則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2014年08月

讀んで戴ければ幸甚です。

谷口雅春先生御揮毫

私の家には谷口雅春先生御揮毫の本が2冊ありP1150655
P1150656
ます。両方とも光明法語-道の巻-です。

妙々實相
實相完全

です。
大切にしていきます。
それと額縁は今度掲載させていただきます。
BlogPaint

吾唯足知

龍虎さんがお亡くなりなられたと今日の朝刊に掲載されていました。

龍虎さんはサインをする時には必ず、吾、唯足るを知ると書かれます。
以前にサインを頂いたときにそのようにして書いていただきました。
京都の龍安寺ではこの言葉が記載された知足の蹲踞があります。複製ですがやはり堪える言葉です。

龍虎さん、安らかに眠ってください。
P1150654

「空と海の向こう」


https://youtu.be/TyXAfW64Nf4?list=RDb-Oo66UqBLw


山口采希さんの「空と海の向こう」です。
北朝鮮に拉致された人を歌う。

平和憲法といいながら、北朝鮮の拉致された人々を救えない日本。
これ、矢張り憲法がおかしいから救えないんだ。

平和憲法でもなんでもない。

また、虎視眈々と尖閣諸島を狙っている中国。沖縄に多くのスパイを潜らしている。新聞社やマスコミ関連に情報操作しながら日本の領土を狙っている。

そんなことどうして気づかないのであろうか?尖閣諸島を武力なんかで攻撃するなんていっている人がいたが、余程情報に疎いのかしらないが、そんな戦法では中国も行わないよ。一般人を潜入させてジワジワ行うだろう。

新・愛国論


https://ja-jp.facebook.com/randomyoko


今、『新・愛国論』で若き女性がブログを発信しています。
是非とも聞いて、否見て下さい。
また、本はすぐ読めます。2時間ほどで読完です。

左翼化した「八ヶ岳教団」にNoと云おう。

以前に私が入信した教団であることが恥ずかしくていえない。

ここまでするとは思わなかったなどいいわけであろう。
トキさんは擁護したのを恥ずかしいとは思わないだろう。
私ならば恥ずかしいのと谷口雅春先生の気持ちを考えるといてもたってもいられない。
あまりにも本尊まで変えようとする野心は信徒にどう言い訳をするんであろう。
和解などいったように元々無理なことであることをこれでもトキさんはいいわけのように、最後は和解というのも虚しい。

そんな容易い相手ではなかったことを今更知っても遅い。

35年前から野心でこの生長の家に入信したのであるから、谷口雅春先生の名前を一掃したかったんだろう。
最初は生政連の解体、青年局の解体。総本山の解体。原宿本部の解体。生長の家の解体と解体のみが総裁の仕事であった。

似非環境信者総裁はメガソ-ラで自然の破壊までやろうとしている。

もう環境の家でもなんでもない。生長の家を破壊する願望であろう。
ただ自分の生活さえ困らなければいいだけである。
谷口雅宣総裁で救われた人間など皆無である。もともと宗教家ではないのだから、それは納得できる、本当にこのままでは生長の家はなくなるであろう。
信徒に警鐘する。本当になくなることを自覚して欲しい!

木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)

天照御大神をお祀りしているとして木嶋坐天照御魂神社の名前がありますが、この神社は3回ほど行きましたからよく覚えています。

私や京都の人は「蚕の社」として呼んでいます。蚕を養蚕していたことが由縁でもありますが、三角鳥居として有名であります。
元糺の池があった場所にその三角鳥居はあります。
奇妙な形の鳥居は雑踏の場所に静寂な空気を漂わせます。

是非、京都見物で行かれたらいいと思います。
元糺というのは糺の森として下鴨神社境内にあります。それを分けるために使われている見たいですが、今は元糺の付近は住宅地になっています。


【本殿左側の一段低くなった所に、繁茂した樹木に囲まれた池がある。「元糺の池」と呼ばれる神池である。四季を通じて清らかな水が湧き出ると聞いていたが、何故か五年ほど前から水がわき出してこなくなったという。「糺」は「正しくなす」、「誤りをなおす」という意味である。身に罪や穢れがあるときに、この池は禊(みそ)ぎを行なって心身を清める場所だった。土用の丑の日にこの池に手足を浸すと、諸病にかからないという俗信仰がある。
 

なぜ「元糺(もとただす)」なのかというと、「糺の森(ただすのもり)」の呼称に関して、どうも神社同士の確執があったようだ。木島神社では潔斎の場である糺の池の周りを糺の森と呼んでいた。しかし、糺の森は他にもある。御所の北東に賀茂川と高野川の合流点があり、この合流点の北側の三角州一帯は、平安時代から潔斎の地として知られている。この一帯の森も「糺の森」の名で呼ばれている。木島神社の由緒書きによれば、嵯峨天皇の時代に潔斎の場をこの社の境内から下鴨神社に遷されたためだという。したがって、本家本元はこちらだと主張するために、木島神社では「元糺」と言っているようだ。


上段の神池に、鳥居を3つ組み合わせた特異な形の鳥居が建っている。三柱鳥居(みはしらとりい)と呼ばれるもので、由緒書きでは全国唯一の鳥居であるとしている(実際には他の地域にもあるらしい。例えば長崎県諏訪神社奥にある蛭子社の三つ鳥居)。鳥居の中心には、石で組まれた祭神の神座(かみくら)があって、宇宙の中心を表し、四方より拝することが出来るよう建立されているという。創立年月は不詳である。現存の鳥居は享保年間(260年前)に修復されたものだそうだ。


得意な形をした建造物だけに、さまざまな説が出されている。その中のいくつかを紹介しておこう。一つは大和岩雄氏が提唱した説で、秦氏にかかわる稲荷山、松尾山および双ケ丘の遙拝所だという。冬至の日、稲荷山から上る朝日と、松尾山の磐座がある日埼峰に落ちる夕日は、この鳥居の二面から正面に拝することができ、もう一面からは北の双ケ丘を正面に遙拝できるというのが、その根拠だ。景教(ネストリウス派キリスト教)の遺物ではないかという説もある。「大秦」というのはローマ帝国のシリア地方の事だとか、「太秦(うずまさ) 寺」という字は、唐の都のキリスト教寺院「大秦寺」と非常に似ている、といったことから、秦氏をユダヤ人原始キリスト教徒であると見立てて、三柱鳥居は原始キリスト教の絶対三神「御父と御子と聖霊」を表現しているというものである。 (インタ-ネットより抜粋)】

