則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2014年12月

讀んで戴ければ幸甚です。

眞理に「はい」

HONNE様コメントありがとうございます。

私は「学ぶ会」に不信感があります。
それは人の事を平気で悪いことをいうという体質です。
私が本人から直接聞いたので、何故そんなこというのか不思議でしたが、
後で確証がないのに噂でものを言うなとは云いましたが、一番怖いのがそうした
噂話が先行してしまうことです。

しかも多くの人の前でそんなことを言うのであるから、なんのことはない。
私もそんな話は沢山聞きますが、人前では話しません。それは信用していないからです。
自分が聞いたり経験したことのみ話するようにします。それはその人が知らずに傷をつけるからです。

それが「学ぶ会」の幹部ですから唖然です。しかし本人はなんとも思っていないのです。
だからまともに「受ける」と後味の悪い気持ちとなります。

何故そうなるのかというと、社会という泥臭い生活を経験していないからなのです。純粋で喋るから
そのようになるのです。

こういうことを言うと相手を不快になるということを気がつかない。文章ではわかっているんだけれど、頭でわかっているだけなんです。

また、アンタは教団のスパイかと言われたこともあります。
その時に何故そうなるのか不思議でした。疑心暗鬼でものを喋るとそうなるのです。
本当に信用するということは「眞理」を「ハイ」とわかることなんです。

私など天邪鬼ですから、屁理屈ばかり捏ねていますが、それがいけないのですね。

 ただ人前では言わないようにしております。
以前に新編『生命の實相』の発刊がこのままだと二十年かかってしまうと警鐘を鳴らしたのにも関わらず。
悪口ととらえてしまう。
それなら貴方が協力しなさいとなる。

生命の實相が発刊されないという空白の期間が20年という長い期間があって人を救えますか?
それだけなんです。
協力するとはこのブログで書いたのですが、何の返答もない。

だからそんなものなんです。本気で伝道などしたことがないからそうなるのです。
罵声を浴びせられ、塩を撒かれ。散々悪口を言われ、それでも本当の教えはこれしかないという思いがないからなんです。
厳しいが著作権を必死になって獲得したのであるから、それぐらいのことは自覚して欲しい。
雅春先生は戦後直ぐに『生命の實相』を発刊されます。しかもその費用を捻出するために沢山の御揮毫を書かれました。また同時に本部会館建設という資金のいることばかりです。
いかほどに『生命の實相』を出版されたかを著作年譜を書いていて驚くことばかりです。

戦後において『平和版 生命の實相』の刊行の予定がありました。昭和21年『生長の家』誌12月号の5頁に掲載された「平和版『生命の實相』自費出版会員募集」という記事の中で、《唯今最も入手困難で、最も渇望されている、読んで病いが治り、運命が好転する無数の体験例ある(中略)生長の家聖典「生命の實相」全二十巻を、戦時のみに適せる心構の部分を省き、他は悉く完備せる厳密なる著者自身校訂の永遠定本の聖典を実費にて配本せんとする会です。》

『生長の家』誌 昭和22年3月号に「『平和版生命の實相』の自費出版計画も延期の止むなきに至りました」(『明窓浄机 戦後篇』31頁所収)と書かれているように、この平和版『生命の實相』の発刊は実現しませんでした。


しかしその後

◎戦後版 新修普及版『生命の実相』20巻
◎戦後版 新修特製版(見返装丁『生命の実相』20巻
◎『生命の實相』戦後版豪華革表紙 地の巻
◎『生命の實相』戦後版豪華革表紙 水の巻
◎『生命の實相』布装携帯版 (全40巻)
◎『生命の實相』豪華版 (全20巻)(見返装丁)
◎『生命の實相』頭注版 (全40巻)
◎『生命の實相』豪華携帯版 新装携帯版(全40巻)
◎『生命の實相』愛蔵版(全20巻)
◎『生命の實相』復刻版
◎『久遠の実在』復刻版

愛蔵版まではほとんど年数を空けないで出版されています。


それは戦後まもない頃に次々と『生命の實相』を出版されるのです。
それは何故かわかりますか?


今年一年ありがとうございます。

今年一年、いろいろと目標を掲げたのですが、達成した目標もあり、達成しなかった目標もあります。

①トレイルランニングでは箕面駅から嵐山駅まで10時間を切る事を目標にして体力勝負をしていきます。
②来年3月8日には兵庫山岳連盟の六甲全山縦走大会に出席しようと思っています。
③それと抽選次第ですがどこかでフルマラソンに挑戦しようと思っています。抽選にあたるのが難しい。
④鯖街道76kmに挑戦します。
⑤100kmウルトラマラソンを行います。(山道は半分)
⑥仕事と勉強ではSOLIDWORKSの資格受験を受けようと思っています。積極的に勝負したい。
⑦大学受験をしようと思っています。(仕事の関連で時間的制約がありますが、無理しないでいきたい)
⑧天皇陵参拝の安徳天皇陵とその陵墓を散策します。瀬戸内海から島根へ抜ける道に後醍醐天皇の道をゆっくりと散策したい。

例えばフルマラソンとかは時間に制約しなければ完走はできる自信はあります。
それより僕にとり箕面から嵐山の山道52kmを10時間切るほうが大変です。
昨年9月にポ-ルを忘れることがなければ10時間近くになっていました。今まで後半が体力を使いすぎてヘトヘトでしたが、なんとか体力温存と膝への負担など問題をクリアになれば少しは解消出来るように思います。

ただ、二週間何も練習しなければ三週間目に走るのは大変です。今回11月に50kmを超えることを行い、一昨日40kmを歩くと、膝や足裏などが痛くなって大変です。(いくらでも歩けるのですが違和感を感じます)
山道などで段差をゆっくりと降りるようなことをしませんから、膝への負担は大きい)

上記には記入しなかったですが、来年は是非とも東京で亀の子様やK様にお世話になっており、そのお礼を兼ねて訪問させていただきたい。
この一年お世話になり、本当にありがたいことに「谷口雅春先生著作年譜」が大きく前進したことは嬉しく思っています。
これも亀の子様やK様にいろいろ助けていただいたお陰です。ありがとうございます。

また、無茶苦茶な文章でもあるにもかかわらず、読んで頂いています皆様にも心より感謝申し上げます。




無知は最大の罪

知らないということはこういう人間を育成する要因です。
トキ掲示板に



9815変換間違いありで再掲 :2014/12/30(火) 17:37:41 ID:R4YKEcos
>>9813 >>なのに、志恩さん生長の家は そうした創始者の言ったことや 行ったことを 反発する異様な宗教であると思います。

これは君の思い込み、「ひかりあまねく」という信徒手帳には、

生長の家七つの光明宣言、生長の家信徒行事要目、生長の家出現の精神、生長の家の食事の神示、日本国実相顕現の祈り、
生長の家の信条『菩薩は何をなすべきか』より、世界平和の祈り、生長の家家族の祈願及び修養『生命の実相久遠仏性篇』より

が載せられており、宗教法人生長の家環境方針基本認識には

生長の家は昭和五年の立教以来、「天地の万物に感謝せよ」との教えにもとずき、全人類に万物を神の命、仏の命と拝む生き方を広めてきた。生長の家は、
この宗教心を広く伝えると共に、現代的な意味での宗教生活の実践として、環境問題に取り組み、あらゆるメディアと活動を通して地球環境保全に貢献し
未来に「美しい地球」を残さんとするものである。

と書かれていて、それを実践しようとしているが当県の信徒です、どこがおかしいですか。志恩さん 】


生長の家の目的をご存知ではないのは仕方がない。

たとえば、生長の家〇〇年史をどうして発刊しないのかわかりますか?

例えば生長の家には雅春先生が神様から啓示を受けられた神示が33ありますが、生長の家の中核である神示をどうして発禁する必要があるのでしょうか?

それは自分に不都合だから発行、発刊しないのです。
また現在全ての雅春先生の御著書(『生命の實相』『眞理』等を除く)は重版未定という名のもとで絶版です。
雅春先生の意思やその思いは凡ゆる御著書を見ることにより、その真意は伝わります。

自分の不都合な御著書や愛国書といわれるものは重版未定というのは何故だかわかりますか?

