則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2016年04月

讀んで戴ければ幸甚です。

『新編 生命の實相』の憂鬱-3

『新編 生命の實相』の章立て変更に対しての疑義に対してお答えします!

こういう人たちは、今後も何かにつけ、しつこく、これを言い募っては、『新編 生命の實相』に“難癖”をつけてくるのではないのかと思われます。

なぜ、敢えて、“難癖”というのか?

このような発言と下記の文章(新しい経本について)は本当に関連しているのでしょうか?
私は経本などとも言いたくない。お経として認めることとなります。
ここに書いた人は既にお経として認めているのです。だから偽経とかいう発言が出てくるのです。
「学ぶ会」の発言が正しくて、『新編 生命の實相』について意見を言えば難癖になるのでしょうか?
それはあまりにも浅はかな考えではないでしょうか。


谷口雅春先生のお心に反しているというのであれば、当然、谷口雅宣総裁の新しい「経本」の発刊についてもガンガン文句をいい続けなければおかしい。

叙情詩のような呪文は私は認めていません。文句とかではなく、あのような呪文を唱えると悪影響が出ることになるでしょう。また『甘露の法雨』で融和するようなことは避けるようにしなければなりません。だから呪文を唱えることを避けたほうがいいでしょう。
だからこそ破邪顕正さんにも「偽経」とすら認めていないと私は発言しました。

それでも、私は難癖をつけていることになるのでしょうか?
また下記の文章は別の元理事から直接聞いた話とは異なるのですが果たしてどうなんでしょうか?

それを裏付けるかのように、『頭注版 生命の實相』が余りにもひらがなが多いことに、谷口雅春先生が激怒なされたという事実があるのです。

平仮名が多くて激怒されたのではなく、現代的仮名遣いを使用されていたので激怒されたと聞いています。
それでは何故「激怒」されたのかというと『眞理』靑年篇では「ヱ」や「ヰ」という音霊が出てきます。しかし最早そういう歴史的仮名遣いが『頭注版 生命の實相』では無くなってしまっている。コトバの語源ということでは「大本」時代から大切にされてきました谷口雅春先生だからこそそのように解釈できると思います。

また『頭注版 生命の實相』では雅春先生の言葉として「はしがき」に書かれていますが

「何人も理解しやすいように、当用漢字を採用し頭注を加えて出すことにしたのである。」

この言葉は果たして『頭注版 生命の實相』の編纂に直接関わっていなかったかどうか疑問を抱きます。そうした印象を与える下記の文章です。

つまり、谷口雅春先生が直に関わっていないと思われる『頭注版 生命の實相』をあまりにも絶対視して、それを拠り所にして違いを論うのは、いかがなものかなと思う次第です。

私は「学ぶ会全国大会」に参加していませんでしたので、志恩さんの発言が実に的を射る発言でありますので引用させていただきます。

1337志恩:2016/04/28(木) 22:49:23 ID:6hRUvSRg
>>1335:

私は、山ちゃん1952様が、ブログで「新編 生命の實相」についてコメントをされた1、2とも拝見しましたが、
私は、以前から元の教えへの回帰を切望している人間ですが、私も、「新編 生命の實相」につきましては、
前にも 申し上げたことがございますが、山ちゃん1952様と、同じ感想を持っております。

また、トキ様の
《これについて、最近、組織内で議論をしたときに、折衷案として、現在の頭注版
を光明思想社(あるいは生長の家社会事業団でも良い)から、PDFにして販売してはどうだろう
という意見がありました。・・・・》

この案は、今の時代に即した とてもいいアイデアだと思いますので、

是非、この折衷案を、光明思想社、並びに社会事業団は、「生命の實相」を今の時代に、
早急に普及していただくためにも、ますますの貴社の繁栄のためにも、前向きに
検討されますことを、私も切望いたします。

だいぶまえまでは、アマゾンコムで、中古の「頭注版 生命の實相」でしたら、バラバラにですが、
1巻から40巻まで、購入することが可能でしたが、
多くの方々が、それを利用されたようで、最近では、だいぶ、品薄になっており、全巻は揃えられなくなったようです。。

よろしくお願いします。

話変わりまして、
先日の第4回「学ぶ会全国大会」に、私も参加してまいりました。

詳しいことは、後からダイジェスト版になって、ネット上に載るでしょうから、省略しますが、
谷口家の血すじの皆様が、どなたもリーダーの中に、おられませんのに、1800人以上、2000名近い人数が、
全国から集まったことは、奇跡に近い すごいことだと、私の場合は、大変感動いたしております。

あまり数のことは、こだわらない方が、いいと思います。
50万個の石ころよりも、1800個のダイヤモンドの原石の方が、価値があるという考え方もあると思います。

あまり数、数、と数に こだわりますと、逆転して、50万個のダイヤモンドの原石 対 1800個の石ころに
なるといけませんからね。
内容を高めて、魅力を増されましたら、砂糖にアリが集まるごとく、ほっといても人は、集まるものだと思います。

学ぶ会の全国大会の当日、1階の席は、満席で、活気にあふれていました。

私の右となりのご夫婦は、福島の郡山から新幹線で来たと言ってましたし、左となりの3人は、友人仲間のようで、
60代ほどの女性達でしたが、千葉から来ましたと言ってました。
老若男女が 集まっていました。

午前の部も、良かったですが、午後に講話された貢先生が、とてもためになる宗教的ないいお話をされました。
そして、当日、発売の「新編 生命の實相」19巻をテキストにされまして、
持っている人は、⚪⚪ページを開いてくださいと、講話中に壇上から会場に向かって言われましたが、

私は、辺りを見回したところ、私の周りには、誰も、「新編」を、開いてる人がいなくて、はす前の席の人は、
間違えて、頭注版の19巻を 持参して来ていて、そのページを繰ってる人がいました。

ですから、多分、予想としては、ほとんど、「新編19巻」は、売れていなかったのではないかと思いますが..
いかがだったのでしょう。


私は「光明思想社」からまだ発行されていない『生命の實相』を購入したければオンデマンドでお願いしますという文章が以前ありましたが、そのオンデマンドの『生命の實相』は『頭注版 生命の實相』を基盤として発行されているというなんとも矛盾したことを行っています。

「学ぶ会」の会員様も『頭注版 生命の實相』をほとんど取り揃えておられます。それを何故敢えて『新編 生命の實相』を購入しようとするかどうかでしょう。

また、「生長の家」教団での販売などを考えると私は頭注版にしたほうがよかったと思っています。そうすることで『頭注版 生命の實相』として「光明思想社」の発行されている『生命の實相』も購入しやすかったのではないかと思っています。

トキさんの言葉は貴重であり、教団の信徒の代表の声であると感じます。

また、私の『新編 生命の實相』の憂鬱-1で記入しましたように、全巻の終刊は9年先になる見込みです。
65巻という途方もない印象を与える巻数を何故部内で反対が起こらなかった疑問です。

それよりも早く『生命の實相』を出版して「光の進軍」を進めていただきたい。

私は以前のブログで『生命の實相』の販売で提案したこともありますが、なんら音沙汰もありません。真剣に『生命の實相』のことを考えていない印象を感じました。
だからこそ、こういう私の意見を「難癖」だとかで抹殺しようとしているのではないかと思います。
谷口雅宣総裁が『甘露の法雨』で下記の文章の発言があります。

