則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2015年03月

讀んで戴ければ幸甚です。

石門心学の地を訪れて

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先日、以前に行ったことのある、石田梅岩の生誕地へ脚を伸ばしました。
京都の亀岡の地ですが、大阪よりにある長閑な農村にあります。京都へ抜けようとすると一つの大きな山を超えなければなりません。それでも京への道は比較的に容易な所です。
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石田二郎さんという表札がかかっています。
先祖代々連綿としてこの地を守っておられるのです。
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私は不思議なのはどうしてこの亀岡の辺鄙な場所で心学というのが生まれたのであろうかであります。
京都の亀岡といえば「大本」ですが?

さてそれよりも亀岡という地は
出雲神話で有名な「大国主命」が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地 を干拓して、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」の名前にちなみ、保津川・保津峡と 名づけた、という伝説が残っており、出雲大神宮の祭神となっています。
その出雲大神宮が丹波一之宮としてあります。また近くには国分寺跡もあり、旧跡や古墳もあります。
また稗田阿礼の名前の稗田野という地名があります。
今回そうした場所にも寄りました。

考えてみると亀岡という地は魅力のある所だといえます。それではそうした石田梅岩という人物を輩出した要素というのがこの亀岡という地にはあるのではないかと思います。

すいませんが「ねずさん」から抜粋いたします。

松下幸之助といえば、商売人の神様とまでいわれる人ですが、その松下幸之助が生涯にわたって学びかつ尊敬した人がいます。
それが石田梅岩(いしだばいがん)です。貞享(じょうきょう)2(1685)年の生まれの、江戸中期の人です。
京都府亀岡市の出身で、名前は興長で、通称は石田勘平といいます。
「石門心学」と呼ばれる日本の商人道の開祖です。

石田梅岩が「都鄙問答(とひもんどう)」を著したのは、元文4(1739)年のことです。
元禄バブルが崩壊し、有力商人が相次いで追放や財産没収となり、世の中が不況に沈んだとき、石田梅岩は、「商人の売買は天の佑け」「商人が利益を得るのは、武士が禄をもらうのと同じ」と述べて、商行為の正当性を説きました。


■自分が儲かり、相手が損をするというのは本当の商いではない。
■お客様に喜んで、納得して買ってもらおうとする心を持って、商品には常に心を込めて気を配り、売買して適正利潤を得るようにすれば、福を得て、万人の心を案ずることができる。
■商人の道を知らなければ、むさぼりによって家を滅ぼす。商人道を知れば欲を離れ仁の心で努力するため道に適い栄える。

こうした教えを商人の道とした、いわば先駆者となったのが石田梅岩です。
石田梅岩は、農家の次男坊の生まれです。
昔は長男があとを継ぎますから、次男坊以下は家を出なければなりません。

梅岩は11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て働きました。
働きながら、梅岩は、いつも「なぜそうなのか」、「どうしてそうなっているのか」と、小さな頭で一生懸命、物事の本質を理解しようとしたそうです。

「どうして? どうして?」と聞いてまわる梅岩に、奉公先の人々は、「いちいちうるさい」と叱ったり、煙たがったりしたそうです。
店主から「おまえは理屈っぽい」と言われてへこんで、なんとかして自分の理屈ぽい性格を改めようと努力した、などという逸話も残されています。

石田梅岩は、後年、江戸時代を代表する市井の大学者となる人ですが、子どもの頃はひどい吃(ども)りだったという説もあります。
なるほど吃りの子供は、人との会話について行こうとしても、のど元に言葉がひっかかって声がうまく出ません。
ようやく言葉が出る頃には、話題は先に進んでいてタイミングがずれるので会話についていけません。
なので、吃りの子供は、一生懸命に、「なぜ、どうして」と考える傾向があるといいます。

もっとも考えるといっても、まだ幼くて知識が足りない頃には、不完全な解釈しかできません。
不完全な解釈は崩壊しがちですから、再びまた深く考えなければなりません。
そうやって、いろいろな物事をなんとかして解釈しようとする。
そんなふうに育つことが多いからです。

幼いころの梅岩は、一生懸命奉公し、休みの日も持たずに働きどおしでした。
ところがその奉公先が倒産してしまいます。
給金ももらえない。
やむなく梅岩は、23歳のときに、いったん実家に帰ります。

けれども家に帰ると、梅岩は、いい歳した居候(いそうろう)のゴクつぶしです。
男というものは、仕事をなくすると、自分が世の中の役に立たなくなったような気になるものです。
周囲がいかにやさしくしてくれたとしても、自分で自分がゴクつぶしでいることに耐えられない。
梅岩は、職を求めて、再び京都へ出ました。
そして呉服商の大店(おおだな)の黒柳屋に奉公することになりました。

いまでも大きな会社では、プロパーと呼ばれる新卒から入社した人たちと、中途採用者の間には、微妙な違いがあります。
丁稚時代から働いている(新卒入社の)プロパー社員は、同じ新卒者同志に共通する同期生としての心情的な結束があります。
ところが中途採用者には、同期と呼べる仲間はいません。
そして、特に請われて入社したのでもなければ、あまり出世は見込めない。

昔も今も同じです。
そんな中にあって梅岩は、休みもとらず、外に遊びに出ることもせず、ただ黙々と真面目に働きました。
梅岩があまりにもまじめに働くので、奉公先のおばあさんが、
「たまには外に出かけてみたら」と夜遊びをすすめた、という逸話も残されています。
普通は、勤め先の、それも女性が「夜遊びに行きなさい」とは言いません。
それほどまでに梅岩は、ただただ真面目に勤めあげていたのです。

そういう生真面目な姿は、真面目すぎると不興を買ったりもしますが、長い年月のうちには必ず高く評価されるものです。
梅岩は、中途採用者であったにもかかわらず、番頭にまで昇格しました。
それは、店を取り仕切っていた女主人の臨終の床での言葉にもあらわれています。
「勘平(梅岩)の将来を楽しみにしていたのに、それを見ずに死ぬのは残念だ」
梅岩は、そこまでお店から信用され、信頼される人間に育って行ったのです。

ところが、休日もとらずにただ真面目に働き続けた梅岩なのに、彼が出世したとなると世間には、根も葉もないことを言う者があらわれます。
「勘平(梅岩)は、この家を乗っ取ろうとしている」
「勘平(梅岩)は、ゴマすり男だ」等々です。

まあ、普通に考えて、ただただ真面目一本やりのカタブツで、しかも理屈っぽいとなれば、あまり仲間たちから好かれるタイプではないかもしれない。
普通ではありえない出世をしたとなれば、陰口を言われるのは、いつの時代も同じです。

人は、喜びも悲しみも、人と人との関係の中にあります。
仲間がいれば、喜びは二倍になるし、悲しみは半減する。

けれど、その仲間たちから煙たがられるということは、孤独です。
彼は、そんな孤独を癒す心の支えのために、暇をみては、神道や、四書五経などを学びました。
そうしていつしか梅岩は、「自分とは何か」、「人はいかに生きるべきか」などと、真剣に考えるようになっていったのです。