様々な説があるようですが、禊ということでは下鴨神社も禊の池があります。
そういう禊の場所を糺すとよんでいたのであろう。

三柱鳥居

主祭神を変えるのは-3(神を演じて)

生長の家では住之江大神や住吉大神を神想観で唱和したり読誦したりしています。それは不断の行動であります。

『招神歌』講義    生長の家誌 昭和12年1月号より抜粋
【生長の家大神とは『天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神』と云う神様として、宇宙に充ち満ちていながら、同時にここ生長の家に形をあらわしたまうていると、斯う云うわけなのであります。
それは方便もありまして、姿を見せなければ満足しない人がある。そういう人には時に形として現れ給うことがるのであります。
必ずしても凡ての人に見えると云うわけではない。ラヂオセットが完全でないために見えない人が多いのでありますけれども、百人中二三人見えたとか、千人中十人が見たとか云うように、既に十人なら十人の人が同じ姿を見たというならば、矢張りこれは幻覚ではなかった。本当に神様の姿があったんだなと云う事が吾々に感知される。
成程神様はいらっしゃるのだと云うことになり、神様が神通力によってそこに形を現し給うたのだと云うことになるわけであります。

普賢菩薩はこの実相の浄土に坐して、宇宙に満ちておって姿がない、けれども閻浮提(えんぶだい)の世界に身を縮めて小さくなって、六牙即ち六つの牙の小さい象に乗って、こう云う姿であるぞと現れ給うたと云う事がお経に書いてありますが、これも同じ事なのであります。
大宇宙に居ながらまた同時にここに矢張り姿を現し給う事になる。
生長の家では特に神想観中にお現れになりまして、そうして我々を守護し給う働きをせられているわけであります。それで我々の生命は大生命から与え」られたところの生命でありまして、人格的な存在でありますから、矢張りどうしても親子兄弟であると云う親密な感じを持たずにいられない。
また持っているのが、これが本当の姿なのであります。吾々にはこの世界に親子兄弟と云うものがあり、或は夫婦と云うものが有ると云うのは、それは偶然に現れているのではないのでありまして、大生命界の神の生命の法則がここに影を映していて、大生命界にあるものその侭がここに現れているのでありますから、矢張り親子関係とか夫婦関係とか兄弟関係とか云うものは夫々に大生命そのものの分身であると云う事が出来るのであります。
神は人格的な存在であり、吾々も亦人格的な存在である。それで御祖神に対して本当の親子のような親しみを感じ、懐しさを感じ、これを礼拝帰一すると云う事になるのは当然な事であります。】


生長の家の招神歌にしてもそうですが御祖神から元津霊(もとつみたま)に幸(さきは)へなければならないと思います。
生長の家は大生命から神様の御徳が滔々と吾が身体に流れていくことを観じるのですが、「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命射照し宇宙(くに)静かなり」
これは総裁が誤解している文章がありますが

天照大御神について

 こんな題をつけて本欄を書き始めることに、私は躊躇している。なぜなら、この題からは、何か大論文を書くかのような印象が生まれるかもしれないからである。学者のように「アマテラスオオミカミ」と片仮名で表記してもよかったが、そうすると読みにくいだけでなく、何か突き放すような、その反面小馬鹿にしているようなニュアンスがある。とすると、それは心外だ。私は毎年、正月に伊勢神宮に参拝して神宮の「角祓い」を買い、自宅の神棚の小社に納める。その霊代には「天照皇大神宮」と墨書してあるから、「アマテラス」より「天照」の方が、これから書こうとしている主題をよく表していると感じる。さらに、『古事記』や『日本書紀』なども同様の表記であるし、私が毎日の神想観で「光明思念の歌」を唱えるときには、「アマテラス」ではなく「天照す」を心にイメージしているから、やはり漢字表記のほうが適切だと感じるのである。

 その神について書く理由は、日本の天皇家の“皇祖神”として考えられているだけでなく、神話の中では明確に「太陽神」として位置づけられているため、21世紀の人類最大の課題である地球温暖化・気候変動の問題にも深く関わっているからである。つまり、この神は、古代の神であるだけでなく、現代において新たな意味を付与されて息を吹き返しつつある重要な神さまだと感じるのである。そのことは、拙著『“森の中”へ行く』の第5章(p.146)でも触れたし、2009年5月27日の本欄にも書いた。また、世界中で祝うクリスマスに関連して、これを12月25日に定めた由来がローマ時代の太陽神信仰と密接に関係していることも、本欄で何回か(2005年11月17日昨年12月21日 )取り上げてきた。つまり、太陽からくる数多の恵みを認識し、それに感謝し、その思いを宗教的に表現することは、時代や民族を超えて人類に共通するものなのだ。それをひと言で表現しようとすると、日本人の私には「天照大御神」という言葉しか思い浮かばないのである。
 
 私はかつて「天照大御神の御徳を讃嘆する祈り」というのを書いたが、この祈りは、上記のような私の知的理解を情的に表現したものである。その祈りの言葉を読んでいただけば、それが一宗教の神を讃嘆しているのではないことが分かるはずだ。例えば、そこには「天照大御神は“愛なる神”の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない“アガペー”の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である」と書いてある。また、その祈りの最後近くには、次のようにある--
 
「太陽は、地球から何の報いを得なくとも、無限に与え続けるのである。この偉大な力によって、地上に多様な生命と生態系が出現し、おびただしい数の生命が支えられていることを思うとき、人類も“与える愛”を駆使することで、地上の平和と秩序と、多様なる生命の共存共栄を実現できることを知る。われは今、天照大御神の日子・日女として、その高邁なる目標を掲げて生きるのである」。(p.66-67)