雅春先生はいろいろな分野で碩学であり、仏教書においては卓越した能力があります。日本におけるあらゆる仏教書は読破されておられます。
キリスト教においても原文を読まれています。医学書においてもしかりです。
『古事記』『日本書記』においてもしかりです。
若い頃は西洋哲学を主に学ばれ、大本では古典などや大和言葉を学ばれています。

こんな逸話があります。
大本に入信してまもなく、文学を志しておられたので文書力は素晴らしいものでしたので、入信してすぐにそれを見出され編集局に分担されました。
それからまもなく、若き講師として『古事記』などを講話されているのです。
輝子先生はその当時の事を
谷口という青年が講話しているのですが、歴代天皇の名前を黒板にスラスラと書く姿に驚かれています。

だから、一面だけを捉えて、これが生長の家だといっても間違いではないが「生長の家」の全相を把握していないのと等しい。
また、それだけを見てこれが「生長の家」だというのは間違いなんです。

また『菩薩は何を為すべきか』をどうして発刊されたかをご存知ではないので仕方がない。
思い込みというのは貴方であるが、いかしかたがない。そんな雅春先生の御本は見たことのない本ばかりがありますので「群盲象を撫でる(評する)」がごとく、それを正論といえば雅春先生の一面しか捉えない行い方は雅春先生の無門関解釈の第八則の奚仲造車のように車輪のみをみて車としているのに等しい。

焼け火箸の譬えのようにまたフロイトが「無知は最大の罪」いわれたように、知らないのはいいが一度勉強を与えられたと思って少しは勉強したらいい。

「繁栄の秘訣はご先祖様に対する感謝の気持ちにある」

破邪顕正さんがこのようなことを書いている。

【そもそも、世襲制というのは、創始者を大事にするという大前提から生まれてきていると思うのです。

まさか、世襲した人が、その恩恵の源たる創始者を否定することなどありえない!

それを否定することは、自らの出自、拠り所を毀損するにも等しいことだからです。

ところが、谷口雅宣総裁という人は、あらゆる面で、常識を超えた人でありました。

創始者の孫であるということをいいことに、一旦、権力を簒奪するや、その権力を傘に来て、自分の主義主張に合わない創始者を否定してみせたのですから。

こうして、生長の家教団は、世襲制によって創始者が否定されるという、これまでにない悪しき前例を生み出すに至りました。

世襲制が世襲制の大前提を見事に裏切ってみせたのです。

谷口雅宣総裁は、そういう見本として、後世にその名をとどめることになると思います。】

世襲制が別に悪くはないが、長続きがしないということです。日本は世界一の老舗企業なのです。
大阪にある金剛組は大化の改新からあります。578年創業です。

二位はあの有名な池坊華道です。587年
三位は旅館です。西山温泉慶雲館です。705年です。
こうして長く続いたのは多くは先祖に感謝していることであります。

野村進さんが書いた『千年、働いてきました―老舗企業大国ニッポン (角川oneテーマ21) 新書 
以前にこれを読んでなるほどと核心がもてるようになりました。
野村進さんは
(私(著者)はいろいろな人の歴史を研究してみて、1つの真理に達した氣がしている。その真理とは「繁栄の秘訣はご先祖様に対する感謝の気持ちにある」ということだ・・・

大阪の商人は商売では息子には継がせない、娘婿に継がせることを旨としている老舗もあります。

同族経営というのは「ワンマン」でうまく波に乗れるときはいいのですが、一度波に乗れなくなると潰れやすい。
ダイエ-は中内功社長が自前のビルを次々と購入してバルブ崩壊後に返却できなくなって潰れたといわれますが、それより「ワンマン」で自分の意見と対立すると幹部は即クビということを行った。茶坊主で「ハイ」としか言わないため、反対するものがなく誰もが信用しなくなったのが大きな要因であります。
ダイエ-は悪い意味でも同族経営であった。

トヨタも同族経営に近い。日本の企業で多くは同族企業で確かに占められている。しかし長く続いている企業を考えると同族経営は破綻しやすい。
あの大王製紙前会長は100億円を超えるお金を無断で貸出てカジノで使ったことで、背任横領で逮捕された。

そこには同族経営としてのデメリットがある
  • 「税法上の定義」に基づく同族会社に該当すれば、大株主の権限制限など、法的な制限が課されることになる。
  • 生活費遊興費を社費でまかなう、創業・経営者一族が(個人的な理由で)気に入った者を要職につけたり、気に入らない者を不採用ないし解雇したりするなど、会社や資産の私物化を進めることで、公私混同を招く傾向にある。なお、税法では生活費など「雑多な出費」を経費に計上すれば税金を節約できる仕組みとなっている背景から、この傾向は中小企業になれば特に強くなる。ただし生活費などの私的利用を目的に社費を流用した場合、税法で認められている一定の支出(交際費や福利厚生費など)を超える部分は当然ながら役員報酬として認定され、個人の給与所得として源泉所得税が課税されることとなる。また、創業者一族が気に入らない者を入れない、追放することになるため、反対意見を出せない「イエスマン」しか存在せず、何らかの問題が起きても表面化しないことにつながる。
  • 適切な能力を持たない者が経営者となるリスクを高める。また要職が能力以外の要因で与えられるという点で、社員のモチベーションを低下させる。
    • この件については、旧日本陸海軍との比較で、「同族企業に入る人間は最初から幹部になれないと承知で入るから、横一線で採用した人間を途中の試験でエリートと非エリートに分ける旧軍の手法より非エリートの納得は得やすい」という意見もある[3]
  • 一族の利益を、株主や社員より不当に優先させる場合がある。例えば莫大な賠償金から逃れるための、資産分割の手段に利用される場合がある。


    さて同族企業でも多くは先達の規約やスロ-ガンを守るのが多くの企業が伝統として伝えることです。

生長の家はそうした、創始者の行ったことを反発する異様な宗教であると思います。
自分はどうしてそういう宗教になったかを
と言うと、親に感謝出来ないというなんとも初歩的なことが出来ないのであります。


 

先祖供養

今年ものこりわずか。
先日の「生命の実相勉強会」も第八回の開催であります。

大阪には「学ぶ会」の大阪主催者である人がおられます。しかし実際の連絡者は異なります。
開催も年に一回あるかどうかのようです。
それでは大阪という地でどうして「学ぶ会」が発展しないのであろうか?

私はそこには初期では学ぶ会という名前もなかった時に本住吉神社で衝撃的な開催を行ったのは関西からである。
私も最初は何回か参加していたが、悪口ばかりが目立つようになってきたため嫌になってきたことを思い出す。
悪口というのは「総裁谷口雅宣」に対してである。

わたしもその一人であります。だからこそ「学ぶ会」にはそうしたメンバ-が残っているから入りにくいのです。

私はあまり活動を行っていませんが、「日本政策研究センタ-」の会員である。これは初期から入信している。
そうしたメンバ-から「学ぶ会」とは違う会で活動を行っている。
「真理を生きる」の森田征史先生や阪田成一先生や安東巌先生を主体とする会に参加する。

話が逸れたが、たしかに現在の生長の家の衰退や組織の崩壊は誰もが「谷口雅宣総裁」であることは間違いない。だからといって、辞めることはない。責任をとるようなことはないであろう。和解などこれぽっち考えていない。
そんな人間に和解など応ずるようなことはありえない。

あまりにも甘く見すぎである。
『生命の實相』に和解とか書いているから「和解」に応じるとかあまりにも幼児が考える発想である。でもそんな人間に何をいってもわからないであろう。囚われすぎているからである。

安東先生は
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○先月、京都のメルパルクホテルに於て開催された〝谷口雅春先生の志に生きる青年会OBの集い〟に行って参りました。

若き時代、天皇国日本現成へ向け、『理想世界』誌100万拡大運動に全てを捧げた仲間達200余名。

皆それぞれに社会的地位を築き、年齢相応の姿になっていましたが30年ぶり、40年ぶりに出会う喜びに会場は揺れ動かんばかりでした。

その集いで私も挨拶しましたが、時間の制約があったので、この欄を借り、話したかった事の一端を綴っておこうと思います。

〈谷口雅春先生のみ心ひとすじに―わが歩みし道〉

私が「生長の家」のみ教えによって健康を回復し、9年ぶりに高校復学、そして長崎大学に入学したのは昭和41年、27才の時でした。

当時、大学は全学連による全国的な学園紛争の時代、わが大学も学舎はバリケードで封鎖され屋上の時計台には赤旗が翻っていました。

かかる状況を憂えられた谷口先生は「愛国の青年よ、われら何を為すべきか―武装蜂起の全学連の暴動に対処せよ」との一文を『理想世界』誌( 43・7)に草されたのです。

私達は尊師の思いに答えるは今と学内の仲間を結集、全学連の拠点である自治会を奪権し、バリケードを撤去、赤旗をひきおろし国旗を掲げました。

この、国立大初の学園正常化の体験を講習会で発表した所、谷口先生は大変お喜びになり、後日『光の泉』誌に次の様にこうお書き下さいました。

「―この安東君、完全に肺動脈弁狭窄症を克服して、在学中、日本主義の学生会をリードし、更に全国のその学生運動の連絡協議会を組織し左翼学生のリンチにも屈せず、過去に心臓弁膜病だった影だにも見せず、よく闘って来たのであります」

