、愛国運動が嫌いな谷口雅宣総裁の横槍が入ったからである。 これによって、外部愛国派の書籍を発刊することで、確たる地位を占めていた「日本教文社」の出版界における評判はがた落ちとなってしまった。

 (2)谷口雅春先生の『聖典』の弾圧の経緯
 ①平成4年…谷口雅春先生の『新刊書』停止 平成4年7月15日、渋谷東急インでの取締役会(中島省治、鈴木卓朗、宮本三男、永井光延、辻信行、谷口雅宣、三浦晃太郎、磯部和男の8名) →谷口雅春先生の『聖典』はもう古いからとの理由で、今後、一切の新刊聖典の発行を止める。

 ②平成4年前後から…絶版リストの作成に基づき、次々に重版ストップ32点。

 ③それ以降…谷口雅春先生の新刊聖典の発行は無し。 ※例外1点として「谷口清超編纂『大聖師御講義「続々甘露の法雨」』」(平成5年)があるが、それとても、わざわざ、谷口雅春先生の御講義であるにもかかわらず、「谷口清超編纂」としなければ発刊できなかったのである。

 (3)『生命の實相』に対する弾圧
 ①「日本教文社」では、何回か『生命の實相』をリニューアルして発刊すべきとの提案がなされたが、それもすべて谷口雅宣総裁によって握りつぶされた。

 ②谷口雅宣総裁の『生命の實相』への消極的態度 ○ある教化部長が、講習会の前講で『生命の實相』の素晴らしさを取り上げたところ、その教化部長に対して、谷口雅宣総裁は苦々しい顔で「『生命の實相』だけが聖典ではない」と言い、『生命の實相』を持ち上げないように釘を刺した。

 ○講習会の幹部会で、ある教化部長が『生命の實相』をテキストとした勉強会に力を入れていると報告すると、後日、谷口雅宣総裁はそれを批判するメールを送った。これをきっかけにして、『生命の實相』をテキストとした誌友会がどんどん姿を消すことになる。

 (4)「日本教文社」の現在 『聖典』の発刊はゼロ。昨年の新刊は「日めくり」や日記などの3点のみ。 】



 私はこの総裁の決断には「雅春先生」との分断があり、その分断は「日本的なるもの」への嫌悪観が彼の内心から払拭できなかったことであろう。
 
愛国的なる「生長の家」が嫌いであり、宗教的なことが嫌いな彼は本来総裁になるべき人ではなかったことは多くの人が発言している。

  しかし、彼は「生長の家」の大調和すら出来ていない人間ですから、それを云うのも本来憚るものであろう。しかし現在の独裁地位にアグラをかいでいる以上、どうすることも出来ない。だから、日時計主義でも出来ない彼が最終的にとった行動が「より左翼的」になる言動である。 それにより自分の主張を正しいと思わせる錯覚が招いた結果が左翼に投票を呼びかけた言動である。

 これでは信徒は更なる減少である。 この総裁の地位を自ら辞職するようなことはありえない。また考えが変わるようなこともない。期待しないほうがいい。更に悪くなる方向へ今後行くだろう。 それならばどうすればいいのか検証する必要がある。

 ①大東亜戦争侵略論の間違い
②谷口雅春先生も間違っているという論への再検証 
 ③愛国論への回帰の必要性・谷口雅春先生のあゆみ
④法灯継承への再検証
⑤谷口雅宣という人間性
⑥「菩薩は何を為すべきか」第9条の間違いの検証

ここに書いているのは総て総裁の間違いとしての検証である。これをやらなければ生長の家の未来はない。

総裁としての上記の根拠の間違いを指摘しなければならない。
先に①大東亜戦争侵略論の過ちを指摘する必要がある。

『耿耿の言』

先日私のブログで『動向』という雑誌に谷口雅春先生がご寄稿された文章を目次だけでしたが、記入致しました。
多くの人が気付いて欲しかったのですが、私の文章を更に追加しました。

谷口雅春先生の御寄稿のご文章を追加致しました。
何故、この『動向』誌のご寄稿を触れたかといいますと。谷口雅春先生の自らご文章を書かれたのは『碧巌録解釈』とこの『動向』です。昭和58年ともうしますと、何も先生自らご著書を出版されておられません。この年は生政連が活動停止された年でもあります。その時に敢えてこうした御本を出されたということは何か考えられてのことだと理解しています。
その二年後にご逝去されます。
その中に「耿々の言」という言葉があります。

耿々(こうこう)というのは、気にかかることがあって、心が安らかでないさま。

雅春先生は二年前には気にかかって、心穏やかではなかってことが、この文章に現れています。
私もこの耿々という言葉に泪する。しかし今はこの言葉は遥かに遠くになってしまっている。

その「耿々の言」とその年にご寄稿された文章を是非比較していただきたい。

『耿耿の言』動向5月号より抜粋
暴力から合掌へ-学内暴力の一掃策       谷口雅春

毎朝わたしは神前に坐して『甘露の法雨』又は『天使の言葉』の如き生長の家の聖経を朗読することにしているのである。その聖経の中に「一つの物体(光源)の周囲に百万の鏡を按きて相対せしむれば百万の光を発せん。人は神より発せる光であって甲乙丙丁互いに相分れて別々の存在と見ゆれどもすべてなる一つの光源の反映であって、本来一つの光であって、すべて一体であるからその実相を自覚すれば互いに愛と讃嘆の念湧き起こらん」という意味の事が書かれているのである。それを読みながら近頃、頻々として起こっていることが報ぜられている教師と生徒たちとの間に於ける反感や暴力沙汰は、この真理を互いに自覚すれば、教師と生徒との間に起る反感や暴力沙汰は自然に消えてしまうのに!!と思いながら、日本の文部大臣にこれ位のことがどうして出来ないのかと嘆息の溜息を吐いたのであった。

教師と生徒とが一つの大生命(神)より発した光であり、互いに兄弟姉妹であり、互いに愛と讃嘆の念が起るならば、教師と生徒との間に起る暴力の原因が消えてしまうのである。
こんな簡単明瞭な真理がどうして現代の教師にも生徒にも解らないだろう。すべて教師と生徒との両者に生長の家の説く真理を会得さしてしまえば、それで万事はOKである筈である。それが出来ないのは皆な唯物論者であって、互いに神性を拝むということを知らないからだ。
そう思ったとき、私はもう数十年も前の事であるがこんな記憶があるのを思い出した。大阪の難波の駅から急行電車に乗って和歌山へ行くことになっていた。その時信徒の人たちが多数私を見送りに来て、皆々私の方を向いて合掌していた。私も見送りの人たちに向かった、列車の窓に両肘を突き窓から半身を乗り出すようにして合掌していた。肉体の形が合掌しているのではない。互いの魂が相互に合掌して礼し敬しているのである。
その時、ひとりの男の人が私のいる列車の窓口へつつと近づいて来て、私を合掌して拝んだ。そして云った。
「私は今日、刑務所から出て来た者であります。娑婆へ出て来たけれども、どうして今後生活すれば好いか見当が付かないのでした。しかし私は先生の合掌していられるそのお姿を拝しました。そして私は今後どのようにして生活すればよいかを知らして頂きました。」
私は列車の窓から腕を突き出して、その男の掌を握った。「兄弟よ、あなたは神の子である。如来である」と私は心で念じた。

 今、日本の諸方の学校で起っている校内暴力はどうして起るのであるか、総理大臣も文部大臣も唯、拱手傍観していて、「暴力者は悪い奴である」と念ずるばかりで為すべきすべを知らないらしいのである。そしてこの暴力沙汰を引き起す原因については何ら御存知ないらしいのである。本当の暴力の起る原因は教師の「心」の中にあるのだ。
(註)その暴力者を「悪い人である」と念ずる教師自身の「心」の中にあるのだ。

 現在、学校で教職についている先生方は自分の知っている知識を生徒に授けるのが教職者の仕事であるとのみ思っているらしい。授ける”“受けるの立場に立って、先生と生徒の関係は、上位と下属との関係であると漠然と思っている先生が多いのではあるまいか、なまけていて進歩の少ない生徒は劣等の人間であると、先生はその生徒を軽蔑する。生徒は教師の自分に対する軽蔑を先生の表情又は雰囲気で直感する。生徒はこんなとき先生より霊感的であり、先生の軽蔑心をすぐ直感的に身を以って体感する-何クソと生徒は先生に反感を起すのだ-もうこうなったら正しい教育は成り立たないのである。生徒は先生に対して敵意をもつ。生徒の教師に対する校内暴力は此の敵意のあらわれであるのだ。

 私は老齢既に卒寿を超えて脚腰の動作が不便であり、坐位でも椅子でも直立でも、相当時間一定の姿勢をつづけて講義することは勿論、執筆すらも長くつづけることができない。
併しもう少し若かった頃公会堂その他の大会場で、皆に話すために演壇に立った時、いつでも聴衆に向かって私は低身合掌して「皆さん、ありがとうございます」と先ず礼拝の言葉を演べた。私は講演するとき、相手を見くだして教える心で立ったことはない。
皆な拝む心で演壇に立てば、皆なが話者を拝んでくれるのである。演者は別にその効果を期待して、聴衆を合掌して拝んでいるのではない。真理の講話を話しに来る者、またそれを聴講に来る者、倶に深い因縁のあることである。

 学校暴力とか校内暴力とか云う乱暴な出来事が起るのは、教師も生徒もその深い因縁に気付かないで教師が、生徒を拝む心で講壇に立つのではなく「万が一の事が起った時には護身のために必要だから」と理屈づけして、教師の方がポケットに護身用ナイフを忍ばせて演壇に立つからである。即ち、相手を傷つける想念は隠し持ったる護身用具に随伴する。
想念は造る心であるから、自分の予想するものが形の世界にあらわれて来て、自分を傷つけ又、相対する相手を傷つけることになるのである。

 私は中学時代大阪市岡中学で学んだのであるが、教師は演壇にたったとき、生徒総代又は級長が号令をかけて「先生に礼拝・・・・直れ」などと音頭をとって「形式的に敬礼」させるのでは軍隊式で、形式が先に立って「先生に礼拝する」ごとき魂で恩愛を感じて自然にお辞儀が出てくるのとは違って、強制される礼儀形式ばかりが先に立つ。生徒の中にはそんな形式的な命令に従ってお辞儀をさせられる事は、自由を縛る束縛だ」と反感を懐きながらお辞儀している者もあっただろうと思うが、私もそれ等生徒の一人であった。尤もその時代の中学生と先生とは、弟子と師と云うような階級的な次元に於いて対立感情で向かい合っているのではなかった。儒教的な「三尺下がって師の影を踏まず」という「礼」の秩序性が表現されたものであって、先生と生徒とは互いに共学の研心の同朋であった。

 相互は、学校の授業時間だけに於いて共学研心の同朋であるだけではなく、学校の授業を了えて校外に出ても、先生と生徒とは何らかの意味に於いて研心の同朋であった。あの時代の中学教師と中学生との精神関係を喚び戻すことが出来れば楽しいと思う。私は数学の時間に幾何や代数の問題で先生に屁理屈を云うと、先生は「もう谷口にかかったら負けだ」と笑いながら云った。尤も、それは同様な性格をもつ先生と生徒とである場合に於いては一層、この事実は研心の同朋たる人間関係を明らかに実現していたように今でも思う。今でも先生と生徒との関係が愛情によって結ばれていたことをなつかしく思う。

