則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2014年09月

讀んで戴ければ幸甚です。

雑感

9月27日の箕面駅から嵐山駅まで12時間41分かかっています。
その前に完走したときは10時間55分だったと思います。
今回はできる限り正規ル-トを旨に走ったり歩いたりしました。途中からは余力はありましたが、最後に頑張ろうと思っていたのですが、最後に脚が動かなかったです。

これでも一応10時間を切るのを目指しています。勿論、1時間のロスは痛かったが、それでも歩こうという気力があったのが良かった。

前回の完走でも本当に疲れてどうしようもない脱力感があったが、今回はそれほどでもなかった。
例えば、ポンポン山ではもう少し走ればよかったとか、金蔵寺から花の寺までもう少し走ればよかったとか、そういう悔いもありますが、ポンポン山の道中でトイレ休憩だけであとは水を飲むための3分程の安息以外はほとんど歩いていました。
またお腹の調子がいま一つなのが体調管理がうまくいっていない証拠です。
そういう点を是正すれば10時間は切る自信はあります。

天まで伸びる階段などうんざりすることのほうが多いですが、それを成し遂げた時の達成感は誰にも言えない魅力なのかもしれません。

ただ、翌日はなんともなく歩いていましたので、これも丈夫に育てていただいた両親のおかげです。
ありがとうございます。

孤高の人

六甲全山縦走という事やそのル-トを最初に歩いたのが加藤文太郎という人物であった。

彼は登山というイメ-ジを根底からひっくり返した人物でもあった。

1905年(明治38年)3月11日、兵庫県美方郡浜坂町(現在の新温泉町)浜坂にて、加藤岩太郎・よねの四男として生を受ける。

1919年(大正8年)に浜坂尋常高等小学校高等科卒業後は郷里を出て神戸の三菱内燃機製作所(三菱重工業の前身)に勤務し、兵庫県立工業学校夜間部を卒業する。1923年(大正12年)頃から本格的に登山を始める。

当時の彼の住まいは須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあった。現在ではポピュラーとなった、六甲全山縦走を始めたのが、加藤文太郎である。非常に歩くスピードが速かった文太郎は、早朝に須磨を出て六甲全山を縦走し、宝塚に下山した後、その日のうちに、また歩いて須磨まで帰って来たという。距離は約100kmに及ぶ。

当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、猟師などの山岳ガイドを雇って行く、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなった。

1928年(昭和3年)ごろから専ら単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となる。1935年(昭和10年)、同じ浜坂出身の下雅意花子と結婚。

1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じる。当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じた。

そのコ-スを歩いた経験のある私でも一日では無理である。余程歩き方が早かったのである。
昔は今のように歩くコ-スとしては設定されていません。しかも地下足袋です。
よほどの健脚であり、スピ-ドも相当な速さであることは推定されます。

新田次郎の『孤高の人』を是非読んでください。

トレッキングで気をつけていること

続けてトレイルランニングの話をします。
こうして、長い距離を歩いたり走ったりするには、とても大切な事があります。
以前に話ししました。右脚の複雑骨折ということから、本格的に歩くことを始めました。
またそれ以外に阪神大震災という過酷なことを考えるときに、如何に被災地などに緊急搬送を考えると自分には自転車の走りには自信はありましたが、歩きと考えるとそんなに自信がありませんでした。

右脚の骨折も交通事故です。その後も自転車による事故で鼻骨を折るというアクシデントもありました。
その後も自転車に乗ってはいたのですが、歩く楽しみも増えてきました。

自転車も1日200kmの走行をまだ諦めていません。
いままで最高は175kmです。これは途中ゆっくりしたので175kmが時間的に限界でした。
自宅から京都下鴨神社(古本市)その後比叡山を超えて琵琶湖大橋まで行き、帰宅しました。
走行の目的は当初50kmでしたが、それは難なく走破しましたので、今は1日で100kmを目指しています。
無茶なことだと思っていませんので、走破は出来るだろうと思っています。
一番長い距離は75kmの鯖街道です。


さて、このトレイルランニングで大切な要項ですが、

①水等の補給を怠らない。
一度京都までの道中で銭湯に行き、お風呂あがりの脱衣所で頭が真っ暗となり、30分程意識が朦朧となりました。水分不足が大きな原因でした。
脱水症です。


②靴はいいものをを履く。
最初は靴ズレで何回となく断念した経緯があります。私は革靴より金額が高いトレッキングシュ-ズを履いています。




アシックス (asics) GEL-FujiTrabuco 2 G-TX(ゲル フジトラブーコ 2 G-TX)ネオンオレンジ×シルバー TJT112-3093

上図はアシックスの GEL-FUJI TORABUCO 2です。
踵部分が通常より厚く出来ています。ロ-ドや急な階段での脚の衝撃を考えてこの靴にしています。

③レギンスなどできる限り走行を考えた服装にする。

昔はジ-パンなどで歩いていましたが、いろいろと考えるとレギンスやトレッキングパンツを履くようにしてます。
上の下着は速乾性のあるものを着用しています。長袖を着用するようにしています。
大変走行に優れており走るのに欠かせないアイテムです。

ボトムはユニクロなどのエア-リズムのように速乾性が大変いいです。


④リュクサックはいいものを装着しよう

リュクサックはタトンカの製品が気に入っています。

私の所有しているのが背中が密着しないのと25ℓで軽量です。タトンカという製品なので名前は知られていません。
長距離なので肩の痛みなどありますが、上図のリックサックすることによりいくらかは軽減されました。

本当に完全な服装や整備を考えないと長距離などは難しいです。

東海自然歩道と新名神道路

この年代でトレッキングとは相応という言葉を実感して欲しいと言われそうですが、私より年上であり、まだまだ元気なおじさんがおられることを知っています。
トレッキングの服装に派手なタイツを着て、颯爽と走る人がいます。何故そんなに体力あるのか聞きたい程であるが、日に日に練習されている賜物なのでしょう。
さて、昨日は神峰山の手前10m付近に4頭の鹿を見ました。その前にもメスの鹿を見たので5頭の鹿を見たのです。何故住宅地のすぐ近くに鹿の群れを見たのかというと、この付近は新名神の掘削作業をしています。
この新名神は本当に山を削り、新緑に覆われた山が無残な爪痕を残しています。

