則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2015年06月

讀んで戴ければ幸甚です。

観心寺と陵墓

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楠木正成の銅像です。日本三銅像の一つです。
残りは皇居と湊川公園です。
観心寺に行ってきました。
今回は後村上天皇御陵と二つの陵墓参考地を見るためです。
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檜尾坂陵墓参考地
観心寺から河内長野駅よりに150mの小高い坂の上にあります。



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観心寺正門
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後村上天皇宮都跡です。
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ゴボウ坂陵墓参考地です。
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上の二枚は正成公の首塚です。
首塚は何箇所かあります。
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後村上天皇御陵
この辺の地名は村上です。後村上天皇に肖って付けた地名です。

賀名生の宮都

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小さな皇居です。宮都跡です。
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南朝三帝とは?
後醍醐天皇、後村上天皇、後亀山天皇です。
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上手2枚は賀名生を山から鳥瞰したんですが、草ばっかり!
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忠魂碑です。北畠親房のお墓の横にあります。
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北畠親房のお墓です。
そういえば室生寺の奥の院にもお墓があったな?

賀名生?
(あのう)といいます。
これを知っている人は歴史通です。
南朝の宮都の名前です。

賀名生(あのう)は、奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)にある丹生川の下流沿いの谷である。南北朝時代(吉野朝時代)、南朝(吉野朝廷)の首都(ただし行宮であるため正式な首都ではない)となった地域の一つ。

もと「穴生」(あなふ)と書いたが、後村上天皇皇居吉野吉野山)からこの地に移した際に、南朝による統一を願って叶名生(かなう)と改め、さらに1351年正平6年、北朝観応2年)、いったん統一が叶うと(正平一統)「賀名生」に改めたという。明治になって、読みを「かなう」から原音に近い「あのう」に戻した。

後村上天皇の遷幸より前の1336年延元元年、北朝の建武3年)12月21日、後醍醐天皇は京都の花山院から逃れ出て、同月23日穴生に至ったが、皇居とすべきところがなかったのと高野山衆徒の動向を警戒してここに留まるのを断念し、同月28日吉野山に至った。

南朝三帝賀名生皇居之地

1347年(正平2年、北朝の貞和3年)正月に楠木正行四条畷で戦死したのち、南朝では北朝方(室町幕府、足利軍)の来襲を防ぎ得ないのを知り、吉野を引き払い穴生に移った(皇居は総福寺であろうという)。1348年(正平3年、北朝の貞和4年)、高師直率いる足利軍が吉野に来襲し、皇居、社寺などを焼き払い帰った。

1351年(正平6年、北朝の観応2年)、室町幕府の内紛(観応の擾乱)により、足利尊氏が一時的に南朝に降伏し、一旦南朝に統一された(正平一統)。しかし具体的な和睦の条件は折り合わなかった。

1352年(正平7年、北朝の観応3年)に後村上天皇は北征軍を興し、一度は住吉から山城の男山(京都府八幡市)に移った。尊氏の子である室町幕府第2代将軍足利義詮は正平一統を破棄し、再び北朝を擁立した。5月、北征軍は京都を回復することができずに賀名生に帰ったが、この時北朝方の皇族(光厳上皇崇光上皇直仁親王)を拉致し、さらに北朝の三種の神器(南朝は偽器と主張)を押収した。北朝方は、出家を予定していた弥仁親王を後光厳天皇として即位させた。

1354年(正平9年、北朝の文和3年)10月に河内天野山金剛寺(大阪府河内長野市)に、6年後の1359年(正平14年、北朝の延文4年/応安元年)には河内観心寺河内長野市)に移り、さらに翌年住吉に移って住吉宮の祠宮津守の館を皇居とし1368年(正平23年、北朝の貞治7年)ここで死去した。

のち長慶天皇を経て後亀山天皇践祚するに及び、1373年文中2年、北朝の応安6年)8月よりまた賀名生を皇居とし以後1392年元中9年、北朝の明徳3年)京都に帰って神器後小松天皇に伝えるまで20年間、賀名生は南朝の皇居の所在地であった。

江戸時代は、当初は松倉氏の大和五条藩領地、後に御領幕府直轄領)。幕末には天誅組吉村寅太郎がこの地を訪れ、皇居跡で「賀名生皇居」の扁額を書いた。

明治以降は吉野郡賀名生村が存在したが1959年昭和34年)に合併し西吉野村となった。日本国有鉄道五新線が通る予定で、途中の阪本まで建設が進められていたが中止され、用地の一部はバス専用道路に転用された。西吉野村は2005年平成17年)9月25日、市町村合併で五條市の一部になった。

1959年以降「賀名生」という地名は通称としてのみ使われていたが、2011年(平成23年)4月1日に西吉野町和田地区の一部が西吉野町賀名生と変更され、住所表記として賀名生が復活した。

賀名生の皇居は、従者の住まいだった一部が現存する。堀信増が提供した住居であるため(現在でも子孫が所有)、「堀家住宅 賀名生皇居跡」と呼ばれる住宅は1979年に国の重要文化財に指定されている。1998年(平成10年)に解体修理を行った。2003年(平成15年)1月18日、後醍醐天皇に下賜された日の丸(当時は国旗ではなかったが)や、天誅組の寄せ書きなどが盗難にあった。堀家住宅は春と秋に有料で一般公開、予約制。

釈迦ヶ岳の登山

釈迦ヶ岳(しゃかがたけ)は、奈良県南部の吉野郡十津川村下北山村の境界にある大峰山系標高は1800m。近畿地方の最高峰である八経ヶ岳(八剣山)より南では代表的な山。日本二百名山のひとつ。
概要

山頂には1等三角点が設置されている。また、1924年に安置された釈迦如来の銅像がある。

山頂の釈迦如来像は、大正13年(1924年)に「鬼マサ」の異名で知られていた岡田雅行(1886年 - 1970年 身長188cm 体重約120kg)という強力(ごうりき)が、たった一人で道をつくりながら、3分割して担ぎ上げたと伝えられる。

この一帯は1936年吉野熊野国立公園に指定され、2004年7月にはユネスコ世界遺産に登録された『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成要素として史跡「大峯奥駈道」が登録されたが、釈迦ヶ岳山頂も大峯奥駈道のルートのひとつとなっている。

縦走路(大峯奥駈道)とは別に、十津川村側と下北山村側の両方から登山道がある。十津川村側からの登山道(旭ダム上流)は初心者でも意外と楽に登れる。下北山村側の「前鬼」には古い歴史のある宿坊がある。

今回は一度行って見たかった奈良県の釈迦ヶ岳である。
昨夜は大阪の南の方に淡輪という所があります。そこに垂仁天皇皇子 五十瓊敷入彦命 宇度墓があります。
なかなか行けなかった。和歌山県に近い場所にあるため、余程でない限り足を向けよと思わなかったが、和歌山市にある彦五瀬命の墓にも行きたかったので丁度いい機会だと思って参拝しました。
その後奈良へむけて車を走らせました。
本日の早朝から登ろうと既に5時30分というのに4台車が止まっていました。
十津川村の登山道からスタ-トですが、朝靄と風が強く、靄が少し引くまで1時間弱待ってからスタ-トしました。
時間は6時10分です。最初から快調にスタ-トして1時間位で頂上に着きました。4kmもないのではないか、初心者でも登れるコ-スである。

まもなく、元の登山道入口に着く手前でアマチュアの昆虫研究しておられる人と15分程話したことは大変有意義なことでした。
それは登山道はブナ林が残っているのですが、倒木が多く、笹の葉が10cm程の背丈しかないのです。しかも針葉樹の若葉が全くないのです。尾根は所々の樹木と短い笹の葉と短い草。

登山者にとりどうなのかですが、あまり考えていないというのが実情です。

その原因ははっきりしています。鹿の増加です。本当に多くなった。鹿の生息数は人間の予想をはるかに超えている。
その結果、下層植生、樹皮剥ぎ、土壌流出、裸地、それに伴い、昆虫類の減少やそれに伴う鳥類の減少など様々な環境が大きく変化する。

昆虫で見たのは糞虫だけというなんとも情けない。

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頂上に釈迦像。
さすが洲鎌
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同行した人にハイポ-ズ
ここからの景色は抜群ですが、生憎この時間は霞んでいました。
同行の人に撮っていただきました。
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景観は抜群です。
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糞虫だけか!
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あちらこちらが倒木
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帰りには40台程車が停まっていた。

陵墓について考える

再度仁徳天皇陵及び陵墓についての最近の考古学者の問題を提起していきます。


先ほどの文章のなかに関西大学教授であった網干善教教授の師である末永雅雄氏の言葉を以前にこのブログで記入した。その末永氏は考古学者としては誰もが知っている人であり、橿原考古学研究所の所長として長年考古学を牽引してきた人物でもある。

高松塚の被葬者を問われても一切口にしなかった「学者は被葬者を口にしてはならない」というのが末永氏の持論でもあり、私もその通りであり、森浩一のように名誉欲だけで云うことは真相がわからないのに云うのは正しくない。仮にだったら誰でも言えるのです。

 

