則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2014年05月

讀んで戴ければ幸甚です。

安徳天皇の伝説の陵墓



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摂津国
(大阪北東部)能勢の野間郷に逃れたが、翌年崩御したとする説。
侍従左少辨・藤原経房(つねふさ、吉田家の祖となり『吉記』を残した同時代の権大納言藤原(吉田)経房ではない)遺書によれば、戦場を脱した安徳帝と4人の侍従は「菅家の筑紫詣での帰路」と偽り、石見・伯耆・但馬の国府を経て寿永4年(源氏方年号で元暦2年、1185年)摂津国(大阪北東部)能勢の野間郷に潜幸された。しかし翌年5月17日払暁登霞(崩御)され、当地の岩崎八幡社に祀られた。経房遺書は、文化14年(1817年)能勢郡出野村の経房の子孫とされる旧家辻勘兵衛宅の屋根葺き替え時、棟木に吊るした黒変した竹筒から発見された建保5年(1217年)銘の五千文字程度の文書で、壇ノ浦から野間の郷での登霞までが詳細に書かれてある。当時、読本作者・滝沢馬琴や国学者・伴信友などは偽作と断じたが、文人・木村蒹葭堂(二代目石居)などは真物とした。経房遺書原本は明治33年頃亡失したとされるが、写本は兼葭堂本・宮内庁・内閣文庫・東京大学本などとして多く存在する。能勢野間郷の来見山(くるみやま)山頂に安徳天皇御陵墓を残す。経路であった鳥取県の岡益の石堂三朝町などにも今も陵墓参考地を残すが、これらは源氏の追及を惑わすための偽墓とされる


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全国各地のこうした陵墓があります。
行ってきた場所は大阪の北部にあります、安徳天皇陵墓です。安徳天皇の陵墓は山口県にありますが、私は安徳天皇だけはまだ参拝しておりません。
この陵墓の伝説の場所はこの能勢の妙見山の北側だけは知っていたのですが、偶然に地道の道(府道4号線)の所を通った時に発見しました近くにはゴルフ場もありますが、鹿や猪の多い場所であります。

小さな山ですが来見山の頂きにあります。

六甲縦走の敗戦の弁明

トレッキングをしていて、いつも思うのがその時の体調や管理の難しさを感じています。
この年齢で長距離を歩いたり走ったりするのは難しい。

昨日、六甲全山縦走コ-スを須磨浦公園から歩いた。
ここは昨年の11月23日以来であるが、ある面コ-ス設定など頭に入っているのであるが、そうした慢心がコ-ス間違いをしてしまった。

須磨区の横尾山から右の方向を間違えて左に進んだ、右に進行すればよかったのですが、いずれ左側に曲がれるだろうというそんな気持ちの余裕が大きな慢心を生んだ。
須磨浦学園といえば全国制覇している駅伝で有名な学校ですが、その南側に着いてしまった。
ロス時間は40分以上である。
そこから北側に道を進めて妙心寺まで歩き、元のコ-スへと戻った。
そうしたガックリした気持ちが脚にも影響した。
そこで、慌てていた自分があった。左に曲がらなければならない所を直進して高取山登山口へ行くの間違えてしまった。
二度の間違いが高取山から菊水山では登りは完全に脚が止まってしまった。
なかなか動かない脚に自分でも苛立ちさえある。
動くのですが、息切れしてしまい。立ち止まることが多くなる。
失礼ながらこれぐらいは一気に登らなければならない。
鍋蓋山も同じである。脚が動かない。ただ平坦な道は誰にも負けないぐらいスム-ズに動くのです。
下りは誰も追いつけないぐらい早く足を運べる。
遅くなっても宝塚まで行く気持ちがあったが、道の間違いが最後まで気持ちが高められない自分がある。
六甲山上ケ-ブルまで歩いた。午後5時30分に到着して、それから駅のトイレで着替えして汗を拭いた。

阿倍野区の西田辺に用事で行った。
走行距離は43kmである。
だらしない距離であります。

著作権裁判

私は最近の「本流復活」について考えるのトキさんは和解ということを言わなくなった。
しかも「生長の家」の教団の分裂を認めるような発言をしている。
それが真実ならば「現実」を見る観点があるのだと思いました。また以前からもっていたのだとは思いますが、意地が邪魔していたように思っています。

現実を直視できなければ、物事の対策や方針やチャ-トできません。既にそういう事態は20数年前からあったのですが、ようやく目覚めたのだと思っています。少し遅いですが(笑)

また、ある人が学ぶ会の聖典を盗人のようなことを書き込んでいますが、本当に経緯を知らないで発言する危うさを感じています。日本の歴史を知らない人と同等である。無知を波状すればそのようになるものかと変に関心しています。恥ずかしげもなく書けるものである。

松本恭助氏のホ-ムペ-ジから抜粋させていただきます。

2011-03-09 01:22:32
テーマ:

平成21年より争われてきた

『生命の実相』の著作権をめぐる裁判は、

3月4日、東京地方裁判所627号法廷に

おいて、宗教法人「生長の家」ならびに

株式会社日本教文社の全面敗訴、

財団法人生長の家社会事業団ならびに

株式会社光明思想社の勝訴が

言い渡された。
 この裁判は、

初版本革表紙『生命の実相』復刻版の

印税を、発行元の日本教文社が

著作権者の生長の家社会事業団に

支払っていなかったことに端を発している。
 『生命の実相』の著作権は、

谷口雅春先生が昭和21年、

生長の家社会事業団を設立された際、

その基本資産として事業団に譲渡され、

谷口雅春先生は署名捺印されて

東京都に「証明書」を提出されている。

また、著作権が生長の家社会事業団に

譲渡されている旨を明記した

著作権登録申請が、

谷口雅春先生が亡くなられた後の

昭和63年に、奥様の谷口輝子先生、

二代目総裁谷口清超先生、

谷口恵美子先生連書で捺印されて

文化庁で正式に手続きされた。

こういった事実があるにもかかわらず、

宗教法人「生長の家」は

強引に『生命の実相』の著作権を

生長の家社会事業団から奪おうと画策し、

今日の事態を招くに至った。
 しかし、この度の裁判によって、

財団法人生長の家社会事業団は、

谷口雅春先生の御教えを伝えるために

設立された株式会社光明思想社から

今後とも聖経及び聖典を引き続き発行し、

また『生命の実相』は新版として

刊行していくことになった。


生長の家社会事業団に著作権があるのは

『生命の実相』全巻

『真理』全巻

聖経『甘露の法雨』

聖経『天使の言葉』

聖経『続々甘露の法雨』


現在の宗教法人「生長の家」から

『生命の実相』と聖経『甘露の法雨』が

無くなれば、もはや生長の家の亜流

もしくは分派としかいいようがない。


谷口雅春先生といえば愛国者であり

戦後の日本の保守運動の中心となり

昭和天皇御在位50年奉祝運動、

元号法制化実現を成し遂げた

最大の功労者である。

しかし、谷口雅春先生の死後、

宗教法人「生長の家」はすぐさま

日本を守る国民会議を脱退し、

政治活動を完全停止した。

それどころか、現在の三代目総裁

谷口雅宣は大東亜戦争を侵略戦争といい

今や民主党の支持者でもある。

生長の家は谷口雅春先生の死後、

この男の手によって変節に変節を

重ねて今に至っているのである。

バカな反日どもが、そのことを知らず、

今も生長の家が谷口雅春先生の頃と

同じ(それが事実ならどんなにいいか!)

だと思い込み、

日本会議やチャンネル桜は今も

生長の家というカルトと繋がっているなどと

馬鹿げた事を書いているのを目にする。

偏見で物事を見る人間がいかに愚かか

よく分かるというものだ。


谷口雅春先生は他にも、生長の家が

東京に移転して最初の拠点となった

歴史的存在の土地、記念の建物は

生長の家本部の「永久の歴史的史跡」

として、保存すべきであるということで

谷口雅春先生の死後は

「本部に寄付する」という遺言書を作り

登記所に登記されました。

しかし、3代目はこれを叩き売り

山梨に広大な土地を買い

新しい本部を作るという暴挙にも出ました。


私は戦後の日本の愛国運動に関わった

一人として、谷口雅春先生を尊敬している。

しかし、他の多くの愛国者と同じように

谷口雅春先生の死後の

宗教法人「生長の家」を

本当の「生長の家」とは思っていない。

それどころか、現在の「生長の家」は

「創価学会」以下にしか見ていない。


しかし、今回のこの判決により

生長の家社会事業団そして光明思想社が

谷口雅春先生の著書をこれからも

守り続けてくれることになったと知り、

日本人として大きな期待を寄せるものである

北摂の山に熊が出た?

北摂の山に熊が出た?

昨日箕面から高槻までのトレッキングを敢行した。
そこでですが、箕面から出て泉原という地域で5月5日上音羽地区で熊の足跡が見つかったという貼紙である。
市役所などが注意書きしているので信憑性がある。
その地区も東海自然歩道は通っている。まさかこんな場所に熊が出るのは信じられない。
その北側には同じ上音羽には土砂崩れを起して通行不能になっているところでもある。すぐ隣には希望ヶ丘という小さな住宅地がある。
熊が出ても不思議な所ではないが、それまで北側の亀岡や能勢地区にそういう情報がなかったのか不思議である。

さて、今回のトレッキングで思うのですが鹿や猿などの野生動物の繁殖が大きいことを痛感します。
昨日動物はリスのみ見ただけであるが、何かと動物を見かけることが多くある。
これは里山という地域というのが無くなってきていることが大きな要因である。また自然といいながら人間がそこに住んでしまい、動物と人間の境がなくなったのが大きな原因である。