本シリーズも20回を数えたので、この辺で一応の区切りをつけたいと思う。しかし、その前に、「甘露の法雨」の時に行ったのと同様に「天使の言葉」でも、『生長の家』誌発表時の詩文と現在のそれとの間の異同について、簡単にまとめておく。これはもちろん、すべての異同の網羅ではなく、あくまでも概略である。最大の違いはすでに述べたベートーベンの『月光の曲』をめぐる記述であるが、その訂正と論理的な整合性をとるための若干の追加的変更が、前回の引用箇所の後の数行で次のように行われている:

○「彼の指頭はピアノの鍵盤に触るるに従って」→「こころの耳はピアノの鍵盤に触るるに従いて」(p.21)
○「指先」から「指頭」への変更……上の箇所に先立つ5箇所。(p.18, p.20)

 その他の変更を以下に列記する。このうち、変更によって詩文の意味が変わってくると思われるものを「◎」で示した。また、明らかに誤植と思われる箇所もある:
 
○「吾に宿る善きものは皆普遍なる者より来る」→「吾に宿る善きものは皆普遍なる神より来る」(p.7)
○「天使斯くの如く宣えば」→「天使斯くのたまえば」(p.12)
◎「青色の羅綾にその玉の如き身を包める」→「緑色の羅綾にその玉の如き身を包める」(p.13)
○「そはただ想念の影なるが故に」→「それはただ想念の影なるが故に」(p.15)
○「感覚が肉になく」→「感覚が肉体になく」(p.19)
○「体なくして物に触るるを得るは」→「体なくして物に触るることを得るは」(p.22)
○「肉体の相貌或は美しく或は醜く変化し」→「肉体の相貌或は美しく或は見苦しく変化し」(p.27)
○「『人』の実相は別の子にして、」→「『人』の実相は神の子にして、」(p.28)
○「信念を変うればまたその相も実化せん。」→「信念を変うればまたその相も変化せん。」(p.29)
○「これ『生ける肉体』なり。」→「この『生ける肉体』なり。」(p.33)
○「一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること非ず」→「一毫も汝らの生命の実相を不幸ならしむること能わず」(p.43)
◎「『生命』の実相を知らざる迷いより生ず」→「『生命の実相』を知らざる迷より生ず」(p.44)
◎「汝ら『生命』の実相を知り」→「汝ら『生命の実相』を知り」(p.44)
◎「天国なり、浄土なり」の2行分の挿入……(p.48)
○「病い」から「病」への変更……13箇所。
○「迷い」から「迷」への変更……2箇所。
 
 さて、本シリーズでは「甘露の法雨」と「天使の言葉」を例にとって、生長の家で今日「聖経」と呼ばれているものの成り立ちを追い、これらがかなり長期間の年月を経て、今日のような文章表現と体裁とに定着したことを確認した。「甘露の法雨」の場合、その期間は3年以上、「天使の言葉」は5年以上である。すでに本シリーズの第16回で述べたが、このことは、宗教上の真理を言葉に表現することがいかに難しいかを示している。いわゆる“オリジナル”の表現は、必ずしも“完成”ではない。文学に限らず、表現芸術に携わったことのある人なら、そんなことは誰でも知っている。しかし、こと宗教上の真理に関わってくると、この常識的な考え方をどこかへ置き忘れてしまう人がいるのは残念なことだ。
 
 いわゆる原理主義的な宗教観をもつ人々は、“最初の表現”がオリジナルであり、より完全に近いと考えるのである。その理由は、神や神霊からのインスピレーションは、ある時、ある場所で、一気に、特定の人物にだけ天降ってくると考えるからだろう。また、真理の表現は一回きりで完結すると考えているフシがある。これは一種の神秘主義である。それは確かにロマンチックではあるけれども、どんな宗教の歴史を調べてみても、そんな出来事は事実として存在しない。“架空の物語”なのである。谷口雅春先生ご自身が、多くの聖典の中でそのことを力説されているにもかかわらず、その種の人々は雅春先生のその言葉が受け入れられない。それでいて、自分こそ雅春先生の“真の教え”を引き継ぐ者だと豪語する。その非合理さが自分では分からないのである。
 
 読者は、私が今年の2月28日と3月7日の本欄で「コトバ」の問題を論じたことを思い出してほしい。そこでは、私は“生長の家で「コトバは神なり」とか「コトバの力」という場合のコトバとは、第一義的には身口意の具体的な表現が生まれる前の「想念」や「心の波」のことを指すのであって、肉声による言葉や、それを録音テープに収めたもの、あるいは書籍に印刷された文字による言葉のことではないのである”と書いた。それを読んでもよく理解しない人がいて、私のその文章は、聖経や『生命の實相』をないがしろにするものだと、怒りを込めたコメントを寄こしたのである。事実は、まったくその逆である。今回の「“聖経”について」を丁寧に読んでいただけば、賢明な読者にはそれが分かるはずだ。

私は自ら書かれた文章を考察して変更されることは問題はありません。だけどそれを「後世の人」が変更したり加筆したりするとどうなんでしょうか?
そうすることにより、その人の書いた「本」の価値というのが落ちてしまうのであります。
そういう雅宣総裁の行っていることを「光明思想社」の「谷口雅春著作編纂委員会」は同じようなことを行っていることに気がついて欲しい。

『新編 生命の實相』には「編者はしがき」があるがそれは全ての巻に今後掲載されることとなります。
私はそうした文章が反対に「谷口雅春先生」の聖典というイメ-ジがなくなってくるように感じています。
森鴎外の『舞姫』に別の人が「はしがき」を書いて出版したらどうでしょう?
『舞姫』の文章すら「はしがき」により変更させることは可能であります。

その「はしがき」のイメ-ジで本というのは変わってきます。原本を大切にするということを考えると疑問を感じています。

以前に仙台の「学ぶ会」支部の人が疑問を抱いたことを、真剣に取り合わないのが問題であると感じています。

生長の家の聖典といえば

奉齊主神、安置佛等の称号

道場又は集会室に特に顕斎せる主斎神又は安置佛なし。

心に幽齋する主神としては宇宙大生命(みおやのかみ)(その幽之幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照皇大現人神としての天皇)を禮拝す。

宇宙大生命は宏大無辺にしてその仁徳一切に及び一切を包容するが故に各自は先祖伝来の宗教を信じ又は自宅にて如何なる斎神又は安置佛を奉するも差支えなし。

宇宙大生命(みおやのちから)の道を顕揚し、日本の国威を発揚し皇威を顕揚する東道(みちびき)の神として心に幽齋する副神として生長の家大神(古事記日本書紀に顕れたる住吉大神即ち後に盬椎神、仏典に顕れたる釈迦、観世音菩薩及びその応化神基督教の黙示録第一章に顕れたる七つの燈台の点灯者)を禮拝す宇宙大生命は宇宙生命の根本実相にして、宗派に偏らざる哲学的表現を用うれば「生命の實相」なり。


「實相」を掛軸として禮拝致します。その「實相」とは「生命の實相」であります。
多くの教化部では禮拝殿などでは「實相」の掛軸の下に『大聖典』を安置されています。
その禮拝する基軸がポッカリと穴があいてしまっているのが現在の「生長の家」を取り巻く環境です。

戦後の『生命の實相』は様々な経済的な不安もあり、物資乏しき時代でありました。しかしそれでも敢えて『生命の實相』を発行されています
しかも『生命の實相』新修普及版20巻と新修特製版20巻とほぼ同時に出版されています。しかも昭和24年から昭和28年で終刊されています。4年間で発行されています。
それがどれほどすごいことかは私は感じています。

