則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2015年07月

讀んで戴ければ幸甚です。

ネットの怖さ

今回私は「破邪顕正さん」に意見をいいました。
この人だったら真面に聞いてもらえるのではと思いましたが、少し期待過ぎるのも失礼です。
こういうネットの社会では日頃文章を書いていない人が急に書くとなると、どうしても言葉足らずになるのです。

以前はそういうことを追求したりしていましたが、あまりにも短い文章などが多く、誤解を生みやすいのがネットという社会です。

だからネット社会に少しは慣れている破邪顕正さんに意見を述べたのであります。

Re: 《緊急通知!》「生長の家青年会」の宣言綱領が廃止、「Our Vision」へ… - 遠い目

2015/07/23 (Thu) 20:21:10

>>天皇陛下のご聖徳を学ぶ時間など、もはや教団のプログラムにはないのです。
すべては、その「実態」から出発しなければなりません。


歴史的文書となってしまった、以前の「生長の家青年会宣言・綱領」という破邪顕正 さんの宣言・綱領に、愛国心や天皇陛下のご聖徳を学ぶ・・・という文言あるいはそれに近い表現がありますか。

貴方の言いたいことは解らんでもないが、総裁に従わざるを得ない無力な現在の青年会を批判して自分たちを宣伝するそのやり方には先輩としてのそして信仰者としての愛情が感じられない。
まだそんな手法を取り続けるのか学ぶ会は・・・

この文章にカチンときたのが破邪顕正さんです。
当初は冷静な対応をされています。

「遠い目」さんへ - 破邪顕正

2015/07/24 (Fri) 11:41:13


拙稿に関心を寄せていただき感謝申し上げます。

>歴史的文書となってしまった、以前の「生長の家青年会宣言・綱領」という破邪顕正 さんの宣言・綱領に、愛国心や天皇陛下のご聖徳を学ぶ・・・という文言あるいはそれに近い表現がありますか。<

私は、それに当たるものが「万民の祝福し合う神の国」であると思っております。

事実、私が青年会運動に情熱を燃やしていたときは、「神国の構想」という運動ロマンに感激したものでした。

「神国」とは「真理国家日本」いうことであり、その原典が「古事記神話」にあるということで、よくその学びをしたものでありました。

>貴方の言いたいことは解らんでもないが、総裁に従わざるを得ない無力な現在の青年会を批判して自分たちを宣伝するそのやり方には先輩としてのそして信仰者としての愛情が感じられない。
まだそんな手法を取り続けるのか学ぶ会は・・・<

「谷口雅春先生を学ぶ会」は一貫して教団の“受け皿”たらんとして運動をしております。

今の教団では、愛国の青年は生まれない。

その問題点をいくら指摘しても、現状は何も変わりはしない。

“批判”ばかりで、そこから何か生産的なものが生まれるのか。

だったら、それに代わって、新たに愛国心を培う青少年練成会を開催したらいい、そう思うに至ったのです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、常に、信徒の皆さんに対して、選択肢を拡げ、お好きな方をご自由に選んでください、というスタンスを大切にしていきたいと思っております。

それが“受け皿”という趣旨です。

だからこそ、『月刊誌』を出し、それのみならず「聖使命菩薩会制度」「神癒祝福祈願制度」を設け、「先祖供養祭」「神性開発練成会」等々の行事も執り行っているのです。

また「全国大会」を開催したのも、「東京見真会」をやり続けているのも、そして昨年から「青少年練成会」を手がけるようになったのも、すべてはその思いからです。

もとより、まだまだ行き届かない点が多々あることは十分に承知しています。

現教団の“受け皿”になるということは、そうたやすいことではないということも重々、覚悟しております。

しかし、ここまで教団が谷口雅春先生の「教え」から外れてしまった以上、失望し絶望する心ある信徒の心中を思えば、どこかがその負託に応えなくてはなりません。

その思いのみで、教団の“受け皿”たらんと、日々、精進してまいりたいと思っております。

その意気込みだけはどこにも負けないつもりです。

ぜひ、意のあるところ、お汲みとりいただければ幸甚です。

それに対して

Re: 《緊急通知!》「生長の家青年会」の宣言綱領が廃止、「Our Vision」へ… - 真実を求めるもの

2015/07/26 (Sun) 20:15:26

破邪顕正 さん・・本当に7月8日の「最高首脳者会」で「会則の一部改正」という議案の中で、「宣言・綱領削除」というのが決定されたのですね。

驚きました。悲しい限りです。推測に基づいていると勘違いした私の間違いを率直に認めます。

 さてお怒りの「学ぶ会ら」という表現は、学ぶ会および学ぶ会とは違う方向性を主張するグループ?(雅宣総裁更迭・教団正常化を目指す)のおおよそ二つの事を指した複数を表現するつもりで書きましたが、誤解を招いたようです。

また、そこで主張したかったのは現総裁の特異な性格からして、批判すればするほど一般人よりもさらに大きく反発してさらに過激になってくるから、その手法は逆効果ですよ。と言いたかったわけであります。

まあ、誤解を招くような口調で書き込んだ私の責任でありましょう。立ち位置が根本的におまえとは違うのだということを覚悟したなどと言われるととても悲しい思いがします。

愛しているほど気になって仕方がないかつての朋輩がほざいたエールとでも思って下さることを希望します。
コトバはの足らなさ難しさを反省して立ち去ります。お元気でご活躍ください。

追伸。
最近家内が雅宣さんの話題になると「もう雅宣さんのことは忘れて教えの通り生きましょう」と私を諭します。マコトの信仰者だと思います。掲示板も見ない方がよさそうです(笑)



「遠い目改め 真実を求めるもの」さんへ - 破邪顕正

2015/07/25 (Sat) 19:42:25


>一つだけ確認させてください。それは貴殿が立てたこのスレッドの表題です。そもそもこの表題に反応して書き込みを始めたのですが・・・
《緊急通知!》「生長の家青年会」の宣言綱領が廃止、「Our Vision」へ…

 ここには「宣言綱領が廃止」と明記してありますが、それは事実でしょうか。事実であれば大問題だと思いますが、確認は取れますか。<

お答えします。

7月8日の「最高首脳者会」で「会則の一部改正」という議案の中で、「宣言・綱領削除」というのが提出されました。

だから、私は、“「生長の家青年会」の宣言綱領が廃止、「Our Vision」へ…”という表題にさせていただいた次第です。

更に、

>歴史的文書となってしまった、以前の「生長の家青年会宣言・綱領」という破邪顕正 さんの宣言・綱領に、愛国心や天皇陛下のご聖徳を学ぶ・・・という文言あるいはそれに近い表現がありますか。<

というご質問にも追記でお答えさせていただきます。

『生長の家五拾年史』の377頁に、「発足当初の生長の家青年会宣言・綱領」が掲載されています。

そこにはこうあります。

「宣言」の後半部分です

…吾等は、人間神の子の実相を自己及び兄弟同胞たる隣人の総ゆる階層に実現し、智慧と愛と生命と供給とに充ち溢れたる大和日本の理念を如実に顕現せしめ、以て世界平和を樹立し万民の祝福し合う地上天国を招来とするものである。

ここに、はっきりと「大和日本の理念」という文言が挿入されています。

なぜ、それがその後、外されたのか。

これは私の勝手な憶測でしかありませんが、これが当初の宣言が決定されたのは昭和23年3月27日~28日に開催された「第1回全国大会」のことでありました。

ところが、その5月、谷口雅春先生は「公職追放仮指定」を受けられます。

こういう時代背景を考えると、「大和日本の理念」はいかにも占領軍を刺激しやしないかということで外されたのではないのかと私なりに拝察している次第です。

それはともあれ、当初、「大和日本の理念」が入っていた事実は重大で、「神の国」を「大和日本の理念=真理国家日本」と捉えても何ら間違いはないと思うものであります。

ついでに、このことについても言わせていただきます。

>総裁に従わざるを得ない無力な現在の青年会を批判して自分たちを宣伝するそのやり方には先輩としてのそして信仰者としての愛情が感じられない。<

総裁に従わざるを得ない…?