 だから、私がここで使う「天照大御神」という神名を、東洋の片隅にある国の宗教が説く、数多くの神々の名前の1つ--つまり、固有名詞だと考えないでほしいのである。そのことは、谷口雅春先生も『詳説 神想観』(新版)の中で強調されている。すなわち先生は、「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照し宇宙(くに)静かなり」という光明思念の歌を、次のように解説されている--
 
「光明思念の歌は決してただの呪文でもなければ、伊達に荘厳味を添えるために歌うのでもないのである。“天照す御親の神”というのは天照大神という固有名詞ではなくて“あま”は宇宙で、宇宙を照らし給う御親の神、本源の神様のいのちが宇宙一杯に光明輝いて照らし渡って神の慈光の下に平和に、大調和に一つの世界を実現している--その実相を諦視し、言葉の種子を天降して、世界平和が実現するように祈るところの荘厳な行事なのである」。(同書、p.111)

 このような理解のもとに、本シリーズを読まれたい。
 
 谷口 雅宣

別に天照というのは尽十方を照らす役割であり、人格的な役割として生長の家大神とかがあるのです。
天照大神そのものは本源神としての神であり、より具体的に唱えるほうがわかりやすいのであります。

ここから雅宣総裁は本祭神を変えようとしている意図が見え隠れするのであります。
私には「天照大御神」しか浮かばないというのは、個人の度量のなさであり、私ならば他に沢山の神様を浮かべます。
それは神道や古事記に常日頃接しているからなんです。

荒御魂(荒魂)や和魂や様々な神様が現れます。そうしたものを知らないから、天照御大神しか創造できないのです。
その自分の創造できないからといって、信徒にそれを強要するのはおかしい。
本当に生長の家は総裁によって「宗教ごっこを演じている」のであります。
本人の書いた「神を演じる前に」ではなく「神そのものを演じて」いるのです。
大それたことであります。




主祭神を変えるのは-2(牛頭天王信仰)

それではそうした投稿をみていきます。
トキ掲示板の本流対策室で

9045トキ:2014/08/30(土) 19:59:13 ID:OGEvuyQE
 こういう投稿がありました。

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bs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2207

《慄然!唖然!愕然!》とうとう、谷口雅宣総裁はここまでやってしまいました!生長の家の「御祭神」まで変えてしまいました!住吉大神とともに天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神を祭祀するそうです!NEW (11594)

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 最初に、この情報の裏は私はとっていません。しかし、個人的には
信頼できる内容だと思っています。

 以前から、組織内で噂がながれていましたが、とうとう、本当に
やりましたか。うーん、残念です。

 おそらく、本音は、「御祭神」を住吉大神から天之御中主神にかえ
たいのですが、さすがにそれをいきなりすると信徒から大反発が来る
ので、「御祭神」を増やす、という手段に出たのでしょう。「御祭神」
を増やすのなら、当分は説明ができます。

 しかし、「格上」の「御祭神」である天之御中主神を祀ると、自働
的に住吉大神が隅に追いやられる事になります。そのうち、適当な名目
をつけて、住吉大神を「御祭神」から外せばいいという計算があるよう
な印象があるのは、私の勘違いかしら?

 総裁のご著書に「神を演じる前に」というのがありますが、今の総裁
は本当に「神」を演じておられるような気がします。

 しかも、もし、もし、純粋に天之御中主神をお祀りしたいのなら
(第一義の神様を祀る意味については議論の余地がありますが)
森のオフィスの中に、「世界平和神社」でも「雅宣神社」でも作れば
いいのです。現に、森のオフィスには、訳の分からない祠を作ってみ
んなで例の「新経本」をとなえています。

 それをせずに、わざわざ総本山の祭祀に手を入れるのは、総裁が、
住吉大神を外したいのだ、という意図があると考えるのが普通だと
思います。

(つづく)

9047トキ:2014/08/30(土) 20:08:26 ID:OGEvuyQE
本部としたら、神社の中に、複数の「御祭神」があるのは珍しく
ないから、特に問題がないのだ、という説明をすると思われます。一般の
神社なら、それはあり得るかもしれません。

 しかし、総本山は、その建立の趣旨が鎮護国家であります。

これをいきなり変更するのは、信仰的に見て、おかしいし、真面目に勉強している
信徒からはまたまた反発が来るのは予測できます。

 最近、ともかく、幹部も職員も本部の事を全然信用していません。

 普及誌も、馬鹿馬鹿しくて、他人には勧められない、と公言する人も
多いです。先日、某教区で会議があり、その席上、出席者の一人が、

 「生長の家がここまでおかしくなったのは総裁の責任だ。総裁が辞めない
限り、組織は衰退する」

と発言し、騒ぎになったのですが、その時に、責任者が発言を鎮めるのに
言った内容が、

 「みんな、そう思っている。しかし、それをここで言っては無茶苦茶にな
るから、今日は押さえてくれ。」

とかで、教区のほうも我慢して、我慢して、運動を続けているのです。

 しかし、こんな無理な事をしたら、またまた現場から怒りの声が出るのは
必至です。

 本当に困った事だと思っています。


http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=2207


いや、困ったものだけではありません。
わがままを押し通した谷口雅宣総裁らしい。
雅宣総裁であるなら、そんな無茶なことも行うのはありえます。
だが、茶坊主の磯部君など黙っているのも茶坊主らしい。

本当に注意する人物がいなければやりたい放題です。

 「生長の家がここまでおかしくなったのは総裁の責任だ。総裁が辞めない
限り、組織は衰退する」

多くの人物がそのように思っていても、何も出来ない。いや噴火の一歩手前であると思います。
たぶん、主祭神である住吉大神を外す考えは、今までの一連の行動をみれば多くの人は頷きます。
天照大神を主祭神とする。