このみ愛にどうお応えしよう。―私は意を決して昭和45年3月卒業と同時に『生長の家』本部の青年局に入りました。

そして当時の森田征史中央執行委員長が掲げる『理想世界』誌100万運動―天皇を思う百万の青年集団を構築し、祖国日本を再建せんとする壮大なロマンに挺身したのです。

来る日も来る日も伝道の日々、でもわが人生で最も輝いた時代でした。

かくて昭和51年、百万突破はなりました。

武道館の全国大会に集う一万の青年と共に流した歓喜の涙、爆発する『使命行進曲』。

この光景を生涯忘れないでしょう。

しかし、その頃、谷口先生は、真に祖国再建を為すには現憲法を破棄し正統憲法を実現しなければならぬ旨の御論文を次々に発表されていました。

次の『生長の家』誌、〝明窓浄机〟の一節を読んでみて下さい。

「―現行の〝日本国憲法〟を評価するならば、それはマイナス点しか与えることが出来ない。それは日本国の伝統を故意に破壊して、日本国を東洋の一弱少国に留めおいて再起不能の状態に継続する目的のために戦争直後の占領軍が―〝呪詛の精神〟を籠めて起草したものであるからである。―わたしは嘗て〝憲法論〟を書いたときに、ある少年が毛糸のジャケツを着るといつも倒れて怪我をする。あまりそれが不思議なので、誰がそのジャケツを編んだのか遡って追及してみると、当時の女中が奥さんに叱られて、腹を立てながら、ナニクソと抵抗心を掻き立てながらその家の子供のために毛糸のジャケツを編んだのだとわかったという挿話を書いたことがある。―日本人が、占領軍が日本弱体化の〝呪いの精神〟を籠めて書いた〝日本国憲法〟をその美辞麗句のゆえに遵奉して生活するときは―日本弱体化の精神を国民が着て生活することになるから―国民は常に政府を被告として、対立的に騒乱や訴訟を起したくなるのである」(昭和52年8月号)

更に谷口先生はこうもお書きになりました。

「正義の国民よ、人道主義に燃える青年よ、―現行憲法と優生保護法を改正する実力をもつために同志を殖やし、その実力をもって国会を動かそうではないか」

尊師のみこころがそこにあるなら、その願い実現の為に立とう。

そう考えた私は昭和55年『生長の家政治連合(生政連)』に転部局しました。

そして〝地方議員1000名を生みだしその基盤の上に多数の国会議員を誕生させる〟との構想を展開し始めた時、尊師が体調をくずされ、ご昇天になったのです。

ああ!!昭和60年6月17日、涙が枯れはてる程に泣きました。

この流れの中で本部方針は一変。

生政連は解散、「理」誌100万運動を推進してきた青年局も解体。

私はその時の無念を、日記にこう書いています。

①今後は、教え親谷口雅春先生を語ることが少なくなるだろう。尊師を慕う集団も無くなるだろう。

②愛国書は絶版になるだろう。

③憲法改正・優保改正・日本国実相顕現運動は消えてゆくだろう。

あれから30年、その通りになりました。

あまつさえ、現教団では、聖典『生命の實相』も聖経『甘露の法雨』も出版されず、住吉大神の鎮護国家の使命は否定され、大東亜戦争侵略論、現憲法擁護論、民主党支持までが声高に叫ばれるようになりました。

このままでは正しい教えはなくなってしまう。

子や孫をこの歪んだ左傾化した教団の中で育てていいのだろうか。

国を愛する心、人生の生き甲斐は持てるのだろうか。

尊師から救われた我ら、ただ耐え、黙すだけでいいのか。

―ならばと平成23年6月より森田・阪田両先生と共に発行したのがこの『真理を生きる』です。

〈神癒は、み教えを正しく歪みなく純粋に生きるところから〉

ところでいい忘れる所でしたが私は生政連解散の後、徳島・岡山・神奈川・千葉と27年にわたって教化部長を歴任しました。

どの教区でも練成会は人で満ち溢れ、ぞくぞくと神癒体験が生まれました。

その理由は唯一つ、谷口雅春先生ひとすじの正しいみ教えを説いてきたからです。

谷口輝子先生の『ひかりは海を越えて』に次の内容の一文があります。

昭和38年、尊師が海外御巡錫に立たれた時、ロス空港に福岡蔦枝さんという盲目の72才の女性が訪ねてきて、谷口先生にこうお願いした。

〝私は31才の時から41年間盲目です。でも先生に手をふれて頂いたら必ずよくなります〟。

すると谷口先生は蔦枝さんの手をサンドイッチのようにはさまれて〝もう治っているよ〟とおっしゃった。

蔦枝さんは自宅に帰ると鏡の前に立った。

1日、2日そして3日目。

突然自分の顔が見えだしたのです。

―やがて一ヵ月ぶりに尊師はロス空港に寄られた。

福岡蔦枝さんは泣きながら喜びの報告をする。

すると谷口先生は〝汝の信仰汝を癒せり〟とおっしゃったのです。

その事を輝子先生はこうお書き下さっています。

「信仰と言うものは、―深く信じる事、一点の疑いなく、強く信じること、それが本当に神様に繋がり、神様のみ愛をいただく結果になるのだと思うのでございます。」

私もそう生きたい。

そしてこの尊いみ教えを正しく歪みなく、次世代を継ぐ子供達に伝えたいと思うのです。
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安東先生は生長の家は今後「総本山」はなくなるであろうと言っておられました。
わたしもそう思っています。
それは総裁の考えには「総本山」は何の意味もないからです。
聖地でもない、単なる施設という考えですから、自分の意向を完成させようとしているのです。
生長の家から雅春先生の名前もほとんど言わなくなる。環境という名前を前面に出す。運動方針であろう。



自分の子供に「生長の家」を伝えたいと思いますか?
何ら奇蹟がない、国も愛さない集団に将来を委ねますか。

生長の家の『生命の實相』勉強会に数日前に栄える会を辞め、白鳩会の要職を辞められた人が来られていましたが、夫婦でこの会を誰かに聞いて、清々しく来られていました。

いままで、騙し騙しで会の運営を行ってきていた、しかしあまりにも本来の「生長の家」とは異なる運動に意を決して辞められたのです。
騙すというのは自分の心に騙しているのです。
間違っていると思いながら、会を運営していくわけですから途端の苦しみだと思います。
しかしそれが開放されると、顔色もかわるのですね。

さて、騙して「生長の家」をやっているから「しんどく」なるのです。でも生長の家の役職などやっていると「先生」と呼ばれチヤホヤされるから、椅子の座り心地もいいのです。そんな安住のような所から誰も電話も無くなるような環境に放り投げられると寂しさで辛坊ができなくなるかもしれない。

しかし、意を決することも必要だと思います。
私は「学ぶ会」の会員ではありませんが、先祖供養を大切にしていきたい。「学ぶ会」でも頒布されているようですが蛇腹とよばれている「家庭における先祖供養」「顕浄土成仏経」を読誦していきたいと思います。
「顕浄土成佛経」は
本経は、谷口雅春先生が母堂百ヵ日法要追善供養のために献げられたものであるが、特に先祖供養の際、『甘露の法雨』などの経本と併せ読誦すると、先祖への大きな功徳となる。

昭和47年7月25日に発行されていますから極めて新しい御経です。
顕浄土成佛経を今ではあまり誦げることもないので、是非行っていきたい。

花山院

この土曜日に西国三十三箇所霊場巡りの番外である「花山院」に行ってきた。
仕事が午前中で本年度の仕事納めでした。
この番外というのは花山天皇の御廟があります。天皇陵は金閣寺から近くにあり、わら天神の東側にあります。周囲はマンションに囲まれ雑踏のなかに一瞬異空間に迷ったような場所であります。

さて、花山天皇(かざんてんのう)は西国三十三箇所巡りや関西の著名な寺院などでは意外と西国三十三箇所の寺院であることがあります。
たとえば、清水寺などもそうですし、六波羅蜜寺などもそうです。私はまだ全箇所は巡ったことはありませんが、25箇所近くは巡りました。

よく訪問しているのは中山寺です。毎月のように行きますが中山尾根をトレイルランニングを主要にしていますので川西能勢口駅から中山観音駅まで行くときには最終の到着場所が中山寺となります。
さて、この西国三十三箇所巡りには番外というのが3箇所ありますがあとの2箇所はまだ参拝したことがない。
山科区にある元慶寺は近くまで行ったが、その近くに元慶寺があるのを知らなかった。
何故、その近くに散策したかというと遍照の陵墓散策の為である。その北側すぐの場所にあるからです。
この付近は花山という地名でありますから、花山天皇のゆかりの地であることが伺い知れます。

さて、花山天皇について知りたいかというと御在位が2年と短いこともあり、歴史的にはあまり知られることもない。
だが、三十三箇所巡りを当時の庶民に知らせたことはあまりにも有名であります。

それではどのような天皇でありますかというと

花山院の評判

 平安時代の三田を語る上で欠かせない人物の筆頭が花山院(968―1008)である。  しかし、史書から見た花山院の評判は、残念ながら必ずしも芳しいものではない。『大鏡』 に記された『内劣りの外めでた』という世間の評価や、『冷泉院のお狂いぶりより、花山院 のお狂いぶりの方が始末が悪い。』と源俊賢(960―1027、民部卿、高明の三男)が 藤原道長(966―1027)に語ったと伝えられる辛辣な言葉はほんの一例にすぎない。 (冷泉天皇は生まれつき知能の発育が遅行していたため奇行が多く、重病の床にあっても 突如大声で歌を歌い始めるなど国務に支障があった為、すぐに弟の円融天皇に譲位して いる。この冷泉天皇の時、約二十年ぶりに関白職が復活し、以降この座を巡って政争が 展開されるきっかけとなった。源俊賢は花山天皇がその冷泉天皇より狂っていると言っている のである。)『大鏡』の中に出てくる院のエピソードは確かに軽率な行動が多く、決し て立派な天皇とは言えなかったようだ。
 しかし一方で院は、権謀術数渦巻く平安暗黒政治時代における藤原氏パワーゲームの 被害者である。また、有馬富士の麓に隠棲した際、西国三十三ヶ所巡礼を再興整備する など、この地の文化に与えた影響の大きさは計り知れないものがある。  ここでは、そんな花山院の事跡の一部を紹介してみたい。(なお、文中では時代を問 わず花山院という言葉を使っている箇所があるが、当然のことながら院号は出家後の呼称 である。)
  

