則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2015年04月

讀んで戴ければ幸甚です。

『生命の實相』の本のお話

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戦前の『生命の實相』の話をします。
『生命の實相』黒布表紙版ですが
最初は12巻の出版予定でした。

昭和10年5月 『生命の實相』全集第一巻を発刊。

昭和10年12月 『生命の實相』全集全12巻出版完了。
その『生命の實相』は上図のものです。
函付のキャラメル函のように蓋付と差込式のタイプがある。
何故そうなったか不明ですが、上図左側が函付の蓋があるものです。
左側はグラシン紙が包まれています。
グラシン紙は全ての『生命の實相』に付いています。

雅春先生の御本は戦前には函付が多くありました。
黒布革表紙も函付です。

『護国の神剣』にメ-ルを頂き感謝申し上げます。

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『護国の神剣』の御本に関して3名の人のコメント及びメ-ルがありましたことをご報告並びに深く感謝申し上げます。
さて、その内容を記載させていただきます。また、こうしてメ-ルなど本当に嬉しく思います。合わせて掲載させていただきます。
内容はそれぞれ重複している箇所もありましたので割愛させていただきましたことをお詫び申します。



目次の前に「扉」ページがあり「聖使命会員必携」と印字されています。

以下は概ね目次の通りですが、36頁から38頁中程まで「金剛不壊身の祈り」、

「〝今〟を完全に生き抜く祈り」が掲載されています。

62頁には 生長の家本部、世界聖典普及協会、日本教文社、生長の家九州綜轄教化部、

錬成道場いのちのゆには の住所、電話番号が記載されています。


63頁に当たる頁が青紙で 「生長の家が政治方面に進出しようと真剣に考えるようになったのは、

神武天皇建国以来の日本が、滅びるか、存続するかの危機が、もう目前に迫っているからなのである。

今、生長の家が立たなければ何時立つべきであろうか。愛国の士よ、吾々の愛国運動を助けよ。

 谷口雅春 」(昭和四〇年四月「生長の家」明窓浄机) と印字されています。


青紙の裏が新たな1頁のようで次頁に2頁のノンブルがつけられ、
「○ われ等は日本民族勃興の中心者である。」、

「○ 世界平和の祈りに徹して全人類を救おう。」、
「○ 一切を自己の責任とする「神の子」の自覚に徹しよう。」

と印字されています。

2頁が目次となっていて以下のように記されています。


『七つの灯台の点灯者』の神示…3  大調和の神示、完成の燈台の神示が掲載

護国の神剣=生政連讃歌=…6  

美しい日本を護るために-生政連に御入会下さい-…8

日本共産党の本心-微笑戦術にだまされてはいけない-…9

中共の脅威-パンダに気を許して危い-…12

悲惨な粛正-人命尊重のために立て-…16

日本がもし共産化したら-共産革命の現実をみよ-…17

民主連合政権の後が恐ろしい

-野党支持は結果として共産党を支持したことになる-…20

四十九年六月の参院選が大問題-このままでは大変-…23

自民党の体質が問題-このままでは與野党逆転-…24

祖国防衛のために-保守勢力の体質改善を-…26

護国の神剣生政連-唯一の国救う道…27

生政連の政策-美しき日本再建のために-28

同士に訴える-吾らの根本姿勢について-…30

護国の神剣の祈り…33 

 護国の神剣の祈りに続き 護国実相顕現の祈り、金波羅華選士の祈りが掲載


(正漢字でないところや誤字と思われるところもありますが、「目次」の漢字の通り

にしました。「目次」は以上のP21頁のみですが、この後に以下の章が続きます。)



・護国実相顕現の祈り・・・・・・・ ・・・・・・・34
・金波羅華選士の祈り・・・・・・・・・・・・・・
35
・生長の家の運動とは・・・・・・・・・・・・・・
36
・スローガン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
37
・谷口雅春先生御名代 村上正邦部長(写真・略歴紹介)・・・
38
・祝福録・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・39(選挙の応援者の住所・名前を書き込む6
)
・日本国実相顕現の祈り・・・・・・・・・・・・
45
・救われた人々は・・・・・・・・・・・・・・・・・・
46
・「如来寿量品、自我偈」より、実相至妙世界の顕現、実相直視のお手紙・・・
47
・私の誓い・住所氏名・・・・・・・・・・・・・・48



以下目次にはありませんが、

生長の家の運動とは、スローガン、救われた人々は の文章が続きます。


そして48頁目が


 今『人間神の子』の自覚に立ち、天地一切のものに感謝し、人類光明化運動の

 選士として次の各項を誓います。

   毎日 聖経・神誌・聖典を読誦致します。

   毎日 神想観を実習致します。

   毎日 愛行を実践致します。


 住所

 氏名

 生年月日


という「私の誓い」になっています。


発行されたのが
昭和49年6月の 田中忠雄、村上正邦 参議院議員選挙のために作成されたものですね。

発行所はわからないですが「生政連」関連で印刷されたのではないかと推測されます。

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「山陵」とは

「谷口雅春先生を学ぶ会」全国大会で戦後、昭和天皇は歴代天皇にご報告するために皇室方に代拝を命じられたと言われた人がいますが、もう少し詳細に書いていきます。

竹田 恒泰著  「皇族たちの真実」より
歴代天皇陵御代拝
 
終戦の混乱もやや落ち着きかけた10月10日、昭和天皇は御自ら伊勢神宮に御参りになった。終戦を御報告されたことと思われる。その後11月29日には皇族男子に三度目の御召があり、昭和天皇は七名の皇族に、ある御使い御命ぜられた。

「百二十三に及ぶ歴代天皇の御陵に親しく自分がお参りしたいのだが、それはとても今の状態では出来ない。神武(じんむ)天皇の畝傍(うねび)陵と明治天皇の桃山陵と大正天皇の多摩陵とこの三ツの御陵には自分でご報告をし請願をするが、あとの百二十の歴代天皇の御陵には、ご苦労だが君達が手分けをして代参してくれ」(竹田恒徳『終戦秘話』)

