則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2014年11月

讀んで戴ければ幸甚です。

尊号としての天皇

太上天皇といっても生長の家の今の人は知らないと思う。
また、生長の家でも天皇陛下の事をよほど詳しく勉強しなければわからない。



ただ言葉は太上天皇ですが
太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った、いわば譲位元の天皇に贈られる尊号。または、その尊号を受けた天皇である。上皇(じょうこう)と略することが多い。

歴史

持統天皇11年(文武天皇元年)8月1日(697年8月22日)、持統天皇が文武天皇に譲位し、皇室史上初の太上天皇(上皇)になった。その後、江戸時代後期仁孝天皇に譲位した光格上皇まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代天皇の内半数近くが、退位後に上皇となっている。ただし、その中には「天皇在位のままで崩御するのは不吉である」として、崩御直前に譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、そのまま崩御した例も見られる。醍醐上皇の8日間、一条上皇の10日間、後朱雀上皇の3日間などはその典型と言える。

ちなみに皇極天皇が弟・孝徳天皇に譲位した例はあるが、この時点では「太上天皇」という尊号が無かったため、「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」という臨時の尊号が設けられた。また、その後皇極天皇自身が、斉明天皇として重祚している。

殆どの天皇には、譲位後すみやかに太上天皇号が奉られるが、退位によって自動的に奉られるものではないので、仁明天皇後醍醐天皇のように退位後1,2日で崩御したり、淳仁天皇(淡路廃帝)のようにクーデター的に廃位させられたり、安徳天皇仲恭天皇(九条廃帝)のように、退位・即位の事実が曖昧にされたりして、尊号が奉られなかった例もある。

逆に光厳天皇崇光天皇は、事実上の廃位の後に尊号を奉られている。足利義満の死に際し、朝廷が太上天皇の尊号を贈ろうとしたという事例もあったが、最終的には子の足利義持が辞退した。第46代の孝謙天皇は、自ら退位したのち重祚して称徳天皇となり、皇室史上ただ一人、上皇から天皇に復帰した。ちなみに、正安3年1月28日(1301年3月9日)から嘉元2年7月16日(1304年8月17日)までの間、後深草上皇亀山上皇後宇多上皇伏見上皇後伏見上皇が並立し、最も多い5人の上皇が同時に存在した。

2014年の時点で最後の太上天皇(上皇)は、文化14年3月24日(1817年5月9日)、自身の皇位を仁孝天皇に譲位した光格天皇である。

明治以降の皇室典範では、譲位を認めていないため、制度上太上天皇(上皇)は存在しない。

ただ生前に皇位に就かず、生前に太上天皇尊号を贈られた天皇がおられます。

京都市の伏見区にあり近くには黄桜などの有名な清酒会社がある。そのすぐ近くにその天皇陵があります。
但し、天皇にはなれなかったのです。
だが天皇陵としては他の御陵とも遜色なく立派なものです。
戦前では天皇陵として多くの人に巡拝をされてきた天皇です。

後崇光太上天皇伏見松林院陵です。

また崇道天皇について語ります。

早良親王追号

早良親王は、光仁天皇の第二皇子。兄桓武天皇即位に伴って皇太子となるが、大伴家持が策画した藤原種継暗殺事件の主謀者として、淡路に流される途中絶食して絶命。なお、この件の記事は桓武天皇の詔令より『続日本紀』から削られ、逸文は『日本紀略』に見られる。

のち、桓武天皇はその祟りを恐れ、親王怨霊に対して懺悔と謝罪を度々行って、最後は崇道天皇として追尊した。「崇道」とは「祟道」に掛けたものではないかという見方もある。長岡京への遷都からたった10年で平安京へ遷都した理由の一つには早良親王の祟りを避ける目的があったというのが歴史学会における定説となっている。

こうして追尊とした天皇は歴代でも何人かおられます。
早良親王の墓として奈良市の南部にあり、私も何度か訪れたことがあります。この御陵の10m東側に八嶋神社があり隣に島田神社がある。ともに崇道天皇御陵内にあったとされています。また少し南には崇道天王社とよばれる神社があり、田んぼの中にひっそりと佇む。
これも早良天皇を鎮座する為に建てられた。
また西北には(奈良市北永井)にも崇道天皇社があり、また北側数キロには崇道天皇社もあり、いかに当時の桓武天皇が恐れていたかが伺いしれます。

桓武天皇が平安遷都後にもその怨霊をおそれたかは京都の八瀬から少し南側に崇道神社があります。
またそこから500m西側の比叡電鉄の八幡前のすぐ近くに崇道神社があります。
このようにして早良親王がいかに非業の死を遂げてか伺い知れます。

それと崇道天皇陵の前の道にはちょうど真ん中に八つの石が固まってあります。
これも崇道天皇陵にあった石だといわれています。

また崇道尽敬皇帝というとわかりますか?
舎人親王のことです。
天武天皇の皇子には高壁皇子や大津皇子や忍壁皇子などです、天武天皇の皇子は非業の死を遂げる天皇が多く、陵墓として祀られています。


龍野高校とは

世の中が変わったといえばそれでいいのだが、生長の家の思想が駄目になったのではなく、「谷口雅宣総裁」の思想というのに大きな影響をされた結果であろうということは誰もが同意することである。


http://togetter.com/li/657289


さて、そういう高校生や社会人が出てきても驚かないが、その高校生の出身校があの龍野高等学校であるのには驚いた。

それは戦後の危機的な日本の状況を『甘露の法雨』により救った田中静壹大将の出身高校であるからである。穏やかな揖保川が流れ、龍野城の対面に白鷺山があり、その山には田中静壹大将の石碑がある。
また揖保川を挟んでは「ひがしまる醤油」の大きな看板があり、醤油の町としても城下町としても平穏な町である。

そのすぐ隣に龍野高校がある。田中静壹大将の実家はそこから歩いても10分程で行けるような穏やかな田んぼの真ん中にある。

私はこの田中静壹大将のことでたつの市に訪れて市立図書館や市役所などを訪問した。またその石碑やあかとんぼ公園なども散策したのでその情景は今でも脳裏に焼き付いている。

また『大和の国 日本』の御著書は高橋史朗氏がアメリカに行き「占領政策によりアメリカに持ち去られた「大和の国の神示」を発見し谷口雅春先生に送付されたものです。
(前略)


しかし、翌二十一年一月六日に朝に啓示された「大和の国の神示」は、ついに検閲にあって全文が削除され、没収されて、そのまま米国に持ち去られてしまったのである。


 ところが一昨年(昭和五十六年)七月になって私の深層の意識に、釈尊が「今から五十六億七千万年後に弥勒菩薩がこの地に下生して来て、この世が弥勒の世という理想世界が展開されて来る」と釈尊が預言されたこの年数の示す数字は人間界の五十六億七千万年間という実数ではなく、五六七という数字が順序的に列んで出て来る何時代かの予定時期を表象的に暗示するものだとピンと私の頭に来たのである。それで私はその頃演壇に立って、「今がその弥勒菩薩の下生される」(弥勒菩薩下生経)時であると聴衆に対って話した。そしてその事を表象する何らかの事柄が此の五十六年七月にあらわれるであろうとその期待を話していた。ところが、この期待は、アメリカに持ち去られていた「大和の国の神示」が、三十六年ぶりに、アメリカで発見されて、私のもとに送られて来て実現したのである。かくして私の現在意識にも秘されていたところの神示が発見され、ここに戦後の四神示(筆者注 「終戦後の神示」「日本の実相顕現の神示」「君民同治の神示」「大和の国の神示」を指す)がそろって公表されることになったのである。