その末永氏はそのなかで昭和54年の時に昭和天皇をご案内したことを言われている。

40分の短い時間でしたが「ここに使ってある石材はどこから運んできたものかね」それに対して末永教授は「二上山(にじょうざん)の凝灰岩と考えられます。」とお答えした時に陛下はしばらくお考えなられて「ああ、ふたがみやまだね」とおしゃられたのに末永氏は陛下の知識に脱帽したといわれています。

大津皇子で有名な古い正確な呼び方が「ふたがみやま」であった。

 

さて仁徳天皇陵で戦後まもないときに発掘という危機があった。その時の末永氏の言葉を書いています。

それを『天皇陵』矢澤高太郎著から引用します。



「それはアメリカじゃなくて、日本側から言い出したことなんですわ。昭和二十三年(一九四八)に、文化社会科学使節団というのがアメリカから来ましてな。団長が後に駐目大使になったライシャワー博士でね。京都と東京で考古学、古代史の学者を集めて二回、会合を持ったんです

関西では京都大学の人文科学研究所が会場でな。ワシを含めてニ十人ほどの学者が集まりましてね。そこで、小林行雄君(当時、京都大講師)が、『仁徳陵を発掘したいけれども、今の日本ではどうにもなりませんから、アメリカでやってもらえないでしょうか』と言ったんです。そこで、ワシは真っ向から反対しました」

 ここに出て来る小林行雄講師は、その後に邪馬台国の所在地論争の鍵を握り、“卑弥呼の鏡”と呼ばれる三角縁神獣鏡の研究で脚光を浴びた学者である。その説は邪馬台国畿内説の重要な柱となり、今も生命を保っている。

 「『今、日本は戦争に負げて、国民全体がヘトヘトになって、食うや食わずで生活をしとる。時期を選ばず、敗戦を機会にアメリカの力を借りて自国の帝王墓を掘るなどというのはけしからん。

二百年、三百年先でもええから、国家が安定した時にやればいい。日本には日本の国民感情がある』。そう言うたんです。ライシャワーはニヤッと笑ってね、その話は終わりました。これと回し会合が東京で開かれた時も、江上波夫氏(当時、東京大教授)が同様の提案をし、後藤守一さん(同、明治大教授)がワシと同じ理由で反対して、仁徳陵の発掘の話は消えたんです‘

 もしも、末永さんと後藤守一教授かその場にいなかったとしたら、仁徳陵の主体部はアメリカ人の下って発掘されいた可能性は確かにあたのある


 「ワシはな、大きな古墳だけ興味木位掘っはいかん思うワシだって考古学の人間だから、陵墓を掘って調べるちゅうことには無関心はありまぜんしかし、の時期にはだ達しいないと思うん考古学は、まだ他にやるべきことが沢山ある研究者はね、微に入り細をうって業績を積んいくことが必要だ言うとるん

 敗戦という未曾有の民族の悲劇見舞われた時期に、戦勝国の虎の威を借り、自国の陵墓の発掘るような学者は、曲学阿世の最たるものとい得ないしかし、六十数年後の現在、つの絶好のンスと残念がる学者研究者が数多く見られるのはうしたことだろう戦後の歪んだ歴史教育軽薄なレビや一部の新聞などによって形成れた世相をのまま反映したものだろうが、日本の社のありよは当時少しも変わってはいない問違いなく、日本はいまだ末永んが言うの時期」は達しいない国と考えざ得ない

 「天皇陵古墳の発掘は日本人が日本人あるとの自覚と誇り取り戻し、確固たる国家観、歴史観つことが当たり前の世の中た時、の時にこそればいい」それが末永んが強く主張したい本質だたと私は思うし、れに全幅の共感を覚







私は今の考古學には国家観と歴史観が欠如している。それはほとんどの人が問われているものであります。日本の歴史にそして天皇陵という御霊に対しての慰霊の気持ちがなく興味本位だけで発掘するのは本当によくない。


この矢澤高太郎氏はおわりに水戸光圀を引用しています。



天皇陵の公開問題を考る時、私は常に郷里の栃木県にある二つの古墳に思いを馳せる                                                                                                               は高校時代を過ごした県北大田原市の南東部、旧湯津上村にある下侍塚古墳(5世紀前後、全長84メ-トル)と上侍塚古墳(5世紀前半、全長百十二メ-トル)の二基の前方後方墳である。

二つの侍塚古墳は、あの水戸黄門こと水戸藩二代蒲生たった徳川光圀によって、元禄五年(一六九二)二月に、わが国で初めて本格的な学術調査か行われた古墳だった。

 画期的な発掘が実施されたのは、教科書でお馴染みのエドワードー・モ-スが東京の大森貝塚を

発掘した明治十年(一八七七)をさかのぼること百八十五年前の昔である。紛れもなく日本初の正式な発据調査であり、世界的に見ても特筆すべき壮挙だった。にもかかわらず、その事実は一般にはいまだにほとんど知られてはいない。西洋中心の史観が、こんなところにも影響を及ぼしているのだろう。

                                                                           

光圀の発掘のきっかけは、下侍塚の付近から発見され、現在は国宝に指定されている文武天皇四年(七〇〇)の那須国造碑に刻まれた「韋提」という人物の墓誌を求めてのものだった。現場で指揮を執ったのは、光岡の儒臣の佐々介三郎宗淳。「水戸光圀」でお馴染みの“助さん”である。それを助けだのが近隣の小口村(現、那珂川町)の名主で、今でいうところの郷土史家、大金重貞だった。

 その手法は、現代の考古学から見てもほぼ完璧なものだった。末盗掘の木棺直葬という手間のかかる埋葬施設を丹念に掘り進め、銅鏡や鉄製の太刀の残欠、鉄鏃、土師器などの多数の出土品を正確に記録し、絵師によって精密なスケッチまでも残している。すべての遺物は最後に松の本箱に収められ、隙問は松脂で目張りされて、それぞれの古墳に埋め戻された。その後に墳丘の修復と、崩落を防ぐための赤松の植林が行われた。那須国造碑の保存処置とともに、費用のすべては水戸藩が負担したという。


 手法、手順、事後処理の面で十全の発掘だったが、何よりも心を打たれるのは、古墳に眠る被葬者への光圀と宗淳の礼節である。光圀は二つの木箱の蓋に被葬者の魂を鎮める墨書をしたため、宗淳はそれぞれの木箱に文章を納めている。光圀の文書の巧みさは言うまでもないが、特に宗淳の以下の文章は、読むたびに熱い感動を覚える。


  元禄五年歳は壬申春二月に在り、辛巳朔を越え十三日癸巳、前中納言従三位源朝臣光圀公、儒臣佐々宗淳に命じ、謹んで清酌庶羞の奠を以て、あへて昭かに湯津上村墓中の霊に告ぐ、曰く維れ霊世を謝す幾百年、墳墓荒廃して狐兎の窟となる、安んぞ姓名を知らん、故を以て今塋域を開鑿し、若し誌石の其の姓名を勒する有らば、即ち新たに碑を建て以て不朽に仏えんとす、あるいは誌石なくば謹んで封樹を加えん、凡そ諸々蔵する所応に旧に仍る願くば昭艦せらるべし。元禄壬申三月朔日。


 『大日本史』の編纂という水戸藩あげての一大事業を成し遂げた光圀とその股肱の臣の、先人に対する敬虔な思いと、高潔な精神が見事に凝縮された文章である。これこそが「墓を掘る」という重大事に際しての、人間が持つべき普遍的な倫理だろう。黄門様と助さんは、講談や時代劇のヒーローであるだけでなく、日本人の精神史の中に太い心背景のようなものを打ち込んだ偉人でもあった。

 さらに特筆すべきは、彼らの意思が現在の地元の人々の間に確固として継承されていることである。何人かの私の友人も住む現地では、墳丘の下草は常に短く刈り収られており、松の木々を虫害から守るため、十月下句の霜降には菰巻きが行われる。それは、三月上旬の啓蟄の日に撤去され、作業の光景は例年の風物詩ともなっている。光圀か植えた赤松は代替わりはしているものの、年間を通しての手厚い保護が今も加えられているのである。この事実は、郷土を同じくする私の大きな誇りでもある。那珂川の清流が刻んだ河岸段丘の上、赤松に包まれた清涼感溢れる墳丘を歩き、はるか北の空に那須連峰・茶臼岳の噴煙を望む時、私は宗淳の文言をいつも思い出す。


例えば仁徳天皇陵だけではなくその仁徳天皇の威徳を偲び、尊厳な歴史的感覚というのが考古学者にあるかどうかであります。

すぐに朝鮮文化などという考古学者は失格であります。

日本の文化はそうした自国を愛する人が考古学者であらねばなりません。



 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

高取山城

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高取城 概略
高取山(583.9m)山頂に築かれた典型的な山城。
南北朝以来、越智・本多・植村氏の居城として使われてきた。
元弘2年(1332年)、南朝方に属した高取の豪族、越智八郎が築城。越智氏の時代(1533年)までは、深谷峻賀崖の天険を利し、橋梁を設け本棚を廻らしたカキ上げ城で本城は貝吹山城であった。
その後、郡山城主となった豊臣秀長の命を受け、天正13年(1583年)に本多氏が入城、時の軍学者、諸木大膳技師長となり、石塁を築き土塀を廻らし、本丸に大小の天守閣を起こし、多門を連ね、幾多の櫓楼を配して、山城に平城の築城技術の長所を採用し、要害堅固と美観の完成で面目を一新。近世的城郭として整備された。