今の『新編 生命の實相』は頁数が少なくて4年5ヶ月で19巻ですから、これを読まれている皆様も如何にすごいか感じられると思っておられる。

終刊の予測もないのが返って不安が増長させています。
もう少しそのあたりを考えていただきたい。


全国大会の成功を心より祝す

「学ぶ会」全国大会は大変盛況でよかったですね。
破邪顕正さんの意気込みは素晴らしい。皆さんが意気軒昂に来年は2000名突破するという気持ちは間違いなく成就するでしょう。

破邪顕正さんの文章がその雰囲気を表している。それと山口采希さんが歌われたのですね。私のブログで昨年8月31日に紹介した人ですね。よかったです。
東大阪の出身です。

「学ぶ会」の益々の発展を祈ります。

山口菜希さんのブログでは

4月24日は「谷口雅春先生を学ぶ会」ということで明治神宮の明治神宮会館で4曲歌わせて頂きました(*^^*)とても皆さん温かくて優しい方々ばかりでいっぱい一緒にバンザイしました*\(^o^)/*ありがとうございました!


『新編 生命の實相』の憂鬱-2

私の書いた『新編 生命の實相』の憂鬱について下記のようトキさんからご文章を頂きました。
ただ、私は過去の意見をぶり返すようなことではなく、何故早急に『生命の實相』を出版出来ないのか。
その原因を探らないといけないと思っています。

2030
トキ ◆UMw6UoGELo:2016/04/25(月) 15:42:22 ID:a0sOQ91k
 山ちゃん1952様が以下のご文章を発表されています。

http://tecnopla1011.blog.jp/archives/58871945.html

 個人的には、この内容は、全くの正論であると考えております。

 その上で、本流復活派、とくに光明思想社に申し上げたいことは、今回、生命の実相を再編集をした
のは、それなりのお考えや根拠があってのことだと思います。

 それを発表されるべきだと感じます。再編成をした際の基準なども公表されるべきだと思います。

 また、新編 生命の実相の全巻が発刊終了されるまで、従来の頭注版が安価に入手できるように、
何らかの手配をしていただきたいと思います。

 よろしくお願いします。

それに対して過去に下記の文章があります。どういうコンセプトで出版したのかという回答です。
私はこの文章は少し間違っていると思っています。

『新編 生命の實相』の章立て変更に対しての疑義に対してお答えします!  (1942)
日時:2013年10月17日 (木) 19時52分
名前:「学ぶ会」広報官

皆さまのご支援によりまして、『新編 生命の實相』も第7巻まで順調に発刊することができました。

しかし、ここに来て、またぞろ、『新編 生命の實相』の章立てを“勝手に”変更したことは、谷口雅春先生のお心に反するのではないかという疑義を呈する人たちが出てきました。

こういう人たちは、今後も何かにつけ、しつこく、これを言い募っては、『新編 生命の實相』に“難癖”をつけてくるのではないのかと思われます。

なぜ、敢えて、“難癖”というのか?

谷口雅春先生のお心に反しているというのであれば、当然、谷口雅宣総裁の新しい「経本」の発刊についてもガンガン文句をいい続けなければおかしい。

だって、「聖経」は補強しなければならない、これほど谷口雅春先生のお心を踏みにじる発言はないからです。

ところが、この方々は、新しい「経本」の発刊については、「私もおかしいとは思っている、だから私は読まない」というだけで、これを発刊した谷口雅宣総裁については、それ以上の追求を決してしようとはしないのであります。

これでは首尾一貫しないではありませんか?!

結局、『新編 生命の實相』の発刊が気に入らない、面白くない、その感情的な反発があるからとしか、こちらとしては思い得ないのであります。

本当にそれが問題だというのであれば、直接、「光明思想社」に問い合わせればいいだけの話なのです。

ところが、そういうことはしないで、こういうネットで騒ぎ立てようとする。

無視しても構わないのですが、この際、こちら側の見解を明らかにして、“為にする論”にハッキリと決着をつけるのも一興かなと思い、ここに回答を記させていただく次第です。

さて、その回答に入る前に、日本教文社の前社長で、当会の代表でもあります、中島省治代表の重大な言葉を紹介しておきます。

中島代表は、この件に関して、「谷口雅春先生は『頭注版 生命の實相』の構成に、直接、関わっていないように思われる。篇の順番に対しても関わっておられない確率が極めて高いのではないのか」と言われています。

それを裏付けるかのように、『頭注版 生命の實相』が余りにもひらがなが多いことに、谷口雅春先生が激怒なされたという事実があるのです。

『頭注版 生命の實相』に直に関わっておられたら、尊師が激怒された理由が成立しません。

なるほど、『頭注版 生命の實相』を繙きますと、「われわれ」「わたし」等、どうして漢字にしなかったのかと思われてならない表現かそこかしこに見受けられます。

ひらがなが多いために、実に読みにくくなっているし、しかも品がない、という問題があることを知っておいてください。

つまり、谷口雅春先生が直に関わっていないと思われる『頭注版 生命の實相』をあまりにも絶対視して、それを拠り所にして違いを論うのは、いかがなものかなと思う次第です。


前置きが長くなりました。

それでは、『新編 生命の實相』で、なぜ、章立ての変更をしたのかということについてご説明させていただきます。

①まず、『生命の實相』は戦前も含めて18種類あります。
その全てが、全部、章立てが同じかといえば、決してそうではありません。
そのことからしても、章立ての変更は決して谷口雅春先生のお心に反するものだとは決めつけられないと考えます。

②『新編 生命の實相』のコンセプトは、とにかく読みやすくするということにありました。
だから字を大きくして、行間もあけるようにしたのです。
そして、『頭注版 生命の實相』のコンセプトにもあるように、『新編 生命の實相』もハンドバッグにも入る大きさにしたい。
総頁数も200頁を目処とする。
当然、そうなると、巻数が多くなる。
それはこのコンセプトを優先する限り致し方ない。
巻数が多くなることは、この際、目を瞑るしかないと覚悟せざるをえませんでした。

③各巻、それぞれ頁数を揃えるということにしたら、章立てを工夫せざるをえませんでした。
そのことは、『頭注版 生命の實相』においても散見せられるところであります。
例えば、『頭注版 生命の實相』第18巻「宗教問答篇」というのがあります。
また同じく『頭注版 生命の實相』第23巻にも「常楽篇/経典篇二」の下に「宗教問答続篇」というのが出てまいります。
しかもこの「宗教問答続篇」はわずか15頁しかありません。
普通であれば、「宗教問答篇」として一緒に章立てしたがいい筈です。
どうして、こんな分け方をしたのか?
総頁数を揃えるための苦肉の策ではなかったかと思わざるをえません。
何を申し上げたいか。
『頭注版 生命の實相』でも決してきれいなわかりやすい章立てになってはいないということであります。