花山天皇の誕生

人は平安時代のことを、『平安絵巻』などという言葉とともに、雅で華麗なイメージ として捉えがちだが、我が国の歴史上、奈良・平安時代ほど陰謀と策略の渦巻く血生臭い 時代はほかにないといってもいいだろう。権力への欲望それ自体は本能的なものであり、 どの時代の人間にも共通したものである。それだけに、もし現代の警察機構に相当する (マックス・ウェーバーの言う)暴力機関という抑制装置が存在しなければ、人間の欲望 はそのまま直接的行動となって現れることになる。平安時代はまさにそうした時代だった。
平安時代といえば、天皇家との外戚関係を通じて成立する摂関政治に裏付けられた藤原氏の栄華 が有名である。(なお摂関政治とは、自分の娘を皇后とすることで次の天皇の祖父としての 影響力を確保し、この外戚関係を背景に、摂政・関白という最高位に就くことで、実質的には 天皇に代わって支配力を行使する政治形態を指す。)一方、ここで採り上げる花山院は前述の 通り、天皇位という本来侵すべからざる地位に就きながら、その藤原氏の栄華の道具として 利用され、思わぬ人生の悲哀を味わった悲劇の主人公である。
花山院は皇太子時代の名を師貞親王といい、968年(安和元年)十月二十六日、左京一条四坊 三町にあって方一町を占めた太政大臣藤原伊尹の屋敷一条第(『第』は聚楽第のように使われ、邸宅を 指す。)において、伊尹の娘懐子の子としてお生まれになった。冷泉天皇の第一子である。その 意味では、花山院も藤原氏と外戚関係にあり、彼らの期待を一心に背負った存在である筈 だった。
 しかし、当時の藤原氏は藤原不比等(658―720、大体この名前からして傲慢である。何といっても 『比べる者のない』という意味なのだから。)の子が北家・南家・式家・京家の四つに分かれ、 その中で特に権力を握った北家の中でも、伊尹・兼通・兼家の三兄弟が実に醜い権力争いを演じて いた。そうした藤原氏内部における権力闘争に、花山院も否応なく巻き込まれていくことになる。 花山院四歳の時、頼みの綱の外祖父藤原伊尹が死去してしまった。このことが、その後の人生の シナリオを徐々に狂わせていき、後の悲劇につながっていくのである。
984年(永観二年)十月十日、師貞親王は天皇位に就く。第六十五代天皇の誕生である。しかし その即位も、藤原兼家(929―990)のな嫌がらせに嫌気がさした天皇が譲位したことによるもので、 天皇位が藤原氏の意のままとなる時代の到来を予感させた。 花山天皇はまだ若年であったにも拘わらず、藤原義懐(天皇の伯父)・藤原惟成(天皇の乳兄弟)らの協力の下、 革新的な政策を矢継ぎ早に出していく。物価統制令・荘園整理令(902年(延喜二年)に発布 された荘園整理令以降に立てられた荘園を整理・廃止した。)・兵器私帯の禁止などがそれだ。
 『江談抄』(大江匡房の談話を藤原実兼が筆録したもの)は、兵器私帯の禁止令が出されてからわずか 十日目にして、都から遠く離れた太宰府の中にも兵器を帯びる者は一人もいなくなったと伝え ている。しかし一方で、荘園整理令によって一部の摂関家荘園が収公(天皇家財産として没収 されること)されたことは、当時の貴族間に言いようのない危機感を募らせたことだろう。藤原 氏が花山天皇退位を急いだ背景には、単なる藤原氏間の勢力争いのみならず、こうした花山天皇 の政治への積極姿勢、特に天皇家への富と権力の集中を企図していることが、藤原氏にとって これ以上ない危険思想と映ったこともあるだろう。
当時、天皇には殊の外寵愛していた女御がいた。大納言藤原為光の次女で祇子といい、天皇 即位の直後に入内してきた女御であった。弘徽殿の女御祇子は、天皇の寵を得て身篭るが体調 を崩し、必死の加持祈祷の甲斐もなく十七歳の若さで亡くなってしまう。妊娠八ヶ月頃のこと であったという。それからというもの天皇は終日沈みがちになり、いっそのこと出家してしま おうかと考え始める。(花山天皇と祇子の悲話は、源氏物語の桐壺の巻にある帝と桐壺の悲恋 物語の原型とも考えられている。)そうした中、藤原氏は陰謀のシナリオを実行に移す機会を 虎視眈々と狙い始めていたのである。