無茶苦茶であるし、それは行ってはいけない神道での規範があるのです。
そうした規範が幹部はわからない。

昔、織田信長が神社やお寺などを焼き討ちとして近畿にある諸神社は改名としてその存続を実施しました。

【牛頭天王信仰(ごてんのうしんこう)】より抜粋

今は少ない神社ですが「牛頭天王神社」は元々違う主祭神であったのが
牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。また、祇園精舎の守護神であるので、この神を祭った場所は、しばしば祇園と呼ばれる。
 京都祇園の八坂神社は、貞観年間に円如が播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間、摂政藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て祇園社と呼んだのに始まる。天禄元年、悪疫を鎮める祇園御霊会(祇園祭)が始まったと云われる。

 当時は医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていった。牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれたが、民衆にとって、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことであった。
 新たに牛頭天王を祀る社を作るのみならず、従来からの古社に牛頭天王を併祀することも多く行われた。そして、それらが、いつの間にか、従来からの祭神を押しのけ、牛頭天王を主祭神とするようになり、社名までもが変えられていったのである。

下って、近世に入ると、国学者や神道家が現れてくるが、彼らにとって牛頭天王は誠に疎ましい目障りなものであった。神道こそ絶対であるとして、神仏混淆・本地垂迹を排撃する彼らにとって、記紀の中で重要な位置にあるスサノオ神と習合している牛頭天王は許しがたいものであった。さらに、「てんのう」と称することは「天皇」に対する重大なな僭称であり、大不敬と思われた。延喜式に記された由緒正しい古社までが牛頭天王を祀っていることに彼らは憤激したのであった。

かくて、彼らは牛頭天王信長対策説なるものを考え出す。これらの神社は織田信長による社寺破壊の難を免れるために、織田氏が信仰篤い牛頭天王を祀っていると称しただけのもので、本意から牛頭天王を祀ったのではないと云う説を作り出したのである。今、為那都比古神社に建っている「為那都比古社」と彫られた石柱は彼らによって立てられたもので、「牛頭天王社と称してはいるが、こここそ延喜式内の為那都比古神社である」と云いたかったのである。

 やがて明治維新となる。国学者たちが拠った明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神としていた神社に対しては、すべてその祭神をスサノオ神に変えるか、もしくは、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めた。かくて、京都の祇園社自身も、その名を八坂神社と改め、祭神をスサノオ神に変更した。箕面でも、為那都比古神社は名を昔に戻しで祭神の中から牛頭天王を削除し、阿比太神社は名を旧に復して祭神をスサノオ神とし、粟生天王社はスサノオノミコト神社と改名し祭神もスサノオ神とした。

さて、こうした神社はその地域での昔から行われた慣習があり、私の会社の近くには素盞鳴尊神社が多くあります。猪名川町だけでも6箇所あります。また八坂神社も多くあります。

このようにして改名したことも理由があり余程ではない限り主祭神を変えることはありえません。


主祭神を変えるのは-1(宗教ゴッコを超えられない幼稚性)

小さい時はチャンバラごっこなど行ったのが懐かしく思い出す。
セイダカアワダチ草の芯だけにして、友達とチャンバラのものまねをしたものです。
それ以外には電車ゴッコなどもしました。
自分が車掌となり、近くの京阪神急行電鉄(阪急の前身)を真似て行ったものです。
自分が運転しているように、音まで真似て「出発進行」と言ってロ-プを3人や4人とその中に入り楽しく演じていました。

だが、大人になれば当然そんなこと行いません。それぞれの職業に憧れはありますが、それはそれと割り切ります。
多くの大人はそのようにしてそれをしないようにしています。
そんなこと「子供」で卒業しました。

それが当然の言葉ですが、それが大人になっても行っているのが生長の家教団の谷口雅宣総裁である。
環境ゴッコを行い、それに飽きれば今度は宗派の主祭神を変えようとしている。

これは今までの行いからみても、間違った情報ではない。

嗚呼、主祭神も変えるか!

私の先祖の宗派は「融通念仏教」である。これを変えるつもりはない。
それは何故かというと、先祖の教えを守るのが子孫の役目であると思っているからである。江戸中期まではどの宗派であったかまでは過去帳がないのでわかりません。しかし、現在本家でそのル-ツを探求していただいています。

現在までわかっているのが奈良県の安堵町という所がありますが、昔はそこは平群町の一部でした。池田町に住んでいたのがわかっているのですが、苗字がない江戸時代では宗教というのが大切な過去を知る材料となります。だが安堵町での昔のお寺でも「融通念仏宗」は多くあり、ある程度まで絞っていっています。

そうした宗派があるから過去まで探求できるのであります。
融通念仏宗は本尊は十一尊天得如来ですが、掛け軸にその如来図を掛けて祀っています。
当然の如く、その本尊を変更するようなことはしません。
それは何故かというと、先祖が護って信じた如来を変更するのは融通念仏宗ではなくなるのです。
良忍上人が始めたこの融通念仏宗は


【良忍上人は阿弥陀如来の示現をいただき、融通念仏の教えを深く領解したとはいえ、いまだ民衆に念仏を勧める機縁の熟さないまま草庵に閑居しておられました。しかし上人の徳は人づてに京の都に伝わっていました。ある時、鞍馬寺の多聞天王が威厳に満ちたお姿を現して上人にいわれるには、 「あなたは先に仏さまから尊い融通念仏を授かったのに、どうしてそれを人びとに勧めて苦しみの衆生を救済しないのか」 このお言葉によって布教の時ようやく至ったことを知った良忍上人は、天治元年(1124)6月9日 はじめて市中に出て念仏勧進を始められました。上人の名は朝廷に達し鳥羽上皇は宮中に上人を招いて皇后や百官もろともに融通念仏会を修し、自ら日課百遍の念仏を誓約されました。その上、上皇はご帰信のしるしに愛用の鏡を鉦に鋳かえて上人に授与されました。これを“鏡鉦”といい念仏勧進の道すがら鏡鉦を叩いて歩かれ代々大切に伝持されてきました。中祖法明上人のとき、故あって“亀鉦”と改称され今に大念佛寺の宝物として伝わっています。
 さらに鳥羽上皇は自ら融通念仏勧進帳(名帳)を製し、帰信者に名を記させるべくご自身もお名前を録し、かつ序文をしたためられました。
 天治二年(1125)4月4日 お礼のため鞍馬寺で通夜念仏をされた良忍上人の前にまたも多聞天王が現れ、神々の世界にまで融通念仏日課百遍を勧めた証拠に「神名帳」を授けられました。その「神名帳」には梵天、帝釈、四天王をはじめとして、閻魔王界から地獄の役人に至り、かつ日本国内の八百万神の名が星のごとく連なっていました。神々た融通念仏の行者としての誓約をされているのです。融通念仏が神祇同音といわれるのはそのためです。】