④以上のことから、『新編 生命の實相』においては、『頭注版 生命の實相』の章立て、構成を尊重し、それに準拠しつつも、決して、そのまま踏襲することはしないということにいたしました。
そこで、問題の『新編 生命の實相』の第1巻になるわけですが、「総説篇」のあと、どうして「実相篇」をもってこなかったのか?
当初は、そのようにしようと考えました。
しかし、総頁数を勘案すると、どうしても中途半端な感じが否めない。
どうするか、なかなか判断を決めかねていたとき、「総説篇」のあと「光明篇」を入れると実に収まりがいいということに思い到ったのです。
それというのも、この「光明篇」というのは、黒皮表紙『久遠の実在』では「総説篇」となって冒頭に出ていたからです。
ぜひ、ここにご注目いただきたいのです。
同じ「総説篇」であれば、『新編 生命の實相』の第1巻として、それこそ「総説篇」として実に合致するではないか、そう思ったというわけです。
また、これを入れると全体の総頁数も実に収まりが良い。
そしてなおかつ、これをもって『新編 生命の實相』の第1巻にすれば、その後の第2巻以降を「実相篇」の「上・中・下」として、スッキリと章立てがうまくいく。
そのように考えたというわけです。

⑤とりわけ、ここでご注目いただきたいのは、『新編 生命の實相』では、各巻毎に、その「タイトル」を前面に押し出したということがあります。
例えば、『頭注版 生命の實相』では、その表紙には、「総説篇・実相篇〈上〉」としか記されていません。
しかし、『新編 生命の實相』では、「総説篇・光明篇」だけではなく「七つの光明宣言 生命に到る道」というタイトルを大きく打ち出しました。
どうして、こういうことをしたのか?
『新編 生命の實相』では、そのタイトルを背表紙にまで記すことで、そのタイトルの魅力で本を手にする読者もいるのではないのかと思ったのです。
谷口雅春先生がその章立てに使われた素晴らしいタイトル、その言葉をもっともっと前面に出していこう。
そのタイトルに引かれて、その巻だけでも読んでもらう。
どの巻から読んでもいい。
タイトルに引かれて読みたいという思いを駆り立てる。
そういう『新編 生命の實相』にしたいと思ったのです。

そのあたりの『新編 生命の實相』にかけた思いをぜひ、お汲み取りいただければと心から念願する次第です。

以上が、今回、章立てを変更させていただいた理由です。

それでも納得がいかないと言うのであれば、今後は、直接、電話でもお問いあわせしていただければと思います。



それに対して少し私が反論しています。


久しぶりに投稿致します。
『生命の實相』の内容でしたので、ここで敢えて投稿させていただきます。

私は当初に意見を言っていたのは、私を含めて元理事の二人と同じ意見だったと思います。

これをいえば編集委員長もご存じであると思います。
今の意見を言っている人とは論点が全く異なることを最初に述べさせていただきます。

私も『生命の實相』を戦前と戦後の比較検討をさせていただきましたので、章立て変更は今回の新編『生命の實相』が初めてだと思います。
また今まで出版されたすべての『生命の實相』の比較検討と目次の掲載もしましたので一応すべて把握しているつもりです。

章立ては戦後のやむ得ないことでせざるを得ない状況であったことを除いてであります。
それを今回敢えてするようなことであったかどうかは疑問であります。
まずはそれが先決であろうと思います。
どうして雅春先生がそのようにされたかを知るべきであろうと思います。
それなしにいろいろな意見を述べてもダメであります。

【①まず、『生命の實相』は戦前も含めて18種類あります。
その全てが、全部、章立てが同じかといえば、決してそうではありません。
そのことからしても、章立ての変更は決して谷口雅春先生のお心に反するものだとは決めつけられないと考えます。】

最初に18種類というのは何を指していっておられるのかわかりません。
例えば復刻版などはどのように考えているのか『生命の實相』戦後革表紙版をどう解釈するのか、当初の『生命の實相』第一巻と『久遠の実在』をカウントされているのかなど様々あります。
こういう場合はキッチリと記入されるべきでしょう。

それと章立て変更が雅春先生お心に反していないと決めつけるのはいかがなものでしょう。

ただ、印刷されない状況より光明思想社のやられていることは大切な事だと思っています。


【②『新編 生命の實相』のコンセプトは、とにかく読みやすくするということにありました。
だから字を大きくして、行間もあけるようにしたのです。
そして、『頭注版 生命の實相』のコンセプトにもあるように、『新編 生命の實相』もハンドバッグにも入る大きさにしたい。
総頁数も200頁を目処とする。
当然、そうなると、巻数が多くなる。
それはこのコンセプトを優先する限り致し方ない。
巻数が多くなることは、この際、目を瞑るしかないと覚悟せざるをえませんでした。】


読みやすいのは事実です。それは確かにいい。

ただ、私は現在の販売促進がなかなかうまくいっていない状況を憂います。ほとんどの書店で取り扱っていません。大型書店でもないところもあり、その状況は日本教文社と状況が変わっていないように思います。
昔、教化部で本を購入しないで書店であえて購入したことを思い出します。

すでに販売されて久しい『生命の實相』にこれ以上議論するのは仕方がないように思います。今の光明思想社を応援されたほうがいいのではにかと思います。
そうでないとそれこそ『生命の實相』の絶版もあり得たことです。そのほうがさらに深刻であります。

また私はその文章を補足するように記入しています。

日時:2013年10月19日 (土) 12時33分
名前:山ちゃん1952

日時:2013年10月19日 (土) 17時51分
名前:山ちゃん1952

戦前の『生命の實相』一覧表
①生命の實相
②久遠の実在
③黒布表紙版 全20巻
④革表紙版(総黒革版・3方金)縮刷豪華版
全九巻 地の巻・證の巻・水の巻・火の巻・
風の巻・空の巻・教の巻・行の巻・信の巻
⑤豪華大聖典 11.11.22
⑥大聖典(豪華版)(通常大聖典に対して中聖典と呼称、本には大聖典と記載)12.6.1
⑦事変版ビロ-ド表紙版(全九巻)
地・證・信・教・風・行・水・空・火
⑧菊版装 全13巻(1巻~13巻)
⑨人造羊皮版 全 9巻
地・證・信・教・風・行・水・空・火
⑩生命の實相戦時廉価版(1巻~15巻)
⑪生命の實相携帯版叢書 (聖経附)
〇 幸福生活への真理
〇 把住と放行
〇 辧道聴き書
〇 哲学の實践
〇 永遠価値の生活学
〇 生活に生きる宗教
〇 調和生活
〇 生活化せる大乗仏教
〇 光明の生活法
〇 新生活への出発
〇 人生と恋愛その他
〇 常楽の實現
〇 楽園奪還
〇 百事如意
〇 ひかりの語録
〇 實相眞行義―錬心的修養の真髄―
〇 實相要約(上巻)
〇 實相要約(下巻)
〇 日本の世界的使命
〇「甘露の法雨」講義
⑫満州版 16.8.15  乾の巻
 (全四巻)   艮の巻?
       兌の巻
       離の巻



戦後の『生命の實相』一覧表
⑬新修普及版(全20巻)
⑭新修特製版(見返装丁)(全20巻)
⑮豪華革表紙
地の巻
水の巻
⑯布装携帯版 (全40巻)
⑰豪華版 (全20巻)
⑱頭注版 (全40巻)
⑲豪華携帯版 新装携帯版(全40巻)
⑳愛蔵版(全20巻)
㉑『生命の實相』 初版革表紙復刻版
  『久遠の實在』初版革表紙復刻版
新編『生命の實相』(全65巻)

18種類と書いておられたので、敢えて苦言を申しました。
種類という言い方はなにかおかしいのでは。

雅春先生は一つの本でも大変に拘られたことが『明窓浄机』などに記されています。
どれほど苦心され本を出版されたか、涙が出るような思いさえ感じます。
そして、沢山の人に読んでもらおうと「携帯版」も出版されています。
たとえば、全冊揃えられない人には『生命の實相』の叢書としてパンフレット版として出版されておられます。
上記の一覧表には含んでいませんが、『生命の實相』の一部として出版されています。
やはりそういう苦労を出版する人は知るべきであろうと思います。