原萩谷トンネル東工事、原工事、芥川橋(PC上部工)工事、桧尾川工事、楊梅山高架橋下部工工事・平成26年9月版(PDF:3.3MB)

上記の地図ではわかりにくいかも知れませんが、神峰山寺はジャンクションに挟まれ上の方はトンネルの掘削作業と原地区はそれの分岐点です。

爆発音がなり、それに怯えた動物が住宅街にまで押し寄せています。
そうした、動物でも狩猟の対象となりにくい鹿などが増え続けています。昨日も鹿5頭に猪が1頭と見ています。

こうした事は田んぼの周りに張り巡らしている高圧線など見ればわかります。
またダンプカ-の往来をみればどれほどの工事かはわかります。
人間の便利性を重点におくのか、自然を大切にしていくのかわかれてくると思います。

最近は昔と違って、トンネルを数多く掘削しています。そのトンネルから山の中腹あたりから長脚が伸び、橋梁工事をしています。下の道路から50m上にクレ-ンを付けそこにダンプカ-が行交いしています。

この東海自然歩道の下にトンネルが何度となく通っています。竜王山もそうです。また勝尾寺と北摂霊園の下もそうです。
下図の地図には東海道自然歩道を青い線として載せています。勝尾寺の手前には箕面グリ-ン道路が通っています。

新組織紹介

 紙面をクリックするとPDFが開きます(2,840KB)PDFファイルを開きます


人間の便利性が大切なのか、自然という宝物が大切なのか。
最近は蛇をよく見かけますが、とりわけて今までと違ってヤマカカシに遭遇しました。頭を上げ赤い下を出して逃げている。
通常ならば頭を下げているものである。
不思議な蛇の特性を見た。これも地殻変動であるトンネルの影響なのかもしれません。


箕面駅から嵐山駅まで

今回の歩きは8月24日に申し込んだ六甲全山縦走大会であるが、9月5日の結果発表で残念ながら落選という憂き目にあった。
私が申し込んだ大会日は11月9日(日曜日)である。
この六甲全山縦走大会は神戸市が主催している大会である。この11月に2回の大会を開催するのです。
今回は11月9日と11月24日です。
須磨浦公園から宝塚駅でです

走行距離は56kmです。参加者達は午前6時20分にスタ-トして早い人で午後6時に宝塚駅に到着しますが、ほとんどの人は午後8時頃到着です。
走ることは厳禁のこの大会に2000人という人を募集して、それに落選したのですから沢山の人が参加していることがわかります。
いままで、この大会をアウト参加として走行しましたのでその雰囲気はわかります。途中で棄権となる人の多くは最後尾に付けている大会運営者が参加者の肩を叩けば、その人は落伍者となります。約8割の人が走破しますが、2割の多くは肩を叩かれた人です。また途中棄権の人は体力的に無理なことがわかります。
多くは宝塚につけばヘトヘトの状態です。

この六甲全山縦走大会は須磨浦公園から階段の多い道のりです。これでもかという階段ばかりの道はうんざりするほど前半の体力勝負ということがわかります。

ただ、六甲山頂上付近からは下りですので、随分と楽です。それとこの大会は参加者が多くて途中何度も渋滞するので、それが大変です。真っ暗な山のなかで渋滞するのですから、反対にすごい大会なのです。

さて、そうした大会に向けての走行練習なのです。アウト参加で頑張って歩こうと思います。
昨日は56kmという長丁場でなんとか乗り越えることができました。途中ストックを忘れて山道を引き返すアクシデントがありましたが、なんとか走破することができました。

この東海自然歩道は各所の寺院仏閣の素晴らしい所を通ります。昨日は勝持寺や大原野神社や苔寺や鈴蟲寺や松尾大社という京都の観光所も通ります。

箕面から嵐駅まで56kmを歩く

予定時刻

実時刻

距離

目的地( )内は標高

0600

554



 

箕面駅を出発。

0645

6:48

3.6

東海自然歩道の始点の政の茶屋を出発。(285m)

0725

724

1.8

開成皇子の墓(最勝ヶ峰(535m))に到着。

0745

742

1.9

北摂霊園(580m)

0820

815

3.0

府道分岐(370m)

0840

835

2.5

素盞嗚尊神社(325m)

0905

8:55

1.4

府道出合(355m)

0915

9:03

0.7

上音羽屈折点

0935

9:20

1.6

忍頂寺信号に到着。(315m)

1015

945

1.2

竜王山(510m)の展望台に到着。

1045

1005

2.3

車作大橋(135m)

1145

1114

2.6

萩谷総合公園(昼食)<10分休憩)(230m)

1220

1125

2.0

白滝茶屋(130m)

1240

1145

1.4

原(府道出合)

1300

1200

6.0

神峰山寺(170m)

神峰山寺から川久保分岐点約200先でポ-ルを忘れたのに気付き引き戻る。約1時間のロス。

1350

1405

3.4

本山寺(520m)

1440

14:55

2.3

ポンポン山(679m)

1515

1510

2.2

杉谷(460m)

1540

1530

2.0

金蔵寺(340m)

1620

1610

3.3

大原野神社の前を通り、勝持寺(花の寺)170m)

1700

1655

2.6

沓掛(R9号線)100m)

1830

1835

8.0

苔寺からほとんど歩き。時間を多く費やした。苔寺で1800

嵐山駅(30m)

1935


 



 

帰宅


箕面駅から大原野神社までトレッキング

自分の身体というのは、自分でなかなかコントロ-ルできないでいる。
精神的なことで『心に現れたものが実現するとは頭で理解出来ても、それが心身共に合致することが出来ないでいる』
とりわけて、体調維持で自分の考え通りには進まないジレンマがあります。

こんなこと書いたら、何か疾患でとか、精神的な悩みとかでどうかされているのか?と思われるかもしれないがそんなことではない。
トレッキングでの自己管理や体調維持での難しさで悩む。長い距離の山道を颯爽と走ればいいのだが、いつもゼイゼイと息切れとなります。

