2015年05月
大津皇子の、石川郎女に贈りし御歌一首。
あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れぬ山のしづくに
石川郎女の和し奉りし歌一首。
我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを
大津皇子の窃かに石川女郎を婚きし時に、津守連通その事を占ひ露はせるに、皇子の御作りたまひし歌。
大船の津守の占に告らむとはまさしく知りて我が二人寝し
日並皇子尊の、石川女郎に贈り賜ひし御歌一首。女郎、字を大名児と曰ふ。
大名児を彼方野辺に刈る草の束の間もわれ忘れめや
日並皇子尊というのは草壁皇子です。
何の飾り気もない歌です。大津皇子と石川郎女(女性)とのなんともいえない和歌です。。
草壁皇子は和歌が苦手のようですが、われ忘れめやと率直に表現しています。
岡宮天皇といっても聞いたことのない天皇です。草壁皇子といえば少しは知っている人もいます。
その草壁皇子の御陵に行きました。場所は壺阪駅から西に1kmの長閑な田園風景の広がる所の少し山間に面してあります。
岡宮天皇(草壁皇子)
草壁皇子(くさかべのみこ(おうじ)、天智天皇元年(662年) - 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)は、飛鳥時代の皇族。天武天皇と皇后・鸕野讃良皇女(持統天皇)の皇子。妃は天智天皇の皇女で持統天皇の異母妹である阿陪皇女(後の元明天皇)。元正天皇・吉備内親王・文武天皇の父。諡号は岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしろしめししすめらみこと、おかのみやぎょうてんのう)。岡宮天皇、長岡天皇とも称される。
天皇系図38~50代
生涯
天智天皇元年(662年)に誕生。天武天皇元年(672年)、壬申の乱が勃発すると大津皇子ら他の兄弟達と共に両親に同伴する。天武天皇2年(673年)、2月27日に飛鳥浄御原宮で天武天皇が即位。
天武天皇8年(679年)には吉野の盟約で事実上の後継者となり、天武天皇10年(681年)、2月に立太子。おそらく、母の鸕野讃良皇后の身分の高さと、既に彼女の姉の大田皇女が死去している事から、大田皇女の息子である大津皇子を押さえ皇太子になったものと思われる。
朱鳥元年(686年)7月には重態に陥った天武天皇から母と共に大権を委任され、9月には天武天皇が崩御する。翌月には謀反の罪で大津皇子が処刑される。だが、鸕野讃良皇后は皇子を直ちに即位させる事はしなかった。皇子の若さと大津皇子処刑に対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。
なお、少数説であるが、草壁皇子の立太子そのものを軽皇子(文武天皇)の即位を正当化するために後世作為されたもので、鸕野讃良皇后が草壁皇子に天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もある[1](なお、天武天皇の殯の終了は持統天皇2年(688年)11月のことである)。
皇位に就くことなく持統天皇3年(689年)4月13日薨去。淳仁天皇即位後の天平宝字2年(758年)に岡宮御宇天皇の称号が贈られた。『万葉集』に石川郎女に贈った歌が一首残されている。陵は、奈良県高市郡高取町の眞弓丘陵である。
血縁
早世した草壁皇子だが、両親・妻・息子・娘と近親者(さらに次女・吉備内親王の夫、長屋王も実際は特例として親王待遇を受け、皇位継承権があったとの説が指摘されている)の殆どが皇位につき、彼の子孫達は天武系の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。しかし、男系は744年(天平16年)の曾孫・安積親王の早世(藤原仲麻呂による暗殺説あり)で途絶えてしまった。
女系については、曾孫の不破内親王と塩焼王(草壁皇子の甥)との間に生まれた氷上川継(草壁皇子の玄孫)も、天智系の桓武天皇が即位した直後に謀反の疑いを受け、弟の志計志麻呂とともに流刑となった(氷上川継の乱)。その後、桓武天皇崩御後に許され帰京したが、伊豆守に任じられた812年(弘仁3年)を最後に消息が途絶える事となる。
不破内親王の姉の井上内親王と白壁(後の光仁天皇)との間の子である他戸親王が、伯母の称徳天皇が崩御したことに伴い、父王が即位した時に天智・天武皇統融合の象徴として立太子された。しかしながら、他戸親王の立太子に反対していた藤原式家の藤原良継・百川兄弟の陰謀に遭い、光仁天皇への呪詛のかどで井上内親王と共に廃され、天皇の同母姉である難波内親王を呪詛し殺害したという嫌疑も掛かり母と共に庶人に落とされ、その後、同日に変死した。他戸親王の姉の酒人内親王は桓武天皇の妃となり、朝原内親王(平城天皇の妃)を儲けたが、彼女は子を成さなかったのでここで断絶した。
臣籍降下した中では承和11年(844年)に玄孫の峯緒王(吉備内親王の曾孫)が高階真人姓を与えられて臣籍降下し、高階氏の祖となった。
奈良県の橿原神宮をスタ-トして
益田池の堤
宣化天皇陵
新沢千塚古墳群
倭彦命墓
三神社
威徳天神神社(天神山の山頂にあります)
真弓鑵子塚古墳(二箇所あります)
牽牛子塚古墳(斉明天皇陵ではないかといわれています)
岩船
沼山古墳
小谷古墳
貝吹山城跡(標高210m)(橿原市の最高峰)
乾城古墳
鑵子塚古墳
斉明天皇陵
越智丘地区忠魂碑
岡宮天皇陵
素戔嗚尊神社
束明神古墳
春日神社
高取市役所横の忠魂碑(壺阪駅近く)
高取城(日本三大山城)(標高583m)
壺阪寺
壺阪駅
約40km歩きました。
斉明天皇御陵で少年野球チ-ムが228段の階段10往復の練習をしているのが印象です。
壷阪駅の観光協会で壺阪山まで2時間はかかるといわれましたが、1時間で行けました。
山城の雄大な高取城は圧巻です。
大きな山城にびっくりしました。
帰りは壺阪寺を寄りましたが、5時5分で閉館していました。
最後は壺阪駅から帰宅しました。
詳しくは後程書きます。