本当にそうであればどれだけ嬉しいか。

ホンネは違うけれども仕方なく従っているというのであれば、まだ救いがあります。

しかし、総裁に喜んで従っている、それが事実に近いと私は見ています。

新旧の「宣言・綱領」どちらがいいか、今の青年会員に聞いたらどうでしょうね。

「前のが良かった」という青年会員がどれだけいるでしょうか。

谷口雅宣総裁のDNAは、それほど今の青年会員の心中に入り込んでいると私は見ています。

その現状認識、そして危機感、その双方において、「遠い目改め 真実を求めるもの」とは全然、違っているというのが私の率直な感想です。

それを如実に感じたのは、この投稿でした。

>生長の家が谷口雅宣総裁によってサヨク勢力になっていることの方がよほど生長の家の評判を落としていますが・・・これは学ぶ会やらが「サヨク勢力」と宣伝しているからではないのか。一般の日本人はそれほど左翼とは思わないはずだ。<

“学ぶ会やら”とは何という言い方でありましょうか。

>わたしは学ぶ会そのものをを批判しているのではなく、手法を考えたらどうかと書き込んだのですが言葉が至らなかったせいか、批判だ嫌味だと騒ぎ立てる人が問題を違う方向へと発展しました。残念な事だと思います。<

私の方こそ、残念でたまりません。

“学ぶ会やら”という言い方には、明らかに悪意があります。

そして、更に残念なのは、この言い方は、悪いのは“学ぶ会”であって、谷口雅宣総裁ではないということになっているところです。

これはとても重大な問題です。

この認識は、「言葉が至らなかったせい」で見逃すわけにはいかない問題です。

何故と言って、私は一貫して、谷口雅宣総裁の思想性こそが深刻な問題なのだと言い続けてきたからです。

谷口雅宣総裁の思想性の問題が先であって、それを何とかしなくてはならないという思いで「谷口雅春先生を学ぶ会」は立ち上がったのです。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が先にあって、それで「谷口雅春先生を学ぶ会」が谷口雅宣総裁をしてサヨクに仕立てあげたのでは全然、ないのです。

原因と結果とが真逆です。

こういう極めて、初歩的、かつ重大な問題において、認識の違いが明らかになったということは、とても残念ではありますが、却って良かったのかもしれません。

「遠い目改め 真実を求めるもの」さんとは、立ち位置が根本的に違うのだということを覚悟させてくれたのですから



私はどこかが歯車が狂ったらこういう対立しか生まないのは本当に残念であります。
少し冷静にみれば眞實を求めるさんは掲示板の書き込みに慣れていないのはよくわかります。それを真っ当に受けてみるのは如何なものかであります。破邪顕正さんは「学ぶ会」の代表者といっても過言ではありません。

だから余計に言うのです。少し遠くから見る視点も養うことの大切さを私も含めて学んで下さい。

私は「立つ位置」が異なっても仕方がないと思います。しかしその言葉は貴方とは議論の余地なしと言っていることなんです。何回も会っていてそういう感情も生まれるのは致し方ありませんが、たった少しの文章でこういう「立つ位置」が異なるというのは何とも言えない哀しさがあります。掲示板はその人のどれだけのことがわかるのか?

だからこそこういうネットでの怖さも感じています。
少し冷静に考えることも大切ではないか。

『生命の實相』の御旗を持って進む時

「山ちゃん1952」さん、早速の投稿、感謝します。 - 破邪顕正

2015/07/19 (Sun) 08:20:28


「山ちゃん1952」さんから、「悪意の言葉からは神性が生まれない。」というタイトルでこんな投稿を頂戴しました。

>(前略)

こうした問題は必ず起こります。
また悪口を言わなかったとしても起こります。それは何故かというとこんなにいい教えなのにそれを守らないのが「学ぶ会」であると吹聴すれば、嘘でも本当になっていきます。

そうしたことは他人から見れば生長の家は分裂したとしか印象はありません。片方は「生長の家」の新しい教えを拡めている。方や「生長の家」を捨てて出て行ってしまった。

しかし、破邪顕正さんは別段悪口とは思いませんが、これだけ正当なことを言っても、多分知らない人は悪口にしか聞こえないのであろうと思います。

それならばどうするかでありましょう。
①無視して黙々と実行する。
②今まで通り、有言実行で行う。
③今までとは雰囲気を変える。

さて、私なら③を選択します。やはり破邪顕正さんの「谷口雅春先生に帰りましょう」は教団にとっては悪口しかないのです。正当なことを言ってもそれが相手に伝わらない、それ以上に意固地になる可能性だってあります。

もう少し控えるなりしたほうがいいと思っています。
それより「こんなに「学ぶ会」は素晴らしいと発言したほうがいい。しかも「生長の家教団」(八ヶ岳教団と言わず)として見る。
「八ヶ岳教団」ということば自体が悪意を持っています。
私は別に現在の「生長の家」教団はおかしいと思っています。
いくら正当な意見でも悪意の言葉から何にも生み出せない。

そうしたことが①②を解消させるヒントが隠されています。
人間は必ず報われるとは言えども虚栄心や悪意からは何も新たな発見を見出すことは出来ないでしょう。

そこから必ず感謝が生まれてくるものであると信じています。是非実行して下さい。<

大変、参考になる意見だと感じました。

なるほど、“八ヶ岳教団”という言い方そのものが「悪意」と感じられてしまうというのはその通りでしょうね。

敢えて、言い訳をさせていただけば、私の中で、谷口雅春先生の「生長の家」と今の教団とは違うという認識があります。

その区別から、最初は“原宿教団”という言い方をし、今は“八ヶ岳教団”という言い方をさせていただきました。

「山ちゃん1952」さんの指摘に従い、今後は「生長の家」現教団という言い方をしていこうかと思います。

>③今までとは雰囲気を変える。


その方向で、私なりに考えてみたいと思います。

そして、思いついたことを、ここに投稿して、皆様のご意見をいただければと思っております。

さすがに破邪顕正さんである。
勿論、私も現教団に言いたいことは沢山あります。だが言ってみても変わらないのです。自分が虚しくなるだけなのであります。期待もしないし、変わらない。
これ以上齷齪しても自分がその人(現教団)に翻弄されているだけなのであります。
現教団に一喜一憂している「学ぶ会」はこの時点で負けなのです。

それよりも現教団の信徒を如何にしてすくい上げるかが大切です。少し前にこのブログで書きましたが、「今」こそチャンスなのです。「学ぶ会」の会員増大のチャンスなのです。現教団から多くの信徒を「はいどうぞ」と窓口を開けているのです。

それは『聖経 甘露の法雨』『生命の實相』という本尊がなくなり、右往左往としている現状なのです。そこを救いの輪を拡げるのも一つの妙案なのです。

少し前のブログで私は『生命の實相』大聖典の出版を予約制で募るという話をしました。だがここで問題なのは『新編 生命の實相』に変わっているという大問題が暗澹としてあるのです。
もし、頭注版の流れであればそのまま活用出来るのです。
そして、支部に一つづつ購入してもらい、本尊として禮拝するのであります。

なんとも残念な話でありますが、今からでも遅くはない。『聖書』に『新編 聖書』が無いように、まるで新編という言葉が一人歩きをして『生命の實相』が変わってしまったような印象をあたえるのであります。
『新版 生命の實相』ならばそんなことはなかった。『法華経』に『新編 法華経』がないように価値のあるものは編集してはダメなのであります。
この『生命の實相』で奇跡的に救われた人が幾人もいるのであります。それは破邪顕正さんが一番よく知っている話でもあります。このままでは『大聖典』も頓挫します。
それは65巻の編集をしなければどういうのを出版するかがわからないからであります。

それでも勇気を出して『愛蔵版 生命の實相』をそのまま印刷して頒布すれば「学ぶ会」の本尊として『生命の實相』は護られるのであります。

そうすれば一気に「住吉大神」「生長の家」の御加護を頂き益々発展するのです。
早く発行して「光の進軍」として「生命の實相」を先頭にすすむのですから、悩むことはなくなるのです。
如何でしょうか?

