則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2014年02月

讀んで戴ければ幸甚です。

天皇陵を考える-3

拝む姿勢というのを考えたことがあります。

それは三輪山とかはわかるのですが、そうした古墳を拝んでいる姿を何回か見たことがあります。
奈良県の大和高田市には磐園陵墓参考地がある。大きな古墳には伝説の陵墓と書かれている地図もある。
圧倒される陵墓は水を湛えてその周辺は住宅地が密集している。

ここには二度程訪れています。この磐園陵墓参考地のすぐ南には陵西陵墓参考地があります。この陵墓参考地は小さいが陪冢は5か所あります。
また北側にはたくさんの古墳があります。
この磐園陵墓参考地は武烈天皇の陵墓か顕宗天皇ともいわれている。だがもともと蒲生君平は「山稜志」に武烈天皇陵と考えていたためについ最近までは武烈天皇陵とされていた。
そのためにこの天皇陵は伝説の陵墓としていまでも語られています。
こうした、陵墓をお年寄りが拝む姿勢というのを何回か見たことがあります。

私のようにあれこれと理屈をつけて参拝するような姿勢と違い。常にそこにおわしますという姿勢であります。
私にはそういう姿勢の素晴らしさに感動した覚えがあります。

また、この北側にはたくさんの古墳があります。ここは二上山の裾にあり、そうした三輪山と二上山と古代から日本は拝む対象としての山があります。その麓にこうした古墳群を造営したのは何か意味があるような気がしてなりません。
この磐園陵墓参考地から北側数キロにわたり古墳が点在しています。ちょうどそこから大和川付近まで大きな古墳があります。

天皇陵を考える-2

下記の文章は国会議員の西村慎吾先生の御文章です。私もこの文章のあとに仁徳天皇陵と反正天皇陵も履仲天皇陵など巡拝しました。徹底してその陵墓の地理的な要因なども考えながら巡拝しました。そうした仁徳天皇陵は大阪でも大切な御陵であります。


それは
http://www.youtube.com/watch?
v=lcYgJxE4rxw


私は仁徳天皇陵を大仙古墳などとする考えには反対であります。
そこを考えない限り文化遺産などありえません。


天皇の御陵

 現内閣では、総理大臣は天皇に任命され、閣僚は天皇に認証されて、各々その職に就いているにもかかわらず、天皇の万世一系という意味も、今上陛下が第何代の天皇陛下であるかも知らない閣僚がいるようだ。これは、親の名も知ろうとしない者が、自分は立派な大人だと思い込み、親孝行を説いているに等しい風景である。
 斯様に、我が国の政治家は劣化している。しかし、これは日本国憲法と称する文書の狙った結果である。
 この原因を放置してこの結果を嘆いても仕方がない。
 そもそも、三年前の夏、国民の大半が、この内閣を造っている集団を与党に選んだ。その結果が、今目に見えている。このことを忘れてこれからの「国家の再興」はあり得ない。

 さて、我が国の形は、抽象的にあるのではなく具体的な「歴史的風土」として存在している。
 昭和天皇は、大東亜戦争の末期に、連合国からのポツダム宣言を受諾するに当たり、数名の皇族を招集され、手分けして天皇の名代として歴代百二十三代にわたる天皇陵に赴き参拝し、我が国が、降伏という未曾有の事態に至る旨ご報告するよう指示されたという。
 このようにして、昭和天皇は、國を肇められた皇祖皇宗の霊に祈られた。
 ここで注目すべきは、我が国の運命を決するポツダム宣言受諾そして降伏という「御聖断」をされるに際し、
 歴代天皇陵は、「遺跡」ではなく、
 今に生きる国家の形、国体を体現する具体的存在として機能していたということである。