高取城鑵子塚古墳


上の二枚は益田岩船で巨石が圧巻です。


今回の古墳や御陵など多くを参拝しました。私は考古學の研究などしていませんが、多くの古墳を回って思うのが、荒れ果てた古墳や整備されていない古墳は沢山あります。
古墳ではないかと思うような場所もあります。
その山一帯が古墳ではないかというような所も沢山あります。
立て看板によく古来人が朝鮮から渡った渡来人とか書いていますが、それにも違和感を感じています。
確かに初期の時代ではそうであったかもしれませんが、日本独特の土器など沢山出土しています。そういう書き方に読んでいてうんざりします。
不確かな言説をよく教育委員会など書けるものである。
日本人の優秀性もあることを古墳はあらわしているがそれを見ようとしない。
今回初めて牽牛子塚古墳を回りました斉明天皇陵ではないかといわれている古墳です。
学者はこういう時に古事記や日本書紀を信じるのである、それ以外は無視するのに、勝手なもんである。
岡正章先生に私は当初「今さら」という言葉を使用して、同志が雅宣総裁に理不尽な言動を投げられそれでも平気でいた、しかもおかしいと私は思って20年以上が経つ。
当初からそうした同志を見過ごしたような生活をし、岡先生は雅宣総裁の一端を担っていた。
しかし今回の言動にも未だスッキリしないことがある。
そうした言動に反対に不思議さを憶えるのは私一人ではないと思う。次に紹介するのは「みすまるの珠」にひろばでの質問をしているのに全く答えになっていないことなんです。
食料危機に貧していれば、食料を与えるのが通常の考えです。
雅宣総裁に違和感を感じている人にはそれがどうして沸き起こるのか、具体的に聞けばいい。
分からなければ答えを引き出すようにもっていけばいい。
さて、その文章を抜粋致します。
≪ 今の生長の家は、三代目に中心帰一せよとの教えですが、その事にも、違和感を持っています。
仏教では、 仏(釈迦)→法(釈迦の教え)→僧(出家者、僧侶)です。
釈迦の教え(国訳一切経、各宗派の戒律)に中心帰一するからです。
生長の家で考えますと、仏(住吉大神・天皇陛下)→法(生命の實相・唯神実相)→僧(総裁・副総裁)になります。
「生命の實相」(唯神実相)に中心帰一すべきではないでしょうか?
岡 正章先生のお考えを、お聞かせいただけたら、有難く存じます。≫
――とありました。
その最後の行、≪「生命の實相」(唯神実相)に中心帰一すべきではないでしょうか?≫については、まったくその通りであると思います。(中間部分については、まだよく解りません)
『生命の實相』第18巻「宗教問答篇」の第2章に、次のような問答が載っています(抜粋)。
○
≪谷口――「物質本来無し」ということがあなたには本当に解っていないのだと思います。……どうも世の中には普通と変わった生活をしているからとてその人に感心する傾向があるのです。足で歩ける人よりは、手で逆立ちして歩く人に感心してみたり、蒲団がせっかくあるのに飽屑(かんなくず)の中で寝てみる奇行者に感心したりするのです。だけど本当は普通の生活をしている人に感心できなければ健全ではないのです。逆立ちして歩く人よりも、足であたりまえに歩ける人の方に感心し、鉋屑の中で犬のように寝るのを修行だと思う人よりも普通に蒲団の中で眠る人の方を感心するようになれないと本当ではないのです。つまり外面の顕われに奇行があるのに感心しているのでは、形の生活に捉われているので「生命の実相」を掴んでいないことになるのです。
……窮屈なのは片寄りがあるからなのです。中心にのっていないからなのです。円の中心に乗る生活になれば、もう、どの方面へ向いて行っても、その中心の延長線上にある。中心に乗らないで、円周の方を廻って一歩一歩中心に近づいて行こうとすると、いくら円周上をぐるぐる廻っても中心に近づくことはできないのです。
中畑――先生の「中心に乗る」とおっしゃる意味はどういう意味ですか。
谷口――悟るということです、自己が神の子である実相を悟るということです。善というものが外界にあるのではなく、外界は影であって、自分が神であることがわかれば自己の向かうところすべて神の向かうところでありますから、すべてが神の姿を映して善になることになるのです。形の上から善々と追い廻していては悪を捉えるほかはない。
中畑――そうすると、中心に乗るということはむずかしいことではない。みんな本来神の子であるから、もうすでに中心に乗っている、誰も皆本来中心に乗っているのです。誰も中心に乗っていない者はないのです。ただそれに気づけばいいのです。
松野――誰も皆、本来中心に乗っている。なるほど、みんな神の子だったのでしたなあ。
谷口――われわれの実相は常に中心に乗っているけれども、形の方から中心に乗せようとすると、迷いの方から悟りに近づこうとするので、現われが中心に乗らなくなるのです。形に捉われてしまうからです。
人間は本来神の子であり、本来中心に乗っている。しかし形をすべて切ってしまわなければ、視点が中心に来ていないで、中心を外れているから、円の中心を離れてドウドウ廻りをしなければならないのです。
本来神の子であり、本来中心に乗っている点からいえば悟った人も悟らぬ人も同じことでありますけれども、形を一刀両断斬って捨てていないものは、形に捉われ、心の視点が外の形を追うていて、中心なる生命の実相に来ない。外の形を斬り捨ててしまったものは、もう外界に捉われることはない。外界に捉われずにかえって外界を中心から投影し出しているということになり、外界が自然に整うてくるのです。
「道の道たるは道にあらず」この道、この道と、一つの形式を初めから造っておいてそこを歩まねば道でないと思っていると窮屈に凝り固って行きづまってくるのです。一燈園も「形の生活」を斬って捨てるために、いったん普通人の生活を捨ててしまう。それは大変いい方便ですけれども、形の方から普通人の生活を棄てなければならぬ、棄てなければならぬと、そこに一つの出家的な一つの型にはまった生活ができ上がると、それはもう中心に乗った生活ではない、形を追い廻している生活になっている。本来中心に坐しながら、中心を失っているのです。これを悟らぬ生活というのでありまして、悟った生活というのは、形の方は変幻出没自由自在で、心の視点が形に捉われず中心を離れないのです。≫
○
――以上、『生命の實相』第18巻で語られている「中心」は、以下の谷口雅春先生御講義の「久遠の今」であり「中(みなか)」であると思います。
オウムの問題を考えるに当たっても、「宗教とは何か」「何が本当の救いになるのか」の根本になるものが、ここにあります。
谷口雅春先生御講義「久遠の今」
https://www.youtube.com/watch?v=oFhl9KLdBH4&feature=youtu.be
(2015.5.22)
この文を読むとどうしても「雅宣総裁に中心帰一しなさい」としか解釈出来ないのであります。
質問は「三代目に中心帰一せよ」に違和感を憶えています。
何故、人に中心帰一してはいけませんとか言えないのでしょうか?私はこの解答に雅春先生の「久遠の今」の御講義を聞いてもたぶん何が答えかわからないと思います。
それは何故かというと、「久遠の今という実相世界」と現実世界である「総裁への中心帰一」とを峻別していないから、そういう返答になってしまうのです。
だからこそ、いままで安穏として生活できたのではないか。
岡先生に違和感と変な納得とが同時に頭に入ってきた。
大阪マラソンは抽選を逃したので、急遽神戸へ申込みしました。
果たして当選するか、6月30日に結果発表です。
11月15日です。
体力も落ちているがなんとか気力でカバ-していこうと思っています。
そんなこと言っても、今年は50km以上のトレッキングで7回実施して全て完走しているのが自信となります。
先週はたぶん40km位です。トレッキングは18kmでロ-ドが22kmです。
今年の目標の一つですので、抽選に当れば、なんとか完走したいと思っています。
それと六甲全山縦走大会が同じ11月8日にも申込みしようと考えています。
ハ-ドですが頑張って申込みします。
果たしてどうなるのであろう。
総裁の長女が本部職員として奉職したという情報が入ってきました。
どのような人物か分からないが、父よりはまともな人間であって欲しいと思っています。
長男は谷口雅敏
次男 谷口清次郎
長女 谷口暁子
あのノ-ミ-トでfacebook でロ-ストチキンの写真を掲載した人ですね。
一躍有名になりました。
肉食をやめないで下さい。
有言実行です。
職員はノ-ミ-トです。
飯豊天皇(いいとよてんのう)
五世紀末ごろ、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)によって葛城氏の宗家が滅ぼされました。その雄略天皇の死後即位した清寧天皇は、跡継ぎを残さないまま死去します。やがて、後継者を決めるため、葛城の忍海の人々が大王家につながる二人の皇子を見つけ出します。ところがこの皇子たち、億計王と弘計王の兄弟は互いに譲り合って、なかなか皇位につこうとしません。
そこで、王位の空白を埋めるために臨時に政務を執り行ったのが飯豊女王でした。忍海の「高木の角刺宮」で政治を行い、その皇居は歌に詠まれるほど美しいものだったそうです。
倭辺に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺の宮(『日本書紀』)
(意味:大和のあたりで見たいものは、忍海にあるこの高城の角刺の宮です)
飯豊天皇は、歴代天皇の系譜に名前を連ねていません。あくまでも臨時に政権を執っただけなので、正式に即位したとはみなされなかったからです。『扶桑略記』(※)には「飯豊天皇」と記載されているものの、いくつかの記録があり、飯豊天皇の記述は一致しません。履中天皇の子とされたり、市辺押磐皇子の子とされたりします。ただ忍海部女王の呼ばれていたことからも分かるように、飯豊女王がここ葛城の忍海で一時天皇の位につき、政治を執り行ったようです。
飯豊天皇は、北花内にある墳墓「飯豊天皇埴口丘陵」に眠っています。現在も忍海の人々は、角刺宮の伝承地とされる角刺神社の横の忍海寺に安置される十一面観音菩薩立像(平安時代)を「飯豊女王の化身」と言い伝え、歴史から忘れ去られた女帝をしのんで毎月17日に法要を行っています。
※平安末期の天台宗の僧皇円が神武天皇から堀河天皇までの事柄を編年体で記した歴史書