(『大和の国 日本』はしがき)
この高橋史朗さんも龍野高校出身である。

生長の家というよりこの日本に多大な影響を与えた人の出身高校と同じであることである。

そのことも「生長の家」という今の教団は歴史を封印してしまったのでこういう高校生が出てくるのです。
むべなる哉。

11月は2度目の56km走行

今月は2度目の56km越えです。
脚力と体力も次第についてきましたが、9月27日のほうが調子はよかった。それでも50kmを超える脚力は保持できたのが嬉しい。

今回は前半は無理しないで後半に体力勝負が出来たのが良かった。最後は寫眞を撮ったりして気持ちはそちらの方に行きましたが、それでも嵐山までは歩こうと思ったのが収穫でした。

箕面から嵐駅まで56kmを歩く(寄り道のため距離は長くなりました)

経過タイム

距離

目的地( )内は標高

727

0

箕面駅を出発。(84m)今回はゆっくりと歩いた。119日の六甲全山縦走の疲れもあるかどうかわからないまま。政の茶屋まで取り敢えず歩いた。

だからといってゆっくり歩いたのではなく、少し早歩きである。

815

3.6

東海自然歩道の始点の政の茶屋を出発。(285m)北摂霊園まで登りが続くがだからといって慣れている道でもある。順調に進んでいく。

852

1.8

開成皇子の墓(最勝ヶ峰(535m))に到着。この開成皇子の墓が最勝ヶ峰の最高点です。礼拝してから再び歩き始めます。ここも休憩なしで進んでいきます。

925

1.9

北摂霊園(580m)鹿よけの柵が2箇所あるが、こんなことするより鹿の増えすぎをなんとかして欲しい。ここから一気の下りと泉原の湧水から平坦を走る。

950

3.0

府道分岐(370m)。ここから緩やかな登りです。ここはゆっくり歩きました。

910

2.5

素盞嗚尊神社(325m)ここで初めての水分補給である。そこから山道へと進んでいきます。

928

1.4

府道出合(355m)ここから直線で緩やかな坂道です。

936

0.7

上音羽屈折点(380m)ここから地道です。崖崩れが途中にありますが、茨木市は何もしないのか?

1050

1.6

忍頂寺信号に到着。(315m)ここから階段である。ここは一気に登り、階段が終わって少し休憩です。以前は必ず一回は休憩したが、体力がついたのか一気に登れます。

そこから長い坂道ですが、ここも一気に登り、途中トイレに駆け込んだ。

1124

1.2

竜王山(510m)の展望台に到着。ここで昼食をとった。展望台の眺めは最高である。

1156

2.3

車作大橋(135m)これから竜仙滝を経由して355mの稜線をのぼり萩谷の昔の町並みと竹林を通って萩谷綜合運動場のサッカ-場へと出る。ここも竜王山から休憩なしで一気に登り、一気に下った。

1245

2.6

萩谷総合公園(230m)ここは水分補給だけして摂津峡へと走る。

1322

2.0

白滝茶屋(130m)芥川の横にある茶屋である。ここから暫く平地である。

1340

1.4

原(府道出合)(130m)車の往来があるところである。小川の横を通る。ゆっくりと歩いた。

1322

2.0

神峰山寺(170m)長い坂道をひたすら登ります.
この道も休憩なしで登りました。

1425

3.4

本山寺(520m)ここでトイレをしてスタ-ト。本山寺の横からの道を利用する。

1515

2.3

ポンポン山(679m)ここは順調に軽快に走れた。

1544

2.2

杉谷(460m)平坦な舗装道路が続くが金蔵寺の1.2km手前から雑木林と急勾配な土手のような山道を下る。

1607

2.0

金蔵寺(340m)暫くは竹林を歩くが、ここからは急坂である。

1638

3.3

大原野神社の前を通り、勝持寺(花の寺)170m)ここであまりにも紅葉が真っ赤に染まっていて、その美しさに寫眞を何枚か撮りました。

走る気持ちは少し失せました。

1715

2.6

沓掛(R9号線)100m)少し小走りだが、下り坂なので気持ち楽です。


 


 

途中お店などに寄り道、コンビニや薬屋などのも立ち寄りました。そこからゆっくりと歩きました・

1924

8.0

嵐山駅(30m)に到着。最後は少しゆっくりしすぎました。

今月は二回目の56km越えです。

歩数は82260歩、六甲縦走は81083歩ですから、六甲より歩いたことになります。12時間以内であるけたことにホッとしています。


 


 


 


 

長野北部の地震

先週の19日に出張で信州の大町市に行ってきた。
大阪ではこんな風景は味わえないが、巨大な山が聳え立つ風景は圧巻である。
大町から少し南は穂高という地名がある。勿論、穂高からは距離的には離れている。
だがそうした3190mという大きな山は長野の人達にとり誇りのような気がする。

その大町から北へすぐに白馬村がある。大きな被害は山村に大きな悲しみを残したような気がする。
地震国の日本、いつ地震があるか予測は出来ない。この白馬村は東日本大震災を教訓として地域の繋がりを大切にしたという、11月23日午後12時現在死亡者ゼロというのは奇跡である。
地域ぐるみの運動を大切にしたおかげである。

私達の地域は反対に地域から離れようとしている。最近では地域の地図(吉田地図)はマンションの住居名前がない。

マンションで管理しているから大丈夫というのは間違いである。倒壊すればどうするのであろう。想定外という言葉が流行ったがいつ何時そうした想定外が起こるかわからない。人の事や公共のことはヤイヤイというのに自分の事は関係ないという。
隣保班というのが大切であることを痛感する。
他人とはいえいつでもボランティア活動は大切であることを思います。

和解とは

私は下記の文章を読んで『和解派』の論理は瓦解した。
こんなこと言っても「和解派」の人には全く分からないであろう。
和解とは誰と何を目的にするのか?
ましてや生長の家のトップである谷口雅宣総裁は和解などする気もないし、自分は悪いとコレポッチも思っていない。それを「学ぶ会」に対して「和解」せよと説いても和解など出来ようがない。
また、自分が率先垂範して和解の行動をとるのかとみれば、単なる傍観者に席捲しようとするだけである。