花山天皇の出家

『「蜻蛉日記」の作者といえば右大将藤原道綱の母』というのは、中学や高校の古文や文学史 の授業で皆さんにもお馴染みのことだろう。何でも彼女は絶世の美女だったそうだが、そのことは 少し置いておいて、実は、彼女の夫である藤原兼家とその息子達が、花山院の悲劇を引き起こした 張本人なのである。(彼女の息子である藤原道綱も一枚かんでいる。)
 兼家の正妻は別にいた(藤原時姫)ので、夫と言っていいのか判然としないが、通い婚を結婚の 一形態とすれば複数の妻も当然ありえるわけだろう。兼家が訪れるのを心待ちにしながら彼女が 詠んだ次の歌は、百人一首にも採られていて有名だ。
――なげきつつ 一人ぬる夜のあくる間は いかに久しきものとかは知る
 大体、この兼家という男は最低の人間である。
 伊尹・兼通・兼家の三兄弟の間に権力争いがあったことは先述した。伊尹の死後、兼通が関白と なったが、就任後五年ほどで病の床につき病状は相当篤くなった。兼家はチャンスとばかり、この 兄の一日も早い死を毎日祈り続けた。そこへ兼通危篤の報がもたらされたものだから兼家は雀躍 して喜んだ。そこで彼のとった行動は、危篤である兄の家に駆けつけることではなく、即刻内裏に 参上し、関白への就任を申請することだった。兼家の一行はその時の兼通の邸の前を通ったため、 兼通側にもその行動は筒抜けであった。(兼通はこれまで、相当酷いことを兼家にしてきており、 自業自得とも言えるのだが…。)
 しかし、兼通はまだ危篤であって死んではいない。この弟の行動を聞いて怒り心頭に発した兼通 は死の淵から蘇った。彼は病を押して内裏に参上し、最後の除目(人事異動)を行い、自ら関白を 辞して左大臣藤原頼忠をその後任とし、弟兼家の地位を格下げしたのである。怒りだけが死に瀕し ている兼通の身体を動かしていた。それにしても何という醜い争いであろうか…。かくして兄兼通 の怒りが、弟兼家の関白就任を阻んだのだった。これから述べる花山院の悲劇は、それでも兼家が まだ権力の座に対して執念を燃やし続けたことによって引き起こされたものである。
986年(寛和二年)六月二十三日深夜。藤原兼家の次男道兼は、自分も一緒に出家するからと 言葉巧みに天皇を誘い出し、大内裏の北面中央の玄武門を出て一条大路を元慶寺へと向かった。 (元慶寺は京都市山科区にある天台寺院。869年(貞観十一年)創建。開基は遍昭僧正。今は 花山寺とも呼ばれる。)
 元慶寺に向かう途中、土御門通りにある安倍晴明(921―1005)の家の前を通った。 (安倍晴明は有名な。我が国超能力者伝説において役の行者と双璧をなす。大阪阿倍野の地名は、 安倍家が領地を持っていたことに由来する。)すると邸内から安倍晴明の声がし、ぱんぱんと手を 拍っている様子。聞いてみると、『天皇がご退位になることを示す天変があったが、もう既にご 退位が実現してしまったと見える。参内して奏上しよう。車の支度をせよ。』と言っている。晴明 が『とりあえず、式人一人、内裏へ参れ。』と言うと、目に見えない何者かが戸を開けて出てきたが、 遠ざかる天皇の後ろ姿を見つけたらしく、『当の天皇が只今門前を御通過しておられます。』と 晴明に報告したという。この荒唐無稽の伝説は、『大鏡』に所収されるところである。
一方、兼家の長男道隆と三男道綱は、御所の外に天皇が出られたことを確認すると宮門をすべて 閉ざした。そして清涼殿(紫宸殿の北西にあり、天皇が日常居住した建物)から三種の神器を持 ち出し、兼家の孫(娘詮子の子)で当時皇太子であった懐仁親王の住むへと運び込んだ。即ち、 花山天皇が寵姫祇子の死で世を儚んでいることを好機とし、藤原の孫であった花山天皇を出家さ せることで廃帝し、代わりに兼家の孫である親王を帝位に就かせるという、巧妙かつ大胆な帝位 簒奪クーデターであったわけだ。悲嘆に暮れていた花山天皇が、そんな謀略の存在に気付こうはずも なかった。
 花山天皇の一行には武士の護衛がついていた。後述する源満仲と郎党そのである。彼らは京の 市中では影のように寄り添っていたが、鴨川辺りからは公然と警護についた。源満仲は日頃から 藤原兼家邸に出入りしていたことから、一行の護衛と、道兼まで一緒に剃髪することにならない よう見張る役目を仰せつかっていた。
 花山天皇が剃髪を終える頃、一緒に出家すると言っていた道兼は急にそわそわし始めた。 そして、『最後にひと目、出家前の姿を親に見せてきます。』などと訳のわからないことを言い 残してさっさと一人邸に帰ってしまった。人の好い花山天皇も、ここで始めて自分が騙されていた ことに気が付くのだが、時既に遅しである。急を知って駆けつけた花山天皇のブレインである藤原 満懐・藤原惟成の二人も、僧体の天皇を見てもはやこれまでと観念したのかその時一緒に出家して いる。
 その頃宮中では、兼家の末子の道長が関白頼忠に天皇が行方不明である旨を言上し、懐仁親王の天皇 即位が決定される。時に親王わずか七歳。一条天皇の誕生である。花山天皇の在位は、わずか二年 で終わりを告げた。花山天皇はこうして十九歳の若さで仏門に入り、法皇花山院となったのである。 その後、花山天皇が内裏を出た玄武門は不吉として閉鎖され、以降開かずの門とされたという。
『院』というのは、天皇の位を譲位した上皇や法皇を指す言葉である。1086年(応徳3年)に 白河上皇が始めた後の時代の所謂『院政』とは異なり、花山院の頃の『院』はそれほどの権力を持 たず、今でいう『ご隠居』以外の何者でもなかった。
こうして、まんまと自分達のロボットとなる幼帝擁立に成功した藤原兼家は、外祖父の地位を 生かし、漸く念願の摂政の座を手に入れた。990年(正暦元年)に兼家が六十二歳で死去する のは、そのわずか五年後のことである。老境になってもなお権力を追い求めた執念に、この兼家 という悪党の恐ろしいまでの生命力を感じる。
 そして藤原氏の権力闘争は、今度はその藤原兼家の息子達の間の争いへと発展し、やがて長男 と次男が関白の座を争うことになる。子供は親の背中を見て育つと言う。兄弟で熾烈な権力争いを演 じている親を見て育った子供達は、皮肉にもと言おうか、当然の結果としてと言おうか、長じて 親と同じ行動に出たのである。親の因果が子に報い…実に自然な流れではある。
 次男道兼(花山院を騙して剃髪させたあの道兼)は兄道隆の死後、内覧(天皇に上奏される 公文書を事前チェックする役職)として政務を補佐していた道隆の長子伊周を差し置いて、995年 (長徳元年)四月二十七日、念願であった関白の宣旨を受けることができた。しかしこの時、既に 道兼は当時猛威をふるっていた疫病に冒されていたのである。五月二日、お礼言上のため、病を 押して参内したが、そのわずか七日後にこの世を去っている。世に言う『七日関白』である。人間 の業と言ってしまえばそれまでだが、権勢を追求することの空しさを痛感させられる話ではある。
 道兼の死で、今度こそ自分の番だと思っていた伊周であったが、ここに最強のライバルが登場する。 後年、藤原氏の栄華の頂点を極め、『この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることのなしと思へば』 という歌で有名な藤原道長(966―1027)であった。  当時の一条天皇は伊周の従兄。それに対する道長は叔父の関係にあった。しかし、伊周の妹の 定子が一条天皇の寵愛を集める中宮であったことから、当初は伊周が一歩リードかと思われて いた。(定子は、清少納言が仕えたことで有名。枕草子の中に見える『香炉峰の雪は簾をかかげ て見る』という有名なやりとりは、この二人の間にされたものである。)しかし、道長の姉で 天皇の生母でもあった東三条院詮子が強力に道長を支援したため、道長に内覧の命が下り、右大臣と なって今度は逆に伊周をリードした。そのうち二人の不仲は公然のものとなり、満座の中での口論 も見られるようになっていった。
 しかしここで伊周は致命的な失策を犯す。
 故太政大臣藤原為光の娘で、美人の誉れ高かった三の君(寝殿の君)のもとに通っていた 伊周は、下の娘である四の君のもとへ通う花山院を、三の君を巡る恋敵と勘違いしてしまったのだ。 怒る伊周の意を受けた弟の隆家は月の明るい晩、四の君のもとから帰途につく花山院に矢を射 かけて威嚇するという不敬事件を起こしてしまう。矢は狙い通り院の袖を射抜いただけだったが、 これがきっかけで従者同士の乱闘騒ぎへと発展した。この事件の責を問われた伊周・隆家は流罪と 決定。藤原道長は、ライバルの失策により、期せずして完全な政治的勝利をものにしたのである。
 その後も藤原氏は、常に天皇家の傍らに仕えながら貴族の中の貴族としての地位を磐石なものと していった。明治に入ってから登場する三条実美・西園寺公望らは勿論のこと、英照皇太后 (孝明天皇皇后)・昭憲皇太后(明治天皇皇后)・貞明皇太后(大正天皇皇后)も皆藤原氏の流れ を汲む貴族の出である。 或る意味では、1945年(昭和二十年)十二月十六日に近江文麿元首相が服毒自殺をするまで、 藤原氏の影響力は継続していたとも言えよう。伴信友が藤原氏を評して『松の藤』と表現している (天皇家という松に寄生して生きる蔓という意)が、実に恐るべき一族である。

三田の花山院

出家後、花山院は各地を放浪され、(この漂泊の旅が、後に三十三ヶ所巡礼再興につながる。) ある日、紫雲山観音寺(今の花山院)に立ち寄られた。
 当寺は、653年(白雉二年)、法道仙人の開基と伝えられ、かつては密教修行の聖地として 栄えていたが、花山院が立ち寄られた頃は荒れ放題となっていたようだ。しかし、山上に立てば 有馬富士を眼下に眺めることができ、朝霧の中、緑深い山々が島のようになって連なる光景は まさに水墨画の世界。俗世間から遠く離れたいと考えていた院にとって、かつてを忍ぶよすが とてない荒れ寺も心の琴線にそっと触れるものがあったに違いない。
 院は優れた歌人でもあった。自身、『寛和元年八月十日内裏歌合』『花山法皇東院歌合』を 催してもいる。中世まで、『花山院御集』という歌集があったというが残念ながら現存しない。 しかし、拾遺和歌集などの勅撰和歌集に六十四首が収録されていることからも、その実力の程が 知れる。そうした院の芸術家としての感性がこの地に惹かれた原因だと思う。
院がこの地を隠棲の地と定めて棲み始めた頃、女御達併せて十二人が噂を聞きつけ、京の都 から法皇を慕ってこの地を訪れた。山の麓に庵を構えた彼女達は、仏の道に精進している院の 修行の妨げになってはと、院のお顔を直接見ることなく参道の坂の途中で琴を弾き、法皇の無聊 を御慰めしたという奥床しい伝承が残っている。この伝説から、この参道の坂のことを誰言う となく『琴弾き坂』と呼ぶようになった。女御達の住んでいたという土地は今も尼寺と呼ばれ ており、女御達の眠るの墓も残されている。
 乙原・小野を流れる川は黒川と呼ばれる。周辺を領していた豪族黒川氏の名をとって黒川と 呼ばれているのか、はたまた黒川にいた豪族なので黒川氏と呼ばれたのかは判然としないが、 その昔、この黒川周辺は黒郷と呼ばれていた。そして、この辺りは美人の産地として世に聞こえて おり、そのため花山院の身辺のお世話をする女性は主としてこの辺りから召されたという。 彼女らを『黒郷乙女』と呼んだ。
 身辺を世話する女性がいたのなら、女御達もわざわざ坂で琴を弾かずともよかったのでは ないかと無粋なことを考えるのは私だけかもしれないが、いずれにしても、四の君の話といい、 女御の話といい、黒郷乙女といい、花山院の生活が余り禁欲的なものでなかったことだけは 間違いなさそうである。
紫雲山観音寺は、1555年(弘治元年)、荒木村重反乱の際の兵火で伽藍が焼失したが、その 後再建され、更に元禄期、空遍が諸国を勧進して本堂などの堂宇を再興し、院の名をそのまま 寺の通称として花山院と呼ばれ、今では真言宗花山院派の総本山となっている。また、当寺は 西国三十三ヶ所の番外札所で、巡礼者は必ずここに参詣して朱印を受けるのを慣例としている。 後述するように、西国三十三ヶ所巡礼を再興したのが花山院であってみれば当然のことであろう。