また、里山は老人ばかりの人口となり、無縁社会ともなりそういう動物を追っ払うような人がいなくなったのが猿や鹿などの動物が人家の近くまで出没することとなった。

私は生長の家教団までもが自然と言いながら動物などが出没する地域に建築物やそこに住宅地を建てるなどもってのほかである。
何回もこのブログで注意喚起しているが、そういうことが自然崩壊となることがどうしてわからないのか不思議である。

先日NHKのクロ-ズアップ現代で「激増する野生動物」ということで放送していたが、私もそれを本当に危機感をもって感じているのです。

鹿や猪などの農作物の被害は甚大である。作っても動物が殆ど食ってしまう。高圧電線を周囲に張り巡らせても効果がないことが多い。
4月のトレッキングで高槻の摂津峡の北側で田んぼ跡に二匹の猿がいたが、以前はこの地域には猿など見かけたことがない。
京都市西京区の金蔵寺の隣の山裾に10匹以上の日本猿がたむろしていたのにはビックリしたことがある。

先日会社近くの里山に小鹿をみかけたが、里山であるからそうした猪や猿や鹿やイタチやタヌキなど見かけることが多い。だがその野生動物が増加しているのである。

何回もいう、自然環境というのは「そのままにしている」のが大切なことである。
最近北摂の山は新名神高速道路の建築で生態系が変わってしまっている。大阪の箕面トンネルの北出口は新名神の箕面ICの所でもあるが、山を何か所か崩しているのである。山が崩落しているのであります。崩落というのは人間の手で掘削し切り出している。山の頂上にダンプカ-が走り、樹木がなくなりコンクリ-トが剥き出しとなり、無残な姿である。

人間という自然を大事にするといいながらこうして崩壊するのである。便利になるが何等か矛盾していることを考える。
本当に人口減少の日本にこんなに高速を作る必要があるのか、疑問を提示したい。

蔡焜燦氏の旭日双光賞を祝す

 -蔡焜燦さん問題を考える会-
http://www.aa.alpha-net.ne.jp/abw15438/

さて、生長の家教団谷口雅宣総裁は日本精神という言葉が大嫌いであるのです。
日本教文社で発行されていた『日本精神と台湾』という本を発行停止としたのは有名な話である。
独裁者と誰かが言ったいたことを思い出す。
総裁こそ「原理主義者」であり「オカルト」の代表者であることは疑いがない。
そういう証拠はいくらでもあり快挙に遑ない。
私は蔡焜燦の旭日双光賞を心から喜ぶ、その一方である汚いやり方の現教団を恥ずかしいと思っています。

【きょうの人】産経新聞より抜粋

蔡焜燦さん(87) 旭日双光章に輝いた台湾歌壇代表

2014.4.29 07:57 台湾
蔡焜燦さん

蔡焜燦さん

 ■司馬遼太郎ガイド役「愛日家・老台北」

 「国難の地震(なゐ)と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます」

 台湾で短歌を通じた日本文化を紹介し続け、対日理解の促進に寄与したとして、旭日双光章を受章した。

 日本統治時代の1927年、台中市清水の生まれ。日本語で教育を受けた「多桑(トオサン=父さん)」世代で、地元の商業学校を卒業後、志願して岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊に入隊。日本で終戦を迎えた。帰台後は体育教師などを経て電子会社会長を務めた。

 台湾歌壇の創始者、呉建堂氏(故人)と「剣道、酒、カラオケ仲間だった」(蔡さん)ことから、2008年に歌壇代表を引き継いだ。

 自らを「親日家」ならぬ「愛日家」と称するだけあって代表就任後は、日本文化への造詣の深さや人脈を生かし、歌壇を発展させてきた。

 作家、司馬遼太郎の著書「街道をゆく~台湾紀行」の取材でガイド役を務め、同書で「老台北(ラオタイペイ)」と紹介されたことから日本の知己が一気に増えた。日本人を会食に招く機会も多く、若い日本人には短歌、俳句をはじめ日本文化、歴史に関する博覧強記ぶりを披露してやりこめた後、「食事の礼として、君は祖国を愛しなさい」と語る。

 日本の新聞、テレビはかかさずチェックし、内容に一喜一憂する。礼節や規律を重視し、大相撲中継では「横綱が立ち合いで変化するとはけしからん」と憤慨することも。

 現代の日本人が忘れてしまったような気骨を感じた。


【産経抄】

「君は祖国を愛しなさい」 4月30日

2014.4.30 03:07 (1/2ページ)産経抄
 
 旭日双光章を受章した蔡焜燦(さい・こんさん)さんは日本統治時代の台湾・台中市の生まれである。司馬遼太郎さんの『台湾紀行』の表現では「18歳まで日本人」だった。志願して陸軍少年飛行兵となり、奈良市にあった岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊で教育を受ける。