「図書資料館分館」

谷口雅春先生著作年譜も一応目処もたち、これからは谷口雅春先生の志を受けて活動されておられます。「生長の家社会事業団」の「図書資料館分館」として活動していきたい。
ここでは、大本時代から現在までの資料が見れます。

たとえば、『神霊界』の雑誌や『亀岡叢書』『一燈園に送られた谷口雅春先生の書物』などが見られます。

もちろん「谷口雅春先生」の書物を中心に見ていただきたと思っています。
また、曜日とかを決定して駅での待ち合わせとなりますが、そういうことも実施していきたい。
ここでは自由に見れるほか手で触ることも出来ます。

如何にして雅春先生がこの「生長の家」を立教されたかを学んでいただきたい。


谷口雅春先生著作年譜の完成(一部未完成)

谷口雅春先生著作年譜表が中途ですが、一応目処を付けて来週には完成します。
中途というのは『新編 生命の實相』です。
これが片付かないと整理出来ないのです。
平成24年1月1日から現在まで20巻ですから、65巻まで待っていられない。
部数はとりあえず10部のみ作成します。

著作年譜と書いていますが、詳細まで記入していますので本当に見られた人はびっくりされます。
それは確認に時間をかけて作成しているからです。


足掛け40年、御協力いただきました皆様には深く感謝申し上げます。
ここに記入させていただいているのは著作年譜だけではなく、この冊子は谷口雅春先生の歴史だと思っています。もちろん『生長の家五拾年史』には当然叶いません。
ただ個人で脚を運んだりしましたので、ボランティアですから大変でした。


著作からの歴史を記入しています。これを欲しいという人は何人もいました。今までこのブログで提供させていただいたりしましたが、網羅していない部分もありました。その頁数は小さな字ですが19頁です、国際的な歴史表と見やすいようにしています。

この著作を作成するにあたり参考にした資料は莫大な数にのぼります。
ただ、この作成にあたり一番協力でなかった所が生長の家教化部でした、資料等は一切見せられないということで苦労しました。
それ以外にも名前を列挙させていただきたのですが、すいませんが割愛させていただきました。
また、立教時代の人や戦前の先生、戦後まもない頃の青年会の先生などいろんな人とお会いして作成しています。

今回の資料とは別に島之内教会など行ったりしました。
また烏原水源地などにも何回か脚を運びました。
何故、この地で生誕しどうして生長の家を普及しようと決意されてのかを自分なりに探求しました。
今回はとりわけ雅春先生の著作を中心とした歴史をみていただこうと思いました。

また、『皇道大本と谷口雅春先生』の冊子も完成させようと思っています。
先日のブログで谷口雅春先生のお言葉として皇道大本に入信する前から、忠君愛国の青年だったということを記入させていただきました。

そうした「生長の家」の歴史というのは現在は失われています。
その歴史を復興する足がかりは谷口雅春先生はどのように言われておられたかということです。

それを今後記入していきたいと思っています。


今回の作成にあたり参考とした資料の一覧
※『生長の家』30年史
※『生長の家』40年史

※『生長の家』50年史

谷口雅春先生九十年の足跡』

※碧巖録解釈

※歴史から何を学ぶか

※光明圖書目録(昭和17年発行)谷口雅春全著作集 附、光明讀書群の規約
※生命の實相の分類的研究

※谷口雅春先生九十年の足跡『神は愛也』

※光明生活シリ--2  日本教文社図書目録
※光明生活シリ--4  日本教文社図書目録
※国立国会図書館
※『社会運動の状況』内務省警保局昭和11年~17
※日本教文社コンテンツ一覧表
※『神は愛也』
※『私の日本国憲法論』
※『天皇陛下を讃える』
※『生長の家50年史』
※『生長の家の火をかざして』
※永遠の谷口雅春先生
※『天皇陛下 全記録』山本七平著講談社
※『読める年表 日本史』自由国民社
※大本資料館
※生長の家温故資館
※一燈園資料館
※永井古書店
※ユニチカ株式会社歴史年表
※西野田工科工業株式会社
※春日出小学校歴史年表
※市岡高校歴史年表

目次は下記の内容です。

はしがき            -----------------------------------------------------------------   3

挨拶              -----------------------------------------------------------------     3

挨拶             -----------------------------------------------------------------    5

谷口雅春先生著作集年譜------------------------------------------------------------   8

著作年譜の注釈          ----------------------------------------------------       54

立教以前の御執筆と御寄稿著作集

   谷口雅春先生の摂津紡績退職後の御寄稿 --------------------------    62

谷口雅春先生の御文章 大本時代『神霊界』------------------------       62

谷口雅春先生の御文章 大本時代『神の國』・『光』 -------------   64

『心霊界』・『心霊と人生』---------------------------------------------------  66

『生活者』--------------------------------------------------------------------------  67

『新時代』綜合雑誌 主幹・杉中種吉、新時代社 鳥谷部陽太-----         68

『兄弟通信』『霊光』『炉辺者』-----------------------------------------   69

『大本新聞』における谷口雅春先生の御文章-------------------------------     71

谷口雅春先生の帝都日日新聞(やまと新聞)・中外日報・新日本春秋の御寄稿  73

『民族と政治』に御投稿の御文章 ------------------------------------------------------  74

谷口雅春先生の『動向』の御寄稿----------------------------------------------------      74

谷口雅春先生の『在家佛教』の御寄稿---------------------------------------------   75

谷口雅春先生について書かれた本・論評 ---------------------------------------   75

月刊誌の変遷  ---------------------------------------------------------------------     76

谷口雅春先生の投稿及び寄稿された雑誌---------------------------------------           77

聖経、『生命の實相』の内、翻訳出版配布されたもの---------------------          77

本のサイズ  -------------------------------------------------------------------------     79

本の構造と名称-----------------------------------------------------------------------          79

谷口雅春先生年譜--------------------------------------------------------------------     81

『生命の實相』の戦前版と戦後版の比較(新修普及版・新修特性製版)        100

『新編 生命の實相』(左)と『生命の實相』頭注版(右)との比較(修正中)110

『生命の実相』の目次一覧表 -----------------------------------------------------          120

◎『生命の實相』(縮刷要典版第一巻)---------------------------------------     121

◎『久遠の実在』(縮刷要典版第二巻)---------------------------------------     121

◎『生命の実相』黒布表紙版 20巻(戦時廉価版十五巻含む)----------         122

◎『生命の実相』革表紙版(総黒革版・3方金)縮刷豪華版---------------          127

◎『生命の実相』豪華大聖典-----------------------------------------------------       131

◎『生命の実相』大聖典(縮刷中聖典)---------------------------------------        134

◎『生命の実相』事変版ビロ-ド表紙版      -----------------------       136

◎『生命の実相』人造羊皮版           ---------------------        137

◎『生命の実相』本菊判装 (菊版)  --------------------------------------      141

◎『生命の實相』満州版--------------------------------------------------------------     147

◎『生命の實相』携帯版叢書 (聖経附)-------------------------------------          149

◎戦後版 新修普及版『生命の実相』20--------------------------------------     153

◎戦後版 新修特製版『生命の実相』20

布装携帯版『生命の實相』 (全40巻)

◎頭注版 『生命の實相』(全40巻)

◎豪華携帯版 『生命の實相』(全40巻)

◎愛蔵版 『生命の實相』(全20巻)

豪華版 『生命の実相』20巻各版------------------------------------------------      158

◎『生命の實相』戦後版豪華革表紙  地の巻-------------------------------------        165

◎『生命の實相』戦後版豪華革表紙  水の巻------------------------------------       166

◎『生命の實相』復刻版------------------------------------------------------------      170

◎『久遠の実在』復刻版----------------------------------------------------------         170

◎新編『生命の實相』 ---------------------------------------------------------          171

谷口雅春先生の御文章-----------------------------------------------------------------      181

『生命の實相』大聖典物語--------------------------------------------------------       182

耳寄りな話------------------------------------------------------        185

『耿耿の言』---------------------------------------------------         190

谷口雅春先生を讃仰する---------------------------------------          194

お願い-----------------------------------------------------------       197


雑誌『動向』のご寄稿の目次

谷口雅春先生の御寄稿のご文章を追加致しました。
何故、この『動向』誌のご寄稿を触れたかといいますと。谷口雅春先生の自らご文章を書かれたのは『碧巌録解釈』とこの『動向』です。昭和58年ともうしますと、何も先生自らご著書を出版されておられません。この年は生政連が活動停止された年でもあります。その時に敢えてこうした御本を出されたということは何か考えられてのことだと理解しています。
その二年後にご逝去されます。

その中に「耿々の言」という言葉があります。

耿々(こうこう)というのは、気にかかることがあって、心が安らかでないさま。

雅春先生は二年前には気にかかって、心穏やかではなかってことが、この文章に現れています。
私もこの耿々という言葉に泪する。しかし今はこの言葉は遥かに遠くになってしまっている。

『民族と政治』に御投稿の御文章

昭和47

昭和48

昭和49



 

11月号

11月号

3月号

2月号



4月号

5月号

6月号


 

『日中正常化をめぐる諸問題』

『自衛隊違憲判決とマッカ--憲法の本質』

『石油危機を国革まるの契機に』

『党略の政治より愛の政治へ―田中総理の政治姿勢

の転換に期待す』

『日本存亡の鍵を握る自民党』

『日本革命の前哨戦としての今回のゼネスト』

『教育制度の改革よりも先ず教育勅語を復活せよ』







27頁~32



11頁~16

15頁~22

16頁~20


 


 


 


 

谷口雅春先生の『動向』の御寄稿

昭和43

4月号(通巻1270号)

左翼が独占する出版言論

14頁~15

2

昭和44



 

2月号(通巻1280号)



 

わが国の国号は"日本国"にあらず大日本帝国である

24頁~29



 

5



 

昭和44

12月号(通巻1289)

虚妄の世界に生きる評

43頁~43

1

昭和45

12月号(通巻1299号)

占領憲法の与えた精神的公害

40頁~43

4

昭和52



 

7月号(通巻1370号)



 

無明縁起の仏教より転じて光明縁起の仏教創造

31頁~37



 

8

昭和57



 

11月号(通巻1423号)



 

内外の蒙をひらく日本は侵略国ではない (武藤貞一氏共同執筆)

4頁~16



 

13



 

昭和57

12月号(通巻1424号)

耿耿の言――教科書に誇りを

24頁・25

2

昭和58

1月号(通巻1425号)

耿耿の言百年河清を待つ可らず(述)

36頁・37

2



 

新春号(通巻1426号)

耿耿の言――離婚の激増に思う(述)

28頁・29

2



 

4月号(通巻1427号)



 

耿耿の言中川一郎氏を死地に堕したものは誰か-このように私は推理する

22頁~24



 

3



 



 

5月号(通巻1428号)



 

耿耿の言―暴力から合掌へ学内暴力

の一掃策

22頁~27

6



 

6月号(通巻1429号)



 

耿耿の言―“家”とは國家存在の中核を成す“純粋理念”

26頁~28



 

3



 



 

7月号(通巻1430号)