 先日、堺泉州の地方誌に、時事問題を投稿するよう依頼されたので、特に我が国では、国土を護ると言うことと郷里を護ると言うことは別個の問題ではなく、不可分一体のことだとする論を投稿した。
 即ち、郷里無き国民は存在しない。国土は国民の郷里である。従って、支那中共の侵略から尖閣諸島と周辺海域を護るということと、堺に存在する歴代天皇陵を戴く歴史的風土を護ることは不可分一体なのだ。
 堺から尖閣まで遠く離れているから関係がないのではない。
 同胞である国民が北朝鮮に拉致されても無関心な国民の国家はいずれ滅びるように、領土が支那に奪われることを放置する国民はいずれ郷里を失う。
 特に、我が日本という国家においては、国土は単なる物理的存在ではなく、歴史的風土であり精神的存在だ。

 そこで、尖閣の防衛と、郷里の歴史的風土を護ることが不可分であり、郷里を語ることは、何もローカルなことではなく、全国民的なことだ。それ故、本稿では、我が郷里の天皇陵について語りたい。

 まず概略から、
 我が郷里である旧国名で言えば、泉州、河内そして摂津の地には、まず、日本武尊(やまとたけるのみこと)の皇子にして三韓征伐の最高指揮官である神功皇后を后とする第十四代仲哀天皇の御陵が造営され(藤井寺)、以後、その皇子である八幡さんの祖である第十五代応神天皇の御陵(羽曳野)、その皇子である第十六代仁徳天皇の御陵(堺)が造営されてゆく。
 第十六代仁徳天皇の三人の皇子は第十七代履中天皇(堺)、第十八代反正天皇(堺)、第十九代允恭天皇(藤井寺)である。
 第二十代の安康天皇の御陵は、奈良に造営されるが、第二十一代の雄略天皇陵は藤井寺、第二十六代継体天皇は茨木、第三十三代推古天皇陵と聖徳太子廟は太子町、そして、南北朝時代の第九十七代後村上天皇陵(河内長野)までが泉州、河内そして摂津の天皇陵である。

 このうち、仁徳天皇と履中天皇と反正天皇の親子三人の御陵は、堺の中心部の三国ヶ丘に南北に並んでいる。そして、その周辺には多くの陪塚(家臣の墳墓)があり、東側には御廟山、にさんざい、いたすけなどの巨大古墳が並んでいる。
 このうち、御廟山古墳は、近くに百舌鳥八幡神社があることから応神天皇の御陵ではないかと古くから言われている。
 この古墳群を抱える田園の丘陵が、子供達の遊び場だった。
 三国ヶ丘とは、泉州、河内、摂津の三国の堺にあるからそう呼ばれるようになった。
 古代、船が西から明石海峡を抜けて茅渟の海(大阪湾)に入ってくると、正面に丘の上の巨大な仁徳天皇陵が遠望できる。そこが進路である。そして、神功皇后が朝鮮から帰着した現在の住吉神社の南の津に着いた船から揚げられた物資と人は、仁徳天皇陵と反正天皇陵の間の竹内街道を通り、御廟山古墳の側を通り聖徳太子廟のある太子町を抜け二上山の竹内峠を越えて奈良の明日香に入ってゆく。
 墳丘の面積では世界一の広さである仁徳天皇陵は南北に囲む皇子である履中天皇陵と反正天皇陵とともに正確に南を向いており、空から見ても宇宙から見ても絶好の目印になる。八尾にある陸上自衛隊航空基地の隊員に聞くと、仁徳天皇陵は、おそれおおいので真上は飛ばないが絶好の目印だと言っていた。
 航空機のない古代には、仁徳天皇陵を空から目印とした人はいないが、海からは絶好の目印だった。
 但し、竹取物語には、月から来た姫もいる。当時の人が、空からの目印の為に仁徳天皇陵を造形したのかも知れない。誰が、このことを否定できようか。