無理に「雅宣総裁」と「本流」とを対峙させようとするのは本質を誤魔化しているだけである。
「和解」という言葉を説いてから、その状況は益々悪くなるのは何故なのか?
偽聖経にしてもしかり、総本山を聖地ではないという発言もそうである。全てが雅宣総裁が発した言葉に和解を阻害する核心があるのではないか。
冷静に物事を判断すればわかることである。
『本丸』は雅春総裁に有り、そのことを自覚しないかぎり、その本質を見いだせないであろう。
「和解」をいえばいうほどその本質を胡麻化しているということを知らなければならない。
その和解とは誰に和解するのであろうか、仮に和解しても、雅宣総裁は自分の意見を全く譲る気はない。
それならば、唯々諾々として雅宣総裁という事を聞くことなのか?
それならば、雅春先生の説かれた「生長の家」の真理は喪失してしまうではないか。
そんなことは「和解」とはいわない。
和解を説いている和解派はその本質を何も言わないで「和解」をいえば「和解」がやってくるような空夢を描いているに過ぎない。それならば「和解」を雅宣総裁に提言すればいい。だが「和解派」は雅宣総裁に提言することを全くしようとしない。
自分の地位保全に必死だから仕方がない。そんなことでは「和解」など無理である。
今回の「宇宙浄化の祈り」「大東亜戦争」を否定するなど「反雅春先生」を表明しているではないか?
それでも和解せよというのか?そんなもの「生長の家」の教団ではない。和解することにより「生長の家」教団を失ってもいいのか。


日時:2014年11月22日 (土) 20時29分
名前:破邪顕正


私が予想していたことが悉く当たったようです。

谷口雅宣総裁の本性、正体がいよいよ明らかになりました。

この度、「ご祭神」の変更によって「宇宙浄化の祈り」がなくなりました。

また、谷口雅春先生のご生誕日という、誠におめでたい日に、谷口雅宣総裁は、「大東亜戦争」を否定し、「占領憲法」の擁護をはっきりと表明したそうであります。

徳島教区での講習会での講話を再現したわけです。

やはり、こちらが見抜いていたように、講習会での質疑応答はヤラセだったわけです。

如何にも講習会受講者からの質問があったかのように装い、それに答えたという形式にしていましたが、最初から、「占領憲法」を擁護する目的で、そういう話をしたというわけであります。

もう、これで谷口雅宣総裁という人がどういう人であるか、わかったでしょう?!

谷口雅春先生の「教え」に背反するようなことを説く谷口雅宣総裁にはっきりと「ノー」というべきときが来たのではないでしょうか。

しかも、それを谷口雅春先生のお誕生日で言うのですからね。

谷口雅宣総裁という人は、まったくの“確信犯”だということです。

心ある信徒の皆さん!

平成26年11月22日、この日をしっかりと銘記しましょう。

そして、この日を、自らの教団退会記念日にぜひしてほしいと願うものであります。

青年局の人の預言

<生長の家30年の暗黒史>

○昭和58年…「生政連」解散(活動停止)(総裁は、当時、生長の家理事)

○昭和59年…「日本を守る国民会議」脱退
※愛国運動からの事実上の撤退!谷口雅春先生はその前身である「日本を守る会」の結成において「生長の家の一つや二つ潰れてもかまわない」とまで仰いました。生長の家は祖国・日本のためにこそあるとの尊師のご覚悟を垣間見る思いが致します。

○昭和60年6月17日…谷口雅春先生ご昇天
          「實相無相光明宮大真理説授正思惟大聖師」

○昭和60年…青年局(青年会中央部)の解体

※谷口雅春先生の教えに純粋に生きようとして青年会運動を牽引していた当時の青年会長等の幹部が次から次と処分を受け、青年局が解体されます。

○平成元年…「両軸体制」のスタート
※このときに、谷口雅宣・広報編集部長(当時)は、「神誌」という呼称を否定し「普及誌」とします。「普及誌」には、谷口雅春先生のご文章が殆ど掲載されないということになりました。ここに谷口雅春先生否定の萌芽を見ることができます。

○平成2年…『理想世界』誌上に「ネットワーク考」を連載し、大東亜戦争侵略論を展開します。(11月、副総裁になる)

○平成3年…「宇治盂蘭盆供養大祭精霊招魂神社大祭祝詞」の書き換え
※『聖霊天降る宇治』の巻末には「祝詞集」が収められています。その217頁の「尽忠の精霊に告ぐる詞」と219頁の「精霊招魂神社大祭祝詞」とを読み比べると、両者の違いがはっきりとわかります。
 そこには、谷口雅春先生と谷口雅宣総裁との「大東亜戦争観」の遠いが如実に示されています。即ち、後者には、大東亜戦争における日本の使命、役割が見事に剥落しているのです。意図的に削除されたとしか言いようの無い重要な文言を前者から抜き出すことにします。

「…今や人類進化の一周期の終りにのぞみすべての人類は その皮膚の色彩の相異にかかわることなく平等の尊厳を恢復し平等の取扱いを受け その国土は独立し万民平等の自由が確保せらるべき理想実現の時期が近づきたりしがこの理想実現のためには 何れの国の民族かが尊き犠牲となって有色人種に“神の子”の実相を自覚せしめその独立精神を喚起せしめる天使たるの役割を演ずる必要ありしなり…」

 谷口雅春先生は、ここにおいて、はっきりと大東亜戦争における日本の役割を「天使たるの役割」と仰せられたのです。
 ところが、谷口雅宣総裁は、この箇所が気に入らなかったのか、全部、削除しています。大東亜戦争を“侵略戦争”と位置づける谷口雅宣総裁にしてみれば、それはとても容認できることではなかったのです。こうして、祝詞は改竄されてしまいました。
 そして、それを知られたくないと思ったのか、その証拠を抹殺するために、谷口雅宣総裁はこの「祝詞集」が収められた『聖霊天降る宇治』を絶版に処したのです。

○平成4年…谷口雅春先生『新刊書』の発行停止、
      既刊書重版停止(「内容上の理由」32点…事実上の絶版)
※平成4年7月15日、渋谷東急インでの取締役会(中島省治、鈴木卓朗、宮本三男、永井光延、辻信行、谷口雅宣、三浦晃太郎、磯部和男の8名)
 この「取締役会」で暗躍したのが、言うまでも無く、「谷口雅宣、三浦晃太郎、磯部和男」の3氏であります。「日本教文社」の社外取締役でしかない3氏が、裏で示し合わせて、谷口雅春先生の『新刊書』の停止へともっていったのです。そのときに言われたのがこの言葉です。
“谷口雅春先生の『聖典』はもう古い”
 この会議に谷口雅宣総裁がいなかったら、絶対に、この決定はありえないはずのものでありました。つまり、今から思えば、このときに、「日本教文社」は、この社外取締役3氏によって乗っ取られ、骨抜きにされ、魂までをも奪われてしまい、その社会的使命を終えたのです。

○平成5年…「国際平和信仰運動」を提唱
※これ以降、「日本国実相顕現運動」という言葉が事実上、消えてしまいます。その際のスローガンが“国をこえ、民族をこえて”であります。

○平成7年…「国際平和信仰運動」のシンボルマークとして“鳩葉っぱ”のマークが制定されます。
※「聖旗」の“光輪卍十字架”のマークが「ナチス」を連想させるという名の下に、これが制定されました。