悪意の言葉からは神性が生まれない。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が乗り越えるべき二つの課題 - 破邪顕正

2015/07/18 (Sat) 15:12:45


表題は、ある会員さんとの語らいの中で出てきたことです。

その会員さんは、「組織」に残っている方と頻繁に話す機会をもっていて、これまでにもたくさんの方を「谷口雅春先生を学ぶ会」に導いた功労者のお一人であります。

その方から、自らの体験として「谷口雅春先生を学ぶ会」への入会を阻んでいる二つの問題の指摘を受けました。

①「谷口雅春先生を学ぶ会」は教団の悪口、批判ばかりしている。
「生長の家」は大調和の教えであって、悪口を言わないというところなのに、その教えに真っ向から反している。

②大切な『生命の實相』「聖経」を社会事業団、光明思想社、「谷口雅春先生を学ぶ会」が騙して教団から取り上げ、使わせないようにしている。
信仰者の風上にも置けない、ひどい人達だという怨念が、信徒の中には渦巻いている。

この二つの壁を乗り越えない限り、「谷口雅春先生を学ぶ会」への更なる入会はなかなか厳しいという指摘でありました。

現場の生の声を聞くというのはとても有り難いことであり、また大いに参考になります。

そして、私なりに、この二つの壁にどう対処していけばいいか、考えていきたいと思います。

読者の皆さんも、良かったら忌憚の無いご意見を寄せていただければと思う次第です。


こうした問題は必ず起こります。
また悪口を言わなかったとしても起こります。それは何故かというとこんなにいい教えなのにそれを守らないのが「学ぶ会」であると吹聴すれば、嘘でも本当になっていきます。

そうしたことは他人から見れば生長の家は分裂したとしか印象はありません。片方は「生長の家」の新しい教えを拡めている。方や「生長の家」を捨てて出て行ってしまった。

しかし、破邪顕正さんは別段悪口とは思いませんが、これだけ正当なことを言っても、多分知らない人は悪口にしか聞こえないのであろうと思います。

それならばどうするかでありましょう。
①無視して黙々と実行する。
②今まで通り、有言実行で行う。
③今までとは雰囲気を変える。

さて、私なら③を選択します。やはり破邪顕正さんの「谷口雅春先生に帰りましょう」は教団にとっては悪口しかないのです。正当なことを言ってもそれが相手に伝わらない、それ以上に意固地になる可能性だってあります。

もう少し控えるなりしたほうがいいと思っています。
それより「こんなに「学ぶ会」は素晴らしいと発言したほうがいい。しかも「生長の家教団」(八ヶ岳教団と言わず)
として見る。
「八ヶ岳教団」ということば自体が悪意を持っています。
私は別に現在の「生長の家」教団はおかしいと思っています。
いくら正当な意見でも悪意の言葉から何にも生み出せない。

そうしたことが①②を解消させるヒントが隠されています。
人間は必ず報われるとは言えども虚栄心や悪意からは何も新たな発見を見出すことは出来ないでしょう。

そこから必ず感謝が生まれてくるものであると信じています。是非実行して下さい。

破邪顕正さんの回答は

なお、『新編 生命の實相』について、色々と批判されていますが、これについては、「山ちゃん」さんへの投稿をもってその返答に替えさせていただきます。

…『新編 生命の實相』もおかげさまで15巻、頭注版でいうと第8巻の「観行篇」まで出すことができました。
巻数が増えるごとに、『新編 生命の實相』は間違いなく発刊されていくという信用度がましたのか、これまで発刊された全15巻を揃えたいという要望も届いているようです。
今後、ますます発刊全部を揃える信徒が増えるものと期待しております。
更に、有り難いことに、信用度がますとともに、『新編 生命の實相』発刊する基金として設けられた「新編『生命の實相』奉賛会」への支援の輪が広がっております。
心ある信徒の皆さんが、どれほど『生命の實相』を愛しておられるか、その表れであろうと拝察しております。
で、山ちゃんさんからは、今後の発刊に時間がかかりすぎるとの懸念をいただいておりますが、これまた有り難いことに、この度、『新編 生命の實相』専属の編集者を雇用することができました。
これで一段と、発刊のスピードアップがはかられるものと期待しております。…

ご返答に感謝申し上げます。
ただ、略するのはいいですが、このブログで私は”山ちゃん”のみを使用したことはありません。丁寧に”山ちゃん1952”と記入して欲しいものです。破邪顕正さんを”破邪”さんと呼んでいるのに等しい。

ただ、具体的に数字が出ないのは残念であります。例えば現在の書店で並んでいるのは大阪では「ジュンク堂」「紀伊国屋」「旭屋書店」ぐらいなものである。溢れかえる書物にどれだけ目にやるかは大切な要項です。
私は『新編 生命の實相』は売れているのかを主要な書店で見ますが、さほど売れている様子もない。1ヶ月を於いて行っても、並びが変わらなかったこともしばしばあります。
だから、これだけやるんだからではないのです。
どうして売れるようにするかが大切なのです。私ならばこうした言葉をいうならば実際の数字を記入します。それが出ないのは販売が盛んではないと人は思います。
まあ、頑張る気持ちだけはわかりますので、しっかりと頒布をお願い致します。

箕面から嵐山は昨日は暑かった。

昨日は久しぶりに50km以上の走行をした。
但し、気温が30度以上と厳しく熱中症対策の為水分を余計に補給し過ぎた。
最初に走ってすぐに顔が火照るのがわかる。そのため何回も休憩する羽目となる。悪循環はわかるが、水分の要求と休憩とが重なり、身体が重い。
何回も途中挫折を考えた。

今年初めての挫折だな。そんな思いで歩いていた。
だが、練習しているおかげか、足は動くのである。
この階段で何回か休憩かなと思っても足は動くのです。あのポンポン山の急坂でもゆっくりだけど確実に前進していくのです。
しかしタイムは本当に遅い。こんなゆっくりなペ-スでどうなるのかわからない。
朝7時16分に箕面駅を出発して嵐山駅に到着したのが午後9時5分。
途方もない遅さに呆れてしまう。よくぞ諦めずに歩いたものである。走行距離は旅ロガ-で55kmである。これは正確に距離を測定しているので間違いはない。

あの六甲全山縦走でも46kmであるから通称の56kmは甚だ疑問である。
あれほどゆっくりとあるいて11時間8分ですから、私の実力ならば10時間以内は軽々である。
だがこの箕面から嵐山は頑張って10時間である。

また写真を今回は100枚程度撮影したのでそれも影響しているのかもしれない。
それと西友や竜王山でゆっくり休憩したのが、これほど時間がかかった原因です。

それと珍しいく昆虫の写真撮影に熱心になりました。
ブログ掲載は後程

コメントから

下記のように寒坐さまからコメントを頂きました。深く感謝申し上げます。

そこで、質問から答えさせていただきます。
谷口雅春先生の著作権の保護期間というのは通常50年です。
御昇天されたのが1985年ですから2035年以降となります。
ただ、こうした宗教というのは公宣という立場から親族が独占するというのは
信教の自由から疑問を感じます。
そうした公的な著作というのは著作権を適用するかどうかは疑問に感じています。
そうした独占的に著作を握るのは法的にも問題があるように思っています。
戦後のGHQ政策とおなじようにしているのが現総裁である谷口雅宣という
人物であることをしっかりと把握しておくことが必要です。
焚書と検閲をしている人物だということです。
言論の自由の封殺ということを平気な顔して行っているのが現総裁です。
だから、どんなエライ事を言っても信用ならないのです。

それと私は傲慢という言葉を書きましたが、宗教家はときとして傲慢な態度をとるのであると思っています。下座の行などしたことがないような人が講話を行うことが多いです。その点、一燈園に行きましたが、本当に雰囲気が全然違うのです。人と接する態度など必ず下からなんです。
だから必ず”やらしていただきます”なんです。
私なんか反対に恐縮してしまうようになるのです。

