則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2016年03月

讀んで戴ければ幸甚です。

静岡県の頑張りは素晴らしい。

1883神の子さん :2016/03/27(日) 14:39:45 ID:8uA0.v6c
光の進軍に『絶版書』なるものが載っている。それが教団による意図的なものとして載せられている。しかし

三浦晃太郎教化部長率いる当静岡県の教化部の読書コーナーには、それらの多くが誰でも読める状態にある。つまり教団が意図して読めなくしているものでないことは自明のことであり、雅春先生輝子先生を抹殺しようとしているという自称本流派の言い分は全く事実でない。初代二代の教えは当然のこととして、その上で今の時勢に関しての教団の生きる道を述べているのが雅宣総裁である。以下どんな本が無料で読めるか書名を記す。

到彼岸の神示、神ひとに語り給ふ、秘められたる神示、夫々三冊、国のいのち人のいのち×三冊、美しき日本の再建×三冊、聖なる理想国家国民×三冊、神真理を告げ給ふ、限りなく日本を愛す×三冊、日本を築くもの、我ら日本人として×二冊、古事記と現代の預言×二冊、青年の書×三冊、第二青年の書×三冊、大和の国日本×三冊、神の真義とその理解×五冊、占領憲法下の日本、続占領憲法下の日本、憲法の正しい理解、占領憲法化の政治批判、私の日本憲法論、新選谷口雅春撰集、新選谷口雅春法話集、谷口雅春著作集、真理全巻、生命の実相頭注版全巻、無門関解釈×四冊、法華経解釈×二冊、維摩経解釈×三冊、大般涅槃経解釈、他単行本多数。

女性の書、めざめゆく魂、女性に生まれ愛に生き、心の安らぎ、信仰の幾山河、愛に灯ともす、愛の相談室等、藤原講師のそのまま極楽の道、すべてを癒やす道、あなたは必ず救われる、安心と喜びを得る道、魂のめぐり逢い、楠本講師の編集本の信仰の活人剣、人類無罪宣言、あなたは無限能力者、一冊一万五千円も中古でするという末井勉著錬成にいのち懸けて、小林春恵著わが信仰の旅路、菊池藤吉ここに道あり、服部仁郎今を生きる、日野西恵美子生きて愛して、名越二荒之助大東亜戦争を見直そう、等

これらの書物が自由に読めるようになっている。つまり雅春先生ご夫婦の書籍、愛国書なるもの、が自由に読めるのです。自称本流派は総裁が雅春先生の思想を締め出そうとしているというが、事実は全く違うのです。上にあげた書籍を自由に読めば自称本流派の言うことは全てわかります。彼らの行為は攪乱の意図のもと敢えてする行為と云わざるを得ない。

また静岡県教化部の大道場入り口には、「 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄」の雅春先生の讃が入った観世音菩薩の座像、立像の二つの掛け軸、神光遍照、無礙力、無構即構、法雨自在、神力無礙、の雅春先生の揮毫が置かれ道場を護っています。雅春先生が心込めて書かれたこれらの真筆の言葉の護りのもとに道場はあるのです。



上記の文章が掲載されていた。静岡県教化部の努力は大変素晴らしいものがあります。多くの教化部は閲覧禁止となっています。そのなかで多数の重版未定のものを閲覧できるのは大変なことであります。
さて、ここで誤解してほしくないのは教化部では売れ残りで『私の日本国憲法論』を置いているところもあります。
『大和の国日本』『新選谷口雅春撰集』『新選谷口雅春法話集』『谷口雅春著作集』『真理全巻』『生命の実相頭注版全巻』『無門関解釈』『法華経解釈』『維摩経解釈』『大般涅槃経解釈』は教化部では売れ残りがあるところもあり、自由に今でも読めるところもありますが、静岡県のように敢えて閲覧できるようにしているかどうかは調べていないのでわかりません。
だが、本部方針では雅春先生の現在発行されていない著作は閲覧禁止としています。
たとえば、温故資料館に戦前の本を見せて欲しいといっても見せてはいただけません。それが本部方針ですから。雅春先生の直筆の御揮毫された額は大阪教化部には沢山あります。自由に閲覧出来ます。
だけど残念ながら閲覧できないのが教化部が多いと聞いています。大阪、兵庫、京都や宇治別格本山などは見せて頂けません。(閲覧出来ない)
だから静岡県は特異であると思います。自称本流派とはどういうことかわかりませんが、それだけではわからないと思います。
日本國實相顕現と言うのは簡単ですが根本の意義などなかなか分かることが出来ないと思います。

上町台地と大阪城

難波長柄豊崎宮というのをご存知だと思いますが、私はその名称が謂えに長柄の豊崎付近にあるのではないかと思っていました。確かに伝承では豊崎神社にその由縁があります。

しかし、実際の場所は大阪城のすぐ南の場所にあります。ただ不可解なのは垂水神社から果たして桶が引けるのかです。

 

 「豊城入彦命四世孫賀表乃真稚命之後也。六世孫阿利真公。謚孝徳天皇御世。天下旱魃。河井涸絶。于時阿利真公。造作高樋。以垂水岡基之水。令通宮内。供奉御膳。天皇美其功。使賜垂水公姓。掌垂水神社也」(新撰姓氏録)

上記を訳すと

「豊城入彦命の数世の御孫阿利真公、孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し高樋をつくりて垂水岡基の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」

高桶を造って水を送ったとされるが標高を考えると可能であるかどうか疑問であるが、それは古代のロマンとして受け止めています。

 

難波長柄豊崎宮は孝徳天皇の御代に建設されています。その後聖武天皇が後期難波宮として建立されています。建立場所も全く同じ位置です。単に「難波宮」(なにわのみや)とよばれています。

 

その後、1496年に蓮如がこの地に石山本願寺で建立するのです。大坂という名前が初めて文献に出てきたのもこの時期です。

その石山本願寺を信長が攻めていきます。ただ11年間戦争して最後は朝廷による和解斡旋です。

その後秀吉は大阪城を築城しますが、夏の陣で和解して、それを反古とされ内堀も外堀も埋められます。

その跡地に徳川家による大阪城築城があるのです。

 

最初に「難波長柄豊崎宮」から「難波宮」と「石山本願寺」「大阪城」とほとんど同じ位置で建立されたとはいえ。この地「上町台地」でどうしてこのようにいろいろなものが建立されたのかは地理的要因をみれば納得されます。