○平成11年…谷口雅宣氏総裁代行

○平成12年…ISO14001取得の提唱→環境保護運動一本への傾向が強まります

○平成13年…「参議制度」が新設
※この規約改正によって、谷口雅宣総裁が金も人事も握る権力を有することになります(教団完全支配)。

○平成15年…“森の中のオフィス”構想の発表。
※このとき谷口清超先生は原宿の本部を移転することはまかりならんと言われたと言います。

○平成16年…「新教育者連盟(新教連)」を教団から切り離す

○平成18年…総本山の「鎮護国家特別誓願券」の書き換え。
※「鎮護国家」を外し「世界平和」が入ります。その後、平成26年、総本山の手水舎の柱からも「鎮護国家」の文字が消され、「世界平和」に替えられます。

○平成19年…環境保護運動が本格化

○平成20年10月28日…谷口清超総裁先生ご昇天。
※諡号に「大聖師」が入り「實相無相光明宮弘誓通達大慈意大聖師」。「大聖師」は谷口雅春先生のみ、という谷口清超先生のお考えは無視されました。
※谷口清超先生のお通夜で、荒地浩靖先生、宮澤潔先生の出席が拒否される。この時、お二人を出席させようとした谷口恵美子先生に対して、谷口雅宣総裁は「アンタ」呼ばわりする。こののち、谷口恵美子先生は、子供や孫、友人の方と自由に会うことができなくなり、所謂、軟禁状態におかれます。あまつさえ、毎月、家賃等で100万円(うち40万円は家政婦)を徴収されることとなります。

○平成22年…「四無量心を行ずる神想観」ニューバージョンの発表

○平成22年…「霊牌」焼却をやめ、燻炭化
※「霊牌」のいわばミイラ化です。CO2削減のためが表向きの理由でした。

○平成23年…「総本山は聖地ではない」と発言(谷口雅春先生26年祭にて)

○平成24年…『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』を発行
※「聖経」を補強する必要があるということで創られます。最初は、「聖経」に取って代わるものではないと言われていましたが、今では、どんどんこの「経本」の読誦が行われています。

○平成25年…「ご神像」の撤去、“森の中のオフィス”へ移転。
※「ご神像」は汚い毛布にくるまれクレーンでつりあげられ、作業員の土足にふみつけられました。移転に祭し、教団は何の儀式も執り行いませんでした。

○平成25年…会則の変更
※「栄える会」の会則の目的から「本会は聖典『生命の實相』の精神を信奉し、―世界的視野に立つ有為な産業人の養成を図る」の部分を削除。「教職員会」の会則の目的から『人間神の子の実相』『日本国の実相』『天皇の実相』を顕現し真に平和な世界の建設に寄与する」の部分を削除。

○平成26年3月1日…総本山で執り行われた「立教記念式典」において「実相額」が覆い隠される。国旗「日の丸」も「聖旗」も掲げられず、国歌「君が代」の斉唱もなし。ただ、壇上には「鳩葉っぱ」の旗のみ。その上、顕齋殿が土足履きになる。

○平成26年4月…谷口恵美子先生の高知への脱出
※谷口恵美子先生は「成年後見制度」を強要されて、通帳と実印とを取り上げられる。そして、谷口恵美子先生は軟禁状態のお山から高知の宮澤先生ご夫妻の元へと脱出されます。

○平成26年5月…総本山の「神示祭」が廃止となる。「原宿本部会館」の解体が始まる。

○平成26年11月21日…総本山の「ご祭神」が変更に。天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神が加えられる。

今回生長の家暗黒の30年史ということで破邪顕正さんが「光明掲示板」に書かれていたのをコピ-ペ-ストした。
読んで最初に「青年局」の解体がないことに少し不満であったが、あとで付加されたので安心した。

私は昭和59年に第36回青年会全国大会(武道館)で-大伝道運動への出発-というテ-マの時にこの全国大会に参加していた。
『理想世界』百万運動も過渡期であったことは事実であったが、それでも優秀な人材を生長の家は排出していたのは間違いない。

私はトキさんのように百万運動の何かを知らずにただ人の噂や想定などで散々悪口を言っている人が昭和60年以降出てきたことは残念であった。
同じ仲間でも悪口をいうような人もいたことも事実である。『百万運動』の本当の目的を知らない人には「無理して活動した」運動だけに過ぎないであろう。

この人は信頼出来るなどとうっかり信じて、とんでもないことになった人もいるであろう。
生長の家でもそうである。まさかこんな人がというような人が信頼出来ない人が多い。
それは自身でもそうであるが、うっかり信じて騙されるようなことがある。

私は専従のときに「怪文章」が全国に配布されたことを常に思い出す。
その文章は本部に返却したのであるが少し残念であった。あれは東京の青年会の人が主犯である。
それを手伝った人は今生長の家の主要人物である。

私の地元でその「怪文章」の消印を見ると大阪の浪速区から単位青年会の委員長へと郵送されていた。
百万運動を反対する文章であるが、全国のそれぞれの都市から郵送されていた。

以前にも書いたが、その解体される都市に青年局に行った。
「生長の家」は愛国運動や天皇信仰や「雅春先生」の行った運動を破棄していくことになる。、青年局の人が言ってくれたことを思い出す。それが正に当たっていた。

青年会を解体するどころか「生長の家」そのものを解体することが目的であったのは事実であった。
やはり「雅宣総裁」は生長の家を解体することが奉職した目的だったことを今更ながら事実として感じる。

久しぶりの万博広場

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前に万博外周道路を走ったことを書きましたが、今回はおまつり広場でのイベントに行ってきた。
それは、昨夜私の知人のABCアナウンサ-のH氏が明日お祭り広場でイベントを開催するということで行ってきた。
万博は今年は二回目であるが、秋の無料での入場ということで賑わっている。
さすがに、沢山の人である。朝日放送はプリキュアという漫画を推し進めている。吉田仁美さんという人が参加して周囲に子供達がひたすらに待っている。プリキュアの仮面というのかそういうフィギアというのかそういう衣装で登場していた。アナウンサ-も大変である。

寫眞は許可された時に撮っています。プリキュアの出場のときは撮影禁止です。

さて、H氏も若いアナウンサ-に大変である。この寫眞はH氏にも送信しています。
さて、私の後ろでプリキュアに声援している若い男性がいた。こういうロリコン趣味とかを間近ににみて用事も重なり帰宅したが、こういう人は必ずこうしたイベントにはいるものである。

さて天満の方に用事があったのですが、天神橋商店街で薬局に買い物があり、商品をあれこれ見ていると、中国人が「ぬれマスク」多量に購入している。しかも店員にもしつこく食い下がっている。

なんで「ぬれマスク」を購入するのだ。人の事を考えない中国人である。自分さえ儲ければいいというように考えている。
大阪の町は中国人で一杯である。嘘ではない。あの辛坊治郎さんが大阪城周辺は中国人だらけであると言っていたが、まんざら嘘ではない。

硫黄島(いおうとう)は中国漁船で占領されている。これは国家侵略であると思っている。中国に日本漁船が多量に侵略したらどうだろうか、必ずや海軍や空軍が出てきて沈没させるだろう。
それが普通の国家間での取り決めでは当たり前のことである。

世界ではそれが常識であるのです。もし硫黄島に中国漁船が島に上陸すればどう対処できるのであろうか、中国漁船のやりたい放題でいままで35年間珊瑚を守り続けた漁民はどうなるのであろうか?