朝からの雨。
10時頃には止むものと勝手に思っていたが、中々止まない。
已むなく近鉄貴志駅からスタ-トをした。
貴志駅には大阪芸術大学の学生がバスを利用しているが、とりあえず叡福寺を目指して歩いた。
叡福寺は聖徳太子の御廟がある処として有名ですが、その御廟は宮内庁管轄であることを知らない人が多い。
場所は大阪府南河内郡太子町である。私達は上の太子と呼んでいるが、そんな言葉もこれも知らない人も多い。
また、聖徳太子の御廟の横には良忍上人のお墓がある。これは融通念仏教の開祖である。
また日蓮上人の碑や弘法大師の銅像がある。
何故弘法大師かというと
御廟所の周囲を巡ると。墳丘をとりかこむようにして、石柱がずらりと並べられている。これは結界石と呼ばれるもので、内側の結界石は弘法大師・空海が一夜にして築いたものという伝承が残されています。かの空海も、太子を慕って叡福寺に参拝していたのです!ほかにも、親鸞や日蓮、一遍などが叡福寺に参拝していることがわかっていますが、日本の仏教界を牽引した錚々たる高僧たちからも慕われていたという事実からは、法隆寺や四天王寺を建立し、仏教の興隆に尽力した太子の遺徳が時代を経ても廃れることのなかった。





また日蓮上人は仏教を取り入れたのは聖徳太子を恩人として叡福寺に7日間の参籠したといわれる。
今の創価学会はそんなことを全く感じないといえます。恩を知らないとはこのことであろう。
それと良忍上人にかんしては鎌倉時代に建立されているそのお墓は国の重要文化財であるが、その関係は不明である。
叡福寺は一遍上人や親鸞上人も詣でている。



さて、叡福寺でゆっくりしたあとで用明天皇の御陵に参拝した。




その後竹内街道を東に歩き、孝徳天皇陵を参拝した。







そして竹内街道の峠で二上山を目指しました。急勾配の坂でも一気に登ることが出来ました。雌岳から馬の背あたりで昼食です。その時ちょうど12時でした。
その後に雄岳で大津皇子の陵墓を参拝し、再び引き返してとりあえず葛城山を目指しました。ダイヤモンドトレ-ルとよばれている全長50kmの大阪府と奈良県と和歌山県の県境の山の尾根を歩きます。



ただ階段が多いことで知られています。これでもかというほど階段ばかりです。
最後の葛城山から金剛山を目指したのですが、葛城山の山頂に広がるツツジは山が霞んでいて遠くが見下ろすことが出来ない状態でしたので、引き続き金剛山を目指したのですが、水越峠までの道が泥濘状態で最悪です。水越峠で学生達が紀見峠から歩いてきたのですが、ズボンが泥まみれです。そこで諦めて、水越峠から奈良県に向けて走りました。奈良県御所市の長柄という所でコンビニで休憩し、かもきみの湯まで歩いて行きました。
途中忍海から北に飯豊天皇の陵墓に参拝しましたが、夜も遅く写真も暗くてわからないと思います。

二上山の下山途中でサワガニ発見。
こちらに来るな!