 現実に戻る。
 私の子供の頃(昭和三十年代)、三国ヶ丘の巨大天皇陵と巨大墳墓は、ほぼ田園に囲まれていた。その墳丘の森には数千羽の白鷺が舞っていて、彼等の餌であるドジョウやモロコやフナは、付近の田園で生息していた。
 しかし、現在、白鷺はカラスに変わり、彼等の餌である人間の残飯は、住宅街と繁華街が提供している。
 そして、土地開発により、多くの陪塚が破壊された。今でも、三国ヶ丘駅近くの巨大な前方後円墳がブルトーザーで一挙に破壊されたときの無惨な情景を思い出す。
 仁徳御陵の東側の田園は宅地で覆い尽くされ、家庭排水とガソリンスタンドの廃油は、仁徳天皇陵の堀に流れ込み、僕たちが「キンタイ」と呼んでいたすばらしく綺麗な小さな魚はいち早く姿を消し、コイやフナ、ナマズや台湾ドジョウまで姿を消した。
 そして、履中天皇の堀沿いにあった空き地は、分譲されて、仁徳天皇と履中天皇の親子の御陵を結ぶ緑の空間は建ち並んだ新築住宅によって分断された。

 その上で、堺市は何をしているのかというと、仁徳天皇陵を中心とする百舌鳥古墳群と応神天皇陵を中心とする古市古墳群をあわせてユネスコの「世界遺産」に申請しているのである。
 一体全体、天皇陵を囲む歴史的風土を破壊されるに任せている堺市に、天皇陵を「世界遺産」にと申請する資格があるのか。
 断じてない。
 その理由は、
 「天皇陵を囲む歴史的風土」が「世界遺産」にふさわしいのであり、「天皇陵」それ自体は「遺産」ではないからである。
 冒頭に述べたように、天皇陵は、我が国が万世一系の天皇を戴く国家である限り、「現在に生きている我が国の聖域」であり、「世界遺産」として外国の学者が掘り起こして「学術調査」をしたり、観光客がソフトクリームを舐めながら墳丘を歩き回るなど許されない地域なのだ。
 このこと、諸兄姉の先祖の墓のことを思えば分かるであろう。自分のご先祖の墓を大切にするように、天皇陵を大切にしなければならない。いや、天皇陵を大切にすることが自分のご先祖の墓を大切にすることにつながるのだ。
「かくの如きは、独り朕が忠良の臣民たるのみならず、また以て爾祖先の遺風を顕彰するに足らん」(教育勅語)

 万世一系の基に断絶することなく今に生きており尊ばれるべき存在としての天皇をいただく国家。これが、我が国の国柄であり、この国柄と不可分であることに天皇陵の本質がある。
 従って、天皇陵は「遺産」ではなく、「天皇陵を戴く周辺の歴史的風土」こそが遺産なのだ。
 ここがエジプトのピラミッドと我が国の天皇陵とが決定的に違うところだ。ピラミッドの被葬者と現在のエジプトは無関係である。しかし、天皇の御陵は、万世一系の現在の天皇と不可分である。
 従って、「世界遺産」申請は、まさに、この決定的違いを前提にして為されねばならないのだ。
 しかるに、堺市は、周辺の「歴史的風土」を破壊させながら、「天皇陵」を「世界遺産」として申請している。

 そもそも堺という地方自治体の職員は、「天皇陵」を何だと思っているのか。
 彼等は、世界一の「巨大古墳」を「世界遺産」として申請しているという意識なのだ。
 つまり、驚くべきことに、申請の対象を「天皇陵」だとは思っていない。
 従って、「天皇陵」という性格をできるだけ捨象し捨て去ろうとしている。
 これは、左翼的自治体職員による、歴史破壊、歴史的風土破壊という文化破壊であり暴挙そのものである。
 