こんなこと考えていたら、不安になる。

雑感

この六甲全山縦走大会は四年間アウト参加している。慣れているとは言えども毎回厳しい、昨年度は11月23日でしたが、その前の日曜日にどうにか身体が復調した。その一ヶ月間はほとんど土日は休養状態である。
だから悪戦苦闘の連続だった。菊水山では何度も休憩し、もう止めようと幾度と思ったが、六甲山最高峰の少し東側でポタジュ-とカロリ-メイトを食すると変に元気が出て、宝塚まではほとんど走って行きました。

でも通常運動していない人だと脚が痛くなり、筋肉痛で耐えられないこととなります。完走した人でも多くはもう歩きたくないという状況が多くの人の感想であります。でも私はそれでも現在の身体であれば走れますし、もう少しの距離ならば大丈夫です。
それは練習しているからであります。
土曜日に練習することが多いのですが、40kmとかをトレイルランニングします。坂道は登りは歩き、下りは走るようにしています。通常40kmを10時間以上かかる所を8時間位で走破します。42.195kmのフルマラソンでも練習をしていない人では5時間は通常かかります。
それを考えると階段や坂道など起伏に富んだ山道は厳しいが地道がなんとも言えないほど足に優しい。
ただ、砂利道や葉っぱが埋め尽くされた道は大変危険な場合が多いのです。下に石ころ等があり躓いて転ける場合があります。また岩山を手を使い登ります。ロッククライニングのような場所もあります。そうした悪条件でも慣れていくようにしていきたい。

これから登り道を軽くジョギング出来るようにしていきたい。会社の昼休みには坂道の訓練をしています。
そういう時は軽く走れるのですが、リックサックを背負い、その状態での走りも今後想定してトレ-ニングをしていきたい。
来年度の鯖街道の走破を成し遂げたい。76kmをどうにか脚が持つように訓練していきたい。そうでないと三年間小浜から鞍馬駅までや市原駅までは走破したが出町柳まではまだ走破していない。

それでも最初(3年前)は峰床山の周囲で道を間違え2時間も右往左往してどうにかして正規ル-トに到着してみれば道は真っ暗である。熊が出没するような場所を3時間程闇に包まれた山道を懐中電灯を照らしながら歩いたのを懐かしく思う。その時が76km歩いたのである。
歩数が12万5600歩であるから、すごいことです。
今回の歩数でも81500歩ですから、その距離と時間も大変なことです。

六甲全山縦走大会に参加して

六甲全山縦走大会にアウト参加してきた。始発電車に乗り山陽電鉄の須磨浦公園駅に着いたのは午前6時27分。そこから小糠雨の模様であるが、地面も然程絖らしていない。

線路に沿って明石方面へ緩やかな登りである。芭蕉の石碑などがあるが、晴れていれば明石大橋が見える。
そこに大会参加する人の最初のチェックポイントがある。この大会はスタ-トは午前5時から7時までである。
須磨浦公園駅から少し遅れた。スタ-トが午前6時40分頃である。多くの参加者は既にスタ-トしている。

さて、坂道から階段である。鉢伏山が最初の山登りです。横にロ-プウェイがあるが勿論横目に見るだけである。
息を切らし楽々と頂上へと脚が軽かった。

あまりにも軽かったのが反対に怖かった。それから鉄槌山そして階段を降りて高倉団地へと進む。
そして横尾山への長い階段である。ここも階段の最後で少し休憩した。そこから人が多すぎるための渋滞である。5m行っては止まりを繰り返す。なかなか進まない。
須磨アルプスまで渋滞は続いた。須磨アルプスを越えたのは午後8時30分である。
そこから一端山を下る。妙心寺の地名がつく市街区内である。須磨浦学園からも近い。

さてそこから高取山へと登る。ここも渋滞であるが、あまり止まることなく渋滞が続く。頂上まで大きな渋滞がなく順調にすすむ。長田区という地名であるが、かの残虐な殺人があった場所からは近い。


さて、そこから鵯越の急な坂道もなんなく越えていく。
だがそこから烏原になると様子が一変する、右脚の膝の上が筋肉が硬直するような感じである。
まあ治るかなという感覚であった。そこから菊水山の登りである。さすがにここでは軽く三回は休憩した。脚が動かなくなっているのがわかる。

少し自信がないようになってきたが、菊水山の頂上では水分を補給してすぐに出発した。
雨は激しくはないが降り続く。次は鍋蓋山である。ここは休憩なしに登れた。
だが山は靄が発生してきた。この靄は宝塚まで続いていく。

鍋蓋山から順調に進んだ、市ケ原から最後の難関である摩耶山への登りである、市ケ原では人がたむろしているので、少しすすんで、階段の所で小休憩。
それからは休みなしで摩耶山である。
だが、少し右脚の膝の上部の違和感である。今回は階段を上がるのが億劫であった。縦列のなか休むような雰囲気ではなかった。がむしゃらに脚を前に進めた。
摩耶山では少し休憩した。約10分位である。食事も兼ねてであるからそんなに長くはない。そこから六甲ガ-デンテラスに向かう。そこから違和感が硬直した状態となった。
右脚上部がこむら返りのような状態で右脚が動かせない。左脚を上げて階段を登る。だが長い階段は左脚にも違和感を感じる。
棄権して帰宅しよう。
六甲ケ-ブルで帰ろう。暫くはそんなことを考えていた。
たしか、こむら返りにはマグネシウムやナトリウム・カルシウムなどの不足が要因である。
ナトリウムはリックサックの中にあるからそれを摂取しよう。
階段が終わったところで、水分補給と干し梅を何個か食べた。
それから六甲山のなだらかなアスファルト道を歩く。六甲山ガ-デンテラスも休憩なしで六甲最高峰を目指した。
道路脇を歩くのが六甲全山縦走であるが、山道を歩くのが通常である。
暫く歩くと、山道の手前では暗くなった。ヘッドライトと懐中電灯と二つ持って歩き始めた。
そこでさっそくの渋滞である。歩いて止まり連続である。
これが塩尾寺まで続くのである。約8kmの山道をひたすら歩くのである。約3時間30分、休憩なしでひたすら歩くのである。
そこでは右脚の悪さも回復しているのである。
小雨と山道の泥濘も歩きを遅くしている。懐中電灯で照らした山道は凸凹の石などは回避できるが、斜面などは判別しにくい。
大平山ではボランティアの女性が声を張り上げて声援してくれている。こんな山の中でありがたいものである。
この六甲全山縦走大会は多くのボランティアによりなりたっています。
感謝しかない。
さて、阪急電車かJRか分からないが電車の音が聞こえた。
ようやく塩尾寺である。
そこから急坂で宝塚駅に向かう。
まだ脚には余裕があったが無理しないほうがいい。ゆっくりと歩いた。
宝塚駅には8時47分である。
阪急の宝塚駅の花の道方面のトイレで着替えて、帰宅した。
今回は脚は反対に大丈夫である。あれほど硬直した右脚がなんともない。
それより明日は会社である。早く帰宅したい。
来年もまた申し込もう。