耿耿の言―三世一如の真理 現代の日本には本当の意味の教育はない

20頁~24

5



 

盛夏号(通巻1431号)

耿耿の言―啐啄同時の教育

24頁・25

2



 

10月号(通巻1432号)

ダウィンの進化論の否定碧巌録解釈の一節

14頁~18

5



 

11月号(通巻1433号)

天災頻々たる時、天地の声を聴いて静思

せよ

10頁~16

7



 

11月号別冊(通巻1434

武藤氏の本のために

6頁~7

2

歴史を考察する

日本人のための国史叢書

●民族の生命の流れ/村尾次郎(上下巻)

●満州事変/中村菊雄

●大アジア主義と頭山満/葦津珍彦

●戦記物語の女性/浅野晃

●維新前夜/荒川久壽男

●明治維新/鳥巣通明

●建武中興/久保田収

●平安時代の文化/森田康之助

●僧兵と武士/平田俊春

●安政の大獄/永江新三

●戦後の精神史/原敬吾

●中国から見た日本/河上光一

●伊勢の神宮/田中卓

●日露戦争/藤井貞文

●東京裁判/瀧川政次郎

●上代の日本人/森田康之助

●水戸光圀/名越時正

●天皇と国のあゆみ/肥後和男

●大化の改新/時野谷滋


上記が「日本人の為の国史叢書」ですね。

あと『大東亜戦争』林房雄はみたことがありませんので教えて下さい。
『神武天皇』保田與重郎・『平清盛よ源頼朝』貫達人も教えて下さい。
出版されたのかどうか?
当初30巻を予定していた。途中どうなったか知らないが、頓挫しているようです。

こういう歴史書というのを是非発刊して欲しい。
また、以前に歴史について考察した文章があります。読んでください。


歴史というのを「生長の家」で勉強しなくなって久しい。
谷口雅春先生著『真理は人間を解放する』のなかで先生は「青年よ、日本の歴史を知れ」で

ところが第二次世界大戦になりまして、学校で教える日本の歴史書というものが非常に変わってきた。かつては、『古事記』『日本書紀』等をに基づいたところの「日本の歴史」が教えられていたんです。

たしかに『古事記』や『日本書紀』に書かれておる通りの事実が古代において事実あったかというと、やはりそれは間違いで、事実とちがった記述がありましょうが、それだからといって「倭人伝」の方がずっと正確かというと、そうでもない。だからトィンビ-がいっているように、「昔のことはよくわからないが、少なくとも日本国民はこのような理想をもって国を建て、このような理念をもって統一国家をつくり、われわれは万世一系の天皇を置いて繁栄してきたのである」ということをはっきりと正しい歴史観に基づいて伝えるべきであるわけです。

そうして、外国の歴史書のことも参考にするというのがいい。ところがそうではなくて、何事にもよらず戦前の歴史教育はみな偽りであるという観点に立って、日本国は戦争に敗れたように見えるが故に、かつての軍国主義は、かつての歴史観の然らしむるところであるというような独断をもって、昔の歴史観を全部打ち破って、今度は『魏志倭人伝』のようなものに全面的に基づいた邪馬台国というものを設定し、そこから日本歴史を解きあかしていくというようなことが行われてきたわけであります。

日本の一部の国名にどうしてこんな「邪馬台」というような汚らしい字をあてはめなければならないか。邪(よこしま)な馬の台というような字をわざわざあてはめなければならない歴史観に一つの大きな歪みがある。これはおそらく大和(やまと)のことなんでありましょうけれども、しかしこの邪馬台国というものが一体どこにあった国のことであるかということについては、今では歴史家ははっきり断定することができないのであります。
もしこれが日本国全体のことであるというように断定する人がいたら、それは少なくとも歴史の資料に忠実でないということだけは言える。なぜなら今の歴史学者たちもこれがどこの国のことであったか正確に知り得ていない。そうはっきりと断定することができないのです。
ある者は「大和」のことであろうという。又卑弥呼という人が誰であるかということも、今の歴史学では断定できないのであります。

もし卑弥呼が誰々であると断定している人があるとすれば、それは一種の飛躍をしているのであって、どこにおいて資料を超えて「こうだろう」推測しているだけの話であって資料は正確に何も指示してはいないのであります。
例えば『魏志倭人伝』によりますと「南へ南へ下って行ったら邪馬台国がある」というふうに書いてあって、南へ南へ下っていくと、対馬から北九州のところへ上陸することになるが、そのへんには邪馬台に近い発音の山門(やまと)というところもあります。
とにかく記録によると北九州にまでは来たらしいのですが、更にそこから南へ南へいくと鹿児島県の方へ行ってしまわなければならないが、そこに邪馬台国があるというように記録してあるのであります。

それを東へ行ったことに訂正しないと近畿の大和の国には到達しないんですね。
だからこの記録に基いて考えると邪馬台国はどこにあったかというと、鹿児島か日向の方にあったということになるが、しかしその地方にはその当時そんな文明は開けていなかったらしい。
そこで魏志の記録そのままに即応する国はなかったということになるから、もし『魏志倭人伝』に書かれている邪馬台という国が日本が大和である為には、この記録が少々書き直さなければならないわけです。

従ってこの国はどこにあった国かということは歴史的には断定できていないんであります。そこで二つの説があるわけですね。
邪馬台国は九州にあった国で、小さな一つの部族国であったんだろう。
国といったってその当時の国はまあ一つの酋長が勢力範囲を持っているのが国といわれてそういうところがあったという人もあるし、いやそうではなくてこれは大和の地において実際に出現していたかなり統一的色彩をもっていた日本国のことをいったのであろうと言う人たちと対立している。
しかし実際の事実としてはおそらくどちらであるかはわからないだろう。けれどもそもそも歴史的事実というものは古代のことになると、非常にぼんやりしたものであって、明確には把み難い。そのぼんやりしているものを「日本の国の歴史」と銘うって著述をするということになりますと、著述の仕方によっては色々誤った印象を人々に与えることになる。

日本の古代の歴史というものはこういう風にぼんやりしたものであるんだ、大体過去の歴史というものは非常にぼんやりしたものであるんだということを自覚している人にはそういうふうに説いていったらいいんですけれども、しかしそうではなくまだ幼い小学生や中学生のような人たちに対して説く歴史の書き方が歪められてくるということになるととんでもないことになる。
しかるに一部の日本人を劣悪視したい人々は、こういう野蛮国が日本の国であったんだというようなことを強調したりするが、邪馬台国は日本のごく一部であったかもしれないし、それを歪めて歴史であるとも言えるのに、そういうものがほんとうの全日本の過去の姿であったんだというふうに独断的に歪めて書く歴史書が屡々登場してくるのであります。
中略

そうして多くの人は日本国というのはかつては野蛮国であったんだというようなことを考えて劣悪視し、あるいは日本の『古事記』『日本書紀』に書かれているところのよき姿を、全部インチキなんであり、『古事記』は天皇家を盛り立てていく為の謀略として編纂されたところの作り物語にすぎないのであるというような歴史観を持ち、自国軽視の誤った考えを持った人々を養成し、そうして日本国に生まれるよりは他の国に生まれた方がよかったというようなことを公然と言うところの少年たちをつくりあげてきたのであります。

これはたいへんな間違った教育であるといわなければならないのであります。
そんなことは世界のどこの国においてもおそらく今だかつてなかったような恐るべき自己虐待の教育であります。どこの国の国民も自分の国のすばらしさや、自分の国の偉大な建国の精神というようなものに対しては誇りをもっており、その誇りの下にみんなで立派な国を作っていきましょうといって努力している。
祖先の目指したすばらしい目的に向かってわれわれは前進していこうではないかといって国造りをやっているのが現実の世界各国の姿なんですね。


今や『古事記』や『日本書紀』や『万葉集』すら勉強しない人々が多い。「言葉」(ことのは)『緑の日本列島』という林房雄著がありますが、こうした緑の国の日本は『古事記』や『日本書紀』の息吹がながれているのであります。八百万の神々を畏れ敬い。木々を大切にしたからなのです。それを忘れて「環境」だと言われても駄目なのです。
日本の歴史を学び、尊んでこその環境であります。

 

青少年練成会の思い出

トキさんの下記の話では夏季の青少年練成会では参加者が減少しているようである。
何故、そうなるか。
信徒の減少と生長の家を退団とそんな左翼思想に行かせられない。
信徒のなかにはそんな理由があるかもしれません。
私たちの時代は青年局が運営したのが、中学生と高校生です。教区で青年会が担当したのが小学校錬成でした。青年局が担当といっても、講師として来られるだけです。それとプログラムです。あとは教区青年会が行います。

勉強錬成は生命学園の学校の先生におねがいしたりしました。

それぞれ、青年会が担当といっても中学生は高校生が班長となり、高校生は大学生が班長となります。

食事運営も青年会の女子部が担当していました。ただ、小学生錬成はあまりにも人数が多いので白鳩会にお手伝いをお願いしていました。

小学生練成で400名を超える人数が集まって本当に大変な思いをしたことがあります。それから低学年と高学年を分けたことがあります。

また、薫英短期大学で練成会をさせていただいたのが、楽しい思い出でした。薫英の小川先生にお願いしてさせていただいたことは、いい思い出です。
これからこんなことないと思っています。

また、浄心行を学校の屋上でしたのですが、近くで祭を行っていて盆踊りの曲とともに浄心行を行ったのがなんともいえないくらいおかしく、失礼ながら、笑いながらしました。


3817
トキ ◆UMw6UoGELo:2016/07/26(火) 20:10:06 ID:I/ePceUU
 私の教区でもそうですし、他の教区の人からも聞くのが、夏季青少年練成会の参加者が激減している、という話です。
夏季青少年練成会はもともと青年会の担当でしたが、青年会が壊滅状態になって以後は、白鳩会が推進や運営をしていました。その夏季青少年練成会が減りだしたということは、いよいよ白鳩会も組織的な崩壊が始まったことを意味します。

 白鳩会が崩壊したら、もう、生長の家は人材をなくし、後に残るのはお金や建物だけになります。
退会した信徒は行き場を失い、右往左往すると思います。

 それで、今、こういう掲示板を運営していて思うのですが、例えば、講師が退会した場合などは、自分一人が自宅で本を読んでいれば良い、という発想ではなく、何か自主的な動きをすべきかと思います。

 自宅を開放した勉強会でもいいですし、公共の場所を借りて定期的に「生命の実相」の勉強会を行い、こちらの掲示板でも本流系統の掲示板でも良いので、開催の日時、場所、内容、費用などを告知したら、来る人は来ると思います。

 もともと、生長の家は、拝読して感激した各地の信徒が、自発的にその場その場で仲間を集めて組織を作ったのが発端です。それが後年になり本部が強権的になり中央志向を強めましたが、それが今日の組織の混迷の原因であると言えます。

 講師や役職者の皆様が退会した場合は、だいたいが「谷口雅春先生のご遺志に背けない」というのが理由のはずです。
だとしたら、その場で何かするのが、谷口雅春先生のご遺志にそうことかと思います。