早朝、仕事が始まる前に、夜明けの薄明かりの中で窓辺に向かって本を読みました。
夜も、みんなが寝静まった後に、一生懸命本を読みました。
そして考え続けました。

ときは元禄時代です。
元禄というのは、江戸時代全体を通じて、もっとも経済が発展した時期です。
とりわけ商業の中心地であった関西は、経済がもっとも華やかで、商人たちは好景気のもとで、まさにバブル前のような豊かさを満喫していました。

有名な大阪の淀屋辰五郎が出たのも、この時代です。
淀屋辰五郎は、室内の天井をガラス張りの水槽にし、頭の上で金魚が泳ぐのを見て楽しんだそうです。
そんなことができるほどの巨利巨富を得ていたわけです。
そしてあまりに贅沢三昧をしているということから、幕府よって闕所(けっしょ)という財産没収の処分を受けました。

このとき淀屋辰五郎が没収された財産がすごいです。
金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両、現在の金額に換算して約1300億円)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品、さらに諸大名への貸付金が銀1億貫(現代の金額に換算しておよそ100兆円)です。
これが個人資産です。
いったいどれだけのお金持ちだったかということです。

贅沢は禁止となり、八代将軍徳川吉宗の時代になると、享保の改革(きょうほうのかいかく)の倹約令によって、経済はいっきに減速しました。
もともと元禄バブルが崩壊して経済が失速していたところに、増税を行い、さらに徹底した緊縮財政を行ったのです。
いまでいったら、デフレーションが起きたのです。
これによって徳川家の家計はある程度回復するのですが、国の経済は破綻状態となります。

すこし脱線します。
これは三橋貴明さんの受け売りですが、経済というのは「経世済民(けいせいさいみん)」を略した言葉です。
経世済民こそが国家の政策の根幹であり、国の政治の目的です。
国は、企業ではありません。
企業は利益を目的としますが、国は利益を目的としません。
なぜなら、民が豊かに生活できるようにすることが、国の役割だからです。

ですから企業が行うのは「経営」です。
経世済民(経済)は国の仕事です。
ですから企業に「経済」はありません。

問題は、江戸社会です。
徳川家は、武門の棟梁であり、将軍家であり国の政治を司りましたが、徳川家そのものは「家」です。
入りを増やし、出を制して資産を殖やし、家を存続させることが家の目的です。
つまり家が行うのは、「家計」であって「経済」ではありません。
「家計」には、「経世済民」という目的はありません。
あくまでも自分の家の保持が目的です。

享保の改革の問題は、この「家計」思考を、国政に持ち込んだところにあります。
つまり、家を黒字化させることを目的にしたわけです。
ですから年貢を増やし、支出を削りました。

ところがこれをやると、年貢を増やされ(増税)、公共工事などの財政出動(歳費削減)が押さえられるので、結果、国にお金がまわらなくなり、経済は一気に沈滞化します。
ただでさえ、景気が悪いところへ、享保の改革なんてやられた日には、日本経済は急ブレーキを踏んだ状態になって失速します。
つまりデフレが起きたのです。

ところが、経済の失速を招いたはずの将軍吉宗や、その改革のお手伝いをした大岡越前などは、いまでも庶民の間にたいへんな人気があります。
なぜでしょう。

理由は明確です。
質素倹約を目的とした享保の改革ですが、後半においては、いちど吸い上げて徳川家を富ませた経済力をもって、吉宗将軍の時代に、新田開発や治水工事などの大規模公共工事(土木工事)が盛んに行われたのです。
まさに大規模財政出動です。

そして1716年にはじまる享保の改革の最後の仕上げが、20年後の1736年に行われた「元文の改鋳」でした。
これは、通貨の供給量をいっきに増やすという政策です。
つまり、国内に膨大な現金を流布させたのです。

これにより発生したのが、「リフレーション(通貨膨張)」です。
これによって、糞詰まりになっていた享保年間のデフレが弾け飛び、折からの開発した新田からの大量の食料供給も相俟って、国内の景気がいっきに上昇し、みんなが腹一杯食える時代が到来したのです。
そして世の中は、文化文政の江戸文化がもっとも江戸時代らしく華やかに花咲く時代となったのです。

だからこそ、吉宗にしても、大岡越前にしても、いまだに庶民の味方として、いまだに評判がよい。
ちなみに、享保年間というのは、20年続くのですが、この20年間、江戸の伝馬町の牢屋には、罪人がひとりも収監されませんでした。
牢屋にはいる罪人が、ゼロ人だったのです。
つまり、悪いことをする人がいなかった。
それだけの素晴らしい治安が実現できたのも、享保年間でした。

いまの時代は、バブル崩壊後の出口の見えない長引く不況の続く時代であり、なぜか犯罪が多発している時代ですが、私たちは、もっと歴史に学ぶ必要があると思います。

さて、「元文の改鋳」が行われた少し前の享保20(1735)年のことです。
世の中は不況に打ち沈み、幕府は改革と称して次々に政策を出すけれど、一向に出口の見えないデフレに、まだまだ国内が沈んでいた頃、石田梅岩は、曹洞宗の禅坊主の小栗了雲(おぐりりょううん)と出会いました。

そして小栗了雲の影響を受けた石田梅岩は、長引く不況に沈む世間の中で、「自分にできる何か」を真剣に考え続けました。
そして彼は45歳で店を辞め、京都の高倉通り錦水路上ルにあった借家で、無料で学問講座を開きました。
享保20(1735)年のことです。

無料講座は、毎日続けられました。
無料ですから、収入なんてありません。
たまに寄付と称して、差し入れをいただけるくらいです。
あとは自分の蓄えからの持ち出しばかりです。

なにせ、「聴講無料、出入り自由、女性もどうぞ」というのです。
人が集まれば、経費もかかります。
けれど収入はない。
実は、梅岩は、その間、蓄えも失って、土方のアルバイトなどもしています。
もともと商人です。
土方仕事は相当こたえたことと思います。
けれど、生来の生真面目さで、彼は愚痴もいわずそれをやっています。

土方をしながらも、梅岩は私塾を続けました。
町民である商人が人として生きる道や、人としてほんとうに正しいことは何かなどについて、儒学や歴史、朱子学、陽明学、仏教、神道など、様々な教えを曳いて、あらゆる階層の人に、その思想を説き続けました。

分け隔てない彼の講座は連日大盛況でした・・・と言いたいところですが、実際には世の中そんなに甘くありません。
生徒も集まらない。
当然、寄付寄贈もあつまらない。
ただ貧乏になっただけではありません。
貧乏なだけなら、食えればいいのです。
そのために土方をすれば済む。

梅岩は、中傷されたのです。

「たかが元商人の農民ふぜいが人の道を説くとは言語道断」、あるいは「石門学は、儒学か朱子学が、陽明学か、仏教か、ただのいいとこどりのインチキ学ではないのか」、また「ただきれいごとをならべているだけの金儲屋」などと、特に先行する様々な学派の人たちから、相当の非難をあびてしまうのです。
そのために一時は多くの生徒が梅岩のもとを離れました。

石田梅岩は、日本に新たな商人道を打ち立てた人です。
商人だから「儲かりさえすれば何をやってもいい」というのではなく、むしろ商人だからこそ、身を律し、襟を正して正しく生きよう、と説いたのです。
けれど梅岩には、問題がありました。