京都大原三千院の来迎院の前にはその良忍上人のあらすじのようなものが大きく書いています。

だから、主祭神を変えるようなことはしません。

神道でもそうです。余程のない限り主祭神を変更することはありません。
それはその神道の神様であるから、その地域の由縁もあるからです。
例えば住吉大神は阪神間に多くの住吉神社があります。海の神様であり、航海神として大阪湾を囲むようにして住吉大神を祀っています。
また、神功皇后の三韓征伐の時に住吉大神が身辺をまもった。

その住吉大神の御神託を受けたのが生長の家です。
それをそのままにして、天照大神を祀るのは誤っているのであります。
元住吉大神は三韓征伐を由来とした神様であります。それはそのまま鎮護國家としての神様であり、国を護る御本尊の意味もあります。

さて、こうしたことがどうして起こるのか

雅宣総裁のfacebookを見るとあきらかであります。
環境ゴッコしている喜びを書いていますが
「休日に自宅の裏山を少し歩いただけで、これだけ採れました。傘が赤いのがタマゴタケ、その他はアミタケとチチタケです。いずれも食用となりますが、食べたのはタマゴタケだけです。(あとは、それほど美味しくないので……)」

美味しくないのがわかっているのであるなら何故採取するのであろうか?
それは見栄なんです。
ここはこんなに自然豊かな場所ですということを言いたい為だけで食べないキノコを取るわけです。

こういうことが私は「ごっこ」であるという由縁なのであります。
それならば何故宗教の総裁として
何を行っているかといえば、そういうのがまったくみえません。
もともとそんな宗教など大嫌いなのであります。
MTBを乗り、自然と戯れているのが一番楽しいだけなのであります。
原宿などいつ自分が殺されてしまうかわからない、自然豊かな「八ヶ岳」ならばそんな心配することは全くありません。
自分は宗教などする気持ちなど毛頭ありません。「宗教ごっこ」として戯れているから、主祭神を変更するなどどうも思わないのであります。
八百万が神道であるから、どの主祭神でもいいというような、神道を知らない人間の行う人間がすることであります。
もう、こんな環境の家などいつまでも信じてもなんにもなりません。早く辞める事をお勧めします。


古い本は『秘められたる神示』

谷口雅春先生の御著書で一番古いもので『生命の實相』や聖経を除くと『秘められたる神示』昭和36年発行となるようです。

新版として出版された『善と福との実現』にしても平成19年12月15日である。これは異常であると思う。『生命の實相』や『真理』『青年の書』等等が社会事業団が版元とはいえ、日本教文社は雅春先生の御意志を継がない会社であることは明白である。
雅宣総裁の唯々諾々と聞き入れて、その雅春先生の御意志を無視するのは如何なものであろうか?

新版はもう出版されません。雅春先生が残した記録は8mmテ-プなどありますが、変換装置がなければそれも複製することは出来ません。
今でもカセットテ-プデッキなど所有されている人など少なくなってきています。複製もだんだん難しくなってきます。

先日の古い友人との会合で昔の録音テ-プやフィルムなどDVDに転写するのも大変だったと聞きます。
今後益々難しくなります。
単に出版しないのではなく、出版できなくなるのではないか?
これから、著作権有効期限が切れても新しいものは複製出来なくなる可能性もある。

雅宣総裁はそれにしても罪は重い。そういう焚書や検閲をしている自覚はないのであろう。

病無し、迷無し、罪なし、これが生長の家の根本真理であります。

私のように古い生長の家しか知らない人間は新しい信徒の感想を見ると、変に感心します。

4236ユタカ:2014/08/30(土) 08:26:19 ID:N20ePDNw
a hopeさま

宇治の練成では、七つの燈台の点燈者の神示から生長の家の教えが生まれた  と聞きました。

虚説と和解するな、とは生命の実相にかいてある前後の文章に対して書かれている箇所ではないのでしょうか?
それが、生長の家の教えなんて聞いたことは私はありません。

谷口雅春先生のCDでも、「袖振り合うも他生の縁」こうして同じ場所で真理を聞く人は前世においても親しくしていた人間柄で、その人にあうと、
なんとなく、懐かしい感じがするのだから、

「みなさん、仲良く、仲良くして下さい」 と繰り返し繰り返し仰っていらっしゃいます。雅春先生の最後のご講話です。

ご遺言のように思えました。 みんなと仲良くする、それが生長の家の教えでそれ以外が虚説だと思います。 《


ただ、色々な感想はあって当然だと思いますが、そんななかで生長の家の歴史を少しでも知ってほしいと思って私は書いています。ただ上記の「みなさん仲良くしてください」これ以外は虚説などとんでもないことであります。(笑)
雅春先生はいろいろなことを信徒に述べたり書いたりされています。
いろいろな感想を持つのは自由ですが、やはりいろんな御文章をみられることが大切なように思います。

