則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2016年05月

讀んで戴ければ幸甚です。

陵西陵墓参考地

陵西陵墓参考地(おかにしりょうぼさんこうち)とは?
磐園陵墓参考地のすぐ南にあります。

磐園陵墓は顕宗天皇ではないかといわれています。その皇后で顕宗天皇皇后難波小野女王「なにわのおののみこ」とよばれ古事記に記載があります。
この陵墓のすぐ近くにはJR和歌山線が通っています。
培冢(ばいちょう)とよばれる塚が培冢い号~培冢ほ号まであります。い号からに号までは和歌山線の横に並ぶようにありますが「ほ号」だけは和歌山線を越えて高田温泉さくら荘の南側にあります。
そのすぐ南には

難波小野王(ナニワノオノ)
・生没年:生年不詳~仁賢天皇2年(489)年
・続  柄:顕宗天皇皇后/(父)丘稚子王、(母)不詳
雄略天皇の皇孫丘稚子王の王女にあたる系統で、顕宗天皇即位に伴い皇号に立てられた。しかし、賢宗天皇が崩御し兄の仁賢天皇が即位すると、即位二年後に突如自害し果てた。
これは顕宗天皇の代に宴の席で当時皇太子だった億計皇子(仁賢天皇)に非礼を行い、それを罰せられることを恐れた故であったという。


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『新編 生命の實相』の憂鬱-5

トキさんが重要なことを言っておられるんですね。
それが下記の内容なんです。


70トキ ◆NeaLgIQX3w :2016/05/19(木) 20:31:09 ID:LhGG7Ads
 生長の家という宗教団体は、結構、世間からは評判の良い団体だったみたいです。
と、いうのは、信徒ではない人から、結構、お褒めの言葉を頂戴する事が多かったからです。

 卑近な例ですが、私が旅行に行った時に、偶然、隣に座った高齢の方に話しかけたら、最初は
部愛想な反応でしたが、私が生長の家の信徒である、と知った瞬間に一変して好意的な反応をし
めされたことがありました。また、見舞いに行った病院の医師が、生長の家に対してかなり高い
評価をしていたことも経験をしています。

 この原因を考えると、多くの信徒さんの地道な努力の結果だと思います。

 また、教えを実践した結果だとも思います。

現在、教団がこういう状態ですが、信徒は、自分が「生命の実相」を真面目に拝読し、行をする、と
いう基本を大事にすることかと感じます。


この内容についてはトキさんも屡々書いておられるのですが、何が重要かと申しますと、『生長の家の教え』というのは伝えようとすると『生命の實相』しかないということなんです。
もちろん他の本もありますが、その根幹というのは『生命の實相』しかないのです。
生長の家を知りたいといえば、貴方はどの本を差し上げますか?

もちろん『生命の實相』でしょう。とりわけ『頭注版』の生活篇などその人の運命を変えたりする。
いままで、夥しい人を救い、運命を変換させたのも『生命の實相』です。生長の家で聖典というのを真っ先に思い出すのも『生命の實相』と応えるのも当然です。

編集長は頭注版だといけない、編纂しなければならないと言っていましたが、それもおかしい話なんです。私もいろんな本を読みますが、確かにそんな本でもここを変えればいいのかなとかいう本もあります。

だがそれを変えてしまうと「値打ち」がなくなるんです。
谷口雅春先生の御意向というのがあるのですが、そういうのを無視して勝手に変更してしまい編纂委員の言葉まで端書に書いてしまっている。本当に『生命の實相』の値打ちを知らずに落としている。

だからこそ、多くの人が『頭注版 生命の實相』を望むのです。

私は発行する以前からそんなことすると「『生命の實相』は売れませんと何回も繰り返し申していました。

頭注版だと全巻揃えている人の少ないので、その巻だけ購入すればいい。だから引き続き購入出来る。現生長の家信徒でも光明思想社の本を買うのを反対されているが、黙って購入できるのです。
いまの『新編 生命の實相』だと購入したくともバラバラだし、全巻揃うのも17年も掛かるので諦めるのです。

破邪顕正さんも私の何度もの訴えも無視です。
「日本会議の研究」で忙しいのかもしれません、私はあの本は「嘘」で固められた本だから読む価値なし、
と断言していました。そんな著者はいろんな人に訴えを起こされて最後は莫大な慰謝料で悲惨な生活を送ることになるだろう。

普通は本に書く場合は本人の了承を得るなりして実名を書きますが、そんなこと全くしていない。最近では放送する場合には本人の承諾というのが必要です。
私も2006年に私の住んでいる団地が連続放火という災難い遭遇しました。それを大阪の毎日放送で取り上げられましたが、後ろから放映するということで実施しましたので顔や実名などもちろんなしです。

私が話しているのはわかりますが、知らない人はわからない。
そうしたことでも実名やなどは承諾は必要となる。もちろん公人という場合でも内容が違っていた場合などいろいろなケ-スがあります。
だが黒幕とされるA氏はもちろんそんな人ではありませんし、私から言わせば「酷いガセネタ」で書いたものであることは間違いないことです。
そうした間違いを書いた場合は出版社や著者は慰謝料をもって賠償しなければなりません。

さて話が飛びましたが、『生命の實相』について下記の内容が順当であると思います。
また、インタ-ネットで本が読める時代です。いつまでも光明思想社を待っていても埓があかない。
そうしたことも考えて見ることも必要です。


今、頭注版全40巻の刊行を望む (13009)
日時:2016年05月15日 (日) 10時47分
名前:
じゅんじゅん


『新編』は文字は大きいが、かえって読んでいてまどろっこしく

読みづらい。また文字が大きいと、幼稚な印象を与えるのでは?

それは高校の教科書より小中学校の教科書の文字が大きいように。

頭注版以前の生命の実相は、文字は小さくとも、2千万部以上の

販売実績がある。一方において、文字が小さくて読みづらいとの

意見もあろうが、一方を立てれば、片方が立たずで仕方がない。

『新編』『頭注版』を並行してなぜ出版できないのか?

光明思想社に頼めば『頭注版』も売ってくれるらしいが、

電話して聞いたら、担当者から販売を非常にしぶられた。

肝心なことは、今、『頭注版』全40巻を刊行すれば、今、

救われる人々があることである。今、救われるべき人々が

現象的に今、救われる機会を奪われている。

頭注版全40巻を現在、刊行できない理由を知りたい。

ただたんに金銭の問題なのか?