 堺に来られたら、堺市発行のパンフレットを手に取られたし。
 そこには、「仁徳天皇陵」とは書かれていない。
 天皇を捨象して外し、単に「仁徳陵古墳」と書かれている。
 従って、このパンフレットによるプロパガンダが続くと、仁徳天皇陵は単なる「巨大古墳」になる。文化の破壊とはこういうことだ。
 つまり、天皇制否定の自治体に巣くう反日組織によって、「天皇陵」が単なる「遺産」にされ、世界の考古学者の「発掘調査」に委ねられようとしている。
 そうなれば、現実には、歴史を自国に有利なプロパガンダとファンタジーだとみなす、反日侮日の使命をおびた支那や朝鮮の「学者」が日本の反日学者と反日政治家と共同して、仁徳天皇陵を掘り起こして調査という「破壊」を行うことは目に見えている。
(三年前の民主党幹事長による韓国の大学での講演内容を思い出されよ)
 
 そもそも「天皇陵」は、全国民の問題であり、左翼傾向の強い一地方の自治体職員組織によって、
「天皇」が捨象されて単なる「巨大古墳」にされ、
果ては単なる観光資源としての「遺産」にされることが許される問題ではない。

 このような状況の中で、堺市議会の同志の議員諸君が、市当局に執拗に是正を迫り、やっと中央環状線沿いにあった仁徳天皇陵のフェンスに掲げられた掲示が、「仁徳陵古墳」から「仁徳天皇陵古墳」に改められた。
 また、昨年から初めて仁徳天皇陵の正面に国旗「日の丸」が掲げられるようになった。これは、仁徳天皇陵の近くで育った池尻秀樹市議の尽力による。

 さて、冒頭に戻って、
 郷里の歴史的風土を護ることは、即ち国土防衛であるとするならば、我々は、尖閣に対する支那の侵略を断じて許さない決意を固めるとともに、同時に戦後の経済優先主義と堺市行政に見られるような左翼思想に基づく皇室無視の中で破壊された歴史的風土の復元にも取り組まねばならない。
 そして、この領域は、国防と同様であるから、今はやりの「地方分権」ではなく、明確な国家的な理念の統一のもとに現在に生きて継承されるべき「歴史的風土保存復元特別措置法」の制定により「文化防衛」として実施されなければならない領域である。

 以上、本日早朝の、仁徳天皇陵参拝の後に書き始めた。



 

天皇陵について考える-1

私は歴代天皇陵に巡拝してきました。あとは安徳天皇陵の参拝を残すだけですが、それでも応神天皇陵の陪冢は全て参拝していません。奈良県は陪冢や皇族関連のすべてを廻りました。

それは奈良県と三重県の県境までも及びました。山の頂上から御醍醐天皇の子孫が南朝復活を求めて長く復興運動を行った歴史があります。それは長野県や静岡などにもそういう歴史があります。
また、大津皇子の陵墓は二上山の頂上にあります。
如何に苦悩されてここに埋葬されたか、またこの奈良県よりの所に実はここが大津皇子の墓だという所にもよりました。だが、歴代からそのように信じられてきたという所が大切であることを知らない左翼学者はそんなことお構いなしで反対意見を述べます。

私達の先祖でもそうです。ずっとそこでお参りされたことが大切なのです。それが日本人の優しさでもあったように思います。江戸時代に遡ると殆どの人がそこが先祖の墓というのが微妙になることが多いです。そうしたことは私達の先祖でもそうなんです。

墓を暴くなど日本人は大変嫌がりました。だからこそそういうことをする人も少なかったのであります。
一部では破壊された墓や陵墓もありますが、大切に天皇陵を護ったそこに住む住民も沢山いました。
例えば神武天皇もそうです。清和天皇陵もそうです。

また天皇社とついた祠があることが何人の人が知っているのであろうか?こうした祠は崇道天皇社のように「悪霊」を鎮めるためだけではなく尊崇という念もありました。
天神信仰も同じなのです。