本多氏が絶えた後、譜代の大名の植村家政が寛永17年(1640年)に入城。明治2年(1869年)の版籍奉還まで、14代に渡り居城した。版籍奉還により明治政府の管轄になり、明治6年(1873年)に廃城となった。

高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。

三層の天守、小天守を擁し、27の櫓(内、多門櫓5)、33の門、土塀2,900m、石垣3,600m、橋梁9、堀切5ヶ所。

現在、楼閣などことごとく消滅したが、石塁等は旧規模のまま存在し、本丸・ニノ丸の約10m余の石垣は昔日の傍観を呈し、更に当初の土塀跡も樹林雑草に隠見する遺構によって察知することが出来る等、ふもとの城下町とともに明治まで続いた山城としては、日本で、ほとんど唯一の例で、極めて貴重な遺構である。

国の指定史蹟である。

日本三大山城
下記に記した三城が、日本三大山城といわれている。高取城が、比高がもっとも高く、その壮大な規模からも、高取城を「日本一の山城」と我々が考える所以である。
城郭名所在地海抜比高解説
大和高取城奈良県583m390m比高が一番高い
備中松山城岡山県480m340m建物が現存する中で最も高いお城
美濃岩村城岐阜県721m150m海抜が一番高い
比高とは、麓から本丸までの高低差で大きいほど一般的難攻不落と考えられる。 
高取町観光協会からの抜粋です。
今年の5月24日の日に行きました。
壺阪駅に着いたのが午後3時30分である。それまで32kmほど歩いている。
私の友達にこの高取城は二度と行きたくないと宣言している人がいたのを思い出す。
しんどい、脚が動かなると云っていた。
観光協会の人からは登頂まで2時間かかると言われた。
実際私は何ともなく一度も休憩しないで一気に登った。
1時間もかからない。これも単に日頃のトレイルランニングのおかげである。

これぐらいは何ともないが、運動していない人が登ると大変なんだろう。
私は大変と思うのはダイトレである。

束明神古墳

このブログで岡宮天皇陵のことを記載しました。その訪問した時に書いていましたが束明神古墳も参拝しているのです。

岡宮天皇陵から北へ300mで階段の横には春日神社という石碑があり昔はこの地は丘陵であったことが伺えます。
束明神の古墳は今では小さいようにみえますが、墳丘事体は大きいのです。
八角形の古墳というから皇室関連の墓であったことがわかります。
現在の宮内庁である岡宮天皇陵は素戔嗚尊神社の境内地であることは推測できます。
こういう時は昔の伝説というのが当たっている場合が多いのです。
佐田というのはこの地域の地名です。北側に山を捉え、東側には川が流れ、西側には吉野へ行く道があり、南には吉野山に続く大きな山がある。
明日香の地からは佐田は高台であり、先が尖ったような丘陵地帯です。
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それでは下記はネットから失礼ながら抜粋させていただきます。



「束明神古墳」に眠る草壁皇子(没後岡宮天皇)を舎人等が泣き悲しんで詠った歌
(1)万葉集巻2に柿本人麻呂や舎人(とねり)等が草壁皇子を偲んで詠った歌が26首あります。
(a)真弓の岡(遺体・霊のやどる束明神古墳のある丘陵本体の総称をさす)を舞台にした歌
万葉集 

巻2 167番(柿本人麻呂の作)
天土(あまつち)の ・・・・・
(あま)の原 石門(いはと)を開き 神上(かむあが)
り 上(あが)りいましぬ 我が大君(おおきみ) 皇
(みこ)の尊(みこと)の 天の下 知らしめしせば
春花(はるはな)の 貴たふと)からむと 望月(もちづ
き)
の たたはしけむと 天の下 四方(よも)の人
の 大船(おおぶね)の 思い頼みて 天つ水 仰
ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれ
もなき 真弓の岡に 宮柱(みやばしら) 太敷(ふと
し)
きいまし みあらかを 高知(たかし)りまして
朝言(あさこと)に 御言問(みことと)はさず 日月(ひ
つき)
の まねくなりぬれ そこ故(ゆえ)に 皇子
みこ)
の宮人(みやひと) 行くへ知らずも 




巻2 174番
(そと)に見し 真弓の岡も 君ませば 常(とつ)
つ御門(みかど)と 侍宿(とのい)するかも


巻2 182番
とぐら立て 飼(か)ひし雁(かり)の子 巣立ち
なば真弓の岡に 飛び帰り来ぬ
(意  訳)



天の原の 岩戸を開き 天に登り
お隠れになった わが大君(天皇) 日並(ひなし)
皇子尊(草壁皇子)が 天下を お治めになった
としたら 春の花のように お栄えであろうと
満月のように お見事であろうと 天下の 四
方八方の人が (大船の) 頼りに思って (天つ水)
仰ぎ見待っていたのに どのように 考えられ
てか 縁もない 真弓の岡に 宮柱を しっかり
と立て 殯宮(ひんきゅう)を 高く営まれ 朝のお
言葉も のたまわれぬまま 月日も 
あまた積もったので そのために 皇子の宮
(みやびと)たちは 途方に暮れている
 *殯宮(天皇・皇族の棺を葬儀の時まで安置しておく仮
の御殿)



関心もなかった 真弓の岡も 今は皇子(み
こ)
がいらっしゃるので 永久の御殿として 
宿直することか 


鳥小屋も建て 飼った雁の雛よ 巣立ったら
今度は真弓の岡に 飛び帰って来い
(b)佐田の岡辺(真弓の岡の丘陵南端の舎人達の奉仕する場所をさす)を舞台にした歌
巻2 177番
朝日照る 佐田の岡辺に 群れ居(い)つつ 我
が泣く涙 止(や)む時もなし

巻2 179番
(たちばな)の 島の宮には 飽(あ)かねかも
佐田の岡辺に 侍居(とのい)しに行く

巻2 187番
つれもなき 佐田の岡辺に 帰り居(い)ば 島
の御橋(みはし)に 誰(たれ)か住まはむ

巻2 192番
朝日照る 佐田の岡辺に 鳴く鳥の 夜泣きか
へらふ この年ころを

朝日が照る 佐田の岡辺に 群れていて 泣く
われわれの涙は 止む時もない


橘の 島の宮では 物足りなくて 佐田の岡辺
まで われわれは宿直をしに行くことか


縁もなかった 佐田の岡辺に 戻ったら 島の
宮の回廊には 住む者もなかろう


朝日が照っている 佐田の岡辺に 鳴く鳥のよ
うに 夜泣き続ける この最近は
(c)その他生前草壁皇子が住んでいた島の宮(明日香村島庄)を舞台にした歌などがあります。
  巻2 171番から巻2 193番まで
(2)束明神古墳(つかみょうじん)・・・草壁皇子が眠るのは束明神古墳か岡宮天皇陵か?
(a)束明神古墳
(ⅰ)古墳の概要
  束明神古墳は、高取町大字佐田に所在する春日神社の境内にあり、丘陵の尾根の南斜面に築造された7世紀代の終末期後半の古墳です。






 
  現状では墳丘がわずか直径10m程に見えますが、これは中近世の神社境内の整備のためであり、発掘の結果、対角長36mの八角形墳であったことが判明しました。
  





                           
  埋葬施設は、特殊な横口式石槨(せっかく)で、約厚さ30cm・幅50cm・奥行き50cm大の凝灰岩の切石を積み上げ、南北約3m・東西2m・高さは1.3mの所から内側に傾斜させ家型となっています。ただし、盗掘により天井部が破壊されているので、推定であるが高さ約2.5mあります。この石室は構築にあたっては極めて精巧な設計がなされていたらしく、黄金分割等を使っています。
  盗掘されているため、出土した遺物は少ないが、漆塗木棺破片や鉄釘や須恵器・土師器と人歯・骨などがあります。
  飛鳥時代の古墳は、丘陵の尾根の南斜面に築かれており、それ以前の古墳が平坦地や尾根の稜線上に築かれているのと異なっています。これは、中国の風水思想が朝鮮半島からもたらされ、都市・住居・墓地などの場所を選ぶ場合「四神相応の地」として、北
の玄武は小山があること、東の青龍は川が流れていること、南の朱雀は高山があること、西の白虎は大道がある地、この中心に墓地を作ることが吉であるとされています。
(ⅱ)被葬者
  佐田の村に伝わる伝承に、幕末の頃までは、この古墳に玉垣(たまがき)をめぐらせていたが、明治時代になって岡宮天皇(草壁皇子)の御陵を指定するための調査を行うとの通知があり、当時佐田の村では春日神社横の古墳を岡宮天皇陵とのことで祭っていたが、これが正式に指定されると佐田の村は強制移住されるとの風聞が立ち、そこで村人は玉垣をはずし、石室を破壊してしまい、役人がやってきて鉄の棒を墳頂から突いたが石室にあたらず、結局御陵は佐田の村の南300m森村の素戔鳴命神社(すさのおのみこと)の本殿の地と定められ(現岡宮天皇陵)、神社は東側に移動させられたことが伝えられています。
  終末期古墳では、墳丘は30mと天武陵の45mに次ぐものであり、石槨は凝灰岩で作られてかなり緻密な構造になっており、出土品や歯牙の理化学的分析から青年期後半から壮年期にあたる年齢であるという考古学的事実と文献(万葉集・延喜式)や伝承等を合わせて総合的に判断すると束明神古墳は草壁皇子陵であるというのが現在の考古学・古代史双方の見方です。
(ⅲ)束明神古墳の復元実験(古墳のレプリカ)
  橿原考古学研究所が、発掘に伴い破壊された石槨の復元を試みました。束明神古墳の石材は二上山の凝灰岩が利用されていますが、現在国定公園であり、採石ができないので採石実験は、同質の凝灰岩を現在採石している栃木県宇都宮市大谷町で行われました。
  50cm四方の採石した石は研究所に運ばれ、500個の石の加工・組立てが行われました。それに必要な労力は、石の切り出しから石槨の完成までに延べ500人程度の労力で可能、これに墳丘作りを合わせると延べ1000人程度の労力で可能ではないかとの結論に達しました。
  



