則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2014年01月

讀んで戴ければ幸甚です。

「ごっこ」の宗教

谷口雅宣総裁の文章をまずは読んでいただこう。
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2014年1月30日 (木)

「脱原発」の意思を明確に!

 最近、都知事選の投票について私に助言を求めるメールが届いた。私はすでに東京都民でなくなっているが、60年以上も都民であったし、今回の都知事選では初めて「脱原発」が争点の1つになっているため、関心は大いにある。本欄の読者で東京都民の方々には、私の従来の主張から考えて、どんな投票行動をお勧めするかは簡単に想像できるだろうと思っていた。が、必ずしもそうでもないようである。
 
 まずは、そのメールを転載させていただこう--
 
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合掌ありがとうございます。
都民である吾々にぜひご教示ください。
都知事選についてです。
神想観をしても答えがでません。
フェイスブックでは、本部員の家族や一部信徒の方が、
細川氏支持を訴える書き込みが目立ちますが、
口八丁の小泉氏がバックについていること、
首相職を途中で投げ出した人をまた信じてよいものか、
など甚だ疑問が残ります。
自公推薦の桝添氏には投票する気はありませんし、
かといって脱原発を同じく唱える
共産党支持の宇都宮氏に投票するのも違和感があります。
先の総選挙では、先生の明確なご指導があり、
スッキリした気持ちで投票へ行けました。
どうか再度ご指導ください。
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 この質問に答えるため以下、私がまだ都民だったら、どう考えて投票するかを書くことにする--
 
 まず、前提と考え方の筋道を明確にしよう。
 
①今回の選挙で信頼できる政治家は「いない」。
②しかし、「脱原発」は必要である。
③誰が、それを政策としているか?
④誰への投票が、自分の意思を最も効果的に政治に反映しそうか?
 ①と②が前提であり、③と④の筋道をたどれば選択肢は1つしかない、と私は思う。
 
 東京都民にとって、①の前提は驚くほどのことではないだろう。細川氏も小泉氏も、かつて政治家として引退宣言をした人たちだ。にもかかわらず、今回、ぞろぞろとカムバックを狙っている理由は、たぶん「脱原発」で集票できると判断したからだ。つまり、東京都民の大多数である「支持政党なし」の浮動票が大量に獲得できる旗印として「脱原発」が使えると考えたのだ。2人とも首相時代は原発に何も疑問をもたず、むしろ「日本経済に必要」と思っていたに違いない。原発関連企業や、経団連とのパイプも太かったか、今でも太いかもしれない。だから、彼らの「脱原発」は信用できない、と考える都民の気持はよくわかる。私自身だって「何たる朝令暮改か!」という気持がある。しかし……、彼らがもし当選したならば、「やっぱり脱原発はむずかしい」と言って公約を取り下げることができるだろうか? 私はできないと思う。これだけハッキリ宣言して、「あれはウソでした」とは言えまい。すると、自公推薦の桝添氏が当選した場合と比べ、「脱原発」への可能性は拡大するのか、縮小するのか? 私は、前者だと思う--こう考えていくと、④の答えは、①の前提があったとしても、おのずから2人に絞られてくる。
 
 では、最後に残るのは、宇都宮氏と細川氏との間の選択だ。これはなかなか難しい。私は、人間的には前者の方に信頼感を抱いている。しかし、ご存じのように、彼を応援する政党の中には日本共産党が含まれている。「お前、共産党に協力するのか?」という声が聞こえてくるようだ。これは、④の要素への大きなマイナス要因である。つまり、日本共産党や社民党が(また、両党が掲げている政策が)都政において有利になることが、自分の意思を効果的に反映することになるのかどうか、を考えた場合である。ということで、「細川+小泉組」に軍配が上がりそうだ。
 
 だが、ここで1つ別の観点を紹介しよう。それは、「細川+小泉組」は、本当は「自民・公明・経団連連合」の別働隊かもしれない……という視点である。エエッ! と驚かれるかもしれないが、前者はもともと後者と一体だったという事実を忘れてはいけない。東日本大震災以後、東京都では「脱原発」の市民運動が勃興し、それがまだ続いている。加えて世論調査では、「脱原発」の支持者が「原発擁護」の支持者の2倍を維持する状態がずっと続いている。この事実に“連合軍”が危機感を抱かなかったといえばウソになるだろう。そこに突然の「猪瀬辞任」である。これは「オリンピック誘致成功!」で湧いていた“連合軍”には、予想外の展開だったに違いない。「五輪成功のため!」という“錦の御旗”の威力をもってすれば、東京都民の中に多い脱原発派は、そのうちに「五輪のためなら仕方ない」という妥協派に変わっていくと考えていたのに、その“五輪の旗手”が突然消えた。後任候補などまったく考えていなかったところへ、宇都宮氏が早々と名乗りを上げて「脱原発」と「五輪縮小」を訴え始めた。この2つのスローガンは、“連合軍”にとっては最悪のものだ。そこで、考えあぐねた結果、先輩である小泉氏と細川氏に頭を下げて、“別働隊”の旗揚げをお願いした--こういう視点である。
 