受け皿とは器の口です。

破邪顕正さんはしきりに”受け皿”に学ぶ会はなっていると言っているが、私は「井の中の蛙大海を知らず」であると感じている。

確かに頑張っておられるのはわかります。

ただ、自分の範疇でこれだけしているから大丈夫だと思っているだけのように感じています。

どうして”受け皿”という確証があるというと数字に出てこない。生長の家の教勢の推移から何人退団して、「学ぶ会」にこれくらいの人数は把握している。しかも「学ぶ会」として、どれだけの”受け皿”になっているかを発表しない。
勿論、生長の家の体たらくで自ら退団に追い込んでいるので「学ぶ会」に入信している人も増えている。

私も長い間、運動の渦中で頑張ってきた、しかしいつも言われたのが、満足すれば組織は終わりです。厳しいようだが、常にそういうことを言われて育ったせいか、組織運動で満足などしたことがなかった。

常に”これで本当に光明化運動をしているのか”
自分の地域で自殺者を排出しているんじゃないか。堕胎している女性がいるではないか。本当に救われている人は少ない。もっと会員を拡大して”受け皿”になりたい。受け皿”が少ないことに嘆いたことが多かった。

器というのはこれでいいと思った時点でそれ以上器の口は広がらない。

「天皇信仰」を踏み躙る著者を推薦本にするとは

歴史観というと難しく聞こえるかもしれない、今回谷口純子氏が今までの生長の家谷口雅春先生に教えいただいた「天皇信仰」を踏み躙る行為と発言を繰り返している。


生長の家は発足当時から「天皇信仰」である。それは教義に定められそれを基本とした「中心帰一」という揺るぎないものがある。


生長の家の天皇信仰の根源というのは戦前の昭和15年「宗団法による宗教結社届解説『生長の家』誌第輯第十一号所載」に最初に記載されています。

それによりますと

宗教団体法第三十六条に依り宗教結社として届出の生長の家の概略左の如し

生長の家宗教結社届(抜粋)

名称 教化団体 生長の家

教義の大要

「国体を明徴にして皇室の尊厳を明にし、各宗の神髄を 天皇信仰に帰一せしめ、尽忠報国、忠孝一本の国民精神を昂揚し悪平等を排して一切のものに、人、時、処、相応の大調和を得せしめ、
兼て天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す」(後略)


ここに記入のある「中心帰一」はあくまで「天皇陛下に帰一」である。


そこでですが、私は実は谷口雅春先生は大本以前の考えは西洋文化に傾注されていたと思っておりました。日本的なるものは皇道大本からであると考えていましたが、実は雅春先生の根底には日本的なるものが大本に入信する前からあったのです。


【その頃、日本には、大本教といふ新宗教が大いに宣傳してゐる時代でありました。

 当時私は民間のあらゆる精神療法、或は心靈療法といふものを漁り歩きました結果、一つの原理に到達したのであります。それは肉體は心の影であるといふことだったのであります。そういふ風な通俗的に誰にでもわかるやうな表現はまだしてをりませんでしたけれども、心を變化して肉體が治ると云ふ事實、術者が念力を凝めると患者の病状は變化を起すと云ふやうな事實を體験いたしまして、かうした事が出来るのは肉體は心の影であるからだと結論するに至ったのであります。

釈迦が『物心一如』と云ひ『三界唯心』と云ったのは、是なんだと考へたのであります。併し、心靈療法で人の病気を治してあげても、それが一時は治っても再發したり、交替に別の家族が病気したりして、今生長の家のやってゐるやうに家族全部が健康になって了って五年も十年も醫藥を使はないやうになるなどと云ふことは出来なかったのであります。…中略…

国家のため、君(きみ)のため、忠君愛国のためになる運動をと思って投じてゐました大本教がさうでないと云ふことになりますと、私は生き甲斐が感じられなくなって来たのであります。もう人に會ふのも嫌な日が續いて来ました。身體は弱くなる、家内は心臓病にかかる、私は全く生き甲斐のない生活を送ってゐました。大本教の神は神罰として人間に禍を與へたり、火の雨を降らしたり、病気を與へたりすると、筆先に書いてありましたが、私はもうさう云ふ神罰の神、復讐の神を信じなくなったのであります。病気は神が作らない、自分の心が自分で病気を拵へ、不幸を拵へるものだと云ふことが段々はっきりしてまゐりました。三界は唯心の所現なのだ。(『生きる道』頁306311)】


このようにして大本教を入信したのは忠君愛国という為になるために身を投じたが、神罰の神、復讐の神で生き甲斐が感じられなくなったと書いておられます。

大本教に期待したことは

心霊研究と『彗星』

《私は心霊治療や催眠術の研究を始めました。心の作用で物質(肉体)が変化する。私は此の事に興味を覚えたのでありました。そして貧民が多く貧民であるのは病気に罹って医療費を要するからだ、若し心で肉体が変り、病気に罹らなくなれば人間は貧民になる原因の大部分がなくなると思ひました。

 その頃、日本には、大本教といふ新宗教が大いに宣伝してゐる時代でありました。当時私は民間のあらゆる精神療法、或は心霊療法(註、太霊道や健全哲学や渡辺式心霊療法や耳根円通法等)といふものを漁り歩きました結果、一つの原理に到達したのであります。それは肉体は心の影であるといふことだったのであります。さういふ風な通俗的に誰にでもわかるやうな表現はまだしてをりませんでしたけれども、心を変化して肉体が治ると云ふ事実、複音が念力を凝めると患者の病状に変化を起すといふやうな事実を体験いたしまして、かうした事が出来るのは肉体は心の影であるからだと結論するに到ったのであります。釈遊がヽ「物心一如」と言ひ、「三界唯心」と言ったのは、是なんだと考へたのであります》(「生き甲斐のための手紙」第三信)

また輝子先生は

【その頃、夫は大本教の教に疑問を持ちはじめられ、信仰に動揺があった。
間もなく、大本教の第一次事件が起った。先きに亀岡の矢田町にいた頃、夫の留守中に家宅捜査を受け、天井裏から床下まで調べられたが、夫の思想や行動に不審な点がなかったので、第一次事件の時は、夫は取調べを受けることはなかった。

それどころか・大阪控訴院から、当時押収された大本教租のお筆先二万冊の内容調査を依頼された三人(谷口、江上、吉田)のうちの一人として、夫は四十日ほどの間、大阪の控訴院通いをすることになった。
 夫の留守の四十日を、一人淋しく暮すよりは、故郷へ帰った方がよいと思い、私は姉に手紙を書いた。
姉にとっても、私が来てくれることは好都合だったらしい。夫は大阪へ、私は富山県高岡市へと、別れ別れに汽車に乗った。(『人生の光と影』)】


ここには確かに国家の為、忠君愛国とか書いていませんが、大本入信後には文書の才能を現し、また講師として演壇に立って講話を行っています。その当時谷口雅春先生は二十七歳という若さで人気もあり、当時の輝子先生は「黒板に歴代の天皇のお名前を暗唱しているだけではなく黒板にスラスラと書いておられたとどこかの本に書いておられましたので、忠君愛国という気持ちは確かだなと思った。


さて、その後はご存知であると思いますが、生長の家は愛国集団として戦前、戦中、戦後と一貫してその精神は普遍でした。

雅春先生、輝子先生は大本教にいる時は身体が弱く、輝子先生は心臓弁膜症にかかって寝込んでしまった。

日本の歴史を知らずに左翼的な本を推薦し、谷口雅春先生の教えを蔑ろにして、天皇制を否定するような人物の書物を推薦するとは嘆かわしい。

島薗進氏に至っては

【「美しい日本」を唱える首相が出て困惑している人も多いと思うが、それは「天皇崇敬のゆくえ」を危ぶむ気持ちと通じている。天皇崇敬を国の柱にしようと力こぶを入れて、その結果、國を滅ぼした、その経緯をしっかり学び直す必要がある。これは文化の問題であり、宗教の問題だ。日本人の心の落ち着きどころをよく振り返ってみることにも通じる。】

島薗進ゼミ「天皇崇敬と愛国のゆくえ」より


天皇陛下を仰慕することさえ否定している、「天皇信仰」と相容れない真逆の思想である。信徒はどうして怒らないのであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カルトとは

 下記にトキさんの文章がある。その内容は堀(掘ではありません)さんという人物です。生長の家では特殊な人物でしょう。それでも宇治で榎本恵吾先生の指導を仰いでいてと聞いています。トキさんが書いているように神奈川教区で安東先生が教化部長時代に何かがあったか知らないが、何時も文章が不思議である。下段にその不思議な文章を掲載しているが、選挙中にも関わらず特定の政党を呼びかけるなどオイオイと言いたくなる。



確かに安東先生、森田先生の反発というより、『百万運動』への敵愾心というのは確かに大阪でもありました。

 まずは、当初『百万運動』を提示された時に初期で青年会を脱退した人、次に途中で運動の厳しさで辞めた人。

それでも最後まで続けたが、『百万運動』にはいい印象を持っていない人。



様々とあるが、運動にはそうしたことが付き物のような感じがする。

生長の家の内部でも、自分の考えと異なる人達を排撃し口撃するような言葉は「原理主義者」であり「スリ--セル」と排他的な言動を繰り返す。

私は「谷口雅宣総裁」という人物はカルトであると以前から言ってきた。

カルトの定義には

  • 強引に勧誘する
  • 教祖や組織の絶対視
  • 宗教に対して攻撃する、もしくは極めて排他的な行動をとる
  • 霊感商法による物品購入の強要
  • 寄付の強要
  • 組織活動の強要
  • 社会的行動を取る(地下鉄サリン事件などの宗教テロ

上記の内容で三つ以上該当するのはカルトであると思っている。


強引に勧誘する

強引に勧誘することはないかも知れないが、退団するときには「罰があたるように組織脱退には脅かされることがある」



教祖や組織の絶対視

雅宣総裁自身が「原理主義者」とか「スリ--セル」というように一種の魔女狩りのような言動を行う。



宗教に対して攻撃する、もしくは極めて排他的な行動をとる

他宗教より内部の締めつけのため、決して間違った言動を許さない、また許容するような事はない。



社会的行動を取る(地下鉄サリン事件などの宗教テロ

反社会的というより左翼思想に染まってしまっている。しかも自分の思想のみを良しとし、いままでの谷口雅春先生の教えを蔑ろにする。指導部の教えを絶対視するあまり、自分達と異なる生長の家の純真な教えにはトコトン反発する。

私も日本政策研究センタ-に所属していますが、堀さんの書いているような時代遅れのような思想を持っていないです。

たぶん堀さんという人物が相当頭が古いのではないかと考えています。

国のあり方や食と環境や政治経済など様々な分野で活動しています。それの何処が古いのか具体的に掲げて欲しい。

たぶん、あまり読んだり勉強したことがないから分からないだろう。一人一人の考えを許さないというようなことは有り得ませんし、それに対して優しく対応していただける。

またこうした堀さんという人物は国際情勢を機敏に感じない感覚というのがあります。


 私は現在の日本は戦争中であると思っています。これに対して何もできないのは「憲法」があるのです。法規で雁字搦めにして何も対処出来ない。

また、憲法を変えたら戦争に繋がるなんて、具体的に自衛隊の発動までのプロセスを説明して欲しい。単に共産党の真似事を言っているだけであろう。

石垣市の中山市長は沖縄知事に激しく抗議をしている。翁長沖縄知事は中国に行っても、尖閣諸島の問題は一言も云わない。片方のアメリカの基地問題ならば饒舌である。


 現在、毎日のように領海、領空侵犯が繰り返されている。日本の領土にも関わらず、漁民はその地域で作業が出来ないでいる。また昨夜のテレビで日本近海では秋刀魚の漁獲が減っている、その要因は中国、韓国などの漁獲が無差別に獲っていくのが原因である。


 日本は何も出来ない、普通の国際的にも当たり前の事が出来ないでいる。通常、軍機が領空侵犯すれば警告を無視すれば撃墜してもいいという国が多い。それも国際条約では認められている行為なのです。

先日、中国機にロックオンされても何も出来ないというのが日本なのです。

 空自のスクランブル機に領空侵犯機への撃墜許可が出るのはどの場合でしょうか?