私はそういう祠にも参拝するようにしています。

こうした歴代天皇の名前があがるだけで、どこに陵墓があるかわかります。崇道天皇とかわかる人などほとんどいません。
それでいて「天皇信仰」などと言っては恥ずかしいです。
また「宮都」といってもどれほどの人が理解しているかどうかであります。
大阪では有名ですが難波宮といっても孝徳天皇や天武天皇と聖武天皇とそこに宮都を造営しました。
しかし、それだけの天皇が造営したことを大阪の人はほとんど知りません。

童歌と民衆信仰

下記の文章は私の手許にはありません。
重要な文章をこうして伝統様が掲載していただいたり、志恩様に掲載していただいたりしてありがたく思います。

生長の家では古参ですが、辞めて久しい。
だが、辞めて悔いはないし、辞めて良かったと心から思っている。
総裁の左翼思想の毒牙に侵されないようにしないためにも必要ですし、わけのわからない宗教に変節していくのが耐えられない。
以前に神道を土着信仰といったが、土着信仰の起源は自然崇拝であることを総裁は忘れている。
自然という優しさと鬼のような形相が襲いかかる時に人間の無力を感じ、そうした自然崇拝がときとして湧き出でたのが信仰の原点のように思っています。
自然信仰こそそこに住む人間の信仰であり。土着信仰と結ぶときがあります。

だが「神道」は民衆信仰であり日本人の生まれ育った環境というものがそのようにさせているような気がします。

そういうことが分からない谷口雅宣生長の家総裁は勉強不足としかいいようがないのか、無理に貶めるようにかんがえているのか。

自然崇拝こそ土着信仰の原点であることを知って欲しい。また「神道」は民衆信仰と自然崇拝とが重なって誕生したように思います。
例えば童歌の
かごめかごめ
とうりゃんせ
はないちもんめ

これらは元々土着から生まれたものが多くあります。
たとえば「とうりゃんせ」の天神様の細道ということばなど、各地に天神様がおられます。その天神信仰というのは日本人の祟りを治めるための信仰というのが起源です。そのために行きはよいよいなのであります。

それでは何故帰りは恐いのでしょう。そうした祟りの神を持って帰るようなことがあるように昔はある面で教えられていたところがあります。
でも、そこに行かないとその祟りをお祓いすることが出来ません。だから「良い子」で生活しなさい。
怨霊とかそうした地縛霊のように感じているのかもしれませんが、昔は半数近くの子供は亡くなりました。
殆どが一歳未満で死亡しています。そうした実情を加味して考えなければいけません。

日本人は子供を大切に育てました。地域ぐるみで大切に育てました。
そうした大切さが昔からありました。

江戸時代に宣教師などが綴った文章に子供をたいせつにしたという、そういうことが沢山書いています。


童謡・唱歌

とおりゃんせ

作詞:わらべ唄
作曲:わらべ唄

とおりゃんせとおりゃんせ
ここはどこのほそみちじゃ
てんじんさまのほそみちじゃ
ちっととおして くだしゃんせ
ごようのないものとおしゃせぬ
このこのななつのおいわいに
おふだをおさめにまいります
いきはよいよい かえりはこわい
こわいながらも
とおりゃんせとおりゃんせ


はないちもんめ

勝ってうれしいはないちもんめ
負けてくやしいはないちもんめ
となりのおばさんちょっと来ておくれ
鬼がいるから行かれない
お釜かぶってちょっと来ておくれ
釜がないから行かれない
布団かぶってちょっと来ておくれ
布団破れて行かれない(?)
あの子がほしい

あの子じゃわからん
この子がほしい
この子じゃわからん
相談しよう
そうしよう

かごめかごめ

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀滑った 後ろの正面だあれ?

地方により言葉は違いますが、おおよそこんな歌詞です。

私の住んでいる大阪では
花いちもんめは

勝ってうれしい花いちもんめ負けてくやしい花いちもんめ
たんす長持ちどの子が欲し
あの子が欲しいあの子じゃわからん

相談しよう  そうしよう(ここで相談)
決まった  ○○ちゃんが欲しい
 △△ちゃんが欲しい ○ちゃん△ちゃん:じゃんけんぽん!