小さな命を守る運動でも30数年、生長の家信徒であった人が続けられていることでもそうです。

雅春先生の遺言と書いている人もいますが、私はその言葉だけが遺言ではないと思っています。そうでないとおかしいのです。

最後のご講話された総本山のお言葉も雅春先生が信徒に発した最後のお言葉です。私も当時その会場におりましたので、深く深く覚えています。

それが、録音として残っている最後の言葉のように思います。

また、最後のお言葉としては元本部職員の上野志保子さんが看護されておられたので、その言葉を文章にお書きでした。

『病無し、迷無し、罪なし、これが生長の家の根本真理であります。それでは神様、只今より眠らせて頂きます。』

と同じ言葉を二回くりかえされたのです。
それが
「みなさん、仲良く、仲良くして下さい」
となるのですから不思議ですね。

正確な情報がやはり必要なのです。その為に私も書いています。

著作集を作成しようとした由縁

前回のブログの続きですが、7年前に『谷口雅春先生著作集』として感想を詳しく書いています。
それをここに書きとめます。

今回、このようにして『谷口雅春著作集』を作成させていただいたきっかけというのは、私が「生長の家」に昭和44年入信しました。もともと、母が熱心な信者であったのはいうまでもなく、当時高校1年生の私が岩田美奈子さんという高校生に勧誘をうけたのが最初であります。その頃、生高連(生長の家高校生連盟)の大阪の組織を大高連と呼んでいました。熱心なお誘いは私の人生の道程を大きく左右致しました。また、吹田青年会に入ったのが更に大きな転換期となったのであります。高校生であった自分には青年会の誌友会は魅力的な会合でした。そこで、社会人の青年会員仲間の話の内容が難しく自分には理解できないことが度々です。また、雅春先生の『理想世界』誌の輪読は読めない言葉が多い。だが、必死になって覚えようと漢和辞典や国語辞典を片手に読むようにしました。そんな中でも、「生長の家」は天皇信仰ですと言われても、自分の範疇を超えてなにがなにやらわからない。高田さんという人が「大道無門」(戦前本)という本を持っておられてです。この光景は私の人生に強烈な印象を受けましたが、この事が再び何回か今後起こるであろう人生の印象であることは予感していなかった。高校生で『生命の実相』全巻をアルバイトで購入し、高校生で全巻読破しました。


高校を卒業し、社会人になってからは、超多忙な生活が始まりました。仕事が忙しく生長の家の活動どころではなかったのです。仕事に明け暮れる生活が3年程続きました。しかし、生長の家の気持ちは遠ざかるどころではなく、もう一度「生長の家」の活動をやりたいという沸沸たる思いは、「百万運動」に全精力を注ぐことになったのであります。吹田青年会で中学生育成部長を拝命して、誌友会に中学生が20名の動員が当たり前で、誌友会は楽しく、嬉々とした運動でありました。なんともいえないほど素晴らしい活動でした。そんななか、雅春先生の本を集めようと考え、その当時は近くの古本屋でも戦前版もありましたので時々購入したりして、徐々に増えてきました。

それより仕事の方が主であり、仕事で150時間の残業をしても、活動もしっかりとやっていました。その当時の本といっても、古本より出版されている新版本の購入がほとんどでした。

6年間勤めた仕事も光明化運動の活動の為に辞職致しました。我ながらなんと無茶な事をやったものであろうか。やはり若さがそのようなことをさせたのであるが悔いはない。

その後、大阪支部の青年会事務局に奉職しました。

その為、反対に雅春先生の本を購入するとかはなかなか忙しく出来ませんでした。それは24時間が青年会活動であるからです、日夜光明化運動です。古本屋など立ち寄る暇などなかなかありません。それでも、難波の角座前の天牛本店と斜め向かいに天牛書店があり、階段まで山済みになった古本を見るのが楽しみであった。もちろん組合橋筋のイサオ書店や心斎橋の中尾書店、宮本書店、望月書店、日本橋ブックセンターなど昭和書籍とともに3軒ほど並んでいたのが懐かしい。また、昭和55年にオープンした大阪球場なんば古書街などは教養の膨らみを遍く感じさせるお店ばかりであった。また北の方はカッパ古書街がオープンから5年目になっていた。

また大阪第一ビルの高尾書店、植村書店、浪速書林、土田書店など古本屋の全盛期であった。そうしたなかでも、京都の方に雅春先生の戦前本を探索する楽しみがあった。当時、兵庫県の宝塚青年会の小笠原さんの影響もあり京都の古本屋を教えていただいた。また日曜日に一緒に古本屋に行ったことがある。雅春先生の本を収集するという共通の趣味が心躍らされる時であったということはいうまでもない。

その時に現在の谷口雅春先生著作集というのを手書きで「生長の家30年史」を参考に手書きで書いたものが最初の試みである。

そして数年後、小笠原さんの所持されている手書きは私の一覧表より、より詳しい一覧表を作成されていたことを知り、それをコピ-してもう一度新たに一覧表を作成作業をしました。この時に「生長の家30年史」にはない著作や改訂版などの抜け落ちを知りました。

それからしばらくして、「生長の家50年史」が出版され、最後尾の著作一覧表を参考に手書きで作成した。だが、自分が持たなければ著作集は作れないことを実感したこともあり、なんとかより詳しい著作集ができないか暗中模索でありました。

だが、仕事は機械設計です。事務所の賃貸でパソコンを置き仕事をすすめていたこともあり、日夜問わず仕事でした。十数年間は年間休日が一週間以内という超ハ-ドな仕事であり、古本屋も行けない状況で10年間近く、この著作集も滞っていた。だが、なんとか纏められないだろうかと、パソコン入力を平成10年頃から取組む作業を開始しましたが、なかなか進まないのが実状でした。

だが、それを3年間でなんとか一覧表らしいものが作成でき、これに基づいて、まずは、永井古書店に間違いなどがないか、抜けている本などがないかを確認していただきました。

だが、まだ不安もあり大阪の吉田清吉先生や船越縫次郎の奥様に確認しました。

国会図書館にもパソコンで検索して、抜けている著作がないかも確認しました。

また、長崎総本山の温故資料館に資料を送信して、内容を確認させて頂きました。それからも内容に不安もあったのですが、まだまだ未完成な部分もありますがこの本を作成させていただきました。内容に不備がありましたら御教授をお願い致します。

年代不明御著作

現在、私の書いています『谷口雅春先生著作年譜』はA4版で183頁に達しました。
これを書き始めたのが手書きで15頁のものでした。
今から40年程前でした。
手探りで書き綴り、3回程手書きで書き直しました。
今でもその文章は残っていますが、最後の頁など破れています。それから3回書き直して、パソコンへと移行します。最初は50頁の簡単なものでした、それから色々の御忠告など様々なことを言って頂いた皆様に深く感謝申し上げたい。
まだ、『新編 生命の實相』はいつまでかかるのかはわかりませんが、それが出版されない限り纏めることができないのですが、頁数が183頁に到達したことよりも、より詳しく具体的に書けたのが嬉しい。
だが、まだわからないところも沢山あります。

