先日、以前に行ったことのある、石田梅岩の生誕地へ脚を伸ばしました。
京都の亀岡の地ですが、大阪よりにある長閑な農村にあります。京都へ抜けようとすると一つの大きな山を超えなければなりません。それでも京への道は比較的に容易な所です。
石田二郎さんという表札がかかっています。
先祖代々連綿としてこの地を守っておられるのです。
私は不思議なのはどうしてこの亀岡の辺鄙な場所で心学というのが生まれたのであろうかであります。
京都の亀岡といえば「大本」ですが?
さてそれよりも亀岡という地は
出雲神話で有名な「大国主命」が亀岡と嵐山の間にある渓谷を切り開いて水を流し土地 を干拓して、切り開いた渓谷を妻神「三穂津姫命」の名前にちなみ、保津川・保津峡と 名づけた、という伝説が残っており、出雲大神宮の祭神となっています。
その出雲大神宮が丹波一之宮としてあります。また近くには国分寺跡もあり、旧跡や古墳もあります。
また稗田阿礼の名前の稗田野という地名があります。
今回そうした場所にも寄りました。
考えてみると亀岡という地は魅力のある所だといえます。それではそうした石田梅岩という人物を輩出した要素というのがこの亀岡という地にはあるのではないかと思います。
すいませんが「ねずさん」から抜粋いたします。
松下幸之助といえば、商売人の神様とまでいわれる人ですが、その松下幸之助が生涯にわたって学びかつ尊敬した人がいます。
それが石田梅岩(いしだばいがん)です。貞享(じょうきょう)2(1685)年の生まれの、江戸中期の人です。
京都府亀岡市の出身で、名前は興長で、通称は石田勘平といいます。
「石門心学」と呼ばれる日本の商人道の開祖です。
石田梅岩が「都鄙問答(とひもんどう)」を著したのは、元文4(1739)年のことです。
元禄バブルが崩壊し、有力商人が相次いで追放や財産没収となり、世の中が不況に沈んだとき、石田梅岩は、「商人の売買は天の佑け」「商人が利益を得るのは、武士が禄をもらうのと同じ」と述べて、商行為の正当性を説きました。
■自分が儲かり、相手が損をするというのは本当の商いではない。
■お客様に喜んで、納得して買ってもらおうとする心を持って、商品には常に心を込めて気を配り、売買して適正利潤を得るようにすれば、福を得て、万人の心を案ずることができる。
■商人の道を知らなければ、むさぼりによって家を滅ぼす。商人道を知れば欲を離れ仁の心で努力するため道に適い栄える。
こうした教えを商人の道とした、いわば先駆者となったのが石田梅岩です。
石田梅岩は、農家の次男坊の生まれです。
昔は長男があとを継ぎますから、次男坊以下は家を出なければなりません。
梅岩は11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て働きました。
働きながら、梅岩は、いつも「なぜそうなのか」、「どうしてそうなっているのか」と、小さな頭で一生懸命、物事の本質を理解しようとしたそうです。
「どうして? どうして?」と聞いてまわる梅岩に、奉公先の人々は、「いちいちうるさい」と叱ったり、煙たがったりしたそうです。
店主から「おまえは理屈っぽい」と言われてへこんで、なんとかして自分の理屈ぽい性格を改めようと努力した、などという逸話も残されています。
石田梅岩は、後年、江戸時代を代表する市井の大学者となる人ですが、子どもの頃はひどい吃(ども)りだったという説もあります。
なるほど吃りの子供は、人との会話について行こうとしても、のど元に言葉がひっかかって声がうまく出ません。
ようやく言葉が出る頃には、話題は先に進んでいてタイミングがずれるので会話についていけません。
なので、吃りの子供は、一生懸命に、「なぜ、どうして」と考える傾向があるといいます。
もっとも考えるといっても、まだ幼くて知識が足りない頃には、不完全な解釈しかできません。
不完全な解釈は崩壊しがちですから、再びまた深く考えなければなりません。
そうやって、いろいろな物事をなんとかして解釈しようとする。
そんなふうに育つことが多いからです。
幼いころの梅岩は、一生懸命奉公し、休みの日も持たずに働きどおしでした。
ところがその奉公先が倒産してしまいます。
給金ももらえない。
やむなく梅岩は、23歳のときに、いったん実家に帰ります。
けれども家に帰ると、梅岩は、いい歳した居候(いそうろう)のゴクつぶしです。
男というものは、仕事をなくすると、自分が世の中の役に立たなくなったような気になるものです。