西田天香さんの御子息に谷口雅春先生からの手紙をコピ-させていただきましたが、こんなこといいのかなと想うことも人を拝んでいるというのが実感として感じます。

今回も全国大会行くのに「学ぶ会」に電話しましたが、態度など悪いとは思いませんが、真心を感じないのです。それが不思議なんです。受講券では会場では金銭を受け取りませんの一辺倒なんですが、それは仕方がないと思いますが、会場内では書籍を販売している。不思議な感じです。

私はそうした事を感じるのですから多くの人が感じていると思います。
それを「そんなことありません」と否定すれば、今後の進展などないでしょう。
どうしてそのように見られてかを「雰囲気を変えて」考えてみることが必要でしょう。

私はこうした掲示板に疑問を呈して「質問」しても「学ぶ会」からは梨の礫なんです。
破邪顕正さんなどは意気軒昂に答えていますが、私の質問など無視するのでしょう。
生長の家マ-クでも質問したのですが、「学ぶ会」から結局は回答などありません。

また「新編 生命の實相」についても私の質問よりも財政的な厳しさだけで終わってしまった。だからこそ敢えて私ならこうすると企画を提案しても無視するだけです。
私はここで書いていても、コピ-ペイストで広まりますから誰かが見ていると思っています。

寒坐さんも書かれていますが『新編』という言葉に傲慢さを感じています。『生命の實相』は完全ではないから「編集」するんだ。という意思が言葉に現れています。

但し、大変宗教家と優れている人は学ぶ会には多いことはこんなこと言った後ですが、感じています。
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  • 1. 寒坐
  • 2015年07月10日 09:27
  • >『生命の實相』は価値があるんですからというのは発行者の傲慢でしかありません。

    同感です。
    「運動家」を自認する人も多いようなので熱い思いは素晴らしいですが、
    自分たちとて、ちょっとでも人に疑問を挟まれると常軌を逸したコトバを返すようでは
    「あちらとどこが違うのか?」ということになります。

    「何のために裁判に”勝たせてもらったのか”」を今一度考えて欲しいものです。

    「聖経」にあって、まず「七部経」を出したのは
    日本教文社版にもなかったことですので、結構好評を得たのではないでしょうか。

    ご提案の『大聖典』はもちろんかつてのような装丁ではないでしょうが
    漫然と事業寄付を呼びかけるよりは、こうした企画の方が
    予約者も多かったでしょうし、資金も集めやすかったでしょう。

    『新編』というのにも傲慢さを感じますが
    巻数増大の上に単価の大幅アップなどは、
    かえって自分たち首を絞めているように思えます。

    長期展望がない、すなわち「いずれ教団が頭を下げてくる」と踏んでいるのだと思います。

    TPPの問題もありますが
    谷口雅春先生の著作権は、厳密にはいつ切れるのでしょうか?

    『霊界物語』のようになるのかどうか・・・。


  • 『新編 生命の實相』の憂鬱

    新編『生命の實相』もようやく15巻の発行である。
    私は再三再四注文をつけてきたが、やはり思った通りの様相である。

    少しでも発行責任者に人の意見を聞くという態度さえあればこんなに苦労することはなかった。
    今後、年間出版される状況を考えると多く見て年間6巻とすると後50巻ですから8年は
    かかります。

    人間というのは熱が冷めてしまうと購買意欲というのがなくなるのです。全巻揃えて購入するなど
    余程でない限り意識しません。既に熱が冷めているという人も多くいます。

    その理由として65巻という途方もない巻数であります。40巻ならばなんとか頑張ろうとしますが巻数の多さに圧倒されて購入しません。

    例えば『昭和天皇実録』というのが60巻です。
    定価も消費税を含んで2041円と割安です。しかし全巻購入など考えることもありません。必要のところだけで十分だからです。
    『昭和天皇実録』は頁数は724頁で函入りなんです。考えてみれば新編『生命の實相』15巻はたったの169頁です。1646円です。
    そう考えると大変高いので高齢者の多い信徒数では負担を考えると購入をしないと思っています。

    それと年間の発行巻数がこの状況ではどうしようもなく購買まで考えません。
    『生命の實相』は価値があるんですからというのは発行者の傲慢でしかありません。
    谷口雅春先生は戦後のお金のない状況でも『生命の實相』だけでも発行しようと新修普及版を昭和24年11月10日から昭和28年4月25日で全巻(20巻)を発行されておられます。

    現実的には経済状況ではその当時の状況よりまだ良い状況だと現在は考えられます。
    それでも聞くのは売れていないと聞いています。
    やはり既にスタ-トしているので途中挫折とはいきません。『眞理』の本も発行しなければいけません。このままでは日本教文社のことをいえない状況ではないか。

    私ならばどうするかというと『大聖典 』を発行します。しかも予約制です。
    圧倒的な宣伝と少なくても5000部あれば十分です。
    それをすぐに発行体制をしていきます。
    だからといって『新編 生命の實相』が売れなくなるということがありません。
    定価を10万として販売するのです。
    そういう智慧があるのかどうかです。
    諦めないで参考にしてください。
    私ならいろんなアイデアで売れるようにします。

    頑張って下さい!

    以前に私が最初に書いたようなので引き続き、情報連絡させていただきます。

    谷口暁子様は
    8月より広報・メディア部ブリントメディア課の所属となりました。
    最初は見習いとして奉職されるようです。
    しっかりと頑張って光明化運動に邁進して下さい。



    果たしてどうなるのであろう。
    総裁の長女が本部職員として奉職したという情報が入ってきました。

    どのような人物か分からないが、父よりはまともな人間であって欲しいと思っています。

    長男は谷口雅敏
    次男 谷口清次郎
    長女 谷口暁子

    あのノ-ミ-トでfacebook でロ-ストチキンの写真を掲載した人ですね。
    一躍有名になりました。
    肉食をやめないで下さい。
    有言実行です。

    職員はノ-ミ-トです。

    楠公の歌

    P1160434
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    楠公のあらゆる遺跡に訪問させていただきました。あの坂本龍馬が陶酔したことがよくわかります。
    なんかこれを書いていたら湊川神社に行きたくなります。
    桜井の駅にも何回も行きました。涙が出るんです。あの地に行けば。
    四條畷神社にもまた行きたい。

    楠公の歌

    落合直文 作詞 奥山朝恭 作曲 明治36年


    -桜井の訣別-


    1.青葉茂れる桜井の  里のわたりの夕まぐれ

      木(こ)の下陰に駒とめて  世の行く末をつくづくと

      忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に  散るは涙かはた露か


    2.正成(まさしげ)涙を打ち払い  我が子正行(まさつら)呼び寄せて

      父は兵庫に赴かん  彼方(かなた)の浦にて討ち死せん

      汝(いまし)はここまで来つれども  とくとく帰れ故郷へ


    3.父上いかにのたもうも  見捨てまつりてわれ一人

      いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは

      未だ若けれ諸(もろ)ともに  御供(おんとも)仕えん死出の旅


    4.汝をここより帰さんは  我が私の為ならず

      おのれ討死為さんには  世は尊氏の儘(まま)ならん

      早く生い立ち大君(おおきみ)に  仕えまつれよ国の為


    5.この一刀(ひとふり)は往(い)にし年  君の賜いしものなるぞ

      この世の別れの形見にと  汝(いまし)にこれを贈りてん

      行けよ正行故郷へ  老いたる母の待ちまさん


    6.共に見送り見返りて  別れを惜しむ折からに

      またも降りくる五月雨の  空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)