昭和の時代、どこの大型書店の宗教書のコーナーへ行っても、

『頭注版 生命の実相』全40巻が光輝燦然と霊光を放っていた。

今や、どこの書店も大川隆法や池田大作の本が書棚を独占している

この現状、雅春先生ならどう思われるであろうか。



磐園陵墓参考地

磐園陵墓参考地についてWikipediaから引用します。
築山古墳といっていますが、この地域は従来磐園という地名であります。周囲には沢山の古墳があり、JR和歌山線を南下しても古墳が続きます。
ただし、多くは破壊されている古墳も多くあり、残念です。
また、磐園陵墓参考地の南に陵西陵墓参考地がありますが、その南には領家山古墳があります。

磐園陵墓参考地は少し高台となっています。この陵墓の周囲は濠となっており、古墳の大きさとしては全国の27番目の大きさとなります。初めて来た時は不思議な感覚でした。その不思議な感覚というのはなんとも言葉に言ひ現しにくいですが、大きさといい、周囲の住宅地とは感覚が違うのです。異空間に迷い込んだような場所です。
 
 
領家山古墳とは
この小高い丘は通称,領家山と呼ばれ,もともと立派な古墳であったが,崩壊が著しく,原形を知りがたい。
  昭和三十年十一月,陵西(おかにし)小学校の二人の児童が,この古墳から大きな鶏頭埴輪や(まま)他の埴輪の破片と共に発見した。
  この鶏頭埴輪はまれに見る大きなもので,頭部はほとんど完全であるが,惜しいことに胴部を失っている。  現在,橿原考古学研究所付属博物館に保管されている。


磐園陵墓参考地」(被葬候補者:第23代顕宗天皇)として陵墓参考地に治定されている。

概要

宮内庁が磐園(いわぞの)陵墓参考地として管理しているため、一般市民は立入ることは出来ない。墳丘長は210mあり、後円部径は120m、前方部幅は105mである。情報は少ないが、採集された埴輪片から、4世紀後半の築造が考えられている。 墳丘の段築については、詳しい調査が行われていないが、前方部二段築成・後円部三段築成、前方部三段築成・後円部三段築成、前方部三段築成・後円部四段築成等の説がある。

歴史的には不明であるが、南西約300m離れた名倉北池(平田荘の有力武士である万歳氏の城跡:付近に池田遺跡がある。)と同様に、城として使用された可能性があり、すぐ南方にも城と関係を推測させる馬場崎と言う場所がある。

また、墳丘上にも小道が巡っており、墳丘の元の形が崩れている。周濠に掛かる外堤は後円部北方にあり、また、北方の周濠は外側から埋め立てられて細く変形しており、本来の周濠は南北対称であったと思われる。墳丘の後円部と前方部の接合部である南側だけに、外観から造り出しの存在が確認できる。

蒲生君平山陵志では、南にある全長75mの前方後円墳である狐井塚古墳(現 陵西(おかにし)陵墓参考地)と共に、武烈天皇陵と顕宗天皇陵に比定されている。古地図には、共に片岡石杯岡(かたおかのいわつきのおか)の北陵・南陵として記されてもおり、付近の地名である磐園(いわぞの)や、磐築橋(いわつきばし:東方の高田川にかかる橋)の名のいわれと思われる。また、江戸時代には墳丘上に、埴輪が散乱し、大穴があったことが知られており、既に盗掘されていると考えられる。

折口信夫も付近の友人宅に滞在し、村人の誇り高さに感銘を受けると共に、被葬者の推定を行っているが、結論は出していない。特に折口の築山古墳に対する愛着は尋常でなく、当麻寺参詣と共に度々訪れ、自分を蒲生君平伴林光平川路聖謨に続くと「新撰山陵志」(昭和13年12月『紀元二千六百年』第一巻十二号)に書き、古墳がある築山の里を「尊い地」、「聖地」とまで書いている。「古い由緒を伝える村」と書いていることから、何か伝承を見聞していた可能性がある。また、「帝室陵墓伝説地」に築山古墳が指定された折、「狂喜した」と言っている。

墳丘の中心軸の延長線について、後円部方向は二上山の南にある竹之内街道の峠付近を通り、前方部方向は箸墓檜原神社付近を通る。少し外れるが、三輪山方向でもあり、前方部東方向には直径95mの近畿最大の円墳であるコンピラ山古墳がある。コンピラ山古墳は、航海守護として知られる金毘羅神社が墳丘上に祀ってあったことから名がついたもので、三輪山大神神社大物主神と祭神が同じであるのは興味深い。

また、築山古墳の周堤帯とコンピラ山古墳の間に数mの段差があり、それが、南に築山古墳を囲む形で延びており、一部は栂池という名の池となっている。これは、築山古墳の2重濠の痕跡と推定されている。

築山古墳は、多くの大小古墳に囲まれており、築山駅前すぐ南のインキ山古墳(前方後円墳)、大谷山自然公園の中に残る複数の古墳、かん山古墳(築山古墳の北にある築山児童公園内:帆立貝式前方後円墳)、古屋敷古墳(築山古墳の西北:石室露出)、茶臼山古墳(築山古墳の南西:直径50mの円墳)、前述の狐井塚古墳(築山古墳の南東)、コンピラ山古墳(築山古墳の東)等がある。 関係性があると思われるが、築山駅北側にも黒石山の黒石支群、エガミ田支群、モエサシ支群 等の多くの古墳が有り、新山古墳もある。

また、明治時代に黒石山の古墳の盗掘嫌疑で村人の事情聴取が行われた(結果無罪)が、小さな古墳の被葬者の名でさえ、その時は忘れられていたが、元々言い伝えがあったことが判る。築山古墳に関係する家伝等の調査が望まれる。

築山古墳とその周辺の古墳群。

嘘をつくと最後は悲惨となる。

嘘が弘まると眞實のように誤解する人が出て来る。
その後それが眞實として多くの人に拡張し、未来ではそれがあたかも実際に起こった実例のように例えられる。

そうした実例は世の中に沢山あります。とりわけ朝日新聞の世論調査はそうした誘導によって操作されることがおおいのです。

あるブログを抜粋します。

統計の嘘4【誘導的な質問】

◇結果発表の仕方で嘘をつく。

「国民は靖国参拝に反対している」というアンケート結果を作る方法を説明します。(結果は逆でも良い。また、テーマは何でも良い)

先ず、質問の中身を次のように設定します。


【質問の内容】 靖国参拝についてどう考えますか?
【選択肢】1.賛成  2.どちらとも言えない  3.反対

アンケート結果が次のようなものだったとします。


【1.賛成】        40%
【2.どちらとも言えない】 30%
【3.反対】        30%

しかし、次のような結果発表の仕方で、事実をごまかします。


1靖国参拝に賛成     40%
2靖国参拝に賛成できない 60%

「賛成できない」の方には「どちらとも言えない」人も含まれています。結果のごまかしを防ぐためには、調査時の質問の中身と選択肢を、開示してもらう必要があります。

また、質問の中身を「靖国参拝に賛成ですか?YESorNO」にすれば、どちらとも言えない人はNOを選ぶしかなくなります。

◇質問の仕方で誘導する。
次の例はWikipediaからの引用です。


たとえば質問の仕方一つで結果がガラリと変わってしまう。強姦に関するある調査で、女子大生に「男性からアルコールや薬物を飲まされて、望まない性交をした事がありますか」と質問する事で「女子大生の1/4が強姦された事がある」という結論を出したが、批判者達はこの調査で強姦体験者と認定された女子大生達を集めて再調査したところ、その3/4がその体験を強姦だと考えてない事が分かった。