この階段まだまだ続くんだ。

平石峠

岩橋山




葛城山のツツジは少し時期が遅かった。

水越峠




万葉集ゆかりの「朝妻」の地です。
私は母が白鳩で小さい頃から生命学園、ジュニア、生学連で活動している教区の一会員です。
活動していて、何で生長の家の活動をしていて、みんな幸せになってないんだろう、教区の雰囲気も変ですし、どうしたら良いんだろうと悩んでいます。
お手数をおかけしますが、アドバイスお願いします。
8 :トキ:2012/08/27(月) 11:25:38 ID:3Fw8BvUg >>7
ご投稿、ありがとうございます。
真摯な姿勢で活動に邁進されているとの事で、心から敬意を表します。
宗教法人 生長の家という組織は、もともと谷口雅春先生の教えを実践し、広める為に設立された組織でした。
当初、谷口雅春先生が直接指導をされていた時期や、直弟子の先生方が指導をされていた時期は、その方針が忠実
に指向されていました。
しかし、組織が拡大するにつれ、活動が対社会的な方面にも広がり、信徒が爆発的に拡大すると、だんだんと
組織の雰囲気が、純粋な信仰から外れて行った点は否定できません。
ある時期からは、そのような傾向は一段と顕著になりました。今の講師や幹部の中には、谷口雅春先生の教えとは似て非なる指導をする人が少なくないです。
特に、申し上げにくいのですが、今は、本部講師の中にも、組織運動に偏重し、個人の救済を軽視する人が
います。そういう人は、谷口雅春先生の教えを都合良く解釈しています。
幸い、谷口雅春先生は、多数のご著書を遺されています。講師の指導だと、どうしても人により、間違った
指導を受け、おかしな方向になります。古本書店などには、まだ谷口雅春先生のご著書が販売されています。
そういう本をじっくりと読んで、勉強して下さい。
また、古い講師の中には、谷口雅春先生から直接指導を受けた人がおられると思います。そういう先生の
指導を受けるのも良いでしょう。他に、生長の家宇治別格本山は、まだ谷口雅春先生の教えにそった指導を
されています。練成会を受講するのも手です。
組織の指導を離れて、自分で本を読み直してみて下さい。きっと答えが見つかると思います。
頑張って下さい。
合掌 ありがとうございます
9 :一青年会員:2012/08/27(月) 14:48:58 ID:OHeI2IeI トキ管理人様
ご返信有り難うございます。
昔の雰囲気と全然違くて少ない活動者で次々行事を入れられて、
この頃は生長の家はこんなんだ~もういやだ~ってなっていました。
このあいだ、教区の光実勉強会に久しぶりに顔を出したのですが、
何か居づらい雰囲気で直ぐに理由をつけて帰ってしまいました。
トキ様の言うように教区の組織から離れて生命の實相を読んだり、
宇治の練成を受けてみようと思いました。
母宛に学ぶ会の会誌が送られてくるので、前から時々読んでみたのですが、
本部批判とかするとこなんてキモいからイヤだし、エラソーな感じがしてたから、
どこに行こうか悩んでました。
有り難うございます! 】
私はこういう指導をする人、トキさんの嫌な部分を感じてしまうのは私一人ではないと思います。
それは何故か、どうしてそんな感情が出るのか。
皆さんわかりますか。
それは自分は教化部職員という身分でありながら、どこか他人事なんです。
昔は良かったといいながら、その昔とはどのあたりを指すのか具体的な論評を言わない。
私は昭和44年頃から活動していますので、谷口雅春先生の直接の御指導を賜ったこともあります。もちろん詳密講習会も何度も参加しています。
だけど当時(昭和44年頃)でも昔は良かったという信徒は沢山いました。それではその昔というのは何時頃なのか、但し戦前というのは良かったのかも知れませんがあくまで推測になる部分があります。たとえば、戦前から活動されてた人からそういう話は何度か聞いています。しかし現在の人にはわかりずらくなりそうなんで、私は出来る限り戦後からの話をします。
それでも不思議なんですよね。戦後(昭和20年代から30年代)が良かったという人も沢山います。
それは例えば大阪の吉倉修三先生のお話は何度も聞いています。直接自宅でも話していますが、直接は昔は良かったなんて謂れはしませんが、羨ましいような活動をされておられる。
青年会の誌友会では100名近い人が毎週集まるとか、教区大会では880名の同志を集めたとかそういう話を聞くのです。
しかし、百万運動となると変わるのです。昔が良かったのではなく。今の活動がいいとなるのです。辛いこともありますが、それが自分の人生を変えるのだという気持ちはブレなかったです。当時の活動者に聞いてもわかりますが、多くは良かったといいます。(一部の反対者もいることも事実です)
そしたら、平成時代の前半はどうでしょうか?まだ良かったという人も沢山います。相愛会大会を開催しても沢山の人々が集まった。平成時代の初年から6年位はそうでした。
しかし、それ以降急激に人数が減り、そうした大会もなくなり。相愛会誌友会など激減です。
私は谷口雅宣総裁が実権を握り、自分の思いのままに組織を把握してから、衰退したといえばより具体的です。愛国運動もない、使命感など全くない組織に何の夢を抱けばいいのでしょう。
宇治錬成も次第に変わり、楠本先生が宇治から去ってしまい、ちゃんとした指導出来る先生などいる様子もない。そういう所に期待を込めても気の毒である。
また、谷口雅春先生の御著書は母さんが熱心ということもあり、沢山持っておられるのではないかと思います。
生命学園、ジュニア、生学連で活動されている程ですから、それなら具体的に「眞理」何巻を読みなさいといえばいいと思います。