私はこうした『学ぶ会』広報官という人が言われていることは、確証するようなことはないことも含んでいます。
たとえば、この巻の何頁にあるとか記入すべきであろう。それが多く見受けられるとかを実証的に記入しなければならない。
また、私はすべての『生命の實相』の御著書の目次を記入したことがありますので後日ここに記入します。
どこでそのように章立てを変更されたのか説明します。

また、このように「学ぶ会」広報官のいいたいことはようやくすると、仕方がないから65巻にした。
本当にそんな感じでいいのか疑義を感じる。
それが現在も全巻販売出来ないのは言い訳しか感じない。

『新編 生命の實相』の憂鬱

以前にも書いたがその続きです。
『新編 生命の實相』がようやく19巻である。平成24年1月1日に第一巻が発刊されて4年3ヶ月が経とうとしている。1年に4巻を発刊するのが精々であるのであろう。破邪顕正さんがこれからどんどんと発刊すると宣言していたが、それがこの有様である。
谷口雅春先生も泣いているであろう。1年に5巻と考えると後45巻ある。9年はかかる公算です。
終刊は平成37年から38年です。
これは敢えて厳しいことをいうが
無理して65巻にどうしてしたのか、不思議である。たぶん何の確証もなしに発行したのであろう。
その発行者の責任は重大である。


私はこういうことを書くと「いちゃもん」をつけているとか書かれますが、そんな人は『生命の實相』の発行を真剣に考えていないからです。

編集で意見をいえば、「谷口雅春先生時代」に変えているとか書いていましたが、それは執筆者ですから編集してもいいのです。それを他人が行えばおかしいでしょう。
三島由紀夫の本を勝手に編纂できないでしょ。それは「当たり前」なのです。

勝手に編纂すれば「三島由紀夫」の本にならなくなるからです。
あの『人間性の解剖』は当初栗原得二先生の御著書でした。昭和24年2月1日に発行されたのは、著書はそのようになっています。それを谷口雅春先生が加筆したりして昭和27年9月15日の改訂版では編者栗原得二、著者谷口雅春先生となっています。

これは谷口雅春先生が執筆追放ということを考慮しますと、最初に雅春先生が執筆されたのではないかとも推測できます。

どちらにせよ。お亡くなられになられた人に許可なしで編纂したらダメであることを考えてもらいたい。
私は度度言っているが、あの『生命の實相』に間違いがあります。しかしそれを変えてはダメであると思っています。間違いだから編纂するというのは傲慢であると思っています。

今回の出版された『新編 生命の實相』万教帰一篇は本来は「萬教帰一」と書くべきであろう。
こうして徐々に編纂されていくのであろう。

学ぶ会全国大会に参加しません。

しばらく書き込みが出来なかったことをお詫び申し上げます。
本日書き込みするということは「学ぶ会全国大会」に参加しないことと繋がります。

私は今回どうして「学ぶ会全国大会」に参加しなかったかというと、前からの用事があったのが一番の事です。
朝の9時から用事がありますので、それに合わせて家を出ていきます。

さて、私は昨年と一昨年と全国大会に参加しました。伊勢にも二回参加しています。しかし「学ぶ会」からなんら参加促進はありません。
「貴方が積極的」に参加すればいいのです。と言われそうだが、私は「学ぶ会」の会員でもありません。東京の知人は「学ぶ会」の会員でもない、そういう組織の大会にも出たことがないが、参加促進があったと聞いています。

地域の差を感じています。

私が所属している「日本政策研究センタ-」では必ずどんなことがあろうとも連絡してきます。私もできる限り参加するようにしています。たぶん用事も断っていただろう。

さて、先日の「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」に

「偽経」が不適切ならば「ニセ経」「似非(エセ)経」「偽装経」「甘露の法雨補強経」「聖経冒涜経」はどうでしょうか?  (1101)
日時:2016年04月13日 (水) 08時45分
名前:破邪顕正

谷口雅宣総裁のそれは、とても「真理の言葉」とは言えないからこそ、偽りのものという意味で「偽経」と言ってきたわけです。

たしかにそうですが、破邪顕正さんは「偽経」ということを理解されていないからこういう答弁になるのです。

私が度々申し上げているように、仮に私が「甘露の法雨」を似せて書いたとすると、それを「偽経」と呼ぶかどうかなんです。

そこを理解しないと、前に進まない。偽りとかそんなものではない。

しかし、これ以降書き込みがない。
破邪顕正さんが自分で決めればいいのに。

さてそれより

桜餅さんが相手にせず逃げたのが正解。(笑)  (1143)
日時:2016年04月16日 (土) 17時17分
名前:桜もち美味しい

こんなに言はれたら、どんなに正しくとも自分も逃げます。


どんなに正しくとも、楽しくないですよ!

桜もち様でしたら、楽しい会話ができそうです。


>そうですね。
勉強不足ですいませんでした。<

と言える桜もち様は、素晴らしいと思います。


この人なんですか、ひどいというより失礼だと思います。
主語と述語がわからない?幼稚園レベル

こんなこと言われたら・・とはなんでしょうか?

どんなに正しくとも楽しくないですよ?とはなんですか?

さっぱりわかりません。

桜もち様は「亀の子」さんの説明に理解したのです。
逃げてもいません。
通常ならばそう理解します。

それがこのようにどうしてひねくれて理解するのだろう。
またふざけた名前である「桜もち美味しい」

こんな人が仮に「学ぶ会」の人であれば本当に低俗です。
「亀の子」さんもがっくりしただろう。





熊本県の地震

昨日の夜、疲れで寝ていました。仕事も早く終了し帰宅後、ブログ記入後すぐに寝たので熊本の地震を早朝に知りました。
熊本の益城町は熊本空港の南側になります。私も5回程この地域に行きました。私の行ったのはすぐ北部の菊陽町ですがまさか熊本で地震が起きるなど大変ショックを受けています。

被害に遭われた人、お亡くなれになられた人に心より追悼させていただきます。

この地域は少し山間に行けば、牧場などもありゆったりしている場所です。トウモロコシの栽培も盛んで黒土の土壌が豊かに実りを支えています。トウモロコシは主に家畜などの餌が多いようですが、懐かしく、淋しさもあり、早く立ち直って欲しいと思います。

初代 神武天皇陵 畝傍山東北陵 (うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)

ブログの基本パタ-ンをどれにしようか悩みました。
私の好きな写真をこれから入れていきたいと思います。
最初は神武天皇陵です。数年前の建国記念の日に参拝したときに撮影しました。

深々と積もる雪。その奥に神武天皇陵が大きく鎮座していました。

神明鳥居は御陵の多くに建立されています。お寺に御陵があるところもありますが、神明鳥居が建立されています。

親鸞上人と聖徳太子

親鸞上人は聖徳太子が建てた京都の六角堂に100日こもり、本尊の救世観音に行くべき道の指示を求め、太子の示現を得て法然上人の門下に入ります。
親鸞上人はどうして比叡山に籠り20年間、悟りを得られず下山したのであろうか。