 これはあくまでも「視点」であり「観点」である。私は、これが事実であるとは言わないし、事実など分からない。しかし、まったくあり得ないことではないと思う。何のための“別働隊”であるかは、賢明な読者には説明の必要などないだろう。が、あえて説明すれば、それは「脱原発」の世論を分断するためだ。票が割れて、“連合軍”が漁夫の利を得る。政治の世界というのは、権謀術数は当たり前だ。
 しかし、である。仮に上に掲げた“別の観点”が事実であったとして、そして、“連合軍”の勝利に終わったとしても、細川氏と宇都宮氏が獲得した都民の票は、脱原発の支持票だという事実は明確に記録されることになる。この両候補の獲得数の合計が桝添票を上回る結果になれば、桝添氏が仮に都知事になったとしても、新知事は「脱原発」の都民の声を無視して突っ走るのは難しいと思う。なぜなら、彼としても次期選挙を考えるだろうから。
 
 というわけで、「脱原発」を訴えている私としては、今回の東京都知事選では、この旗印を明確にしている候補者に投票することをお願いするほかはない。

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生政連をやめた時に生長の家は宗教活動としてこれからやっていくと宣言し、政治には今後一切活動を行わないと宣言したのはいつのころであったか。

そうした約束を総裁自ら破り、そうした宣言は「嘘」をみずから宣言しているのに等しい。
聖経『大自然讃歌』を聖経としないと自らのブログに書き込みながら、それを聖経化する。

もう何か無茶苦茶な宗教である。自分が熱心に入信して活動していたことが恥ずかしい。

『何故、脱原発』を左翼的な論調で宣言し、ほとんどの信徒は納得できないまま、自分の意思のみで発表するなど、この人何を考えているのであろうか。

私は日本経済を考えると絶対に「原発」は必要である。それは世界的には原発稼働は増えているのが実情である。ドイツなどは「原発」を止めたとはいえ、フランスの原発電力を間借りしている。

自分さえよければいいというのでは、日本経済は破綻するしかない。
今回の震災における原発問題は「民主党政権」の菅直人があの福島県を奈落の底に落としたといっても過言ではない。
東電の意見など聞かずにやった政策は福島の住民を危機に貶める要因であったことは誰もが知っている。
それではその失政を言おう。

東電は炉心のガス抜き弁を開こうとしたが、放射能放出に民主党政権が戸惑い、時期を逃した。

次に東電側から水素ガス爆発を防ぐ為に建屋の屋根に穴を開ける案が出たが民主党政権はそれを拒絶して、屋根が吹き飛び爆発した。

また、この原子炉はアメリカ製である。そうした責任はアメリカ企業にあったのである。それをアメリカを拒絶した菅直人が拒絶したために「原子炉」における莫大な責任が転げ逃げたのである。

何億といえる賠償を要求出来たのである。

ホントにバカな政権である。

そうした政権を擁護し、恥ずかしげもなくこういう提案をするには哄笑である。

こういうのは何故そんなことをするかというと前回に「甘えの構造」という話をしたが、雅宣総裁はこうした宗教活動も「ごっこ」なのであります。

環境も「ごっこ」遊びにすぎない。
沢山の誌友の献資である。そんなこと「環境」に使うのは「ごっこ」なのであります。
自分の自己満足だからこそ「ごっこ」なのです。

それならば「環境」に総裁は何をしたかというと「電気自動車」や「ソ-ラ-システム」や「八ケ岳引っ越」と贅沢三昧の「環境」なのである。
それこそ「金を湯水の如く」垂れ流すような遣り方して何が楽しいのであろう。
それならば「富士山」のゴミひろい」をやるほうが価値がある。電気自動車も今後エネルギ-政策で必ず不足になるということがわかっています。

「坊ちゃんの戯言」であろうか情けない。


甘えの構造と総裁

やはり、中々書けないのが実情である。
創作や話題など沢山あるのでありますが、時間の余裕がない。
平日は夜遅くまで仕事である。土日に書き止めておきたいのですが、その時間がないのが実情です。

土曜は出来る限り運動をしたいと思っています。
昨日は久しぶりの運動をした、ただ疲れが翌日まで影響したのは運動不足であるからです。
たった、14kmの山道でこんなに影響があるのは恥ずかしい。