大阪昔

 

神の子の自覚とは

神の「知恵」は一個の人間の利益のためでなく、神の「愛」は一個の人間の欲望のためでなく、神の「生命」は一個の人間の繁栄のためでなく、すべてのものの調和と幸福を実現する。神の子もそれを願うのである。(昨夜(3/25)の生長の家総裁facebookより)

こういう表現というのは眞理を反対に眩ませることとなる。『生命の實相』には人間は「皆神の子である」と書かれている。一個という表現が物質を数えるような言い方であり、人間を一個とかいう表現をしないのです。『吾れは眞理なり、眞理より遣はされたる天使(てんのつかい)なりとある。

また『人間は神より出てたる光なり』と記する。生長の家では「人間神の子」という教えです。一人の人間が神の子の自覚して繁栄することが駄目であるような書き方である。

また最後の「神の子」という言葉は何であろうか?違和感でしか感じないこの表現は人間の左脳で書いているようにしか感じない。そこに「我」しかないからこんな表現しか出来ないのです。

 

「神の子」の自覚とは「眞性」の自覚であり、「人間と神とは一体なり」「神は人間の光源にして」と『甘露の法雨』に書いている。

このような人間の欲望という言葉で書かれている書物を読むと返って眞理が眩ませることとなる

「大調和の神示」を実践出来ない人の言葉

生長の家を長年実践してきたものとここ数年の雅宣総裁の生長の家の活動の違和感というのは計り知れない。
私は生長の家を辞めてから十数年となる。
誌友会を行っていてもどうしても雅宣批判になってしまう。
また、自分らの行ってきた生長の家とは雲泥の差というべきものである。

一昨日に「愛国教団「生長の家」の変質を問う」を写していた時に現在の生長の家の運命は雅宣総裁に委ねるべきではなかったことを更に強調して思った。
だが、今回、幹部がどうして強制的に追い出しが出来なかったというと「中心帰一」という呪縛であろう。
以前にこういうことを書きました

日本がアメリカGHQの戦後政策において呪縛され、変更されたのと似ています。
無理矢理に環境をもってきて、今までの日本の伝統である、神様を捨て、歴史の鏡である天皇陛下を仰慕しないように仕向けていった。
もはや、谷口雅春先生は蚊帳の外のようになってしまった。
雅宣総裁の中心帰一は己に中心帰一せよという”エゴ”の独裁でしかありません。
だからこそ、谷口雅春先生を外すことが出来るのです。
平気でいられる神経を疑います。

だが生長の家の信徒は未だに中心帰一に縛られて動きが取れない状況です。
中心帰一とは谷口雅春先生にのみ許されているものであり、総裁に中心帰一すれば今後大変なことになることが今回の総裁自身の言動であきらかです。
組織というのは中心帰一ということばで縛られ、そこから脱却できなければ組織は衰退するしかない。


2016年3月11日 (金)

原発と決別し「大調和の神示」の教えを生きよう

 
 原発の利用は、なぜいけないのでしょうか? それは、原子力発電という技術の基本にあるものの考え方が、「自然と人間の大調和」という私たちの運動の目的に反するからです。もっと言えば、生長の家の最も重要な神示である「大調和の神示」の教えに反するからです。どうしてそう言えるでしょう? それは、大量の放射性物質を排出せずに、原子力発電を行うことはできないからです。この放射性物資は、人間のみならず、すべての生物の設計図であるDNAを破壊することがよく知られています。にもかかわらず、そういう危険物質を大量生産してでも、人間にだけ有益な結果がもたらせると信じることは、事実上、「自然と人間の利害は相反する」と信じていることになる。その考え方は「大調和の神示」の否定であり、「神・自然・人間の大調和」の否定です。 

私は、生長の家講習会ではいつも、この“森の中のオフィス”の紹介ビデオを上映するのですが、その中では、5年前の3月11日を経験して、生長の家はその時、設計を進めていた「オフィスの建設計画を大幅に変更した」というナレーションが流れます。何のことか分かりますね? そうです。それは、当初、東京電力との電力の売買によって“炭素ゼロ”を目指していたものを、この時から考えを変えて、東京電力から電気をもらわないでも“炭素ゼロ”を実現する--つまり、電力自給を目指す方向に切り替えたのであります。その理由は、「原発によるエネルギーを使うべきでない」という判断があったからです。 

考えてみれば「大調和の神示」の否定は総裁自ら行っているのにも関わらず、それがわからないのか、知ろうとしていないのか分からないが、これでは組織から信徒は逃げていくだろう。
「あんたから「大調和の神示」実践せよ」
と言われたら普通は恥じてこういう言葉は使用しない。だがそれを知っていても使う「厚顔無恥」と言われても総裁は平気であろう。
たしかに痛くも痒くもないのです。

自分の生活さえよければいいのです。
信仰や國思う気持ちなど関係ないのです。
私ならこういう宗教とは離別します。

弘川寺と西行法師

先週の土曜日は翌日の労山六甲全山縦走大会を控え、トレ-ニングということで近鉄南大阪線の二上山駅で下車した。
上の池登山口から登った。ゆっくりと歩いた。とりあえず雌岳まではゆっくり歩こうと心がけた、途中登山女子と話しながら歩いた。たが雄岳で大津皇子の陵墓から道を間違えてしまった。
馬の背からアイヤモンドトレ-ルのコ-スを選択した。
いよいよ水越峠まで頑張ろう。

今回は登り下りの丸太階段を如何に克服するかである。
ちょうど1時頃からスタ-トして岩屋峠、竹内峠と順調に進んだ。平石峠も案外簡単に進めた。
でもさすがに葛城山の最後の階段では息を吹きかけた。
葛城山手前でトイレ休憩はした。
今回は葛城山山頂には行っていないので、山頂まで進んだ。その後葛城山ツツジ園を過ぎた時に電話の用事があり、10分程立ち止まった。それから水越峠に向かった。
水越峠から309号線を一気に千早赤阪に向けて走った。そこから広川寺の急な登りである。歩いた、めげそうだが歩いた。ほぼ頂上からまたしても下りである。309号線から弘川寺まで3.2kmであったが結構長く感じた。