周囲がいかにやさしくしてくれたとしても、自分で自分がゴクつぶしでいることに耐えられない。
梅岩は、職を求めて、再び京都へ出ました。
そして呉服商の大店(おおだな)の黒柳屋に奉公することになりました。
いまでも大きな会社では、プロパーと呼ばれる新卒から入社した人たちと、中途採用者の間には、微妙な違いがあります。
丁稚時代から働いている(新卒入社の)プロパー社員は、同じ新卒者同志に共通する同期生としての心情的な結束があります。
ところが中途採用者には、同期と呼べる仲間はいません。
そして、特に請われて入社したのでもなければ、あまり出世は見込めない。
昔も今も同じです。
そんな中にあって梅岩は、休みもとらず、外に遊びに出ることもせず、ただ黙々と真面目に働きました。
梅岩があまりにもまじめに働くので、奉公先のおばあさんが、
「たまには外に出かけてみたら」と夜遊びをすすめた、という逸話も残されています。
普通は、勤め先の、それも女性が「夜遊びに行きなさい」とは言いません。
それほどまでに梅岩は、ただただ真面目に勤めあげていたのです。
そういう生真面目な姿は、真面目すぎると不興を買ったりもしますが、長い年月のうちには必ず高く評価されるものです。
梅岩は、中途採用者であったにもかかわらず、番頭にまで昇格しました。
それは、店を取り仕切っていた女主人の臨終の床での言葉にもあらわれています。
「勘平(梅岩)の将来を楽しみにしていたのに、それを見ずに死ぬのは残念だ」
梅岩は、そこまでお店から信用され、信頼される人間に育って行ったのです。
ところが、休日もとらずにただ真面目に働き続けた梅岩なのに、彼が出世したとなると世間には、根も葉もないことを言う者があらわれます。
「勘平(梅岩)は、この家を乗っ取ろうとしている」
「勘平(梅岩)は、ゴマすり男だ」等々です。
まあ、普通に考えて、ただただ真面目一本やりのカタブツで、しかも理屈っぽいとなれば、あまり仲間たちから好かれるタイプではないかもしれない。
普通ではありえない出世をしたとなれば、陰口を言われるのは、いつの時代も同じです。
人は、喜びも悲しみも、人と人との関係の中にあります。
仲間がいれば、喜びは二倍になるし、悲しみは半減する。
けれど、その仲間たちから煙たがられるということは、孤独です。
彼は、そんな孤独を癒す心の支えのために、暇をみては、神道や、四書五経などを学びました。
そうしていつしか梅岩は、「自分とは何か」、「人はいかに生きるべきか」などと、真剣に考えるようになっていったのです。
早朝、仕事が始まる前に、夜明けの薄明かりの中で窓辺に向かって本を読みました。
夜も、みんなが寝静まった後に、一生懸命本を読みました。
そして考え続けました。
ときは元禄時代です。
元禄というのは、江戸時代全体を通じて、もっとも経済が発展した時期です。
とりわけ商業の中心地であった関西は、経済がもっとも華やかで、商人たちは好景気のもとで、まさにバブル前のような豊かさを満喫していました。
有名な大阪の淀屋辰五郎が出たのも、この時代です。
淀屋辰五郎は、室内の天井をガラス張りの水槽にし、頭の上で金魚が泳ぐのを見て楽しんだそうです。
そんなことができるほどの巨利巨富を得ていたわけです。
そしてあまりに贅沢三昧をしているということから、幕府よって闕所(けっしょ)という財産没収の処分を受けました。
このとき淀屋辰五郎が没収された財産がすごいです。
金12万両、銀12万5000貫(小判に換算して約214万両、現在の金額に換算して約1300億円)、北浜の家屋1万坪と土地2万坪、その他材木、船舶、多数の美術工芸品、さらに諸大名への貸付金が銀1億貫(現代の金額に換算しておよそ100兆円)です。
これが個人資産です。
いったいどれだけのお金持ちだったかということです。
贅沢は禁止となり、八代将軍徳川吉宗の時代になると、享保の改革(きょうほうのかいかく)の倹約令によって、経済はいっきに減速しました。
もともと元禄バブルが崩壊して経済が失速していたところに、増税を行い、さらに徹底した緊縮財政を行ったのです。
いまでいったら、デフレーションが起きたのです。
これによって徳川家の家計はある程度回復するのですが、国の経済は破綻状態となります。
すこし脱線します。
これは三橋貴明さんの受け売りですが、経済というのは「経世済民(けいせいさいみん)」を略した言葉です。
経世済民こそが国家の政策の根幹であり、国の政治の目的です。
国は、企業ではありません。