普通、こうした思想的な教えや哲学などについては、かならず師匠を置くものなのです。
そうすることによって、師匠の基盤を受け継ぐことができるし、何か人から文句を言われても、「それは師匠の教えです」と非難の矛先を逸らすことができる。

ところが、先駆者となって、新しいことを始めると、既存の勢力から敵視されるし、反対勢力からも敵扱いされます。
つまり、どこまで言っても、いいことを言われず、師匠がいる場合の何倍も苦労しなきゃならない。
まさに孟子の言う「天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降(くだ)さんとするや」、肉体的にも精神的にもこれ以上ないほど、追いつめられるわけです。

彼は、さかんな中傷によって内心を苦しめられたというだけでなく、ときに食うために過激な肉体労働生活を送り、体力を使い果してもなお、講義を続け、ときには餓えに苦しみ、生活は極貧暮にまで追い詰められ、それでも道を説き続けています。

ある日、講義の出席者がたった一人という日があったそうです。
その受講生は、恐れ入って帰ろうとしました。
梅岩はそれを押しとどめて、こう言ったそうです。

「私はただ机に向かってひとりで講義することもあります。君が一人がいれば、それだけで十分です」
それが、梅岩の覚悟というものでした。

梅岩は、真っ正直に、ただひたむきに、毎日講義を続けました。
実は、このひたむきな姿勢こそ、まさに石門心学の原点といえるものです。

石田梅岩は、60歳で生涯を閉じました。
彼が私塾を開いてから、わずか十五年です。

その石田梅岩が、最初の本「都鄙問答(とひもんどう)」を著したのが元文4(1739)年のことです。
それは彼が私塾を開いてから、まる4年が経ち、5年目にさしかかろうというときのことでした。
それまでの世の中の常識にない、新しいことをしようとしたとき、天がその訓練のときとして最初の苦難を与える続ける期間は、およそ5年というものなのかもしれません。

石田梅岩の石門心学は、彼が亡くなるまでに多くの子弟を育て、彼の死後も日本の伝統的な商人の在り方として定着します。
そして日本の商人は、士農工商の身分制度上、もっとも下位に置かれながら、石門心学という学問を経て、武士道精神同様の高い精神性を持つ「商人道」となって、江戸時代を駆け抜け、明治大正を生き抜き、そして松下幸之助を育て、日本の近代化に大きな貢献をしたわけです。
もし、江戸中期に、「嫌われ者」の石田梅岩(通称・石田勘平)が現れなければ、日本の商人は、というより、現代社会の日本企業は、これだけ世界から信頼される企業にはならなかったかもしれない。

正しいと信じたら、それが人の道に外れていないと信じる道ならば、なにがあっても、信念を貫き通す。
それが日本人の生き方なのかもしれません。

梅岩の教えです。

~~~~~~~~~~~~~
1 学問は、人生を悔いなく生きることを目的として学び修行するものである。
2 「学ぶ」ということは、「あるべき」日常生活を知ることである。
3 商家は、家業を続けることで、天下の泰平を助け、万人の福祉に奉仕するものであり、それが商売の本質である。
4 世間の人々は、自分の利益だけを考え行動するのではなく、相互扶助、相互信頼の心をもって暮らさなければならない。
5 相互信頼の心がけは、心学社中の相互間だけでは駄目で、その思想を社会のありとあらゆる人々にたいして働きかけなければならない。それが行動であり、その行動は勤勉、倹約、布施という形をとる、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 
梅岩の著書の「都鄙問答」です。

この本は、元文4(1739)年、梅岩が五十五歳のときの刊行ですが、それから明治維新まで、なんと百三十年間にわたって版を重ね、明治以降も十四種類が公刊されています。

アメリカの社会学者ロバート・ベラーは、「TOKUGAWA RELIGION」という本の中で、有色人種国家で唯一近代化に成功した日本の成功の要因を分析し、そこで石田梅岩の石門心学による影響を、非常に大きく取り上げています。

そこい紹介されている石門心学の理念です。
~~~~~~~~~~~~~
商売の始まりは、余りある品と不足な品とを交換して、互いに融通しあうのがものである。
そのためには、正確な勘定と正直な取引が必要である。
良い品を、適正な値段で売れば、買い手も安心し、売り手と買い手の相互の信頼が生まれる。
それだけでも住みよい世の中になる。
だから正確、正直な商売をして大いに儲けることは、欲心ではない。

(中略)

人を騙して儲けるのが商人ではない。
商人は、右のものを左に移しただけで利を取る者ではない。
商人が利益を得るのは、武士が禄をうけるのと同じで、「売利ナクバ、士ノ禄ナクシテ事フルガ如シ」であり、売利を得るには、心構えと基準が大切である。

心構えとは、品物の品質と値段に「真実」を尽くすことであり、買い手の身になって売る思いやりが、商人にとっての真実であり、この「真実」こそが商人の生命である。
商人が悪いというならば、百姓か職人に転業する他はあるまいが、「それでは財宝を通わすものなく、天下万民が難儀する。

すなわち、一家を治めるのも、一国を治めるのも、仁をもととし、義を重んじなければならない点ではおなじなのであって、商人も、ささやかな仁愛を捧げ、国の役に立つことが本義である。
飢えた人を救うのは人の道であるけれど、商人もまた、その心がけがなくてはならない。