しかも、最近はにわかに雅春先生の御著書が古本屋でも少なくなっていることをトキさんは何の検証もなしに言っている。
古本屋で見つけようとしたら大変です。(具体的に古本屋にいっている様子が感じない)
それならインタ-ネットで探せばいいのです。
少し外れましたが、昔はいいという運動なんて本来おかしいのです。それは憧れであり、夢想にすぎない。
それより、具体的に今何を為すべきかを考えたほうがいい。
「カルト化しているのか」と疑問を呈示されましたが
そうしたことに私は「今さら」何を言っているのかということを書きました。
その証左しましたが、たぶんそれでも「生長の家」の思いは消えないと思います。
現在の「生長の家」は「以前と違う」と言ってもなかなか理解出来ないであろう。
いわゆるサブリミナル効果というのがありますが、そうした呪縛にどうしても陥りやすいと
思っています。だからこそ「学ぶ会」にも反論があるのだと思います。
その呪縛が解放されつつあるのではないかと思っています。
以前に幹部研鑽会に参加してこういう感想をもらしておられます。
【今朝、私は「大日本神国観」の神想観をし、生長の家相愛会・栄える会合同幹部研鑽会に参加しました。自転車で、自宅から飛田給道場まで片道約10km、新緑に囲まれ爽やかな風かおる道を走って……。
“「結び合う」生き方を進め、地域・社会に貢献しよう”というテーマで開催されたこの研鑽会は、主催者・関係者の懸命な努力が感じられて、それなりに盛り上がったと思いますが、残念ながら、「画竜点睛を欠く」ものだったと思います。それは中心がなかった――開会の最初に国旗に正対して国歌「君が代」を歌ったのはよかったけれども、そのあと一言も「日本」「天皇」ということが語られなかったからです。】
私なんかは失礼ながら「日本」「天皇」のことなど語れるわけがないと思っていますから、語らなくて当然だと見ていますが、まだ岡講師は期待されているのですね。だからこそサブリミナル効果から抜け出されない言葉なんです。
しかしそれは致し方ありません。よほど信頼されていたんでしょう。
さて破邪顕正に黙って抜粋させていただきます。暗黒史というのは正にカルト化した証拠ではないかと思います。もしこれを見て何も思わないのは返って不思議です。
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今回は『人間の運命』という本を紹介致します。これは昭和26年3月10日発行の谷口雅春先生の語著書であります。これの元本というのは戦前の『出世前・生・死・死後の研究』(昭和9年7月1日)という本です。意外とこういう御著書が出版されているということを知らない人も多いのであります。戦後間もない時に世界思想光明全集を出版されたのですが当初はわら半紙にホッチキスという装丁です。大変貴重な紙ですから、本の価格も驚くほど高いのであります。その為、戦後間もない頃の方が見つけにくいのであります。
昭和23年頃になるとハ-ドカバ-も出始めます。それでも国民は貧窮状態ですから、本を購入するまではなかなかいきません。
『人間の運命』は『生命の實相』の単行本として販売されているのです。『生長の家40年史』をみると『生命の實相』書店普及版と書かれています。
因みに『生命の實相』書店普及版はこの『人間の運命』以外に7冊あります。
運命の神秘 『生命の實相』単行本版(第八巻)
人間を作る法『生命の實相』単行本版(第十三巻)
神を見るまで 生命の實相自伝篇 『生命の實相』単行本版(第十巻)
地湧の浄土 『生命の實相』 第六巻
毎日の修養 日輪めぐる(生命の実相第19巻単行本)
現実の救ひ (後ほど調べます)
生活の値打 新修版第七巻
さて『出世前・生・死・死後の研究』の目次には
第一章 差別心より観たる霊界の消息
第二章 平等心より観たる霊界の消息
この本は第二章しかなく、その後は住吉村での講演筆記等を追加されています。
また、この本を評して倉田百三氏は雑誌『生活者』に
『氏の長い御努力に深く感謝する。色々と珍しい事実や、考へさせられる處が多くて有益であった。それにこの種のものとしてはめづらしく豊富な感のある文章であった。これが機縁の一つとなって、日本に此の注意すべき和解科学に関する興味がもっと盛んになることを祈って居る。実際、人間精神の客観的な神秘鏡である。禅の悟得などの神秘とはまたちがった客観的な神秘であるところが興味がある。』
これは雑誌『生活者』に御寄稿されその内容に倉田百三氏が批評されているのであります。
それでは下記の文面は全集黒布表紙の目次です。
全集第五巻『霊界と死後の救ひ』
生命の行方
第一章 差別心より観たる霊界の消息
第二章 平等心より観たる霊界の消息
第三章 個性生命の存続と其物質化
第四章 悟らぬ霊魂を救ふ道
第五章 幽明境を超える念の感応
これは現在の愛蔵版での五巻と同じ内容であります。
さて、最初に話を戻しますが『人間の運命』という御著書はそれとほぼ同時に出版される、新修版『生命の實相』(昭和26年3月1日)と同じにも拘らず、どうしてこの本を出版されたのかということですね。
それはこの書のはしがきにお書きですが、戦後霊媒現象の取締りがなくなり、詐術霊媒が宗教法人を造って人々を欺くような実例が出たのを雅春先生が憂慮してこの本を出版されておられます。表題や文言などを変更せずに如何に人々に読んで戴くかを念頭に先生の努力の一旦がわかります。そうした時代背景を知らずして簡単に批評したり、編纂したりするのはこうした雅春先生の思いが伝わっていないように感じます。