企業は利益を目的としますが、国は利益を目的としません。
なぜなら、民が豊かに生活できるようにすることが、国の役割だからです。
ですから企業が行うのは「経営」です。
経世済民(経済)は国の仕事です。
ですから企業に「経済」はありません。
問題は、江戸社会です。
徳川家は、武門の棟梁であり、将軍家であり国の政治を司りましたが、徳川家そのものは「家」です。
入りを増やし、出を制して資産を殖やし、家を存続させることが家の目的です。
つまり家が行うのは、「家計」であって「経済」ではありません。
「家計」には、「経世済民」という目的はありません。
あくまでも自分の家の保持が目的です。
享保の改革の問題は、この「家計」思考を、国政に持ち込んだところにあります。
つまり、家を黒字化させることを目的にしたわけです。
ですから年貢を増やし、支出を削りました。
ところがこれをやると、年貢を増やされ(増税)、公共工事などの財政出動(歳費削減)が押さえられるので、結果、国にお金がまわらなくなり、経済は一気に沈滞化します。
ただでさえ、景気が悪いところへ、享保の改革なんてやられた日には、日本経済は急ブレーキを踏んだ状態になって失速します。
つまりデフレが起きたのです。
ところが、経済の失速を招いたはずの将軍吉宗や、その改革のお手伝いをした大岡越前などは、いまでも庶民の間にたいへんな人気があります。
なぜでしょう。
理由は明確です。
質素倹約を目的とした享保の改革ですが、後半においては、いちど吸い上げて徳川家を富ませた経済力をもって、吉宗将軍の時代に、新田開発や治水工事などの大規模公共工事(土木工事)が盛んに行われたのです。
まさに大規模財政出動です。
そして1716年にはじまる享保の改革の最後の仕上げが、20年後の1736年に行われた「元文の改鋳」でした。
これは、通貨の供給量をいっきに増やすという政策です。
つまり、国内に膨大な現金を流布させたのです。
これにより発生したのが、「リフレーション(通貨膨張)」です。
これによって、糞詰まりになっていた享保年間のデフレが弾け飛び、折からの開発した新田からの大量の食料供給も相俟って、国内の景気がいっきに上昇し、みんなが腹一杯食える時代が到来したのです。
そして世の中は、文化文政の江戸文化がもっとも江戸時代らしく華やかに花咲く時代となったのです。
だからこそ、吉宗にしても、大岡越前にしても、いまだに庶民の味方として、いまだに評判がよい。
ちなみに、享保年間というのは、20年続くのですが、この20年間、江戸の伝馬町の牢屋には、罪人がひとりも収監されませんでした。
牢屋にはいる罪人が、ゼロ人だったのです。
つまり、悪いことをする人がいなかった。
それだけの素晴らしい治安が実現できたのも、享保年間でした。
いまの時代は、バブル崩壊後の出口の見えない長引く不況の続く時代であり、なぜか犯罪が多発している時代ですが、私たちは、もっと歴史に学ぶ必要があると思います。
さて、「元文の改鋳」が行われた少し前の享保20(1735)年のことです。
世の中は不況に打ち沈み、幕府は改革と称して次々に政策を出すけれど、一向に出口の見えないデフレに、まだまだ国内が沈んでいた頃、石田梅岩は、曹洞宗の禅坊主の小栗了雲(おぐりりょううん)と出会いました。
そして小栗了雲の影響を受けた石田梅岩は、長引く不況に沈む世間の中で、「自分にできる何か」を真剣に考え続けました。
そして彼は45歳で店を辞め、京都の高倉通り錦水路上ルにあった借家で、無料で学問講座を開きました。
享保20(1735)年のことです。
無料講座は、毎日続けられました。
無料ですから、収入なんてありません。
たまに寄付と称して、差し入れをいただけるくらいです。
あとは自分の蓄えからの持ち出しばかりです。
なにせ、「聴講無料、出入り自由、女性もどうぞ」というのです。
人が集まれば、経費もかかります。
けれど収入はない。
実は、梅岩は、その間、蓄えも失って、土方のアルバイトなどもしています。
もともと商人です。
土方仕事は相当こたえたことと思います。
けれど、生来の生真面目さで、彼は愚痴もいわずそれをやっています。
土方をしながらも、梅岩は私塾を続けました。
町民である商人が人として生きる道や、人としてほんとうに正しいことは何かなどについて、儒学や歴史、朱子学、陽明学、仏教、神道など、様々な教えを曳いて、あらゆる階層の人に、その思想を説き続けました。