商人に俸禄を下さるのは、買い手であるお得意様なのだから、商人はお得意先のために真実を尽くす。
真実を尽くすためには、「倹約を守って、これまで一貫目かかった生活費を七百目で賄い、これまで一貫目あった利益を九百目に減らすよう努める。
贅沢をやめ、普請好みや遊興好みを止めれば、一貫目の利益を九百目に減らしても、家は立派に立っていく。
~~~~~~~~~~~~~~

昨今、論説というのは、別な書物からの引用が示されなければ、論説の名に値しないとまで言われます。
けれど、これには大きなパラドックスがあります。
どういうことかというと、日本の真実を書いた戦前からの書籍は、GHQの焚書によって、世の中から姿を消しているからです。
つまり、左翼版の本しかない中で、引用文献が明示されなければ論に値しないと言うのなら、左翼に偏向した論説しか世の中に出まわらない、という筋書きができてしまうのです。

以前私は、GHQによって焚書処分になった本を所蔵している方に、書庫を見せていただきました。
そこで置いてあるたくさんの本を開いてみて、驚きました。
そこには、引用文献なんてありません。
そうではなくて、学者(著者)その人が、現地へ行って、自分の目と手足で調査してきたことを、一次史料として書にしているのです。

また、戦争や思想を書いている焚書本も、拝読しました。
そこに書かれていることは、引用ではなくて、その学者(著者)自身が体験し、感じ、調べた驚くべき事実が書き連ねてありました。

それは誰かの引用ではなくて、その著者の実体験そのものだったのです。
これを見たときに、思いました。
真実というものは、どこかに書かれていることではなくて、自分でつかみ取るものなのだと。

石田梅岩の思想は、なるほど儒学、朱子学、陽明学、孔子、孟子などのいいとこ取りに見えるかもしれません。
けれどそうではなくて、よく読めば、石田梅岩自身が自分の人生を通じて体験し、彼自身が考え世に問うた学問なのであろうと思います。

日本には、世界に誇る商人道があります。
そしてそこに書かれた商人道は、胸を張って大物顔するようなものではなく、どんな境遇にあっても、日本人として誠実に生きる、そういう生き方の学問であろうと思います。


チャレンジしよう。

「なんでそんなしんどい、トレッキングというやつをしてるんや」
そういう質問を先日ある知人からうけた。

ジョギングする人もいます。マラソンに挑戦する人もいます。毎日のように走っている人もいます。
しかし、私は仕事で朝が早く、夜も遅い。
運動するのは土曜日にしようと決めている。
しかし、それが1日運動しているから「しんどい」と思われている。
そりゃ「しんどい」こともありますが、結構ゆったりと走っていますので、見た目より楽に走っています。
50kmや40kmと走ったり、歩いたりしているので先に数字が出てしまうので驚かれるのだと思います。
今年は長距離、50km以上を5回走破しています。先日も走破したかったのですが、さすがにバテましたので40kmにしました。

でも、驚かれるかもしれませんが、回復力も早いのです。今年は持久力と脚力をつけたい。
そのため、アスファルトの下り道に力を入れています。通常楽ではないかと思われますが、アスファルトの下りで脚をダメにしてしまうのです。衝撃で次に脚が動かなくなる。
そんな経験を何回もしています。
そうした下り道での走力を何度もチャレンジしています。
先日もその練習をしました。

鯖街道走破を考えるとそれを克服しないとチャレンジ出来ない。
頑張ろう。

「踊る大捜査線」のトキさん

223トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/23(月) 22:14:45 ID:94T58.rI
 最近、また、教団と本流復活派の間で裁判があり、教団側が敗訴した
という情報が入りました。そこで、調べたところ、本部のYさんの名義
で、いわゆる「お守り」に使っている「甘露の法雨」、それと「生命の
教育」に関して裁判をしていたが、東京地裁で教団側が敗訴した事と、
その判決に「仮処分」がついてきており、教化部で「お守り」や「生命
の教育」の頒布ができない、という通達が教化部に届いていたそうです。

 ご丁寧な事に、今後は光明思想社から出ている聖経を使え、という
生長の家社会事業団の弁護士さんの文章まで付いています。

 この件で珍しいのは、勝訴にもかかわらず、光明掲示板に何もでなか
った事です。何か理由があるのかもしれません。

 それで、教化部内の反応はどうだ? と尋ねると、「”分派”のやってい
る事は行き過ぎた」という声と、「教団側もだらしない。」という声が
あり、「両方とも意地の張り合いをしている。現場は大変な状態になって
いる事を双方とも知るべきだ。早く和解して欲しい。」という意見が多かった
と聞きます。つまり、本流復活派は、勝訴をしてと言っても、現場の信徒
からは支持されていないし、教団側も同情されていないのです。

 おそらく、双方とも現場の意見を知らないと思います。
そこで、以上、私が聞いた意見を添付します。』


トキさんという人は常に他人事である。
教化部職員という地位でありながら、どうしてそんな心境になるのか不思議である。
しかも、一番「和解」ではダメな対立論で常に話ししようとする。
「和解念仏論」の長であるトキさんが対立論を常に言葉とする。それが私などの天邪鬼は疑心暗鬼となり、対峙させることは和解の邪魔をしていると思うがさすが、トキさんは講師先生である。

そこで最近多い言葉に「現場を知らない」という言葉です。
これじゃ『踊る大捜査線』の青島の言葉と同じではないか。

【事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!!

室井さん聞こえるか。仲間が撃たれた。
どうして現場に血が流れるんだ!

あんたは上へ行け!俺は現場でがんばる!

リーダーが優秀なら組織も悪くない。

いいか、よーく覚えとけよ 、
パパが偉いからってな何やっても許されると思うな。
許してくれるのはなパパのお友達だけだ。
俺たち現場の人間は違う 。パパが官僚だろうがな。
女を力づくで傷つけるような奴は
俺たちがトコトン 追い詰める!
お前みたいな奴に傷つけられて何年も苦しんでる
女がいるのをしってるか?
俺たちは区別しねぇぞ!
そこまで計算して生きてないからな。】

映画の演出でこういうセリフがでるのがいいが、トキさんは常に待望論であり、対立論であり。
私は正義であるということが全面に出ている。
考えてみれば青島は現場で助けようと頑張るが、トキさんはどうだろう。


ちょうど隣の家の火事が自分の家に燃え移ろうとしているのに
「消化」だ!
早く消せ!
誰かいないか!
あいつが放火したからダメなんだ!
いや、あんなタコのようなコンセントしてたからダメなんだ。

と喧嘩しているのを見ているだけである。
何もしないのである。

水を被って、助けに行こうとともしないのである。
そのわりには「現場」を知らないというのである。
私は現場で育ったんだ。
貴様らは現場を知らなすぎる。

それならば、自分で助けに行けばいいのであるが、トキさんはそれをしないのである。
自分は常に安全な場所で指揮をしたいのである。
もういくつ年をとると定年退職、それまでは穏便にしていこうと。

「現場」を知っているのであれば率先垂範して指導するのが本当であろう。

それをしないのがトキさんの骨頂であろう。
対立論を先鋒して、教団側もおかしいが、「本流側」もおかしいと、平均を保つようないい方をして自己満足する。
また、こういうことをしないのはおかしいと正義論をぶちかます。
私の知り合いの弁護士の話で盛り上げようとするトキさん。
心から応援したい。

唯物思想の教団とは和解してはならない。

私は自分の都合で和解を捉える人に違和感を感じています。
例えば、総裁との和解などもそのひとつです。
どこを、何を、どのようにして和解するのか具体策もなく虚妄に喘いでいるようにしか見えない。
そんなことを書くと、『生命の實相』のどこにも書いていないという、おかしな論調をいう人がいるが少し考えればわかるようなことを『生命の實相』を持ち出さなくてもわかる論理をいう人がいる。