だが、これだけは断っておきますが、通常の何も運動をしていない人からすれば、驚異の能力であると思います。50kmの道でしかも山道など走れません。50メ-トルという長い階段を歩き、それからまた走り、その繰り返しを50kmという道を走ったり歩いたりします。

前半、いくら疲れていても後半が元気な体調になることもあります。
昨日も20km過ぎてから、結構脚が楽になり、それから10km近く走りました。
山道も休憩なしで越えていきます。

その前の日曜日も箕面駅から大原野神社まで歩きました。
調子は悪くなかったのですが、腹が減って歩けない状態でしたので。茶屋で食事して断念しました。
下がその記録です。
途中鹿に出会ったりしました。また可愛いリスと二匹遭遇しました。
トレッキングは野生動物と遭遇することが多いです。
リスは今年で2回遭遇しました。


箕面から嵐駅まで52kmを歩く

予定時刻

実時刻

距離

目的地( )内は標高

0600

601

 

箕面駅を出発。

0645

646

3.6

東海自然歩道の始点の政の茶屋を出発。(285m)

0725

722

1.8

開成皇子の墓(最勝ヶ峰(535m))に到着。

0745

748

1.9

北摂霊園(580m)

0820

821

3.0

府道分岐(370m)

0840

843

2.5

素盞嗚尊神社(325m)

0905

906

1.4

府道出合(355m)

0915

916

0.7

上音羽屈折点

0935

934

1.6

忍頂寺信号に到着。(315m)竜王山荘でトイレ休憩

1015

1014

1.2

竜王山(510m)の展望台に到着。

1045

1043

2.3

車作大橋(135m)

1145

1152

2.6

萩谷総合公園(昼食)<10分休憩)(230m)

1220

1208

2.0

白滝茶屋(130m)

1240

1242

1.4

原(府道出合)

1300

1300

2.0

神峰山寺(170m)

1350

1412

3.4

本山寺(520m)

1440

1443

2.3

ポンポン山(679m)

1515

1515

2.2

杉谷(460m)

1540

1549

2.0

金蔵寺(340m)

1620

1640

3.3

大原野神社の前を通り、勝持寺(花の寺)170m)

ここで断念。

1700

 

2.6

沓掛(R9号線)100m)

1830

 

8.0

嵐山駅(30m)

 

 

 

 

真珠湾攻撃

抜粋のみで失礼します。


●政府・大本営に事前通告をする予定はもともとなかった。参謀本部の「機密戦争日誌」を見ると、昭和16年11月27日大本営政府連絡会議は開戦の翌日に宣戦を布告すると決定している。なぜか。
東郷外相の頭の中に、自衛戦争は宣戦布告をしなくてもハーグ条約違反にならないという考え方があった。
◇アメリカも対メキシコ戦争(1916年)に、自衛戦争という理由で宣戦布告をせずに開戦している。
◇1939年ドイツがポーランドに侵入して第二次大戦が始まるが、この時フランスも宣戦布告なしに対独戦を開始している。    

●東郷外相には、事前通告をする予定はなかった。ところが、野村駐米大使から開戦手続きをきちんとしておきたいという要請が来たり、御前会議の後12月2日に東條首相が天皇から開戦手続きはきちんとやるようにと言われたりして、それならばと東郷も考え直したのである。             《半藤一利 「
昭和史の論点」》

●国際法上の厳密な議論をすれば、無通告でも「騙し討ち」ではないと言うことはできるし、あの文面で十分に開戦通告になっていたという議論も可能。                   《坂本多加雄  〃  》
 


●太平洋戦争は宣戦布告が遅れたとか議論が続いているが、
本当はああいう礼儀作法がある戦争は珍しい。大部分の戦争はもっと暴力的・なし崩し的なものである。      《日下公人 「けじめをつけろ、責任者!」》
 


●東京裁判は米国にとっては「騙し討ち」の責任者をあぶり出し、「殺人罪」として裁くのが主たる狙いでもあったが、法廷の審理で
通告遅れは故意ではなく不測の過失だったことが認められ、判決文は訴因から除外した。かろうじてわが国の名誉は保たれた。                  《秦郁彦 産経新聞2006/12/22》
 


●リメンバー・パールハーバーと米国人は言うが、日本海軍は攻撃を軍事施設に限り、非戦闘員の死者は68人に過ぎなかった。                           《平川祐弘 諸君!2006/8月号》
 


日本軍は飛行場と軍艦を叩いただけで、ホノルルの街を攻撃していない。民間人を襲撃するようなことはしていない。アメリカが日本本土空襲でやったように、もっぱら民間人を狙って撃つというようなことはやっていない。                          《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封」》
 


●パールハーバーは「先制攻撃」という「作戦」をとったわけで、決して卑怯ではない。
                                 《瀬島龍三 諸君!2002/10月号》


どうやらパールハーバーは戦争の原因ではなく、アメリカと日本がすでに始めていた戦争の、一行動にすぎないようだ。                     《へレン・ミアーズ 「アメリカの鏡・日本」》


●ある国がある国と開戦ギリギリの緊張した段階に入った時、相手国の先制的奇襲に備えるのはいわば安全保障のイロハである。奇襲に成功した側と奇襲に敗れた側とで歴史的に非難されるのは、普通準備不足や油断して敗れた側である。   
 
●「真珠湾攻撃」は、開戦理由であっても、開戦原因ではない。真珠湾以外にアメリカの開戦の正当性がなかった。 (どこの国でも自国の正当性を主張する。それは国益のため) 
                            《佐治芳彦 「新戦争論「太平洋戦争」の真実
」》


●日本の機動部隊は、ハルノート手交の24時間以上前に出航していた。しかし南雲忠一長官には、日米交渉が妥結したならば引き返すという約束になっていた。              《須藤眞志 諸君!2003/7月号》
 