分け隔てない彼の講座は連日大盛況でした・・・と言いたいところですが、実際には世の中そんなに甘くありません。
生徒も集まらない。
当然、寄付寄贈もあつまらない。
ただ貧乏になっただけではありません。
貧乏なだけなら、食えればいいのです。
そのために土方をすれば済む。
梅岩は、中傷されたのです。
「たかが元商人の農民ふぜいが人の道を説くとは言語道断」、あるいは「石門学は、儒学か朱子学が、陽明学か、仏教か、ただのいいとこどりのインチキ学ではないのか」、また「ただきれいごとをならべているだけの金儲屋」などと、特に先行する様々な学派の人たちから、相当の非難をあびてしまうのです。
そのために一時は多くの生徒が梅岩のもとを離れました。
石田梅岩は、日本に新たな商人道を打ち立てた人です。
商人だから「儲かりさえすれば何をやってもいい」というのではなく、むしろ商人だからこそ、身を律し、襟を正して正しく生きよう、と説いたのです。
けれど梅岩には、問題がありました。
普通、こうした思想的な教えや哲学などについては、かならず師匠を置くものなのです。
そうすることによって、師匠の基盤を受け継ぐことができるし、何か人から文句を言われても、「それは師匠の教えです」と非難の矛先を逸らすことができる。
ところが、先駆者となって、新しいことを始めると、既存の勢力から敵視されるし、反対勢力からも敵扱いされます。
つまり、どこまで言っても、いいことを言われず、師匠がいる場合の何倍も苦労しなきゃならない。
まさに孟子の言う「天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降(くだ)さんとするや」、肉体的にも精神的にもこれ以上ないほど、追いつめられるわけです。
彼は、さかんな中傷によって内心を苦しめられたというだけでなく、ときに食うために過激な肉体労働生活を送り、体力を使い果してもなお、講義を続け、ときには餓えに苦しみ、生活は極貧暮にまで追い詰められ、それでも道を説き続けています。
ある日、講義の出席者がたった一人という日があったそうです。
その受講生は、恐れ入って帰ろうとしました。
梅岩はそれを押しとどめて、こう言ったそうです。
「私はただ机に向かってひとりで講義することもあります。君が一人がいれば、それだけで十分です」
それが、梅岩の覚悟というものでした。
梅岩は、真っ正直に、ただひたむきに、毎日講義を続けました。
実は、このひたむきな姿勢こそ、まさに石門心学の原点といえるものです。
石田梅岩は、60歳で生涯を閉じました。
彼が私塾を開いてから、わずか十五年です。
その石田梅岩が、最初の本「都鄙問答(とひもんどう)」を著したのが元文4(1739)年のことです。
それは彼が私塾を開いてから、まる4年が経ち、5年目にさしかかろうというときのことでした。
それまでの世の中の常識にない、新しいことをしようとしたとき、天がその訓練のときとして最初の苦難を与える続ける期間は、およそ5年というものなのかもしれません。
石田梅岩の石門心学は、彼が亡くなるまでに多くの子弟を育て、彼の死後も日本の伝統的な商人の在り方として定着します。
そして日本の商人は、士農工商の身分制度上、もっとも下位に置かれながら、石門心学という学問を経て、武士道精神同様の高い精神性を持つ「商人道」となって、江戸時代を駆け抜け、明治大正を生き抜き、そして松下幸之助を育て、日本の近代化に大きな貢献をしたわけです。
もし、江戸中期に、「嫌われ者」の石田梅岩(通称・石田勘平)が現れなければ、日本の商人は、というより、現代社会の日本企業は、これだけ世界から信頼される企業にはならなかったかもしれない。
正しいと信じたら、それが人の道に外れていないと信じる道ならば、なにがあっても、信念を貫き通す。
それが日本人の生き方なのかもしれません。
梅岩の教えです。
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1 学問は、人生を悔いなく生きることを目的として学び修行するものである。
2 「学ぶ」ということは、「あるべき」日常生活を知ることである。
3 商家は、家業を続けることで、天下の泰平を助け、万人の福祉に奉仕するものであり、それが商売の本質である。
4 世間の人々は、自分の利益だけを考え行動するのではなく、相互扶助、相互信頼の心をもって暮らさなければならない。
5 相互信頼の心がけは、心学社中の相互間だけでは駄目で、その思想を社会のありとあらゆる人々にたいして働きかけなければならない。それが行動であり、その行動は勤勉、倹約、布施という形をとる、