そんな人は自分の投稿しているブログで仲良く「和解」でもすればいいのに、それさえも出来ないで「人に和解を説く」
おかしい人である。脚下照顧出来ないでいる。それこそ却下証拠である。

さて光明遍照様の書かれている人の

【さて、話しは和解論に変わるが、今年(2015)2月16日、トキ様が

>「和解念仏教」の教祖様は、谷口雅春先生ですから、<

ということを書かれているが、残念ながら谷口雅春先生の理解が浅いと思わざるをえない。


今更だが、『生命の實相』倫理篇の「虚説に和解してはならない」の章を取り上げるまでもない。


谷口雅春先生は、断じて「和解念仏教」の教祖様などではない。


雅宣総裁の説く「今の教え」(今は、ブラジルの信徒からの指摘で言わないようだが、分かり易くするため、あえて使わせてもらう)なるものは、虚説であり、断じて和解してはならない。


個人的には、トキ様には好意を持っているが、具体的な和解交渉の方法も提示出来ない和解念仏教などには、同意しかねる。】

トキさんは
「和解念仏教」の教祖であり、これだけ「和解」といえば少しは良くなっているのかと思えば
その状況は益々悪化であることは誰もみても明らかである。

それは何故そうなるかを考えたことがあるのであろうか?
それは祈りでもそうであるが、具体的に実現可能であるか?
欲で祈っているではないか?
単にそうなって欲しいというというだけでそれ以降の具体案がないのではないか。

雅宣氏と何を和解するのか?
『生命の實相』のないの教団と和解するのか?
『甘露の法雨』のない教団と和解するのか?
光明化運動のない「環境の家」と和解せよというのか?
九州総本山を聖地ではないという人と和解するのか?
民主党を支持するような人と和解するにのか?
「天皇陛下」を愛さないような人と和解できるのか?
兄弟と仲違いするような人と和解できるのか?

それでも和解をいうならば、本当に「和解」ではなく「妥協」するとしか言い様がない。
妥協してどうするのかであろう。
たぶん。トキさんは「妥協」して欲しいというのが本音であろう。
口では和解と言っているが「妥協」して欲しいというのが素直な意見であろう。

だが妥協などすると、大変な事となる。今の生長の家は本来の生長の家ではない。
雅春先生の御著書を絶版とし、覆い隠して「今の教え」を説く。

無茶苦茶である。

そんな「教団」とは断固戦わなければならないのである。雅春先生が「日の丸か赤旗か」を出版されて、『我が憂国の戦い』をどうして出版されたのか。
それは現教団は「似非教団」であり、唯物思想を説く教団であるからである。
そんな教団と「和解」してはならないのである。


天皇信仰とは

私はどうしても「生長の家」の真の信徒は「天皇信仰」を信じているかどうかで決まると思っています。

「天皇信仰」もいろいろと記入しましたが、信徒のなかでも歴史観が欠如しているため「谷口雅宣総裁」のような人物でも信じてしまうのである。

そこには歴史観が「ポッカリ」と穴が空いていて、雅春先生は信じているが歴代天皇に関しては全く無知の人も多い。
そこが問題なんです。京都などを散策すると、ここは嵯峨天皇の開祖した大覚寺であるというように、まずは天皇陛下を想像できるかどうかなんです。その後後宇多天皇が伽藍の整備に努力した。
また、その後にこの地で眠られるのですがそういうことに全く関心がない。
大覚寺の景観ばかりで終わってしまう。
南北朝の大覚寺統であります亀山天皇はこの大覚寺で院政をしたからそういう名前がついたのですが亀山天皇の名前は嵐山駅の北側にあります公園は亀山公園ですが、どうして亀山公園かといいますとそこには「亀山天皇火葬塚」があるのですが、そこから名前をとっているのです。

また南禅寺は亀山天皇が法皇として出家した場所が南禅寺である。だからそうした遺跡などが残されています。だからそうした歴史に関心を持つことが大切なんです。
天皇信仰とは
真の歴史観を持つには『古事記』や『日本書記』を学ぶことなんです。そこから天皇観をしっかりと植え付けるのです。

北岡伸一氏は戦後教育の申し子である。

北岡伸一
近現代史では、我々は侵略戦争であるという事は当然の事として臨んだ。それを中国の人に知って貰うことが重要だ。南京大虐殺では、我々は大規模な虐殺だったと認めている

北岡伸一氏は大きな肩書きを持つ人物である。
だが、何処か抜けているのです。
それは戦後史観にどっぷりと嵌っていることである。いろいろな著書も出版しているが、読んでいて左翼観が満ち溢れている。

一方では保守の論客としても言われている。それはどうしてかというと「八方美人」のどっち付かずのような発言をしているが、その根幹のようなものは「左翼」である。

こういう人物は本当に困った人物である。よく勉強もしているが、どこかが抜け落ちているいるのである。それは大東亜戦争は日本が侵略したということを「誠に信じている」からである。
だから、たとえば前回の記述した「八紘一宇」は中国を侵略した時に使われた、軍国主義言葉であると信じているのである。
あの、辛坊治郎さえも「侵略戦争を正当化する言葉である」と言っていたがどこが「八紘一宇」が侵略かどうかちゃんとした議論すれば悪い言葉でもなく「正しい言葉」でしかも、古代の日本でこういう素晴らしい言葉を使われていた。
大意は「道義的に天下を一つの家のようにする」という意味である。
それは戦後日本が悪いという観念が徹底したGHQの影響で消えない人物であるのであるため、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというように戦前の全ての言葉を否定してしまうのです。

たとえば、大東亜戦争において如何に中国軍が日本人を虐殺したことも勉強すべきであろう。そういうことを勉強しないで観念だけで歴史を捉えるのは間違いである。

わたしは北岡伸一氏は戦後教育の申し子であると思っている。だからこの発言も驚かない。

頑張って行きましょう。

三原じゅん子 日本が建国以来大切にしてきた価値観「八紘一宇」
https://www.youtube.com/watch?v=TCtwwOw-ByI

八紘一宇という言葉を戦前の軍国主義とかいう考えこそ「古い」考えではないか。
こんなに素晴らしい考えが『古事記』という書物に書かれていたことに驚かなければならない。

深山幽谷と山岳信仰

日本の山というのは深い奥山といわれるところには、山の麓には鳥居が建ち人間が立ち入りを拒否しているような場所があります。
奈良では修験道の古道があちらこちらにあります。古くから山岳信仰が根付き山というのは畏怖の対象でもあったところが多い。富士山も山岳信仰のメッカでもある。山頂には鳥居が建っています。ここは浅間神社の所有であり、山そのものが信仰そのものであります。
出羽三山も真言密教の山岳信仰でもあります。
吉野や大峰山などは役小角が開いた山である。
役小角は元々奈良の御所の出身で近くには金剛山や葛城山があり呪法を学んだことにより山岳信仰に入っていく、後の『日本霊異記』にその多くのエピソ-ドが記入されている。

山には神霊がおり、そこから血穢の対象とされた女性は入ることが許されなかった。
また煩悩の対象として女性が入ることが許されなかった。
もちろんいまでも女人禁制の山はあるが、多くは女性にも開放されている。現在でも山岳信仰とまでいかないが石碑に「山の神」と書いている場所が多くある。

女人結界というのも仏教における考えでもあるが一部の山岳信仰でもそうした結界を重んじるところがある。
また深山幽谷というのは深い奥山という場所である。
今ではそういう考えがないが、日本ではいくつもの山に「深山」(みやま)とかいう名前の山があるが、こうした場所は奥山であった。
こうした場所には神霊が住んでおり、姥捨山のように老人になるとそうした場所で死んでいかなければ佛にならないという信仰もあった。
そうした場所にも結界というのがあり、その奥に入ると魑魅魍魎の化け物が住んでいて人間にちょっかいをかける。
登山とまでいかないが、山に行くとそうした祖霊のようなものを感じる時がある。それは人間を拒否しているのか分からないが、神霊のような畏れ多いものを感じてしまう。

