また、生長の家でも天皇陛下の事をよほど詳しく勉強しなければわからない。
ただ言葉は太上天皇ですが
太上天皇(だいじょうてんのう、だじょうてんのう)とは、譲位により皇位を後継者に譲った、いわば譲位元の天皇に贈られる尊号。または、その尊号を受けた天皇である。上皇(じょうこう)と略することが多い。
歴史
持統天皇11年(文武天皇元年)8月1日(697年8月22日)、持統天皇が文武天皇に譲位し、皇室史上初の太上天皇(上皇)になった。その後、江戸時代後期仁孝天皇に譲位した光格上皇まで、計59人の上皇が存在した。つまり、歴代天皇の内半数近くが、退位後に上皇となっている。ただし、その中には「天皇在位のままで崩御するのは不吉である」として、崩御直前に譲位の手続きが行われて上皇の尊号が贈られ、そのまま崩御した例も見られる。醍醐上皇の8日間、一条上皇の10日間、後朱雀上皇の3日間などはその典型と言える。
ちなみに皇極天皇が弟・孝徳天皇に譲位した例はあるが、この時点では「太上天皇」という尊号が無かったため、「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」という臨時の尊号が設けられた。また、その後皇極天皇自身が、斉明天皇として重祚している。
殆どの天皇には、譲位後すみやかに太上天皇号が奉られるが、退位によって自動的に奉られるものではないので、仁明天皇や後醍醐天皇のように退位後1,2日で崩御したり、淳仁天皇(淡路廃帝)のようにクーデター的に廃位させられたり、安徳天皇や仲恭天皇(九条廃帝)のように、退位・即位の事実が曖昧にされたりして、尊号が奉られなかった例もある。
逆に光厳天皇と崇光天皇は、事実上の廃位の後に尊号を奉られている。足利義満の死に際し、朝廷が太上天皇の尊号を贈ろうとしたという事例もあったが、最終的には子の足利義持が辞退した。第46代の孝謙天皇は、自ら退位したのち重祚して称徳天皇となり、皇室史上ただ一人、上皇から天皇に復帰した。ちなみに、正安3年1月28日(1301年3月9日)から嘉元2年7月16日(1304年8月17日)までの間、後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇が並立し、最も多い5人の上皇が同時に存在した。
2014年の時点で最後の太上天皇(上皇)は、文化14年3月24日(1817年5月9日)、自身の皇位を仁孝天皇に譲位した光格天皇である。
明治以降の皇室典範では、譲位を認めていないため、制度上太上天皇(上皇)は存在しない。
ただ生前に皇位に就かず、生前に太上天皇尊号を贈られた天皇がおられます。
京都市の伏見区にあり近くには黄桜などの有名な清酒会社がある。そのすぐ近くにその天皇陵があります。
但し、天皇にはなれなかったのです。
だが天皇陵としては他の御陵とも遜色なく立派なものです。
戦前では天皇陵として多くの人に巡拝をされてきた天皇です。
後崇光太上天皇伏見松林院陵です。
また崇道天皇について語ります。
早良親王は、光仁天皇の第二皇子。兄桓武天皇の即位に伴って皇太子となるが、大伴家持が策画した藤原種継暗殺事件の主謀者として、淡路に流される途中絶食して絶命。なお、この件の記事は桓武天皇の詔令より『続日本紀』から削られ、逸文は『日本紀略』に見られる。
のち、桓武天皇はその祟りを恐れ、親王の怨霊に対して懺悔と謝罪を度々行って、最後は崇道天皇として追尊した。「崇道」とは「祟道」に掛けたものではないかという見方もある。長岡京への遷都からたった10年で平安京へ遷都した理由の一つには早良親王の祟りを避ける目的があったというのが歴史学会における定説となっている。
こうして追尊とした天皇は歴代でも何人かおられます。
早良親王の墓として奈良市の南部にあり、私も何度か訪れたことがあります。この御陵の10m東側に八嶋神社があり隣に島田神社がある。ともに崇道天皇御陵内にあったとされています。また少し南には崇道天王社とよばれる神社があり、田んぼの中にひっそりと佇む。
これも早良天皇を鎮座する為に建てられた。
また西北には(奈良市北永井)にも崇道天皇社があり、また北側数キロには崇道天皇社もあり、いかに当時の桓武天皇が恐れていたかが伺いしれます。
桓武天皇が平安遷都後にもその怨霊をおそれたかは京都の八瀬から少し南側に崇道神社があります。
またそこから500m西側の比叡電鉄の八幡前のすぐ近くに崇道神社があります。
このようにして早良親王がいかに非業の死を遂げてか伺い知れます。
それと崇道天皇陵の前の道にはちょうど真ん中に八つの石が固まってあります。
これも崇道天皇陵にあった石だといわれています。
また崇道尽敬皇帝というとわかりますか?
舎人親王のことです。
天武天皇の皇子には高壁皇子や大津皇子や忍壁皇子などです、天武天皇の皇子は非業の死を遂げる天皇が多く、陵墓として祀られています。