      誰か哀れと聞かざらん  あわれ血に泣くその声を


    -敵軍襲来-


    7.遠く沖べを見渡せば  浮かべる舟のその数は

      幾千万とも白波の  此方(こなた)をさして寄せて来ぬ

      陸(くが)はいかにと眺むれば  味方は早くも破られて


    8.須磨と明石の浦づたい  敵の旗のみ打ちなびく

      吹く松風か白波か  よせくる波か松風か

      響き響きて聞ゆなり  つづみの音に鬨(とき)の声


    -湊川の奮戦-


    9.いかに正季(まさすえ)われわれの  命捨つべき時は来ぬ

      死す時死なでながらえば  死するに勝る恥あらん

      太刀の折れなんそれまでは  敵のことごと一方(かたえ)より


    10.斬りてすてなん屠(ほう)りてん  進めすすめと言い言いて

      駆け入るさまの勇ましや  右より敵の寄せくるは

      左の方(かた)へと薙(な)ぎ払い  左の方より寄せくるは


    11.右の方へと薙ぎ払う  前よりよするその敵も

      後ろよりするその敵も  見ては遁(のが)さじ遁さじと

      奮いたたかう右ひだり  とびくる矢数は雨あられ


    12.君の御為(みため)と昨日今日  数多の敵に当たりしが

      時いたらぬをいかにせん  心ばかりははやれども

      刃(やいば)は折れぬ矢はつきぬ  馬もたおれぬ兵士(つわもの)


    13.かしこの家にたどりゆき  共に腹をば切りなんと

      刀を杖に立ちあがる  身には数多の痛矢串(いたやぐし)

      戸をおしあけて内に入り  共に鎧の紐とけば


    14.緋おどしならぬくれないの  血潮したたる小手の上

      心残りはあらずやと  兄のことばに弟は

      これみなかねての覚悟なり  何か嘆かん今さらに


    15.さはいえ悔し願わくは  七度(ななたび)この世に生まれ来て

      憎き敵をば滅ぼさん  さなりさなりとうなづきて

      水泡(みなわ)ときえし兄弟(はらから)の  心も清き湊川

    https://www.youtube.com/watch?v=qPcrhHT3Eww

    賀名生という地

    先日賀名生の皇居として書きましたが、ここの地名は昔は吉野郡西吉野村という。
    田舎であるが山林が多くを占めていた。

    吉野という地名は吉野千本桜でも有名ですが吉野駅からは離れています。
    あの女優の尾野真千子の実家からは賀名生は近い。

    ただ、賀名生という所を訪問したのは後醍醐天皇の歴史を少しでも知るためでもあります。今回は楠木正成関連の訪問でしたが、そんななかでも歴史という繋がりを自分では感じ取る必要を強く感じたのです。
    以前にここで書きました「天皇信仰」などはこうした歴史の繋がりであればこそ生まれるものであると感じています。俄か信仰では根本が埋まらないものを感じています。だから”生長の家”を嫌になったら辞めたりするのです。
    根が張っていないから色々な迷いが生まれるのです。
    そうした土台をキッチリと築き、高めあうのがいいのです。
    人に付いていくような信仰は本当に駄目です。あの竹岡博文さんは生長の家の名前も出さないで講話とか出版をしていますが、残念でなりません。堂々と生長の家の名前を出すように願いたい。だが現状の生長の家教団ならばなんとなくわかるのも不思議です。
    私はこの奈良の賀名生という地を訪問して地域での南朝ということにすごくプライドがあるのだと感じました。連綿と受け継がれる歴史というのは誇りの歴史なんだと感じています。

    それをその地で行って感じるかどうかが問題なのです。何にも感じない人は大半です。そんな中でも一筋の光を見出すように発掘していかなければなりません。

    地域の英雄 楠木正成

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    楠木正成というのは歴史を通じて英雄であったことは間違いない。
    『太平記』に描かれた人物は大阪では楠公さんと呼ばれ、四條畷では小楠公の楠木正行がおり。
    神戸でも楠公の湊川神社では楠公さんと呼ばれている。

    下記は童門冬二氏が楠木正成の魅力を書いています。
    私はこの千早赤坂や南河内という地域は昔から人情が厚く、それなりの人として教育された御蔭でこうした英雄が育ったと思います。


    楠木正成 ・「痛快無比の英雄」の魅力

    2012年09月21日 公開

    童門冬二 (作家)

    ≪『歴史街道』2012年10月号より抜粋≫

    没後間もない時期に書かれた『太平記』や『梅松論』ですでに智略あふれる英雄として描かれ、戦国時代には、あの竹中半兵衛が「昔楠木、今竹中」と評され、江戸時代には講談などで庶民のヒーローとなり、さらに幕末の志士が敬慕した武将、楠木正成 (くすのきまさしげ) 。
    その天才的な軍略と、節を守る侠気 (おとこぎ) あふれる生き方は、時代を超えて、なぜ多くの日本人を魅了するのか。

    日本人が長きにわたり憧れを寄せた「英雄」

     楠木正成 ―― 最近でこそ、その名前を聞く機会が減っていますが、かつて、多くの日本人が憧れた英雄中の英雄でした。私が子供の頃、「好きな人物は誰か?」を世間一般に問えば、必ず「楠木正成」の名が上位に挙げられたものです。

     楠木正成は鎌倉時代の末期から、後醍醐天皇による建武の新政が行なわれた数年間、これ以上ないほどの輝きを放った人物です。鎌倉幕府打倒の兵を挙げた後醍醐天皇にいち早く呼応し、自らの地盤である南河内の赤坂城や千早城(現在の大阪府南河内郡千早赤阪村)に立て籠もります。そして攻め寄せた幕府方の大軍に、山城の上から岩や丸太を落としたり、熱湯をかけたりと、それまでの戦いの常識を覆す智略の限りを尽くして、わずかな兵で数万以上の敵を翻弄。城を見事に守り抜いて倒幕への気運を一気に高め、時代のヒーローの座へと駆け上りました。

     倒幕が成って建武の新政が行なわれると、その混乱ぶりに多くの武士が愛想を尽かし、実力者である足利尊氏になびいていきますが、楠木正成は掌を返すことはせず、あくまで「節」を守ります。そして叛旗を翻して京に攻め上った足利尊氏率いる大軍を、一度は追い落とすことに成功するのです。しかし、時の勢いはなお、足利尊氏の側にありました。九州に落ち延びた尊氏は、勢力を盛り返して再び上洛軍を起こします。

     楠木正成は足利尊氏を京都から追い払った直後、後醍醐天皇に尊氏と手を結んで政権を安定させるよう進言し、さらに尊氏が九州から上洛してくると、守るに難く攻めるに易い京を退去し、洛中(京都市街)に足利軍を引き入れたうえで包囲殲滅するよう献策します。しかし、勝ちに驕る因循姑息な公家たちに、いずれも退けられてしまいました。正成は朝廷の命令に従って足利尊氏を討つために湊川(現在の兵庫県神戸市)に出陣。圧倒的な敵勢を一手に引き受けて天皇方の主力部隊を無事京都へ落ち延びさせ、自らは見事な最期を遂げるのです。

     湊川の戦いに臨む際のエピソードとして有名なのが「桜井の別れ」です。死を覚悟した正成は、桜井の駅(現在の大阪府三島郡島本町桜井)で息子・正行(まさつら)に2000騎を引き連れて故郷に帰るよう命じます。「自分も一緒に」とすがる正行に、「もし私が死ぬことがあっても、楠木一族が1人でも生き残っていたら、帝の絆に思いを致し、しっかりとお仕えして戦い抜け」という言葉を残し、自らは700騎を率いて湊川に向かうのでした。

     この訣別の場面は、明治時代に「青葉茂れる桜井の」という歌詞で始まる唱歌にもなっています。メロディの艮さもあって、私も小学校時代によく口ずさみました。

     寡兵で大軍を打ち破る痛快さや、自らの理想と節を守る生き様の美しさ、そして桜井の別れの哀切さまで、楠木正成の人生を彩る様々なシーンごとに、それぞれの見せ場とテーマがあります。私も子供の頃から、正成の物語を読んだり聴いたりするたびに「ときめき」を覚えたものです。

     もしかすると今の若い人の中には、かつて楠木正成が英雄視されたのは、戦前の軍国教育の影響だと勘違いされている方もいるかもしれません。しかし、それは大きな誤解です。私が楠木正成に「ときめき」を覚えた際、軍国主義がどうのなど、まったく考えたこともありませんでした。