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梅岩の著書の「都鄙問答」です。
この本は、元文4(1739)年、梅岩が五十五歳のときの刊行ですが、それから明治維新まで、なんと百三十年間にわたって版を重ね、明治以降も十四種類が公刊されています。
アメリカの社会学者ロバート・ベラーは、「TOKUGAWA RELIGION」という本の中で、有色人種国家で唯一近代化に成功した日本の成功の要因を分析し、そこで石田梅岩の石門心学による影響を、非常に大きく取り上げています。
そこい紹介されている石門心学の理念です。
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商売の始まりは、余りある品と不足な品とを交換して、互いに融通しあうのがものである。
そのためには、正確な勘定と正直な取引が必要である。
良い品を、適正な値段で売れば、買い手も安心し、売り手と買い手の相互の信頼が生まれる。
それだけでも住みよい世の中になる。
だから正確、正直な商売をして大いに儲けることは、欲心ではない。
(中略)
人を騙して儲けるのが商人ではない。
商人は、右のものを左に移しただけで利を取る者ではない。
商人が利益を得るのは、武士が禄をうけるのと同じで、「売利ナクバ、士ノ禄ナクシテ事フルガ如シ」であり、売利を得るには、心構えと基準が大切である。
心構えとは、品物の品質と値段に「真実」を尽くすことであり、買い手の身になって売る思いやりが、商人にとっての真実であり、この「真実」こそが商人の生命である。
商人が悪いというならば、百姓か職人に転業する他はあるまいが、「それでは財宝を通わすものなく、天下万民が難儀する。
すなわち、一家を治めるのも、一国を治めるのも、仁をもととし、義を重んじなければならない点ではおなじなのであって、商人も、ささやかな仁愛を捧げ、国の役に立つことが本義である。
飢えた人を救うのは人の道であるけれど、商人もまた、その心がけがなくてはならない。
商人に俸禄を下さるのは、買い手であるお得意様なのだから、商人はお得意先のために真実を尽くす。
真実を尽くすためには、「倹約を守って、これまで一貫目かかった生活費を七百目で賄い、これまで一貫目あった利益を九百目に減らすよう努める。
贅沢をやめ、普請好みや遊興好みを止めれば、一貫目の利益を九百目に減らしても、家は立派に立っていく。
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昨今、論説というのは、別な書物からの引用が示されなければ、論説の名に値しないとまで言われます。
けれど、これには大きなパラドックスがあります。
どういうことかというと、日本の真実を書いた戦前からの書籍は、GHQの焚書によって、世の中から姿を消しているからです。
つまり、左翼版の本しかない中で、引用文献が明示されなければ論に値しないと言うのなら、左翼に偏向した論説しか世の中に出まわらない、という筋書きができてしまうのです。
以前私は、GHQによって焚書処分になった本を所蔵している方に、書庫を見せていただきました。
そこで置いてあるたくさんの本を開いてみて、驚きました。
そこには、引用文献なんてありません。
そうではなくて、学者(著者)その人が、現地へ行って、自分の目と手足で調査してきたことを、一次史料として書にしているのです。
また、戦争や思想を書いている焚書本も、拝読しました。
そこに書かれていることは、引用ではなくて、その学者(著者)自身が体験し、感じ、調べた驚くべき事実が書き連ねてありました。
それは誰かの引用ではなくて、その著者の実体験そのものだったのです。
これを見たときに、思いました。
真実というものは、どこかに書かれていることではなくて、自分でつかみ取るものなのだと。
石田梅岩の思想は、なるほど儒学、朱子学、陽明学、孔子、孟子などのいいとこ取りに見えるかもしれません。
けれどそうではなくて、よく読めば、石田梅岩自身が自分の人生を通じて体験し、彼自身が考え世に問うた学問なのであろうと思います。
日本には、世界に誇る商人道があります。
そしてそこに書かれた商人道は、胸を張って大物顔するようなものではなく、どんな境遇にあっても、日本人として誠実に生きる、そういう生き方の学問であろうと思います。