今、生長の家の信徒で「顕斎」と云ってもご存知でない方が大半だと思います。
この「顕斎」というのは昭和53年11月21日から28日の間、長崎総本山において開催された生長の家において実に重要な大祭であります。龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕斎殿 落慶鎮座奉祝大祭です。横綱若乃花の土俵入りや創作曲の「日本誕生」「住吉大神御出御」が曩祖太鼓の若者によって打ち鳴らされた響きは顕斎殿にこだました。
プログラムとしては21日午後2時より神殿祭、午後4時まで鎮座祭が執り行なわれました。
22日は生長の家秋季記念日祝賀式典、午後から曩祖太鼓。
23日~28日までは落慶鎮座奉祝大祭
また生長の家の後援による“泥かぶら”が上演された。その上演されたのは旧道場近くの中学校体育館によって開かれた。また各駐車場において“神々の「祭り」”ということで長崎の竜踊り、岩手県の鬼剣舞、島根県の海潮山王寺、愛媛県の伊予漫才、岩手県の鹿踊り、地元西彼町の龍神祭、島根県津和野の鷺舞、鳥取県の傘踊り、岐阜の谷組踊り、大分県の草地踊り、長崎県の黒丸踊、新潟の鬼太鼓、伊勢太神楽、京都の六斉踊、兵庫の梯子獅子、岡山の備中神楽、山口の君が代踊、香川のさぬきばやし、長崎ののんのこ節、熊本の虎舞、宮崎の高千穂神楽、宮崎の臼太鼓踊、鹿児島小原節、沖縄舞踏など日本全国各地の伝統芸能が披露された。また九州物産展も開催された。
23日から28日の6日間は日本全国の信徒5万5千人が馳せ参じた、駐車場はバスですぐに満車となり約250台のバスから一斉に仮トイレに駆け込む姿が長蛇の列を成したのは、私にもイラつきを覚えさせたのは今も脳裏に鮮明と蘇る。私は“神々の「祭り」”の実行委員であり、時として、配膳担当にもなった。この6日間は四先生の御指導による祈り合い神想観において大いなる愛念として如意宝珠を授かるという光栄に浴した。
練成道場での出入りで一挙に人が動くため、靴が無くなることもあり、私も誰かが間違って履いていたようで、もう一人しきりに私と同じように靴を捜している人がいた。よく見ると現総裁の谷口雅宣先生であった。互いに靴が無いのですねと笑った。
さて、この「顕斎」の意義は皆様御承知のことですがこの大祭の終わりに近づいた27日に谷口雅春先生は庭園を散策されながら「この美しいたたずまいの中に本当に神様がいらっしゃるのですね」と語られたのであります。
まさに聖地に相応しき土地であった。

その時の記念出版として「聖経版 真理の吟唱」がありますがその中には生長の家龍宮住吉本宮 鎮護国家出龍宮顕斎殿落慶記念と印刷されているのである。これを古書店で購入したのですが、既に所有してはいたのですが、聖経が古書店に出展されている場合はどうしてか購入します。