聖徳太子に憧れた親鸞はその化身である観音菩薩として仰ぎ、父として慕っていました。

聖徳太子の示現


親鸞は20年間の比叡の修行にさとりを得ることができず、建仁元年 (1201)29歳のとき、山を下り六角堂に百日参籠を志し、今後の身の処 し方について教えを請うた。95日目の明け方に、聖徳太子が現われ、偈文をとなえて行くべき道を示された。この太子の指示によって法然のも とをたずねた。

 その太子示現の文の内容は明らかではないが、「聖徳太子廟窟偈」で あろう。それは浄土教によって救われることが示されていた。

 このころの親鸞の悩みは、天台宗の修行を続けるべきか、浄土教に入 るべきかということにあったようで、この太子の示現によって、浄土教 への転入を決断した。

法然上人のもとに百日聴聞

親鸞が六角堂に参籠したとき、法然は69歳、承安5年(1175)に中国 の善導の著わした『観無量寿経疏』に感銘し、専修念仏に帰依してか ら26年も経っていた。3年前の建久9年(1198)には慈円の兄、関白九条 兼実の要請で主著の『選択本願念仏集』を書き、法然の説く念仏は貴 族や武士および一般民衆にひろく浸透し、その教勢は最高潮に達した時 期であった。その法然の名声を比叡の修行者たちもよく知っており、法 然一門に加わる者もいたが、また強い敵意をいだく者もいた。親鸞の師 慈円は法然教団に所属する人の破戒行為を強く批判していた。こうした 事情もあって、親鸞は六角堂参籠において解決を仰いだのであった。

 親鸞は太子の示現を得て、法然のもとに100日の間、仏法を聴くため に通い、ついに念仏によって救われる身となったのである。

親鸞上人や法然上人、空海や一遍、良忍等の仏教界の開祖である人が参詣しているのです。それほど憧れの存在としての聖徳太子。

仮に聖徳太子の示現がなければ浄土真宗もないわけですから。
聖徳太子の尊崇は現在の仏教界で失われていることではないかと思っています。

先日、法然上人と親鸞上人とが交わった吉水草庵に行ったときに、この場所で法然上人が修行した洞窟にも行きました、
その安養寺は以前に法然の教えを学びに来た場所です。

コトバの間違い

総裁のface bookから
4月4日

祥福は目の前にある。私が存在することが幸福である。肉体という道具を使えることが幸福である。その肉体をくださった父母があること、父母を初めとした先祖の“刻印”がある人生を送ることができるのが、幸福である。

あれ?
祥福?
招福の間違いでは?

それとも福祥ではないでしょうか?

めでたいこと。幸福と吉祥(きちじよう)

と解しています。

コトバというのは間違えることが多いです。
私も人のことを言えないのですが、祥福と書いてもネットでも出てこないのです。
意味がわかればいいのだとか傲慢な態度でもし記入しているならば間違えています。

相實と書いて意味が通じますか?それと同じなのです。福幸と書いてしまうことと同じなのです。

大日本帝国憲法復元の祈り

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中外日報昭和39年4月11日

生長の家教団(谷口雅春総裁)では、このほど憲法問題に対する基本的立場を表明した。これは同教団内の中央国家対策委員会が「憲法問題に対するわれらの基本的立場」と題してパンフレットの形式で公にしたもので、今後は機会あるごとにこの趣旨を国民各層に徹底していく「国民啓蒙運動」を行なうといっている。同教団では現行憲法に対して、①現憲法はマッカーサーによって押しつけられたものであり、正当な理由、手続きを経て改正された憲法ではない。したがって現行憲法は法的に無効である。②現憲法は無効であるから、すみやかに帝国憲法(欽定憲法)に復元すべきである。そして、帝国憲法の理想を生かし、その各章において時代的制約が時の進運にともなわない部分は、これを改正すべきである。③憲法復元は、内閣が無効宣言の詔書渙発を天皇に奏請し、その詔書に内閣総理大臣以下国務大臣が副書するという手続きをとることによって実現できる。この復元は、法理に従って自然に運ばれるのであるから、国会審議を経る必要はない、という基本的な考え方を打ち出している。
 パンフレットの内容は〝現行憲法の成立事情における不当性と、現行憲法の各章内容における不当性〟の二項目に分けてのべているが、特に、宗教関係事項(二十条・八十九条)については「国家祭祀の問題」として一項を設け、伊勢・靖国などの神社の在り方、それに関する天皇祭祀の問題、さらに宗教法人の在り方に対する現行条項の不当性について述べている。
 その内容は、まず天皇祭祀の歴史的事実として次のようにいう。

 天皇が国民に率先して敬神崇祖にはげまれ、皇祖皇宗の祭祀を行って来られたことは、わが国の伝統であり、歴史を一貫したわが国家の、公の大事であった。皇室の祭祀の主要な対象は、皇祖天照大神を始め、御歴代の神霊を第一とする。それらをお祭りする伊勢神宮、その他の神社および神武天皇以下百二十三代の天皇陵、皇后陵、皇族墓などは、すべて整然としてかかさず祭祀が行われ、天皇や皇族の参拝のほか、名もない国民の皇陵巡拝という、世界に比類ない風習を生んだのである。これはお伊勢まいりの習慣とともに、わが国の道統が国民全体によって支えられてきた事実を端的に示すものである。天皇の祭祀が、国民と無関係に皇室だけの御先祖をお祭りになるというように私的な性質のものでなく、天地の中心にあり、同時に民族の太祖である比類ない神の信仰を根源として、そこから発展してきた国の統合の理念的中心であられる皇祖霊と、また同じく民族の太祖から分かれてきた『おおみたから』としての民祖霊とをつねに全日本人を代表してお祭りなっておられる事実こそ、天皇が国民統合の中心であられる証左でなくて何であろうか。
 すなわち、天皇の祭祀は、祖先への報恩感謝と、祖先の遺業を継承して失墜させないというご誓願とご反省、そして祖霊が国家の安楽と民生の幸福とに加護されるようにとの祈りと、およそこの三つの意義をふくむものと拝せられる。
 皇室の祭事は神事とよばれ、古来国の第一の大事とされてきた。順徳天皇の御著作『禁秘御鈔』に『凡ソ禁中ノ作法、神事ヲ先ニシ他事ヲ後ニス、旦暮敬神ノ叡慮、懈怠無シ』と見えるが、これがわが国の古来の伝統たる祭り=マツリゴトがいかに重要視されてきたかを示すものである。

  宗教条項も矛盾
 こうした前提のもとに、現行憲法はこの歴史的事実を無視し、公事としての天皇祭祀を否定しているとし、宗教条項について、次のように具体的に述べている。