きっかけはあくまできっかけで、それが戦争の原因じゃない。
                  
《長谷川慶太郎 「歴史頭脳を持っているか」》


●ルーズベルトの陰謀論は論外として、アメリカらしいと思うのは、開戦直後にロバーツ委員会を開いて真珠湾を受けたのは誰の責任か、というのを徹底的に調査した。すると、
日本の暗号電文を解読していたことなどが判明して、ハワイの現地司令官に罪はなく、むしろ警告を怠ったルーズベルトら指導部に問題があったのではないか、という議論がなされている。                    《半藤一利 文芸春秋2009/4月号》


●昭和16年1月24日(真珠湾攻撃の約1年前)、当時のアメリカの海軍長官ノックスは陸軍長官スチムソンに手紙を出して、「日米戦争は必至である」といっていた。
さらに「そのとき日本側は必ず真珠湾を攻撃してくる」「それは夜明けの奇襲となるであろうから警戒措置を取るように」という意味のことも書いている。アメリカは何が起こるか分かっていたのである。

●アメリカ側は盛んに「奇襲」という言葉を使うが、軍事的には、日本軍による空襲はアメリカ側の予想の範囲内にあった。というより、11月には戦争はすでに始まっていたといっていい。
                               《西尾幹二 「GHQ焚書図書開封」》


●あの戦争を「侵略戦争」であると主張する大きな根拠
の1つに、ハワイの奇襲作戦やマレーの急襲作戦がある。しかし、戦争が不可避であり開戦するしかないと決意したとき、用兵作戦のイニシアチブを確保しようとするのは当然のことであり、そのことでもって「侵略戦争」であると規定するのはおかしなこと。
用兵作戦のやり方を、そのまま戦争全般の性格とするのは乱暴である。 
                 《瀬島龍三 「
瀬島龍三 日本の証言」 他の著書「大東亜戦争の実相


●東京裁判のパール判事…
「国際法の基本原則によれば、もし一国が、武力紛争の一方の当事国に対して、武器・軍需品の積み出しを禁止し、他の当事国に対して、その積み出しを許容するとすれば、その国は必然的に、この紛争に軍事干渉をすることになるものであり、宣戦の有無にかかわらず、戦争の当事国となるのである」。

●「日中間の敵対行為が戦争の性格をもっていたことはもとよりのことである。しかし、右は敵対当事国自体において戦争であると宣言されたことがかつてなく、また少なくとも米国においては、みずからの行為によってこれを戦争と認めないことに決したという点に困難がある。<略>国際法においては、米国はすでにみずからの行為によって、右の交戦状態に介入していたことになり、真珠湾攻撃に関する問題は全く意味を失うことになる」。

●「中立義務」というのは、国際法にも明記されている非常に重要な条項である。日中事変が起こって以降、米英は交戦国である日中両国に対して中立国としての義務を守ったか。
 
●1945年12月、上下両院合同調査委員会で、参謀総長マーシャル大将は共和党H・ファーガソン上院議員に次のことを認めた。「アメリカ軍は、日米開戦の前、すでにフライング・タイガー社の社員に偽装して中国に行き、戦闘行為に従事していた」。なお、1991年、米国防総省は、右民間義勇軍259名を正規兵であったことを認めた。(91年7/8読売新聞夕刊)                     《田中正明 「パール判事の日本無罪論」》


●アメリカは日中戦争中、現役の空軍パイロットを義勇軍と称して、飛行機ごと中国に寄贈した。(フライング・タイガー隊)                                《高山正之 週刊文春》


●当時中国にはアメリカの軍事顧問団に加え、約2千人の米人義勇団がいた。
これは中立国としては絶対に許されない行為である。     《渡部昇一 小室直樹 「封印の昭和史」 他の著書「禁忌破りの近現代史
 


●フランスのド・ゴール将軍(大統領)…
「戦争は、平和時代に始まっている」(「剣と刃」)
              《中川八洋 「大東亜戦争と『開戦責任』」 他の著書「近衛文麿の戦争責任」》

不戦条約と国際状況

真珠湾攻撃が侵略という人がいる、本当に無知も甚だしい。
呆れるから、そのまましておこうと思うが、あまりにも左翼化の本しか読んでない人であるから大げさな事はしたくない。

そもそも侵略というのはその国家が侵略していないといえば、侵略していないこととなる。こんな簡単なことが分からないでいる。戦時動員とかパリ不戦条約とか知ったかぶりしているが、そんなことより侵略というのはその国家が認めるかどうかである。

中国もチベットの侵略も今回のロシアのウクライナにおいてもそうであるが、その加害者が認めない限り侵略とはならない。
それでは国際連盟の考えはどうかである。

侵略の定義に関する決議


第一条(侵略の定義)

 侵略とは、国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使であ って、この定義に述べられているものをいう。

第二条(武力の最初の使用)

 国家による国際連合憲章に違反する武力の最初の使用は、侵略行為の一応の証拠を構成する。ただし、安全保障理事会は、国際連合憲章に従い、侵略行為が行われたとの決定が他の関連状況(当該行為又はその結果が十分な重大性を有するものではないという事実を含む。)に照らして正当に評価されないとの結論を下すことができる。

第三条(侵略行為)

 次に掲げる行為は、いずれも宣戦布告の有無に関わりなく、二条の規定に従うことを条件として、侵略行為とされる。

(a) 一国の軍隊による他国の領域に対する侵略若しくは、攻撃、一時的なものであってもかかる侵入若しくは攻撃の結果もたらせられる軍事占領、又は武力の行使による他国の全部若しくは一部の併合

(b) 一国の軍隊による他国の領域に対する砲爆撃、又は国に一国による他国の領域に対する兵器の使用

(c) 一国の軍隊による他国の港又は沿岸の封鎖

(d) 一国の軍隊による他国の陸軍、海軍若しくは空軍又は船隊若しくは航空隊に関する攻撃

(e) 受入国との合意にもとづきその国の領域内にある軍隊の当該合意において定められている条件に反する使用、又は、当該合意の終了後のかかる領域内における当該軍隊の駐留の継続

(f) 他国の使用に供した領域を、当該他国が第三国に対する侵略行為を行うために使用することを許容する国家の行為

(g) 上記の諸行為い相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与

第四条(前条以外の行為)

 前条に列挙された行為は網羅的なものではなく、安全保障理事会は、その他の行為が憲章の規定の下で侵略を構成すると決定することができる。

第五条(侵略の国際責任)