出世前・生・死・死後の研究 生命の芸術社 -この一篇を今井楳軒老師の古希の慶びに献ぐ-(谷口雅春著作集第一篇) | S9.7.01 | | 函 | 350 | 46判 | |
生命の烈風(いのちのはやて) 生命の芸術社 | S9.9.15 | | 函 | 458 | 46判 | |
昭和十年(1935) | | | | | | |
新生活の出発 生命の芸術社 (谷口雅春著作集第四篇) | 4.21 | | 函 | 410 | 46判 | |
光明の思想 生命の芸術社 (谷口雅春著作集第八篇) | 9.21 | | 函 | 429 | 46判 | |
生命の行方 (谷口雅春著作集第九篇) | 10.25 | | 函 | | | |
光明の生活法 (谷口雅春著作集第十二篇) | 12.15 | | 函 | 234 | 46判 | |
無一物の哲学 (谷口雅春著作集第十一篇) | | | 函 | | 46判 | |
光明主義 | 12.15 | | 函 | 415 | 46判 | |
地湧の浄土 生命の芸術社 (谷口雅春著作集第五篇) | 5.21 | | 函 | 403 | 46判 | |
生命の神秘 生命の芸術社 (谷口雅春著作集第六篇) | 5.21 | | 函 | 406 | 46判 | |
生命の奔流 生命の芸術社 (谷口雅春著作集第三篇)函 | 3.21 | | 函 | 415 | 46判 | |
生ひ立ちの記 生命の芸術社 (谷口雅春著作集第十篇)函 | 11.25 | | 函 | 437 | 46判 | |
本當の教育 光明思想普及会 (谷口雅春著作集第七篇)函 | 6.25 | | 函 | 406 | 46判 | |
いのちのはやて 生命の芸術社 (谷口雅春著作集第二篇)函 | 5.25 | | 函 | 408 | 46判 | |
出世前・生・死・死後の研究 -この一篇を今井楳軒老師の古希の慶びに献ぐ- | 7.25 | | | 429 | 46判 | 第三章~第五章が削除 |
光明主義 光明思想普及会 (谷口雅春著作集第十三篇) | 昭和11年1.20 | | 函 | | | |
教祖誕生祭 216回目のご誕生日寿ぐ
このスロ-ガンがあちらこちらの教会で見かけます。
教祖を”おやさま”として称え、なかには”おやさま生誕216回と書いている垂れ幕もある。
もちろんこのスロ-ガンは天理教である。
私は本部へは入らなかったが、この大和神社の掲示板に中山みき生誕地がすぐ近くにあると記載してあったので見に行きました。