 この実験で判明したことは、凝灰岩という軟石を使うと緻密な石槨ができ、しかも少ない労力で作ることができます。硬石の花崗岩では数十倍の労力が必要であり、飛鳥時代には合理的な発想がなされていて驚かされます。











(b)岡宮天皇真弓岡陵(まゆみのおかのみささぎ)
                              
  現在岡宮天皇陵とされているのは、束明神古墳から南300mの高取町大字森に所在しています。これは、1862年(文久2年)に宇都宮藩が中心になって現岡宮陵の修陵が行われ、宇都宮藩による山陵修補関係図には、岡宮帝御陵之図というのがあり、この時期に陵が決められたらしいと思われます。
  また、地元では、現岡宮陵の位置は素戔鳴命神社の本殿が鎮座していた所で、
立ち退きをしてそこを陵としたということが言い伝えられています。

仁徳天皇陵について(ねずさんから抜粋)

ねずさんのひとりごとから抜粋いたします。

私も古墳や陵墓で地域をずいぶんと廻らせていただき、思う気持ちは一緒だなと思います。
仁徳天皇陵やその関連施設を回ったりしながらその知識を取得しました。
また天皇陵などの文献も沢山所持していますが、やはり現場に行かなければわかりません。
そうした知識でなにを感じるかというと『天皇陵』に関しては宮内庁職員などでもその財産的価値が低いことを思っています。
宮内庁で雇われた人でしょうが、陵墓の正門である札所にヘルメットやチェ-ンソ-が平気で置かれている。
また、職員の居眠りなど意識の低下はどうにかしてほしい。



「仁徳天皇御陵」は、仁徳天皇の陵墓であり、日本の誇る前方後円墳です。
ところがこの御陵をめぐって、二つの動きがあります。
ひとつはその呼び方の問題、もうひとつは文化遺産登録に関する問題です。
いずれも、日本という国が持つ、古くて長い歴史を否定しようとする動きに端を発するものです。

1 仁徳天皇陵

「仁徳天皇陵」は、正式名称を「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」といいます。
この陵墓には、記紀に記載があります。

まず『古事記』では、大雀命(おほささぎのみこと=仁徳天皇)が83歳で崩御され、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があると記述されています。
『日本書紀』ですと、仁徳天皇は仁徳天皇87年(399)正月に崩御され、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとの記述があります。

「百舌鳥耳原中陵」という言葉は、平安時代の法令集である『延喜式』に登場する言葉で、そこには仁徳天皇の御陵としてその名前と、場所と大きさが記述されています。

「百舌鳥耳原中」という名前は、この場所で、「ある日、突然鹿が飛び出してきて急に倒れて死んでしまったので、見に行くと、鹿の耳から百舌鳥(もず)が飛び出した、その耳を調べてみると頭の中身が百舌鳥に食い荒らされていた」という伝承からきています。
実際にモズには、そのような習慣はありませんので、この故事の持つ意味は「御陵を不可侵にせよ」という意味であろうと思います。

2 呼称の問題

すくなくとも、昭和40年代くらいまでは、この御陵は通称「仁徳天皇陵」、正式名称「百舌鳥耳原中陵」で、誰も何も疑問にさえ思っていませんでした。
ところが、最近の若い人が「仁徳天皇陵」を知らない。
聞かれても何のことだかわからない。
要するに学校の教科書では、いまではこの古墳について「大仙古墳(だいせんこふん)」とか「大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)と書いてあり、子供たちはそのようにしか教わっていないのです。

なぜ「大仙陵」なのかというと、ここが仁徳天皇陵であるという「証拠がない」からなのだそうで、だから地名をとって「大仙陵」としているのだそうです。

馬鹿をいっちゃぁいけない。『記紀』にも『延喜式』にもちゃんとそのように書いてあります。
だいたいいまだに歴史教科書に「世界四大文明」などという「まやかし」を平然と書いているような教科書が、古来、日本の伝承としてちゃんと伝わっている仁徳天皇陵について、その名を勝手に変えるなど、許されることではありません。
【参考】「世界四大革命のウソ」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-791.html

そもそも、仁徳天皇といえば、我が国の施政の根本を教えてくださった偉大な天皇です。
「民のかまどは賑いにけり」の物語です。
仁徳天皇の四年、天皇が難波高津宮から遠くをご覧になられました。そして、
「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と、向こう三年の租税を免じたというのです。

このお話には、さらに後日談があって、三年がたって、天皇が三国峠の高台に出られて、炊煙が盛んに立つのをご覧になり、かたわらの皇后に申された。
「朕はすでに富んだ。嬉ばしいことだ」
「変なことを仰言いますね。宮垣が崩れ、屋根が破れているのに、どうして富んだ、といえるのですか」
「よく聞けよ。政事は民を本としなければならない。その民が富んでいるのだから、朕も富んだことになるのだ」
天皇は、ニッコリされて、こう申されましたといいます。

ここまでは、よく知られた話です。
ですが、実はこの話には、さらに後日談があります。

このお話を聞いた諸侯が、
「皇宮が破れているのに、民は富み、いまでは、道にモノを置き忘れても、拾っていく者すらないくらいです。それでもなお税を納め、宮殿を修理させていただかないならば、かえって、わたしたちが天罰をうけてしまいます!」と、申し出たというのです。

それでも仁徳天皇は、引き続きさらに三年間、税を献ずることをお聞き届けにならなかった。そして六年の歳月がすぎたとき、やっと天皇は税を課し、宮殿の修理をお許しになったというのです。

その時の民の有様を「日本書紀」は、次のように生き生きと伝えています。
「民、うながされずして材を運び簣(こ)を負い、
 日夜をいとわず力を尽くして争いを作る。
 いまだ幾ばくを経ずして宮殿ことごとく成りぬ。
 故に今に聖帝(ひじりのみかど)と称し奉る。
 みかど崩御ののちは、
 和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る。」

民は、仁徳天皇に深く感謝し、誰に強制されるわけでもなく、誰に促されるわけでもなく、自ら進んで、材料を運び、荷物を背負って荒れた皇宮を修理したというのです。
それも、昼夜をいとわず、力を尽くし、競い合って皇宮の修理にあたったのです。
ですから、いくばくも経たずに、皇宮は、きれいに治ったというのです。

仁徳天皇は「聖のミカド」と呼ばれるようになり、お亡くなりになると、人々は、和泉国の百舌鳥野の陵に、仁徳天皇の御陵を作ったと日本書紀に書かれています。

仁徳天皇の御徳は、かまどの煙だけではありません。
1 難波の堀江の開削
2 茨田堤(まんだのつつみ:大阪府寝屋川市付近)の築造(日本最初の大規模土木事業)
3 山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水。
4 茨田屯倉(まむたのみやけ)設立。
5 和珥池(わにのいけ、奈良市)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造。
6 灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し広大な田地を開拓。
7 紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録。
などなど、たいへんな土木工事の貢献をされています。

みんなが飢えないように、みんなが腹一杯飯が食えて、元気に生きれるようにするためには、それだけの食べ物を作らなければなりません。
そしてそのためには、土地を開墾し、農地を造らなければなりません。
そしてその農地の中心になるのは、いうまでもなく「田んぼ」です。

その「田んぼ」は、いうまでもなく水田ですから水をひきます。
つまり、すべての田んぼが水平でなければなりません。
地面というのは、平野部であっても、詳しく見ればデコボコです。木も生えていれば雑草もある。岩もある。
それらをどかしたり、均したりして田んぼをつくります。
さらに、田んぼには、水路が必要です。
ところが水を引くだけですと、洪水の危険がありますから、当然、堤防工事も必要になります。