昨年の11月23日の56kmの時より疲れているのは運動不足です。言い訳としては平日も30分山道を走ったりしていますから、その疲れもあるのでしょう。

強がりですが、まだ歩けるのは歩けます。それは何ともないのですが、気分的な問題が大きい。

さて、帰宅途中に池田市の平田書籍に寄って見た。ここの「平田書籍」は創業は昭和17年というから先代から営業であります。

可愛いおばあちゃんが一人でやっておられます。

父親が平成3年に御亡くなられ、それの跡継ぎとして娘様が店主としてやっておられます。
そのお父さんは99歳で御亡くなられ、その娘様も御年88歳です。
顔肌も艶々とされ、その秘訣も聞きました。
毎日「リンゴジュ-ス」を飲まれるのがその肌を保つ秘訣であるようです。

こうした「古本屋」は私の知る限り大阪にも数件あります。
青山書店などもそうですね。青山書店の店長は隠れ生長の家です。

生長の家が大変好きで、毎晩生命の実相の谷口雅春先生の講義をテ-プで聞くのが楽しみだそうです。

全国でもそういう信徒さんはたくさんおられます。自然崇拝のような事があまりにも愚かなことであるか、そういう信徒さんのことを考えると妥当な考えであるでしょう。

何故、そのようになるのかというと「甘え」が総裁にあるからなのです。
こういうことすればどうなるかを考察出来ないのであります。それが「甘え」なのであります。
甘えとは単に人に甘えるとかそんな単純な構造ではないのであります。それには人の意見を聞かなかったり、人を食ったような発言をされているのが現総裁であります。それは今までの幾多の発言にもそういうことがみられます。
土居健郎著『甘えの構造』には

日本語には甘えの心理を示すものとして、ただ「甘える」という一語だけが単独に存在しているのではない。それ以外に多数の言葉が甘えの心理を表現している。まず「甘える」という形容詞が、口にするものが甘いという以外に、AはBに甘いという時のように、人物の性質をあらわすために使われる場合がある。これはその人物がひとを甘えさせる傾向があるということを意味する。またこれとは別に、事の真相を把握していないという意味で、例えば見方が甘いという場合もある。それは当人が何かに甘えている結果であると考えてよいであろう。

 なお「甘んずる」という言葉は、本当は甘えられる状態ではないが、しかし甘えたつもりになることをさすと定義できないであろうか。甘えられるに越したことはないが、それができない時に人は甘んずるのであると考えられるからである。次に「すねる」「ひがむ」「うらむ」はいずれも甘えられない心理に関係してる。すねるのは素直に甘えられないからそうなるのであるが、しかしすねながら甘えているともいえる。「ふてくされる」「やけくそになる」というのはすねの結果起きる現象である。ひがむのは自分が不当な取扱いを受けていると曲解することであるが、それは自分の甘えの当てがはずれたことに起因している。

 ひねくれるのは甘えることをしないで却って相手に背を向けることであるが、それはひそかに相手に対し含むところがあるからである。したがって甘えないように見えて、根本的な心の態度はやはり甘えであるといえる。うらむのは甘えが拒絶されたということで相手に敵意を向けることであるが、この敵意は憎むという場合よりも、もっと纏綿としたところがあり、それだけ密接に甘えの心理に密着しているということができる。私は前章で言及したバリントに1964年の夏に会って話す機会があったが、その際彼が、彼のいう受身的対象愛に相当する日常語が日本語にあるばかりでなく、その挫折の結果として起こる特殊な敵意を現わす「うらむ」という語もあると知って、いたく感嘆したのを思い出す。

 次に「たのむ」「とりいる」「こだわる」「気がね」「わだかまり」「てれる」について説明しよう。「たのむ」については、ドアがその著書「日本における都市生活」の中でとりあげ、英語の`to ask'と`to rely on'のほぼ中間に位する意味をもち、一身上のことで相手の好意あるはからいを期待して委ねるという意味をもつ語として、特にこれを紹介している。このドアの解釈は全く正しいであろう。いいかえれば、「たのむ」とは甘えさせてほしいということに他ならないのである。次に「とりいる」というのは、たくみに相手の機嫌をとることによって自分の欲望を達することであるが、これは相手を甘えさせると見せて、実はこちらの甘えを実現することであるといえないであろうか。