 「現行憲法およびその下に成立した宗教法人法では、天皇は天皇の公的御資格においては伊勢神宮を奉齋することができないということになっている。しかし、天皇の祭祀は前述のように『私的』なものでないのはもちろん、宗教法人という『宗教団体』の行為とも解しえない。宗教団体とは、宗教法人法によれば『宗教の教義をひろげ、儀式行事を行ない、および信者を教化育成することを主たる目的とする』団体である。しかし、天皇の祭祀は団体が行なうものでなく、また天皇は宗教の教義をおひろめになることもないし、信者を教化育成されることもない。ただ古法により儀式行事を営まれるだけであるから、宗教団体の行為といえないのはもちろん、その儀式行事も国民の一般参加を強制するものでないから、もともと宗教法人法の適用外といわねばならない。
 神道の中に何もかも包含させて国家の久しい伝統であり、精神的意義の極めて深い公事である天皇の祭祀を私事としてしまった現日本国憲法は、占領政策として日本弱体化、日本の伝統を切断しようとする悪意としか受けとることは出来ない。国またはその機関がいかなる場合においても一切の宗教的行為をしてはならぬということは、正当な法的根拠のないもので、まったく日本国憲法の特殊性格である。
 英国王の戴冠式をはじめ、欧州における諸君主国の国家的儀式の中に宗教的儀式が公然と用いられ、米国大統領の就任の式にも、聖書に手をふれて宣誓をすることになっている。それが、大嘗祭のような一世一代の大典すら国の公の儀式とすることができないと解されているのが、現日本国憲法なのである。(第二十条参照)
 また、現憲法八十九条は『公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、または公の支配に属しない慈善・教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」とある。これによって、あるいは『貞明皇后のご葬儀が神道的儀式として行われたに拘わらず、これに公金を出したのは憲法違反である』といい、または『天皇が皇祖の神宮(伊勢神宮)に参拝されるのは宗教活動であって、その旅行の経費に公金を支出するのは違反である』といった非常識な暴論まで生じている。
 また、護国の英霊を祠る護国神社さえ国家の費用において祭式を行なうことができぬというにいたっては、全く奇怪なことである。このようにして、日本の歴史を一貫している不文憲法上の基本原則ともいうべき天皇祭祀を否定する非常識な現日本憲法の害悪を思うとき、われわれはこれを早急に改めねばならぬことを知るのである」                      (『中外日報』昭和39年4月11日号)



大日本帝国憲法復元の祈り

住吉大御神(すみのえのおおみかみ)・住吉大御神・・・・・・・・(10回唱える)

 住吉大御神の現前したまえる事を想望し、次の如く念ずる―。

住吉大御神われに教えたまう。

大日本帝国は神国なり。

神国とは生ける国、生命体なり。

生命体の体細胞はことごとく新陳代謝して交代すれども、脳髄の細胞のみは生命体の中枢総攬者として初めよ

り終りまで連綿として変わらざるなり。

大日本帝国は生命体として天照大御神の神霊つねに連綿として天皇に伝わり給い、その中枢総攬生命の中核

として変わらざるなり。

海外の国家は、つねに脳髄に当るべき中心者が新陳代謝するが故に生命体にあらず。

大日本帝国のみ生命体の完全なる条件を備う。

それ故に汝ら、この生命体なる真理国家に生まれたる光栄を忘るべからず。

併してこの国家のすぐれたる特長を護持すべしと。

住吉大御神かくわれに教え給えり。

われら住吉大御神の詔を拝して住吉大御神の選士として大日本帝国憲法を復元し、日本国体の護持に全生命

を献げることをお誓い申し上げます。

此の尊き生命体国家、この尊き真理国家に生まれることを得ました光栄を感謝いたします。ありがとうございま

す。ありがとうございます。


「第42回ダイヤモンドトレ-ルチャレンジ登山」に参加

昨日は「第42回ダイヤモンドトレ-ルチャレンジ登山」に挑戦してきた。
チャレンジ登山と山岳マラソンに分かれていたが、何が違うのかよくわからない。だがチャレンジ登山の人も山岳マラソンに負けず劣らずに走っている人が多くいた。

今回はGPSで登録もしない、山岳ロガ-にも記録しなかったのでスタ-トからゴ-ルまでスタッフの書き込みを見ていただきたい。

昨日は早くは起きたが、喉が痛く微熱もあり最悪のパタ-ンである。しかも2時間しか寝ていない。
近くの駅は始発から2番目の電車である。

当麻寺駅に到着したのは午前6時53分。駅は大変に混んでいる。ほとんどの人がダイトレ(ダイヤモンドトレ-ル)の参加者である。そこから当麻寺の正門を横にして葛城市ゆうあいステ-ションふれあい広場のスタ-ト地点に7時10分に着いた。そこからすぐに受付して7時15分スタ-トである。
まだ最初は緊張感もあり、微熱も感じなかった。
だが葛城山の手前から段々と脚が動かない。それでも止まらずになんとか頑張れたが体調は最悪である。

金剛山では本当に疲れた。動かない脚を動かすのに大変である。抜かされることも多く、道を譲っている自分がなんともいえない。

写真を撮影したかったが、なんとか早く着きたかったので、そんな余裕さえもない。金剛山からの久留野峠の登りのキツさが応えた。脚に痙攣が起こりもう走れない。それでもなんとか頑張って行者杉まで歩いたり走ったりした。

紀見峠駅のゴ-ル地点には14時53分に到着。走行時間は7時間44分。これだけ練習もしなかったのに、身体が微熱状態でしかも寝不足でもうグタグタであったが、なんとか着けたそれが素直な感想です。

大阪府山岳連盟のスタッフのおかげで迷うこともなく走れました。朝日新聞も後援
距離は36kmですが、六甲全山縦走より厳しい。本当に階段が多すぎ、ここを慣れたらほかの山も行ける。
一度は屯鶴峯から槙尾山までの45kmですが、踏破してみたい。
DSC_0449
当麻寺の横を通り、スタ-ト地点に行きました。
奈良に行くなら当麻寺はいいです。
DSC_0451
DSC_0452
DSC_0453
DSC_0455
Tシャツを頂きました。
DSC_0454
として協力を頂いています。

でも、タフさではこのダイトレはすごくいいです。
たぶん、成績表が後日発表されます。遅い走りなりに楽しみにしています。

谷口雅春先生への回帰

生長の家らしくない現教団の「生長の家」
トキさんがおもしろいことを書いている。

組織 板

3268トキ ◆UMw6UoGELo:2016/04/07(木) 18:07:28 ID:wkuAWQPw
>>3266

地方信徒様

 講師の人に尋ねると、確かに講師になってからのほうが勉強をする必要があると聞きます。

 私が高校生の頃は、記憶に間違いがなければ、全国大会が3日間あり、その最後の日に光明実践委員の試験があったと思います。
また、詳密講習会の後に、地方講師の試験があった時期もあったみたいです。

 昔は、伝道実績も点数に加算されたので、それが合格率をあげたとも聞いています。

 これは皮肉な話ですが、聖典がなくなり、聖経がなくなった頃から、みんなが谷口雅春先生のご本を真面目に勉強するようになりました。
その理由を講師に尋ねると、「自衛のため」という返事でした。

 最近、本部の言うことが怪しいことが多く、真面目に本部の言う通りにして、後で後悔している人が少なくないみたいです。
例えば、新経本などは、真面目に読んでもあまり良いことがなく、むしろ不幸になっている人すら散見されます。
そこで、自衛のために、谷口雅春先生の教えを真面目に勉強して、その上で本部の方針に従うか、どうかを選んでいるみたいです。

 誌友会でのテキストも現在の総裁のご本が指定される場合が多いのですが、それでは参加者が納得しないので、指定のテキストは簡単
に流して、講師が谷口雅春先生のご著書をもとにして講話をするケースが多いみたいです。

 勢い余って関東の某教区では、「谷口雅春先生に学ぶ」などという雑誌をテキストに教団の誌友会で講話をした地方講師がいて、
後で当時の教化部長に思い切り叱られたということです。

 いろいろありますね。


>これは皮肉な話ですが、聖典がなくなり、聖経がなくなった頃から、みんなが谷口雅春先生のご本を真面目に勉強するようになりました。
その理由を講師に尋ねると、「自衛のため」という返事でした。<