常識で考えたらわかることですが、大規模な開墾工事というのは、ひらたくいえば、壮大で大規模な土木工事です。
そして大規模土木工事を行えば、かならず大量の土砂が出ます。
出てきた土砂は、今ならダンプカーに乗せて港湾の埋め立て工事に使ったりしますが、大昔にはダンプカーなどありませんから、計画的にどこかに盛り土することになります。

こうしてできたのが古墳です。
だからこそ古墳は平野部にしかありません。
土木工事の結果できる盛り土だからです。
昔の人にとっては、そんなことは常識でした。

特に仁徳天皇陵がある堺市を、上空からみた写真をみたらわかります。
堺のあたりは、広大な平地です。
いまでは、家だらけになっていますが、ほんの数十年前までは、そこは広大な田んぼだったところです。
そしてその真ん中に、仁徳天皇の御陵があります。

以前、大林組が仁徳天皇陵を造るのに、どれだけの労力がかかったかを計算しているのですが、このときの計算では、完成までに15年8ヶ月、必要人員が延べ796万人かかるという計算になりました。
仁徳天皇のご治世の頃の日本列島の人口は全国でも4〜500万人程度です。
そんな時代にどうやって800万人も動員したのか。しかも工期が16年です。
その間、民衆は老若男女全員が、アホな無駄な土盛り作業だけに狩り出されていたとでもいうのでしょうか。
そんなことをしたら、民だけでなく、施政者たちまで飢えて全員死んでしまいます。

要するに、仁徳天皇は、人々とともに大規模な土木工事を行って水田を開かれたのです。
誰のためでもない。みんなのため、人々のため、民衆のためにです。
そしてその結果、つまり土木工事の規模がものすごく大きかった結果、堺に巨大な盛り土地が生まれたのです。
そして民は、そうした仁徳天皇に感謝したからこそ、仁徳天皇をその盛り土(御陵)に埋葬し、「和泉国の百舌鳥野のみささぎに葬し奉る」と書き残したのです。

ちなみに、「陵」と書いて「みささぎ」と読みますが、「み」は敬称です。
「ささぎ」というのは、古語でサヤインゲンや大豆などが成るときに袋にはいっていますが(大豆の莢、下の写真参照)、その袋のことを言います。

大豆のさや_th


御陵は横から見たら、大豆の莢(さや)そっくりです。
その莢(さや)の中には、人々のたいせつな食物である大豆の実がはいっています。
ですから、お亡くなりになった貴人を、その袋に埋葬する。
大規模な土木工事をして、大規模な開墾がなされ、みんなが腹一杯飯を食えるようになったのです。
そのことへの感謝を思えば、これはごく自然な発想だと思います。

ということは、仁徳天皇陵は、単に仁徳天皇の遺徳を讃えたというだけでなく、君民一体の心が、そこに込められている、ということなのです。
だからこそ、最初は単なる工事のための盛り土であったにせよ、最後はお世話になった仁徳天皇への感謝をささげ、そして遺徳を讃えた大切な聖地として、「余人立ち入るべからず」の意味を込めて、鹿と百舌鳥(もず)の挿話が生まれ、そこへの人々の立ち入りを禁じたのです。
そんなことは、すこし前までは、地元の人たちにとって、あたりまえの常識でした。

ところが偉い学者の先生は、何やら調査とか言ってやってきて、「古墳は天皇や豪族がその権威権力を誇示するために民衆を強制的に使役して作らせた墳墓である」と決めつける。
まだ、戦前の教育を受け、道路つくりや木の伐採、農地の開墾などを、村のみんなで協力してやっていた頃の経験を持っていた昔のお年寄りたちは、当時、よく言ったものです。
「学者の先生というのは、勉強ばかりしているから、きっと頭がおかしくなるんじゃのお。あがいな盛り土は土地の開墾すりゃあ、あたりまえにできるもんじゃ・・・。」

地方に行きますと「◯◯広域農道」と名前のついた道路がよくあります。
それらは、昔、農作業と農産物の運搬のためにと、近隣の農家のみなさんが、村の会議で全会一致でみんなで協力して築いた道路です。
最近は、なんでもかんでも行政マターで、行政の予算で土木業者が道路を作っていますけれど、ひとむかし前までは、日本中にあるすべての道路も、その道路脇にある側溝も、全部、近隣の農家のおやじさんや、あんちゃんたちが、鍬(くわ)や鋤(すき)や”たこ”を使って、手作業で道路を作っていたのです。

昔の土木道具_th


そして道路にせよ、田んぼにせよ、土地を整地すれば必ず行われるのが、切土と盛土です。
デコボコした土地を削ったり盛ったりするから、田んぼや道路ができるのです。あたりまえのことです。

同時に、開墾した水田地帯に、必ず必要なのが「水屋」です。
水田地帯は、水を張りますけれど、水を張るということは、大水や鉄砲水による被害も発生するということなのです。
大水が出れば、人々は小高い丘に避難しなければなりません。
そのために、あらかじめ避難場所として、小高い丘を作り、その上に丈夫な仮小屋を作っておく。
普段は見晴らしの良い観光スポットですが、それが万一の場合の避難所になるのです。

中小規模の古墳は、学者の先生方は墳墓のはずだ、お墓のはずだというけれど、なるほど古墳のてっぺんに何かの建造物があったらしい痕跡はあるのだけれど、肝心のお墓が出てこない。
これはおかしい。きっと埋葬した骨が長い年月の間に溶けてしまったに違いないとか、いろいろなご高説を述べておいでのようだけれど、盛り土のてっぺんは、土地を開いてくれた人のお墓にしたケースもあるし、避難所にしていたケースもあるというだけのことです。

これが仁徳天皇陵のような大型の古墳になりますと、大型の盛り土だけに、今度は、大雨の時に盛った土砂が流れ出してしまう危険があります。
ですから、そうした事態を防ぐために、超大型の盛り土では、周囲にお堀を巡らせました。
これまたあたりまえのことです。
土砂が流れたら、周囲の田んぼが土に埋まってしまうのです。

その代わり、仁徳天皇の御陵の周囲には、小型の古墳がたくさんあります。
天皇陵となっているものもあれば、いまだに墳墓であることが証明されていない古墳もあります。
これまた、あたりまです。そこは避難所です。
昔の人にとっては、そんなものは常識だったのですけれど、最近は、偉い学者の先生の見解から、なぜか豪族の権力の証という。意味が違うのです。

そしてさらには、記紀を否定し、仁徳天皇の実在まで否定し、ついでに仁徳天皇陵の呼び方まで「大仙陵」などと、おかしな呼び名をつけたりする。
頭がおかしいのではないかと言いたくなります。

そこが仁徳天皇陵でないというのなら、逆に、なぜ堺のあたり一帯は、高低差のほとんどない平野になっているのですか?、どうしてその平野に洪水があまり起こらないのですか?と質問したくなります。


3 世界遺産登録に反対する

平成20年に、文化庁が仁徳天皇陵を世界遺産に推薦する構想を発表しました。
これは実は仁徳天皇陵だけではなくて、履中天皇陵・反正天皇陵・仲哀天皇陵・応神天皇陵・允恭天皇陵などのある「百舌鳥古墳群」なども含まれます。
文化庁のこの発表は、もともとはその前年に大阪府・堺市・羽曳野市・藤井寺市が、世界遺産の国内暫定リストへの追加を求める提案書を提出したことを受けたものです。

「我が国の誇る御陵が世界遺産になるというのなら、結構な話じゃないか」と思うのは、浅はかというものです。
実は、この提案の背景には、とんでもない「ウラ」があるのです。

というのは、世界文化遺産に登録するためには、学者達による審査が必要になるのです。
その審査とは何かというと、「仁徳天皇陵であり、仁徳天皇のお墓というのなら、その墓をあばいて本当にお墓であるかどうかを調査せろ」という、とんでもない「条件付き」になっているのです。

要するに文化財としての実態があるのかどうかを、左巻きで「古墳=豪族たちが民衆を強制的に使役して奴隷のようにこきつかって自分の墓を築かせた」としか考えようとしない、もうしわけないけれど私に言わせていただければ「頭のおかしな自称学者」たちが、学生たちを引き連れて古墳を掘り返し、「墓あばきをさせろ」というのが、その背景にあるのです。
そしてこのことは、我が国における天皇の権威とその存在を否定したい人たちにとっての標的になっているのです。

これに対し宮内庁は、
「陵墓は単なる文化財ではなく皇室の祖先祭祀の場である。よって静安と尊厳を維持すべきものである」として、断固反対をしています。
当然のことです。

そもそも日本は、天皇を頂点とする君主国なのです。
たかだかできて70年にも満たない日本国憲法にどう書いてあるかがが問題なのではなくて、日本にはどんなに遅くに見積もっても1300年以上の天皇のシラス国としての歴史の重さがあるのです。
そして天皇が神聖にして不可侵の存在であり、その天皇によって、すべての民衆とすべての日本国領土が天皇の「おおみたから」とされることによって、私たちは権力者、民衆を私的に支配し収奪する権力者からの自由を得ているのです。それが日本です。