 ところで物事に「こだわる」人は人間関係の中でたのんだりとりいったりすることが容易にできない人である。もちろん彼にも甘えたい気持ちは人一倍あるのだが、しかし相手に受け入れられないのではないかという恐怖があって、それを素直に表現できない。「きがね」と「わだかまり」もこれに似た心理であるといってよいであろう。「気がね」は通常相手に遠慮する気持ちをあらわすが、それは相手がこちらの甘えをすんなり受け入れてくれるかどうかわからないという不安があるからである。「わだかまり」というのは、表面は何気ない風をよそおっていながら、内心は相手に対するうらみを蔵している場合である。

 なお「てれる」人も、こだわる人と同じように、自分の甘えを素直に表現できないが、それは相手に受け入れられないのではないかという不安からではなく、他人の前で自分の甘えを出すことを恥ずかしく感ずるためである。次に「すまない」という言葉について少し詳しく説明したいと思う。それは謝罪と感謝という一見異なる状況いずれに際してもこの言葉が使われるという特殊な事情が存するためである。ルース・ベネディクトが「菊と刀」の中でこの言葉の説明にかなりの紙幅をさいているのも、その意味合いが少なからず彼女の注意を引いたからであろう。私はこの「すまない」という語は元来動作や仕事が済むという場合の否定形ではないかと思っている。

 この点「すまない」を「澄む」の否定形ととる柳田国男の説と異なるが、私にはどうも「済まない」と考える方がこの言葉の実際の用法と合っているように思われてならない。というのはやるべきことをやっていないから「すまない」のだと考えられるからである。したがってこの言葉には相手に迷惑をかけたことに対する詫びの気持ちが強く現れている。そしてそのことこそ実は相手の親切を謝するにも「すまない」という言葉が用いられる理由なのである。すなわち親切な行為をすることがその行為の主にとって若干の負担となったであろうことを察するから「すまない」というのであって、ベネディクトが想像するように、親切に対して返礼せねばならないことを直ちに意識するためではない。

 もっとも日本人が、互いに助けあうことと金銭の授受という二つの異なった状況に対し、同じような心理的構えを見せがちであるというベネディクトの指摘は、恐らく正しいであろう。しかしここで問題は、なぜ日本人が親切の行為に対し単純に感謝するのでは足れりとせず、相手の迷惑を想像して詫びねばならぬかということである。それは詫びないと、相手が非礼と取りはしないか、その結果相手の好意を失いはしないかと恐れるからである。したがって相手の好意を失いたくないので、そして今後も甘えさせてほしいと思うので、日本人は「すまない」という言葉を頻発すると考えられるのである。以上考察してきた「すまない」という場合の心理は、日本人の罪と恥の感覚、またなぜ日本で西欧的な自由の観念が育たないかという問題にも関係があるので、後に再び取り上げて論ずるつもりである。

 以上あげた言葉の他に、「人を食った態度」「相手を呑んでかかる」また「相手をなめている」などのように、ある種の対人関係の性質を記述するもので一見甘えと無関係のように見えるものがある。これは一般的にいって、人間を人間とも思わずあたかも物のように見なす場合であるが、このように「食う」「呑む」「なめる」という、本来は食物に対して用いられる動詞を人間関係に転用する用法は、日本語以外の言語にもないわけではない。しかし日本語の場合は、それらが甘えの欠損をあらわしているという点で大変興味深い。人を食ったり,呑んだり、またなめたりしている者は、表面的には威勢よさそうに見えるが、しかし内心は孤立無援なのである。

 彼らは本当は甘えを超越しているのではなく、むしろ甘えの欠損をカバーするために、このような行動に出ると考えられる。例えば、「聴衆を呑んでかかる」人は、ともすれば自分が聴衆に呑まれそうになるので、そうならないように反対に呑んでかかる。また「人を食う」というのも同じことである。特に「食うか食われるか」ということになればそれこそ生命を賭けての戦いであろう。なおやくざが「貴様、なめているな」とすごむ場合も、また男が女をなめ、女が男をなめる場合も、そこには甘えによる真に人間的な交流は途絶えている。この意味で甘えは、人間的交流を円滑にするため、欠くべからざるものであるという見方が成り立つと考えられるのである。

如何でしょうか?
そうした人を食ったような発言はなにも『人を馬鹿にしているとか』そんな構造ではなく、本来の友達など否定しているからなのであります。
だからこそ、自然とかそんな「戯けた」物質意向に傾注するのであります。
わたしなどこういう後輩など入れば、相手したくない人であります。

文章の錯覚

2013年11月

2013年11月29日 (金)