その、「聖経版 真理の吟唱』は日本教文社のコンテンツ一覧には()内で豪華版として記入されているが、はっきりと落慶記念出版と記入してもらいたい。

八紘一宇人類一家族成就の祈り
          谷口雅春
神は無相にして恰も鏡の如く、鏡が鏡面に向った人の貌をそのまま映し出すが如く、それを礼拝する人それぞれの心の相に従って神がわれらに与え給うところの功徳も異ることになるのである。
 住吉犬神を祭祀し奉る神社諸方にあれども、住吉大神御出現の意義を正しく把握して、その意義を完うせんがために神祀る神官も教少く、たといかくの如き神官ありと雖も、住吉大神の由緒及び御使命を参拝者に教える神官といいては殆ど稀なり。それゆえに参拝者は住吉大神を唯、鎮守の神として、或は産土の神として、或は安産のための腹帯を賜る神として或は繁栄の神として、自己の個人又は一家の福祉のために参拝する氏子のみ多くして国家一大事の時に方りて天照大御神の稜威の出現のための道を開く宇宙浄化の大神として祭祀し又、参詣し礼拝する人々に至っては絶無といってもよいのである。それ故に龍宮宏大無辺の功徳を内蔵したまう住吉大神の“聊心の鏡”には、鏡面に相対する参拝者の心の相だけの御徳しか顕現せずして今に至り、それが長き習慣となり、折角、宇宙を浄め給いて天照大御神の御光を六合に照り輝かす道を開き給う住吉大神の大徳を埋没せしめて、この侭にては皇国の御光を宇内に輝かす道絶えたり。その諒に乗じて現下、赤き龍の輩日本国の四方に回りてさまざまの策動をなし、天皇は豊芦原の瑞穂国治しめす御使命の御座より単なる“象徴”という人格も神格もなき空座に移され奉り、そのために、天皇の御国ヽ既に皇国の姿失われ、恰も天照大御神の天之岩戸隠れを再現せるが如き暗澹たる国情となり、今や、いつ“赤き龍″の策謀成就して、この国に革命の焔燃えあがるとも計り知れざる情態となっているのである。
 この時、この際、妖気漂う革命の暗雲を一掃して、日本国家の礎を安泰ならしめ、『古事記』に預言される如く、豊芦原の瑞穂の国は世々天照大御神の神霊を世嗣し給う天皇の治しめす国なる神定めの日本国の実相を顕現し泰るためには、住吉大神を新たに宇宙浄化・鎮護国家の大神として更めて祭祀し泰り、祭司の心も参詣者の心も共に浄まりて、住吉大神の“御心の鏡”に彼らの向うとき、大神の本来の国家鎮護皇国護持の御使命が完全に発動され妖雲暗雲ことごとく祓い浄められ、“赤き龍“の住み家は最早や日本国土に残る隈もなくなりて、国土安泰、万民泰平を謳歌し、天照大御神の御稜威六合に照り徹りて、神武天皇建国の御理想は実現せられ、ハ紘は一宇となり、万国の民悉く集りて天照大御神の御徳を中心に仰ぎ泰りて永久平和の世界連邦の理想必ずその達成を期すべきことを信じ、茲に実相世界に存する龍宮住吉本宮の型代を地上に造営し奉り、住吉大神を実相世界の秩序に従いて顕斎し奉り、大神の御徳の全世界に光被せんことを冀う。
 これを以て生長の家九州別格本山に住吉大神の神殿を建立する所以を明かにしたのである。大神この趣旨を受けて嘉し給い、祭官及び諸民この趣旨に従って住吉大神を礼拝し泰るとき、茲に全世界の浄化は成就し、まことに御心の天上に成るが如く、地上に八紘一宇、人類一家族の永久平和の天国は実現するのである。ありがとうございます。


まだ九州別格本山と呼んでいた時期である、住吉大神の神殿建立は谷口雅春先生の悲願であり、信徒の願いでもあった。


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さて、次にこの長崎の地に総本山に住吉大神を顕斎させていただくのは誠に神の働きであることを雅春先生は述べておられます。それを掲載させていただきます。