このことは逆に見たら、よりわかりやすいかと思います。
天皇という権威の存在がなければ、私たちは権力者に私的に支配される私物と化すのです。
その権力者が、たとえ選挙など民主的な方法によって選ばれたとしても、ひとたび権力を得てしまえば、その権力者からみれば、民衆は被支配者であり、権力者の私物です。
権力者は民衆から、財産どころが命を奪っても構わない。なぜなら、私物だからです。

いまの日本には、この日本古来の社会的仕組みを否定する人たちがいます。
なぜでしょうか。
天皇は政治権力を持ちません。単に権威として領土領民を「たから」としています。
政治権力者にとって、民衆も領土も天皇の「たから」だからこそ、自由に私的に支配できない。
民衆のための政治をせざるをえない。民衆のために働かざるを得ない。

それを否定するということは、端的に言えば、否定している人が、ただ自分が権力を握り、多くの民衆を使役し支配し、自由にわがままを通したい(これをウシハクといいます)だけのことだということがわかります。
グローバリズムでも民主主義でもなんでもない。
ただ、支配欲、権力欲に取り憑かれた痴れ者だということです。

天皇陵は、そのシラス存在である天皇と、民衆の君民一体の証(あかし)です。
証だからこそ、聖地なのです。
陵墓公開要求をはじめ、仁徳天皇陵を仁徳天皇陵と呼ばず「大仙古墳」などと呼ぶ運動は、煎じ詰めれば、日本を解体し、日本人の自由を奪いたいという私的な欲望に他なりません。
じつに、傲慢かつ不遜かつ、子供じみた執着というべきものです。

御陵を護るということは、単に御陵を物理的に維持するということではありません。
仁徳天皇の遺徳を通じて、私たちが君民一体という日本の国のカタチを護るということなのです。
だからこそ仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」として、立入禁止の「聖地」とされてきたのです。
仁徳天皇陵は、単なる古墳ではないし、文化財や観光遺跡とは違うのです。
私たちのアイデンティティの源泉なのです。

「世界遺産になれば沢山の見物客が訪れるから、皇室の宣伝になっていいじゃない」という人もいます。
それこそ自分勝手な自己の利得だけを考えている証左です。
自分がウシハク者になりたいと宣言しているようなものです。

仁徳天皇陵をはじめとしたご皇室の墳墓は、観光地ではありません。
「世界遺産」という名の観光地ではなく、私たち日本人の「聖地」です。
仁徳天皇陵をはじめとする陵墓には、私たちは断固反対しなければなりません。

仁徳天皇陵の陪塚を考える

仁徳天皇陵に想うことを書かさしていただきます。

仁徳天皇陵を御参拝をされたことがある人は意外と少ないように思います。周囲には陪塚(陪冢)が
沢山あります。陪塚とは家来やまた服飾品等を別の古墳に埋めたものです。

また濠は三重となっています。濠が広いように思いますが、これは明治17年の地図を私は所持していますが田園が広がる所で民家のようなものは南側に少しあるだけであります。近くには高野街道や長尾街道が通り、何もない所でした。しかも水など田畑に要するものはない。その為その濠を使って行っていたようです。
水田の為、濠を広げたりしているようです。

また、現在の宮内庁の指定の陪塚は12基で例えば市役所側にある(南側)古墳で明らかに仁徳天皇の陪冢であろうとするものが指定をうけていません。
それは何故かというと、個人の土地の所有にその古墳がある場合等で色々と譲渡とかの関係もあってその古墳が宮内庁指定ではない場合があります。

私はそうした宮内庁指定ではない古墳も全て廻りましたが、塚廻古墳など明らかに仁徳天皇の陪冢であろうとするものもあります。またその位置から東へ1km行った坊主山古墳は悲惨な陪塚であります。それでも宮内庁指定でどうにか守られています。

例えばス-パ-の駐車場の横にこんもりと盛土のような場所が古墳だったりしますが、現在消滅した古墳を含めて19基ありましたが、現存するのは現在では16基です。大きな古墳も消滅しています。

陪塚を見る限りなんとかしなければならないように思います。それは昔の原型を留めていないということです。
墳丘の横に住宅地が押し迫るような場所では古墳の形体もわからない。

A.宮内庁指定陪塚-12基

い号飛地孫太夫山古墳1,380平方メートル後円部墳丘のみ指定
ろ号飛地竜佐山古墳1,828平方メートル墳丘のみ
は号飛地狐山塚古墳407平方メートル残存墳丘のみ
に号飛地銅亀山古墳590平方メートル残存墳丘のみ
ほ号飛地菰山古墳804平方メートル残存墳丘のみ
へ号飛地丸保山古墳2,399平方メートル後円部墳丘のみ
と号飛地永山古墳5,458平方メートル墳丘のみ
ち号飛地源右衛門山古墳870平方メートル墳丘のみ
り号飛地坊主山古墳167平方メートル残存墳丘のみ

本陵内(甲号-茶山古墳、乙号-大安寺山古墳、丙号-樋の谷古墳)

孫太夫などはもとの所有者の名前や源右衛門も江戸時代に所有していた人の名前です。

私は世界遺産には反対ですが、どうして反対かというと仁徳天皇陵を貶めるような名前の変更です。それはおかしいとは誰も気がつかない。
『記紀』や『延喜式』という昔の資料にも記入しているのですが、それでも証拠がないという。それならば違うという証拠があるのかというと全くない。
あるという方が文献で残されているではないか。
それでもとりわけ森浩一という左翼の古代学者が自分の名前を欲しい為、無理矢理にこじつけたのが大仙古墳です。
確かに大仙という地名がありましたが、仁徳天皇陵として昔から崇められていたのも事実です。その崇められていた事実を無視するような考古学者は失格です。

その点、関大教授の網干善教氏は一貫して誰の御陵であるかを言わなかったのは立派です。

それと世界遺産に反対するのはいいですが、是非とも現地を見ていただきたい。全ての古墳を廻るのにそんなに時間を費やしません。2時間位で廻れます。
私が現地説明します。

仁徳天皇陵の横にあるラブホテルや似つかわしくない部分など様々の反対要素があります。また賛成している人で全て回った人などほとんどいません。
問題意識がないから単に賛成しているだけなのです。

非現実論に左翼論調に似た思想

天下無敵にならなくてはならないのである。

 人間すべからく天下無敵にならなくてはならぬ。天下無敵とは文字通り敵が一切この世に存在しないという事である。
 誰々が喧嘩が強いとかそんな事は未熟者が言う事だ。どんなに喧嘩が強くても軍隊にはかなうまい。だから喧嘩がいくら強くても天下無敵になる事は出来ぬ。天下無敵というのは自分を害する存在が一切この世から無くなる事である。
 それにはどうしたら良いのか?それは天地一切のものと和解する事である。天地一切のものと和解すればこの世に敵は居なくなる。それが天下無敵になるという事である。柳生但馬守が如何に剣豪とは言え、沢庵和尚には及ばなかったのである。柳生但馬守は沢庵を斬ろうと付け狙ったが遂に沢庵を斬る事は出来なかった。それは沢庵に隙が無かったからである。
 何故沢庵に隙が無いのか?それは沢庵が悟りを啓いていてこの世に一切の恐ろしいもの、自分を冒す存在がいないという事を心眼で見いだしていたからだ。実際にこの世界には恐ろしいもの、悪は存在せぬ。悪があるとすればそれは全て自分の心が自ら作り出したものであり、自分の心の影だ。
 いじめられっ子というのはどこの世界に行ってもいじめられる。それはそのいじめられっ子の心に「この世界には自分をいじめる恐ろしい存在がある」という心があり、その心がいじめっ子を作る。だからいじめはいじめられっ子の方に問題がある。
 
 という事で対国でも「あの国は悪い国で吾が国を侵略するに違いない」と思ってその国の悪口を言い、そして恐れて軍備を増強して行けば遂にその相手国は自国を本当に侵略して来る。これが戦争の原因である。戦争は先ず心の世界で起こる。


 それを抑止しようと軍備を増強し、核装備すれば相手国もこちらを恐れ軍備増強し、核装備をする。そしてとどのつまりは人類滅亡であろう。

 だから、とにもかくにも吾等は真理即ち神の造り給うた本当の世界には悪は存在しないという真理を悟り天下無敵にならなくてはならないのである。

堀 浩二


堀さんのブログを抜粋致します。

さて、こういう文章はあまりにも雅春先生の教えとかけ離れているのか書くのも嫌になる。
さて、どのように違うのか
雅春先生は「軍備は国家の威厳であって戦争に直結しない」( 『私の日本国憲法論』280頁参照)とおしゃられています。
それは現実というものを直指されているからこそ雅春先生のお言葉であります。

実相論と現象論をごちゃまぜに説き、かっこいいように言っているように聞こえるが左翼と一緒の論調にしか私には思えない。
こういうのは堀さんのような人(準教務に失礼)は本当に「生長の家」を学んだことがないと思っています。
現実観が全く欠如しているからフワフワしたような話となるのです。
雅春先生はあの竹島も日本が軍備を増強して守らなかったから占拠されたと書いておられますが、誠にその通りであります。

日本はきっちっと軍備を増強しなかったから「竹島」「北方領土」は占拠されたままとなるのです。
それならば本当に話し合いで解決出来るのかです。そんな保証も出来ない事をやはり知るべきであろう。