信仰の内容と外観

>日本土着の信仰である神道の教典である『古事記』や『日本書紀』には、ムスビの働きをする神々が数多く登場する。しかし、その中でも際だって重要な役割を果たすのは、タカミムスビノカミとカミムスビノカミの2柱である。私がここで神名をカタカナ書きした理由は、漢字を使った表現が複数あるからだ。『古事記』では「高御産巣日」「神産巣日」と書き、『日本書紀』では「高皇産霊」「神皇産霊」と表記されている。また、神名の発音の仕方も説が分かれていて、「ムスビ」を「ムスヒ」と濁らずに読むとするものもある。ここでは、谷口雅春先生が使われた用法に従っている。しかし、いずれの方法によっても、タカミムスビノカミの性格に大きな違いは生じて来ない。「高」は「高天原」にあるように尊称であり、「御」も同じである。「皇」を使った場合は日本皇室との関係をもった尊称となる。残りの名前を「産巣日」とするか「産霊」とするかで若干の違いが生じるのは、前者だと「太陽神」としての性格が生じ、後者では「生成化育」の神としての性格が強調されるからだ。しかし、両者とも「産」の字を用いて「産み出す力」を表現しているし、太陽は地上の生命を生み出す根源的な力であるから、いずれの表現法でも産生し育てる力を体現した神としての性格は変わらないだろう。<

漢字を沢山使っているからカタカナ書きにした。というのはあまりにも稚拙というほかはない。
それならば、奈良という地名はいろいろな呼び方があります。


那羅
平城
乃楽
寧楽
諾楽

上記はすべて奈良と呼びます。分かりにくいから「ナラ」とは書きません。
それは何故でしょう。
その語源で奈良のどの地域かがわかるからであります。
平城と書いて奈良とよびます。JR奈良線の奈良駅の一つ目の駅が平城山(ならやま)駅です。
この地域を平城と呼びます。近くには元明天皇陵などがありますが、奈良街道から京都へ抜ける道として古(いにしえ)の人はそのように読んだのであります。

那羅とは平城山の少し西側にあたります。

「おをによし 寧楽(なら)ふがごとく 今盛りなり」

歌は730年頃に太宰府で、小野老(おののおゆ)によって詠まれたものである。

寧楽と書いて奈良とよびますが、ここはどこでしょうか?
私は西大寺の辺りが寧楽ではないかと思っています。
大伴家持の歌であります。

「沫雪(あわゆき)の ほどろほどろに 降り敷けば 平城(なら)の京(みやこ)し 思ほゆるかも」

私は『古事記』『日本書記』にそれぞれ違う字が書いてあるといっても、それほど日本人の感性が良かったのではないかと思っています。
また、どうして谷口雅春先生の文章を引用しないかと疑問を待たれる人が沢山いますが、それは簡単です。
言霊解釋が出来ないからなのです。それと谷口雅春先生の引用すると自分の沽券に係わるとおもっているからであります。
そうでないと、可笑しい。全く別の解釋しながら、「谷口雅春先生」を引用しているかのような錯覚を読んでいる人に思わしている。あまりにも巧みな策術である。
の京師(みやこ)は 咲く花の 薫(にほ)

耳塚

京都の豊国神社の前に耳塚があります。
これは豊臣秀吉が朝鮮に出兵したときに敵軍の耳や鼻を削ぎ取って持ってきたものが、耳塚であります。
一見聞いたら残酷のようにみえますが、それは日本の伝統や風習を知らないからそのように思うのです。

これは日本人らしい素晴らしい風習であります。
それは当時日本では敵軍の首を取ってそれを葬る習慣がありました。それを供養してその霊の災禍を防ぎ、敵軍といえども鄭重に供養しているのであります。

果たして戦禍で倒れた敵軍の供養をする風習があるのは世界広しといえども日本だけであります。
そうした、御亡くなられた人は亡骸として供養するのは日本の素晴らしい風習だと思います。

中国は死体に鞭を打ち、墓を暴く恨みの文化です。

安倍首相の写真に火を点けて、焼きつくし、足で踏み罵倒する文化です。
韓国もそうですね。
日本人はそういうことをほとんどの人はしませんし、相手の名誉を重んじるのも日本の文化であります。

その耳や鼻を持ち帰ったのは加藤清正といわれている。
その加藤清正について

「日韓2000年の真実」 名越二荒之助 平成9年 国際企画
◇『耳塚』は敵国戦死者の慰霊塔

京都・東山の方広寺前に、朝鮮出兵した日本軍が朝鮮軍兵士から切り取った鼻を埋めた『耳塚』という小さい丘があり、その上に五輪塔が建っている。日本の教科書にも載っており、『朝鮮侵略』のむごたらしさを表す教材になっている。韓国からの観光旅行者も、この場所には大半の人が訪れ、中には土下座して祈る人もあるという。