日本人の昔の人達はそうした人間とケダモノや木霊や「石」などにもそうした神秘的のものを感じたものである。
結界を通り過ぎると「石」になる。また奄美大島では「木霊」というのがいまでも存在していると信じている人が多いのもそうした自然と人間とを分断する役割があった。

修行のしていない人は立ち入り禁止だぞ!という言葉が聞こえないのか。

私は山に登るが関西地方では山の頂上に建てられた神社やお寺には役小角の開祖としての寺が多いことに気が付く。
手軽に登ることはいいのだが、いまでも女性は「巫女」や「イタコ」のように霊が取り付きやすいと思っている人もいます。

結界石が何故あるのか「山の神」の石碑がどうしてあるのか、山には鳥居がある場所が多い、それは何故なのかをじっくり考えなければならない。

安易に脚を踏み入れたりするような場所「深山」には信仰を深く持たなければならない。それは穢や禊など深く解かる人ならばいざ知らず。

山岳信仰もわからないで、自然と人間とは一体なんだというような畏れを知らない人にはこうした「山岳信仰」を学んでいただきたい。

私には山は自然であり、畏怖の対象でもあります。そうした所と一体など畏れ多いことであり、今回の総裁の発言は日本人の古来から学んできたことと全く異次元な発言であり、そうした発言はあまりにも自然をなめているとしか思えない。

六甲全山縦走大会の報告

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今日は東日本大震災の日です。

私はその時にはちょうど名古屋にいました。

大きな揺れに会社の建物から駐車場に避難したのをはっきりと覚えています。

沢山の人々が亡くなられ事に哀悼の祈りを捧げたい。

 

さて、38日の六甲全山縦走大会はスタート前から大変沈痛な思いでした。

前日から微熱が続き、クスリや栄養ドリンクを多量に摂取して為、反対に寝れなくなり気分が悪く、通常ならば始発の電車でも間に合うのですが、ほとんど寝ていない身体は須磨浦公園迄が大変苦痛でした。

車を走らせての移動です。

着いたのが、532分です。今回の登録のクラブは尼崎ハイキングクラブでしたので担当者を探してようやく見つけました。初参加なので要領がつかみ切れなくて、ようやくスタート地点に立てたのは548分。

まだ朝もうっすらと闇に隠れて見える程度です。

懐中電灯も持たないでも何とかわかる程度です。

最初は身体の切れも良く、順調に歩いていました。

だが菊水山の登りでガクッと足取りが重く、左側から痙攣をおこし両方に痙攣をおこすようになりました。

それでも休憩なしで歩くことが出来たが、鍋蓋山の登りはさすがに一回止まりました。

寝不足と微熱で最後まで身体がもつかどうかですが、途中棄権は脳裏には全く考えませんでした。

そこから摩耶山の登りは二回立ち止まってしまいました。

人に抜かれる事も多くなり、陽気にボーイスカウトの少年が歩いている。
最近流行りの6.8秒バズーカのラッスンゴレライを二人で歌っている」。
僕は「訳のわからん歌」に意気消沈。

思わず「ちょっと待てちょっと待てお兄さん」

摩耶山の半分はラッスンゴレライでした。なんのこっちゃです。


 

摩耶山から六甲ガーデンテラスでは痙攣で何回か止まったり、歩みを繰り返します。

練習ではこういった痙攣等が起こらないのでかえって不思議です。

六甲山最高峰からほとんどが下りです。

階段が少なくなってからは脚も戻っており、トレイルコースでは快調に今までの遅れを挽回しました。

ただ下りで着地したときに小石をふんずけて脚がグキッと音がなりましたが、何とか痛む脚も歩を進めるのには影響はなく最後の塩尾寺の舗装道路に出て来た時は安堵しました。

そこから数百メートル無事にゴール出来ました。

着いた時間は午後440分。

走行時間は10時間52分。

実はこのタイムは大変早いそうです。

こんな身体でよくも歩けたと思っています。

 

それと同時開催していました日本センチュリー楽団との共演リトルカメリアの新人賞を獲得した4名のパフォーマンスは最高の演出と音楽が大変良かったと聞いています。

オペラと交響楽団とのコラボなどなかなか聞けません。参加された皆様は全員絶賛されていましたので間違いなく魅了したのだと思います。




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しかも1000円の費用だけ。
朝日放送の堀江アナに感謝です。

受付       5;48
菊水山下    8;59
大竜寺前    10;46
六甲最高峰   10;41
塩尾寺下ゴ-ル 16;40

少しの反論

下記の文章に賛同される人も沢山おられることも承知します。だがそうなんでしょうか?
私は大変疑問に思っています。

それは何故なのか?

それを解き明かすのも私の役目であると思います。
それではトキさんの下記の文章のどこが疑問かいいます。その前にその長い文章を掲載させていただきます。

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2319トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/02(月) 19:52:35 ID:jSVYHy7Y
 新「生命の実相」に関して、ある閲覧者様よりメールでご意見を頂戴しました。

 事情により、直接のご投稿を希望されないので、ご本人の了解を得た上で、メールの内容を
管理人が敷衍して書きます。もし、表現におかしい部分があれば、管理人の理解不足
によるものでありますので、元の筆者様には責任がありません。
 
 その場合は、深くお詫びします。

 内容については、管理人は出版業界の事情について、性格な情報を知らないので、
ご質問について、管理人は返答ができない場合があります。

あらかじめご了承ください。

 また、以下の文章の内容は、管理人の意見とは合致しているとは限りませんので、あらかじめ
ご了承ください。さらに、管理人は、このメールの筆者の身元を知りません。関係者であるか、
そうでないかも含めて、コメントができません。

 その点も、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人 謹告
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以下は、メールの内容を管理人が書き直した文章です。

(つづく)

2320トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/02(月) 20:00:19 ID:h2PpoQvI
 この掲示板をご覧の方の大多数は、出版のお仕事をされていない人が大多数だと思われます。

 従って、本の出版がどれほど手間とお金がかかるか、また、流通にもコストがかかるかをご存知ない
まま、光明思想社を批判されていると思われます。私(メールの筆者)は関係者ではないですが、
不当に光明思想社が攻撃されているのを見るに忍びず、管理人様にご意見を申し上げます。

 まず、知ってほしいのは、本の出版には大変なお金がかかる、という事です。
大手の出版社が出す新書版の本ですら、一冊出版するのに150万円程度のお金がかかります。
毎月、何冊もの本を出版する会社ですら、それだけかかります。

 試しに自費出版などでは、これだけかかります。ご参考にご覧ください。

「A5判、200ページの本を1000部作ると仮定した場合、全ての原稿を自分で書き、ある程度ライターの手を入れ、写真やイラストなども自分で用意した場合、大体200万円程度が費用の一つのベースになると思います。」

http://www.jihishuppan.com/guide/method.html

(つづく)

2321トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/02(月) 20:03:32 ID:jSVYHy7Y
 次に知ってほしいのは、

「(本の)ページの増減は費用に大きく関係しますが、部数は減らしても金額はたいして変りません。」

