下記の文章は『宗教問題』9月号の一部を抜粋しました、年代や表記での間違いはありますが、そのまま掲載致します。
外部の人が如何に「生長の家」の改竄をみてどう思うかであります。生長の家の今は奇蹟がない宗教だと囁かれています。人類光明化運動として昭和五年に立教された谷口雅春先生の御意志は閉ざされたままになっています。誰かがこのおかしな状況を声を大にして叫ばなければならない時期だと思っています。
あまりにも長きにわたり総裁谷口雅宣の裸の王様が続いた為、物申すことが出来なくなってしまった「カルト教団」である。
大塚 博英
前略
「唯神実相哲学」という教え
生長の家創始者・谷口雅春の思想・哲学の特性は、「人類光明化運動」と「日本国実相顕現運動」の二本柱であった。その教義は総称して「唯神実相哲学」と呼ばれ、「人間・神の子」「実相一元・善一元の世界」「万教帰一」を主な柱とし、徹底した光明思想に貫かれている(「生長の家」創始者・谷口雅春先生を学ぶ会「先生の足跡」から)。
昭和五年に創刊した雑誌『生長の家』を読んだ人から数々の奇跡的体験が生まれ、昭和十年(ママ)には読者を組織化した教化団体としての「生長の家」が発足。
大東亜戦争勃発とともに、雅春は「皇軍必勝」のスロ-ガンの下、教団を挙げて「大東亜解放」の目的のために国家へ全面協力した。
大東亜戦争の敗北、占領軍によって、雅春の権威は一時失墜するが、昭和二十四年に宗教法人「生長の家」として組織を再構築。日本弱体化を狙ったGHQの占領政策を払拭すべく、次々と「愛国書」を世に問い、紀元節復活運動、建
国記念日制定運動や、占領憲法破棄正統憲法復元運動といった、戦後愛国運動の主柱を担った。日の丸掲揚、日の丸行進を提唱し、実践したのも生長の家の青年たちだった。そうした流れの中で前記の「生長の家政治連合」の誕生が
あり、玉置、村上といった国会の「荒法師」を参議院に送り込み、日本再建のために八面六臂の活躍をさせた。
「七〇年安保闘争」で大学紛争の嵐が吹きすさんだ時には、「生長の家全国学生会総連合」(生学連)が中心となって、民族派学生組織(全国学協)を結成、新左翼・全共闘や日共・民青と自治会奪権闘争を全国で繰り広げた。谷口雅春の愛国書は教団内部のみにとどまらず戦後の愛国運動の理論的思想的支柱となり、幅広い層に熱烈に歓迎されていたのである。
歴代総裁への法灯継承の実態
雅春の後を継いだ二代総裁・谷口清超(旧姓・荒地)は大正八年生まれ。東京大学文学部を卒業し、雅春の主著である『生命の実相』に触れ入信。敗戦直後に行われた、『生長の家社会事業団』の欧米科学文献および文学書類翻訳事業に応募する。その一年後に総裁(谷口雅春)秘書課長・文化企画部長に抜擢。雅春の一人娘・恵美子と結婚し、谷口家入りした。この夫婦は三男二女を授かったが、長男は夭逝したため、次男の雅宣(昭和二十六年生まれ)が実
質的な長男といえる。
偉大な父親に反発する「エディプス・コンプレックス」はフロイトの精神分析学の用語だが、雅宣は幼少のころから祖父・雅春を恐れ、「憎んできた」としか思えない本音を、雅春死後に公言している。雅春没後、雅宣は創始者(祖
父)について、「幼少の頃、味噌汁をこぼしたら、畳を吸うように命じられた」という怖いイメージとともに語っている。
原宿の本部に近い「お山」と呼ばれた神宮前の邸宅から歩いても通えることから、雅宣は上の二人の姉と同じ青山学院に通うが、本当は雅春は、雅宣を皇学館大学に進め、神道と国史を学ばせたかったようだ。しかし最終的には父親
の清超が雅宣の意向を認め、青山学院大学法学部に進む。雅宣は大学卒業後、教団の出版部門ともいえる「日本教文社」に入り、その後、米コロンビア大学に留学し、国際関係論を学んだ。帰国後、彼はサンケイ新聞(現在の産経新聞)に入社。横浜支局記者勤務を経験した後に、退職して生長の家本部職員となっている。
創始者・雅春の死没(昭和六十年)後、同年に清超が二代総裁に就任。雅宜は本部の出版・広報・企画部門を歩き、五年後の平成二年には副理事長から副総裁に昇進している。教団の御曹司ゆえか、教勢の拡張・普及の現場に身を置く実践運動経験は皆無に等しい。そしてそれでありながら、雅宣の三代総裁就任は約束されていたのも同然だった。このころ前後して、「雅宣の横暴」というものが教団の周囲でささやかれるようになっていく。