今回、階段ばかりのダイヤモンドトレ-ルが意外と休憩なしで登れたのは収穫である。

さて弘川寺ですが

弘川寺(ひろかわでら)は、天智天皇代、役行者によって開かれた寺院と伝えられています。また、大干魃(かんばつ)のあった天武天皇の代、弘川寺にあった役行者に、雨乞いの祈祷をせよとの勅願があり、役行者はそれに見事答えて雨を降らせたといいます。そのため、天皇はみずから弘川寺に行幸し、以来勅願所となった、という伝説もあります。

弘川寺では、奈良時代の高僧、行基菩薩もこの地で修行したとも伝説されています。また、弘仁三年(812)には、嵯峨天皇の勅命によって弘法大師空海が中興したとも伝えられ、現在弘川寺には、弘法大師を祀る御影堂(みえどう)があります。確かであるのは、平安末期は文治四年(1188)、後鳥羽天皇の病気平癒の為、弘川寺に住していた空寂(くうじゃく)上人は、宮中で「尊勝仏頂法(そんちょうぶっちょうほう)」を厳修(ごんしゅ)。その功績によって、弘川寺奥の院として「養成寺(ようじょうじ)」が建てられるなど、弘川寺は全盛期を迎えます。歌人として有名な西行法師は、空寂上人を慕って文治五年(1189)に来山。翌年2月16日、この地で73歳で死去しています。いよいよ隆盛を極めた弘川寺も、寛正四年(1463)に兵火によって全山焼失。やがて弘川寺のみ復興されました。近世は西行法師を慕ってやまず、弘川寺に西行堂を建てるなどして「今西行」と呼ばれた歌人、似雲(じうん)法師があります。

いま、弘川寺には「西行記念館」が建てられ、西行や似雲にかかわる資料が、春秋に展示公開されています。また、日本一の樹齢を誇る「海棠(かいどう)」は、大阪府指定天然記念物で、春に華やかな花をつけ、参拝の人々をむかえています。

似雲法師

八束穂(やつかほ)も 年ある秋に打ちなびき
名さえとんだ(富田)の 里ぞ賑(にぎわ)ふ

『としなみ草』より


似雲(じうん)法師は、江戸時代中ごろの歌人として知られています。延宝元年(1673)、安芸国広島猫屋町(現広島市)に生まれ、俗名は金屋吉右衛門といいました。宝永6年(1709)に出家し、翌年、京都に上り、武者小路実陰(さねかげ)について和歌を学びました。

 さて、似雲法師と高槻との関係は、富田の造り酒屋の紅屋の当主・清水利恒(としつね)とのやりとりにはじまります。利恒は、和歌や俳諧をよくする文人で、連歌会や観月会などをしばしば催しました。似雲法師もそこに集まった文人の一人だったのでしょう。利恒との出会いを通して、似雲法師は多くの人を知り、また、関東・東北など遠方への旅を実現することとなりました。

 松島行脚は、「富士~江戸~松島~日光」という行程で、享保15年(1730)10月から翌年の末まで、一年を超える長旅でした。その帰路、富田の利恒を訪れたといいます。似雲と利恒との関係は後々まで続き、毎月のように、富田の清水亭などで開かれた歌会に参加していたようです。

 似雲法師は、宝暦3年(1753)81歳で没しました。彼の残した歌集には、『としなみ草』全20巻などがあり、似雲は今西行(いまさいぎょう)とも呼ばれていました。それは彼が平安時代の歌人・西行法師の歌風を慕い、西行の足跡をたどり、旅したなかで多くの歌を詠んだことによるのでしょう。似雲法師の墓は、弘川寺(南河内郡河南町)の西行塚のわきに、西行に仕えるかたちで葬られています。

また松尾芭蕉は西行を慕って奥の細道を旅をします。
その西行法師とはどのような存在なのか?
少しその存在を知るきっかけになればいいと思い、弘川寺を散策しました。

愛国教団「生長の家」の変質を問う-5

愛国教団「生長の家」の変質を問う-5  思想結社「八千矛社」主宰 犬塚博英

他教団との比較に見る生長の家の狂気と没落 



既成仏教において、法が師から弟子へ継承されることを「血脈相承」などと呼んだりする。宗派にもよるが、これは「一子相伝の秘儀の相続」ともとらえられる。

浄土真宗では法主、門首の座が親から子に受け継がれる。禅宗では衣鉢の授受が相伝の証拠になる。法の継承、つまり師匠から弟子ヘの悟りの伝達が、親から子への血脈をイメ-ジさせているわけだ。



 ただし、その跡継ぎが必ずしも悟りを開いているとは限らない。このことは、少なくとも師匠と弟子本人だけには分かっているはずである。



 生長の家における教団トップの交代、つまり「法燈継承」について、生長の家会員の長老で禅の大家でもあった田中忠雄(駒沢大学講師)は、「盃の水を、そのまま全部、次の盃に移し替えること」だと端的に表現している。生長の家現総裁・谷口雅宣の路線には、多くの信者が「ついていけない」として教団を去っていったが、彼らは異口同音に、雅宣を「エセ法燈継承者」「エセ総裁」と呼んでいる。つまり、とても「盃の水を、そのまま全部、次の盃に移し替えること」に成功しているとは思えない状況があるわけだ。



”自分流”の教団改造



雅宣は総裁に就任した際に「法燈継承祭」平成二十一年三月一日)を行って、自身が正式な三代目総裁であることを信者に印象付けている。その際の彼の宣言はこうだった。

「私は生長の家の伝統にのっとって、谷口清超先生(注・生長の家二代総裁にして雅宣の実父)から面授によってこの真理の大道を継承させていただきました。そしてただいま、住吉大神の御前で大真理の眼目の継承を祈念申し上げました。従ってこれまた清超先生から教えられたように、私は先師の一言一句を繰り返すというのではなく、時代や環境の変化に応じて、いろいろの姿をもって、この運動を積極的に展開していきたい、と念願するものであります」

 繰り返すが、田中忠雄流に解すれば、法燈継承とは「盃の水を全部移し替える」ことである。しかし雅宣は明らかにこのとき、「生長の家を自分流に変えていく」という宣言をしているのである。また「生長の家教規」は、「教義の正釈(正しい解釈)ができるのは「総裁」ただ一人」という風に定めており、「法燈継承」に関する格別の言及、規定はない。雅宣は生前の清超に、「自分はいつ法燈を継承したのか」と尋ねたら、「副総裁に選ばれ、就任した日(平成二年十一月)」との答をもらったと語っている。確かに「教規」上は、そうとも解釈できる。