 ▼10年以上前、蔡さんと食事をした機会に、その話をうかがったことがある。「じゃあ白毫寺(びゃくごうじ)のあたりですね」と知ったかぶりで教育隊のあった場所を尋ねた。すると間髪入れず「違う違う。新薬師寺の所をこう曲がって」といったふうに、正されてしまった。

 ▼終戦とともにすぐ台湾に帰られており、奈良滞在はごく短期間のはずだ。しかもそれから半世紀以上がたっていた。それなのに、この確かな記憶力である。奈良の地誌や社寺についても実に詳しく教えていただき、
関西で長く生活していた者としては赤面するしかなかった。

 ▼短期間でも全身全霊で奈良、いや日本の文化を体にたたきこもうとしたからだろう。帰台後も剣道、短歌、俳句など日本文化に親しみ、台湾歌壇の代表もつとめている。台湾で蔡さんに食事に招かれる若い日本人は、その造詣の深さに驚かされることが多い

 ▼29日の本紙「人」欄によれば、そんなとき蔡さんは日本人をこう言って諭すのだそうだ。「食事の礼として、君は祖国を愛しなさい」。
戦後教育や一部の国からの歴史攻撃で、自国の歴史や文化への誇りを失いがちな日本人にとって「目から鱗(うろこ)」に違いない。

 ▼蔡さんの受章の理由は日本文化の紹介による対日理解の促進に寄与したということらしい。それは素晴らしいが、蔡さんにより「日本」に対し目を開かされたのは、むしろ日本人自身かもし
れない。そのことへの感謝の念も忘れてはなるまい。

小浜市出身-憂国の志士 梅田雲濱

梅田雲浜

(Wikipediaから抜粋)
梅田雲浜
梅田雲浜之碑、霊山護国神社

梅田 雲浜(うめだ うんぴん、文化12年6月7日1815年7月13日)- 安政6年9月14日1859年10月9日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。

生涯

文化12年(1815年)、小浜藩藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。

はじめ藩校・順造館天保元年(1830年)には藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んだ。その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津湖南塾を開いた。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。ところが、嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国マシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。これが時の大老井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。

捕縛後は京都から江戸に送られたが、取調べでも箒尻(ほうきじり)で何度も打たれる拷問においても何一つ口を割らず、安政6年(1859年)に獄中で病死した。享年45。流行のコレラに罹ったというが、拷問での傷の悪化による死因説もある。

雲浜の墓は、全国にまたがり、海禅寺(東京都台東区)・安祥院(京都市東山区)・松源寺(福井県小浜市)に置かれている。安祥院近くにある京都霊山護国神社には雲浜の碑も建てられており、今も雲浜を慕い訪れる人が多いという。

辞世の歌

  • 君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり

訣別----梅田雲濱

梅田雲濱は、外国船が日本に押し寄せる状況を憂い、吉田松陰等と江戸で協議すべく、京都を立つ。
妻は、病に伏しており、我が子は飢えに泣いている。家族を思えば別れ難い。
しかし、今こそ、自らの命を賭して国の為に、外国勢力と対峙すべき時である。
死んで二度と会えない別れなのか、命ながらえる別れなのか知る由もない。
非情の出立であるが、天と地の神がご覧なされていることである。