こうしたことが『日本会議の研究』で実際それが行われているのである。何も知らない人がこれを読んだら「日本会議』の黒幕は安東という人物だ」そういう結論になるのです。

安東先生にとっては寝耳に水のような話であるが、「嘘」というのは文章や映像化などでいくらでも「嘘」として客観化できます。
その恐ろしさはみなさんも知るべきであろうと思っています。
その「嘘」を見抜けないと「日本会議」は安東だと信じてしまうのです。

また、文章で誇張するような言い方というのは、自分の思想を誘導するのにはもってこいなのです。

昔、オウム教が映像を使ってサブリミナル効果ということで行いましたが、文章でもマインドコントロ-ルが簡単に行えます。今回の『日本会議の研究』では実際そういうことを行ったと破邪顕正さんが書いていましたが、ブログを読むと「ナルホド」である。

現在の雅宣総裁もそうした手法を使っていました。
まずは「生長の家」の「菩薩を何を為すべきか」で「生長の家大神 ー 総裁・副総裁 ー 御教」やたらに強調するわけです。それは総裁にとり都合がいいわけなんです。最後の御教えなどはどうでもいいのです。

だからこそ「御教え」は時代に合わせて変えるべきだと変質していくのです。

継承の問題もそうなんです。
どうしても公には総裁として継承していないんですから、困ったのです。
だからこそ、面授などという言葉をして「法燈」を正当化が出来たのです。しかしここまでしなければならないというのは清超先生は次期総裁の雅宣総裁を認めたくなかったのでないかと通常ならばそう考えるであろう。

今回の『日本会議の研究』は訴訟問題となっています。

「直ちに出版停止」を求められた本

4月28日、出版社「扶桑社」にFAXで申入書が届いた。差出人は「日本会議事務総長 椛島有三」。扶桑社から出たばかりの菅野完さん著『日本会議の研究』の出版停止を求めるものだった。

話題の本「日本会議の研究」 Satoru Ishido / BuzzFeed

本は、菅野さんによるウェブ上の連載をまとめたもの。日本会議のルーツや歴史、彼らが展開してきた保守系の市民運動について取材、検証している。連載時にはなかった抗議が、なぜか出版直後に送られた。

日本会議による申入書の趣旨はこうだ。

この本では、日本会議について裏付けの取れない証言を並べ、活動を貶める目的で編集されており、団体・個人の名誉を傷つける。「日本会議が、宗教的背景を持つ特定の人物」に束ねられているという結論部分に対し、特に強く反応しており「全く事実に反している」と主張。直ちに出版停止するよう求めている。

「日本会議」とは…

1冊の研究本に対し、即座に出版停止を求めた「日本会議」は民間の保守派団体だ。彼らのホームページによると、「全国に草の根ネットワークをもつ国民運動団体」であり、「日本会議は、美しい日本を守り伝えるため、『誇りある国づくりを』を合言葉に、提言し行動します」とある。

すみやかな憲法改正、日本会議の女性組織による夫婦別姓反対の集い…。活動方針や彼らが進める国民運動は、ホームページに公開されている。

日本会議が注目を集めるのは、政権と近い関係にある点だ。朝日新聞によると「超党派による『日本会議国会議員懇談会』」のメンバーに、2015年9月時点で、安倍晋三首相を筆頭に、閣僚、自民党役員らが名を連ねている

実は「申入書」だけではない

抗議は、申入書だけにとどまらない。

申入書とは別に『日本会議の研究』に登場する人物から、代理人を通じて出版差し止めを求める法的文書が扶桑社に送られているという。BuzzFeed Newsの取材に対し、複数の関係者が認めた。

なぜ、日本会議はここまで抗議をするのか。

「出版停止を求めているのは事実だが、これ以上詳しいことはコメントはできない。見解は後日、明らかにする」

日本会議の担当者は、BuzzFeed Newsにこう話した。

出版社、筆者は…

BuzzFeed Newsは出版側にも話を聞いた。

扶桑社は「係争関係にあり、コメントできない」。菅野さんは「1年間かけて取材と資料を読み込んだ結果を、世に問うたまでだ」とコメントした。

出版差し止め請求

日本会議は2016年4月28日、菅野完(別名:noiehoie)の著書『日本会議の研究』について、「日本会議について裏付けの取れない証言を並べ、活動を貶める目的で編集されており、団体・個人の名誉を傷つける。」として、事務総長椛島有三の名で出版元の扶桑社に対し、出版停止を要求する申し入れをおこなった。とくに、「日本会議が、宗教的背景を持つ特定の人物」に関連づけられた結論については、「全く事実に反している」と主張している。また、上記申し入れ書とは別に、『日本会議の研究』に記載がある人物の代理人より出版差し止めを請求する法的文書も送付されていることを、BuzzFeed Newsの取材に対し複数の関係者が認めているという。


最後に「嘘」を付いた文章を書くと、最後は自業自得であるが、いい人生などおくれない。「嘘吐き」というレッテルで悲惨な人生になるであろう。

『新編 生命の實相』の憂鬱-4

私の書いた内容が下記のようにその反論として掲載されていました。
その内容を分析しながら、その人がどうしてこうしたことを書いたのか、その反証も行いたい。
まずは下記の内容です。


光明思想社は、聖典を守ってくれました。
 (12955)
日時:2016年05月11日 (水) 00時48分
名前:神々の友達。

聖典は、霊界へ移行しても拝読出来ます。

魂は、生き通し。

時間がかかっても、着実に発行中。有り難いことですね。

東北大震災の復興も遅れています。

そのことに、それこそ ”いちゃもん”をつける人達も

いますが・・・。

陸奥さん、『新編 生命の實相』が、早く完成する様に、

協力されてはいかがでしょうか。

例えば、『新編 生命の實相』が沢山売れれば、編集部

も大きくなり、完成も早くなるのでは?