     そもそも、楠木正成は、没後すぐの14世紀に成立した『太平記』の中で、すでに智略あふれる英雄として描かれています。さらに驚くべきことに、正成と敵対した足利氏寄りの視点で書かれた歴史物語『梅松諭』(同じく14世紀の書です)にすら、英雄として極めて同情的に描かれているのです。正成が、同時代の人たちからいかに高く評価されたかがわかります。

     『太平記』はその後も広く読まれ、正成の「天才軍略家」ぶりは広く語り継がれていきました。たとえば、戦国時代に羽柴秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛を評するのに、「昔楠木、今竹中」などという言葉も残されています。さらに江戸時代に入ると、水戸光圀が「忠臣の鑑」として楠木正成を大いに顕彰しました。光圀は、元禄5年(1692)に、湊川の正成の墓に「鳴呼忠臣楠子之墓」と刻んだ碑を建てています。

     また、江戸時代から盛んになった庶民の娯楽「講釈(講談)」でも、楠木正成は大人気のヒーローになりました。

     「今夕より正成出づ」

     そんな張り紙が出されると、講釈場に、どっとお客がつめかけたといいます。

     この人気と尊崇の念は幕末に至っても衰えず、吉田松陰をはじめ多くの志士たちが湊川の「鳴呼忠臣楠子之墓」の碑に詣でました。明治9年(1876)、正成の忠誠心に感銘を受けた駐日イギリス大使ハリー・パークスが、桜井の地に建立された記念碑に英文の碑文を寄せていることからも、当時の圧倒的な人気が窺えます。楠木正成は、かくも長きにわたって日本人の心を捉えて止まない存在だったのです。

     地域自治を実現し「リトル・ユートピア」を築く

     そんな楠木正成ですが、実はその前半生は謎に包まれています。

     ただ当時、正成が河内国にしっかりと根を生やしていたことは間違いありません。彼が、自分の根拠地である赤坂城や千早城で戦った手法は、いまでいうゲリラ戦法のようなもので、土地の人間たちの熱烈で根強い支援なしに続けられるはずがないからです。

     正成の屋敷跡は、千早赤阪村水分と推定されており、現在もその近傍には楠木家の氏神とされる建水分(たけみくまり)神社があります。水分とは文字通り「水の配分」を意味し、おそらく正成は、地域の有力者として潅漑用水の配水権を司っていたのでしょう。

     さらに正成は、京大坂と高野山を結ぶ高野街道を中心とする幹線道路の陸運や、堺港から各地を結ぶ水運などの利権も押さえていたと考えられます。また、千早城が築かれた金剛山地は、辰砂(水銀の原料)などの産地でもあり、その採掘によって大きな利を得ていたともいわれます。

     金剛山は、修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)が修行した場所でもあります。正成が物流や鉱山など様々な権益を司った背景には、そのような宗教勢力との結びつきもあったことでしょう。つまり楠木正成は、河内を地盤として民の生活を支えつつ、広いネットワークを束ねる存在だったのです。現代的にいえば「河内を拠点にした地域自治の実現者」ということになるでしょう。

     私は、楠木正成は太っ腹で頼りがいがあり、公明正大な善政を行なって、河内の民衆から大いに慕われる存在だったのだと思います。言うなれば彼は、河内の地に、自らの腕っ節一つで「リトル・ユートピア」を築き上げていたのではないでしょうか。
    自らの夢を貫く「熱い志」

     一方、当時は京都の朝廷と鎌倉の北条政権とで権力が分立しており、さらに各地に荘園などが乱立して、土地を巡る権利支配の関係は錯綜を極めていました。正成のような立場の者からすれば、これでは中間搾取が多く、たまったものではありません。

     また鎌倉幕府末期には、執権を務める北条氏を中心とした専制政治が強まり(得宗専制)、それまでの荘園や交通物流の利権が、幕府によって奪われ、脅かされていきます。さらに幕府の微税権限も拡大されました。これらは自らの土地に「リトル・ユートピア」を建設した正成にとって、到底許せることではなかったでしょう。

     そんな折、幕府政治のあり方に危機感を抱いた後醍醐天皇が倒幕の兵を挙げます。後醍醐天皇は「朕の新儀は未来の先例なり(私が新しく行なったことが、未来の先例となる)」と高らかに述べるような天皇でしたから、旧来の格式秩序などにとらわれず、広く社会の実力者層に倒幕への協力を訴えかけました。

     もっとも後醍醐天皇は自らの武力を持っていないので、そうするしか方法がなかったともいえます。しかし、このような「民と直接結びつき、自らの手で政治を行なう」という後醍醐天皇の願いは、地域に根ざして生きてきた正成からすれば、中間搾取ばかりにやっきとなる幕府のような夾雑物を排除することを意味しました。

     さらに後醍醐天皇が旧来の格式や秩序を超えて協力を呼びかけたことで、ある種の「自由な実力主義社会」への気運が巻き起こります。戦国期や明治維新期の自由闊達さにも通じるこの気連は、正成のような実力者の目には、極めて魅力的に映ったはずです。自分が作り上げたような「リトル・ユートピア」を全国に広げよう ―― あるいはそんな理想を正成は胸に抱いたのかもしれません。

     このような想いがあったからこそ、楠木正成は後醍醐天皇の倒幕挙兵に、自らの夢を託したのではないでしょうか。圧倒的に強大な権力に立ち向かうリスクを冒し、身銭を切ってまであれだけの見事な戦いを展開した裏には、そのような「熱い志」があったとしか考えられないのです。

     そして楠木正成は、その自らの夢を貫き、最後まで理想を掲げ、天皇を裏切りませんでした。それは正成自身に、「人生意気に感じる」ところがあったからでしょう。イデオロギーや理屈などとは、まったく別次元の話だったはずです。

     さらに正成に従う配下たちも最後の最後まで正成と行動を共にし、常に大敵に向かって怯みませんでした。湊川の戦いでは数十倍以上の足利軍を相手に、700騎が73騎に減るまで16度にも及ぶ壮烈な突撃を繰り返したといわれます。

     「この人のためなら死んでもいい。やってやろうじゃないか」

     正成も、そしてそれを取り巻く男たちも、そのような心意気を胸に滾らせていたように思われてなりません。一途さと情熱とパワーが凝縮された、強烈な「侠気」を感じさせるのです。

    「湧くがごとき智謀」をなぜ発揮できたか

     楠木正成の魅力は、そのような「熱さ」ばかりではありません。変幻自在の軍略の数々や、後醍醐天皇への的確な献策からは、彼の「先見性と合理性」が見て取れます。

     物流を差配しているがゆえに情報通だったこともあるでしょうし、古来、渡来人たちが多く入植した河内の土地柄もあって、外からの知識に柔軟なところもあるのでしょう。当時の知識階級である寺社勢力と親しく交流していたことも大きかったはずです。彼が「天才軍略家」の名をほしいままにする背景には、日常生活の中で、源 義経の戦例や、僧兵たちの戦い方から、蒙古や朝鮮の戦法まで、広く知りうる立場にいたことがあるかもしれません。

     さらに正成は、自らの利益ではなく、理想のために行動する「無私」の姿勢を貫いたからこそ、「とらわれない心」でありのままの状況を正しく見極めることができたのではないでしょうか。そしてそれゆえに、自らの想定が覆されても挫けることなく、その時その時の最善の道を追求し続ける「湧くがごとき智謀」を発揮できたのだと思われます。

     このような情報収集力、分析力と、それに基づく確かな戦略構想力が、楠木正成の痛快さを一層際立たせるのです。

     私は楠木正成に、太陽に向かって花を咲かせるひまわりのような、とことん「陽」の人物という印象を抱いています。ただ怖いだけだったり、表面的に繕ってばかりいるような人間に対して、誰が「この人のためなら」などという思いを抱くでしょうか。明るくて圧倒的な先見性があり、侠気があって皆を引きつけてやまない ―― 正成は、そうした魅力をまとう人物だったはずです。