私のような信徒でもない人間でも自由に入らしていただけます。昔の庄屋がそのまま残っています。
”おやさま”を大切にする姿勢というのを感じました、信仰というのはこうでなくてはならないと痛感します。以前に同じようなことを書きましたが、再度書かしていただきます。
教祖を粗末にする宗教は伸びないということです。また教祖の教えをそのまま生かしている宗教は発展するのです。
今の教えなんて哄笑します。そんなへんてこりんな教えなど宗教に値しないと。
今の教えといいながら「造化三神」とはそれこそ時代遅れではないか、私はアメノミナカヌシの神、タカミムズビの神やカミムスビの神を否定しませんが、俄作りの祭神など御免蒙る。
今の教えなど総裁に都合の良い言葉だけの意味です。イスラム原理主義も雅春先生を否定するための言葉に過ぎなかった。
あまりにも”業”の深さを感じてしまう。自分の都合の良い言葉で信徒を脅し、それをするから信徒は激減し、宗教ではない環境団体に落ち込んでいる。情けない限りです。

以前に錬成献身譜について下記のように付した。
昨年練成会に伺った時に「練成献身譜」が歌われていないので、宇治の職員に聞いたことがある。
そこで練成では歌いませんが研修では歌うということでしたが、内容を確認すると愛国的な要素があり、気に入らない人がいるのであろう。
さて歌詞の山王というのはこの地域のことをさす。もともと山王というのは神道の鳥居で使用されているだが、山王とは大山咋神(おおやまくいのかみ、おほやまくひのかみ)は、日の本の神であるのです。畝傍山などもこの神が祀られています。そうした神が以前に祀られていたのではないかと推測できます。
そうした霊的な場所に建立されたのが宝蔵神社なのです。
さて、日高見の国ですがこれは総称して大和を指します。東北地方を日高見の国ともよばれておりますが、そんな狭い言葉でここでは使用されていません。
前のブログで「そらみつ」(山ちゃん192というブログ)という言葉の語源とこの山王と地域に宇治川と対岸する仏徳山についていいましたが、その辺一帯を御室とも呼ばれ、この地域は開拓され今は住宅街であるが、御室(三室戸)はどうして呼称されたかというと三室戸寺の歴史を紐解くとわかります。
「寺伝によれば、宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により南都大安寺の僧行表が創建したものという。創建と本尊に関しては次のような伝承がある。天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じたという。光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めたという当初は御室としていたと記入している。」
話はとんでしまったが日高見の国とはこの大和の国をさし、さらにそれを枕詞のように日の本という言葉で使用されているのです。ここの山王というのは「日の本の神」が祀られた地であり、雅春先生が預言されたかのごとく、ぴったりと符合するのです。
また「おおやまと」は大倭とも大和(おおやまと)とも書きます。ちょうど奈良県天理駅の少し南に大和(おおやまと)神社があり、その辺一帯を大和(おおやまと)と呼称していた。日本の国を讃える言葉です。たとえば「うまし国」もそうですね。瑞穂もそうですね。大八島もそうです。大和秋津島ともいいました。
奇し作業という言葉が「奇し」とは奇し御魂をさし、霊妙な力をもった神霊をさします。神様の御働きを奇し作業と言っているのです。
練成献身譜 谷口雅春・作詞
1. きよきながれの宇治川の
山紫水明名も高き
山王やまのおくいきに
神をたたうる神の子ら
いのちきよむとあつまれり
ホラエイ、ホラエイ
エイエイエイ
2. きよきまことの神の子の
不屈不撓のたましいを
練成せんと若人は
神をたたえて献労に
まことささげて無我献身
ホラエイ、ホラエイ
エイエイエイ
3. 無我献身はおおやまと
日高見の国ひのもとの
やまとはたらき神の子の
いのちをきよめ実相を
呼び出し引き出す奇(く)し作業
ホラエイ、ホラエイ
エイエイエイ
4. 「与えよさらば与えられん」
神のことばは真理ぞと
いのち献げて練成に
いそしむ我ら神の子は
智慧出し愛出し奇し作業
ホラエイ、ホラエイ
エイエイエイ
そのオオヤマトという地名に本日行ってきました。
龍王山が近くに見える所にあります。昔の人はこの地を治めるのにどのようなイメ-ジであったのであろう。
まずは日高見の国とは「日高」とは日が出ずる国として表現していますので、日出ずる国がこの日本です。
推古15年(607年)聖徳太子が隋の皇帝に送った国書が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや」である。
「日出ずる処の天子」はやはり日本だということがわかります。
それでは「やまとはたらき」というのはこの日本の為に働いて欲しいという谷口雅春先生の切望を感じます。
3. 無我献身はおおやまと****日本の為に無我献身で
日高見の国ひのもとの****日出ずる国のこの日本の
やまとはたらき神の子の****日本の為に神の子として
私はそのように感じてしまうのです。
さてそのオオヤマトの国に行ってきました。「大和(おおやまと)神社」です。
戦艦 大和 は大和神社の分霊が祀られていました。
また戦艦大和に乗船されていた戦艦大和は昭和20年(1945年)に沖縄沖で沈没したが、そのときに亡くなった2717名の英霊が末社・祖霊社に合祀されている。昭和44年(1969年)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972年)9月24日、巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者3721柱が国家鎭護の神として祀られている。