1、侵犯機が国籍を秘匿し、呼びかけや警告にも応じない場合

2、空自機が侵犯機やその後続機にロックオンされた場合
3、侵犯機が空自機に先制攻撃を行った場合
4、空自機が侵犯機に撃墜された場合



どの状況でも撃墜許可がでません。

それは日本の憲法がそのようにしているのです。そうした国際的にも認められた法規すら出来ないでいる。常識的に国際条約にあった行動をしていかなければならないのを実感として感じます。



3822 トキUMw6UoGELo2016/07/27() 15:30:45 ID:drA3zOCg

>>3819

 掘さん自身は、会うとそう悪い人ではないのですが、書いている文章は支離滅裂で不思議なものです。
知らない人が読んだら、生長の家はこんな非常識な発言をする集団だと誤解されると危惧しています。
 そのギャップはちっと理解に苦しむところがあります。

一番説得力があるのが、青年会時代に安東巌さんにいじめられ、その反動で総裁万歳に走ったというも
のです。そういう人は珍しくなくて、森田先生や安東先生への反発から総裁万歳に走った人というのは他にも何人もいます。それはそれで理解はできるのですが、だからと言って反対意見の持ち主の追放を安易に言うのはおかしいと思います。

 どちらにしろ、そういう総裁万歳という人は、教区では少数派で「珍獣」の扱いですから、この人たちだけで教区の運営などできるはずがありません。

 だいたい、宗教法人というのは、ちゃんと設立の時に定款を作り、それに「目的」というものを書きます。指導部が目的から外れた行為をしたからといって、信徒がそれに盲従する必要は全くありません。
指導部の方針に無条件に服従を要求し、それに異論を唱える人を追放する発想を掘さんや日野君がどういう言い方をしているのかは知りませんが、社会一般では「全体主義」「独裁」「カルト」と言っています。

 そういう恥ずかしい発想は、生長の家とは無縁のものですから、信徒の皆様はくれぐれも騙されないように気をつけて下さい。

 
 あと、この文章を書いた人は大先達の岡先生に失礼なことを書いていますが、自分がどれほどのものか、少し頭を冷やして反省をする必要があります。

堀さんの文章

2016 07 01 ( 1 )

·         今夏の参院選についてのお願い

今夏の参院選についてのお願い

 皆様にお願いがあります。今度の選挙でもし与党とその補完勢力が勝ったら日本から民主主義が消えて、大げさではなくてナチスとか北朝鮮の様な全体主義の国、表現の自由も言論の自由の無い国に変わってしまいます。改憲に必要な衆参両院2/3以上に彼らがなるからです。まともな選挙も行われなくなり、独裁状態になるでしょう。
 それは彼らを操っている思想が全体主義、国家主義であり、国民一人一人の権利とか自由など一切認めないものだからです。

 是非ともこの流れを止めるべく御自分の周囲の人達に働きかけて下さい。

 菅野完氏著「日本会議の研究」で明らかにされた様に安倍政権を操っているのが生長の家の元信者達(生長の家の本質が分からない原理主義者)ですが彼らは所謂原理主義者なので後に生長の家本体が時代に応じて方向転換した時にそれが理解出来ずに生長の家を出て行きました。
 
 それが今、日本会議とか日本政策研究センターとかとなって時代遅れの民族運動を続けている。そしてそれが今の安倍政権に入り込んで理念的なものから運動方針、政策に到るまでほぼ完全に安倍首相を操っています。
 
 彼らの考えて居る事は一言で言って戦前の軍国主義時代の日本の美化、戦争の美化、国家の為に国民の犠牲を強いる事の美化です。私は生長の家信徒でありもう何十年も前から生長の家の組織活動をやっているので彼らの事は直に良く知っていて、それで言っているのです。

 この集団が安倍政権をコントロールしている。

 こうした輩に日本の国を滅茶苦茶にされない為にも心ある方達にお願いしたいのは御自分の周囲の人達に出来るだけ口コミでそしてネットで与党以外の野党連合のどこかの党に積極的に投票してくれという事を呼び掛けて下さい。そして菅野完氏の「日本会議の研究」も合わせて勧めて下さい。お願い致します。

堀 浩二

ps
 安倍政権の補完勢力にはおおさか維新の会、日本のこころを大切にする党、日本を元気にする会、新党改革も含まれます。ここにも投票しないようにお伝え下さい。


 


 


 


 


 




 


 

『招神歌』講義

P1180051
今回は今までに本や冊子などで発行されてこなかった『生長の家』誌昭和12年1月1日号で極めて重要な文章であります。『招神歌』講義であります。
この『生長の家』には重要な文章が他にもあります。それは生長の家の誌友徽章標準図つまり生長の家の光輪卍字十字架のデザインが始めて書かれたことです。
それ以外に『古事記』講義など有用な神誌です。
此の度は全謹写することを考えたのですが著作権の関係でギリギリです。ご容赦願います。
尚、ここにあります文章を添付して他の掲示板には貼付けはご遠慮願います。
全文章を要望される方はご連絡下さい。

『招神歌』講義

                             谷口雅春

 神想観をいたしますには聖典『生命の實相』に書いてありますような姿勢で、瞑目合掌してそれから招神歌を唱えるのであります。


 何時も皆さんがやっていられる通りで、道場や誌友会でやるのは多勢で指導する為にやるので多勢に聞こえるように朗々とやる必要があるのですが、自分自身でやる時は必ずしも人に聞こえるような大きな聲でなくても宜しいのであります。


隣の人同座の人に恥ずかしいから大きな聲が出せないと云う人は出さなくても差支えないのですけれども、大きな聲で多勢の中でも唱えるようでないと本当に信仰が深いと云うわけではないのであります。


 どこの宗教でも、祝詞とかお経とか誦げるときにでも、何だかきまりが悪いと云うような人はまだ本当の信仰が徹底していないので、何となく人にきまりが悪いのであります。

ところが平気で誰の前でも誦(とな)へ言が出来るようになると、大分信仰が深くなっているのであります。さて、第一の歌の講義に進みます。


生きとし生けるものを生かし給へる御祖神(みおやかみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきはえ)へ給へ。


この歌の意味は要するに我々の生きている生命と云うものは、どこから来るかと云うと、御祖神元津霊は元の霊(みたま)であります。大元霊と云っても好いでありましょう。これは日本読みにすると元津霊となるわけで、元津霊ゆと云うのは『田子の浦ゆふりさけ見れば』という歌がありますが、というのはよりと云う事であります。


元津霊より幸へ給へ、元の霊から幸へ下さい、この霊(みたま)を分ち与えて下さいと云う意味であります。サキハヘに幸と云う字が書いてありますが、幸福を何故幸延(さちは)へと云うかと申しますと、本当に幸と云うのは自分の力で利己的利益を得たから幸であると云うのではないのでありまして、神の大生命、それを分ち与えられるその事が幸なのであります。


霊(みたま)がなければ幸でなくなるのであります。我々の生きる力、喜びの感じ幸福の感じ、生き甲斐の感じと云うものはこの大生命を余計頂くか少く頂くかによってその程度が変わって来るのでありまして、何時も嬉しい感じ、魂の幸福な喜び、生き甲斐があると云う感じがしている。それだけ大生命から霊を余計与えられていると云う事になるわけであります。


そう云うと大生命、大元霊、御祖神と云うものは、我々に不公平に霊を与え給うものであるかと云うと決してそうではないのでありまして、我々の心の持方がよかろうと悪かろうと、常に無限に平等に与えてゐ給うのが元津霊であります。それを自分の心で、心の重荷や苦しみで遮って邪魔をして、それによって本来の自分、既に幸福に充ち満ちた本来の自分に帰って来ないと云う事になるのであります。


何時もラジオセットの例を引きますが、アナウンサ-が放送をしますと、どのラジオセットにも皆一様に同じ距離に置けば、同じようにそこにラジオの波が来ているのであります。来ているけれども良いラジオセットと悪いラジオセットとでは、その感応が各々違うのであります。


良いラジオセットは本当にアナウンサ-の聲其の儘をそこに再現する。悪いラジオセットはアナウンサ-の聲その儘は再現しない。耳障りな不快な音をたてる。或は良い具合に聞こえないで小さな聲が出たりする、アナウンサ-其の儘の聲が必ずしもそこに再現しないのであります。


それはアナウンサ-が悪いのではないのであります。ラジオセットの方が悪いのであります。同様に大生命から放送する神が悪いのではないのであります。神は常に一様に大生命の生きる力を放送していられる。それを再現する事が出来ないのは、我々のラジオセットの不完全さによるわけであります。それで我々は出来るだけラジオセットを完全にしなければならぬ。そうすれば神様から来るところの霊波(さきはへ)其の儘の状態、それをそこにさながらに再現する事が出来るわけであります。


では神様の霊波その儘がそこに再現するには如何(どう)したらいいかと云うと、心を整えてそうして神様の波長に、自分の波長と云うものを、ぴたりと本当に完全に合わさねばならぬ。その時、神の聲がそこに再現する。神の聲即ちアナウンサ-の放送は、放送局のセットと聴く方のラジオセットとがぴたりと波長が合った時に初めて完全に再現して来る、人生の幸福も放送者即ち神の聲が完全に再現して来るところに在るのです。


要するに何よりも先ず心を整えることであります。これは神様の性質を考えればよく分かるのでありまして、神様は光である、太陽のように総てを照らすところの光である。明るいのが神様なのであります。それですから我々は常に明るい心持を持つと云う事によって、神様の霊波をここに再現し得、生きる力を感じ、生きる力そのものをここに再現して来ることが出来るのであります。それから神は光であると共に神は万物を育むところの大いなる愛である。


大いなる愛であるから、神の生きる力、大生命の力と云うものは、それをここに再現して来させようと思いましたら自分を神の愛の波長に合わせなければならないのであります。

換言すれば我々の愛が神と同じように総てのものを慈しむと云うような大いなる愛にならなければならないのです。誰は憎いけれども誰は可愛いなどと、そう云う差別の気持ちになったら、それは神様の波長と合わないと、斯う云う事になるわけであります。


それから神様は総ての事に行届いていられる、そうして一つとして知り給わないところがないのであります。神様は無限の智慧であると生長の家では云っているのでありますが、神様の智慧と云うものは大きく云えば宇宙全体に繋がっておりますし、小さく云えばこの分子原子電子の中にまで行き通って、そこに神の不思議な力が活動しているのであります。