ということです。それを知った上で頭注版「生命の実相」をご覧いただきたいのですが、例えば、
第38巻は197ページ、第40巻は231ページと全巻がページ数が異なります。日本教文社版では、
第38巻は1028円、第40巻は1037円とほとんど価格に反映されていませんが、これを一から
出版するとなると、価格の差はかなり大きくなります。しかも、40種類の本を出版する必要がある
のです。全巻ものの場合、価格は平均化させる必要があります。

 大手の商業出版社なら、それも可能かもしれませんが、出来たばかりの 光明思想社の場合、それは
かなり難しいです。資金計画もそれほど余裕がありませんから、大変です。設立されたばかりの会社
ですから、印刷会社や製本会社への支払いも、手形など受け取ってくれるはずもないですか
ら、おそらくは現金払いでしょう。しかも、全巻を出版する信仰上の義務があります。

 あと、出版だけでもお金がかかるのに、流通にもお金がかかります。取次や書店にもお支払いの
必要があるのです。とは言え、本の価格はある程度の範囲内に抑える必要があります。

 そうなると、編集者としては、従来の頭注版「生命の実相」を再編集し、40巻を65巻にして一冊当たりの
単価を普通の人でも購入可能な価格にした上で、ページを平均化し、価格も平均化するしかないので
す。

(つづく)

2322トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/02(月) 20:10:44 ID:jSVYHy7Y
  こう書くと、「でも、日本教文社ではできたではないか?」と反論をする人がいるかもしれません。

 そこで、皆様に考えてほしいのは、頭注版の生命の実相が出版された当時、谷口雅春先生はご健在
であり、組織も磐石であるので、当初から多数の部数の販売が確実だった点です。資金計画について、
関係者が悩む必要はなかったと思われます。また、谷口雅春先生のご指導により、本の価格なども抑
える事が可能だったのです。

  さらには、過去、聖典の印刷や製本は、合資会社 光明社という自前の印刷、製本をする会社を生長の家
教団は持っていた点も重要です。当然、コストの削減に貢献したでしょう。

 現在の教団は、ここまで凋落しても、評判のよくない、信徒が読まない本を多量に出版して、そのくせ、行事の
テキストに指定するなどの手法で、信徒に購入を強要する事が可能です。光明思想社はそうはいきません。

 また、教団側はもちろん、本流復活派の人たちの間にも、信仰上の理由から、この新「生命の実相」を批判
する意見があります。私は関係者ではないので、編集者の考えは推測ですが、編集された方もその点は
十分に承知の上、しかし、聖典を出版するという義務があるので、やむなく、再編集という形での出版を
やらざるを得なかったのではないか、と想像をしています。

  つまり、この新「生命の実相」の再編集は、何も尊師や教えを曲げる意図は全くなく、あくまでも技術的な
理由で行われたものであり、その点を理解してあげてほしいと願うものです。

  その上で、信徒の皆様や関係者の皆様は、編集者や関係者への温かい対応をお願いしたいと思います。

以上。

▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼

この編纂をされておられる光明思想社は出版関係のプロの集団であります。
日本教文社を辞めておられる人からの指導もあります。
実際『生命の實相』を出版されるのにどれだけの費用がかかり、どれだけ大変かは熟知されておられます。
だから今更トキさんより指摘されることは知っておられます。だから今更大変なんだと関係ない人が指摘しても根底の問題が異なるのです。
他人から大変ですといわれていも「ちっとも」嬉しくない。それより寄付でもして欲しいというのが現実であります。
しかし、上記の文章ではどこを編纂しなければならないかを書いていないのです。
字を大きくするなどは編纂でもなんでもありません。
また、旧仮名遣いから現代仮名遣いに変更しても題名を変更するようなことはあまりしません。
たとえば、内容は変更しないで「題名」を変更している場合は多いのです。
『生命の實相』の場合は区別の為いろんないい方をします。
頭注版や愛蔵版や新修版や豪華版など様々ないい方をしています。
だが「新編」とはなかなか言いづらいのです。前回に書きましたように版が異なるのではなく「編纂」しているのであります。『新編 生命の實相』の責任編集として「谷口雅春著作編纂委員会」とあります。

内容をみるとたしかに編集ではありません、編纂して編集しているというのが正しいいい方であります。
そこには編纂する人の意思があります。

しかし編纂する場合は古代学術のようないろいろな資料を集めて見解を述べるというのが編纂であります。
それを大要をまとめていくのでいろいろ変えていくのであります。

たとえば、歴史的仮名遣いを改める場合は多くの書物はタイトルを変更しない場合が多い。
また、旧漢字などを改める場合も同じなのであります。

連隊という言葉がありますが、現在では「連隊」と使用していますが、旧漢字だと「聯隊」であります。
「連」と「聯」では字源が異なります。それを無理やり引っ付けているのが現在の言葉であります。
全く異なる言葉を無理やり引っ付けているのが、現在の言葉でありますから意味が通じない場合があります。

例えばですが「芸」という言葉ですが、旧漢字では「藝」です。たが全く意味が異なる感じを合わせているのが現実であります。
不思議ですが「藝」は「たがやす」という意味なのです。云ということばが同じですが辞書を引いてもらえばわかりますが「藝」は植物を植えるとかいう意味なのです。
そして「芸」ですが、雲という字と同じような意味があるのです。

エ!と思われたら。その人は通常の思考です。中国ではと書きます。

日本には「芸」という字がもともとありました。奈良時代に日本で最初の図書館といわれるのが「芸亭」(うんてい)です。
云は古くから日本にあった言葉なのです。だから「藝」を無理やりに「芸」と書き改めているのが戦後私達が教えられた漢字なのです。

「うん」というのを辞書で引きますと

雲、云、吽、运様々ありますが

谷口雅春先生はそうした言葉を靈學的に解釈されておられるので現在仮名遣いでは意味が合わなくなるのです。
ウでは内に潜んで、今から発する言葉が「ウ」です。外部へ
発する最初の聲。「ウ-ム」というのは「今」雅に外陰
へと出産する女性が力む聲が「ウ」なのですとお説き頂いています。


だからこそ「言葉」いうのを大変意識されたのであります。
そのため歴史的仮名遣いから現在仮名遣いに頭注版が変更されたことに雅春先生は反対されたのであります。

尊師の気持ちを蔑ろにするのではないといわれても、少し違うのであります。




人間は自然と一体とは感じたことがない


唐松模様から抜粋します。
2015年1月31日 (土)

ていねいに生きること (5)

銀世界が広がる周囲の景色はまことに美しいのだが、私はそれを眺めて歩く余裕がまだあまりない。すぐに滑って転倒する危険がある。だから、足元の雪の状態とその色や形状を観察しながら、路面の凍っていない箇所を選んでソロリソロリと足を運ぶのである。こんな時、人間が2本足であることのデメリットを切実に感じる。足元の雪には、よく足跡がついている。その形から、シカだったり、イヌだったり、ネコだったり、別の人間だったりが、自分と同じ場所を歩いていることが分かる。そんな時、彼らへの親近感を強く覚える。なぜなら、彼らも滑らないように氷の上を避け、柔らかい雪の上を選んで歩いていることがよく分かるからだ。「獣道」という言葉があるが、凍結した山道では、獣も人も同じ経路を歩くから、自分は同じ動物だと強く感じる。が、四ツ足の彼らは滑っても転ばないが、2本足の自分は滑れば転倒してしまう。 