さて、私は生長の家現総裁 谷口雅宣先生のおっしゃることやご著書に書かれていることに疑問を持ち、「公開質問」としてその疑問を印刷物とこのウェブサイトで公開いたしました。総裁に直接お手紙を出すなどの方法をとらなかったのは、過去にそれをしても何のお返事も頂けなかったのみならず、当時の教化部長(現在の教化部長ではありません)にその報告をすると、顔色を変えて頭ごなしに怒られるだけ、という状況だったからです。
それで「公開質問」を出しましたが、その質問には何の回答もなく、面接も何もないまま、一方的に「地方講師は解任」のみならず、「岡は相愛会員でもありえない」と本部の担当参議などが教区連合会長に言ったという噂を聞きました(私はまだ正式に聞いておりませんが)。
――それがもし本当なら、これは、生長の家教団がいわゆる「カルト」の状態になっているということではないかという気がしましたので、「カルト」というのをgoogleで検索してみますと、次のようにありました。
≪(カルトにおいては)さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見いだした究極の知識に対する盲信。絶対的な道徳観指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しくあてはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。その道徳の基準にきちんと従えば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。≫
(マイクル・シャーマー <アメリカのサイエンスライター、科学史家> による――ウィキペディア)とか、
≪カルトの見分け方
1.真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
2.組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない。
3.自分の頭で考えることをしないように指導する。
4.世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ。
5.白黒を常にはっきりさせる傾向が強い。
6.外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える。
7.信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある。
8.組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる。……≫
≪宗教とは関係なく、あまりに極端な思想を持った団体でもカルトという単語を用いることがある(例:環境カルト)。≫
(はてなキーワード)
などとありました。
現在の生長の家教団は、そのようなカルトの状態になっているのではないでしょうね――。
私は、生長の家は神が始められた神の運動であり、谷口雅春先生がおっしゃったように、「人間解放の宗教」であると信じています。「カルト化」して人間を束縛する団体が生長の家ではないと思っています。「地方講師解任」ということも、教化部長から電話で連絡を受けただけで、正式な辞令を受け取ってはおりませんし、総裁や本部方針に疑問を呈したら相愛会員を除名、などということはあり得ないことと思っています。
もしそんなことがあったら、生長の家はもはや人間解放の宗教でも何でもなく、社会的に有害な、人間を束縛して不幸にするカルトとして、自滅への道を歩むでしょう。大恩ある生長の家がそんなことにならないよう、私は命をかけて戦うつもりです。】
私は以前のブログで懇切丁寧に「カルト化」した生長の家を主張しました。
1.真理はその組織に占有されており、その組織を通してのみ知ることができると主張する。
谷口雅春先生の御著書を絶版として、信徒には見せないようにしているではないか。
眞理といいながら、雅宣総裁という巨大な権力には誰もが反論できないではないか。
まさしく該当します。
2.組織を通して与えられた情報や考え方に対しては、疑ってはならない。
組織に対してなんら疑義を申し立てることの出来ないことになっている。嫌なら組織を脱退するしかない。
該当している。
3.自分の頭で考えることをしないように指導する。
環境についてなんら信徒の意見を聞こうとしない。本部は地震対策が出来ていないから移転ではなかったのか、それがいつのまにか保存である。今回の偽経でもお経にするつもりではないといいながら次第に文句など言えない組織にしていることが正しく該当します。
4.世界を組織と外部とに二分する世界観を持つ。
この意味が少し理解できませんが、たとえば原理主義という言葉を吹聴し、対立機構をわざと作り、イスラム原理主義と対比させるような言動はそういう世界観を持つ総裁だからこそそうなったのではないでしょうか?
私は日本に原理主義など存在しないとおもっています。
もし、日本にいるとしたら雅宣総裁であろう。そういう対立局というのを持っているといえばそうであろう。
5.白黒を常にはっきりさせる傾向が強い。
政治に介入しないと宣言したのに「民主党支持」や「安倍政権批判」「産経新聞批判」と対立局をはっきりさせる人物です。
6.外部情報に対して強い警戒感を与え、信者の情報経路に様々な制限を加える。
「学ぶ会」に参加すれば職員であれば完全にクビです。以前に「祖国と青年」を購読しただけで降格になった知り合いとか沢山いるので、様々答えられることができます。
これを制限していないというならば嘘つきしかない。
7.信者に対して偏った情報、偽りの情報を提供することがしばしばある。
「大東亜戦争」に対する一元的な情報や愛国書の絶版など焚書して自分のブログのみで信者を偏向させようとしている。
8.組織から離脱した人間からの情報に接することを禁じる。……
6の項目でいいましたが、「学ぶ会」からの情報や接するなどとんでもないことです。
これでカルト化していないといえますか?
岡さんはもう少し冷静に考えればわかることです。
辞令など出さないでもとっくに解任です。そういうことを平気で行う組織が生長の家なんですよ。
それと何を戦うのですか?
生長の家の諸先輩に聞いてみたらどうですか?
人が良すぎる。