私は、無い物(少し変な表現ですが)を嘆くより、

今あるものに感謝して生きています。

聖典・聖経は守られた。素晴らしいことです。

こういう内容をよく聞きます。ただよく例えとされるのが、
素晴らしい講話で眠気に誘われて寝てしまったとしますと
「私は自分の中にある神様が聞いているから大丈夫」

それに対して
「それならば、私の話した内容を喋って下さい」
そうすると何もいえないのです。
霊界に移行しても読んでいると言えるかどうかでしょう。それより現象世界で読まれる方が霊は歓んでいます。
現象世界で『生命の實相』があればいいのではないでしょうか?

私は何回も言っていますが、谷口雅春先生は戦後まもない頃、『生命の實相』だけは早く発行したいと全力を挙げて出版なされています。
どうして早く出版されようと思ったのでしょうか?神々の友達さんだったらわかるでしょう。

それは『人類を救いたい』という気持ちが大きかったからなんです。戦前の『生命の實相』もありましたが戦後の新たな『生命の實相』で人々を救いたいという気持ちがあればこそ、無理をしてでも出版なされました。

私はいろいろな提案をしました。最初に『新編 生命の實相』について、このような編集するような『生命の實相』では売れないことを5年前にブログで記入しました。しかしそんなことを聞くような態度ではなかったことが、今回のこの問題を大きくしています。
また、小さく戦前で行ったような「パンフレット」のような形式や『大聖典』を再度出版して欲しいということも提案しましたが、なんら音沙汰もありません。

また聖典・聖経は守られたからいい。
私は雅春先生の夥しい書物の多くは重版未定という憂き目にあっています。確かに重要な『生命の實相』は護られたのですが、それこそ宝の持ち腐れではないでしょうか?
『眞理』もありますが出版さえ出来ない。
谷口雅春先生の書物はどれほどあるのかご存知でしょうか?
一部重複していますが800冊以上です。

あるものに感謝というのは大切かもしれませんが、私そういう人は『生命の實相』を全て所有しているからそんなこといえるのです。

持ちたいが、買えない人はどうすればいいのでしょうか?
勿論、アマゾンや「日本の古本屋」「インタ-ネット」で購入出来るかもしれません。しかしそういう場所を沢山与えることも重要です。

私は上記の文章を書いている人は「自分の事」しか書いていないのです。それが残念です。
どうして「全ての人類に「生命の實相」」を読んでいただきたいと考えないのでしょうか。

嘘を見抜く力

>『日本会議の研究』の元となった「草の根保守の蠢動」の執筆は、一年に渡りました。この一年間、雅春先生の『生命の実相』は、頭注版で一回、満州版で一回、それぞれ通読しました。それまでも一人の民族派として、雅春先生のご著書は拝読しておりました。しかしどうしても「民族派としての理論武装」のための読書でしたので、いわゆる「愛国三部書」をはじめとする雅春先生の愛国の情溢れるご著書に触れる機会しかありませんでした。ですが、やはり、『生命の実相』(とりわけ満州版の信の巻!)に接するに、雅春先生の偉大さと純真さがみにしみてわかりました。さらに、『明窓浄几』を草創編から修練編まで拝読して、雅春先生のお考えの広さ、目配りの暖かさに、時折涙することさえありました。 
 
私は、雅春先生が大好きです。心酔していると言ってもいいかもしれません。今、仕事のため、戦後に立ち現れた数々の新興宗教を研究しております。雅春先生とそれら「教祖たち」は少し位相が違うと思います。とりわけ帰幽される直前の雅春先生のご事蹟は、日本の誇る霊的指導者だとさえ思います。
  中略
例えば、雅春先生の『天皇絶対論とその影響』は、戦前戦後を通して、日本の右翼・民族派がものにした著作の中で群を抜いて素晴らしいものと思います。あの考え方はあの考え方でいいんです。また、雅春先生のおっしゃる「明治憲法復元」も考え方としてはありだとさえ思います(いわゆるポツダム勅令による戦後の改革は、雅春先生のおっしゃるように「革命」というべきものでしょう。その革命を復元するのは、民族派として真っ当な考え方です)
 中略 
ただ、「谷口雅春先生を信奉し、谷口雅春先生のお考えを実地に移す政治運動」をやっておられる方々が、谷口雅春先生を前面に押し出さないのは、批判の対象たりうると思います。<



上記の文章は「破邪顕正」さんと「掲載」さんとやり取りしていますが、私はこうした『日本会議の研究』など全く信用などしていないもんですから、読む価値もない本であると思っています。安東巌先生を黒幕などとしていると他の人が書いていましたが、何の確証のない言葉でしょう。安東先生も一蹴するほどの事です。千葉教区を辞められた後も日本会議の活動もされていません。
嘘もここまでくれば、他人の噂だけで書いているような本である。

さて、本は購入しない理由として本文だけでも間違いだらけの文章である。
その理由を述べたいと思います。

①『生命の実相』という本などありません。『生命の實相』
   
②満州版には信の巻などありません。『生命の實相』乾の巻ならば神道篇があります。

③『明窓浄几』という本などありません。『明窓浄机』

④『明窓浄机』には「草創編」などはありません。勿論「修練編」もありません。「草創篇」、「修練篇」

⑤『天皇絶対論とその影響』という御本は谷口雅春先生は『謹序』としてはしがきを書かれています。多分読まれたことがないからわからないのでしょうが?谷口雅春先生はこの御本は頁575のなかでその「謹序」の頁6だけです。そのためこの本は谷口雅春編著としています。そのため実際に読んだ感想として谷口雅春先生のお考えが全て含まれているとは考えにくいと思っています。だからこそGHQに没収されなかったのです。
読んでいないことがよくわかります。

⑥戦後に立ち現れた「信仰宗教」とはいったい何をさすのでしょうか。私ならば昭和初期に現れた宗教を勉強します。たぶん研究などしたことがない。普通ならば宗教名も云えるでしょう。

⑦生長の家が実際行った運動は「明治憲法復元」というのではありません。『大日本帝国憲法復元改正』『明治憲法復元改正』

⑧「ポツダム勅令」などはあまりいわない。『ポツダム緊急勅令』いわゆる「ポツダム命令」というのが正式な名称でしょう。また勅令というのは天子が発する勅令です。今回は「ポツダム宣言に対する受諾に伴う命令です」

「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件

(昭和20年勅令第542号)

  • 政府ハ「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ聯合国最高司令官ノ為ス要求ニ係ル事項ヲ実施スル為特ニ必要アル場合ニ於テハ命令ヲ以テ所要ノ定ヲ為シ及必要ナル罰則ヲ設クルコトヲ得
  • 附 則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス


昭和二十年勅令第五百四十二号施行ニ関スル件

(昭和20年勅令第543号)

  • 昭和二十年勅令第五百四十二号ニ於テ命令トハ勅令、閣令又ハ省令トス
  • 前項ノ閣令及省令ニ規定スルコトヲ得ル罰ハ三年以下ノ懲役又ハ禁錮、五千円以下ノ罰金、科料及拘留トス
  • 附 則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