Snowyroad2  これを防ぐのが2本のストックだ。このおかげで人間は四ツ足の彼らと対等になる。--凍った路面にストックを突きながら歩いていると、本当にそう感じるのだ。自転車に乗っている時は、こんなことを決して考えない。動物の足跡の中に、滑った痕跡がある場合がある。そこは「要注意」の印だ。車が通った後には轍が残るが、そのスノータイヤに刻まれた溝の後がまだ鋭角状にハッキリ残っている場合と、一部溶けて角が丸くなっている場合を素早く見分ける必要もある。前者は安全、後者は危険の印である。新雪の中を行く場合は「まだいい」と書いたが、これは比較的安全という意味である。あくまでも「比較」の問題で、凍結した坂道の上に新雪が積もっている場合は、氷の表面よりも滑りやすいことがある。こんなときは、ふかふかの雪を被った路面を見て安心せずに、前日、その坂道のどこが凍結していたかを思い出して、その場所を避けて歩くことにしている。
   
****************************************************************

私は山道でストックもしくはポ-ルを使用することがあるが、そんなことを感じたことがない。つまり、四足と対等など感じたことがないのです。どういう感覚でそういうことが感じられるのであろうか不思議です。

それより、スパイクやアイゼンを使用したほうが断然便利であります。
また、氷上ではアイゼンで通勤されたほうがいいのではないか。
でもそこまでして何故八ヶ岳にいくのでしょうか。

私はこういう発言が「生長の家」そのものを貶めていることをわからないのであろうか?
「人間神の子」の教えも吹っ飛んでしまっている。

また「人間は自然と一体だという考え」も人間神の子の教えも通じない。

つまり自然というものはある時は「人間」の生命も奪ってしまう驚異も感じる。また雪崩、洪水、地震、津波など恐怖を感じる対象でもある。
それと一体化を感じてどうするのでしょうか。

私は山道を歩いて自然の景観には神秘性すら感じるがそれはこうしてアドベンチャーのようなことをしているからそう感じるだけであって、決して自然と一体など感じたことがない。

それならば何故、自然は人間の生命を奪うのであろうか?

昨日も山道でリスと遭遇している。鹿の足跡や猪の地面を掘り返している跡をよく見かける。
また獣道など通ることもあるが、ここを人間が通ることは人間が無理やり作った道を獣が通るしかないのである。
そう考えると人間とは自然を破壊して建物を立て、道を舗装し、自然を破壊し、通勤を獣道を通るようなことをしている。
そんなことしていて、どうして自然と一体なんであろうか?

私は生長の家の教えをねじ曲げようとする雅宣総裁の心境がわからない。

六甲全山縦走大会に参加します。

3月8日は兵庫労山主催の六甲全山縦走大会です。
出場するからには必ず完走したいと思っています。これだけ練習したのだからというのは長距離では通用しないことはわかります。
だから常に気持ちは揺ぎます。でも挫けずには頑張りたいと思っています。

長距離をこの年齢で挑戦しますからには常日頃の体幹はたいせつです。最近はその体幹という言葉が書店では賑わしていますが、脚で歩くというのは初期の頃です。最近は身体のブレが少ない歩き方を心がけています。

それが崩れると、転けたり、すべったりすることが多くなります。
危険を伴うこともあります。危ないことはありますが、身体が萎縮すると反対に危険なことがあります。
恐れずに挑戦していきます。

先日の箕面駅から嵐山駅まで行程時間が10時間8分まで短縮したのも頑張れる心が出てきたのだと思っています。まずは10時間を切ってから、次に挑戦していきたい。
とりあえず六甲全山縦走大会頑張ります。


http://www.nextftp.com/hyougo-rousan/front-page/49-zenjyuu-bira.pdf


http://www.city.kobe.lg.jp/culture/event/rokko/


上記は神戸市主催の六甲全山縦走大会です。

『生命の實相』を日本教文社で発行するという意見

最近このような文章が掲載され話題をよんでいる。
但し、私は下記のような意見とは異なります。
『生命の實相』の出版を日本教文社が発行すること自体、考えられないことでありますし、こういう意見そのものが成りえない事であるので想像するのも難しい。
それなら、発行する所が沢山ありますのでそういう所に発行を依頼するほうがより確信がもてる。

私の意見は編纂するということの考えであります。
現在の『新編 生命の實相』というのは編纂しております。
何故編纂しなければならないのか?
であります。

皆様が夏目漱石の『吾輩は猫である』を編纂したものを夏目漱石として読むかどうかであります。
谷口雅春先生の書物を勝手に編纂したものを『生命の實相』として発行するのは果たして『生命の實相』
とよべるかどうかであります。
そのために『新編 生命の實相』と前に新編、つまり新しく編纂した文章なのであります。
文章内容を変更しなくても、文章を前後を編纂するだけで内容や読み取りも異なります。

現在の頭注版 『生命の實相』でも歴史的仮名遣いを現代仮名遣いにしたときに谷口雅春先生は嘆かれたと言われます。
それはいいようにと思って編纂された人には谷口雅春先生の御意向を理解できていなかったので嘆かれたのであります。それでは「言霊」を理解されておられない編集者にとっては、それがいいと思って編纂したのかもしれないが、言霊では理解されていない人にはなかなかわからないのかもしれない。
文章の前後や骨格を変更するということはその内容を変えるということを。

たとえば「宇治」という地名がありますが、その語源は「うぢ」なのであります。「うぢ」はもともと「内」であり、その地形が宇治橋から見るとわかるのですが、「内にまとまっているような地形」なのです。山科からは比較的盆地となり山科川を沿えば比較的に楽に行けます。それ以外は山を越えて来なければならない地形であります。山科までの道はどうであるかですが、天智天皇陵のある道は醍醐道でありますが、昔は深く険しい道だと想像できます。
奈良街道の道までくれば比較的に楽に宇治へ行かれます。
それが「宇治」となると語源がわからなくなります。

「言霊」の大切さは昔から谷口雅春先生は説かれています。
その「言霊」というのを理解出来ない谷口雅春著作編纂委員会のメンバ-が勝手に編纂したのは、私には理解出来ない。
私の意見に賛同して下さる人は多い。

また、私は光明思想社で発行するのは正しい道であると思っています。

『新編 生命の實相』を発行する前にそうした心配をしたのにも関わらず、私のブログでも反対意見を述べたのに強引に発行してしまったことを悔やんでも悔やみきれない。
こんな問題が起ることを警鐘したのに残年であります。

そうしたことを予想出来ないのであるならば致し方ありません。



物化を止めよ
 (6932)というのは
日時:2015年02月26日 (木) 17時47分
名前:上州の風

裁判で『生命の實相』の著作権が生長の家社会事業団に帰属することを認められたのは理解できる。だからと云って日本教文社から出さないと云うのは全くの筋違いである。

『生命の實相』を広めると云うことを第一に考えれば、日本教文社と光明思想社の両方から発行しても良いはずだ。社会事業団は何故それが出来ぬのか。左様なことをすれば光明思想社が儲からぬではないかと云うのなら、それは我欲以外の何物でもあるまい。

社会事業団よ、人類のため『生命の實相』『甘露の法雨』の私物化を速やかに止めよ。

飲食をなす時の祈り

飲食をなす時の祈り
食事のときには、「神の生命と愛とが食物の形となって我に栄養を与え、我が生活をして神の栄光をあらわさしめ給う」と念じて食せよ。飲料をとるときには「わが過ちて人を憎み、恨み、憤りたる罪をこの飲料にて洗い流し、再びかかる罪を繰返すことなきしるしとしてこれを飲む」と念じて飲むが好いのである。不平や不快や、憤り、恐怖を感じながら食物をとることは唾液の中に毒素をつくり、それを服んでいると同じである。食事は不味くなり消化不良となり、身体を不健康にするのである。
谷口雅春先生
一日一話(364)

大切な友人に頂いた『やまと新聞』から掲載しました。

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