ここなんです。前のブログで『歴史から何を学ぶか』で妹尾先生がひたすら大東亜戦争を解放戦争と言っていたが、それは歴史を知らない人であるから、そういう解釈になるのです。どっぷりと左翼思想に染み込んでいるからそういう話となるのです。
大東亜戦争は解放戦争というのはそれによってもたされたものがそうであって、ABCD経済封鎖という過酷な要求でした。その為に生きていくための自存自衛の戦争であったのです。
反対にそれしかなかったのです。
だからこそ、昭和15年以降は生長の家でも紙の配給も滞り、満州に本を発行するわけですからそれほど貧窮に耐えなければならない状況でした。石油もなくなるのですから「やむを得ず立ち上がった」とも言うべきであろう。

それに似て「自衛のために」雅春先生の御本で勉強しなければ雅宣総裁には眞理という本がない。現在必死に意味不明な文章を左脳で考えられているようですが、本質がないから「神の御心」などありえない。
それこそ、それを読んだら「病気」になるのと一緒で決してその「コトバ」は神のココロの波長に合っていないからです。
親不孝の総裁が一生懸命親孝行を解こうが「アンタから実践しなさい」と返さればグウの音も出ないだろう。
総裁の眞實を見れば、恥ずかしいからそんな本が出版されても波長が合わない。
「自衛のため」というのはそのとおりである。
私も自衛のため生長の家を辞めたのである。生長の家を実践すれば「生長の家」から離れるのである。

偽経について

インドの霊鷲山(グリドラクータ)上で釈尊が黙って華を拈(ひね)ったところ、大衆はその意味を理解することができなかったが、迦葉尊者だけがその意味を理解して破顔微笑したため、迦葉に禅の法門を伝えたという。
生長の家でもこの話は広く伝わっています。
「世尊在霊山会上。拈華示衆。衆皆黙然。唯迦葉破顔微笑。世尊云。吾有正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙法門、不立文字、教外別伝。付属摩訶迦葉」

しかしこの「拈華微笑」というのは大梵天王問仏決疑経という箇所に書かれています。この大梵天王問仏決疑経というのは偽経ではないかといわれています。
というのも迦葉が釈尊の死を知ったのは釈尊の死後7日後に知ったと大般涅槃経には書かれています。
拈華微笑というのは中国で創作されたものではないかといわれているからです。

私は生長の家において不立文字とよく言われるようになったのですが果たしてこれに疑問を抱く人はいないのであろうか

不立文字とは
「不立文字」は、禅宗の開祖として知られるインドの達磨(ボーディダルマ)の言葉として伝わっており、「文字(で書かれたもの)は解釈いかんではどのようにも変わってしまうので、そこに真実の仏法はない。したがって、悟りのためにはあえて文字を立てない」

しかし生長の家は文章伝道です。文書伝道で果たして「不立文字」は成り立つのかどうかであります。
雅春先生は文章により沢山の人を救われてきました。その聖典『生命の實相』というのは「不立文字」だと成り立たなくなります。

生長の家の最も重要な教義の一つである「万教帰一」の教えと、「原理主義を採らない」という考え方は不可分なんですね。この二つを分けることはできない。原理主義を採れば、万教帰一は実現しない。万教帰一を推し進めようとするならば、原理主義は放棄しなければならない。谷口雅春先生が戦争の時代に書かれた一言一句を今実行しなさいというのでは、我々の運動は崩壊します。私がこの本の中で一番言いたかったのは、そのことです。

今まで我々は、不立文字の大真理を嫡々相承するということを谷口清超先生から教わってきました。宇宙の大真理は不立文字である。ということです。しかし、そのことと、「万教帰一」との関連はあまり指摘されなかった。が、その二つは密接に関連しているのです。だから、そのことが皆さんに理解されれば、ある一部の谷口雅春先生の著作が再版未定になって今日出版されないこと、また谷口雅春先生が説かれたことの中に食い違いがあること、そういう理由は了解していただけると思います。「歴史から何を学ぶか」P289

そうするとこの不立文字の大眞理を嫡々相承というのは、間違っているのではないかという疑問です。
教外別伝でもそうです。
教外別伝
悟りは言葉や文字で伝えられるものではない、心と心と通じ合って伝えられる。
しかしこの話もおかしい。生長の家では文字による伝達というのがあります。『生命の實相』を学ぶことにより多くの信徒は生長の家を理解したと思っています。それを心と心が通じてわかったというような人はほとんどいません。

仮にこうした話そのものが偽経と呼ばれる内容であったと知ればどうでしょうか?

偽経と簡単に書きますが、「般若心経」も偽経とよばれています。
私はそうした偽経という分別をこの「雅宣経」とは峻別しないといけない。

もし仮に私が「お経」のようなものを書いたとすると、それを「偽経」と呼ぶかどうかでしょう。
自分でも思いますが「お経」にも値しないものであると思っています。それを偽経と呼ぶことさえもおかしい。

破邪顕正さんはしきりに「偽経」とよばれていますが、その偽経に値しないものであることをわかっていただきたい。


偽経と呼ぶにふさわしい代物か

下記のような内容がある。生長の家の学ぶ会で雅宣総裁の書いた『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』を「偽経」と定義している。だが「偽経」という言い方はどうなのか?

そういう症状が出た方は、はっきりと、「新経本=偽経」だからこそ、そうなるのですから、「どうも私の波長と新経本の波長とは合いそうもありませんから、〝愛想もない〟言い方で失礼ですが、この際、きっぱりと退会させていただきます」とこのように言われたらいいと思います。

破邪顕正さんがこのように書いていますが、この新経本を果たして「偽経」と呼ぶ代物であるのかどうかなのです。私は偽経と呼ぶにふさわしくないように思っています。
偽経というのはインタ-ネットで開けばいろいろな定義をされています。「偽経」でも様々な定義をされています。しかし、そんな器にのせるようなものであるかどうかです。














ある方からの提案(偽経について)

とても信頼できる人からメ-ルをいただきました。
そこに記載されている内容は本当にごもっともな正論です。
現在、生長の家教団で発行している『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』を「偽経」「疑経」(にせきょう・ぎきょう)と呼ぶのは如何なものかということが書いていました。
というのは、「般若心経」も偽経と言われています。また「法華経」も偽経とよばれています。

その反対に「眞経」「正経」というのが正しい経典のことです。法華経は釈迦の教えを説く経典だと言われていますが、釈迦の没後500年に作られた経典です。それが釈迦の意志を本当に継ぐものであるかは難しい。

20世紀初頭に敦煌から出土した仏典や文書には、大量の偽経が含まれており、また日本でも、名古屋にある七寺大蔵経(七寺一切経)から多くの偽経が発見されて、研究者の注目を集めている。

現在の仏教学会では、『無量義経』は偽経と見なすということで、大体一致しているようです。ただし、「偽経」の定義自体が、決して確定している物では無い曖昧なものなので、色々と決め方があるというのも実情とのことです。
だから「偽経」という呼び方というのは確定されていないことも事実です。
私は「般若心経」を偽経と呼ぶことには賛同しません。「法華経」が偽経と呈することにも賛同しかねます。ここで偽経という呼び方を止めたほうがいいのではないか。
偽経ということは「盂蘭盆経」「父母恩重経」も偽経とよばれています。

そこでですが
「雅宣経」という呼び方などが大変適切なる呼び方であろうと思います。
「父母に感謝できない人が頭で考えた模造品」ですからそう人の名前を付けたほうがいいと思います。

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