そのお使いとは、山陵(さんりょう)御差遣、つまり歴代天皇陵への御代拝だった。昭和天皇からは、戦争のこのような終戦は自分の不徳の致すところであり、それを謝り、日本の今後の復興に対して御加護を祈るように、そして今回の皇族の御代拝で国民と皇室との結びつきをより深めることを希望する、との御話があった。

御陵が集中している京都へ出かけたのは高松宮だった。宮は12月2日から4日間をかけて、京都中の御陵をくまなく訪れ、御代拝した。分刻みで多くの御陵を御代拝する様子は『高松宮日記』に記されている。そして高松宮は関西地区、三笠宮は九州地区、朝香宮は大阪地方、東久邇宮若宮(盛厚(もりひろ)王)は京都地方、竹田宮は四国と淡路島、閑院宮は奈良地方を、また賀陽若宮(邦壽王)も特使として
山稜〔天皇の御稜〕を回った。

昭和天皇は御自ら、また親族から勅使を御立てになり、終戦という国の大事を、先祖である歴代天皇の御陵に御報告なさり、これからの日本の行く末を護っていただくように御請願なさった。

歴代天皇は天皇の先祖であると同時に、皇族にとっても先祖であり、このときに皇族が御代拝をしたことは意味深い。そして、皇族が手分けをして全国の御陵を訪れたことは、終戦の早い段階で 天皇の行幸があったのと近い効果があったはずだ。
 
 
例えば高松宮はこの御差遣に際して京都と大阪で数多くの病院や行政機関などを訪問し、また各界の要人と会談した。

このとき昭和天皇は「皇族は朕(ちん)と民衆との間に在りて、此の点に充分尽力ありたき」と仰せられた。終戦の混乱期において天皇の分身として身軽に動き回ることができたのは皇族しかいなかった。この時期に皇族はさまざまな役割を担ったが、その中でも取り分け、外地及び内地への聖旨伝達と山陵御差遣は、皇族であってはじめて遂行できる極めて重要な任務である。

そして、敗戦国の武装解除が無血で完了したことは、人類史上極めて異例なことであり、その上で皇族たちは絶大なる役割を担ったことになる。



さて、少し御陵のことが詳しい人なら疑問をもつのではないか?

三笠宮は九州地区・・・という文章です。九州には天皇陵は現在存在しません。それならば三笠宮はどこを参拝したかです。
これは戦前の陵墓を見ればわかるのです。
但し、戦前といえども初代は神武天皇です。それは言葉に陵(みささぎ)という言葉が付く所です。戦前までは神代三代とよばれた
天津日高彦火瓊瓊杵尊
天津日高彦火火出見尊
津日高
彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊

だがまだ疑問があります。
山陵というのは戦前では御陵という名前の付く所全てだと解釈しています。だから天皇陵と断言するのは間違いのような気がします。南朝や北朝もあります。また天皇になれなかった崇道天皇や宇治墓の菟道稚郎子尊などもそうです。飯豊天皇、岡宮天皇もそうです。
山陵という言葉は戦前では現在の宮内庁管轄の陵墓を指すこともあります。
だから上記のような記述であれば、歴代天皇御陵と考える人が多い。

そこで山陵御差遣という言葉がありますのは例えば明治天皇陵の横に皇后昭憲皇太后の御陵があります。
明治天皇陵だけ参拝するわけではありません。
御陵と呼ばれる全ての御陵を代拝されたことは推察できます。

200箇所以上あるように思います。

山陵という言葉は蒲生君平の「山陵志」を思い出しますが、蒲生君平は「山陵」を志としていたのがタイトルでわかるような気がします。

醍醐中将と『生命の實相』

ねずさんのひとりごとよりすみません無断で抜粋させていただくことをお許し下さい。

さて、下記の文章を読んでどのように思われますか。
『生命の實相』という素晴らしい御本がその人の人生を変えます。
それをあまりにも知らない人が多い。


醍醐中将軍帽

上の写真は、靖国神社遊就館に展示されている醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将の遺影と遺品の軍帽です。

醍醐中将の終戦当時日本海軍第六艦隊司令長官です。
第六艦隊というのは、潜水艦隊です。

醍醐中将は、明治24(1891)年、名門の醍醐家の嫡男としてお生まれになられました。

醍醐家というのは、旧侯爵家です。
れっきとした華族のご出身です。


華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
けれど、醍醐中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人です。

醍醐中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めています。
けれど、醍醐中将がまだ8歳の頃に他界。
母も相次いでお亡くなりになり、醍醐忠重は、孤児となって一條家にひきとられて育っています。

子供の頃の醍醐中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業している。
とても強かったそうです。

そして明治42(1909)年に、海軍兵学校に、第40期生として入校する。

入校時の成績は、150名中、第126位だったそうです。
けれど、入学後猛勉強をして、卒業時には、成績は144名中、第17位となっています。
たいへんな勉強家でもあった。

兵学校で同期だった福留繁(元海軍中将)によると、兵学校当時の醍醐中将は、「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、上品で服装もきちんとしていた。酒を飲んでも少しも乱れることはなく、謹厳で、しかも謙譲な奴だった」といいます。

昔は、海軍兵学校で成績上位者は、そのまま海軍大学校に進学しました。
卒業すれば、その日から高級士官だからです。

けれど醍醐中将は、あえて現場勤務を選択します。
そして明治45(1912)年、兵学校卒業と同時に海軍に入隊した。

海軍では、はじめ巡洋戦艦「吾妻」の乗組員となります。
そして大正6(1917)年、初の潜水艦勤務に就く。

このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生をある意味決定づけます。
当時大尉だった醍醐のもとに、練習艦隊参謀にという内示があったけれど、彼はそれを断っています。
生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行いました。