六甲全山縦走大会へ

今日は六甲全山縦走大会である。
大雨の予想であるが、雨対策などしていないので少し心配である。泥濘を歩くのは危険が伴う。足元を注意しながら歩かなければならないので疲れは重なる。スタ-トは須磨浦公園駅である。ゴ-ルが宝塚駅までである。56kmという長い距離を歩いて踏破する。
事前に最距離は56kmは歩いているが、雨では長い距離は歩いたことはない。
一昨日に階段を何度も歩きながら体力の維持に努めてきた。階段がこの六甲全山では大きな勝負どころである。とりわけ菊水山における山登りがタ-ニングポイントの一つとなる。これを乗り切れば鍋蓋山や摩耶山は流れで登れるだろう。

朝の6時30分にスタ-トして宝塚駅には夜の9時を予想している。遅くなるのは山道での渋滞を予想するからである。さて、結果はどうなるか?

古本屋通いして

尊師谷口雅春先生の偉大さは多くの人々に賞賛され讃嘆されてきた、だが「ことば」では称えきれない。
生長の家の信徒に中心帰一というの大切さを説き、物質を構成するものは全て、中心をもって形成されていることを学んだ。それは家や国家にも同じであると教えられた。
だが、最近の生長の家の信徒はその中心帰一というのを誤解しているように思える。それはどういうことであるかというと、中心というものは徳という理念があることを忘れている。それを忘却して「中心帰一」を唱えるなど不徳であるとしかいいようがない。

その徳ということである。その徳という言葉を辞書で引くと
1 精神の修養によってその身に得たすぐれた品性。人徳。「-が高い」「-を修める」徳目
2 めぐみ。恩恵。神仏などの加護。「-をさずかる」「-を施す」
3 得(とく)
4 富。財産。 「-いかめしうなどあれ... [さらに
]

谷口雅春先生はこの徳を天皇陛下に崇め、讃えておられたのである。この日本で最も徳のある人物として、尊敬の念を雅春先生が抱かれておられたのが天皇陛下なのであります。

それをどうして第一義にしていかなければならないのである。常に天皇陛下が優先するのである。
それは生長の家が天皇信仰であるからである。天皇信仰とはどういうことなのか。

それは谷口雅春先生は
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歳であの難解な『維摩経』を読んでおられる。なんということであろう。しかも25歳で『国訳大蔵経』を読んでおられる。現在ではこの国訳大蔵経は経部14巻、論部15巻、戒律研究2巻よりなる一大仏教叢書である。私など読んでもチンプンカンプンである。

もちろん、これを読める素地があったのはむべなるかな。もちろん『古事記』『日本書紀』も通読されていたことは自明の理である。歴史書物なども沢山読まれておられたことは、拝察いたします。
そうした素地があればこそ、真理が説けるのです。帝王学を学ばれ、理論を構築され、論理を喝破され、宗教を超越されておられるのである。それでこそあの『生命の實相』なのである。
たとえばあの『生命の實相』の生活篇は読むと、心震わせ、魂が鼓動し、身体が痺れるような言葉(神霊)が発揮されそれを私達は観じるのです。心が病むとき『生命の實相』を読むと勇躍躍起になり心弾むのである。私はいろいろな本を読みますが、雅春先生を超える書物は見たことがない。もちろん神様が書かれたことは頭ではわかっているが、それが凄いのです。感嘆するかな尊師谷口雅春先生。
また、生まれた環境というのが偉大な教えに導かれた大きな要因があることを『50年史』にかかれておられる。
あの『国家の品格』を書かれた藤原正彦氏は天才というのはその生まれた自然・歴史・民族という風土が醸し出されて天才というのが生まれると書かれている。
なるほどである、そうしたものが尊師の信仰としてのこの生長の家に「天皇信仰」というのを生み出されたのです。

私は勉強というのは人に教えを乞い、嘆願するのは勉強ではない。自分で探求してこそ勉強なのである。生長の家の愛国の書は絶版になっているが、探求すれば必ずや自分の下に呼び寄せることが出来るのです。

私は若いころから「谷口雅春」先生の著作を見つける為に古本屋通いをしていた。これは経験したからこそ言えることですが、「谷口雅春先生」の御本は「光」が発光し、その周りが燦然と輝いているのです。そういう不思議な体験を幾度となくしております。古本市で何十万冊という様々の本の中から谷口雅春先生の御著書を探すのは並大抵の時間と労力をようするのであります。
ある時、その古本市の終了時間が迫り30分しか見る時間がなく、計算すれば一店に要する時間は15分位であります。出店店舗は20店舗でありその中から見つけ出すのは容易ではないのですが、それはたちどころにそれを見出すことが出来るのです。

ある古書店の店主もそれを言っていました。また私の友人もそのようなことを証言してくれました。本当に光輝燦然と輝く書物こそ「生命の實相」であり谷口雅春先生の書物なのであります。

御著書が光輝燦然と輝くなどといえば「馬鹿馬鹿しい、そんな本が光輝くことなんてありえないし、科学的に言っても根拠がない」と怒鳴られるだろう。

だが、それが不思議なんです。追い求めるものが顕れるのです。

私は歴代天皇陵を参拝して長くなります、遠く東京や長野まで脚を延ばして行きましたが、いつもどうしてこんな山奥にまで陵墓があるのであろうかとか考え、そうした歴代天皇の行跡を偲んでいます。

そうしたことはいつも不思議な感覚を覚えることがあります。直感で陵墓とわかるようなことは屡々あります。天皇陵でも「陪冢」とかなると、山の奥行にある。例えば後宇多天皇陵は広沢池の北側にありますが、それは山裾にあり誰もが見つけることが容易な場所にありますが、その陪冢は朝日山という御陵の背面にあり、深く茂みが覆い、道なき道を歩まなければ見つけることも出来ません。勿論道標などなく獣道を進まなければ探求できません。しかしそこまでする人など皆無であります。

だからこそ、そこまで到達出来る「八咫烏」のような導きがあるのだと思っています。それは「谷口雅春先生」の御著書でもそうです。

一度に20冊近くの戦前本を見つけたこともあります。それはいつも神様の導きのように感じています。それを案内するのが「光輝燦然」と輝く「光」そのものであると思っています。

谷口雅春先生の御本は周囲を照らし「光明化運動」そのものであります。言霊である「響き」を光明化として宣言し、打ち鳴らすことこそが私達の役目であります。

「あとがき」としての文章

一部では現在の活動指針とは違うということで、発刊が未定の書物が沢山あります。たしかに時代背景で以前に出版された書物といろいろと相違点があるかもしれません。しかし、時代を考えれば仕方が無い、当然歴史を勉強すれば雅春先生のお言葉は“的を射ている”のです。それを知らなければならないのが信徒の義務である。そうした時に、その時代の雅春先生の御著書がないのがとても残念でなりません。