 政治的、経済的、軍事的又はその他のいかなる性質の事由も侵略を正当化するものではない。

 侵略戦争は、国際の平和に対する犯罪である。侵略は、国際責任を生じさせる。

 侵略の結果もたらせられるいかなる領域の取得又は特殊権益も合法的なものではなく、また合法的なものととし承認されてはならない。

第六条(憲章との関係)

 この定義中のいかなる規定も、特に武力の行使が合法的である場合に関する規定を含めて、憲章の範囲をいかなる意味においても拡大し、又は縮小するものと解してはならない。

第七条(自決権)

 この定義中のいかなる規定も、特に、第三条は、「国際連合憲章に従った諸国家間の友好関係と協力に関する国際法の諸原則についての宣言」に言及されている。その権 利を強制的に奪われている人民の、特に植民地体制、人種差別体制その他の形態の外国支配化の下にあ る人民の、憲章から導かれる自決、自由及び独立の権利を、また国際連合諸原則及び上記の宣言に従いその目的のために闘争し、支援を求め、かつ、これを受け入れるこれらの人民の権 利をいかなる意味においても害するものとするものではない。

第八条(想定の解釈)

 上記の諸規定は、その解釈及び適用上、相互に関連するものであり、各規定は、他の規定との関連において解されなければならない。

出典 「ベーシック条約集」 第二編


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それでは自分の国は侵略しましたと認めている國家があるかどうかである。
日本政府も正式なコメントとしては認めていません。
またドイツもそうです。
それでは世界で「私の国は侵略しました」と認めている国があるかどうかです、残念ながらありません。
大英帝国など正に侵略國家の最たる国です。
しかし、一切そんなこと認めないです。評論家や無知な人間がいくら叫ぼうとも「日本は侵略していない」のです。

上記の侵略の定義にしてもそうですが、まだ現在においても發効していません。
何故発効されていないかであります、それはどの国においてもそうしたジレンマがあるからです。
こんな基礎的なことをわからない輩がいるのは情けないことです。
不戦条約など誰も守ろうとしていなかったことが国際関係では常識である。そうした常識は日本では非常識となる。
国際条約をもう少し勉強すればいいが、日本は侵略國家であるという固定観念が邪魔するのでしょう。


下記の本は何度も読み直したことを思い出します。
再度掲載します。
『大東亜戦争への道』 中村粲(あきら)著 1990.12.8 (展転社) P285~289 より

◆自衛戦争を認めた不戦条約

昭和3年(1928年)は、田中内閣が「不戦条約」という国際条約を締結して、
列国と共に戦争放棄の意思を世界に公的に表明した年でもある。

不戦条約は戦後の東京裁判においても、
満洲事変以来、日本が侵犯を重ねた国際条約の一つとして、
日本断罪のために大いに利用された条約である。

1928年8月27日、ケロッグ米国務長官とブリアン仏外相の
提唱でパリにおいて締結された「戦争放棄に関する条約」で、
ケロッグ条約、パリ条約などとも呼ばれる。

原調印国は日英米仏伊独等であったが、やがて多数の諸国が加わり、
当時、国際連盟に未加入であったソ連さえ加盟した。

条文は次の三条から成り、
国際紛争解決の手段としての戦争を非とし、その放棄を宣言したものである。

第一条

締約国は国際紛争解決のため戦争に訴ふることを非とし、
且つその相互関係に於て国家の政策の手段としての戦争を放棄することを
その各自の人民の名に於て厳粛に宣言す。

第二条

締約国は相互間に起ることあるべき一切の紛争又は紛議は、
その性質又は起因の如何を問はず平和的手段によるの外
これが処理又は解決を求めざることを約す。

第三条(批准と加盟手続規定)

しかしこの理想主義的な条約には重大な欠陥があった。
英米仏など列強の主張によって、自衛戦争を除外したことだ。

しかも米国の如き、自衛権発動の場合、
それが正当であるか否かの裁定権は当事国にある、と主張したのである。
何が自衛戦争であるかについて当事国の自己解釈権を認めるのでは、
戦争放棄条約は法として全く無効である。
なぜなら全ての戦争は自衛の名で行われるからである。

◆自衛権の留保

戦後の東京裁判に於けるパール判決書によれば、
自衛の問題に関してケロッグ米国務次官は次のように言明した。

「自衛権は、関係国の主権の下にある領土の防衛だけに限られてはいない。
そして本条約の下に於ては、自衛権がどんな行為を含むか
又いつ自衛権を発動するかについて各国みづから判断する特権を有する。
その場合、自国の判断が世界の他の国々によって
是認されないかもしれないという危険はあるのだが。
合衆国は自ら判断しなければならない。
・・・そしてそれが正当なる防衛でない場合は、
米国は世界の世論に対して責任を負うのである。
単にそれだけのことである」

と。

すなわち自衛権の及ぶ範囲は
自国領土に限られないと米国は主張したのであった。

ちなみに我が国の態度はどうかと云へば、
田中外相は米国提案に同感の意を表する回答文を手交する際、自衛権に関し、

「手近かの問題として内乱闘争の絶えざる支那の如き
隣国を持つ日本としては、もとより戦争はその欲する所にあらざるも
自衛の必要上、適当の手段を取るべきことは
常に予見し置かざるべからざる所」

としてマクヴェー駐日米国大使の了解を求め、
更に支那に対する日本の立場につき説明した。
その際、既得権益や居留民保護のみならず、
満洲をロシアとの間の安全地帯とするために、
その秩序保持の要があることを指摘したのであった。
(大畑篤四郎論文「不戦条約と日本」、『国際政治28』所収)。

以上が、不戦条約を調印するに当たって、列国が保持した態度であった。
すなわち、国策遂行の手段としての戦争は否認するが自衛権は留保する、
そして自衛権の行使に関する決定と裁定は
各当事国の権利に属するというのである。

一体、「自衛」の名目によらずして戦争を行う国が、かつてあっただろうか。
あらゆる戦争当事国は、明白な侵略国家でさえ、
己れの戦いを「自衛戦争」であると
主張して正当化しようとするものなのである。