西国三十三ヶ所巡礼について

西国三十三ヶ所巡礼は四国八十八ヶ所を巡るお遍路とともに、わが国の代表的巡礼の 一つである。今は誰でもお参りすることが出来るが、以前は藩境を越えての通行は必ずしも 自由ではなく、ましてやこの信仰が始まった平安時代の事情を考えると、出家者の間でのみ 行われていたものであろうことは容易に想像がつく。
三十三という数になったことについては諸説ある。最も有力なのが、妙法蓮華経観世音普門品第 二十五にある、三十三の変化で衆生を再度する観世音菩薩に因んだものであるとする説である。 また一方で、三十三は十一という聖数の倍数である。インドで生まれた十二進法でいけば 十二で一桁上がることから、十一は最大の数であり、そのことから十一は聖なる数とされて いた。十一面観音が文字通り十一の面を持っているのは、十一が聖なる数であるが故である。
三十三ヶ所巡礼に因む縁起として、徳道上人の地獄巡りという話がある。(徳道上人では なく、播州書写山の開山である性空だとする伝承もある。)  徳道上人は奈良時代、聖武天皇の頃の方で、大仏建立で有名な良弁僧正(689―773)の 弟子にあたり、大和国長谷寺の開基でもあった。(実際は、泊瀬は昔から山岳信仰の地で、 天武朝には川原寺僧が仏像などを祀っている。)その上人が死後、地獄の閻魔大王から三十三 ヶ所を巡礼すれば滅罪の利益があると告げられ、巡礼を世に広めるべく三十三の印文をもらって この世に蘇る。しかし人々が一向に信じようとしないので、これらの印文をやむなく中山寺の 石櫃に納めておいた。その後、霊夢でこの印文の存在を知った花山院が、河内仏眼上人を導師 として西国三十三ヶ所巡礼を興したのだというのである。
平安時代中期までは、巡礼の道順も長谷寺から始まって、三室戸寺の千手堂で終わっていた。 平安時代末期、覚忠大僧正の時に現在の形に近づき、鎌倉時代にはほぼ現在同様になったという。 また室町時代あたりから漸く庶民の信仰としてこの三十三ヶ所巡りが定着していったようで あり、伊勢参りの後にこの西国三十三ヶ所の霊場巡りをするのがお決まりのコースとなって いった。
三十三ヶ所巡礼は前述のように観音信仰によるものであり、巡礼地における観音様の内訳は、 千手観音が四ヶ所、千手千眼観音が六ヶ所、十一面千手千眼観音二ヶ所、千手十一面聖観音 一ヶ所、十一面千手観音二ヶ所、十一面観音が六ヶ所、不空羂索観音が一ヶ所、如意輪観音が 六ヶ所、聖観音が三ヶ所、准胝観音が一ヶ所、馬頭観音が一ヶ所となっている。

花山院の晩年

 私は、おそらく花山院が三田に隠棲していたのは、そう長い年数ではなかったと考え ている。晩年の花山院は、自分の生まれた一条第に再び戻っている。これは藤原伊尹の娘九の方を 寵愛して居着いてしまったためであるとの伝承もあるが、もし本当なら、花山院は自分の叔母 にあたる人と恋に落ちたことになる。
 花山院は1008年(寛弘五年)二月八日、この第で崩御した。この第には撫子や萩が沢山植 わっており、『花山』の諡号はここからきているとされる。女性を愛し芸術に秀でた天皇の名に 相応しく、華やかな諡号である。そして、院の御廟所と伝えられる宝篋印塔が三田の花山院に 残されている。

教祖を大切にしない教団

先日ある方とお会いすることが出来ました。
今年は3回目のお会いができました。生長の家でも影響のある人でしたので、いつも会えるのを楽しみにしています。

生長の家の教団が衰退するなか、派遣される教化部を立て直し数々の奇蹟を生み出してきた人です。
「生長の家」は奇蹟が出ないようなったら、本当の教えではない。「雅春先生の御教えを学ぶことをしっかりすれば自然法爾と出てくる奇蹟がそこに現れます」

「雅春先生の御教え」は今の生長の家教団には無くなってきています。
雅春先生の御本が出版されないのはどうしてでしょうか?
それは現総裁の谷口雅宣氏がその権限を悪用しているからなんです。

私も生長の家のお陰でいろいろな宗派を廻らせていただきました。しかし今の教団ほど教祖を大切にしない教団はないのです。大本も行きました。一燈園も天理教やPL教団も行きました。
黒住教も行きました、でもどこも教祖を大切にします。

生長の家がダメになったのは、砂上の楼閣のように崩れたのは、尊師を大切にしない。それが「生長の家」の衰退の要因なのです。

それを一人一人自覚することから始まります。

心の拠り所

少し気になるところがありまして記入致します。
下記の谷口雅宣総裁の文章なんですが、そこの末一稲荷神社はどうなってしまったのであるかです。

『今日は午後から、東京・赤坂にて「生長の家赤坂“いのちの樹林”」の完成を祝う御祭が行われた。この敷地は、元末一稲荷神社があったところで、多くの大樹が切り倒されずに保存されていたため、土地の本来の植生を活かし、維持するという同樹林のコンセプトに合致した素晴らしい雰囲気になっている。関係者の方々のご努力に心から感謝申し上げます。』

生長の家では末一稲荷神社を下記のように述べています。

【「教勢発展・繁栄祈願」
末一稲荷神社は昭和5年3月、谷口雅春先生が『生長の家』誌を創刊された折り、
谷口輝子奥様が近所の婦人にすすめられて神誌の拡大を祈願されるため
伏見稲荷大社より末一稲荷大神の神霊を受けられ、
以来45年間谷口家の御私邸に祭祀されて日夜神誌の拡大を祈願されていたものです。

昭和49年10月19日、立教45周年を機に
神霊を宇治別格本山の聖域に遷座、地祭申し上げ、
その御神徳を広く一般に公開されました。
谷口輝子先生が神誌拡大を祈願されたことを機縁として、
稲荷大神の不思議な御導きを受けて宇治別格本山が開山されたことを顧みれば、
その御神徳は誠に大なるものと言えましょう。

護法の神である末一稲荷大神の御神徳を仰ぎ、
国と共に栄え、教えと共に栄える為、
皆様方には真心からの「教勢発展・繁栄祈願」をお申し込み頂きますよう
ご案内申し上げます。

(毎年2月最初の午(うま)の日には、「初午祭」(はつうまさい)が執り行われ、
宮司祝福祈念のあと、祈願書を神殿内に奉安し、
毎日聖経『甘露の法雨』を読誦して、尊き諸願の成就を願うものであります。)】


さて通常は御神体が入っている場合は移設など出来ないのが通常であります。それを分霊などの処置を施したのかが疑問です。詳しい方がおられましたら教えて下さい。

神社などはそうですがその土壌に魂が宿るといいます。人々の祈りなどでそこに大きく根を生やし魂お依代としてあるわけですから、撤去など軽々と出来ないのです。

大阪の寝屋川という所に京阪電鉄の萱島駅というのがあるのですが、そこはプラットホ-ムに御神木が大きく立っているのです。神社はその京阪電鉄の高架下にあるわけであります。
心の拠り所として住民の要望もあり、撤去しないでそのまま残しています。

楠Kayashima-jinja.jpeg


やはり神社というのは「心の拠り所」ですからそうした魂がどこにいくか彷徨ってしまわないのか。

本来の「生長の家」とは似て非なるものが現教団

生長の家は今や「人類光明化」運動というのを蔑ろにして、地球環境ばかりに齷齪としている。
これは環境というNPO団体に過ぎない運動を行っていることに過ぎないのです。だからといって現在地球環境運動に真剣に行っているかといえば、申し訳ないが大手企業などもっと積極的な取り組みをおこなっている会社も多い。また宗教関係でもこうした運動に積極的に関与している団体もあります。

そこで生長の家という団体の本来の目的や由縁など考えると、現在の生長の家は別方向に向かって行っている。それは普通少し長く信徒として活動していればわかるはずである。

わからないというのは「わかろうとしていない」だけである。
さて、生長の家は生長の家大神や住吉大神を祀っています。
それは教義によりあきらかであります。

奉齊主神、安置佛等の称号

道場又は集会室に特に顕斎せる主斎神又は安置佛なし。

心に幽齋する主神としては宇宙大生命(みおやのかみ)(その幽之幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照皇大現人神としての天皇)を禮拝す。

宇宙大生命は宏大無辺にしてその仁徳一切に及び一切を包容するが故に各自は先祖伝来の宗教を信じ又は自宅にて如何なる斎神又は安置佛を奉するも差支えなし。

宇宙大生命(みおやのちから)の道を顕揚し、日本の国威を発揚し皇威を顕揚する東道(みちびき)の神として心に幽齋する副神として生長の家大神(古事記日本書紀に顕れたる住吉大神即ち後に盬椎神、仏典に顕れたる釈迦、観世音菩薩及びその応化神基督教の黙示録第一章に顕れたる七つの燈台の点灯者)を禮拝す宇宙大生命は宇宙生命の根本実相にして、宗派に偏らざる哲学的表現を用うれば「生命の實相」なり。