それで神の波長を合わせようと思ったならば、神と同じように大きな広々とした心を持たなければならない。それでは気が大きいばかりで呑気にさえ構えておれば宜しいかと云うとそうではないので、時には小さな細かに行届く心にもならなければならないのであります。分子電子のところまでも行届くような心を持つと云う事が必要なのであります。


自分は神と一体であると悟ったとて悠々と構えて、そうして小さな事など如何(どう)だってもいいのだと考えている人があるかも知れませんけども、それでは神の智慧に一致しないのであります。何よりも総ての事に行届くと云うことが大切であります。


神の智慧と云うものは、本当に微細なところ、埃ひとすじ、鉛筆一本のところまでも行届いているのでありますから、我々の智慧もそこまで行届いて、気が大きいと共に細かいところに行届いた心を持たなければならないのであります。


それから神様は生きとし生けるものを生かし給えるところの命でありますから、やはり我々も同様生きとし生けるものを生かすような心、先刻(さっき)、育む心と申しましたが、育むよ云う事は生きているものばかりではない。在りとし凡ゆるもの、一切の物を生かす気持ちになることであります。


神は大生命であると云うのは何でも生かして使う事であります。吾々生長の家の人達は『節約』と云う余り云わない、一切を生かして使えと斯う申すのであります。生かして使えと云って、『節約』には反対であると申しますと、往々節約反対と云う事に執(とら)われて、滅多やたらに費(つか)ったらそれで経済循環がよくなると考えるような人がありますけれども、決してそうではないのであります。物は生かして費(つか)った時に始めて真に経済循環がよくなって来るのであります。


それでも何でも生かして使う、金でも生かして費(つか)はねばならない。生かす事を考えないで安物のくだらないものを高い値段を出して買うというようなことでは、これは金を生かさない事になる。金を生かすには十銭のものも十五銭の値打に使うのがこれが本当に金を生かすと云う事であります。そういう風に紙一枚でも之を生かす、一行書いて一寸下記損なったから直ぐ捨ててしまう事になると、これは紙一枚、全体に書かれるために捧げられているものを、一寸だけ使って、それは要らんと云うのでは、この紙は生かされていないと云う事になるのであります。


それで総てのものを生かして使う、生かし生かし使っているところに、そこに無限の供給と云うものが開けてくるのであります。誰でもいかされることを喜ぶのです。

生かされない物は殺されているのです。それでは人が、物が、喜んではいない。

誰だって殺されたくないですから、紙一枚でも殺されたら恨みに思う。物質を単なる物質であると思うのは大きな間違いであります。これには生命がある、夫々に生きた用途がある。紙屋さんの生命(いのち)も籠り、こういう細工をする人の生命も籠り、之を売った人から運搬した人の精神も籠り、それらが集まって、ここに紙一枚でも形を現しているのでありまして、これはもう決して単なる物質ではないのであります。


生長の家では物質本来ないと云うのは、例えば扇子にしても、これは決して単なる物質ではない、それには色々の人の生命が結合し結晶している、扇を使って風が起ると云うのも単に貼られた紙を操作すると云う物質的関係から生ずるのではなく、實は之を造り拵えた人達の愛の力、生かす力そのものが現れて我々を煽いでくれているのであります。そうすると實にこれは有難い風であって皆さんの生命が煽いで下さるのです。だから扇子一本にも拝まなければならないわけであります。


要するに吾々は自身の心を整えることによって生きとし生けるものを生かし育む神の大いなる愛の心と同じ心を起すと云うことにならねばならないのであります。

吾々日常の生活の一言一行、これを吾々の良心が内から照らしてみて是は喜びであると云う風に常に何となき心の喜びを感ずるようになったならば、既にそれは自心が神の波長と一致したことでありますから、そこに不断に大生命の波長が感じてくるという事になって、これが本当の幸というものであります。


それでは幸と云うのは霊(みたま)が増えるということである。吾々は既に始めから神の大生命無限の霊(みたま)と云うものを分け頂いておるのでありますけれども、それを迷で遮っている。丁度ラジオの音が、小さく明瞭に出ないようなものであります。それを完全に発言させる、そうするとその程度につれて霊(みたま)が増えて来る。霊(みたま)が増えると吾々は常に心楽しく生命は生生(いきいき)として来るのであります。


神の生命は影を映して吾々に形を現すのでありますから、神の全生命の放送がここに姿を現すのでありますから、吾々の霊が殖えれば殖える程吾々の全生活はいよいよ生生(いきいき)としてくる。

生生(いきいき)として来た程度だけ、霊が殖えたわけであります。吾々は死にかかっている場合には、決して生生(いきいき)していない。もう一度逆に考えますと、生生(いきいき)したら霊(みたま)が殖えると云うのは、これは波長の共鳴が引起すので、生生(いきいき)とするのが大生命でありますから、それは生生(いきいき)した波を起しまして、そこへ生生(いきいき)とした生生(せいせい)の波動が映ってくるわけであります。それで、我々は常に明るく、常に生生(いきいき)と、そうして人を育むような、小さなものを生かすような、広々とした、しかも細かいところに迄よく行届く心を持てば、吾々は完全に神の生命を受けて、それをここに自在に生生(いきいき)と発現させる事ができるのであります。次の歌に移ります。





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本国憲法にこめられた呪誼の精神について

 現行の「日本国憲法」を評価するならば、それはマイナス点しか与えることが出来ない。それは日本国の伝統を故意に破壊して、日本国を東洋の一弱小国に留めおいて再起不能の状態に継続する目的のために、戦争直後の占領軍が表面は、自由と平和との美名の下に、美辞麗句を列べて作文した憲法であるからである。謂わば当時の占領軍が「将来、日本国が決して強国とならないように」という″呪誼の精神″を寵めて起草したものであるからである。

                                                                                        

 わたしは嘗て″憲法論″を書いたときに、ある少年が毛糸のジャケツを着るといつも倒れで怪我をする、あまり、それが不思議なので、誰がそのジャケツを編んだのかを遡って追及してみると、当時の女中が奥さんに叱られて、腹を立てながら、ナニクソと抵抗心を掻き立てながらその家の子供のために、毛糸のジャケツを編んだのだとわかったという挿話を書いたことがある。

 

その少年がそのジャケツを着るのは、どんなに表面の形は立派に編まれているにせよ、それは単に物質の織物を着るのではなく、女中の”呪いの精神”を着ることなのである。従ってその少年は、その呪いの精神のこもっているジャケツを着るたびに蹟いたりして倒れて怪我をするのである。日本人が、占領軍が日本弱体化の。呪いの精神”を籠めて書いた「日本国憲法」をその美辞麗句のゆえに遵奉して生活するときは、その麗句の中に宿っている日本弱体化の精神を国民が着て生活することになるから、あの憲法に忠実に生活しようとするならば国民は常に政府を被告として、対立的に騒乱や訴訟を起したくなるのである。

          (『明窓浄机』、『生長の家』昭和52年8月号)

本来の受け皿とは

生長の家三代目 谷口雅宣のスピリチュアル分析が出版されている。

本屋ではその本が目立っている。

 

私は『谷口雅春先生に帰りましょう』で受け皿がないと記入しました。そうすると破邪顕正さんから早速、これだけの受け皿があると返事がきていました。

 

そういうことは一部は受け皿かもしれないが、『日本会議の研究』での生長の家の信徒の退団を口を開けて待っているに過ぎない。

 

それは受け皿ではなく、生長の家教団に愛想を尽き、「学ぶ会」に入信したのに過ぎない。

 

こうした時にどうして本を出版しないのか。

「本当の生長の家はここにあります」「雅春先生の教えはここに」とかそういう本を出版して店頭に並べるのです。

そういうのを受け皿というのです。生長の家信徒を入信出来るように本来の在り方などを説くような冊子を作るなり出来ないのであろうか?

 

破邪顕正さんが書いていたことは当たり前であり、自慢することでもなんでもない。

根本博元陸軍中将の詳細

前のブログでユ-チュブにて画像を添付させていただきましたが次に国際派日本人養成講座から抜粋させていただきます。

滿蒙では4万という民間人を日本に無事に帰還させ、台湾では共産党の侵略を防いだ。この人は根本博元陸軍中将です。

『生命の實相』をひたすら読み。本義を守った人です。

下記では『生命の實相』や生長の家や谷口雅春先生の名前はでませんが、門田隆将氏の本では具体的に出てきます。


■■ Japan On the Globe(688)

 ■■ 国際派日本人養成講座 ■■

人物探訪: 義に生きる ~ 台湾を救った根本博・元中将(上)

 国共内戦で台湾まで危なくなった時、「自分が行かねば」と根本・元中将は立ち上がった。
転送歓迎


1.「自分たちがあの戦争で死ななかったのは、ある日本人のお陰だ」

 福建省厦門(アモイ)市は、さすがに台湾の対岸らしく、台湾では「原住民」と呼ばれている民族と同様の色黒の人々が目につく。そのアモイの港からわずか2キロの海上にある金門島は、台湾領である。

 台湾からは180キロもあるが、この金門島が台湾領であるがために、台湾海峡の両側は台湾領土となっており、台湾、そして日本のシーレーンの安全上、戦略的な価値は計り知れない。

 金門島は四国のような形をしているが、その西北端にある古寧頭村は、蒋介石の国府軍と毛沢東の共産軍の最後の激戦である金門戦争が行われた土地であった。

 台湾の金門戦争の研究家・管仁健は現地を調査していて、次のような発見をした。

 自分たちがあの戦争で死ななかったのは、ある日本人のお陰だ、という話を古寧頭村の古老が話してくれたのです。なんでも、日本人の将軍が国民党の軍にいて、その人が立て籠もった共産軍を村の外に出して、これを撃滅したというのです。その日本人のお陰で私たちは助かったと。

 その「日本人の将軍」の名は、根本博・元陸軍中将。国共内戦で国府軍が大陸から駆逐されようとしていた絶体絶命のピンチにあった時に、忽然と日本から台湾に密航し、国府軍を補佐して金門島で共産軍を撃滅した。根本元中将のおかげで台湾の共産化が阻止され、それによって我が国の安全も確保されたのである。

 根本元中将がどのような動機でどのように台湾を救ったのか、その足跡を辿ってみたい。

2.「私が身命を賭して守り抜く」

 昭和20(1945)年8月15日の敗戦の日を、根本は北京の北西150キロほどにある張家口で迎えた。張家口は万里の長城のすぐ外側にあり、そこから先は内モンゴルの地である。根本はモンゴルの大部分を警備する駐蒙軍の司令官であった。

 ラジオから流れてきた昭和天皇の玉音は、9年前の北海道での陸軍特別大演習で、巡視中の陛下から「将兵はみな元気か?」と直接かけられたお声そのままだった。

 玉音放送の後は、根本がマイクに向かって、「彊民(地元民)、邦人、および我が部下等の生命は、私が身命を賭して守り抜く覚悟です」と語りかけた。玉音放送の直後だけに、根本の声はモンゴル地区に散在していた日本人居留民たちを安心させた。

 放送の後、根本は全軍に命じた。「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」

 本国からは武装解除命令が出ていたが、ソ連軍の本質を見抜いていた根本中将はそれに従わなかった。日本軍が武装解除すれば、ソ連軍は邦人に対して略奪、虐殺、強姦の限りを尽くすだろう。6日前の8月9日から満洲に侵入してきたソ連軍の蛮行は刻々と伝えられていた。