自衛権を認め合い、しかも自衛権の発動が正当なるか否かの判断が
当事国に委ねられている場合、
「戦争放棄」の宣言や条約が
いかに空虚なものになり終わるか、多言を要すまい。

米国人の中には

「不戦条約は世界世論という弱々しき圧力を除いては、
一本の歯も持っていない。それは“新年の決意”あるいは
“サンタクロースヘの手紙”のようなものである」

と嘲笑する者も居たのである(T.A.Bailey 前掲書)。

あるいは又、石井菊次郎が『外交余録』で述懐するように、
理想に走り過ぎた条約は「いつの間にか宗教に堕するを逸れない」のである。

後年、満洲事変が国際連盟に提訴された時、
そこでは不戦条約違反が一つの論点とされたが、
この連盟に於ける満洲事変審議に当たり、
日本側は、まさに上述の自衛権をもって抗弁したのであった。
不戦条約が自衛権の留保を認めたことは、
重大なる影響を後世に残したものと言えよう。

◆ソ連が最初の侵犯国

不戦条約はその辞句に表れたる崇高な理想主義の割には、
締約国の信頼と尊敬を受けることが少なかったのは皮肉なことであった。

米国の外交史家Thomas A.Bailey は、不戦条約調印に対する
米国内の反応を次の如く描写している。

「上院は戦争放棄の協定について殆ど幻想を抱いていなかった。
ミズーリ州選出の上院議員リードは不戦条約を
『国際的接吻』(an international kiss)と決めつけ、
またヴァージニア州出身の上院議員グラスは、
自分を
『不戦条約には郵便切手一枚ほどの価値はあると想像するほど単純な』
人間と考えてほしくない、と言ったものである。

公式的な留保が条約に加えられることはなかったが、
上院外交委員会は、自衛権とモンロー主義のために戦う権利
及び違反国に対して条約を強制しない権利を留保する『解釈』を提出した。

世論の大波というものがあったので、
上院は1929年1月、85対1の票でケロッグ=ブリアン条約を承認した。

次の仕事は新しく15隻の巡洋艦を建造する法案であったが、
それも、その後間もなく承認された。

それについてニューヨーク・イヴニング・ポスト紙は
嗤ってこう書いたのである。

『もし26ヵ国と平和条約を結んだ直後に15隻の巡洋艦を
新たに必要とするのであれば、
仮に26ヵ国と平和条約を結ぶことがなかったとしたら、
一体、何隻の巡洋艦を我々は必要としたのであろうか』

と。

この空しい不戦の誓約は、早くも翌年、破られた。

不戦条約侵犯第1号はソ連だった。これは大書して歴史に留めるべきだ。

すなわち1929年、満洲の張学良政権はハルピンのソ連領事館捜索で
共産革命計画の証拠を押収したのを機会に、
東支鉄道の実力回収に踏み切ったのに対し、
ソ連は空陸両軍をもってソ満国境を越え、満洲に侵入した(11月)。

学良の東北軍は撃退され、ソ連は帝政ロシア以来の
特権である東支鉄道を再び奪還することに成功したのであった。

このソ支紛争の折、
米英仏伊の諸国は不戦条約の義務につきソ連の注意を喚起したのであるが、
ソ連は満洲侵攻は「自衛行動」であると反論し、
第三国の干渉を拒絶したのである。

満洲事変において日本は、関東軍の行動は自衛のためであると抗弁し、
日華直接交渉を主張したが、米国は日本の「不戦条約違反」を非難し、
リットン報告書も、我が国の自衛の主張を否認した。

だが満洲事変の2年も前に、
ソ連が不戦条約を破って自衛の名の下に
満洲に侵攻した事実を想起する時、
満洲事変を日本の侵略とする説は完全に説得力を失う他なく、
あまつさえ、そのソ連が東京裁判で、
満洲事変以降の日本の政策を侵略と断罪したことを考えると、
何ともやり切れない思いに駆られる。

ともかく、不戦条約とはこの程度のものでしかなかった。
グリスウォルドが、いみじくも評したように、ソ支紛争が発生してみると、

「不戦条約は、雨の日以外は雨傘をさすべからずと言う協定と同じく、
本質的に無意味なものだった」

のである。

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1928年締結「パリ不戦条約」関する補足資料

東京裁判資料刊行会編『東京裁判却下未提出弁護側資料』第1巻240(上下)頁

【米国政府覚書】
(抜粋)
1928年(昭和3年)6月23日

一、自衛

反戦条約米国草案に、自衛権を制約又は侵害するものは一切含んでいない。
自衛権は各独立国に固有のものであり、各条約に包含さるるものである。
各国は条約文には関係なく攻撃侵略よりその領土を防衛する自由を常に有し
その国のみが自衛戦を必要とするか否かを
決定する能力を持つているのである。

若しもその主張が正当な場合は全世界が
その行動を非難するどころか称賛するであろう。

但し、此の不可譲権を条約により明文にしようとすれば
「侵略」を定義しようとする時遭遇すると同様の困難に突き当たる。
之は同一の問題を向ふ側から取扱はうとするのである。

如何なる条約文も自衛の本質的権利に何者をも付加し得ざるを以て
条約が自衛の法的観念を規定することは平和を促進する所以ではない。
がむしゃらな者にとっては条約の定義に一致せしむべく事件を作成するのは
極めて容易であるからである。

―――――――

解説

【1928年不戦条約の解釈】

米国政府の自衛権の解釈(1928年6月23日)
(略)
しかも米国政府の自衛権の解釈によれば、
不戦条約は国家の自衛権発動を容認し、
戦争が自衛戦争か否かの決定権を戦争当事国に与えたのだから、
この条約は全ての戦争を容認したに等しい。

戦争当事国が
「我が国は、自衛の為の武力行使に訴えざるを得ない情勢にあり、
我々の戦争は自衛権の発動であり自衛戦争である」
と宣言すれば、戦争は自衛戦争となり、
不戦条約はこれを容認するからである。