小浜市の東小浜公園には忠魂碑の横にはこの梅田雲濱の碑があります。
以前に読んだ『維新の歌』田中卓先生の書がありますが
それをここに謹寫します。

故郷にかへりて

かへりきて 草のみ我を 知りがほに こぼれかかれる 露のふるさと

おもひきや 風のたよりに まつ山を こえてあだ波 たちぬべしとは

あらし山 花のさかりは 知らねども はなのこころは 忘れざりけり

櫻さく 花の浮世を したに見て 心高くも なくひばりかな


大神宮天くだり給ふをよみて

五十鈴川 たえぬ流を 汲みてしる ふかくもねがふ 天照す神

青蓮院宮に謁し奉り時よめる

天の戸を おしあけがたの 雲間より てらす日影の くもらずもがな

述懐

あし田鶴の 蘆間がくれに 身をかくし 雲におもひの 音をのみぞなく

たとへ身は いづくの里に くらすとも 赤き心は いかでおとらむ

仇しのの 醜(しこ)の草原 わけかねて 露と消え行く 身を如何にせん

下野の那須の原をすぐるとて

世の中に 我はなにをか なすの原 なすとはなしに 年やへぬべき



大君の 思召しありなば 武士よ 疾(とく)馳せまいり 奉るべし



數ならぬ 寶は寶 ならずして 國の寶は 萬民草

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何故鯖街道を歩こうと思ったか

鯖街道の話ですが、滋賀県高島郡朽木という地名を走るのですが、ロ-ドランニングです。
単に舗装道路を走るというのではなく。荷物を背負い、下り坂を走りその後平坦な道を走ります。
最後の京都の久多という所に登り坂があります。
そこでは肩がリュックのベルトが肩を擦り痛くて仕方がない。下りで膝が悲鳴をあげ、平坦地はなんとか持つのですが、走ったり歩いたりの連続です。当初は長く走るのですが、やはり息が持たない。
ロ-ドランの距離は19kmです。その長さもそうですが肩にかかるリュックサックの負担は大きい。
最初に肩がいつも痛くなる。それから膝である。
前に書きましたように久多からオグロ峠、そして八丁平ですが、ここでは軽くランニングしました。
それがフジ峠の崩壊でガックリして、尾越で止めようと思ったのですが、ここはバスもタクシ-も来ない山の中に囲まれた地域です。
京都左京区ですが清水寺や銀閣寺などの華やかな場所ではありません。先日の哲学の道もそうです。
しかし、ここは熊も出没する地域であります。
昨月の4月15日に京都府左京区花脊大布施で熊の出没情報もあります。
そうした場所ですから途中で止めるわけにはいきません。その熊の出没地域から4km東側の地域です。

そこから林道を歩くのですが、オフロ-ドバイクをする人には最高な道であることは確かです。砂利道と道路には水が流れ凸凹も大きい。
しかも人に逢うことはまずない。3年前にオフロ-ドで一度会ったのは偶然です。大見から4kmの登り坂で杉峠です。
ただ山の4kmは結構長いです。たぶん早い人でも50分位です。午後4時30分で大見でしたから、杉峠で5時30分です。
約1時間で乗り越えました。ただそうした無理が花脊から下りで体重が膝に負担をかけることになったのです。

たった一人の鯖街道挑戦ですが、人に言うとそんなこと何故するのといわれます。
怖くないのですか?
なんかあればどうするのですか?
でも普段でも危険なことがあります。危険を避けていても相手側から来ることもあります。
砂利道など最近歩くこともありません。ましてや登り坂や崖などよじ登ることもないです。
そういうのには必ず危険が付き纏います。だからと言って回避していてばかりではいざとなった時には回避など出来ません。

私は歩こうと思ったのはそれは骨折から始まります。
7年前に私が自転車でバイクを避けようと無理して転んだのですが、自転車の三角フレ-ムが脚に思い切りたたきつけられ、信じたくない複雑骨折でした。
治癒するまで9か月かかりました。
自分の脚が左右異なり、肉がダボダボです。平坦な道でも躓くことが何回もあります。
このままでは屹度、痛みは残るであろう。
右脚の腓骨と脛骨ともに折れていましたので、重症でした。

そこから平坦な道から訓練しました。そこから2か月後に山道にも挑戦しました。
六甲や中山尾根や熊野古道も歩きました。
そこから東海自然歩道を大阪の箕面駅から京都嵐山駅までの挑戦を決めました。三度目で達成しましたが、14時間かかりました。距離は52kmです。
それと同時に六甲全山縦走にもトライしました。ここは一回で到達することが出来ましたが、周囲に沢山の人がいるのでそこは違います。勇気をもらえます。

この鯖街道はテレビなどで踏破するようなチャレンジを放送していましたが、芸人がチャレンジしていますから、練習もしているのでしょうが、無理しています。
しかし、自分は出来るのであろうか?
そこから鯖街道の挑戦がはじまりました。

あとは箕面駅から嵐山駅まで8時間内で到達することです。いつもポンポン山の登りでゆっくり歩いてしまいます。

ちょうど尾越付近で鯖街道を二泊で挑戦する人がいました。花脊峠までバスを乗り、そこから挑戦していました。

本来の中心帰一を忘れた現教団

【“谷口雅宣総裁辞任論”に与しない、私なりの根拠、理由を申し上げます…  (7906)
日時:2014年05月02日 (金) 20時47分
名前:破邪顕正


ある方から、「谷口雅宣総裁辞任論に賛成できないという根拠をお示しいただきたい」という要望をいただきました。

最初にお断りしておきますが、私は何も谷口雅宣総裁辞任論に反対する者ではありませんし、それどころか総裁に一刻も早く辞任してほしいと願っている点では人後に落ちないつもりでおります。

ただ、それを望むことと、それが現に日の目を見るかということについては、自ずと次元を異にするというのが私の立場です。

そのことを前提として、私が思うところを述べさせていただきます。

おそらく、総裁辞任論は、二つの前提、思い込みから成り立っているのではないでしょうか…。

まず、その第一は、教勢が振るわなければ、さすがの谷口雅宣総裁も「総裁」としての責任を痛感するであろうという思い込みです。

第二は、このまま教勢が振るわなければ、さしもの信徒もその責任追及の声をあげざるを得ないだろうという思い込みです。

まず、前者から説明します。

谷口雅宣総裁を辞任に追い込むことができると考えている方は、谷口雅宣総裁に“良心がある”と考えているのだろうと思うのです。

だから、教勢が落ちれば、谷口雅宣総裁も良心が疼いて、教団を放り投げるだろう…と。

そもそもの、その前提からして違う、というのが私の見解です。

谷口雅宣総裁は“サヨク”なのです。

それを前提として見たら、どうなりますか…?