上記は命令に対しての勅令であり、罰則等を定めているので私たちが法律に伴う件に関しては「ポツダム」命令というのが正しい。

GHQによる戦後改革は日本を貶めることであり、それを革命などと呼ばない。
「国際法」に照らしても違法なことを雅春先生は革命などとは書いていません。
またこの「ポツダム」命令は昭和20年9月20日に公布して発行です。
東久邇宮内閣は昭和20年9月6日に主権放棄していますから、正式な手続きで行われたか本当にまともな勅令かどうか疑問です。


⑨>いわゆるポツダム勅令による戦後の改革は、雅春先生のおっしゃるように「革命」というべきものでしょう。<「ポツダム宣言」戦後の改革を革命などと谷口雅春先生はおしゃっていません。


ここまでくれば笑い種であろう。破邪顕正さんもこんな人に必死にならないで下さい。また管理人は削除して下さい。読む価値もない本ですし、嘘ばかりだと推測できます。また私から安東先生に聞いてみます。

そんなものを掲載することもおかしいことです。

それと、私たちは知っておくべきことがあります。
「ポツダム」命令の政令、法律、省令は現在も法律として生きています。
戦後はまだ終わっていない「命令」であることを肝に銘じることです。

大塚陵墓参考地

昨日は奈良県の大和高田市に行った。今回は大和三山とその三山の内にある藤原京を見つめてみたい。
その大和高田市の目的は現在新山古墳と呼ばれているが、大塚陵墓参考地である。それと築山古墳と呼ばれている磐園陵墓参考地と陵西陵墓参考地である。
この三ヶ所の陵墓参考地は伝説の天皇陵としてしられている。ここの立地条件と何故ここに造られたのかを考えてみたい。

また、大和三山とは耳成山、天香久山、畝傍山です。その三山に纏わる私の感想などを書いていきたい。
また、神武天皇陵、綏靖天皇陵、安寧天皇陵、懿徳天皇陵と参拝してきました。また橿原神宮にも勿論参拝しました。走行距離は大和三山で約14kmあります。それに天皇陵等を参拝しています。プラス2kmです。大和高田駅から築山古墳やそこから、耳成山まで走りましたので15km程ありました、その他合わせて35km走ったりして目的地を目指しました。たまにはこういうトレッキングも最高にいいです。
また学習もしてきましたのでそれも纏めて今後ここに記入させていただきます。


大和高田駅に着いてからから大和高田警察署の前にあります。神社ですが、ここは何も書いていないのです。ただそこには「明治天皇遥拝所」の石碑があります。周りの喧騒たる住宅地にこの小さな名も無き神社に真新しい石碑の遥拝所です。名前は正式には「勝手神社」の呼びます。
ここの名前は向かいの大和高田警察署の勤務中に教えていただきました。ありがとうございます。
さてその「勝手神社」ですが鳥居には天保時代に建立されたことが記入されています。

正哉吾勝々速日天忍穂耳命 (まさかあかつかちはやびあめのおしほみのみこと)
末社祭神大物主命 (おおものぬしのみこと)
国狭土命 (くにさじのみこと)


「経覚私要鈔(けいかくしようしょう)」に文安四年(1444年)、布施氏が押し寄せ、「深楽(しんらく)」の堂塔を焼いたという記録が見え、「寛永郷帳(かんえいごうちょう)」にも「秦楽村(しんらくむら)」と記され、古来から秦氏とのかかわりが深いところとされている「日本書記」には、”韓人、池を造る”とあり、渡来人が、百済の「甘羅(かむら)」の地名を移して「神楽(かむら)」の文字をあて、これを音読して神楽(じんらく)とした説がある。
氏神、勝手神社(吉野、勝手神社の分紳)の祭神は、正哉吾勝々速日天忍穂耳命(まさかあかつかちはやびあめのおしほみのみこと)で、即ち、雷神のことで、天空の音楽の神といわれる。むかし、このあたりに雷が落ち、村人が金たらいをさげて、遠巻きにして取り押さえると雷は、ふたたび、ここえは落ちない、と約束したという伝説などとともに、ここは、歴史、民俗とともに興味多いところである。
大和高田市教育委員会
     -境内の案内板とリー

神楽集落の東方南より国道枚方高田線の西側に鎮座する旧村社で、正哉吾勝々速日天忍穂耳命を祀る。明治二十四年の「神社明細帳」に、吉野山の勝手神社の神の分霊とあるが、吉野山の勝手神社は「金布山秘密殿峯山秘密伝」に「多聞天王の垂迹、仏法護持の大将」とあり、江戸期には神主二、社僧十七をみつ金峯山修験者の崇敬あつい神社であった、この地方古来の風習に大峯山へ行者詣の往復には、必ず先達に引率されて当社に参詣するのが例であった。当社の創祀は当地方の人々の金峯山修験信仰の篤さから吉野の勝手神社を勧請したのに違いない。
例祭は十月十日の夜宮祭で、七月二十二日の夏祭に参詣する氏子たちは、本殿と拝殿の間の砂利で盛り上げた小山に線香を二本宛立てて拝礼する習わしがある。
     -奈良県史(神社)より-

是非、こうした神社を残して欲しい。


次に新山古墳と呼んでいますが、大塚陵墓参考地です。
何故陵墓参考地とよばれているのかといいますと、第25代武烈天皇陵ではないかという伝説があるからです。
(wikipediaより抜粋)

奈良県西部の馬見古墳群に属し、その郡中でも初期に築造され、墳丘は前方部を南にむけ、全長約126メートル、後方部幅67メートル高さ約10メートル、前方部幅約66メートルほどの前方後方墳である。1885年(明治18年)に所有者が植樹の際に穴を掘ったところ後方部にあった竪穴式石室につきあたり、銅鏡ほか多数の副葬品が出土している。

宮内庁によって大塚陵墓参考地として管理されている。

副葬品

  • 銅鏡34面出土、その内に直弧文鏡がある。この文様は3、4世紀のころに現れ、直線と弧線を組み合わせて形を作るが、その作図法は極めて難解である。各古墳の蓋・楯などの埴輪にも表現されている。銅鏡のうちの変形方格規矩神鏡は、紐の周りを方形に区画した中に十二支の漢字が、文字とは解読できないほど文様化したものになっている。
  • 三葉文を透彫りした帯金具は、河北省定県43号墓(後漢中山穆王劉暢墓)のものが最も古く、2世紀に出現している。その他に盤龍文系、龍・鳳凰文系、双龍文系、龍文系などがある。その内、銀製帯具は、江蘇省宜興(ぎこう)周氏墓群1号墓(西晋周處墓)その他の六朝期の古墳から出土した帯具と類似性が強い。江南からもたらされたものか、その影響を受けたものである可能性が高い。年代的には300年前後の製作と考えられる。