このとき、忠重が艦長を務める潜水艦は、たった1隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させるという離れ業をやってのけた。

もちろん演習ですから実弾は使用していません。
けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく、全滅させられたのです。

この手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれた。


昭和13(1938)年のことです。
醍醐にご皇室の侍従武官の話が出ます。

このとき、彼が海軍大学校を出ていないからと反対論が出たそうです。
しかし、人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官となる。

当時を振り返って、入江侍従は、
「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

戦争も末期となった昭和20(1945)年5月、醍醐は第六艦隊司令長官に就任します。
このときは、第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えたといいます。
醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新された。

この頃、作戦可能な潜水艦はたった9隻です。

けれど、醍醐が司令長官となった潜水艦による第六艦隊は、以降、めざましい戦果をあげます。

重巡インデアナポリス撃沈。
駆逐艦アンダーヒル撃沈。
駆逐艦ギリガン大破。

とりわけインデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
そのインデアナポリスに、伊58潜水艦は、6本の魚雷を発射し、3本命中させて撃沈しています。
≪伊58潜水艦と原爆のお話≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-887.html

当時ニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の1ページ」と書いた。

醍醐この頃の第六艦隊の潜水艦は、どれも人間魚雷「回天」を搭載しています。
醍醐中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与し、激励しました。

これら若者と一人一人握手するとき、醍醐の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
優秀な若者を、特攻させなければならない、そのことに、醍醐は深く悩んでもいた。

終戦後、艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。

このとき、第六艦隊には、かなり巨額の金が残った。
そしてそのお金の処分が、醍醐長官の決定に委されます。

醍醐は、
「このお金は国家のお金です。
ですから一銭たりとも私すべきものではありません。
何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談します。

鳥巣参謀は、
「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。
本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、この混乱の中ではとても手が回りかねます。回天関係ならば全員わかっていますから」と言うと、醍醐はこの方法に賛成し、決定します。

決定は、昭和21(1946)年正月から春にかけて実行に移されます。
各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えた。
遠距離で行けないところには郵送したそうです。

このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
以下にその弔辞を引用します。

原文はカタカナですが、平仮名に直します。
ぜひご一読いただきたい。

~~~~~~~~~~~
【弔辞】謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ

去る八月十五日、終戦の大詔下り、皇国は鉾を収め、ポツダム宣言受諾の已むなきに至れり。

真に痛恨の極にして、何を以てか之に喩へん。
特に諸子が忠魂を偲びては哀々切々の情、胸に迫り五内為に裂けんとす。

かえりみるに、諸子志を海軍に立て、勇躍大東亜戦争に臨みしが、戦い中途より利あらず。
ために憂国、義に就かんとして、回天特別攻撃隊員となり、以て戦勢を挽回せんとす。

其の闘魂真に鬼神をも泣かしむ。
しかして克く秋霜烈日の訓練に従事し、一度出撃するや必死必殺の体当り攻撃を以て敵艦船を轟沈するの偉功を樹て、以て悠久の大義に殉ず。
まことにその忠烈、万世に燦たるべし。

しかれども諸子の武勲赫々たりしにも拘らず、戦利あらず。
遂に今日の悲運に遭う。
誰人か之を予期せんや。

我等諸子の期待に副ひ得ず、忠魂を慰むるに由なし。
嗚呼又何をか言はん

されど諸子が誠忠遺烈は万古国民の精髄たるべく、必ずや諸子の七生報国の精神は脈々として永へに皇国を護らん

今や皇国は、有志以来最大の苦難に直面し、今後に於ける荊棘の路は実に計り知るべからざるものあり。

されど我等諸子の特攻精神を継承し、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て新日本建設に邁進せんとす。

願わくば冥せよ
茲に恭しく敬弔の誠を捧げ、諸子の英霊を慰めんとす。

在天の霊来たり餐けよ

 
元第六艦隊司令長官
海軍中将 侯爵 醍醐忠重
~~~~~~~~~~~~

遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた。
彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共に喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になった、と聞いて、鳥巣元参謀は喜んだそうです。

「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」

しかしその頃、醍醐はすでに生きていなかったのです。

昭和21(1946)年12月のことです。
醍醐は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けます。

そしてその日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年二月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されます。

醍醐は、昭和18年11月から第22特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのですが、そこでポンチャナック事件に遭遇しています。

ポンチャナック事件というのは、以下の事件です。

昭和18年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化していたのです。

ある日、ポンチャナックの特別警備隊長上杉敬明大尉(68期)のもとに、副隊長中村少尉がつかんだ情報がもたらされた。

それは、12月8日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を入れ、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものです。

報告を受けた第22特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令します。

そして調査の結果、これら千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されます。

しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没している。
いつ連合軍の上陸があるかも知れないという状況です。

さらに日本軍の警備隊といっても、たかだか百人ほどしかいない。

逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかも知れないし、いったん反乱が起きれば、日本側が全滅するのは目に見えています。

そこで司令部は、4月上旬、上杉に彼らの即時処刑を命じた。
そういう事件です。

一方、終戦後のボルネオでは、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていた。

オランダにしてみれば、現地人をたらしこんで憎っくき日本を追い出しさえすれば、ボルネオは手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ自体をも、ボルネオの現地人たちは排除しようとした。

そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ、との報復裁判を演出しようと企図したのです。

こうして醍醐は、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されます。

このポンチヤナック刑務所というのがひどいところで、郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになる。

しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
貯めた天水には、ボウフラがわいている。
不衛生極まりない悪環境です。

昭和49年になって、上杉と同期の豊田穣がこの地を訪れています。
30年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかった。

醍醐は、昭和22年2月にこの刑務所に入れられます。
刑務所の周囲には、深さ2メートルほどのどぶがあります。

そこは、猫の死体などが浮いていて、臭気がひどい。
看守は、そのどぶさらいを醍醐に命じます。

醍醐は、真っ暗などぶの中にもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけて報復的に働かされた。

毎日、笞で打たれたり、殴られた。
しかし、醍醐は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしなかったそうです。