以前にもいいましたが、地方などで谷口雅春先生の御許可を頂いて出版されたものがあります。出版されたのはわかっていますが、いつ出版されたのか不明です。
4年程前ですが愛知県の教化部に行き、調べたこともありますが生政連が活動停止して20年以上経ち、残念ながらお亡くなられた人も多く、不明でした。

下記のご著作で知っている人がおられましたら、お知らせ下さい。

現行の日本国憲法前文の非合法性と非真理性を明らかにする

 

政治結社生長の家政治連合福岡県支部

神想観の実修法

 

生長の家大東京練成研修会

自民党に要望する日韓条約締結祝賀会における挨拶

 


宜しくお願い致します。

ふと思う。

前のブログで「谷口雅春先生の吾が憂国の戦い」ということで書かせていただきました。
私の資料ではもう少しうまくまとめてはいるのですが、WORDとかの罫線が入った文章はうまくいきません。

そこで見にくいかもしれないが、なんとか纏めてみました。今回も『動向』の雑誌ではK様の御協力を頂きました。
このブログをお借りしまして深く感謝申し上げます。

さて、昭和43年の9月3日から帝都日日新聞の『月曜随想』の連載が始まるのですが、どうして聖使命新聞に連載されなかったのかと疑問をお持ちの人もおられますので、私なりの感想を申し上げます。

その当時も『聖使命新聞』にもお書きになられていましたが、時事による掲載はとりわけ新鮮でなければならない、毎週月曜日の掲載ということでその中に雅春先生の御心情など書かれたのではないかと思います。

また、書きやすかったのではないかと思っています。
しかし、生政連が活動停止後も『動向』という雑誌に御投稿なされておられます。昭和58年においては日本教文社では

昭和五十八年(1983



 



 



 



 



 



 

霊供養入門―運命は改善できる― P318(索引P322)   テープ2巻と書籍(索引有り)

後ほど書籍のみ販売とカセット付の販売

8.01



 

322

46



 

大和の国日本

―占領下の啓示とその後の論策―

3.01



 

264

46



 

神性開発・完全健康の原理 ―聖経『真理の吟唱』を講義しながら―                   

10.15



 



 

299

A5



 



このように数冊しか御出版がありません。だが『動向』の雑誌には下記のように御投稿なされています。

1月号(通巻1425号)   百年河清を待つ可らず(述)

新春号(通巻1426号)
   離婚の激増に思う(述)

4月号(通巻1427号)
   中川一郎氏を死地に堕したものは誰か
このように私は推理する

5月号(通巻1428号)   
耿耿の言 暴力から合掌へ
学内暴力の一掃策

6月号(通巻1429号)
   “家”とは國家存在の中核を成す“純粋理念”

7月号(通巻1430号)  三世一如の真理 現代の日本には本当の意味の教育はない

盛夏号(通巻1431   啐啄同時の教育

10月号(通巻1432号)  ダウィンの進化論の否定碧巌録解釈の一節

11月号(通巻1433号)   天災頻々たる時、天地の声を聴いて静思せよ

『聖使命新聞』でも御投稿なされていません。
烈々たる愛国の情迸る雅春先生の御心情を察するにあまりある御文章ですが、この時期には谷口雅宣氏は理事としてその影響を「生長の家」教団に及ぼしています。

谷口清超先生のこの年の7月15日の聖使命新聞に生政連の活動停止宣言がなされています。


<<このような状況に於いては、吾々の運動は立教本来の布教使命の自覚と人類光明化運動の根本的な基盤確立が欠くべからざるものとの観点から、出来るだけ多くの国民の中に『人間神の子』と実相日本の霊的使命を伝道し、全世界の組織網を確立する事が急務と考え、生政連活動は停止されたのであって、決して後退したのではない。

 それは新たなる前進である。今後は、人間神の子の真理・真理国家日本の理念を自覚した国民をもっともっと多数生み出すことにより、そうした国民の正信がおのずからに、政治家は勿論、凡ゆる階層の人々に反映され、生活・教育・家庭・事業、政治の変革が実現するような状況をつくり出して行こう、とするのである。

 それはこれまで以上に幅広く、根の深い雄渾な活動への重大な第一歩と云えるであろう。こうした目的を達するためには、生長の家の各組織を拡大・充実させつつ、飛躍的な教勢拡大を図るほか、安易な道はどこにもあり得ない。そしてそれこそが、人類光明化運動の原点でもあるのだ。吾ら信徒一同、この原点に立ち、菩薩行に邁進したいと決意を新たにする次第である。>>


いつもこの活動宣言は雅春先生の思いであったかどうかと考える時に、それはないだろうと自分では否定しています。
それは雅春先生の御意志ではないのではないかという思いがいつも心のどこかにあります。


『やまと新聞』月曜随想の昭和46年10月11日の

「占領憲法の『言論自由』下に天皇侮辱の言論の横行を欺く」(やまと新聞)


この頃は悲しいことばかり、憂いるべきことばかり、日本国内にも国際的にも色々と起こってくるのである。もうこんな世界には生きていたくないと思うことすら時にある。そんなことではいけない。日本国を救わなければならない。人類を助けなければならない。と自分を励まし、老軀に鞭をうって、出来るだけ若々そうな元気を出して、日本国を救い、人類を助けるための知恵をだしてみるんだけれども、童べ笛」吹けど、その調べに合わして動き出してくれる政治家はあまり無いのである。


私はこの御文章は「天皇侮辱の言論の横行」を嘆かれた御文章筆ですが、現在でも天皇陛下への侮辱した御文章は実に多いです。
私もそれを嘆き哀しみます。
どれほど哀しい思いであったか、私は涙が出ます。

本当に雅春先生がおられたら、きっと現在の教団を嘆き悲しむ現状であろう。天皇陛下すら語らなくなった現教団に。














 



 


 