 生長の家創始者・谷口雅春は、大本教で修行するなどの宗教遍歴もあり、神がかり的な霊感・霊媒体質を有していた人物だった。彼はその上で修行を重ね、「霊界通信」のアンテナから「神示」を授かったと述べている。

その“人”ではなく”神”から下った「短編詩」が、生長の家における「お経」(聖経)になっている。



 東京帝国大学文学部で心理学を学び、英語の翻訳係として生長の家求人に応募して採用され、雅春の女婿となって二代総裁に就いた清超には、そういう“霊媒体質”は皆無であった。清超の言動は論理的ではあったが、そこに「神示」を感じさせるものはなにもなかった。雅春はしばしば信者に”個人指導”を行って、医学的常識からは奇跡と思えるような”神癒”を引き起こし、病気の信者を回復させるようなことをしていたが、清
超にそのような逸話は見当たらない。あまり宗教家には向かない、どちらかというと「心理学か宗教学の大
学教授」といった感じが、清超という人物の偽らざるイメージであった。

 その二代目総裁は。つなぎ役”として、宗教的資質のさらに皆無な息子を後継者に指名しなければならなかった。宗教指導者たるべく専門的な教育を施してきたわけでもない息子に“家業”としての宗教団体を継がせたのである。



霊友会と真如苑



新宗教団体の後継者選定をめぐる内紛が、社会の注目を集めた事例は多い。日蓮系の新宗教・霊友会は、そこから立正佼成会や佛所護念会、妙智会などが分派独立していった、「新宗教の源流」という観がある。



分派した教団の信者の総数は創価学会の信者数を上回るという推算もあるらしい。大まかに言うと、霊友会は「在家一人ひとりの立場から法華経を実践し、それぞれの先祖供養などを通して信仰を深めていく」という教義を持つのだが、それがゆえに、さまざまな解釈の発生や分派を許してしまう体質、組織的弱点を抱えているという識者の指摘がある。

霊友会の創立者は久保角太郎(明治二十五年~昭和十九年)という人物だが、会としてはこの久保の義姉にあたる小谷喜美が、久保の死後に会を引き継いでから爆発的な教勢の拡大が起こった。この小谷の死後に創立者・久保角太郎の子息・久保継成が会長に就任(昭和四十八年)。「人間の心に帰る」「自己を純化する」といった意味であるという「インナートリップ」なる新概念を提唱し、若者をターゲットとした布教方針を打ち出した。

 
 この継成は昭和十一年生まれ。谷口清超と同じ東京大学文学部でインド哲学を学んだインテリである。会長就任から二十年余を経て、集団合議制を確立するために会長を退き、理事長に就任。しかしその二年後に会長復帰を宣言しようとするも大半の幹部の支持を得られず、自分の支持者とともに新団体「在家仏教ここ ろの会」を立ち上げて霊友会を離脱、今日に至っている。創立者の直系で会長職にもあった者が、教団から追われた珍しいケースである。

「いま新宗教で最も勢いのある教団は?」との問いに、真如苑を挙げる研究者やジャーナリストは少なくない。創価学会、立正佼成会に次ぐ信者数を誇る真如苑は、高橋恵子、島田陽子、沢口靖子などの女優が信者にいることで注目を集めたが、その勢いは衰えるところを知らない。彼らの“聖地”である東京都立川市は真如苑の法要が行われる日になると決まって信者らで混雑。立川市の隣接自治体である武蔵村山市の日産白動車工場跡地(東京ドームニ十個分の広さ、七百三十九億円)を買収したのは十五年前のこと。都市計画の遅
れなどで、その開発は延び延びになっていたが、その一部を地元自治体に無償譲渡することも決まり、再び発計画は動き出しているという。また真如苑は十年前、都内の一等地、皇居近くにある半蔵門のダイヤモンドホテルを買収。これはすでに真如苑の教団施設になっている。平成二十年には運慶作の大日如来を購入(十四億円以上)し、一般公開するなど金満ぶりで話題を集めた。



真如苑の教祖・伊藤真乗は明治三十九年、山梨県生まれ。上京して易学を学び、一時は航空機会社にエン
ジニアとして勤務していた。結婚後、伊藤は真言宗醍醐寺で修行を積む。結婚相手の友司は熱心な日蓮宗信者の家に生まれ、祖母は徐霊を行う霊媒体質の人間だったという。その後、友司も霊能力に目覚める。こうして伊藤の真言宗の修行と、夫人・友司の霊能力がミックスして、真如苑の教義は確立したらしい。

 この伊藤夫妻は二男四女をもうけたが、長男は二歳、二男は十五歳で亡くなっている。四人の娘たちは母の素質を継いで霊能者になり、“四天王”として真如苑を守っていくはずだった。しかし昭和四十二年、教祖夫人の友司が急死。伊藤はすぐ後添えを迎えようとしたらしいのだが、娘たちは全員がそれに反対する。後に長女は父の希望を支持するが、下の三姉妹は再婚反対の立場を変えない。そんなところから四姉妹の問に溝ができるようになり、いつしか長女の主人のセクハラ疑惑といったことが教団内部で問題になり始める。その一方で、教団ナンバー2の座についていた次女のスキャンダラスな写真が週刊誌に流出する事件などが巻き起こった。結果として長女、次女は教団を去ることになるのだが、このうち次女はマスコミを使って残る三女、四女への攻撃を行うようなことを始め、真如苑は一時、“スキャンダル宗教”として世間を騒がせることになる。



 平成元年七月、真如苑の教祖・伊藤真乗が死去。しかし父親の葬儀に駆けつけた長女、二女は門前払いにあい、あまつさえ葬儀会場で信者に暴行を受けたと騒動になった。ちなみに伊藤真乗は、「長女や二女、そしてその孫といえども、仏道に背く者には父や祖父として会う意思はない。最期に臨んでも毛頭まみえる気はない」というようなことを、死の一年前に教団機関誌に発表していた。


葬儀の場での醜態



この伊藤真乗の葬儀における醜態は、生長の家のありさまと見事にかぶる。生長の家二代総裁・谷口清超の葬儀は密葬で、原則家族のみの参列で行われた。雅宣の姉で、清超の長女・佳代子の元夫は、清超の旧姓である「荒地」を継承していたが、「肉親ではない」ということで葬儀からシャットアウトされた。次女・壽美の
夫・宮津潔も、三男・貴康の妻も参列を拒否されている。すべて雅宣の指示である。