インドネシア人の看守は、彼らの堂々とした態度に次第に心惹かれ、
「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになったそうです。

どのみち報復目的の一方的裁判です。
すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか3時間で終わります。

そして10月3日、醍醐に死刑の判決が言い渡された。

死刑の判決後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定する。

死刑が確定した時、通訳が醍醐にそのことを伝えると、醍醐は、

「ありがとう。
大変お世話になりました。
オランダの裁判官の皆さんに、あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

処刑は報復的に民衆の面前で行なわれました。
処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

~~~~~~~~~~~
醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、身には真っ黒の洋服を着用、頭にはラシャの帽子を被り、目かくし布はなかった。

努めて平静の様子だった。

刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、彼は国歌を歌った。
その歌調には壮絶なものがあった。

歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。

それが終わると、直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。
~~~~~~~~~~~

陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐の4カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著『生命の実相』 という本の行間に、針穴で次の文を書き綴りました。

これはのちに彼の遺品として日本に返還される。
そこには、次のように書いてあります。

~~~~~~~~~~~
12月5日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。
実に立派なものだ。
一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。

かつて侍従武官までされた人だったのに。

12月6日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。

余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。

その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。

予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、閣下は私のお貸しした「生命の実相」をよくお読みになり、死の前日、そのお礼を申された。

閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。
~~~~~~~~~~~

東日本大震災の現場でも、たいへんな避難所生活の中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がいます。

よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、「顔(がん)晴(ば)る」であるともいいます。

醍醐中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれました。
華族でありながら、普通の日本人と一緒に働こうとした。

そして誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世されました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。

そして明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接していた。

そして君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれた。

ボクは、醍醐中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがある。
そのように思います。

醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

何故なんだろう

以前に生政連の解体や青年局の解体を行った雅宣総裁は本部内にあった愛国の書を本部の御神像の横にある焼却場に置いて、それを焼却した。

勿論、総裁本人はそんなことはしないが部下に命じて行ったのであろう。


現在版の焚書坑儒である。

それはある人から聞いた話でおるが『古事記・日本書紀抜粋』という小冊子がありますが焼却寸前に持ち帰った。

それをテキストにして講話して頂いた。

これは谷口雅春先生が戦前に講習会テキストとして発行されたものを戦後になり雅春先生の御許可を得て青年局から発行されたものです。著作は谷口雅春先生です。

そうした事実は知っていましたが、今回驚くべき事をある人が語って頂きました。

それは本部の御神像の右下部分が焼却場があった所なんです。その場所に雅春先生のお写真が捨てられていた。
雅春先生が生前の最後のご講話の寫眞や輝子先生が写っていました。
その写真を見せていただきました。約30枚程の写真は悲しく思いながら見ました。


何故、そんな所に置いていたのであろう。
焼却するのではないと信じたい。

下の写真は昨日全国大会前に撮りました。

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『谷口雅春先生を学ぶ会』第三回全国大会


『谷口雅春先生を学ぶ会』第三回全国大会に出席してきた。

大変に盛大に行われた。以前の青年会全国大会や相愛会全国大会を思い出す。


福岡の吉田清美さんの発表は大変面白く、こういう女性が私の回りにいれば大きく発展するだろう。


また鹿児島の山本由喜美さんの発表はコンビニもなく閑散としている場所での勉強会等で沢山の人々を集めているのは大したものである。

情熱が成せるものしかない。私はそうした体験は凄い事だと思っています。


呉善花先生の話は大阪で聴いた事がありますが、日本人より日本人であり物事の探求心は本来の日本人である私も驚かさせます。


日本航空高校の和太鼓の演奏は迫力があり、横笛を使用した息の合った演奏に拍手です。


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ブラジルからの同志の発表にはいつも驚かされる。


そろそろ私も思い腰を動かさなければならないように思う。

それはこの全国大会を参加する前から思っていた。


それと実は前日から東京に来ていた。前日には戦後70周年という節目の年である本年、靖国神社の遊就館を拝観した。国の為に散華した若者には涙が出て来ます。そうした若い命の後に続けと願った命を無駄にしてはならない事を痛感する。


また海野馬一中将の遺品である『生命の實相』に書かれた遺書には本当に涙なくしては見れない。

以前にも書いたが遊就館に生長の家の信徒は是非とも行って頂きたい。

平成27年遊就館特別展
「大東亜戦争七十年展 最終章―今を生きるすべての人へ―」

【趣 旨】
 この度の遊就館特別展では、平成24年から3年に亘り開催してきた
「大東亜戦争七十年展」の最終章として、硫黄島の戦い、沖縄の戦い
本土防衛、更には樺太・占守島の戦いを主軸とした関係史資料を展示致します。
 先の「大東亜戦争」は、我が国の自存自衛と人種平等による国際秩序の構築を
目指すことを目的とした戦いでした。
祖国を護るという一念を以って戦場へと赴いた先人達の至誠は、後世の私たち
のために奮起した尊い御事蹟であります。
 最終章となったこの特別展を是非御覧戴き、今日の平和の礎を築いてくださった
英霊への感謝と共に、その「みこころ」を感得して戴ければと存じます。


 

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『護国の神剣』**付加しました。


『護国の神剣』の御本といえば生政連が昭和48年に出版された本ですが、写真の本が出版されています。

P1150825 (2)

実際の本とは明らかに違います。

どこでどのようにして出版されたのかは不明です。

ただ言えるのは実際に出版されて本があるということです。

ただ、既存の本のタイトルは『日本の政治と宗教ー護国の神剣-明るい日本をつくる会-7』昭和48525日出版ですがタイトルは全く違います。

そのタイトルに護国の神剣という言葉が入っているから間違い易いことです。

内容は次の写真を見ていただければわかりますが、『聖光録』に似ています。本の後半は印刷されていない頁が30頁に及びます。
P1150826 (2)