「愛国運動」の中核であった「生長の家」の教勢を衰えさせたら、それは却って願ったり叶ったりではありませんか。

例えば、私どもが、「朝日新聞」の部数が減るのを見て快哉を叫ぶように、“愛国生長の家”の教勢がどんどん落ちていくのは、むしろ“サヨク”谷口雅宣総裁にとっては歓迎すべきこと、喜ばしいことではないでしょうか。

谷口雅宣総裁は、生長の家教団から「愛国精神」を骨抜きにする、その意図をもって教団に乗り込んできた“確信犯”なのです。

だから、教勢が落ちても、谷口雅宣総裁の“良心”が痛むことはありませんし、自分の思うような生長の家に建て替える過程での教勢の衰滅は、当然、折り込み済みであろうと私は見ています。

だから、教勢がどんなに落ち込もうとも、総裁が自ら判断して、総裁職を辞することはないと私は判断しているのです。

次に、後者ですが、これまた悲観的に考えざるを得ません。

今の教団に残っている信徒は、言葉は悪いですが、牙を抜かれたも同然だと思うからです。

教勢が落ちているからと言って、総裁に対して責任追及を申し出るようなことはありえないだろうと見ています。

また、たとい、そういう声があがったとしても、それを一つの大きな力としてまとめあげ総裁辞任にまで追い込めるような“人財”が現に、今の教団に残っているか?

残念ながら、私の知る限り、そういう顔が思い浮かびません。

北朝鮮が崩壊する、崩壊するといわれても、なかなか崩壊しないように、谷口雅宣総裁体制も教勢を落としながら、それでもこのまま続いていくものと見ておいた方がいい。

私は、こういうときには、稲盛和夫・盛和塾々長の教えに従ったがいいと考えております。

《楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する》

つまり、谷口雅宣総裁が辞任することを期待して計画するのではなく、辞任しないことを前提として、だったらどうそれを推し進めていけばいいのか、それを考えることがとても大事になってくると思うのです。

何度も持論を繰り返すようで気が引けるのですが、今は、谷口雅宣総裁体制に飽き足らない信徒の“受け皿”をどう構築するのか、そこにこそ力点をおいた方が現実的であるし、またその路線の方が多くの信徒の共感を集めやすいと思うものであります。】

破邪顕正様のおしゃる通りです、私も手厳しい発言をしていました。左翼論やこのまま簡単には辞することもありませんし。和解など当然応じることもありません。

そんな簡単な和解などというような人であることは人物の想定でわかります。
人相学やこれまでの発言の数々、宗教家として地位を固めてるのにも関わらず。宗教的論点は皆無といってもよい。

それより、自分には甘く、他人には厳しく接する態度など数え上げれば遑ない。

そうした、人物に接することは宗教的欠落さえ自分に貶める気持ちさえします。
以前に黒田清子様の婚礼に際し、祝賀旗がはためく明治神宮などの原宿界隈、そんなことも自分に関係のない、全く興味のない態度を以前の自分のブログに書いていたことを思い出す。

嗚呼、左翼であり。こんな人を崇めることは中心帰一に背くことを感じました。
雅宣総裁は自分に中心帰一などと傲慢な気持ちでいるであろうが、私達青年会時代は雅春先生も中心帰一は大切かもしれないが、雅春先生も尊敬して已まない天皇陛下になによりもまず中心帰一しなければならないことを教えられました。

そこが今の教えのなかに抜けていることなのであります。
中心帰一の論理を間違っているところなのであります。
日本の歴史を学び、そうした雅宣総裁を尊崇するような愚挙をやめなければならない。

徳川の末期に大阪の北町奉行の大塩平八郎氏は徳川氏を尊崇していた自分を恥じ、神武建国に戻ろうという建議書を書きました。そして已むに已まれぬ気持ちで反旗を翻しましたが残念ながら実行する前に洩れて、自殺をしました。
陽明学を勉強して「有言実行」を実践したわけなのですが、三島由紀夫も健軍の意義を唱えた。
知行合一にこそ生長の家の根本義があるのです。