蒲生君平の山陵誌には磐園陵墓参考地を一旦、武烈天皇陵として比定したがその後安政ではそれを否定している。その為、現況の武烈天皇陵は(wikipediaより抜粋)

(みささぎ)は、奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)に治定されている。公式形式は山形。陵号は顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵に対応するものであるが、『古事記』には「片岡之石坏岡」、『日本書紀』には「傍丘磐坏丘陵」とあり、本来南北の区別はない。なお、この2陵と孝霊天皇の片丘馬坂陵は合わせて「片岡三陵」と呼ばれる。

また蒲生君平が一旦比定しながら

継体天皇2年10月に奉葬された。元禄探陵の際は香芝市平野にあった平野3・4号墳(消滅)が陵に擬定され、幕末まで保護された。蒲生君平の『山陵志』は大和高田市築山の築山古墳(磐園陵墓参考地)を比定したが、安政の陵改めではこれを否定。幕末には諸説分かれて修陵出来ず、明治22年(1889年)現陵が治定された。しかし、宮内庁管理下にある現陵は「古墳として造営されたものではなく、単なる自然丘」という見解が学会における一般的な見方で、陵そのものの実在を疑う意見もある。

ただ、学会における「単なる自然丘」というのも疑問が残る。どう考えても自然ではありえない形状が考えられるからです。

その大塚陵墓参考地の隣の町名は「みささぎ台」となんとも学会の人たちに聞かせたいものです。

宗教年鑑に見る信徒数減少

宗教年鑑と信徒数

年代

信徒数

年代

信徒数

年代

信徒数

昭和24

934324

昭和49

2375705

平成9

872925

昭和25

956420

昭和50

2533232

平成10

862507

昭和26

1216000

昭和51

3169948

平成11

857600

昭和28

1479812

昭和52

3095771

平成12

850435

昭和29

1461604

昭和53

3242911

平成13

840671

昭和30

1469844

昭和54

3414848

平成14

836847

昭和31

1472280

昭和55

3676144

平成15

822940

昭和32

1488976

昭和56

3733239

平成16

802721

昭和33

1533784

昭和57

3750723

平成17

787222

昭和34

1533624

昭和58

3030137

平成18

767606

昭和35

1530108

昭和59

3088438

平成19

741363

昭和37

1539060

昭和60

3009558

平成20

711427

昭和38

1447140

昭和61

804875

平成21

682054

昭和39

1458232

昭和62

810644

平成22

651119

昭和40

1457778

昭和63

817089

平成23

618629

昭和41

1440420

平成元年

821998

平成24

586973

昭和42

1437554

平成2

838496

平成25

550310

昭和43

1707405

平成3

854335

 

 

昭和44

2176025

平成4

868640

 

 

昭和45

2414950

平成5

872198

 

 

昭和46

2295780

平成6

877110

 

 

昭和47

2188518

平成7

876732

 

 

昭和48

2349275

平成8

875192

 

 

最近、島田裕巳著の『宗教消滅』という本が出版された。

166~頁173まで記入している。多くは間違った宗教学者らしからぬ上部だけの自分のドグマを感想にしているのはいつもの書き方であろう。

それは「日本は戦争に負けたのではない」ということについても、内容がどうして書かれたのかを記入しないで、その点のみを捉えているのは完全に間違っている。

たとえば、その人は食事をしているといえばその人は巨漢で食欲の多い人であると錯覚する人がいる。しかもそれしか書かない。そういう書き方は全体を把握するのに、何故それを書いたのかわからない。オウム教を間違った感想により批判されたことをこの人は懲りないのか。

さて、それ以外の生長の家の指摘は考えて見る必要がある。

上記の『宗教年鑑』における信徒数を見てどのように思うかであろう。

現在55万という信徒数であるが、更に減少していると指摘する人がいる。昭和60年から61年の信徒数をどのようにしてカウントしていたのか疑問を感じる。これだけの落差がどうして生じたのか不思議さえ感じます。

さて、最近の生長の家の信徒の減少はPL教団とともに危機感すら感じています。

生長の家はでもその理由はわかるような気がする。

 

それは総裁という変なドグマを生長の家を変貌させていったことは間違いない。

戦後の生長の家は信徒数も発展していったことは今までの調べでわかっています。私の小さい時は吹田市という町でもかなりの数の人が生長の家の信徒であったことを思い出す。幼稚園の世話している人や学校の先生など沢山の人が生長の家であったことを記憶している。それは現在の大阪教化部部長も知っていることでもある。

生長の家の青年会では20名以上の信徒が誌友会に参加していた。『理想世界』誌を輪読することが多かったが、勉強になることが多かった。

それが今ではどうであろうか、青年会も消滅しているのである。相愛会という組織も7つあったが、今は2箇所で細々と開催している。

 

白鳩会だけはなんとか保持できているが、多くの人は現体制に不満を感じている人が多いと聞いています。

こんなことで発展などありえない。クラフトや園芸や自転車などバカバカしく本当に生長の家を潰す気であることを感じている。

 

こんな人に生長の家を任せている幹部は情けないことを感じないのか。生長の家はオボチャンの遊び道具である。それに満足して共感している人は信仰など無い。

 

ある人からは55万人もいないのではないかと疑問を呈する。それならば何人であるかと聞くと20万人位であろうとしている。

講習会は東京で開催しようとしても、関東地域から集まるのである、人数が少ないから関東各地域からも移動である。

先日の滋賀県の講習会でもそうであった。

それでは何のために何箇所か分けて開催するのであろうか?

 

生長の家の衰退は本部を辺鄙な場所に移動したことが大きく影響している。総裁はセレブな生活を辺鄙な場所でも行っている。しかも信徒の浄財であることを忘れている。エコといいながら自動車や飛行機で移動している。

 

ガソリン等を使いながら田舎暮らしを提案するという、矛盾を感じる。それならば講習会も自転車移動ですればいい。埼玉から東京までだったらそれほど時間もかからない。自ら実行して下さい。

 

江戸時代の循環的社会

トキさんの眼力というのか着地点が少しぼやけていますが、それでもこれほどはっきりした論評をする人はいません。賛同いたします。

その内容はといいますと

>組織 板

3378トキ:2016/05/01(日) 23:17:39 ID:faru4mFE
 この数日、遠出をしており、皆様にはあまり姿を見せず、すみませんでしら。

 相愛会と栄える会の幹部研鑽会では、総裁ご夫妻のご指導を賜り、今後の組織の方針がある程度わかる内容でしたので、
ご紹介をさせていただきます。結構、難しい内容の話でしたので、詳しい部分は省略します。