この塔をいつ頃から『耳塚』と呼ぶようになったのか、明らかではないが、実はこれは『耳塚』ではなくて『鼻塚』なのである。戦国時代は功績を競うために、敵の首級を挙げるのが習いであった。何人の首をとったかが、論功行賞を左右した。朝鮮の役ではそれができず、首に代えて敵の鼻の数で戦果を量ることになった。死体とは言え、人体の一部を斬りとって集めたと聞けば、その酸鼻に眉をひそめるであろう。しかし戦場にあって戦果を確認し、功を競うのは、近代戦でも同じことなのである。近代戦では、軍艦を何隻撃沈・大破したか、航空機を何機撃墜したか、が評価の対象となる。だから戦果を確認するために色々の配慮がされている。

もっとも日本では、秀吉以前に、敵の耳をそいで遺髪の代わりに供養した例があった。平安時代の中期、すなわち前九年の役(1056-64年)のことである。源頼義・義家父子は、国司の命令に従わない阿倍頼時を討伐するために、陸奥の国に出かけた。それは足かけ九年に及ぶ戦いであった。頼義は死力を尽くして戦う敵に敬意さえ覚えた。戦いが終わって帰京する時、頼義は敵の死者を慰霊するために、死者たちから斬り取った耳を乾かし固めて皮製の籠の中に入れて持ち帰った。そして六條坊門の北西洞院の西に耳を埋めて堂を建て、等身大の阿弥陀仏を安置した。京都人はこの堂を耳納堂と呼称するようになった。しかし応仁の乱か戦国時代に焼失して今はない。秀吉の『耳塚』も『耳納堂』から連想したのではないか、と言われている。

わが国では古来から、戦いが終われば、敵を弔う伝統があった。秀吉も同じであった。彼は卑賤の中から身を起こし、人間の悲しみや苦しみを知悉(ちしつ)していた。死者に対する仏心も篤く。戦争でも残虐な手段を嫌った。彼は慶長2年の9月28日、敵(朝鮮)の戦死者を慰霊するために持ち帰った鼻を京都大仏の前に埋めて、盛大な法要を催行した。当時秀吉の信任が厚く、側近であった相国寺の住職に西笑承兌(さいしょうしょうだい)がいた。承兌は日記の中に当日の様子を詳しく書き、秀吉の心中をおよそ次のように述べている。(原漢文、相国寺資料第一部)

大相国命(豊臣秀吉のこと)はこの鼻を見て憐れみの心を深くし、敵味方を超えて平等に供養しなければならない、として禅宗の五山の僧に命じて山海の珍味を供えさせ法要を営んだ。そして怨みを越えた平等の心を持って墓を造る。この墓を名づけて鼻塚とし、尚塔婆一基を建てる

承兌は秀吉の意を受けて、塔婆に「清風明月本同天、干時龍集丁酉秋九月二十又八日敬白』と書いた。清風も明月も、もともと同じ天にあって敵味方を超えて恩恵を施している、というほどの意味であろうか。法要の当日は供物が山のように盛られ、幟が立ち、おびただしい数の僧俗が集まって焼香した。承兌の書いた言葉は、秀吉のみならず、集まったすべての人の心でもあった。

◇敵国の死者を弔う日本の伝統

我が国には古来から、たとえ敵国人であっても戦いが終われば戦死者の慰霊を行うという風習がありました。(中略)外国の敵を弔う例は、元寇の時にもありました。…文永・弘安に及ぶ2度の元寇が終わると、弘安5年(1282)、時宗は鎌倉に円覚寺を建て、水没した10万の元軍の死者のために一千体の地蔵尊を作って奉納しました。その時、開山の僧・祖元は、その語録の中に、「前歳及往古此軍及他軍戦死与溺水、万象無帰魂」と記録しています。「前歳」とは文永の役のことであり、「往古」とは弘安の役のことです。「此軍」は日本、「他軍」は蒙古を意味することは勿論で、敵味方の慰霊であることは説明するまでもないでしょう。
(中略)
豊臣秀吉の朝鮮出兵の時にも、各地で敵兵の屍を埋めて弔いました。そのことを当時朝鮮政府の要職にあった柳成龍が、「懲ひ録」という著書の中で明らかにしています。日本軍が全羅道に進撃した時、朝鮮軍は熊嶺で防戦し、激戦の末、鄭堪、辺応井らの武将は戦死しました。それに対して成龍は『日本軍は、熊嶺の戦死者の屍をことごとく集め、路辺に埋葬し、その上に標柱を立て、「弔朝鮮忠肝義胆」と書き署した』と紹介し、『これは恐らく、わが軍の力戦を賞賛してのことであろう』と結んでいます。