 雅宣は義兄らが葬儀会場に現れたこと自体に激高。それを姉・壽美に「あなたはこんな時に一体なんてすか」とたしなめられると、ますます怒り狂ってわめき散らし、目の前にいた弟の頭を小突いたという。とても宗教指導者の言動ではない。その場に居合わせた関係者が、その状況を録音した音源があるらしく、その一部とされる生々しい音声が、現在インターネット上に流されてもいる。



「村八分」という言葉かあるが、その残りの“一分”とは火事と葬式であるのだという。それだけは例外とし
て最低限の人付き合いを続けたのが、日本社会のルールだった。それなのに父の葬儀の場における雅宣のファナティックな言動は、およそ宗教人らしくない、彼の幼児性と狂気を示している。



 しかしその後の真如苑は教団内の統制を取り戻し、前述した圧倒的な資金力などに見られるように、伊藤真乗の時代を上回るような隆盛を誇っている。識者らが指摘するところによると、そのパワーの源は、三女・伊藤真聴が教団トップたる「苑主」の座につくとともに、その夫・伊藤勲が教団関連会社「一如社」の会長として教団をサポート、同時に四女・伊藤真玲か教団関連財団の理事長として同じく姉を支え、教団に残った教祖一族のガッチリとした協力体制が構築されているところにあるのだという。



 一方の生長の家では、父・谷口清超の死後、名実ともに教団の全権力を掌握した雅宣が、これまでの連載
でも書いてきたように、教団から自分の親族を完全排除することに狂奔してきた。そしていま、真如苑は骨肉の争いを乗り越えて日の出の勢いであり、生長の家は山梨の森に引きこもって、社会一般でその名が語られることさえなくなった。この差は実に興味深い。雅宣の指導方針に嫌気がさして、生長の家の信者は減少の一途をたどっている。教団から去った信者の一部は「本流復活」を合言葉に、教団外で創始者・谷口雅春の直弟子としての衿持と使命感で、独自の活動を展開している。だが、いかんせん年配者が多い。しかもどんなに雅春直伝の教えが素晴らしいものであったとしても、生長の家の内紛劇は、知っている人は知っている。「立派なゴタクを並べる前に、まず自分のところのお家騒動をどうにかしたらどうですか」と言われてしまえば、返す言葉もないだろう。そして前述の霊友会のように、幹部が団結し、あえて教団トップの追放に動くような気配も遂に見られなかった。



 このように現在の生長の家の問題点とは、雅宣にもあるが”反雅宣派”の側にもある、インターネット上にて匿名の雅宣批判を繰り返す者は非常に多いが、生長の家本部や各会合に乗り込んで、公然と総裁批判の直談判におよぼうとした者の話というのは、ほぼ聞いたことがない。匿名で「雅宣エセ総裁!」と書き連ねても、結局は負け犬の遠ぼえ。雅宣にとっては実際のところ、痛くもかゆくもないだろう。そういう風にして時間が経つうちに、雅春の時代を知る古い信者は次々と鬼籍に入っていく。もうこのままでは、あらゆる意味で「生長の家の終わる日」は近いだろう。いや、すでに手遅れ、終わってしまっているのかもしれない。

 なお、本連載は次回をもって最終回としたい。      (文中敬称略)

無断にて掲載させていただいているお詫びとして宣伝させていただきます。

講演
「私の見てきた生長の家」
犬塚博英 思想結社「八千矛社」主宰

日時/2016年4月10日(日)15時より
場所/東京都港区・東京グランドホテル(曹洞宗宗務庁ビル)3階「菊の間」
都営地下鉄三田線・芝公園駅下車、徒歩2分
無料、ただし『宗教問題』13号を会場に持参



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

「錬成」という間違いについて

寒坐様よりご指摘に感謝申し上げます。
さて、練成会というのは「亀の子」様がご指摘いただいている下記の文章は正しいです。
誠に申し訳ございません。訂正はしたものの仕事や私事にてそのまま放置していました。
寒坐様、亀の子様に深く感謝申し上げます。
それでは寒坐様のコメントですが

new!おはようございます。
こんなことが起こっても、当然、教団はダンマリですが
大昔と違い、世は否応なくネット社会なのですから、
信徒離れが心配ならば、ボケッとしていないで何かアナウンスしたら
どうなんだ?とは思います。
(ガセなら放置・・・という手も有効ですが、ガセでないから困る)

ところで、せっかく山ちゃん1952様がきちっと書いておられるのに
某掲示板に引用した方がわざわざ「“錬”成会」と打って投稿されております。
(コピペでないのを感心するべきなのか・・・)

「練成」も「錬成」も言葉としては両様ありますし、
生長の家でも大昔は金偏の方を使っていたような気もしなくはないのですが
S45生まれで、会員歴も浅い身ではその辺りのことはよくわかりません。
もし、資料か何かで経緯をご存知でしたら、ご紹介頂けるとありがたいです。

三重の件でも警察発表がそうなのか、新聞の取材が甘かったのか
記事には「錬成会」とありました。


とあります。それにわざわざお調べいただきました亀の子様のコメントは下記です。

日時:2016年03月14日 (月) 21時43分
名前:亀の子


合掌

山ちゃん1952様のブログの、

「生長の家にどうして事件が起こるのか(2016/03/11 )」という文章に寒座 様がコメントを寄せられ!「錬成」と「練成」の違いを質問されておられます。


ご質問に横から失礼させて頂きます。


この件については、
『神性開発-「練成会」発祥の地・飛田給』生長の家本部練成道場編 平成13年5月1日初版 日本教文社発行に詳しく書かれています。

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「錬」ではなく「練」成会の深い意味

「錬成会」ではなく、「練成会」という名称を谷口雅春先生がつけられ、なお、その上に
「神性開発」とつけられたことは、とても意義深いことだといつも思っております。
錬という字は、鍛えるという意味がありますが、練という字は、ねる、という意味であります。最初は「錬成会」という字をかいて先生にお出ししましたら、先生は「錬」という字を「練」という字に訂正してくださいました。
・・・(略)・・・
 鍛えるという意味のなかには、どうしても、悪いものを善くするという意味が、潜んでいるように考えられます。
 生長の家の練成会は「人間は本来神の子である」という根本真理を知ってもらい、 すべての人の神性を開発するのが目的で始められたのでありまして、悪い人間を、善くするところではないことを、先生が私たちに示すために訂正されたのだということが、ダンダンわかってきました。
(P67より)