 記憶を頼りにかいたので、間違いがあるかもしれません。その点、ご了承下さい。

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 ご夫婦の話は、要するに、チャップリンの「モダンタイムズ」の世界のような話でした。つまり、第1次、第2次の産業革命では、文明化がすすみ、人間の機械化が進み、自然と疎遠になります。
そして、今は、全自動の社会になっています。例えば、自動車などは、オートマティク車が普通になっています。しかし、これが原因で、人間は危機に瀕しています。
そこでこれからの文明は全自動のシステムから脱却しなければならないのです。

 例えば、先日、梅田で自動車の暴走の事故がありました。あれなどは、オートマティク車だから、なんな事故になったのです。マニュアル車だったら、あんな事故にはならなかったはずです。飛行機でも、プログラムミスで墜落した事件がありました。これらなど、全自動の世界が危険であることを示しています。
ですから、これからの第三次産業革命(文明という表現を使っていたかもしれません)では、今迄のような全自動のシステムから脱却しなければいけません。また、そういう方向に時代は移ります。

 ですから、原発をやめて、地産地消をしなければいけません。その点、日本では、江戸時代などは、完全な循環的社会でした。そういう循環的な社会の実現のために、私達は何をしなければいけないか。
それは、クラフトをし、園芸をし、自転車に乗る事です。「めんどくさい」こそが大事なのです。

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 ご夫妻の話を聞くと、だいたい、そういう方向でした。あとは、里山資本主義とかにも言及されていました。たまに、聖典からの引用もされていましたが、
取って付けたような内容でした。

 参加者の反応はあまりよくありませんでした。正直、理解できない、という人が多かったです。前日の白鳩会幹部研鑽会でも同じ話をされていましたが、私の知人の参加者ははっきりと
「信徒をバカにしている」というのが反応でした。相愛会幹部研鑽会では、『江戸時代に戻れというのか」「ミッション車などは今頃ほとんど作っていません。」『生長の家の話ではない。自分のドグマを
説いただけだ」というのが感想でした。

 今日は疲れたので、この辺りで失礼をします。時間があったら、明日、続きを書きます。<



全自動システムを否定するなどすごい人ですね。その恩恵に預かっていても、そういうことが言えるのですね。
たしかにAT車だからアクセルを踏んだ状態で進みます。ミッションだったらエンストしたかどうかまではわかりませんが、安全とはいいきれません。
そんな人のためにも自動ブレ-キなどの衝突回避システムを全車に装着するほうが大切なような気がします。

江戸時代の循環的社会というのは糞尿などのシステムが構築されていて、路上などは清潔でした。だからといって、江戸の町屋敷では外に便所などはなく匂いは家の方に及んでいた。
『江戸の糞尿学』永井義男著が書いているのは参考となる。

さて江戸時代を循環的システムが構築されていたかは諸外国に比べてかなりの良いシステムだったといえます。糞尿を堆肥として利用しそれにて再び食料として栄養素の高いものが産出されます。
大阪での江戸時代におけるシステムを学んだことがありますが、河川というのが一つヒントがあります。
それは地野菜というのがありますが、吹田のくわい、天王寺の蕪、毛馬のきゅうり、田辺の大根、守口の大根、河内のレンコン、勝間の南瓜、泉州の玉葱、鳥飼の茄子、服部の越瓜等ありますがこれらの多くは江戸時代から栽培されています。その特色として大和川から南側にあったり、淀川の北部や大和川の東に栽培されているのが多かった。天王寺の蕪や勝間の南瓜などはどうなるかというと土壌というのが野菜に合っていたのではないかと思っています。大阪城などの町並みからも当時は離れていて谷町から天王寺は標高は大阪城で32.5m天王寺駅界隈では11.8mで地下の土壌の流れは大阪城付近に及ばないとのことがあったと推測できます。そこで糞尿というのは町から外に出す。それは河川により敷かれるのです。だから清潔といわれているのです。

与謝野蕪村は「名物や蕪の中の天王寺」と詠んだ。通常は「蕪」(かぶ)と呼んでいますが、「かぶら」が最初でその後女中言葉として「おかぶ」という丁寧な言葉になって、その「お」がとれてカブとなったといわれます。それと同じように「なすび」もそうです。

「福祥」と「祥福」の違いは?

下記のコメントをいただきました。

「祥福」は「招福」または「福祥」の間違いではないかと云われていますが、「祥福」は「福」の字の中に出てきます、角川新字源P726


曳馬野さんコメントありがとうございます。

実はこの「祥福」という字はいろいろとあります。人名だったり、お店の名前だったりするのです。たとえば幸福という言葉を逆に読みません。

それはどうしてかというと、それをするとややこしくなるからなんです。
さて、昨日(5月3日、ジュンク堂 難波店(Oキャット)で確認させていただきました。角川新字源改訂版 頁726)引用はありました。確認させていただきました。ただ、意味などは記入はありません。羅列しているだけです。


たとえば祥福はパソコンで打てば出てきます。でも福祥も出ます。全ての漢和辞典は福祥です。それならば祥福とはどういう意味ですか?


多分、出題がなければ同じ意味でしょう。しかし多くの日本語は逆さまにするとその意味が多少なりとも異なります。たとえば「風雨(ふうう)」は音読みですが、「雨風(あめかぜ)」は訓読みとなります。訓読みだと「雨風(あめかぜ)をしのげる生活でいい」とか風雨(ふうう)との感覚的に違う意味となります。

そういう言葉は沢山あります。音読みとか訓読みとか関係なしであります

愛敬(あいきょう)、敬愛(けいあい)・愛情、情愛・期末、末期・学力、力学・化石、石化・軽口、口軽・規定、定期等2300組の種類あるようです。(NHK放送文化研究所より抜粋)

たとえば意味が異なるものとか、類似している意味とかがあります。

「渋柿」「柿渋」と意味は類似していますが、言葉の使い方が違います。


大辞林
第三版の解説


ふくしょう【福祥】

めでたいこと。幸福と吉祥(きちじよう)


それでは「祥福」とは最初に書いたようにどういう意味があるのか曳馬野さんに教えて頂きたいのです。もし角川新字源の頁726に書いているのであれば意味があると思います。


最初に引用した「愛情」と「情愛」には大きな違いがあります。使い方のニュアンスが異なります。

情愛;いつくしみ愛する気持ち。深く愛する心。」なさけ。愛情。

愛情;大切にすること。かわいがること。めでること・


日本語では(高杉親知の日本語内省記より抜粋しました)

実のところ、語順は文化的な重要さとはあまり関係がないのだ。言葉には言葉の規則がある。語順を決めるのは一に文法、二に発音である。右と左は並列なので、文法では順番は決まらない。それぞれの言語の発音が、和語では「右左」、漢語では「左右」に決めるのだ。