戦争は心で起こるというのはその通りです。しかし、日本人は戦争したい人などいませんが、それが却って中国や北朝鮮にスキを与えるのであります。そういうスキを与えるとこちらが戦争を望まなくても戦争というのは起こるのであります。
非軍事的平和論が戦争では反対に残虐な行動に繋がってしまうことがしばしばあります。
自国ではない人間には往々として非道な方法で惨殺してしまうことが多い。それに対応出来るのは軍備が必要である。

平和論は今後日本でも起こるとされるテロとの戦いにおいては
間違いであったことに気が付くであろう。
尖閣諸島の中国の脅威を感じていないからこそ、フワフワしたようなことが言えるのです。
日本の国内でありながらこの周辺は漁業が出来ない不当性。
それを軍備がなければ対処が出来ない現実を知らなければ、いつまでも非現実論だけで現実に起きている事に目を瞑ってしまうのです。


『生命の實相』物語

『生命の實相』満州版
『生命の實相』の満州版 艮の巻については予定刊行案内での参考で記入しています。実際の本を見て記入しておりません。
また、私の知合いでも実物を見た人もおりません。出版されたかどうかも不明です。もし『生命の實相』満州版 艮の巻をお持ちでしたら御連絡お願い致します。

最近とりわけて、戦前や戦後まもない著作の痛みが甚だしのです。この大切な著作を後世に残さなければならないのが、弟子である私達の役目であるように痛感します。その時代における雅春先生の御意志は私達には計り知れないものがあります。もしそのような御著書をお持ちでありましたら、次頁の住所に送付を御願い致します。

 

また、一部では現在の活動指針とは違うということで、発刊が未定の書物が沢山あります。たしかに時代背景で以前に出版された書物といろいろと相違点があるかもしれません。しかし、時代を考えれば仕方が無い、当然歴史を勉強すれば雅春先生のお言葉は“的を射ている”のです。それを知らなければならないのが信徒の義務である。そうした時に、その時代の雅春先生の御著書がないのがとても残念でなりません。

生長の家の歴史は光明燦然として光輝いている「歴史」であります。それは生命体国家との一体化としての天皇観があり、歴史観であるのです。昭和51年の理想世界ジュニア版5月号に執筆された「このままでは日本は滅びる―すみやかに現行憲法の無効宣言を」は「生長の家の立教宣言」であるように思います。本当の愛国者である谷口雅春先生の気持ちを考えれば、涙が出ます。

 

 資料編纂は長い年月か掛けてさしていただいております。(※谷口雅春先生著作年譜)平成22年に内務省警保局「社会運動の状況」という資料を窺い知ることが出来ました。そこには宗教弾圧ともいうべきものもあり谷口雅春先生は「近況報告」でその旨を書かれている文面があります。昭和14年あたりから削除済という御著書が見つかります。そのタ-ゲットのような御著書が菊装版『生命の實相』であります。この本には何冊かには「削除済」という印鑑が押されています。その文章が

 

『生命の實相』第二巻(昭和14625日発行)(菊装版)は内容中に医療妨害、

人心惑乱等 安寧を妨害するものありたる為、718日削除処分せられたり。(社会運動の

状況昭和14年度版 より抜粋)内務省警保局

 

それではどのように「内務省警保局」というのはどのように検閲していたのか?

生長の家が東京に進出するあたりから「著作物」を検閲するようになったのですが、昭和11年頃には「皇道大本教」の二度目の弾圧を警保局から受けているのです。それは

 昭和10年(1935年)128日、早朝4時。
 綾部と亀岡の大本の神苑は武装した警官隊によって包囲されました。その数は合わせて500人以上もの大部隊です。
 腕に白布を巻き、白たすきを斜めにかけ、決死の覚悟で神苑内に突入した警官隊は、三代教主補・出口日出麿(37歳)を始め幹部信者を次々と拘束し、警察署に連れていきました。留置された人の数は綾部・亀岡合わせておよそ300人にものぼります。

またひとのみち教団(現PL教団)も

昭和11年、特高警察に目をつけられ、不敬罪の名目で開祖とその息子・御木徳近(みき とくちか)は逮捕・投獄される。昭和12年には解散命令がだされ、御木徳一は不幸にも獄中で病死する。

ともに「神道系」宗教であります。


勿論、「天理教」「金光教」もしかりであります。警保局より目を付けられていたのであります。

それではどのような事例があるかというと

昭和17116日別府市松屋旅館における座談会の席上誌友藤川スミ(50)は体験談発表に際し「私は子供に対してお前達は飛行機乗りになろうと、大臣になろうと一生懸命勉強して天皇陛下に尽くして下さい。お母さんは如何勉強して偉くなっても皇后陛下になれないのだからと言っている」云々の言辞を弄したるを以って当時臨席せる警察官において直にその発言中止せしめ引続き本名を調べたる処、不用意の失言と判明せる為、大分県警察当局において厳戒に止めたり。

資料としては内務省警保局『社会運動の状況』昭和11年~17年に「生長の家」をいかに監視したかの文章が残っています。

講習会や講演会や誌友会など様々な監視があったことが記載されています。


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神示のなかで出版物の検閲の厳しかった戦前に於いては、当時少部数の雑誌に発表されたときに、時の内務省警保局の検閲課から注意があり、若し書籍として発行せられるならば直ちに発禁が明らかであったために、そのまま『生命の實相大聖典』編纂の時にも『聖光録』編纂のときにも神示の全部を収録したいと思いながら、それを差し控えなければならなかったので、その儘伏せられていたものである。(『秘められた神示』はしがきより)

それは雅春先生の戦前の書物に"削除済み"という判が押されている本があります。これは内務省という印刷がされているが、「特別高等警察」(特高警察)も内務省の管轄である。治安維持法の実行部隊も内務省である。だから常に印刷出版には"内務省の検閲"があったのである。
そのため事前にそうした検閲にひかからない書物として出されていたのです。
ちょうど『秘められたる神示』などはまさにそうである。「豪華版『生命の實相』」などには検閲対象にされる言葉をあえて掲載しなかった。それを出版してしまうと、全てが弾圧を受けるのである。そういうことを把握しないで『生長の家』は語れない。

 

また、戦後において『平和版 生命の實相』の刊行の予定がありました。昭和21年『生長の家』誌12月号の5頁に掲載された「平和版『生命の實相』自費出版会員募集」という記事の中で、《唯今最も入手困難で、最も渇望されている、読んで病いが治り、運命が好転する無数の体験例ある(中略)生長の家聖典「生命の實相」全二十巻を、戦時のみに適せる心構の部分を省き、他は悉く完備せる厳密なる著者自身校訂の永遠定本の聖典を実費にて配本せんとする会です。》

『生長の家』誌 昭和22年3月号に「『平和版生命の實相』の自費出版計画も延期の止むなきに至りました」(『明窓浄机 戦後篇』31頁所収)と書かれているように、この平和版『生命の實相』の発刊は実現しませんでした。

生長の家に望みなし

トキさんが書いています。

2442トキ :2015/06/24(水) 15:13:29 ID:Cn8/HyeE
 本日、本年度の団体参拝練成会のパンフレット(全国共通)を見ました。
驚いたのは、谷口雅宣先生のお名前は2箇所に書かれているのに、創立者
の谷口雅春先生のお名前はどこにも書かれていなかった点です。内容も、
エコとか”造化の三神”とか大自然とかで、鎮護国家の文字もどこにも見え
ません。冗談でしているのならおふざけが過ぎるし、真面目にしているの
なら勉強が不足していると思いますね。


生長の家は変えさせられたといえます。

日本がアメリカGHQの戦後政策において呪縛され、変更されたのと似ています。
無理矢理に環境をもってきて、今までの日本の伝統である、神様を捨て、歴史の鏡である天皇陛下を仰慕しないように仕向けていった。
もはや、谷口雅春先生は蚊帳の外のようになってしまった。
雅宣総裁の中心帰一は己に中心帰一せよという”エゴ”の独裁でしかありません。
だからこそ、谷口雅春先生を外すことが出来るのです。
平気でいられる神経を疑います。

鎮護国家など教団は何も考えていません。ただ、谷口雅春先生外しが現実に起こっているということでしょう。
生長の家に望みがありません。

同窓会

昨日は20年振りの小学校と中学校の同窓会でした。
同じように年を取るんだな!