この意味にて道場又は集会室に「生命の實相」又は単に「実相」の掛軸を掲出することあり。

それでは祭神を変えることは通常ならば考えられない。それは私は融通念仏宗という宗派なんですが、ある日突然にそれを止めて日蓮宗に変更するなど考えてもみませんし、ましてや御祭神を十一面観音像から私が勝手に増やして地蔵尊などを祀るなど考えてもみないことなんです。
それは何故かというと、先祖代々の御霊を大切にするからであります。十一面観音像も大切にしますが地蔵尊も大切にしているわけなんです。だからといって自分の宗派というものを大切にして先祖の念じた精神というのを大切にするのであります。

だから「今」も大切にするけど、過去も大切にするのです。
だが今の生長の家はその過去がポッカリと剥がれてしまっているのです。先祖供養を大切にしない団体になっているわけであります。
生長の家総裁谷口雅宣は恥ずかしげもなく

「…今回、龍宮住吉本宮の御祭神として、天之御中主神とともにタカミムスビ、カミムスビのムスビの神様を正式にお迎えしたことで、私たちの運動は自然界の働きの中の何を重んじていくかが明確になりました。“自然と共に伸びる”運動の方向性が明らかになったということです。現代において最も必要なことは、個人が自己主張しながらバラバラに生きることではなく、また似たもの同士が寄り集まってグループの利益を護ることではなく、さらには一国が自国の繁栄のために他国を犠牲にすることでもなく、人類の利益のために自然を破壊することでもありません。私たちにとって“他者”と見えるもの、一見“別物”と見えるものも、それらとムスビ合うことによって、新しい、より大きな価値を創造することができるという真理を多くの人々に伝え、また自ら生活に実践し、名実ともに“自然と共に伸びる”運動を力強く展開していこうではありませんか。」

こういうことを勝手に判断するようなことでは生長の家の意義など吹っ飛んでしまいます。

天之御中主神は『古事記』『日本書記』でも最初の冒頭に出てくるだけの神様であります。しかもたった一回だけ出てくる神様なのであります。
江戸時代の国学者、平田篤胤氏によって神として認識を拡めたわけでありますから、それまでは天照大神を祭神にしている神社はまだ多くあります。
しかし、高御産巣日神と神産巣日神と天之御中主神の造化三神を勧請などを多く祀るのは住吉大神の尊厳を損なうのではないかと否住吉大神を蔑ろにするスタ-トではないかと思っています。

仏教では入魂といって開眼供養を行う、仏教では神仏分離令などにより祭神を変更したりしたが、その神に近い神様をお祀りを行う。
以前に紹介した牛頭天王社や祇園社などが昔の伊邪那岐神社などに戻したり、八坂神社や素戔嗚尊神社として変更したのは明治の神仏分離令が行われたからである。

だからといって勝手に変更しないで先祖から祀られていた祭神に戻そうとしたのです。

だが生長の家は屁理屈を捏ね回して、単独で総裁が決めたことなのであります。谷口雅春先生は昭和二十年十一月二十七日の未明に「終戦後の神示」が突然に天下るわけでありますが、その時の内容は皆様ご存知ですが
その神示のなかにまだ本当に「住吉大神」がまだ現れてきていない。その顕現のためにも総本山で住吉大神をお祀りしているのであります。

その住吉大神を暗闇に隠そうとしているのが現在の生長の家教団なのであります。教団はみずから『生命の實相』『甘露の法雨』を葬りさろうとしています。

『終戦後の神示』には『生命の實相』をなんだかんだといって隠そうとしていることを真理に目を閉じ、「我」を突き通してついに自戒する時がくることを書いています。
神様は罪は与えることはありませんが「業」の流転は自戒作用として現れます。

神を蔑ろにし、自然のみに忘却した姿は「生長の家」の多くの信徒にいずれかソッポを向かれることとなるであろう。





言霊と生長の家

何故そうなるのか?
これは誰しもが経験し、誰しもが不思議に思うことかもしれません。
生長の家の熱心な講師で両親とも深く「生長の家」を実践し、小さい頃から生長の家の神想観に
徹しており、ゆくゆくは生長の家の本部講師になろうと思うような人が返って、生長の家に反逆し
社会党の組織にのめり込み、委員長も行う人間になった。
弟は平凡な人生で両親は兄を思い切り可愛がったのか、愛情はあったが長男の方に偏重することは
どこの家族にもある。
そういう弟が却って「生長の家」の熱心な信徒となり講師も務める人となる。

それはどうしてなのか?
それは愛情というのが何処にあるかということと、どういう人間に育てていくのかというより指針をしっかり
抑えて自由に闊達にその人の人生を任せるような教育が却って「人を育てる」こととなる。

それと同様にある熱心な講師に傾倒しその講師にファンクラブのような仲間でも、ある一方は愛国心を旨として、生長の家の雅春先生の信仰に傾注する人間と方や雅宣総裁を指示し、そうした愛国運動を批判するグル-プが出来てしまう。

同じ講師で学習しそうした相反するような仲間が出来るのであろうかである。
私も「生長の家百万運動」に傾倒しその運動をひたすら行った。だが今もなお現組織の運動を続け「百万運動」を批判する同志も中にはいます。
また批判はしないがあまりよく思っていないその当時の仲間もいます。

私はそうした相反するような事は谷口家でも起きているではないか。
雅宣総裁以外はその兄弟全員は違う考えではないか。雅宣総裁は左翼的考えであるが、それ以外の兄弟は「雅春先生」を指示して生きているではないか。

何故そうなるのかであろう。
そうした兄弟のなかでも思想が異なることは誰しもが経験したことであります。
そこになにが潜んでいるのかであります。

私の兄弟でもいえます。母親の熱心な信仰により「生長の家」に触れたのですが家族が多いなか現在も生長の家を行っているのは私一人です。

生長の家に反感している兄弟はいませんが、そういう信仰など行っていません。そこに何があるかがわかります。
それは「より日本的な考え」で「天皇陛下を仰募」している人は生長の家の信仰に深く傾注します。
私も「生長の家」というのは「愛国運動」の方が好きでしたから信仰より運動にどうしても傾倒していましたが、百万運動というのが私の人生を変えてしまいました。

信仰における愛国という基盤が出来てしまったのです。だからこそ雅宣総裁のような教えが雅春先生の違いが明確にわかるのであります。
違いという言葉で書きましたが、「間違い」という言葉が正しい。
現在の「生長の家」教団は間違っているのであります。そういうことが「生長の家」の信仰による正しい歴史観により育まれたのであります。

古事記や日本書記でも「雅宣総裁」を支持されている人は本気で読んだことがあるのでしょうか?
そこから引き出される言霊を解釈されてことがあるのでしょうか。

雅春先生は『真理』青年篇において言霊解釈が書いていますが、そもそも雅春先生は大本時代に『言霊と神通力』という御本を書かれています。それは宇宙の響きと一体になる言葉の響きそのものが「日本の言葉」に宿っているのであります。
以前にも書いたのですが

『生長の家五十年史』には
《谷口雅春先生は言霊学については既に大本時代において、江戸時代の国学者である堀秀成や、明治時代では川面凡児や林甕臣の著書を読まれて、その素養を身につけておられたが、この時には、これらの人の著述を典拠としているだけでは異説紛々として確実な解釈を得ることが出来ないために、言葉にヒビキがあり、ヒビキにハタラキ即ち命があると言う真理から、自らの言霊学を『日本霊学略解』(昭和133.01発行生長の家講習会テキスト:50音の霊性を解説同内容が『日輪めぐる』『幸福読本』に記載)としてまとめられている。また戦後は、それを改訂されて『真理』第4卷青年篇に「言霊の神秘について」と題して収録されている。》印は山ちゃん記載

だが、ここで見落とされているのが大本時代の『言霊と神通力』である。これが基本となっていることを見落とせば『古事記』との関連との発想が見出されない。それは大本に入信していたから結びつける事が出来るのである。

最後に『言霊と神通力』に

1)宇宙の一大神劇

何と言う皇典「古事記」は驚くべき大預言であるだろう。私は此頃つくづくこの書物が上中下三巻日本の国に逸散せずに残されているということは、吾等にとってどんなにか力強い事であるだろうと考えます。この纔(わず)かな書冊のうちには過去現在未来を通じて宇宙に起って来るべきあらゆる悲劇、喜劇のプロットがをさめられています。それは全く驚くべき秘密の玉手箱であります。

 このようにして直感にて古事記を預言されているのであります。


その言霊を解釈することが「生長の家」の信仰において大切であることを忘却している。
だが、不思議な人もいるのです、私のように頭の悪い人は理屈をこね回さないとわからない人もいますが、中には直感で把握する人もいます。

そうした直感で把握する人はもともと基礎が出来ているのでしょう。

さて、生長の家で分派というのが生じてしまった多くの要因は『言霊』解釈が出来なかったことが由縁であると思っています。
言霊解釈が出来れば宇宙の言葉や「統」(す)という言葉の大切さや日本における歴史と縦の繋がりを理解することになります。
そこが分かれ目のようです。