もはや現在の「生長の家」という環境集団は雅春先生の唱えた「祖国再建」などなく、環境という「物質文明」に右往左往しているにすぎない。

辞任論とかそんなのの申し訳ないが、関係ない。如何にして「建国の理想」に従うかではなかろうか。それが中心帰一の論理ではないか。


佐久間艇長の最期-小浜市出身

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小浜駅に到着してまずは東小浜公園と脚を向けます。
それは佐久間艇長の銅像と日本男子として恥ずかしくない至誠を改めて考えることです。
下は佐久間艇長の最期の手紙です。
最近起こった韓国の沈没の船長の姿とダブります。
いかに立派な姿勢でしょう。

佐久間艇長の遺言全文

 

 明治四十三年四月十五日、第六号潜水艇は潜航演習のため山口県新湊沖に進出、午

前九時三十分母艇暦山丸を離れ、午前十時前ガソリン潜航演習を開始した。しかし、

間もなく艇に故障が発生、浸水のため沈没全員殉職した。

 ガソリン潜航とは、現代のスノーケル潜航のようなもので、海面上にパイプを出し、

空気を取り入れながらガソリンエンジンにより航行するという、当時としては斬新な

発想であり、同艇はこれを試験中であった。

 

 この種の事故の際、引き揚げた艇内は阿鼻叫喚の状況を呈していたのが諸外国の例

に見られたが、第六号潜水艇の場合は、総員整然と持ち場に就いたままの姿で発見さ

れた。そのため世界的に大きな反響を呼び、各国の潜水学校では現在も尊敬すべき潜

水艦乗りの姿として教育されている。

以下に、同艇艇長佐久間勉大尉が艇内に於いて死の直前まで書き続けた遺書の全文を

掲げる。

(下の写真は、遺書の最初の部分である)

 

 

佐久間艇長遺言

 

 小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ サレド艇員一同死

ニ至ルマデ皆ヨクソノ職ヲ守リ沈着ニ事ヲ処セリ 我レ等ハ国家ノ為メ職ニ斃レシト

雖モ唯々遺憾トスル所ハ天下ノ士ハ之ヲ誤リ 以テ将来潜水艇ノ発展ニ打撃ヲ与フル

ニ至ラザルヤヲ憂ウルニアリ 希クハ諸君益々勉励以テ此ノ誤解ナク将来潜水艇ノ発

展研究ニ全力ヲ尽クサレン事ヲ サスレバ我レ等一モ遺憾トスル所ナシ

 

沈没原因

 瓦素林潜航ノ際 過度深入セシ為「スルイス・バルブ」ヲ諦メントセシモ 途中

「チエン」キレ依ッテ手ニテ之シメタルモ後レ後部ニ満水 約廿五度ノ傾斜ニテ沈降

セリ

 

沈拒後ノ状況

一、傾斜約仰角十三度位

一、配電盤ツカリタル為電灯消エ 悪瓦斯ヲ発生呼吸ニ困難ヲ感ゼリ 十四日午前十

  時頃沈没ス 此ノ悪瓦斯ノ下ニ手動ポンプニテ排水ニ力ム

一、沈下ト共ニ「メンタンク」ヲ排水セリ 燈消エ ゲージ見エザレドモ「メンタン

  ク」ハ排水終レルモノト認ム 電流ハ全ク使用スル能ハズ 電液ハ溢ルモ少々 

  海水ハ入ラズ 「クロリン」ガス発生セズ残気ハ五00磅位ナリ 唯々頼ム所ハ

  手動ポンプアルノミ 「ツリム」ハ安全ノ為メ ヨビ浮量六00(モーターノト

  キハ二00位)トセリ (右十一時四十五分司令塔ノ明リニテ記ス)

 

溢入ノ水ニ溢サレ乗員大部衣湿フ寒冷ヲ感ズ 余ハ常ニ潜水艇員ハ沈着細心ノ注意ヲ

要スルト共ニ大胆ニ行動セザレバソノ発展ヲ望ム可カラズ 細心ノ余リ畏縮セザラン

事ヲ戒メタリ 世ノ人ハ此ノ失敗ヲ以テ或ハ嘲笑スルモノアラン サレド我レハ前言

ノ誤リナキヲ確信ス

 

一、司令塔ノ深度計ハ五十二ヲ示シ 排水ニ勉メドモ十二時迄ハ底止シテ動カズ 此

  ノ辺深度ハ八十尋位ナレバ正シキモノナラン

一、潜水艇員士卒ハ抜群中ノ抜群者ヨリ採用スルヲ要ス カカルトキニ困ル故 幸ニ

  本艇員ハ皆ヨク其職ヲ尽セリ 満足ニ思フ 我レハ常ニ家ヲ出ヅレバ死ヲ期ス 

  サレバ遺言状ハ既ニ「カラサキ」引出シノ中ニアリ(之レ但私事ニ関スル事言フ

  必要ナシ田口浅見兄ヨ之レヲ愚父ニ致サレヨ)

 

公遺言

謹ンデ陛下ニ白ス 我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ 我念頭

ニ懸ルモノ之レアルノミ

 