 本国からの武装解除命令を無視してソ連軍と戦うことは、戦勝国からは「戦争犯罪」とされるが、根本中将はその責任は自分一人で負えば良いと覚悟していた。

 司令官の断固たる決意に、駐蒙軍の将兵も闘志を燃やし、攻め込んできたソ連軍と激戦を展開した。8月15日、16日のソ連軍の攻撃は特に激しかったが、駐蒙軍の頑強な抵抗によって、戦車15台の残骸を残して退却していった。


3.4万人の日本人居留民を脱出させる

 駐蒙軍の目的はただ一つ、侵入してくるソ連軍と戦って、時間を稼いでいる間に4万人の居留民が安全に引き上げる時間を作ることだった。

 張家口から脱出した当時25歳の早坂さよ子さんは、当時の体験をこう語っている。

 張家口はソ連邦が近いのでソ連兵が迫ってくるという話にも戦々恐々と致しました。5歳の女子と生後10ヶ月の乳飲み子を連れてとにかく、なんとか日本に帰らねばと思いました。・・・

 駅に着きますと貨物用の無蓋車が何両も連なって待っており、集まった居留民は皆それに乗り込みました。張家口から天津迄、普通でしたら列車で7時間位の距離だったと思いますが、それから3日間かかってやっと天津へ着くことが出来ました。・・・

 列車は「萬里の長城」にそって走るので、長城の上の要所々々に日本の兵隊さんがまだ警備に着いていて、皆で手を振りました。そして兵隊さん達よ、無事に日本に帰ってきてと祈りました。

 根本率いる駐蒙軍がソ連軍と激しく戦っている間に、4万人の居留民は、こうして無事に引き揚げる事ができたのだった。

 8月21日の午前中に、居留民の撤退が完了したという報告があがり、その夕刻から夜にかけて、駐蒙軍にもひそかに撤退命令が下された。将兵は、途中、生のトウモロコシなどを食べながら、歩いて北京に向かった。


4.蒋介石への感謝

 その後、根本は北京に留まり、北支那方面の最高責任者として在留邦人および35万将兵の祖国帰還の指揮をとった。

 その年1945(昭和20)年12月18日、根本は中華民国主席・蒋介石の求めに応じて面会した。蒋介石と最初に会ったのは、陸軍参謀本部の支那研究員として南京に駐在していた1926(大正15)年、南京においてであった。二人は共に「東亜の平和のためには、日中が手をつないでいかなければならない」との理想を同じくしていた。

 蒋介石が北京に乗り込んできて、根本中将に会いたいと使者をよこした時、根本中将には蒋介石に対して、言葉では尽くせない感謝の気持ちがあった。

 一つには、在留邦人、将兵の帰国は、国府軍の庇護と協力によって無事に行われているのであり、それは満洲を略奪し、数十万と言われる日本人捕虜をシベリアに連れ去ったソ連とは対照的であった。

 もう一つは、1943(昭和18)年11月に行われた「カイロ会談」で、蒋介石がアメリカ・ルーズベルト大統領、イギリス・チャーチル首相に対して、日本の戦後の国体に関して、「我々は日本国民が自由な意思で自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」と主張し、賛同を得たことである。ここから天皇制存続の道が開けていった。[a,b,c]


5.根本の約束

 根本は、椅子が二脚しかない書斎に入っていった。蒋介石は根本の手をとり、椅子に座らせた。周囲には、国府軍の高官たちが立ったままでいる。

 蒋介石は、にっこりと微笑みながら言った。

__________
 今でも私は東亜の平和は日本と手を握っていく以外にないと思うんだよ。今まで日本は少々、思い上がっていたのではないだろうか。しかし、今度はこれで私たちと日本は対等に手を組めるだろう。あなたは至急、帰国して、日本再建のために努力をして欲しい。[1,p83]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 その態度には、戦勝国代表の驕りは少しも感じられなかった。この時点で、国府軍と共産軍の衝突が中国各地で始まっており、蒋介石には、早く日本が復興して、自分たちを支援して欲しい、という気持ちがあったのだろう。

「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と、根本中将は約束した。

 在留邦人と将兵の帰国は約1年で無事完了し、根本中将は1945(昭和21)年7月に最後の船で帰国の途についた。


6.「わが屍(しかばね)を野に曝(さら)さん」

 根本が東京南多摩郡の自宅に戻ったのが、昭和21(1946)年8月。敗戦からちょうど1年経っていた。それから3年、国共内戦は共産党の圧倒的な勝利に終わろうとしていた。

「自分が行かねば」と根本は思った。蒋介石への恩義を返すために、日本人として「何か」をしたい。押し寄せる共産軍に対して、自分が行って、たとえ役に立たなかったとしても、一緒に死ぬことぐらいはできる。「わが屍(しかばね)を野に曝(さら)さん」と根本は決心した。

 家計は困窮していたが、旅費を作るために、大切にしてきた書画骨董を売り払った。しかし戦後の混乱期ではたいした値段では売れなかった。

「李鉎源」と名乗る台湾人青年が現れたのは、そんな時だった。台湾訛りの日本語を話すその青年は、「閣下、私は傳作義将軍の依頼によってまかり越しました」と語った。傳作義将軍は、根本が在留邦人や部下将兵の帰還の業務に当たっていた時に、面倒を見てくれた恩人であり、その人柄に深い感銘を受けていた人物である。武装解除命令に従わなかった根本が戦争犯罪人として訴えられなかったのも、傳作義将軍のお陰だった。

 なんとか蒋介石を助けたい、と思っていた矢先に、深い縁のある傳作義将軍を通じて、先方から難局の打開を頼み込んできたのである。その依頼に、根本はただ嬉しく、ありがたい、と思った。「私でできることであれば、何とか助力したい」とその場で答えた。


7.根本を台湾に送り込んだ明石元長

 しかし、当時の日本はいまだ米軍の占領下にあり、海外渡航は自由ではなかった。したがって台湾には密航しなければならない。なによりも、そのための資金もなかった。

 根本を台湾に送り込むための金策と渡航工作に奔走したのが、明石元長(もとなが)だった。元長は、第7代台湾総督を務めた明石元二郎の息子で、本人も小学校を卒業するまで台湾で育った。

 明石元二郎は総督として、水力発電所建設、金融・教育・司法制度の整備、道路・鉄道の拡充、森林保護など、きわめて大きな業績を上げたが、赴任後、1年余にして惜しくも病死した。その遺言により遺体は台湾に埋められ、また明石を慕う多くの人々の寄付によって、200坪もある壮大な墓が作られた。[d]

 その息子、元長も台湾への思いは強く、戦後も台湾からの留学生や青年を援助していた。その縁で、李鉎源青年とも知り合っていた。

 国府軍が敗走を続け、台湾までが危うくなった時に、元長も何かしなければならない、と考えた。そこで、根本を蒋介石のもとに送り込むための資金作りと渡航の工作を始めたのである。

 元二郎は台湾総督まで務めたが、金銭面はきれいな人物で、何の財産も残さずに死んだ。元長の学費すらおぼつかない状況だったが、政府の要人や友人たちが工面してくれたのである。だから元長自身にも財産はなく、あちこちのつてを辿って頭を下げ、資金提供を求めた。

 その甲斐あって、昭和24(1949)年6月26日、根本は延岡港から小さな釣り船に乗り、台湾に向かって出港した。

 根本を送り出した元長は、疲労困憊して東京の自宅に戻ったが、わずか4日後、突然の死を迎えた。まだ42歳だったが、根本を送り込む工作で、精も根も尽き果てたのだろう。


8.「着いた。本当にやってきた」

 根本は元長の手引きで、警察や占領軍司令部に見つからないよう、転々としながら延岡まで行き、手配された釣り船に乗船した。6人の日本人が同志として付き従っていた。

 夜11時に出港した釣り船は、次第に激しくなる風雨の中で、木の葉のように揺れた。高波をかぶって、船室まで海水がどっと入ってくる有様だった。「こんな船で台湾まで本当に辿りつけるのか」と皆が思った。

 出航から4日目、時速5ノット(9キロ)しか出ない釣り船は、まだ種子島の西方を航行中だった。その夜、左舷船腹のあたりから、ガリガリと音がした。浅瀬の岩に船底をこすったのである。船底に穴が開き、海水が入ってきた。一同、手押しポンプとバケツなどで海水の汲み出し作業をしながら、なんとか近くの島にたどり着いた。

 応急修理として空いた穴に綿を詰め、板を打ち、再び、漕ぎ出したが、水漏れは完全には止まっていなかった。10分交替で常時一人が水汲みをしながら、のろのろと台湾に向かう。

 ついには食糧もなくなり、水も残り少なくなった頃、「山が見えた!」という声が聞こえた。根本が船首の方を見ると、鋸(のこぎり)のような連山の頂が薄く見えていた。

 防波堤の入り口に入ると、電灯がまばゆく輝く台湾北端の港湾都市・基隆(キールン)の市街が広がっていた。「着いた。本当にやってきた」

 腹の底から、喜びが湧き起こってきた。「これで、日本人として蒋総統に恩義を返すことができる」 延岡港を出航して14日目のことだった。

(文責:伊勢雅臣)

■■ Japan On the Globe(689)

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人物探訪: 義に生きる ~ 台湾を救った根本博・元中将(下)

 国府軍に迎えられた根本は、共産軍を迎え撃つ戦略を立てた。
根本さんの家は東京です。終戦まもない頃ですので台湾の渡航は禁止です。九州で出港できるチャンスを伺い、宮崎の延岡から密航を企てます。


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1.「根本先生!」

 小さな釣り船で2週間もかけて、ようやく台湾にたどり着いた根本・元中将の一行だったが、密航者として逮捕され、基隆港近くの監獄にぶち込まれた。根本は必死に「国府軍を助けに来た日本の軍人である」と訴えたが、獄吏は「何を寝ぼけたことを言っているのか」とまったく相手にしない。

 しかし2週間も訴え続けていると、「台湾を助けにきたという日本人がいる」という話は次第に広がり、国府軍幹部・鈕先銘(にゅうせんめい)中将の耳に入った。鈕中将は、根本が北支那方面軍司令官だった時に、よく交流していた人物だった。

「根本博」というその日本人の名前を聞いた時、鈕中将は反射的に立ち上がった。根本の人格と信念を知る鈕中将は、「あの根本中将なら、台湾に来ることもあり得る」と直感したのである。その場で、車を基隆に走らせた。

 鈕中将が来ると知らされた獄吏はあわてて根本たち一行を風呂に入れ、食事をさせた。根本たちは急に待遇が変わったので、「いよいよ処刑か」と勘違いをして覚悟を決めていた。

 そこに現れた鈕中将は「根本先生!」と駆け寄って、その手をしっかり握って話さなかった。その姿は鈕中将の感激の大きさを物語っていた。


2.蒋介石との再会

 根本ら一行は8月1日に台北に連れて行かれ、湯恩伯(とうおんぱく)将軍の歓待を受けた。湯は根本と会うのは初めてだったが、その名前と実力のほどはかねてから聞き知っていた。湯自身、日本に留学し、明治大学と陸軍士官学校を出た知日派で、流暢な日本語で根本と語り合い、すぐに打ち解けた。