つまり不戦条約は、ケロッグ国務長官から、全ての戦争を否定する条項と、
全ての戦争を容認する解釈を与えられた支離滅裂な条約であり、
パル博士の指摘通り、「法の範疇から除外される」に十分であり、
現在でも、侵攻戦争はその厳格な法的定義を持ち得ず、
国際法上の犯罪とはなっていないのである。

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東京裁判研究会編『パル判決書』上巻 より抜粋

【P323】 自衛の問題に関して、ケロッグ氏は次のように言明した。

自衛権は、関係国の主権のもとにある領土の防衛だけに限られてはいない。
そして本条約のもとにおいては、自衛権がどんな行為を含むかについては、
各国みずから判断する特権を有する。

【P328】 ホールの見解。
自存権は、ある場合においては、友好国、
または中立国に対する暴力行為を、正当化することがある。
(略)
国家は外国にある自国民を保護する権利を有する。

【P329】 リビエは、この自衛権または自存権を次のように説明している。
(略)
政府は、自国の安全のため、
他の一国の権利を侵害する権利を与えられているし、
且つある状況のもとにおいては侵害する義務を負うことさえある。

断章取義の総裁の文章

【『七つの燈台の点燈者』の神示

 汝(なんじ)ら天地一切のものと和解せよ。 天地一切のものと和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。 天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することはできぬ。 汝が何者かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に犯されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。 われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献(ささ)ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。 汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。 神に感謝しても父母に感謝しえない者は神の心にかなわぬ。  天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。 本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。 怺(こら)えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。 感謝し合ったとき本当の和解が成立する。 神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。 争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。 皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。 一切の人々に感謝せよ。 天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。 その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。 われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。 われは此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よと云うが如くにはいないのである。 だからわれは霊媒には憑(かか)らぬ。 神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。 われを招(よ)ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招(よ)べ。 われは愛であるから、汝(なんじ)が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕(あらわ)れる。 
( 昭和六年九月二十六日夜神示 )

 時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである。 最早、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである。 二千年前、キリストが『汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ』と云う唯一語で、遠隔の地にいる病人を癒したその真理が、すべての人類に開顕される時期が来たのである。 『生長の家』を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ。 『生長の家』は今かの黙示録が予言した『完成(ななつ)の灯台』として人類の前に臨むのである。 此の灯台より真理の光を受くるものは、創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの『罪』と『病』と『死』との三暗黒を精進するのである。 光が近づくときすべての暗黒は消える。 『真理』が近づく時、すべての『迷』が消える。 『迷』が消える時、『迷』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える。 疑わずに吾が光を受けよ。 われは『完成(ななつ)の灯台』に灯を点ずるものである。 
( 昭和六年一月十五日神示 )】

聖経『甘露の法雨』を読誦するときは必ず、両方を唱えます。最初の昭和6年9月26日夜神示は大調和の神示とよばれとりわけ生長の家信徒にとっては大切な行事であります。

ところが谷口雅宣総裁という人は余程、この神示の一部が嫌なんであろう、最も大切な項目を無理やり中略にしてしまうのであります。

【2014年8月 8日 (金)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (7)                                                                               


「汝ら天地一切のものと和解せよ。…(中略)…天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。…(中略)…われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。」 
 
 この神示にある「すべて」という言葉は、人類だけを指すものではありません。文字通り「天地すべてのもの」です。動物、植物、菌類、鉱物などすべての被造物と和解することによってのみ、神は姿を現され、私たちを祝福されるのです。別の言葉でいえば、自然界のすべてのものと和解することによってのみ、私たちの内部の神性・仏性が輝き出し、世界に平和が実現するということです。 

ごらんのように下記の文章をこっそり抜けています。
勿論、良心の呵責に耐えられなくて?書かなかったのであろう。

【われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献(ささ)ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。 汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。 神に感謝しても父母に感謝しえない者は神の心にかなわぬ。  天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。 本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。 怺(こら)えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。 感謝し合ったとき本当の和解が成立する。 神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。 争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。 皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。 一切の人々に感謝せよ。】

ここには両親や兄弟と和解していない自分自身を少し恥ずかしく思ったのか、抜粋しないのである。
だが、そこから無理矢理に自然を持ち出すから、話がおかしな方向へと移行する。
天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。と書いています。そこが抜けており自然との調和とかそういう話じゃなく、総裁自身がどうなのかであります。

自分のいいように文章をつまみ食いしながら谷口雅春先生の御著書を引用するのはいいが、いくら腹黒いとはいえ良心というのがあるのかどうかであります。
自然とか言う前に、和解とか言う前に自分の発言や行動を振り返ることが必要であります。

そういうのを断章取義というのです。
和解を称える人の多くはそういう過ちを犯していることが多い。和解といいながら「本流」とは與しないという。
それじゃ「和解」ではない。
自ずから実践していこう。

谷口雅春先生年譜表昭和40年~44年

昭和3911月    立教三十周年記念全国信徒大会を開催。(日大講堂)

  “紀元節制定推進都民の集い”(虎ノ門ホ-ル)で講演。

『無門関解釈』発刊。

昭和401月     沖縄へ御巡錫。

昭和403月     「これだけは知っておきたいこと」(理想世界)

昭和405月     『理想世界』15日版(ジュニア版)創刊。

昭和401221日  自民党主催の日韓条約調印祝賀会で憲法復元、優生保護法改正を自民党議員に訴える。

昭和411月     御題詠進「声」

革命を叫ぶ声国に漲れり愛国者今起たずしていつ起つべきか

明治憲法に復元せよと叫べども声いたづらに街に消えゆく

大君は日本の危機来れりと叫ぶ我らの声きき給ふか

昭和415月     「生長の家学生会全国総連合」結成。

昭和41513日   建国記念の日制定推進全国婦人大会。

昭和4111月     劇作『阿闍世王』を国民歌劇協会にて歌劇化し、九段会館において芸術祭参加作品として発表。

昭和4214日   生長の家青年会・生政連、憲法復元の著名運動。

昭和42110日   日本国民会議総会で「日本国憲法の背景となる哲学」を講演。

昭和42211日   第一回建国記念の日祝賀会(本部)において「神武建国の系譜とその理念」と題して講演。

『愛国心と日本国憲法』(パンフ)出版。

自民党衆参議員87名に“憲法復元・優保法改正“み取組むよう挨拶。

昭和42314日   全国1500箇所で制定後初の建国記念の日奉祝行事。

6回「憲法の会」にて「世尊拈華と日本国憲法の在り方」と題して講演。

生長の家青年会、憲法復元・優保法改正の国会請願デモ。

昭和425      「世尊拈華と日本国憲法の在り方」(理想世界)