具体的には雅春哲学・・思想のつまみ食い、日本国実相顕現、愛国的教義の否定である。教団の教義に関し、自分か受け入れられる部分だけを自己流に改竄し、創始者否定の言動さえも見せ始めたのである。祖父にして創始者を、その後継者たる孫が否定する。大変な珍事である。
雅宣台頭と教義の改竄
話は前後するが、創始者・雅春は晩年、長崎市郊外、大村湾を見下ろす西彼町(現在の西海町)に居を移し、鎮護国家を目的とする龍宮住吉本宮(総本山・落慶昭和五十三年)の建立に、最後の仕事として取りかかる。そして実質的な教団運営を娘婿の清超副総裁に委ねた。
このころ、教団の政治部門であった生政連は優生保護法改正を強く要望する自前候補が自民党の比例順位で当選ギリギリの下位に置かれ、選挙で落選(後に繰り上げ当選)をしたことや参議院の実力者に上りつめた玉置和郎の金銭スキャンダルが露見したことなどから、昭和五十八年に実質的に活動を停止。それまでその活動の中心的役割を担ってさえいた「日本を守る国民会議」(後[日本会議])からも脱退し、戦後長く取り組んできた愛国政治運動から全面的
に撤退する。その後の同教団の動向を年表風に記述すると、次のような流れとなる。
平成元年 発行する雑誌の位置づけを「普及誌」に改め、雅春の文章掲載を中止
平成二年 「大東亜戦争侵略論」を副総裁・雅宣が発表、教団内外の批判を集め物議をかもす
平成三年 宇治別格本山での祝詞を改変
平成四年 創始者・雅春の著作の新刊発行停止・重版停止(「内容上の問題」から)
平成五年 「国際平和信仰運動」提唱(「国をこえ、民族をこえて」)
平成七年 シンボルマーク「聖旗」の意匠がナチスのカギ十字を連想させると「鳩」に変更
平成十一年 総裁・清超が体調を崩し、雅宣が総裁代行となる
平成二十年 十月二十八日、清超死去
平成二十一年 三月一目の立教記念日に雅宣が三代総裁に就任、名実ともに全権を掌握
創始者を「彼」と呼ぶ傲慢さ
平成十六年七月末日、ブラジルで行われた「教修会」に臨み、総裁代行・雅宣は、[谷口雅春氏は僕の祖父ではありますが、彼は彼なりの説き方をされが、やはり神ではないので、各所にその欠点を見い出し、それを訂正したり。
廃刊にした書物もあります。私は私なりに現代人を救済する義務があるので、不要なものは処理した」と述べたという(前記「学ぶ会」機関
誌「声」の欄投書から)。「谷口雅春」を「彼」と呼ぶ、雅宣の本音が明らかになっている
聖典と崇められてきた『生命の実相』は雅春の著作権を委ねられている「生長の家社会事業団」との訴訟沙汰の末、事業団側か完全勝利したことを理由に、現在の教団内では、ほとんど軽んじられている。「聖教(ママ)」と信徒に最も
重んじられてきたお経すら軽視し、近年は雅宣自らが創作した散文詩「観世音菩薩讃歌」[大自然讃歌」を「聖教」としようとする意向か露骨である。
長年信徒が集ってきた東京・原宿の本部は耐震構造に欠けるとの理由で解体・更地化し、山梨県北杜市の八ヶ岳の「森のオフィス」に移転。「自然と調和した社会づくりを進める」という。
そのコンセプトは「地球温暖化抑制に向けて宗教団体としては初めて環境ISO14001の認証を取得、炭素ゼロ運動を開始、森と人との共存を目指す」ということだそうである。
本部中枢機能が〃山籠もり”し、引き籠っていては、「国際平和信仰運動」も、かけ声だけの羊頭狗肉と化すだろう。創始者・谷口雅春の痕跡を、教義や建築物さえも一掃したいという強い怨念に似た衝動が垣問見れる。
「環境教団」と化した雅宣・生長の家は、来年三月の完成予定で京都府城陽市に、年問発電量約百八十三万四千kWhの太陽光パネル六千四百八枚を敷き詰めたメガソーラシステムを設置する計画で、八億円の募金を集めているが、これは一層の信徒離れを加速させているだけのようだ。
先に述べた『生命の実相』に関する著作権裁判で、雅宜・生長の家側についた弁護士は、ジェンダーフリー問題などで勇名をはせる、左派の弁護士たちだった。今や雅宣は民主党支持を明確化し、朝日新闘を愛読紙と言ってはばから
ない。「苦労知らずのボンボンのお遊び」と言えば簡単だが、そうとばかりも言っていられないほど、事態は深刻なのである。
(文中敬称略)