     楠木正成は、まさに庶民の中から生まれ、庶民が愛し、語り継いできたヒーローでした。それこそ長屋の八つぁん熊さんのような人々が、正成の智略の痛快さに快哉を叫び、一途で気高い心に涙を流し、時には権力への不満を正成に仮託してきたのです。そうした存在であり続けた正成の生き様には、「人間として大切にすべき誠実さ」が色濃く刻み込まれているともいえます。

     とかく混迷を極め、先の見えない今の時代だからこそ、私たちは再び「楠木正成」を見直すべきではないでしょうか。
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    楠公さんとして地域でよばれています楠木正成の生誕地を訪問しました。

    赤坂城の戦い

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    下赤坂と呼ばれる赤坂城です。現在はその跡地の大半は千早赤坂村立中学校の校内となっています。
    大阪で唯一の村であります。千早赤坂村に行きました。
    千早赤坂もそうですし、河内長野もそうです。楠木正成は英雄なのです。

    赤坂城の戦い

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から抜粋
    赤坂城の戦い
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    大楠公一代絵巻(下赤坂城の戦い)/楠妣庵観音寺蔵
    戦争元弘の乱
    年月日:(旧暦元弘元年
    ユリウス暦1331年9月11日 - 同年10月21日
    場所河内国赤坂城
    結果:赤坂城陥落、護良親王楠木正成逃亡
    交戦勢力
    Imperial Seal of Japan.svg 後醍醐天皇勢力笹竜胆 鎌倉幕府
    指導者・指揮官
    Imperial Seal of Japan.svg 護良親王
    Kikusui.jpg 楠木正成
    Mitsuuroko.svg 北条貞直
    戦力
    500約20-30万
    損害
    死傷者:約1,000以上

    赤坂城の戦い(あかさかじょうのたたかい)は、鎌倉時代後期1331年9月11日に起こった河内国の戦い。河内国赤坂城に於いて、楠木正成笠置山を落ち延びた護良親王を擁し、凡そ500の寡兵をもって約20~30万の幕府軍とわたり合った戦いである。     

    経過

    鎌倉時代末期1324年後醍醐天皇鎌倉幕府倒幕を計画したが、陰謀が発覚し失敗した(正中の変)。7年後、再び倒幕計画を日野俊基に進めさせたが、陰謀が再度発覚した(元弘の変)。後醍醐天皇は宮中から姿をくらまし、笠置山で兵を挙げ、これに楠木正成が呼応し赤坂城で挙兵した。

    幕府軍は、後醍醐天皇が挙兵した笠置山を諸国御家人の軍勢を招集してこれを包囲、天皇方は寡兵ながらもよく抗禦したが約1ヵ月後陥落する。その時、楠木正成は自害し、遺体は味方の手で隠されたということにされたが、密かに落ち延びた。笠置山を陥落せしめた幕府軍は、笠置山包囲軍、その他余力を加え大軍を以って赤坂城へと攻め寄せた。


    元弘の乱
    の主要な舞台となった。元弘元年(1331年)、倒幕計画が発覚した後醍醐天皇笠置山で挙兵すると、楠木正成もこれに呼応して当地で挙兵。熱湯や二重塀の活用、大木の投下等の奇策を用いて鎌倉幕府軍を翻弄したと伝えられるが、にわか造りの下赤坂城は大軍の攻撃に耐え切れずに落城、正成は金剛山に潜伏した。翌元弘2年(1332年)になると、正成が当城を奪還して再挙兵したものの落城し、楠木軍は上赤坂城千早城に後退して抗戦を続けた。この千早・赤坂地域の戦いで幕府側を予想以上の苦戦に追い込んだことで、全国的に倒幕の気運が高まったとされる。

    南北朝期にも南朝方の拠点となったが、延文5年(正平15年、1360年)に落城した。周辺の金剛山の尾根上には上赤坂城とともに猫路山城・国見山城・枡形城等の出城が築かれており、赤坂城塞群を形成していた。一連の戦いの模様は『太平記』に記述されている。

    楠木正成の人となりて
    https://www.youtube.com/watch?v=rsIgnmLqRz0

    楠木正成夫人久子

     楠木正成の夫人は名は久子といい、甘南備の豪族南江備前正忠の妹で、ここ甘南備の矢佐利に生まれた。1323年(元亨3年)20歳で正成と結婚。二人の間に、正行正時正儀を始め6人の子がいる。
     1336年(延元元年)湊川の合戦で、夫正成を亡くし、1348年(正平3年)四条畷の合戦で長男正行、次男正時を亡くした。
     正行、正時兄弟の戦死後は夫人は生まれ故郷の甘南備に隠棲し、名を敗鏡尼と称し、夫正成を始め一族郎党の菩提を弔い、ひっそりと余生を過ごしたといわれる。

    楠妣庵観音寺(なんぴあんかんのんじ)は大阪府富田林市大字甘南備にある臨済宗妙心寺派仏教寺院。山号は峰條山。本尊は千手観音。開山は授翁宗弼(不二房行者、諡号:円鑑国師、微妙大師)とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、河内西国霊場第二十番札所。

    歴史

    楠木正行が、延元4年/暦応2年(1339年)に崩御した後醍醐天皇を悼み、河内国石川郡甘南備にある峰條山の一角の地を浄め、後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置した「峰條山観音殿」と称する一殿を建立したのが起源とされる。

    1348年正平3年/貞和4年)に開基とされる正行とその弟正時四條畷の戦いで討死にした後、二人の母で楠木正成正室の久子も、観音殿と同じ地に草庵を結び隠棲した。久子は敗鏡尼と称し、念持仏の十一面観音を奉祀して、夫と息子、一族の菩提を弔いつつ、16年間の余生を過ごした。

    久子の入寂後、正行の弟楠木正儀は、不二房行者(藤原藤房、後の授翁宗弼か)を住持させて、観音堂改め観音寺とし、楠木一族の香華寺としたとされる。

    甘南備の松尾家が真言宗無本寺であった観音寺の除地として久子の遺跡を守れるよう寺社奉行に届出たことから、観音寺は楠妣庵と称された草庵と共に、江戸時代を通して松尾家の所有であったようである。享保年間までは尼僧を住持させて護持されていたが、明治6年(1873年)には廃寺となる。

    廃寺跡は甘南備の尾花和市の所有に帰することになり、久しく田畑として利用されていたが、大正4年(1915年)2月、岐阜県益田郡下原村(現岐阜県下呂市金山地域)出身の篤志家加藤鎮之助によって購入されることになり、大正6年(1917年)5月に草庵が再建された。

    大正11年(1922年)には、同じく鎮之助により本堂も建立され、池上慧澄(柏蔭室湘山老大師、臨済宗大学学長)が住持として請われ晋山、約半世紀を経て再興が果たされた。昭和7年(1932年)2月には、石神會元(三光亭老大師、恵林寺貫主)が住持として請われ晋山。

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    楠木正成夫人の墓
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    昭和6年に昭和天皇もここを行啓されておられます。

    楠木正成公は南河内地域を拠点としていろいろな遺跡があります。

    神武天皇皇兄 彦五瀬命 竈山墓

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    神武天皇皇 兄彦五瀬命 竈山墓です。
    古事記には
     【神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)】神武天皇