P1150826
P1150827 (2)

下版として出したが著作権の問題もあり、誰かに言われて断念したのか?そう推測するのが普通であろう。



滅多にこうした本は見られない事です。

また、神示集を一部印刷して信徒に配布したりする事も本来は厳禁ですが、少し位だったら認めるケースもあります。

上図の本をお持ちの方や詳細をご存知のお方は是非お知らせください。
よろしくお願いいたします。



以前に『實相體驗集成』第四輯というのが昭和15年に出版されていますが、本部や温故資料館にはそういうものの痕跡すらありません。

現在永井書店で所有されておられますので見て頂きたい。

そうした御本はあることはあります。

以前にブログで書いた事ですが、これは反対に出版されたかどうかが不明な御本です。
それは

童子様から解答がありました

昭和49年6月の 田中忠雄、村上正邦 参議院議員選挙のために作成されたものですね。

生政連関係の記事がありませんか? 

「護国の神剣」 ~ 「私の誓い住所氏名」 の間に青紙ページを挿んで約50頁。

そして白紙30頁になっていますが・・・。

そうですね、「護国の神剣」が63頁でその後に「私の誓い住所氏名」に(48頁)ですね。
おかしいのが下段の頁数です。

そこは選挙での獲得者名を記入するところですね。但、生政連記事があるか友人に聞いてみます。
本当に助かります。心より感謝申し上げます。





 


 

信徒行持要目が出来ていない私

昨年は学ぶ会の全国大会に参加しました。
3人ほど知った人と会いましたが、それ以外は会わなかった。
昨年は大変嫌な思いをある人から言われたのですが、そういう人に限って自分はそれほどどうも思わないものである。わたしも余程でない限りそんな感情にはなりません。

最近は講師をしておられるようであるが、悪いがあまり信用していない。谷口雅宣総裁という見方でもそうですが一度この人は信用ならないと思ったら、講話でも疑心暗鬼で聞くでしょう。それと同じなんです。

学ぶ会という組織のなかでこのような講師という役目には「行き届く」というのは難しいが、信徒行持要目では

 一. 天地一切のものに感謝すべし。

  皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。



 ニ. そのままの心を大切にすべし。

  そのままは零なり、一切なり、○(まる)なり、円満なり、無礙なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難は‘そのまま’を外したるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復(かえ)るとき、一切の不幸は滅す。



 三. 何事にも真心を出(いだ)すべし。

  憂患は外界より来るに非ず。真心顕れざるを憂患と言う。内に真心なきに非ず。それを顕さざるに過ぎず。真心とは全心なり、全力なり、一所懸命なり。『今』を生かすなり。真心あらわすとき、直ちに此処が天国浄土と化するなり。




 四. 一切の人に物に事に行届くべし。

  真心顕るれば自然一切の人に、物に、事に行届くなり、人には必ず深切なるべし、和顔なるべし、声やさしく愛語すべし、如何なる小事にも行届くことを心掛けよ、若し行き届かざることあらば弁解すべからず、真心を顕すことを怠りたる自分の罪なりとして懺悔すべし。




 五. 常に人と事と物との光明面を見て暗黒面を見るべからず。

  暗黒面を見る心ある時、その人に暗黒あらわれるなり。光明面を見る心ある時、その人に光明面あらわるるなり。人を陰にても誹るべからず。善き面を見つけて賞讃すべし。凡て事と物とに不平言わず、感謝すべし。



 六. 常に自我を死に切るべし。

  常に肉体本来なく、物質本来なく、自我本来なく、唯神の生命、今此処にあらわれて生くると思いて感謝して作務すべし。



 七. 人生を神生となし常に必勝を信じて邁進すべし。

  自我を死に切りたるとき、既に『我』なく神の生命のみ生くるが故に、決して失敗を予想せず、明るき心にて日々の業務に獅子奮迅すべし。失敗と見ゆることも真(まこと)の失敗に非ず。樹は落ち葉したるうちに春の花の用意整いつつあるなり。



 八. 毎日一回は必ず神想観を実修して、心を光明化すべし。

私は恨むとかそういうのはないのですが、信用ならないと思っているだけです。
しかしその当人はどう想っているのでしょう。
(童子様より抜粋)

私なんか恥ずかしいが信徒行持要目は出来ていない。

さてそうした学ぶ会の幹部は
あんなこといってすまないと想っているのかわかないが、私のブログも知っているのだから”すまなかった”いえばいいのに、プライドが許さないのであろう。

なんかそう思うと可哀想になる。
そんなことも出来ないのか?

生長の家の現役時代でもそうですが、講師会会長や白鳩会会長になれば変なプライドが出て、間違っていても間違いと認めない。そういう講師を私達青年会時代は笑っていました。
よく講師になれたものである。

人に感謝しなさいといいながら「谷口雅宣総裁」の批判をしているじゃないか?
そう言われると辛いが、
しかし、それを言われる公人でもある。
また間違っていることは言わなければならないこともあります。正しい道へ導くのもその人の度量であります。
つまり谷口雅宣総裁は誰がみても間違っているからです。

私を含め、人間は一切の人々に感謝しなさいと言いますが、本当に感謝出来ているのか疑問です。
感謝は直ぐに忘れるのですね。
当たり前のように振舞って、何かあると不満が出るんです。感謝の前に不満です。
そういうのは駄目ですね。

さて、今回の全国大会に別の意味で迷っていましたが、参加することにしました。
知っている人はよろしくお願い致します。


解任という粛清

岡正章先生が地方講師を解任されたとトキ掲示板に掲載されていましたが、真実であるならば組織としては致し方がないのかもしれません。
ただ、生長の家はそうした解任が多すぎます。どれほどの人をそうして解任に追い込んだりするのでしょうか?