日本語では、二語を並列につなげる場合、おおむね以下の規則に従う。

  1. 母音で始まる語が前
  2. 短い語が前

古代日本語では母音連続があると一つに融合するという規則があった。

鳴海(なるみ): (nari) + (umi) → nariumi → narumi
荒磯(ありそ):
(ara) + (iso) → araiso → ariso
(なげ)き:
(naga) + (iki) → nagaiki → nageki

子音を挿入してこの融合を避けることもあった。

小雨(こさめ): (ko) + (ame) → koame → kosame

並列の二語は、母音連続を避ける語順を選べば、このような問題は起きない。

雨風(あめかぜ): (ame) + (kaze) → amekaze
親子(おやこ):
(oya) + (ko) → oyako
妹兄(いもせ):
(imo) + (se) → imose

母音で始まる語がないなら、短い語が前になる。

右左(みぎひだり): (migi) + (hidari) → migihidari
妻夫(めおと):
(me) + (woto) → mewoto


辞書には時たま日常使わないような言葉が出てきます、それがその発行した会社しか使用されていない場合は通常そんな言葉は引用や訳語がなければ、使わないのが通常です。

 

 

 

 

 

 

 

鯖街道踏破

鯖街道をようやく踏破しました。(4度目の挑戦で)
5月1日

未明の小浜市のいづみ商店街。
もちろん、ひとっこ一人もいない。
距離は短い、シュッタ-商店街ともなっている。そこの中央あたりの路面に「さば街道起点」というモニュメントが貼り付けている。


もともとこの「いづみ商店街」の東側にあったものをここに移設してきた。かすかに鯖の模様と形がみえる。

「京は遠ても十八里」
小浜湾で捕れた新鮮な鯖を塩漬けにし、若狭街道で運んだ、それを現在の近江今津の琵琶湖の水路を使用して運んだという。滋賀から京都へは山中峠から運んだといわれる。いわゆる馬借を使って運ばれた。
ただ、最短距離は裏ル-トとして人夫で背負って運ばれる。
数は少ないが新鮮な鯖がありつけるのですから、高値で取引されたといわれる。私はその最短ル-トを選択して走行した。

針畑ル-トとか根来峠越ル-トとか呼ばれている。そのル-トを利用した。
早朝午前2時にいづみ商店街をスタ-トした。遠敷から国道を離れていく、次第に闇に包まれていく道中となる。
背中に背負っている荷物は20kgである。
多くは水分である。鵜ノ瀬に着いたころは本当に真っ暗な街道である。勿論、この辺りからは自動販売機というものはない。上根来峠に着く頃は午前4時45分あたりは明るくなってきてきた。アカゲラの激しく木を叩く音と鳥の鳴く声。

いよいよ、山の中に入る。そこで気がついたのが靴のインソ-ルを入れるのを忘れている。大変な違和感を感じた。何かおかしいとは感じてはいたが、トレイルを歩いて直ぐにわかった。トレイルは足の指先にも力が入るので中敷が入っていないと常に足と靴が動く。まずい、衝撃を和らげるものはない。脚を痛めてしまう。
靴ひもを強めに縛ったが、朽木村に着いてロ-ドを走った時には足底は水膨れとなっているのがわかった。

なんとか頑張って焼尾地蔵についたが、脚の痛みと我慢とがどちらが優先するかが問題である。小入谷を越えて小さな川を二回渡る。そのまま靴を履いたままであるが、痛みが反対に和らげる。そこから平坦道であるが18kmある。途中山中酒店で休憩した、ゆっくりした走行だが余裕があった。だが脚の痛みは酷い。

でもなんとか我慢して歩いたり走ったりした。ネグロ峠は最後はバテバテである。
今回は新しい鯖街道の道を選択した。八丁平の横を通り、林道を二回横切る。
大見までほとんど歩きである。
大見から杉峠までは踏ん張って歩いた。
杉峠からの舗装道路の下りはゆっくりだけど走ったが、鞍馬駅で限界である。足が痺れている。
麻痺しているのである。背中の重さと脚に負荷は思ったよりキツかった。脚のマメは破れている。
着地するのが痛い。走れない。
そこから我慢大会である。ここからは昨夜観光協会で購入した鯖街道ル-トを使用する。
鞍馬街道を使う道である。途中道に迷ったが、なんとか出町柳に到着したのは午後7時である。

そこから「東山湯」に入った。昔ながらの銭湯である。学生が多く利用している。
でも足底は皮は捲れ、痛みがあるが我慢して入浴した。
最後服を着るときは軽い脱水症である。立ち眩みのように気分が悪く、しばらく椅子でゆっくりした。
阪急電車では乗り過ごししたが、ひと駅だけで助かった。
走行距離は約75km万歩計は130000を超えていた。(銭湯の東山湯まで700m)

いままでの自分だったら鞍馬駅で終わっていただろう、今回姫路城から大阪城も100kmの徒歩が役立った。
来年は鯖街道ウルトラマラソンに挑戦したい。リュクも軽く、エイドがあり楽しいだろう。
DSC_0506
いづみ商店街(鯖の模様がくっきりと浮かんでいます)
DSC_0507
DSC_0508
上2枚花折
DSC_0511

出町柳で鯖街道口の石碑




 

時間

距離km

標高m

いづみ商店街

200

0

0

遠敷交差点

242 

4.0

40

鵜ノ瀬

354 

10

75

上根来峠

454

15.1

333

鯖街道登山口           

505

16.1  

298

滋賀県との県境(最高標高819m)

616   

19.3

806

小入谷(林道との合流)

6:52  

21.7

446

山本酒店(10分休憩)

846

33.9

375

久多里山協会

1003

38.9 

373

ネグロ峠

1137

43.2

875

ネグロ峠から三つ目の標識を右                

1147

44.1

801

二ノ谷管理所

1224

46

699

尾越町

1245

47.8

668

大見(地蔵)

1310

49.8

603

大見尾根

1355

52.8

897

杉の峠

1430   

55.4 

825

花脊峠

1438     

56

783

鞍馬駅(ここで脚の痺れで30分休憩、これ以降徒歩)

1545

62.1

250

市原交差点

1714 

65.6

161

円通寺前

1802   

68.6 

97

深泥池交差点       
この付近で完全なスロ--ス、足底の痛みが限界、出町柳まで続く

1817


 

78   


 

69.8

北山駅交差点           

1827

70.5

79

北大路交差点           

1841

71.3

69

出町柳道標(石碑)        

1913

73.1

71



ここから京阪電車にゆられ、祇園四条で降り阪急河原町で電車に乗ったのが21:08である。


 距離と時間と標高は旅ロガ-による。
距離は75kmとはその後銭湯なの距離を合算しての長さです。



 

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