昭和426      現行日本国憲法の非合理性と非真理性を明らかにする」(理想世界)

昭和428      「果して日本国憲法は憲法なりや-恵庭事件をめぐる論争を契機に憲法自体の合憲違憲を探る。(白鳩)※この論文は「自由」誌より依頼された論文で後に書き直しを要求されたため「白鳩」誌に掲載され、頒布運動が行われた。

「常に暴力革命の危機を孕む日本国」(白鳩)

昭和4311   『憲法の正しき理解』を発行。10600部頒布

年頭にあたり憲法復元こそ急務、今こそ憲法復元の好機と訴える。

「羽田事件で死んだ山崎博昭君の考え方」(理想世界)

昭和432      「佐藤首相の自主防衛論か違憲」(明窓浄机)

昭和43211    倉石発言問題で全国各地で自主憲法制定請願デモ。

昭和433      「佐藤首相に建言して憲法復元の急務を述ぶ」(明窓浄机)

昭和434      「日本はこれでよいか」(白鳩)佐藤首相の度重なる会見不要論に抗議。

昭和435      『古事記と現代の預言』出版。

「国防と憲法と倉石問題」(理想世界)

「日本国憲法はこれでも平和憲法であるか」(明窓浄机)

昭和437      「民主主義の矛盾について」(理想世界)

昭和43729日~87  生長の家学生会全国総連合(生学連)東京から広島まで憲法復元行進、以後毎年行われる。

昭和43827    「ソ連軍のチェコ侵入と無防備中立論の愚」(帝都日日新聞)

昭和4393    「勝利に慠らず聖胎を長養すべし」を発表。

昭和439      「やまと新聞」(帝都日日新聞)に「月曜随想」連載始まる。

昭和43916   「学生騒動と日本国憲法との関係」(やまと新聞)

昭和43930   「明冶憲法既に復活する宣言について総理大臣佐藤栄作先生にお願いする。」(やまと新聞)

昭和431111    議会制民主主義の落ち着く先―常にク-デタ-又は革命の素因を孕む」(やまと新聞)

昭和43122  「佐藤首相の三選を祝して希望を述ぶ―『国を守る気概』をもつことは日本国憲法に違背する」(やまと新聞)

昭和43129    「学生騒動の根源にあるもの―日本国憲法が国民に植えつけたエディポスコンプレックス錯綜」(やまと新聞)

昭和431214    安全保障推進国民会議結成。

昭和441月      「生命体の国家」(理想世界)

大学紛争に関して佐藤総理、坂田文相、加藤東大総長代行宛に声明文を渡す。

昭和44210   「国旗侮辱について想う―今や憲法は有効の限界にきている それを詭弁で破らねば政治が出来ない」(やまと新聞)

「今こそ大政奉還を―佐藤首相への直言」(明窓浄机)

昭和4438   安保推進中央国民大会。(日比谷公会堂)

昭和443月     ウイリアム・H・D・ホルナディ博士と「日米合同世界平和大講演会」開催。

昭和44310   「心霊学的見地から観たる日本国憲法の呪詛的要素」(やまと新聞)

昭和44317   「占領憲法と学生騒動および靖国神社の国家祭祀の問題」やまと新聞)

昭和44324   「神社の本質と国家宗教」(やまと新聞)

昭和44331   「靖国神社に反対する基督教信者に教える」(やまと新聞)

昭和4447   「家永教科書検定訴訟について―日本国家は占領憲法によって生命を奪われた」(やまと新聞)

昭和44421   「学生騒動の一層根源にある心霊学的問題」(やまと新聞)

昭和44428   「自主憲法制定とは何を意味するか。―他国のイデオロギ-をもって新憲法を制定しても、それは植民地憲法ではない」(やまと新聞)

昭和4452    自主憲法制定国民大会(日本武道館)自主憲法制定国民会議(岸信介議長)結成。

第一回自主憲法制定国民大会で日本国憲法の無効を訴える。

昭和4455   『占領憲法下の日本』発行。(三島由紀夫氏が序文を寄稿)

40万部頒布。各界の反響を呼ぶ。

昭和44526   「大政奉還の論理―この一文を佐藤総理大臣に献げる」(やまと新聞)

昭和446月      「果して中共は平和勢力か―占領憲法は日本国家を舞踏病の半身不随国家とした」(理想世界)

昭和4469   「これでも民主主義憲法は国民に定着しているか」

昭和44611   教科書を守る会結成。

昭和44630   「日米安保条約は違憲ではない―安保は前文の精神の具体化であるから、安保を解消しようとするには、憲法は破棄せねばならぬ。

昭和447月     「占領憲法が吾らの日常生活に及ぼす影響」(生長の家)

昭和448月     刻々迫り来る革命の足音―まことに“憲法復元”か“革命”かの二者択一である」(理想世界)

「羽仁五郎氏の学生扇動の講演は憲法前文の焼き直し」(明窓浄机)

昭和44811   「大学運営措置法をめぐる問題」(やまと新聞)

昭和44825   「道義の上に建たない国は滅びる―佐藤総理大臣に建言する」(やまと新聞)以後922まで5回連載。中の3回を『占領憲法下の政治批判』に集録。

昭和441013   「発行所違いの日本国憲法」(やまと新聞)

昭和441020   「最高裁判所長官にお訊ねする-一裁判官の判決で自衛隊の国防を停止し得るか」(やまと新聞)

昭和441116   「国会の乱闘国内闘争-その原因は日本国憲法にある」(中外日報)

昭和441123   喜寿奉祝全国信徒大会開催。“憲法復元・天皇実相顕現”今為すべきと訴える。

飛田給練成道場落慶。


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