これだけ多ければ、普通は組織として問題があるのではないかと考えるのが普通です。意見が違うから駄目だとか言うことを聞かないからダメだとかそういうレベルで解任するのが多い。

宗教組織はその職業を辞任すると他に職業などなかなか見つからない、それこそ手に職を持っていないからである。あるブログに宗教にも組合組織が必要ということが書いていましたが、私も昔からそう思っていた。

首切りというのはその組織や会社にどれほど悪影響を与えるか計り知れない。しかし生長の家だから許されることは決してありません。
また地方講師などは別に職業を持っていて、辞めても融通がきくのかもしれませんが、周りに与える影響は著名な人だったら悪影響しかのこらない。

説得するなり、期間を置くなりしてある程度、執行猶予があればいいのですがそれもなしでいきなりですから。

わたしも辞職に追い込まれた人を沢山知っていますが、何とも理不尽なことを生長の家はやるんだろうと思っています。
粛清という言葉は嫌いですが、生長の家では通常そういうことを平気で行う組織なのか?
宗教だからこそ人を救うことを優先するのではないでしょうか。
幹部だからこそ多くの悩みを持っています。

もう少し温かみのある宗教になってほしい。そう願わずにいられない。

鯖街道のための試走

昨日は来月の連休での鯖街道のチャレンジをする為の練習です。

自宅から関大の校内の中を通り、吹田市総合運動場を通り、イズミヤの横を通っていつものように万博周囲道路を半周して豊川へ抜けた。

そこから171号線を池田方面へ向けて走った。

勝尾寺口を北側に向け、途中の大丸ピーコックで食料と水分を購入した。

そこでトレッキングランのグループと会った。

茨木市の忍頂寺まで走るようである。

だが途中まで私が先行して行ったのですが、今月のロングランは初めてもあって、バテるのも早い。

簡単に追い越しされた。


今年の三月初めまではこれぐらいの距離なら一気にいけたのであるが、今回は悲惨である、こむら返りになるは、息は上げるは4回も立ち止まってしまいました。

こんなに体調が悪いのかガックリです。

ただ、こむら返りは何とかしたい、最近は便利なものがある。梅干しの乾燥した菓子である。

それを勝尾寺の横の広場でどら焼と一緒に頂いた。

何か甘いもの酸っぱいもののかけあわせである。

これが後半に生きてくる。

こむら返りには塩分が効く。



さて、勝尾寺横の広場で軽い食事をして、東海自然歩道まで一気の登りである。ここはゆっくりでも歩けた。

政の茶屋(箕面ビジターセンター)までは何とか歩けた。

次の難関は天上ヶ岳迄の階段である。

もたなければ池田駅で帰ろうとそんなマイナスの事ばかり考えていた。反対にそれしか頭にはない。

しかし思ったより脚が動くには反対に驚く。
途中から休憩なしで頂上まで登った。

五月山ドライブウェイに到着した時はゆっくりと下りを行こうと考えていた。

だがどうしても脚が進むのである。前回より随分ゆったりと走ったり歩いたりした。最後の下りは少し思いきって走った。

市内に入ってからもゆっくり歩いた。

池田でこのまま帰るか迷ったが今までの諦め易い気持ちは今はない。頑張って歩こうと頭を切り替えた。



だがゆっくりと歩いたのが

後半の中山尾根では頑張れた要因である。

ここから梅干しが効いてきたのか?



川西市市内のスーパーで水分とガリガリ君を食べた。

ここから釣鐘山と石切山である。通常ならば疲れてバテバテなんですが、一度も登りでは休憩なしである。

石切山頂上で昼食である。

時間は午後3時である。

810分に出発して何とかもつものである。

途中で止めようとかそんな思いはその時点では頭からない。

中山尾根の東側の崖下では午後410分そこも休憩無しで登っていく。

途中走った何回も走った。

中山最高峰でようやく水分補給だけして再び走った。

中山寺に着いたのは午後65分である。

それから少し距離を延ばした。県道を川西能勢口まで歩いた。



走行距離は55㌔。

反省点ばかりの試走ですが次は本番です。鯖街道76㌔に挑戦したい。

それまでは登り坂をもっと鍛えたい。



この年代でどれだけ頑張れるかが勝負である。


出来れば12時間内でゴ-ルしたい。
弱い自分に打ち克ちたい。

言い訳なしのチャレンジです。

また来年は六甲全山を往復出来る力を養いたい。


 


 


 

 


 

針畑越え(最短路)

コップの小波

2015年4月13日 (月)

物質的繁栄をさらに求めて

前略
 しかし、よく考えてみてほしい。これら3つの“理想目標”を追求する結果として、「エネルギーと資源の浪費」「自然破壊」「廃棄物増大」「地球温暖化」が起こるのである。ということは、これらは決して“理想目標”などではないのである。だから、今日の地球規模の生態学的問題を解決するため--いや、少なくともその緩和のためには、早々に3つの目標を掲げることをやめなければならないのだ。言い換えれば、経済発展至上主義はもはや“地に落ちている”のを通り越して、地球全体にとって“有害である”ことをはっきり認めねばならない。
後略


 生長の家の総裁の言葉である。
だがよく考えてみたら、宗教というのは浄財があればこそ運営できるものである。それを信徒の意見とか全く無視して勝手に述べている。
しかも、太陽エネルギ-といいながら自然を平然と破壊している心境は如何なのか?