    神倭伊波禮毘古の命【伊より下の五字は音を以ちてす】と、其の伊呂兄(いろせ)五瀬(いつせ)の命【上の伊呂の二字
    は音を以ちてす】と二柱、高千穗の宮に坐(ま)しまして議(はか)りて、「何地(いずこ)に坐(ま)しまさば、平け
    く天の下の政(まつりごと)を聞こし看(め)さん。猶(なお)東に行かんと思う」と云いて、即ち日向より發ちて筑紫
    に幸御(いでま)しき。故、豐の國の宇沙に到りし時に、其の土人、名は宇沙都比古(うさつひこ)・宇沙都比賣(うさ
    つひめ)【此の十字は音を以ちてす】の二人、足一騰(あしひとつあがり)の宮を作りて大御饗(おおみあえ)獻(たて
    まつ)りき。其の地より遷移(めぐ)りて、竺紫(つくし)の岡田の宮に一年坐しましき。また其の國より上り幸(いで
    ま)して、阿岐(あき)の國の多祁理(たぎり)の宮に七年坐しましき【多より下の三字は音を以ちてす】。また其の國
    より遷り上り幸して、吉備の高嶋の宮に八年坐しましき。故、其の國より上り幸しし時に、龜の甲に乘り釣を爲しつつ打
    ち羽擧(はぶ)り來る人、速汲(はやすい)の門(と)に遇いき。爾くして喚(よ)び歸(よ)せて、「汝は誰ぞ」と問
    いき。答えて曰く、「僕(やつがれ)は國つ神ぞ」。また、「汝は海道を知れるや」と問うに、答えて曰く、「能く知れ
    り」。また、「從いて仕え奉らんや」と問うに、答えて曰く、「仕え奉らん」。故、爾くして槁機(さお)を指し度して
    其の御船に引き入れ、即ち名を賜いて槁根津日子(さおねつひこ)と號(なづ)けき【此は倭(やまと)の國造(くにの
    みやつこ)の祖(おや】

    故、其の國より上り行きし時に、浪速の渡(わたり)を經て青雲の白肩(しらかた)の津に泊(は)てき。此の時に登美
    能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)【登より下の九字は音を以ちてす】、軍(いくさ)を興して待ち向いて戰いき。
    爾くして御船に入れたる楯を取りて下り立ちき。故、其の地を號けて楯津(たてつ)と謂う、今に至りては日下(くさか)
    の蓼津(たでつ)と云う。是に登美毘古(とみびこ)と戰いし時に、五瀬の命、御手に登美毘古の痛矢串(いたやぐし)
    を負いき。故、爾くして詔りて、「吾は日の神の御子にして、日に向いて戰うは良からず。故、賎(いや)しき奴(やっ
    こ)が痛手を負う。今よりは行き迴りて背に日を負いて撃たん」と期(ちぎ)りて、南の方より迴り幸しし時に、血沼
    (ちぬ)の海に到りて其の御手の血を洗いき。故、血沼の海と謂う。其の地より迴り幸して、紀の國の男(お)の水門
    (みなと)に到りて詔らさく、「賎しき奴の手を負いてや死なん」と、男建(おたけ)び爲して崩りき。故、其の水門を
    號けて男の水門と謂う。陵(みはか)は即ち紀の國の竃山(かまやま)に在り。


    この陵墓の隣に竈山神社があります。
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    垂仁天皇 皇子 五十瓊敷入彦命 宇土墓

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    制礼といっているが駒札という人もいる、立札という人もいる。五十瓊敷入彦命 宇土墓です。
    住宅があまりにも近い為、どうにかならなかったのか不思議です。
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    プラットフォームの横にある「い号が写真がうまく撮れなかった」
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    線路沿いにある「ろ号」です。
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    は号です。銀行の裏にあります。
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    ほ号です。
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    上図二枚は「へ号」です。昔は和歌山に行くのに利用した国道26号線です。
    草が生えていてこれが陪冢であるということが確認出来ないが、鉄柵と地形図から間違いないのですが、宮内庁ももう少し手入れをしてほしい。


    五十瓊敷入彦命

    『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋

    五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと、生没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本皇族

    日本書紀』では「五十瓊敷入彦命」「五十瓊敷命」「五十瓊敷皇子」、『古事記』では「印色入日子命」と表記される。

    第11代垂仁天皇皇子で、第12代景行天皇の同母兄である。石上神宮奈良県天理市)神宝に関する伝承で知られる。

    系譜

    (名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

    日本書紀』『古事記』によれば、第11代垂仁天皇と、後皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと、比婆須比売命/氷羽州比売命)との間に生まれた皇子である。

    五十瓊敷入彦命は長兄で、両書では同母弟妹として次の4人が記載される。

    • 弟:大足彦尊 (おおたらしひこのみこと、大帯日子淤斯呂和気命) - 第12代景行天皇
    • 妹:大中姫命 (おおなかつひめのみこと) - 記では男性の大中津日子命とする。
    • 妹:倭姫命 (やまとひめのみこと、倭比売命)
    • 弟:稚城瓊入彦命 (わかきにいりひこのみこと、若木入日子命)

    記録
    日本書紀』では、五十瓊敷入彦命に関して次の事績が記載されている。

    • 垂仁天皇30年1月6日条
      垂仁天皇が五十瓊敷命・大足彦尊兄弟に望むものを聞いたところ、五十瓊敷命は弓矢を、大足彦尊は皇位を望んだ。そこで天皇は五十瓊敷命には弓矢を与え、大足彦尊には皇位を継ぐように言った[1]
    • 垂仁天皇35年9月条
      五十瓊敷命は河内に遣わされ、高石池(大阪府高石市)・茅渟池(ちぬいけ:大阪府泉佐野市)を造った。
    • 垂仁天皇39年10月条
      五十瓊敷命は菟砥川上宮(うとのかわかみのみや:大阪府泉南郡阪南町の菟砥川流域)にて剣1千口を作り、石上神宮奈良県天理市)に納めた。そして、以後五十瓊敷命が石上神宮の神宝を管掌した。
      同条別伝によると、五十瓊敷命は菟砥河上で大刀1千口を作らせ、この時に楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部ら10の品部を賜った。また、その大刀は忍坂邑(奈良県桜井市忍坂)から移して石上神宮に納めたという。
    • 垂仁天皇87年2月5日条
      五十瓊敷命は老齢のため、石上神宮神宝の管掌を妹の大中姫命に託した。大中姫命は、か弱いことを理由に神宝を物部十千根に授けて治めさせた。これが物部氏による石上神宮での神宝管掌の起源という。

    古事記』垂仁天皇段では、印色入日子命(五十瓊敷入彦命)は、血沼池(茅渟池)・ 狭山池(大阪府大阪狭山市)・日下の高津池(高石池に同じか)を造ったという。また、鳥取河上宮にて横刀1千口を作らせて石上神宮に納めたほか、同宮にて河上部を定めたという。

    宇度墓(淡輪ニサンザイ古墳)拝所
    (大阪府泉南郡岬町)

    墓は、大阪府泉南郡岬町淡輪にある宇度墓(うどのはか、位置)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は「淡輪ニサンザイ古墳」。5世紀後半の築造と推定される、墳丘長200メートルの大型前方後円墳である。

    五十瓊敷命の墓について記紀に記載はないが、『延喜式』諸陵寮では和泉国日根郡に所在する「宇度墓」として見え、兆域は東西3町・南北3町、守戸3烟で遠墓としている。しかし、中世には荒廃して所在が失われた。明治7年(1874年)に『泉州志』の記載に基づき玉田山に定められたが、明治13年(1880年)に現在の墓に改められている。なお、現墓について『和泉志』では紀小弓の墓としている[3]

    伝承

    伊奈波神社岐阜県岐阜市)の社伝によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏した。そのため、朝敵として攻められて同地で討たれたという。さらに、夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと:景行天皇の皇女)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。


    垂仁天皇の皇子であり、大阪府南部を平定したと伝えられる、この地域は古墳が沢山あり興味が尽きない。
    大阪からこの淡輪は昔から海水浴場として有名であり、生長の家でも昔の写真には練成会をしたという記録がある。山を超えると和歌山という地域でもあり、私の住んでいる大阪北部からは離れている。

    兄弟の倭姫命は伊勢の齊女で天照大御神を祀る人で有名です。伊勢に行った折に陵墓を参拝したことがあります。

    ここの墓は南海電車の淡輪駅の横にあり6箇所の陪冢があります。

    陪冢 い号 仏の後
    陪冢 ろ号 小山
    陪冢 は号 籠作
    陪冢 に号 塚合
    陪冢 ほ号 塚合
    陪冢 へ号 籠作


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