もうひとつ、島津義弘の例を挙げましょう。義弘は朝鮮の役に出陣し、泗川の戦いで勇名を馳せました。彼は戦場では赤い鉢巻をしていたので、朝鮮の記録では『紅頭倭最悪』(赤い頭をした日本人が最悪であった)と書かれています。しかし実際は『勇将涙あり』というべきでしょうか。戦いが終わると従軍僧に命じて、敵味方の陣歿者を弔う卒塔婆を立て、法要会を行いました。(日韓併合後の大正7年になると鹿児島県の有志が現地を探査して、味方の陣亡者碑と、唐兵供養塔を建てました)。凱旋すると慶長4年(1599)、高野山の奥の院に、『高麗陣敵味方戦死者供養碑』(高さ2.3メートル)を建立しました。この碑に刻まれた文章によれば、『慶長2年8月、全羅道・南原の戦いで明兵数千のうち、島津で討ちとったのは428人、同年10月、泗川の戦いで明兵8万余を斃した。ここに味方の戦死者三千余を含めて供養する』という趣旨のことが書かれています。

◇ロシア将兵の慰霊塔を先に建てた乃木将軍  昨日の敵は今日の友

日露戦争において、乃木希典将軍はロシアの要塞旅順を陥落させて、敵の将軍ステッセルと水師営で会見した(明治38年1月5日)。この会見の様子は後に、佐々本信綱作詞、岡野貞一作曲で「水師営の会見」というあまりにも有名な歌となった。この水師営の会見の時、乃木将軍はステッセル将軍に対して、ロシア将兵の墓を整備することを約束した。そして明治40年(1907)6月、日本軍はロシア将兵の墓地をつくり、墓地の中央に「慰霊塔」(高さ13メートル)を建立した。日本側の「表忠塔」が建てられたのは、それより2年半後の明治42年11月28日であった。敵の戦歿者を慰霊する我が国の伝統はここにも見ることができる。乃木将軍は、ロシア将兵の慰霊塔除幕式を挙行するにあたって、北京からロシア正教の僧侶十数名を招き、ロシア側にも案内した。ニコライ2世皇帝は感激して、自身で参加することを望んだが、結局、待従武官長チチャコフ中将以下20名が出席した。

◇敵の戦没者を慰霊した昭和の日本人

 北支戦線で建てた「中国無名戦士之墓」
支那事変勃発に伴う日中戦争において、いわゆる「南京大虐殺」に代表されるように、旧日本軍は悪逆非道の限りを尽くしたことになっています。戦争ですから、残虐行為もあったでしょうが、同時に武士道精神に基づいた素晴らしい行動もあったのです。例えば、昭和12年(1937)7月7日、支那事変が勃発して間もない頃の朝日新聞(第18545号)によれば、日本軍は戦闘が終れば、各地に「支那(中国)軍無名戦死者之墓」を建てたといいます。従軍記者の小川特派員は、日本軍兵士が中国人兵士の墓標を建てている光景を撮影し、「無名戦士よ眠れ」と題して、次のようにコメントしています。
〈無名戦士よ眠れ抗日の世迷ひ言にのせられたとは言ヘ、敵兵もまた華と散ったのである。戦野に骸(むくろ)を横たへて風雨に曝された彼等。が勇士達の目には大和魂の涙が浮ぶ。無名の敵戦士たちよ眠れ!白木にすべる筆の運びも彼等を思へば暫(しば)し渋る優しき心の墓標だ。――北支戦線にて(小川特派員撮影)〉