たぶん、自分のコップでしか物を見ない人であることはいままでの文章でも明らかである。教区では財政破綻を来すことは歴然としている。
企業ではそれだけの財政をもちあわせるならメガソ-ラを実施すればいい、破綻すればいい。
もしするならばそれに保持できる費用分担が必要なことは幼稚園の子供でもわかる。

しかしそれもわからない人が総裁である。
ここで何回も書いたが、生長の家の人は人が良すぎる。雅宣総裁という人物は通常の考えでは通用しないことを肝に銘じるべきであろう。

岡正章先生はそんな通用しない人に「公開質問」している。
また、おめでたい人は和解を宣告している。どっちもどっちであるが、そんなことわかる総裁でないことは誰がみても明らかである。
そういう先見の明をもう少し持って欲しいものである。

「みすまるの珠」を読んで

岡正章先生は『理想世界』誌の編集に携わり活躍されていたことを思い出す。
奥さんはヤングレディの責任者でした。
岡さんとも何度か話したこともあります。

大変温厚な感じですが、その岡先生が平成4年に 二川守氏への反論 を書かれている。
少し違和感を憶えながら読んだ。その違和感は
「二川氏の「告発」文をきっかけに、今一度尊師谷口雅春先生の「日本は侵略国ではない」とのお言葉、そして副総裁谷口雅宣先生が「侵略したのは日本」とおっしゃったことの意味をかみしめ、整理して考えてみた。それを、次に記述させていただこう。」

と記入しながら谷口雅春先生と谷口雅宣総裁の文章は全く相容れない文章であるにも関わらず、無理にひっつけようとするのが違和感である。

だからこそ下記の文章をどうみてもおかしい
「天のみこころを現し、光あまねき世界――究極の世界平和を実現すべき尊い使命を持っているのが日本であり、その日本の実相を顕現すべき生長の家の使命は重大である。この時に、「小日本」にとらわれ、言葉の表面にとらわれた妄論を吐いて、信徒や愛国の徒をまどわす言動は許されないと思う。今こそ、大いなる日本の使命実現のために、国を過まる事なきよう、神意によって法燈を継承せられた総裁・副総裁に中心帰一し、謙虚に、そして真の誇りと自信を持って、迷うことなく、明るく、人類光明化運動にひたすら勇往邁進したいと思う。」

総裁をヨイショするあまり思っていない文章を書いたというのが印象であります。
だからこそ岡先生も
 【質問2】 「中心帰一」について、質問させていただきます。 の文章で

 私は、【質問一】でも触れました平成4年の論文「二川守氏に反論す」(→こちら)の最後に、

 「神意によって法燈を継承せられた総裁・副総裁に中心帰一し、謙虚に、そして真の誇りと自信を持って、迷うことなく、明るく、人類光明化運動にひたすら勇往邁進したいと思う。」

 と書いております。が、この「総裁・副総裁に中心帰一」という言葉は、間違っていたのではないかと、疑問を感じるようになりました。

ここなんです。ヨイショしている文章なのですが、人に中心帰一してしまうとこういう結果にどうしても陥りやすくなる。

私も二川氏の本部講師を辞められてその後執筆活動をされています。そのなかで
『神国日本の復活』を読んでいても全く違和感がなく読んでいけます。それでは私と岡先生の違いとは何かを探っていくと

歴史観の違いがあるのではないかと思う、そう思わざるをえません。

だが谷口雅宣総裁の書いた
『大東亜戦争の教訓」は明らかに間違っている。
根本的な文章の作為があるからである。例えば

清超先生の文章を読んで「大東亜戦争」においては日本は(徹底的に)”邪”でありアメリカは”正義”を実行した国である。(その意図にはやましいものはなにもなかった)という趣旨で書かれているとうに読めてしまう。

ここが根本的に「大東亜戦争」が悪であるという意思表示であります。”邪”というのはヨコシマな気持ちと解釈します。左翼は「邪馬台国」という言葉が好きですが、その「や」というのが”邪”なのです。
自分はそう思っているがそれを清超先生の言葉を巧みに利用して書いている。

通常の感覚であれば日本の国は”邪”(よこしま)とは書かない。しかも徹底的と書いている。
これだけ読んでもいかにおかしいかがわかる。
私は今回の「生長の家総裁の公開質問」はそうした総裁の「違和感」を吐露したのであろう。
青年局を解体した総裁を持ち上げたまでは本心ではなかったと思いたい。
当時の青年会の多くは悔し涙であった、それを思うと今更何をいっているんだと感じてしまう。






御陵に参拝に行こう。

仁徳天皇御陵や古市古墳群を世界遺産に登録という呼びかけは随分前から行われている。

昨年に仁徳天皇陵を参拝した時には申し訳ないが、ならないほうがいいと思った。仁徳天皇陵の西側にはラブホテルが建立し、陪冢は家に囲まれている。尊厳のない単なる飾り物であれば世界遺産など恥ずかしい。
私は参拝する時には必ず陪冢やその立地条件を必ず考える。仁徳天皇陵を何も勉強もしたことのない人に世界遺産など言って欲しくはない。
仁徳天皇陵の南側にある履中天皇陵については何も語られない不思議も感じるが、ここの陪冢は悲惨である。四方を家に囲まれ、知らない家の庭先に入って行かなければ陪冢を見ることが出来ない。
またクボタ㈱の敷地に陪冢があるために、ここには入れない。

また、御廟山古墳というのがあるが、応神天皇陵とされていた伝説の天皇陵である。
以前に行った時にはクマタカがおり、多くの野鳥の会の人が望遠カメラで覗き込んでいた。だがそんな御陵かもしれない所には何の尊厳もない。

天皇陵という呼び方をせずに古墳という。そんな人物に世界遺産が笑う。また天皇陵について徹底的に調べた私はもっと悲惨な天皇陵を知っている。

天皇陵の横にそれを見下ろすマンションがあるところも多くある。それは京都市内に多い。
また、簡単に天皇陵の内部に侵入出来るところも知っている。

私は国民が天皇陛下に尊厳の念と崇高な気持ちが国民に熟成すれば天皇陵の発掘もありうるかも知れないが、そうした尊厳もない興味本位の研究は御免である。

天皇陵については私は詳しい方である。大体寫眞を見ればどの天皇陵か想像がつく、奈良県に関しては全ての陵墓と天皇陵を参拝した。64箇所あります。
京都では150箇所の陵墓がありますが、約140箇所(宇治陵は1箇所とします。実際は37箇所あります。)
は行っています。
中にはお寺の中にあり見れない所もあります。土曜、日曜日は門扉が閉ざされている天皇陵は2箇所京都にあります。
天皇陵に関しての資料は15冊所有しています。
最近学生社で出版している『陵墓地形図集成』が162000円から縮刷版が出た、19800円である。これなら買える値段である。

また御陵印を3冊所有している。
興味のある人は案内しますので、是非一緒に勉強していこうではありませんか。


御陵の世界遺産登録を進める左派 (7816)
【日時:2015年04月17日 (金) 20時37分
名前:縹

合掌 ありがとうございます

 仁徳天皇陵を世界遺産にしようとしている動きがあるようですので、すみませんがこちらでもお知らせさせて下さい。

今のところ、反対してくれているのは、次世代の党のみのようです。

生長の家や新教育者連盟の皆様は如何思われますでしょうか?