谷口雅春先生の吾が憂国の戦い

谷口雅春先生の帝都日日新聞(やまと新聞)・中外日報・新日本春秋の御寄稿



昭和43年827  「ソ連軍のチェコ侵入と無防備中立論の愚」(帝都日日新聞)

    9月3日   「やまと新聞」(帝都日日新聞)に「月曜随想」連載始まる。

    9月16日  「学生騒動と日本国憲法との関係」(やまと新聞)

    9月30日  「明冶憲法既に復活する宣言について総理大臣佐藤栄作先生にお願い  する。」(やまと新聞)

    11月11日  議会制民主主義の落ち着く先―常にク-デタ-又は革命の素因を孕む」(やまと新聞)

    12月2日  「佐藤首相の三選を祝して希望を述ぶ―『国を守る気概』をもつことは日本国憲法に違背する」(やまと新聞)

    12月9日   「学生騒動の根源にあるもの―日本国憲法が国民に植えつけたエディポスコンプレックス錯綜」(やまと新聞)

昭和44年2月10日「国旗侮辱について想う―今や憲法は有効の限界にきている それを詭弁で破らねば政治が出来ない」(やまと新 聞)

    3月10日  「心霊学的見地から観たる日本国憲法の呪詛的要素」(やまと新聞)

    3月17日  「占領憲法と学生騒動および靖国神社の国家祭祀の問題」やまと新聞)

    3月24日  「神社の本質と国家宗教」(やまと新聞)

    3月31日  「靖国神社に反対する基督教信者に教える」(やまと新聞)

    4月7日  「家永教科書検定訴訟について―日本国家は占領憲法によって生命を奪われた」(やまと新聞)

    4月21日 「学生騒動の一層根源にある心霊学的問題」(やまと新聞)

    4月28日 「自主憲法制定とは何を意味するか。―他国のイデオロギ-をもって新憲法を制定しても、それは植民地憲法ではない」(やまと新聞)

    5月26日  「大政奉還の論理―この一文を佐藤総理大臣に献げる」(やまと新聞)

    6月30日  「日米安保条約は違憲ではない―安保は前文の精神の具体化であるから、安保を解消しようとするには、憲法は破棄せねばならぬ。

    8月11日  「大学運営措置法をめぐる問題」(やまと新聞)

    10月13日  「発行所違いの日本国憲法」(やまと新聞)

    10月20日 「最高裁判所長官にお訊ねする-一裁判官の判決で自衛隊の国防を停止し得るか」(やまと新聞)

    11月16日「国会の乱闘国内闘争-その原因は日本国憲法にある」(中外日報)

昭和45年2月1日  「核防条約に反対する」(中外日報)

    
    4月13日 「占領憲法下の日本の世論はこうして作られる」(やまと新聞)

    5月18日 「自主憲議長岸信介先生に国防の危機を訴う」(やまと新聞)

    7月20日 「佐藤総理大臣に建言す―憲法不改正を声明した佐藤総理時代は終った」(やまと新聞)

    7月27日 「家永教科書裁判の示すもの」(やまと新聞)

    8月31日 「穴だらけの憲法の実態を衝く-神聖中心を失なったガタガタの日本国家」(やまと新聞)

    10月26日 「占領憲法の与えた精神的公害」(やまと新聞)

    12月28日 「“憲法に体をぶっつけて死ぬ“-三島由紀夫の”死“の意味するもの」(やまと新聞)

昭和45年1月25日  「現代民主主義への絶望」(やまと新聞)

    2月15日  「功利主義憲法下の道義頽廃」(やまと新聞)

    5月17日  「奇怪を極めた孝行奨励校長の罷免事件」(やまと新聞)

    5月24日  「民主主義憲法の弊害の及ぶところ」(やまと新聞)

    5月31日  「“国”というものの無い日本国」(やまと新聞)

    6月28日  「靖国神社の国家祭祀について」(やまと新聞)

    8月9日   「中国なる国は存在しない」(やまと新聞)

    9月13日  「中華人民共和国は新興国家である」(やまと新聞)

    10月11日  「占領憲法の『言論自由』下に天皇侮辱の言論の横行を欺く」(やまと新聞)

    11月22日  「中国の謀略に乗る勿れ-外柔内剛の自民党政治を養う」(やまと新聞)

       『わが憂国の戦い』出版(「やまと新聞」掲載の憂国の論文集録)

昭和47年3月13日  「国家を危機に陥れる文民支配の国防を排す」(やまと新聞)

    8月15日  「田中総理の訪中決意に関して一言」(新日本春秋)



『民族と政治』に御投稿の御文章

昭和48年11月号 『自衛隊違憲判決とマッカ--憲法の本質』

昭和49年3月号 『党略の政治より愛の政治へ―田中総理の政治姿勢

の転換に期待す』

昭和49年4月号 『日本存亡の鍵を握る自民党』

昭和49年5月号 『日本革命の前哨戦としての今回のゼネスト』

昭和49年6月号 『教育制度の改革よりも先ず教育勅語を復活せよ』

谷口雅春先生の『動向』の御寄稿


昭和52年7月号  無明縁起の仏教より転じて光明縁起の仏教創造

昭和57年11月号  日本は侵略国ではない

(武藤貞一氏共同執筆)

昭和57年12月号  教科書に誇りを

昭和58年1月号  百年河清を待つ可らず(述)

昭和58年新春号  離婚の激増に思う(述)

昭和58年4月号  中川一郎氏を死地に堕したものは誰かこのように私は推理する

昭和58年5月号  耿耿の言 暴力から合掌へ学内暴力の一掃策

昭和58年6月号  “家”とは國家存在の中核を成す“純粋理念”

昭和58年7月号  三世一如の真理 現代の日本には本当の意味の教育はない

昭和58年盛夏号  啐啄同時の教育

昭和58年10月号  ダウィンの進化論の否定碧巌録解釈の一節

昭和58年11月号  天災頻々たる時、天地の声を聴いて静思せよ


谷口雅春先生の『在家佛教』の御寄稿

昭和48年

2月号(通巻246号)

衆生病む故に吾れ病む

2223

2

昭和48年

8月号(通巻252号)

『維摩経』の心

8283

2



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