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※ 「神性開発練成会」の名称は、昭和二十三年に発足した時に、谷口雅春先生が御命名くださいました。


また、練成会の由来は『生長の家三拾年史』P284~にも、書かれています。

生長の家本部練成道場(通称・飛田給練成道場)の写真を『生長の家三拾年史』で確認したところ「練成道場」と正しい字になっております。


また、生長の家理事長をつとめられた吉田武利先生の『今ここ道場』昭和48年5月20日初版、日本教文社発行にも由来が引用して書かれています。


寒座 様の言われるように、

>生長の家でも大昔は金偏の方を使っていたような気もしなくはないのですが

「練成会」が始まって当初の頃は、全国に徹底されておらず、地方の方では「錬」の字を使っていた所もあると思います。自分も「錬成会」という字の写真を見た記憶があります。


これは、今でも聖典『生命の實相』の事を『生命の実相』と書いている某教化部発行の機関紙を見ることもあります。


山ちゃん1952様には、失礼とは思いましたが、多くの方に知っていただきたく投稿させていただきます。


言葉(漢字)は、正しく使いたいものです。


再拝



確かに確証はありませんが錬成ということばを昔の資料でみたことがあります。
ただ昭和5年から生長の家の集まりは〇〇誌友相愛会もしくは誌友会というのが正式な名称です。
例えば実際の誌友会の名称ですが
函館誌友相愛会曙支部というは昭和5年3月27日の発祥です。
ただし、昭和8年ぐらいから単に

蒲田誌友相愛会
姫路誌友会
加古川支部
神戸教化部
光明思想普及会湯本支部
光明工場連盟
堺見眞道場
白杵支部
龍野教化部

というようになっていきますが、どれが正しいというのはありません。

もちろんそこで集まりがありますとその地域の名前を使われていました。

また戦前は谷口雅春先生が積極的にご指導されておられましたので
指導者講習会という名称で各地で行われていました。

または講演会、座談会という名称で使用されていたこともあります。その中に「練成」ということばがたしかにありません。
先ほどの指導者講習会で有名なのは滋賀県延暦寺で行われた講習会です。
ここでは本部公認の地方講師試験が行われていました。
その指導者講習会の古い写真を船越縫次郎先生の奥様にみせていただいたことがありますが、草創期の生長の家が偲ばれます。

さて、練成会の正式な文章は「亀の子」様が丁寧に御回答していただいておりますので、私は別な話をさせていただきます。

よく『生命の實相』の文言が変わったといいますが、それならばどうして変わったのかとか何処が変わったのかが書いていません。
それでは少し前に内務省警保局『社会運動の状況』によりますと

尚本教団刊行物たる「生命の實相」第二巻(谷口雅春著昭和14625日発行)は内容中に医療妨害、人心惑乱等安寧を害するものありたる為、718日附削除処分せられたり。


それではどこが削除処分となったのかといいますと
『生命の實相』菊判装(大聖典編纂)の第二巻の21頁と22頁の一枚分が鋏で切られています。
ここのどこが人心惑乱等安寧を害するものとはどの言葉にあたるのか

それではその削除された頁にはどのように書かれていたかを
『生命の實相』黒布表紙の第十一巻の146頁~148頁がその削除された箇所となる。

その箇所(168頁)に
空間的には東洋の一角にある粟粒のやうな国土を見、この物質なる国土が日本の国土であるなんかと考へて来るのは、實に日本の悠久、無窮に続いているところの實相を観ないものであって、却って本當の日本、實相の日本の國土は宇宙に充ち満ちている。

そうしたことが内務省に削除されたこととなったことは推測できます。

戦後すぐに発刊された『生命の實相』新修特製版(見返装丁)第十一巻ではその部分は全く書き換えられているのです。これは内務省警保局の検閲ではないGHQによる検閲を敢えてパスさせるために変更しているのであります。




天皇陛下、皇后陛下の東日本大震災の憶い

http://www.youtube.com/watch?v=mOERcHmrCkA


東北地方太平洋沖地震に関する天皇陛下のおことば(平成23年3月16日)

この度の東北地方太平洋沖地震は,マグニチュード9.0という例を見ない規模の巨大地震であり,被災地の悲惨な状況に深く心を痛めています。地震や津波による死者の数は日を追って増加し,犠牲者が何人になるのかも分かりません。一人でも多くの人の無事が確認されることを願っています。また,現在,原子力発電所の状況が予断を許さぬものであることを深く案じ,関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避されることを切に願っています。

現在,国を挙げての救援活動が進められていますが,厳しい寒さの中で,多くの人々が,食糧,飲料水,燃料などの不足により,極めて苦しい避難生活を余儀なくされています。その速やかな救済のために全力を挙げることにより,被災者の状況が少しでも好転し,人々の復興への希望につながっていくことを心から願わずにはいられません。そして,何にも増して,この大災害を生き抜き,被災者としての自らを励ましつつ,これからの日々を生きようとしている人々の雄々しさに深く胸を打たれています。

自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々,諸外国から救援のために来日した人々,国内の様々な救援組織に属する人々が,余震の続く危険な状況の中で,日夜救援活動を進めている努力に感謝し,その労を深くねぎらいたく思います。

今回,世界各国の元首から相次いでお見舞いの電報が届き,その多くに各国国民の気持ちが被災者と共にあるとの言葉が添えられていました。これを被災地の人々にお伝えします。

海外においては,この深い悲しみの中で,日本人が,取り乱すことなく助け合い,秩序ある対応を示していることに触れた論調も多いと聞いています。これからも皆が相携え,いたわり合って,この不幸な時期を乗り越えることを衷心より願っています。

被災者のこれからの苦難の日々を,私たち皆が,様々な形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく,身体からだを大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう,また,国民一人びとりが,被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ,被災者と共にそれぞれの地域の復興の道のりを見守り続けていくことを心より願っています。

東日本大震災1周年追悼式
平成24年3月11日(日)(国立劇場)

東日本大震災から1周年,ここに一同と共に,震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。

1年前の今日,思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ,ほぼ2万に及ぶ死者,行方不明者が生じました。その中には消防団員を始め,危険を顧みず,人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。

さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより,危険な区域に住む人々は住み慣れた,そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。

この度の大震災に当たっては,国や地方公共団体の関係者や,多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ,被災者のために様々な支援活動を行ってきました。このような活動は厳しい避難生活の中で,避難者の心を和ませ,未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。この機会に,被災者や被災地のために働いてきた人々,また,原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を,深くねぎらいたく思います。

また,諸外国の救助隊を始め,多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。外国元首からのお見舞いの中にも,日本の被災者が厳しい状況の中で互いに(きずな)を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。

被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。国民皆が被災者に心を寄せ,被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。そしてこの大震災の記憶を忘れることなく,子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。

今後,人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


東日本大震災2周年追悼式
平成25年3月11日(月)(国立劇場)

本日,東日本大震災から2周年を迎えるに当たり,ここに一同と共に,震災によりかけがえのない命を失われた多くの人々とその遺族に対し,改めて深く哀悼の意を表します。

2年前の今日,東日本を襲った巨大地震とそれに伴う大津波により,2万人を超す死者,行方不明者が生じました。震災後に訪れた被災地では,永年にわたって人々が築いてきたふるさとが痛々しく破壊されており,被災者の悲しみはいかばかりかと察せられました。一方,この厳しい状況の中,被災地で,また,それぞれの避難の地で,気丈に困難に耐え,日々生活している被災者の姿には,常に深く心を打たれ,この人々のことを,私どもはこれからも常に見守り,この苦しみを,少しでも分かち合っていくことが大切だとの思いを新たにしています。

この度の大震災に際して,厳しい環境の下,専心救援活動に当たった自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者,多くのボランティア,そして原発事故の対応に当たった関係者の献身的な努力に対し,改めて深くねぎらいたく思います。

諸外国からも実に多くの善意が寄せられました。物資や義援金が送られ,また,救援の人々も多数来日し,日本の救援活動を助けてくれました。また駐日外国大使など日本に住んでいる外国人を始め,災害発生後の日本を訪れる多くの外国人が,被災地に赴き,被災者を励ましてくださっていることに感謝しています。

この度の津波災害において,私どもは災害に関し,日頃の避難訓練と津波防災教育がいかに大切であるかを学びました。この教訓を決して忘れることなく,これから育つ世代に伝えていくことが大切と思います。今後とも施設面の充実と共に,地域における過去の災害の記憶の継承,日頃からの訓練と教育などにより,今後災害の危険から少しでも多くの人々が守られることを期待しています。危険な業務に携わる人々も,この度の経験をいかし,身の安全が確保されることに工夫と訓練を重ねていくよう願っています。

今なお多くの苦難を背負う被災地に思いを寄せるとともに,被災者一人びとりの上に1日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


東日本大震災3周年追悼式
平成26年3月11日(火)(国立劇場)

本日,東日本大震災から3周年を迎え,ここに一同と共に,震災によって失われた人々とその遺族に対し,改めて深く哀悼の意を表します。

3年前の今日,東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波は,2万人を超す死者,行方不明者を生じました。今なお多くの被災者が,被災地で,また,避難先で,困難な暮らしを続けています。さらにこの震災により,原子力発電所の事故が発生し,放射能汚染地域の立入りが制限されているため,多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされています。いまだに自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。

この3年間,被災地においては,人々が厳しい状況の中,お互いの(きずな)を大切にしつつ,幾多の困難を乗り越え,復興に向けて懸命に努力を続けてきました。また,国内外の人々がこうした努力を支援するため,引き続き様々な形で尽力していることを心強く思っています。

被災した人々の上には,今も様々な苦労があることと察しています。この人々の健康が守られ,どうか希望を失うことなくこれからを過ごしていかれるよう,長きにわたって国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。そして,この大震災の記憶を決して忘れることなく子孫に伝え,防災に対する心掛けを育み,安全な国土を築くことを目指して進んでいくことを期待しています。

被災地に1日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


東日本大震災4周年追悼式
平成27年3月11日(水)(国立劇場)

東日本大震災から4年が()ちました。ここに一同と共に震災によって亡くなった人々とその遺族に対し,深く哀悼の意を表します。

4年前の今日,東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により,2万人を超す死者,行方不明者が生じました。テレビに映った津波の映像は決して忘れることのできない,本当に恐ろしいものでした。死者,行方不明者の中には危険を顧みず,人々の救助や防災活動に従事した人々があったことが今も痛ましく思い出されます。被災地で,また避難先で,被災者の多くが今日もなお,困難な暮らしを続けています。特に年々高齢化していく被災者の健康は深く心に掛かります。

さらに,この震災により,原子力発電所の事故が発生し,放射能汚染地域の立入りが制限されているため,多くの人々が住み慣れた地域から離れることを余儀なくされました。今なお,自らの家に帰還する見通しが立っていない人々が多いことを思うと心が痛みます。

この4年間,被災地においては,人々が厳しい状況の中,お互いの(きずな)を大切にしつつ,幾多の困難を乗り越え,復興に向けて努力を続けてきました。また,こうした努力を支援するため,国内外の人々が引き続きいろいろな形で尽力しています。この結果,地場産業の発展,防災施設の整備,安全な居住地域の造成など様々な進展が見られましたが,依然として被災した人々を取り巻く状況は厳しく,これからも国民皆が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。

この度の大震災においては,私どもは災害に関し,日頃の避難訓練と津波防災教育がいかに大切かを学びました。こうした教訓を決して忘れることなく子孫に伝え,より安全な国土を築くべく努力を続けることが重要であると思います。

この14日から宮城県仙台市において第3回国連防災世界会議が開催されますが,この会議において,我が国のみならず世界各国においてもこの度の大震災の教訓が分かち合われ,被害の軽減や人々の安全性の確保に意義ある成果が上げられることを願っています。

被災地に1日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


東日本大震災5周年追悼式
平成28年3月11日(金)(国立劇場)

東日本大震災から5年が()ちました。ここに一同と共に,震災によって亡くなった人々とその遺族に対し,深く哀悼の意を表します。

5年前の今日,東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により,2万人を超す死者,行方不明者が生じました。仙台平野を黒い壁のような波が非常な速さで押し寄せてくるテレビの映像は,決して忘れることができないものでした。このような津波に対してどのような避難の道が確保できるのか暗澹(あんたん)たる気持ちになったことが思い起こされます。また,何人もの漁業者が,船を守るために沖に向け出航していく雄々しい姿も深く心に残っています。