生長の家の歴史は光明燦然として光輝いている「歴史」であります。それは生命体国家との一体化としての天皇観があり、歴史観であるのです。昭和51年の理想世界ジュニア版5月号に執筆された「このままでは日本は滅びる―すみやかに現行憲法の無効宣言を」は「生長の家の立教宣言」であるように思います。本当の愛国者である谷口雅春先生の気持ちを考えれば、涙が出ます。

 

今回の資料編纂は長い年月か掛けてさしていただいております。一年前(平成22年)に内務省警保局「社会運動の状況」という資料を窺い知ることが出来ました。そこには宗教弾圧ともいうべきものもあり谷口雅春先生は「近況報告」でその旨を書かれている文面があります。昭和14年あたりから削除済という御著書が見つかります。そのタ-ゲットのような御著書が菊装版『生命の實相』であります。この本には何冊かには「削除済」という印鑑が押されています。その文章が

 

『生命の實相』第二巻(昭和14625日発行)(菊装版)は内容中に医療妨害、

人心惑乱等 安寧を妨害するものありたる為、718日削除処分せられたり。(社会運動の

状況昭和14年度版 より抜粋)内務省警保局

 

それではどのように「内務省警保局」というのはどのように検閲していたのか?

生長の家が東京に進出するあたりから「著作物」を検閲するようになったのですが、昭和11年頃には「皇道大本教」の二度目の弾圧を警保局から受けているのです。それは

 昭和10年(1935年)128日、早朝4時。
 綾部と亀岡の大本の神苑は武装した警官隊によって包囲されました。その数は合わせて500人以上もの大部隊です。
 腕に白布を巻き、白たすきを斜めにかけ、決死の覚悟で神苑内に突入した警官隊は、三代教主補・出口日出麿(37歳)を始め幹部信者を次々と拘束し、警察署に連れていきました。留置された人の数は綾部・亀岡合わせておよそ300人にものぼります。

またひとのみち教団(現PL教団)も

昭和11年、特高警察に目をつけられ、不敬罪の名目で開祖とその息子・御木徳近(みき とくちか)は逮捕・投獄される。昭和12年には解散命令がだされ、御木徳一は不幸にも獄中で病死する。

ともに「神道系」宗教であります。

勿論、「天理教」「金光教」もしかりであります。警保局より目を付けられていたのであります。

それではどのような事例があるかというと

昭和17116日別府市松屋旅館における座談会の席上誌友藤川スミ(50)は体験談発表に際し「私は子供に対してお前達は飛行機乗りになろうと、大臣になろうと一生懸命勉強して天皇陛下に尽くして下さい。お母さんは如何勉強して偉くなっても皇后陛下になれないのだからと言っている」云々の言辞を弄したるを以って当時臨席せる警察官において直にその発言中止せしめ引続き本名を調べたる処、不用意の失言と判明せる為、大分県警察当局において厳戒に止めたり。

資料としては内務省警保局『社会運動の状況』昭和11年~17年に「生長の家」をいかに監視したかの文章が残っています。

講習会や講演会や誌友会など様々な監視があったことが記載されています。

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神示のなかで出版物の検閲の厳しかった戦前に於いては、当時少部数の雑誌に発表されたときに、時の内務省警保局の検閲課から注意があり、若し書籍として発行せられるならば直ちに発禁が明らかであったために、そのまま『生命の實相大聖典』編纂の時にも『聖光録』編纂のときにも神示の全部を収録したいと思いながら、それを差し控えなければならなかったので、その儘伏せられていたものである。(『秘められた神示』はしがきより)

それは雅春先生の戦前の書物に"削除済み"という判が押されている本があります。これは内務省という印刷がされているが、「特別高等警察」(特高警察)も内務省の管轄である。治安維持法の実行部隊も内務省である。だから常に印刷出版には"内務省の検閲"があったのである。
そのため事前にそうした検閲にひかからない書物として出されていたのです。
ちょうど『秘められたる神示』などはまさにそうである。「豪華版『生命の實相』」などには検閲対象にされる言葉をあえて掲載しなかった。それを出版してしまうと、全てが弾圧を受けるのである。そういうことを把握しないで『生長の家』は語れない。

 

また、戦後において『平和版 生命の實相』の刊行の予定がありました。昭和21年『生長の家』誌12月号の5頁に掲載された「平和版『生命の實相』自費出版会員募集」という記事の中で、《唯今最も入手困難で、最も渇望されている、読んで病いが治り、運命が好転する無数の体験例ある(中略)生長の家聖典「生命の實相」全二十巻を、戦時のみに適せる心構の部分を省き、他は悉く完備せる厳密なる著者自身校訂の永遠定本の聖典を実費にて配本せんとする会です。》

『生長の家』誌 昭和22年3月号に「『平和版生命の實相』の自費出版計画も延期の止むなきに至りました」(『明窓浄机 戦後篇』31頁所収)と書かれているように、この平和版『生命の實相』の発刊は実現しませんでした。

 

 今回は『生命の實相』大聖典の宮城県教区の文章を抜粋させていただきました。

宮城県は平成23311日に東日本大震災の震源であり、大きな被害を受けた場所であります。

そうした災渦にどうにかして早く立ち直り、苦難の道を助けたい思いがあり、ちょうどその時にこの文面を頂きました。私は救われたような気がしました。全国の有志の皆様の弛まない努力があればこそ『生命の實相』大聖典が誕生したのだと言う事を本文献の内容に於いて確信いたしました。

 

この『谷口雅春書作年譜一覧表』は編纂委員の皆様やそれ以外の沢山の方の御指導があって完成されたものであります。ここで名前を挙げることはできませんが、本当に感謝致します。

この本は「著作年譜」だけではなく「谷口雅春先生の年譜」や「戦前と戦後の『生命の實相』の比較。

いままでの『生命の實相』の全目次の掲載などをさせていただきました。いまや『生長の家50年史』も販売されていませんので貴重な資料になると思います。是非一家に一冊、御家庭に大切な文献としてお持ちいただければ幸いであります。

亀の子様へ

亀の子さまへ
いつも詳しく掲載していただき感謝申し上げます。
私はこうした「こういう所に雅春先生の御文書が掲載されていますよ」という言葉が大変好きな言葉です。
マニアックなんですねと人から言われていますが、以前の尊師谷口雅春先生を敬愛する人は皆んなそんな感じでした。
谷口雅春先生には到底及びも尽きないですが、その一端を汚すことがないようにと「御教え」を信じて活動されている人が大半でした。
私はそうしたことを今は行わない人がほとんどです。
谷口雅春先生の御文章に触れることもなくなることに危機感を感じないから、仕方がないとあきらめるのです。

今は「一代限りの信徒」さんがほとんどです。
息子や娘などは「生長の家」に外方をむけ、その方がお亡くなりになられると、そうした御本が「古本」に流れたりするのであります。