左ノ諸君ニ宜敷(順序不順)

一、斎藤大臣  一、島村中將  一、藤井中將  一、名和中將  一、山下少將

一、成田少將  一、(気圧高マリ鼓マクヲ破ラル如キ感アリ)  一、小栗大佐 

一、井手大佐  一、松村中佐(純一)  一、松村大佐(龍)  

一、松村小佐(菊)(小生ノ兄ナリ)  一、船越大佐   一、成田綱太郎先生 

一、生田小金次先生

 

十二時三十分呼吸非常ニクルシイ

瓦素林ヲブローアウトセシ積リナレドモ ガソリンニヨウタ

 

一、中野大佐

 

十二時四十分ナリ

鯖街道の挑戦

2鯖街道14050
1鯖街道14050
鹿が崖から転落。
それを偶然に見ました。

3鯖街道140502
根来峠から見る雲海。四方は山に囲まれて絶景である。

昨日は『鯖街道』を歩いた。
あまり練習もしないで挑戦したために脚は最後に悲鳴をあげた。
それでも福井県小浜駅「いずみ商店街」の鯖街道起点から「鞍馬駅」まで歩いた。
途中根来峠までの登り道は所々倒木がおおくあり、昨年の台風28号の影響であろう。
脚が少しでも前に進みたいときは、こういう倒木は辛い、しかしもっと酷い状態は京都府の久多から登るオグロ峠を登るル-トである。
途中2か所程道が倒壊し、簡単な板でそれを補っている。これぐらいは慣れているが、途中も何度かの倒木があり、九十九折の坂道は厳しいが、それより厳しいのは倒木であった。

また、八丁平の景観は素晴らしがその後フジ峠は台風の影響で封鎖されている、別のル-トは何も記入がなかったのでそのル-トを選択したのであるが、道が崩壊しており、なんとか渡れる所から渡ったが、大変危険のの伴う道である。
昨年にはない倒木と道の崩壊である。昨年の10倍の危険がある。
私も濡れ落ち葉でわからなかったが、ちょうど根来峠の上で安心感で崖から落ちるハプニングがあった。
一つ間違えたら底まで転落である。落差は50mある。
注意は必要である。

それと動物に何度も出会った。イタチ、タヌキ、鹿、猪、ヤマカカシ、青大将である。イタチは3匹、鹿は二匹、タヌキは最初はなかなか逃げないが、追いかけるようにすると丸々の身体を揺さりながら歩く姿は滑稽でもある。
イタチは堂々としている、前に立ちはだかっても逃げずに前進する。

ただ可愛そうな出来事もあった、鹿の牡であるが、滋賀と福井の県境の滋賀の小入谷林道での出来事であるが坂道を軽快に走っていたのであるが、突然に崖の上の鹿が私に驚いたのであろう、崖の上で脚を滑らし、転落したのである。3mの歩道に打ち付けられ溝に嵌って、脚をビクビクさせていた。
それを偶然に遭遇した、しかし何とも出来ない、まだ生きているからである。自分の力で立ち上がって欲しい。
鹿でさえ崖から落ちるのである。もっと気を付けて歩かなければならない。

途中尾越付近で歩くのが嫌になった、だが助けも呼ぶことも出来ない、そこから鞍馬まで25kmある。しかし歩くしかない、気を張って歩いた。
標高差300mあるがここは意外と楽である。砂利道が邪魔でスム-ズに歩けないが、今までにもなく早く歩けた。
だが花脊峠か、杉峠から南下する時には脚が相当ダメ-ジがある。やはり鞍馬駅を最終点にしようと思った。

今月の15日は京都トライアスロンクラブが鯖街道ウルトラマラソンを主催するが、私の通った道はかなり危険であるのでまさか通らないであろう。

今回で鯖街道を止めたかったが、またまた未練が残った。もう少し鍛えて出町柳まで行きたい。
それと徹夜は止めよう。旅館に泊まって挑戦しよう。

走行距離は71km途中いろんな道に立ち寄ったのがこれだけの距離となった。歩数が112823歩です。
これだけの距離は年間この鯖街道だけです。
朽木の平坦な道の長さには本当に大変です。
焼尾地蔵から今回は朽木の半分までは走りましたが、平坦な道が約11kmありますが、その長さは中途半端でありません。距離は30km走った後であります。
オグロ坂の厳しさは昨年より厳しかった。この坂から峠まで2時間かかった。かかりすぎである。昨年は1時間15分であるからいかに今年は練習不足であろうか。
練習不足は登り坂で出てくるのである。最後まで持たないのである。
今年は何度も休憩するのです。

練習不足が招いた結果ですが、根来峠から見る壮大な雲海は良かった。
それと800m越えを三回します。(600mの標高から850m)
最初の根来峠は標高850mです。
オグロ坂は途中の坂道より一気に約500m登ります。

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