いくら真理を言おうとしても「言霊」の大切が根本的に分からないから説得力がないのです。
その「言葉」である『言霊」を「宇宙浄化の祈り」を無くしてしまったのは『真理』青年篇(4巻)を放擲し、「生長の家」の真理を放棄したことに繋がることを理解出来ないからであります。

神を恐れぬ行為

鰯の頭も信心からという言葉がありますが、私のような人間でも捉えてみれば「生長の家」というのを信じたのは「谷口雅春先生」という尊大な御方があればこそ「生長の家」を信じた。また真理などのお言葉は正しくその通りであり、なるほどなそうなんだというように「信頼」あればこその信仰でした。

だが今の生長の家は疑心暗鬼の家のようなものです。
講師などは否定はするが、心の奥底では「雅春先生」を信じている人のほうが圧倒的に多い。
そりゃそうだろう。
総裁谷口雅宣氏は真理の言葉などあまり耳にしたことがない。環境という唯物的観点から発言するので、奇蹟など起こりようがない。神様の言葉さえも否定するような総裁だから信徒は可哀想に思える。

新興宗教としては礎はしっかり出来ていたが、何か怪しい。祭神さえ追加するのであるから何とも発言しようがない。造化の三神というような形で勝手に作り上げている。
本当に神も恐れぬとはこのことです。
大阪にサムハラ神社というのがありますが、ここも造化の三神として天御中主神とイザナミ神とイザナギ神を祀っています。ここも昭和の初期に作った神社ですが、ここは奇蹟も出てきているのでまだ真面かな。

古事記など理解しているのかどうかわからない人物がこんな簡単に祭神を追加するとは、理解に苦しみます。

泉涌寺

天皇観の欠如による日本の歴史というのは『日本の歴史』そのものの喪失である。
私は天皇陵や皇族関係の墓碑などを参拝してつくづくそう思う。
私のように『天皇陵』の参拝および皇族関連の陵墓も参拝させていただいている人は少ない。

私の主宰しているグル-プでこうした皇族関連の陵墓の説明もしていますが、やはりこうした御陵などに興味などある人はいません。だからといって説明はします。
今年は仁徳天皇と陪冢などを説明しました。先日の山の辺の道の散策では景行天皇陵についても説明しました。
いままで10箇所程の陵墓を参拝しています。
それでもほんの少ししか説明できないのが残念です。
関西でハイキングすると必ず『天皇』に関する建物や遺筆などがあります。
先週行った泉涌寺はまさしく「天皇の寺」であります。御寺として陵墓は歴代天皇陵を参拝する時には欠かせない所であります。


86後堀河天皇觀音寺陵
(かんおんじのみささぎ)
円丘京都府京都市東山区今熊野泉山町
泉涌寺内)
87四條天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)

108後水尾天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
泉涌寺内)
109明正天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
110後光明天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
111後西天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
112靈元天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
113東山天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
114中御門天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
115櫻町天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
116桃園天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
117後櫻町天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
118後桃園天皇月輪陵
(つきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
119光格天皇後月輪陵
(のちのつきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
120仁孝天皇後月輪陵
(のちのつきのわのみささぎ)
石造九重塔京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)
121孝明天皇後月輪東山陵
(のちのつきのわのひがしのみささぎ)
円丘京都府京都市東山区今熊野泉山町
(泉涌寺内)

陽光太上天皇(追尊天皇)皇后和子(後水尾天皇皇后)皇后房子(霊元天皇皇后) ・皇后幸子女王(東山天皇皇后)・贈皇太后尚子(中御門天皇女御)・尊称皇太后舎子(桜町天皇女御)・尊称皇太后富子(桃園天皇女御)・尊称皇太后維子(後桃園天皇女御・皇后欣子内親王(光格天皇皇后)・贈皇太后繁子(仁孝天皇女御)・尊称皇太后祺子(仁孝天皇女御) 


後堀河天皇と孝明天皇陵は泉涌寺の外側の奥の山にあります。
また泉涌寺の隣にも
藤原晴子墓(陽光天皇皇妃)・藤原前子墓(後陽成天皇女御)藤原光子墓(後水尾天皇後宮)・藤原隆子墓(後水尾天皇後宮)藤原国子墓(後水尾天皇後宮)・藤原雅子墓(仁孝天皇後宮)温仁親王墓(光格天皇皇子)・悦仁親王墓(光格天皇皇子)・安仁親王墓(仁孝天皇皇子)

追尊天皇について-2

追尊天皇について詳細なことが記入されているブログから抜粋致します。

1.追尊天皇とは
 生きているうちに皇位に即かなかったが、没後に天皇号を贈られた皇族

  岡宮天皇  崇道盡敬皇帝  春日宮天皇  崇道天皇  慶光天皇(尊号は太上天皇)

2.不即位太上天皇とは 皇位に即かなかったが太上天皇号を送られた皇族

  小一條太上天皇  後高倉太上天皇  後崇光太上天皇  陽光太上天皇

3.歴代天皇列記経験女帝とは 史料に歴代天皇に列記された経験のある女帝で、現在は歴代天皇ではない皇族

  神功皇后  飯豊天皇




岡宮天皇陵岡宮天皇(草壁皇子)  758年追尊
奈良県高市郡高取町森

近鉄吉野線壺阪山駅北西に位置する

近くの春日神社境内にある束明神古墳こそ岡宮天皇陵との説あり

※父(天武)母(持統)妻(元明)子(文武・元正)皆天皇


黄金塚陵墓参考地崇道盡敬皇帝(舎人親王)  759年追尊
奈良県奈良市田中町

JR桜井線帯解駅東南東約1000mに位置する

日本書紀編纂主宰者としてあまりにも有名.盡敬皇帝なる称号はこの親王のみ
宮内庁は参考地で陵指定していないが、候補者は崇道盡敬皇帝らしい。

※子(淳仁)天皇

田原西陵春日宮天皇(志貴皇子)  770年追尊
奈良県奈良市矢田原町

奈良交通バス田原御陵前下車すぐ

「石走る…」の和歌はあまりにも有名

※子(光仁)天皇

八嶋陵崇道天皇(早良親王)  790年追尊
奈良県奈良市八島町

奈良交通バス八島町下車南へ100m後東へ100m
山辺の道沿いにあり

種継事件に巻き込まれ無罪を主張。後怨霊騒ぎとなり追尊。
近くに御霊神社あり


※兄(桓武)天皇

盧山寺陵慶光天皇(閑院宮典仁親王)  1884年追諡
京都府京都市上京区北之辺町蘆山寺内

京阪電鉄出町柳駅下車西へ150m河原町今出川交差点の次
の信号を南へ(寺町通)300m左側

閑院宮二代目。江戸時代に追尊につき幕府に断られること二度。当時の幕府と
皇室の力関係が髣髴されます。

※子(光格)天皇

小一條太上天皇(敦明親王)  1017年太上天皇
陵地未ダ決定セズ三條天皇の第一皇子。藤原道長の力で太上天皇号を贈られるが、この贈号
は、正式な太上天皇ではなく、準太上天皇という説もあり。今回は、「陵墓参拜
寶典」に贈太上天皇扱いされているため、ここに掲載。ただし、陵地不明。

※父(三條)天皇

鵺塚陵墓参考地後高倉太上天皇(守貞親王)  1221年太上天皇
京都府京都市伏見区深草本寺山町月輪南陵兆域内

京阪電鉄鳥羽街道駅下車東へ400m程

高倉天皇の第二皇子。承久の乱により太上天皇不在の折、鎌倉幕府の力に
より贈太上天皇。鵺塚は元平安神宮南の岡崎グラウンドにあったが、昭和三十
年頃現在地に発掘物のみ埋蔵す。

※子(後堀河)天皇

伏見松林院陵後崇光太上天皇(貞成親王)  1447年太上天皇
京都府京都市伏見区丹後町

京阪電鉄伏見桃山下車南南西へ300m程

北朝第三代崇光天皇の皇孫。現皇室はこの直系らしいです。

※子(後花園)天皇、父栄仁親王(伏見宮家祖)

月輪陵陽光太上天皇(誠仁親王)  1588年?贈太上天皇
京都府京都市東山区今熊野泉山町

京阪電鉄東福寺下車東南東700m程

正親町天皇の第一皇子。即位が約束されていたのにも関わらず歿する。
息子天皇になるがゆえに贈太上天皇となる。

※子(後陽成)天皇

狭城盾列池上陵神功皇后  
奈良県奈良市山陵町

近鉄京都線平城駅下車北へ200m程

仲哀天皇皇后。摂政期間が長いためか天皇に列せられることもあったので
特に掲載する。なお、この陵は陪冢を多数持つが今回は割愛。

※子(應神)天皇

埴口丘陵飯豊天皇  
奈良県北葛城郡新庄町北花内

近鉄御所線新庄駅下車南へ400m程

履中天皇皇孫。清寧天皇歿後政務期間があるためか天皇に列せられる場合
がある。事実、御陵制札も飯豊天皇と記載されている。

※弟(顕宗・仁賢)天皇

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