谷口雅春先生のお言葉       昭和53年6月4日
おまつりには、顕斎と幽斎とがあるんですが、幽斎というのは、神さまの霊をそのまま“幽”の世界にあらしめて、神様の霊に向ってわれわれ人問の霊が、心を鎮め、精神を統一して、われわれの方が龍宮の方へ入っていくんです。そして、龍宮の諸々の宝を戴いてきて、われわれが宰福な裕かな生活をするんだけれども、そのためにあの宇治の別格本山に、入龍宮幽斎殿というのができているのであります。
 しかし、われわれが、神想観をして「われ今五官の世界を去って実相の世界に入る」と念じて龍宮界に入る。実相の世界とは龍宮です。そうして龍宮へわれわれが入って行って、諸々の七宝充満している世界で、その財宝をいただいてきて、浦島太郎のように、永久に若い命をいただいてきても、これは自分の個人の功徳である。しかし“それだけではいかん″という時が末ているのです。それで、この九州の地にですね、長崎の地に土地を見つけることになり、自然とそこへ導かれた訳であります’そしてここに、住吉大神の御社を建てようということになったのてあります。四方靖朗さんが、その土地の図面をひろげられて最も平かな地面のところを指さして「此処がいちばんよいでしょうね」と言われたんですが、「そこはいかんよ、ここがいい」と、私はその時、図面をだけ見て言ったのです.それが、此所なんです。あとで、私が指さしたところはどこであるかと、実際と地図とを対照して地名を調べてみると、大神平という所である。そういう所へですね、自然とそニヘ住吉大神の本宮を建てるということになっていたのであります、
 かくの如くして、住吉大神さまは、あらかじめ、ここが良いと、場所を撰択された。その場所に、今、住吉大神の本宮が建って七分通り完成した。そこに、入龍宮幽斎殿じゃなくて、出龍宮顕斎戦―龍宮から住吉大神が出てまして、顕斎が行なわれるということになっているのであります。
 顕とはあらわれるという意味で、住吉本宮の社殿として顕れて、はっきりと現象界で、儀式正しくお祀リをするのが、顕斎であります そして、今まで幽の世界、顕幽異にした幽の世界におられたその神様が、顕の世界―“あらわれの世界″にあらわれましまして、いよいよ、この世界を浄める働きを成し給うというときが来たので、神様が「ここにお宮を建てよ」と仰せられたんだと思うのでありますが、人間としては、私が、ここへ建てなければ、人間の力ではどうすることもできないから、住吉大神をお招び申して、そして、その力を現象界に発揮していただかなければならないということになったわけなんであります。(新練成道場竣工式のお言葉の抜粋)

売り家と唐様で書く三代目

国破れて山河在り

私は昔ならばこういう言葉はなるほどと思った。
だが、近代からは状況が一変する。あの懐かしい山々は高速道路が出来て、山は破壊され自然は
人間により元の昔には戻らない。

私がよく登る山は近くに北摂霊園が在り、そうした墓苑ということで自然は破壊されています。
また宗教が自然を残さずに好き放題で家屋や宗教施設を建てているのにはうんざりです。

そうした施設をよくみかけます。別に「生長の家」だけではありません。

宗教の自説で自然を愛しているといいながら自然を破壊していることをわからない人物があまりにもおおいのであります。

八ケ岳だけではありません。

自然を愛するといいながらドンドンと自然を破壊する行為には警告しなければなりません。あの八ケ岳は自然のそのままにする場所であります。

本当に愛するというのは

山路来て 何やらゆかしすみれ草

 松尾芭蕉の句です。

私は山路来て すみれ草が佇むその美しさをそのままして欲しいという哀願のようにこの歌に感じます。

それを摘んでしまい持って帰ると「何やらゆかし」という言葉が生きてきません。

自然というのはそういうものであります。

自然がいいからといってそこに住居を建ててしまうと、違和感を感じます。

自然というのを無理やり印象つけて「生長の家」を別のNPO法人にしてしまった雅宣総裁の罪は大きい。
しかもそれを永遠と言い訳続ける材料に「自然」という言葉を使う。

最早、雅春先生の意思などはこの人には関係ない。
「人類光明化」など関係ないのであろう。「祖国再建」など悲願とされた雅春先生の御意志など、放擲してしまいたいのであろう。

なんとも情けない三代目である。

売り家と唐様で書く三代目

まったくその通りである。

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