人数は35名と少なかったのですが、住所がわからなくなってしまったり、引越しされて散逸しています。
幹事をした人には本当にありがたかった。

この学年は240名いましたので、本当に寂しくもあり、嬉しくもありです。
その中でも有名人もいます。

直木賞作家の高村薫
正露丸の社長
それと香月れいこです。

大宅壮一が千里山マダムということを書いたのを憶えていますが、全国でも団地というはしりがこの千里山団地でした。
そこにいた同級生も懐かしく大変有意義な1日でした。

二川講師の本

二川守講師は吉田松陰を本当に好きな偉人として崇められておられました。その証拠として吉田松陰の通称が寅次郎です。松陰の名前は尊敬する高山彦九郎の諡「松陰以白居士」からとったものです。吉田松陰が自分の人生の中で二十一回全力で物事にあたるという決意を表した号で、二十一回という数字に関しては、吉田松陰の姓である「吉田」から来ている。

「吉」の字を分解すると「十一」と「口」になり、「田」の字を分解すると「口」と「十」になる。 これらを強引に組み立て直すと、「十一」と「十」、あわせて「二十一」、「口」と「口」をあわせて「回」になる。また、松陰の実家の姓である「杉」の字を分解し「十」「八」「彡(三)」の三つの数字に見立て、 合算すると、これもまた「二十一」になる。

「猛士」というのは、松陰の通称が寅次郎であり、「寅=虎」であり、「虎の徳性は猛である」ことにちなんで、「猛士」とした。自分の二つの姓「吉田」と「杉」とを引っかけた回数「21回」は必ず、猛を奮い、誠を尽くして全力で物事を実行するんだという、松陰の並々ならぬ決意を感じさせる号だと言える。(安政元年に書かれた「二十一回猛士の説(現代語訳はコチラ)」のなかで、松陰はこれまでに東北旅行のための脱藩したこと、藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、藩主に意見具申したこと、ペリー来航時の密航「下田渡海」、の3回「猛」を発したとの考えを示している)

 

その吉田寅次郎の田を二川の川をとり、寅次郎の次を二川の二を付けて、吉川寅二郎とされたと思います。

下記の本の『錦に燃ゆる楠木正成』には本名と生長の家本部講師が著者紹介で本のカバ-に記載されています。

著書の名前は全て吉川寅二郎です。

五人の先哲者に学べ : 日本再生への道

吉川寅二郎 著

日新報道

1999.2

錦に燃ゆる楠木正成

吉川寅二郎 著

たちばな

1996.9

草莽の声

吉川寅二郎 著

大雅堂

1988.12

吉田松陰の生涯

吉川寅二郎 著

大雅堂

1987.9

草莽の声

吉川寅二郎 著

大雅堂

1986.9

神国日本の復活

吉川寅二郎 著

大雅堂

1986.9

維新の夜明

吉川寅二郎 著

大雅堂

1986.9

乃木希典将軍 : 嗚呼至誠の人

吉川寅二郎 著

展転社

1984.10

4年前の岡講師の記事

実は岡講師の少し違うのではと感じたのは2011年4月15日です。私は今はありませんが自分のブログと
本流掲示板に記載致しました。

O講師からの抜粋  (566)
日時:2011年04月13日 (水) 21時47分
名前:山ちゃん1952

私はO講師をよく存じ上げます。昔から知っています。雑誌の編集を行っておられました。

O講師から大変貴重なご意見と賜りました。皆さんは是非参考になされたらいいと思います。(何がと言われそうですが)
でもさすがに一流の講師です。
でも何か違うのですね?それがやはりわからないのでしょうね。

***********************************************************

私は4月4日付けのブログとして「心が熱くなるメール」と題し、「自衛隊特殊化学防護隊に志願し福島原発の現場で命がけで働いている55歳以上の方々の作業が無事成功するように祈って下さい」というメールを紹介していましたが、それを削除しました。

 それは、「当内容につきまして調べさせていただいたところ、チェーンメールであると指摘されたサイトを発見しましたので、ご参考までにお知らせします」というコメントを頂いたからです。

 コメントを下さった方は、「チェーンメール」というのは、いわゆる「不幸の手紙」に似たようなものらしく、それが政治的意図をもって「多くの人に転送してほしい」と連鎖を要請している場合があるから気をつけた方がよい。総裁先生に反するようなサイト(グループ)にも同様の投稿が見られる、として「生長の家本流宣言掲示板」というのも紹介されていました。

 そういう反谷口雅宣総裁のグループがあることは私も一応承知していましたが、その「生長の家本流宣言掲示板」というのを見て、これはかなり大変なことだと、悲しく思わざるを得ませんでした。

   ==============

 現象は、無常です。つねに流転し、夢幻のように消えゆく、本来ナイ世界です。しかし、実相世界は

 「衆生劫(こう)尽きて大火に焼かるると見る時も
  我がこの土(ど)は安穏にして
  天人常に充満せり。
  園林(おんりん)諸々の堂閣 種々の宝もて荘厳(しょうごん)せり。
  宝樹華果(ほうじゅけか)多くして
  衆生の遊楽(ゆらく)する所なり。」

 この、自他一体、万物一体、完全円満大調和している実相世界こそが本当にアル世界です。

 大震災は夢の如く、本当はナイのである。大地震津波で亡くなられた方たちも、本当は神に護られて生き生きと輝いて今も生きていらっしゃるのである。──私は、そういう祈りをしています。

   ==============

 私は思います。谷口雅春先生は、「生長の家の運動は神が始められた神の運動である。自分は神のラッパであって、教祖ではない」とおっしゃっている。

 神こそ全てのすべて。現象はない。実相独在である。生長の家は、現象の谷口教(谷口雅春教とか谷口雅宣教とか)ではなく、唯神実相を信ずるのである。

 真の中心帰一とは、「中(みなか)」より出でて「中(みなか)」に帰ることである。実相の総裁を信じ、神を信じて「今(久遠の今)」「まこと(全=まること)」を生き切るのが生長の家である。

「君民同治(くんみんどうじ)の神示」に、「天孫降臨(てんそんこうりん)とは人間自身すなわち民自身が天孫であり、神の子である自覚の反映にほかならない。かく天皇の神聖性は人民自身の神聖性より反映するのである。されば民が主であり、君は客である。是を主客合一の立場に於て把握すれば主客一体であり、君民一体であり、民は君を拝み、君は民を拝む。民を拝み給う治(じ)は、君を拝むところの事(じ)と一体である。治事一体であり、治めると事(つか)えるとは一体であり、君民同治である。天皇は絶対者にましますとは、観る主体たる人間(民)の絶対性より来る。民が自身の絶対性の把握が破れるとき、その反映として国の絶対性と天皇の絶対性とは破れるのである。」とあります。

 われらは「君が代は千代に八千代に」と国歌「君が代」を歌う。そのとき、「君」はすなわち「民」であり「自分」である。

 生長の家の信仰は、実相独在・善一元の信仰である。すべては絶対無なる「中(みなか)」のいのちから咲き出でた花である。すべては天皇の御いのちの分かれであり、生長の家信徒のいのちは、総裁の御いのちと一体である。その意味で、生長の家は天皇信仰であるとともに、総裁信仰でもあると、私は思います。

 「自分の力で生きているのではなかった。生かされていたのだった。“自分”というものはなかったのだ。わがいのちは神の御いのちであった」と本当に信じられたとき、「総裁の御いのちは神の御いのち。総裁は神にまします」と拝まずにはいられなくなるのであります。

   ==============

 「愛」の反対は「無関心」である、といいいます。

 であるとすれば、反谷口雅宣総裁の旗を掲げ「生長の家本流」を宣言している人たちは、本当は最も谷口雅宣総裁を愛している人たちかも知れないと思います。なぜなら、「無関心」どころか最も関心を持っている人たちのように思われるからであります。

 生長の家の教えの根本は、「現象本来ナシ、実相独在」であります。しかし、現象界は心の法則にしたがって、アルかのごとく展開しているのであります。現象界の生長の家の運動にこれ以上大激震、大混乱が起きないことを祈ります。

 谷口清超先生著『伸びゆく日々の言葉』に、

 「龍宮住吉本宮に祭祀されてある住吉大神は宇宙絶対の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の宇宙浄化の御働きの神である。この大神を祭祀することは、即ち宇宙を浄めて実相の世界を現成せしめることである。神前にささげる吾らの真心は、大神によって浄化され、神の子・人間の自覚が深まり、その活動が神意に叶うのである。神意に叶うとは、生々と活動することである。昨年より今年は、今年より来年は、より一層飛躍するのである。記録ものび、拠点もふえ、力を増し、伸び、さかえるのであって、その逆ではないのである。」

 とあります。
4年前にはこのように書いていたのです、その豹変ぶりには驚きます。
そうしたことを現総裁には前兆があったのを気がつかないのである。
否、今の生長の家講師にもいえるのかもしれない。

総裁信仰を唱えていた講師が疑問を持つのは勝手ですが、あまりにも違うので岡講師の本音はわかりません。

「谷口雅春先生に帰りましょう」のブログ

今回は件名が違う為、ここで書かしていただきます。

沢山の叱咤激励を頂き感謝致します。
はるばる九州から応援を頂き感謝致します。

龍様や光明遍照様やそ-れ-様にも深く感謝致します。

向こうで書けばいいのだが、違う内容で何回もかくのも論点がずれるのでご容赦願いたい。

九州の女性は強いことが本当に思います。残念ながらその日は先着があり申し訳ないが行かれません。
活動も最近はご無沙汰していますが、別の分野で活動しています。

九州で思い出すのは山下巍介さんのことです。青年会時代に大阪でお世話になり熊本の地で日本会議を頑張っておられた。平成8年10月17日に逝去された。もう19年となる。

最近は当時活動していたメンバ-が逝去された事をよく思い出す。


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