 根本が来たと知らされた蒋介石は、即座に会見を求めた。根本らが応接室に入ると、満面の笑みを浮かべた蒋介石が「好(ハオ)、好、好」と固く手を握った。

 根本の胸中に万感の思いがこみあげた。天皇制を守ってくれ、また終戦時に在留邦人と日本軍将兵の帰国を助けてくれた恩人に、3年前の別れの時に「私でお役に立つことがあればいつでも馳せ参じます」と約束していた。その約束をついに果たせたのである。

 しばらく話が弾んだ後で、蒋介石は真剣な表情で、こう切り出した。「近日中に、湯恩伯が福建方面に行きます。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を見ていただきたい」

 蒋介石は長かった日中戦争で、日本軍の実力を良く知っていた。蒋介石はその力をどうしても借りたかったのである。

「私は、福建でもどこでもまいります」と即座に快諾した根本に、蒋介石は感激した面持ちで「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。


3.大陸での最後の足場

 その2ヶ月前、国府軍は上海を失っていた。上海防衛を指揮していた湯は、殺到する共産軍を前に、市民を巻き込む市街戦を回避するため、上海から撤退したのである。

 上海を失った事で、国共内戦の行方はもう誰の目にも明らかに見えた。5日ほど前にはアメリカ国務省も「中国は、もはや共産主義者の手の中にある。国民党政府はすでに大衆の支持を失っている」として、「軍事援助打ち切り」を発表していた。

 大陸での最後の足場が福建だった。ここも失えば、一気に台湾まで存亡の危機に直面する。湯は「最後の御奉公」に福建に赴く覚悟だった。根本に一緒に福建に行って貰いたい、というのは、湯自身の希望だった。

 福建行きを承諾してくれた根本を、湯は「顧問閣下」と呼び、食事の際には一番の上席に座らせた。根本が恐縮して辞退しても、湯はそれを許さなかった。

 1949(昭和24)年8月18日、根本一行は、福建に向けて出発した。これが自分の「死地」になるかもしれない。恩義を返すべき蒋介石にも自分の気持ちを伝える事ができた。もう何も思い残すことはない。晴れ晴れとした爽やかな気持ちだった。

 根本らは、国府軍の軍服を与えられ、また蒋介石から贈られた中国名を名乗ることとした。根本は「林保源」と名乗った。湯に仕える兵団長らは根本の素性などは知らされなかったが、湯の「顧問閣下」と礼を尽くした態度から、極めて重要な人物であることを感じとっていた。


4.根本の具申した基本方針

 根本は福建の中心である商都・厦門(アモイ)の地形、経済などを調べた。そして即座に「この島は守れない」と判断した。

 商都・厦門は、厦門湾の中の島にあるが、北、西、南の3方が大陸に面し、狭いところではわずか2キロしか離れていない。三方から攻撃を受ければ、ひとたまりもない。また、商業都市で20万人もの住民が住んでおり、食糧の自給ができないため、持久戦も不可能であった。

 一方、金門島は厦門湾の外にあり、海峡は流れが速い。白くうねった波が遠目にもよく見えた。共産軍が押し渡ろうとしたら、この波を乗り越えなければならない。人口は4万にも満たず、漁業やさつまいもの栽培で暮らしていた。「この島は『自活』できる。大陸との通行をたとえ遮断されても、ここを拠点にすれば長期間、戦い抜ける」と、根元は判断した。

 その夜、根元は湯に、自分の考えを示した。「共産軍を迎え討つのは、金門島をおいてほかにありません」

 湯は押し黙った。「福建を守る」とは「厦門を死守する」ということだった。仮に金門島で戦って勝ったとしても、共産軍は厦門を落としたということで、大きな宣伝材料にするはずだ。蒋介石の怒りも買うだろう。

 しかし戦略的には金門島を死守することが「台湾を守る」ための大きな力となる。自分の名誉を犠牲にしても、長期的に台湾を守る道筋をつけることが、軍人としての務めではないのか。

「わかりました」と湯は答えた。厦門は放棄し、金門島を死守する、という基本方針が、根本の具申通りに決定された。


5.上陸してくる共産軍を一挙に殲滅する

 その基本方針に則って、根本は戦術を考えた。共産軍は海軍を持っていない。海峡を押し渡るには、近辺の漁村から小型の木造帆船(ジャンク船)をかき集めて、押し渡ってくるのは確実だ。

 それを海で迎え討てば、一時的な勝利はできるだろう。しかし、それでは敵の損害は少なく、勢いに乗った共産軍を押しとどめることはできない。敵の大兵力を上陸させてから一気に殲滅することで雌雄を決しなければ、金門島防衛は成功とは言えない。

 そのために、根本は日本陸軍が得意とする塹壕戦法をとることとした。海岸や岩陰に穴を掘り、敵を上陸させてから戦うという、硫黄島や沖縄戦などでも、圧倒的な戦力の米軍に対し大きな損害を与えた戦法である[a,b]

 この塹壕戦法を応用して、敵を上陸させた所でジャンク船を焼き払ってしまえば、敵は増援部隊は送り込めない。逃げ道を失った敵兵士は動揺する。ましてジャンク船では重火器は積めないので、相手は銃器を持った兵隊だけだ。こちらには戦車も野砲もある。上陸した兵を一挙に殲滅できる。

 根本は共産軍の上陸地を想定し、塹壕陣地の構築、敵船を焼き払うための油の保管など、日夜島内を巡りながら、指示して廻った。

6.共産軍の上陸始まる

 10月1日、毛沢東による中華人民共和国の成立宣言が全世界に向けて発信された。敗走を重ねる国府軍は、金門島にまで追い詰められている。勢いに乗った共産軍は、「こんな小島をとるには何の造作もない、大兵力を送り込んで残党をひねり潰すだけの事だ」と、国府軍を舐めきっていた。

 10月半ば、金門島の対岸にある石井港には、灰色の共産軍の軍服を着た兵士たちがあふれ、中国各地の聞いた事もないような方言が飛び交っていた。「漁民は船を提供せよ」と、有無を言わさぬ強制徴用が始まった。

 10月24日夜、共産軍の上陸が始まった。大きな船には百人あまり、小さい船にも50人ほどの兵士が乗って上陸してきた。海岸が兵士の群れで埋まった。そして敵兵が上陸して行った後で、塹壕に隠れていた国府軍兵士たちは、ジャンク船を焼き払った。

 夜が明けてから、出動した国府軍の戦車21両が上陸した共産軍に襲いかかった。37ミリ砲を撃ちまくる戦車隊に、共産軍は多くの犠牲を出しながら、敗退するしかなかった。

 司令部で、湯は根本の手を握って「すべて予定通りです。顧問閣下の判断と計画のおかげです」と語った。「いささかなりとも、お役に立てた」と根本は実感した。

7.「金門の勝利」

 しかし、まだ戦さの最中である。前線に出れば、さまざま指示も出来るだろう。根本は湯の許可を得て、ジープに乗って前線に向かった。

 共産軍は金門島の西北端にある古寧頭村に立てこもり、村人を盾に必死の抵抗を続けていた。一方、長年、敗北を続けてきた国府軍は、初めてと言ってもよい大勝利に、血気にはやっていた。

「このままでは、巻き添えで一般の村民が大勢死ぬ」と根本は危機感を抱いた。村民が大勢殺されたら、今後、ここを国府軍の本拠として抵抗を続けていくことも難しくなる。根本は冷静に作戦を立てて、湯に献策した。

 まず古寧頭村の北方海岸にいる戦車隊を後退させ、南側から猛攻をかける。それによって敵を古寧頭村から北方海岸に後退させる。そこを砲艇で海上から砲撃させ、戦車隊と挟み撃ちにして、敵を殲滅する、という作戦である。湯の幕僚会議は、根本のいちいち納得のいく作戦を、一致して支持した。

 10月26日午後3時、根本の作戦に基づく南側からの猛攻が始まった。夜になって銃砲声が静まると、敵は予想通り、北側の海岸に向かって後退を始めた。そこに静かに進航してきた砲艇の火砲が炸裂した。共産軍に逃げ場はなく、砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化した。
 午後10時、共産軍の生存者は武器を捨てて降伏した。正確な数字は定かではないが、古寧頭戦史館の調査によれば、上陸した共産軍は2万、うち死者1万4千、捕虜6千と推定されている。国府軍の方は、死傷者3千余名に過ぎなかった。

 本編(上)の冒頭で紹介した古寧頭村の古老の言葉、「自分たちがあの戦争で死ななかったのは、ある日本人のお陰だ」というのは、この戦いの事を指している。

 かくしてわずか2昼夜で「金門の勝利」が確定した。勢いに乗って攻め立てた共産軍は、主力を殲滅されたため、その進撃は完全に止まった。金門島はそれから60年を経た今日も台湾領であり、中国の海峡制圧と台湾侵攻を防いでいる。


8.釣り竿を担いでの帰国

 10月30日、湯は幕僚たちを引き連れて、台北に凱旋した。その中に密かに「林保源」こと根本・元日本陸軍中将がいることは、集まった新聞記者たちは誰一人知らなかった。

 湯一行を迎えた蒋介石は、根本の手を握って「ありがとう」と言った。蒋介石総統に恩を返す、それだけのために台湾に密航した根本にとっては、その言葉で十分だった。

 昭和27(1952)年6月25日、根本は羽田空港に降り立った。小さな釣り船で延岡を出航してから、丸3年が経っていた。出発した時と同様に、釣り竿を担いでいた。いかにも、台湾でちょっと釣りをして帰ってきた、という出で立ちである。

 その頃、日本国内では、蒋介石が戦局挽回を図るために、日本の旧軍人たちを募兵しており、それに根本が関係している、との噂が立っており、大勢の報道陣が待ち構えていた。

「台湾で何をしてこられたんですか」との質問に、「日本の天皇制は蒋総統のおかげで助かったので、その感謝の気持ちを伝えたかっただけだ」と根本は本音を漏らした。「でも、噂のような募兵計画などに参加したり、前線に出て部隊の指揮をとったりしたことはないよ」と、巧みにはぐらかした。

9.一対の花瓶

 台北の中心に立つ巨大な中正紀年堂には、蒋介石の巨大な像とともに、彼の執務室を再現した部屋がある。その中に高さ40センチほどの花瓶が置かれている。他の壺や置物は一対となって左右に分かれているのに、この花瓶は一つしかない。

 この花瓶は1947年に2個1セットとして3セット作られ、イギリスのエリザベス女王に1セット、日本の皇室に1セット贈られた。残る1セットの一つを蒋介石は自分の手元に置き、もう一つをこう言って根元に与えたのである。

 これは、あなたと私がいつも一緒にいるということです。常にそばにいて、お互いがお互いを忘れないという意味で、この花瓶を贈ります。

 それは命をかけて蒋介石の恩義に報いようとした根本に対する蒋総統の真心を表したものだった。根本に贈られた花瓶は、今も日本国内のある場所で大切に保管されている。

 根本と蒋介石は共産軍に対して共に戦ったのだが、中国の軍事的脅威は今も続き、その下で日台は運命共同体である。現在の日台両国民も、この1対の花瓶を分かち合っていることを忘れてはならない

 

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