仁徳天皇陵を世界遺産に=超党派議連が発足(H27/03/30-21:07)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201503/2015033000770
長尾 たかし代議士フェイスブック
https://www.facebook.com/tnagao21/posts/839051679522268

以下、その事に対して、反対する尊皇派の方々の御意見

『仁徳天皇陵世界文化遺産登録に断固反対する』
http://sekaiisan.sonnabakana.com/
「陵墓公開を要求してきた一部学界は、世界遺産登録を陵墓公開への第一歩として歓迎しているようであるが、

同じ学界から、陵墓が皇室用財産として皇室の元に残され、自由な発掘が出来ないのは「戦後改革の不徹底」であったとする声も聞かれる。」



【緊急事態】御陵を守ろう!
http://d.hatena.ne.jp/sin_dragon1971/20150402/1427977824


「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録を推進する議員連盟(仮称)
平成27年3月25日現在】

日本政策研究センタ-にも光を

生長の家に谷口雅宣氏が専従として勤めた時に生政連の解散を画策し、それを実行に移すことがはっきりした頃に伊藤哲夫氏は教化部長という椅子があったが、それを断り誰の頼りもなく「日本政策研究センタ-」を立ち上げた。
必死になって「慰安婦問題」や「憲法」や誰よりも早く「海洋問題」を指摘して、日本の左翼化を防いでいます。
こうした陰ながらの活躍によって「日本」は成り立っているのだと痛感します。

もし、日本政策研究センタ-がなかったらと考えると「ぞっと」します。
あまり学ぶ会のブログには出ませんが、私は素晴らしい活躍だと誇りに思っています。

兵庫の高校生の件で

263トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/04/12(日) 15:48:09 ID:XORYImDk
 あたらしい「谷口雅春先生に帰りましょう」など、本流復活派の掲示板で
兵庫の男子高校生の実名をあげて批判をされている投稿があります。

 兵庫教区の青年会は、ある時期、現在の総裁に同調しない会員が片端から
追放されたという話を聞いた事があります。おかげで、当時、青年会委員長
だった人が随分恨みをかったみたいです。が、青年会の委員長の独断でそん
な事をするというのは考えにくいです。これは、青年会での活動経験がある
人ならお分かりになると思います。当時の教化部長は、総裁に忠実だという
評判のS先生でしたから、S先生の強力な「ご指導」があったのではないか、
と推測しています。

 もし、上の噂が事実なら、個人というよりも、教区の青年会の雰囲気が、
そういう「左」の雰囲気が強いのかもしれません。すると、個人を云々する
のが適当か、どうかは疑問です。

 それに、書き手は高校生です。

 おそらく未成年でありますから、掲示板上で実名を明記するのは、少し
不適当かと思います。また、いい年齢をした大人が高校生のいうことに
ムキになるのも大人気がないかと思います。私もそうでしたが、生高連
時代など、青二才もいいところです。その点も考慮すべきです。

 その意味では、あまり賛成はできません。 】

この件については今年の初めに兵庫県の姫路に勤めている、親しい人に聞いたのですが、その高校生はそんなに言うほどの人物(失礼ながら)ではありません。
あまりにもインタ-ネットで拡散するイメ-ジが悪いと思っています。
トキさんのようにネットで批判的に書かないほうがいいと思っています。
だから上記の意見は誠に正論です。

S元教化部長の影響があったかどうかしりませんが全体的愛国運動から撤退するとそういう
左翼的な考えに染まるのも致し方ありません。

トキ掲示板でも「学ぶ会」を極右というような人もいますが、それと同じです。
愛国運動というのは「日本の歴史を正しく学ぶ」ことだと思っています。

先日、NHKで「ブラタモ」で御土居や蹴上インクラインのことを放映していましたが、私は歴史を探訪するときにはいつも地形や歴史的な証拠というものがその地形や石碑に隠されていることが多いのです。
だからそういう観点から見ることが実に多いのです。
それは古墳や天皇陵を調べるときの癖のようになったのです。
先日、蹴上インクラインの南禅寺の向かい側にある十万舟での岡崎桜巡りに行きましたが、いつもここは地上からしか見ませんから、観点が随分変わるものです。平安神宮の大鳥居もそうですが、京都動物園でもそうです。
ある一点から見るとその方向しかその建物が見れませんが、上や下から見ると観点が変わるのには驚きました。
昨年「学ぶ会全国大会」に行った時は靖国神社から明治外苑を通り歩いて行きました。
そこで東京の地形を頭にインプットして行きましたので、東京の地形の落差に楽しみながら歩きました。
こんな歩き方する人もいないだろう。
明治以前の田園風景と昔はここから富士山が見えたのだろうなと思いながら「ワクワク」して歩いていました。

日本の歴史の内紛などは意外と地形で分かる場合が多いのです。
古くは「一の谷の戦い」でもそうですし、「天王山の戦い」でもそうです。
古墳や天皇陵でもそうです。お城もそうです。

その地形を意識的に考えながら、どうしてこのようになったかを分析するのです。
意外なヒントがそこにあります。

話は逸れましたが、ある人物の評価というのはいろんな観点から見ることが大切なのです。

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