このような中で,自衛隊,警察,消防,海上保安庁を始めとする国や地方自治体関係者,さらには,一般市民が,厳しい状況の中で自らの危険や労をいとわず救助や捜索活動に携わったことに深い感謝の念を抱いています。

地震,津波に続き,原子力発電所の事故が発生し,放射能汚染のため,多くの人々が避難生活を余儀なくされました。事態の改善のために努力が続けられていますが,今なお,自らの家に帰還できないでいる人々を思うと心が痛みます。

こうした苦難の中で,政府や全国の地方自治体と一緒になって,多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また,160を超える国・地域や多数の国際機関,また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません。

あれから5年,皆が協力して幾多の困難を乗り越え,復興に向けて努力を続けてきました。この結果,防災施設の整備,安全な居住地域の造成,産業の再建など進展が見られました。しかし,被災地で,また避難先で,今日もなお多くの人が苦難の生活を続けています。特に,年々高齢化していく被災者を始めとし,私どもの関心の届かぬ所で,いまだ人知れず苦しんでいる人も多くいるのではないかと心に掛かります。

困難の中にいる人々一人ひとりが取り残されることなく,1日も早く普通の生活を取り戻すことができるよう,これからも国民が心を一つにして寄り添っていくことが大切と思います。

日本は美しい自然に恵まれていますが,その自然は時に非常に危険な一面を見せることもあります。この度の大震災の大きな犠牲の下で学んだ教訓をいかし,国民皆が防災の心を培うとともに,それを次の世代に引き継ぎ,より安全な国土が築かれていくことを衷心より希望しています。

今なお不自由な生活の中で,たゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ,被災地に1日も早く安らかな日々の戻ることを一同と共に願い,御霊(みたま)への追悼の言葉といたします。


御製
平成二十三年
東日本大震災の津波の映像を見て

黒き水うねり広がり進み行く仙台平野をいたみつつ見る

東日本大震災の被災者を見舞ひて

大いなるまがのいたみに耐へて生くる人の言葉に心打たるる

東日本大震災後相馬市を訪れて

津波寄すと雄々しくも沖に出でし船もどりきてもやふ姿うれしき


仮設住宅の人々を思ひて

被災地に寒き日のまた巡り来ぬ心にかかる仮住まひの人

皇后陛下御歌三首平成二十三年
手紙

「生きてるといいねママお元気ですか」文に項傾し幼な児眠る



何事もあらざりしごと海のありかの大波は何にてありし

この年の春

草むらに白き十字の花咲きて罪なく人の死にし春逝く



御製 平成二十四年

仙台市仮設住宅を見舞ふ

禍(まが)受けて仮設住居に住む人の冬の厳しさいかにとぞ思ふ

皇后陛下御歌 平成二十四年
復興

今ひとたび立ちあがりゆく村むらよ失せたるものの面影の上に




御製 平成二十五年

被災地の冬の暮らしはいかならむ陽の暖かき東京にゐて


皇后陛下御歌

遠野

何処にか流れのあらむ尋ね来し遠野静かに水の音する

生長の家にどうして事件が起こるのか

今回の一連の事ですが、まずは自殺された宇治の職員様に哀悼の意を表したい。
こうした、悩みや問題を解決する生長の家のなかでどうして解決できなかったかが悔やまれる。

先日起こった三重県の練成中での殺人は痛ましい出来事である。亡くなられた方にどう表現していいのか迷ってしまう。

また2011年に起きた総本山に勤められていた人がスト-カ殺人の被害者となってしまった。

こうした事件が立て続けに起こるのか不思議である。

ただ云えるのは総裁が不調和の波動を出しているのが大きな影響を與えていることは事実であろう。三重県の伊勢は純子白鳩総裁の故郷でもある。そうした不調和が三重県という所に波及したのではないか、また龍宮住吉本宮の住吉大神を祈らず、勝手に天之御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神が御勧請してしまったことにも影響はある。
天御中主神は伊勢の外宮の神である豊受大神がそうであると信じられている。
だからこそ、そうした神を勝手に勧請してしまったことにこうした事件のきっかけになったように感じてしまう。

総裁はどうして不調和になっているかは皆様はよくご存知でしょう。そうした不調和の感情が練成等に波及するのです。また勝手に祭神を追加したりするのも、神を恐れぬ所業である。こうしたことが不協和として出てくるのです。楠本先生を左遷するようなことをするのも自殺という影響を感じてしまう。

しかも三重県の練成で殺人事件が起こったにも関わらず、葬儀などに列席しないとはなんとも情けない。しかもヒルクライムなど遊び呆けている。私はこうした行動そのものが社会の常識とかけ離れたものであると断じている。

トキさんは和解論者であるが、どうして和解が出来ないことを私は何回論じても馬の耳に念仏である。これは社会と生長の家職員との隔絶を感じてしまう。やはり社会を経験しないとわからないのであろう。

今回の教化部長を経験された粟野さん(学ぶ誌4月号)の経験は如実に「和解」というものの難しさを物語っている。これでも和解しろと言うのはよほどの馬鹿であろう。

不調和、不協和や不協音を出しているのはその長である総裁の心が奏でているのである。それがわからない総裁は益々そうした災害を引き起こす源流ともなるであろう。

感謝することにそこから脱出する糸口があるのを分からないのであろう。「ありがとう」その一言を本心から言えない人は駄目である。

宇治の練成を受けて研修員からスタ-トするのが総裁が本気で生長の家を知るきっかけになるであろう。
でもそんなこと出来る器でないことがこうした問題を引き起こすのである。

箕面北摂山系チャレンジトレイル

今日は箕面北摂山系チャレンジトレイルに参加してきました。
朝8時50分に到着して準備をします。
大会主催からの注意事項があり9時30分スタ-トしました。
慣れている道といえども参加者214名の中の一人です。しかも走りが遅いので沢山の人に抜かれました。
それでもバテている人もいたりしましたので、約80位ぐらいですか?
距離は27km
走行時間は4時間20分です。1時50分着です。
最後お風呂のサ-ビスもありましたが、バスが出るというので2時発でJR高槻駅まで乗りました。
家に着いたのは3時10分です。
体力の不足も感じましたが、脚力の不足はダイヤモンドトレイルで鍛えよう。

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