だからこそ、そうした御子息には真理とか「生長の家教義」とかが理解出来なければ、日本の素晴らしさを鼓舞できるような教育だけでも伝えて欲しいものであります。

先日「日本政策研究センタ-」の全国研修に行ってきましたが、その中身は「谷口雅春先生」の悲願である「憲法改正」への一歩を歩みだそうとする来年度の活動指針というのが根底でした。
今は「母体保護法」となっていますが、優生保護法改正もそうです。

ただ気になるのは、研修会の人数が昔と変わらないことであります。私も行きたくない時期もありました。それは何かをたぶん政策センタ-では感じていないのではないかと思っています。
それは、地方議員や国会議員などだけが目立つ研修であり、個人の活動となれば本当に役に立たないような感じです。
だから、 少しだけ参加する人も多くいます。

拉致問題でも九条の問題でも以前はいろいろと個人でも行ってきましたが、最近は活動もしなくなりました。
ただ参加するだけでは物足りないのだと自覚しています。

さて、生長の家を辞めてからは遠い過去になっています。ただ「雅春先生」の御教えだけを信じればいいと思っています。なかなか最近は「雅春先生」の御文章を謹写出来なく申し訳なく思っています。
先日、谷口雅春先生の大本時代の御文章であるのを森田征史先生が掲載されていましたが、ひょっとすると私が掲載した文章かもしれません。

こうした謹写をまた時間があるうちに行いたいと思っています。


10月30日~11月3日まで京都の百万遍で恒例の古書市がありましたので別件の用事とともに行ってきました。
以前に行ったのが6年前位前ですが、古本屋の出店も少なくなってきていますが、久しぶりに雅春先生の御著書が20冊程並んでいたのを見ました。
こんなに古書市で見かけるのも久しぶりです。
その数冊と鹿沼先生の御本も購入しました。
その前には「四天王寺古本市」にも行きましたが、雅春先生のご本は数冊でした。

さて末筆で失礼ながら早速、文章を『谷口雅春先生年譜一覧表』に掲載させていただきました。

繼體天皇陵について

今日の政策研究センタ-である市会議員の先生が高槻市にある繼體天皇陵を高槻と発言されていましたが、それは今城塚古墳である。一部の学者では繼體天皇陵としているが、歴史の年代での誤差からの発言でもある。

だが繼體天皇陵は茨木市の藍野という所にある。その陪冢は8箇所と仁徳天皇陵に継ぐ多さであります。
その陪冢(い~ち号)は名神高速道路を挟んであります。
その一つ一つを巡りましたが、大きな御陵であります。それならば誰の墓なのであろうか?

今城塚古墳は公園となりそうした敬い畏れる対象ではなくなっている。天皇の墓というならばそんな陵に公園を作るということを誰も止めなかったのであろうか、見識を疑う。教育というより人間のとしての見識である。
高槻の教育委員会の人よ、貴方の先祖の墓の上に公園が作られたらどう思いますか?

憲法を改正しよう。

本日は二年振りに日本政策研究センタ-の全国研修に行ってきた。
昨年は体調を悪くして行けなく、今年の四月にあった30周年にも行けなかった。
この四月は「学ぶ会の全国大会」もあり、仕事も追い込みもあり参加出来なかった。
センタ-の全国研修は明日までで御所見学もあり行きたかったが、仕事が明日までに提出があり抜けられない。

さて、今回の研修では「憲法改正」を前面に押し出した運動を進めることを強調していた。私達が40年前に明治憲法復元改正の運動を行ったのが35年前である。ハイエ-スにマイクを付け、車の上に乗れるようにして街頭で演説したのである。

その為に『日本国憲法制定の由来』時事通信社、1961年を読んだり、『史録 日本国憲法』児島襄著を読んで勉強したものである。

憲法の仕組みや成り立ちを素人である私が俄勉強である。
それでも、何ヶ月もかかり憲法の本をその当時での出版されて本を慾り読んだ。

よく覚えているのが、和歌山市駅での街頭情宣である、マイクで大声で叫んで現憲法の不当性を訴えても多勢に無勢である。しかし度胸だけはついた。

街頭演説ではそれ以外に「優生保護法改正」も街頭で演説したことがあった。そうした運動は「生長の家教団」にはない。しかもそれに反対意見を述べる現総裁の顔がある。


【今年の10月19日の徳島教区講習会で、マサノブ君は“現憲法擁護”発言をしました。今回、別の参加者からの報告が届きましたので、ここにその原文そのままを掲載させて頂きます。このご報告もテープを取っておられたわけではありませんから、言葉等はマサノブ君の発言そのままではないかも知れませんが「発言の主旨は摑んでいるつもりである」と注釈されています。




◎ 谷口雅宣総裁への質問とその応答

【質問】 (来場者の投稿文面、総裁朗読)
 「初代・谷口雅春先生の時代は、アメリカ等の連合軍の占領政策に問題がありとし、憲法や母体保護法の改正等に取り組んできていたが、現在はそのような声が全く聞えなくなった。どのようになっているのですか?」


【回答】 総裁
 「いつもはこの種の質問には答えないようにしているのですが、今回は答えます。確かにご指摘の通りで、そのような主旨で、ある時機には政治活動までも手を広げていましたが、現在はそういうことは全くございません。特に現憲法を廃棄して明治の帝国憲法復帰の必要性を唱えていました。しかし、明治憲法は欠陥憲法で、その欠陥のために軍部の暴走を許し、戦争を開始して我が国民をとたんの苦しみの中に落としこんだのです。そのような憲法への復帰は絶対に認められるはずがなく、私としては現憲法を尊重して行くつもりであります。」】

さて、明治憲法を欠陥憲法という定義でなされているが、当時の明治憲法は日本の原点であるべき「古事記」「日本書記」の原点に戻り、天皇を中心において機軸をなされたことが立憲国家として当り前の規範である。
そうした当たり前の規範というのが
政策センタ-の伊藤哲夫氏は

 【現行の「日本国憲法」に秘められた「思想」とは、自分の都合しか考えない個人主義思想であったこと。それに比して伊藤博文が苦心して明治憲法に込めた思いは「国家の機軸」である日本の「歴史」であったこと。
 そしてその「歴史」とは、日本国民にとってこれを統合しうる「天皇」(皇室)が心柱にあることを教えてくださいました。
 憲法改正の機運が高まりつつある昨今、われわれ日本国民がもう一度問い直すべき問題提起をしてくださいました。】

そこの欠点というべきものは統帥干犯であろうが、それを欠陥憲法といえるのであろうか。

それならば現日本国憲法は文章としての間違いや言葉の間違いなど欠陥憲法というのは「現憲法」であることは多くの人が問題にしていることである。

また9条の問題にしても輿論を二分するような大問題である。これは欠陥憲法と言わずしてなんとよぼう。

あまりにも昨今の動向を知らないでいることが嘆かわしい。大学で法律を学んだとは思えない返答である。

谷口雅春先生は憲法の不当性を訴えられきた。それは『憲法シリ-ズ』を読めば如何に憲法の欠陥を訴えられたかわかります。

その開祖の教えに反逆しているのが雅宣総裁です。
貴方は谷口雅春先生の教えを信じますか?
それとも左翼 谷口雅宣総裁を信じますか?




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