 オーストラリア軍の勇戦を讃えた日本軍
昭和16年(1941)12月8日、大東亜戦争開戦とともに、日本軍はイギリスの植民地であり、アジア支配の一大拠点であったシンガポールをめざしてマレー半島を南下しました。それは破竹の進撃であって、翌年の1月末にはシンガポールの対岸ジョホールバルにまで達しました。英国軍に所属するオーストラリア軍は、ジョホールバルの東にあるシェマールアンで、必死の抵抗を試みました。シンガポールの中学2年用教科書は、その時の模様を次のように書いています。
〈オーストラリア軍は、武装を完全に整えて日本軍に対して戦闘体制に入った。ところがその時、半裸の村民たちは(日本軍に味方して)、オーストラリア軍に敵対してくる事が判った。そこでオーストラリア軍は決死の覚悟を固め、激しい戦闘の果てに二百人がすべて戦死した。この戦によって日本人の戦死傷者は、一千人に達した。日本兵やその指揮官たちは、オーストラリア兵の勇気に感激した。彼らは敬意を表すために二百人を葬った墓地の上に巨大な木製の十字架を建てた。十字架には『私たちの勇敢な敵、オーストラリア兵士のために』と書かれた。〉
私はこの事実があったかどうかマレー作戦の中佐参謀であった杉田一次氏に質ねました。杉田氏は、「当時の近衛師団が十字架を建てたことは、聞いている」とのことでした。続いて当時上等兵として戦った中島慎三郎氏(ASEANセンター代表)に聞きました。氏はこう返答してきました。
「そんなことはいくらでもあった。だいいち山下奉文司令官が偉かった。山下将軍は仏の心を持っていたから、英兵の死体を見ると、必ず挙手の礼をしていた。司令官がそうだから、我々も勇敢に戦った敵将兵の跡には、十字架や墓標を建てていったのだ。特に我々は中国戦線で戦ってから、マレーに進撃した。当時の支那兵は戦意が乏しく、逃げてばかりいた。ところがマレーの英兵は踏み止まってよく戦った。だから尊敬の心が起ったのだ。勇敢な敵兵に敬意を表するのは、当時の習いだった。それは海軍も同じだった。日本の海軍航空隊は12月10日に英国戦艦プリンスーオブ・ウェールズとレパルスを轟沈させた。すると指揮官の壱岐春記大尉は、撃沈させた後、愛機を現地まで飛ばして、勇敢に戦った英国将兵のために花束を投下したではないか。日本が英国植民地勢力の牙城シンガポールを陥落させると、アジア諸民族は熱狂した。寺内寿一南方軍総司令官はこの意義をアピールするために、山下将軍に対し、盛大な入場式をやるように勧告した。しかし山下将軍は、敗戦した敵軍のことを思ってとりやめ、敵味方の戦死者を弔う合同慰霊祭を斎行した。」




多忙とは怠け者の遁辞である

徳富蘇峰が生誕して150年である。
谷口雅春先生が生誕して120年の節目の時であります。

徳富蘇峰は『必勝国民読本』や『近世日本国民史』を表している。この『近世日本国民史』は100巻に及ぶ大作集であり、江戸時代から明治時代の10年まで記載している。

その博識は舌をまくほどのものであり、あの与謝野晶子が


  • わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
  • 高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪

  • 多忙とは怠け者の遁辞である
    今日なすべきことを 今日しなかったら
    明日は必ず多忙である。

    徳富蘇峰のことばである。
    私はこの『近世日本国民史』は全巻所有していないが、半数は持っている。
    『要約近世日本国民史』10巻は所有している。

    その博識にはただ頭が下がる。こうした明治の偉大な先人が忘れられないようにしなければならない。またそれと同じように谷口雅春先生の偉大さは多くの国民に知ってもらわなければならないことであるが、それを行っていない『生長の家』教団はいつかは崩壊するであろう。

    大本の綾部本部と亀岡本部に行ってもその出口直や出口王仁三郎の尊崇は当たり前のように感じます。

    一燈園の西田天香氏の尊崇はその教団内部に入ってそれを感じます。
    しかし「生長の家」教化部に入ってもそれを感じないのは何故であろう。
    私の誤解なのであろうか?
    いやそうではない。大本本部には出口直や出口王仁三郎の写真が大きく掲げられているのである。
    生長の家では全くそんなことをしていない。
    それを肌で感じて、生長の家の教えの根本を喪失しているのを誰も気が付かないのであろうか?

    傍観帳

    今年は忙しい年になると予感していますが、やはり年始早々から忙しい日々が続きます。

    昨日は朝の5時50分に自宅を出て、会社へ行きそれから車で長野県の松本まで走りました。
    車内は社長や課長などでワイワイとしていましたが、お客様は一部上場企業の大きな会社です。
    約4時間みっちりと打ち合わせです。
    それから、帰社です。
    長野県や名古屋、岐阜などは雪はなかったのですが滋賀の彦根や米原付近はコンコと雪は降っていました。
    帰社は夜10時、帰宅は夜11時です。

    いつもの朝は午前6時40分に自宅を出て、帰宅は10時や11時となります。
    忙しいので羨ましいといわれますが、そうですが大変です。
    その為、土曜日は後片付けで、山に行くのも遅くなります。

    仕事も持ち帰りしています。余った時間も設けるようにしていますが、こうしたことはとりあえず一年間熟していきます。

    生長の家の事は勿論わすれていません。
    しっかりと頑張っていきます。

    辞めていただくのも「和解」であります。

    節度ある発言ということが出来ていない私がいうのもおかしいですが、この生長の家の論争について思うのは、多くは「自分を良し」としての発言なのです。

    そりゃ当たり前かもしれないが、とりわけてトキ掲示板のトキ様は取り分けてそういう分類をすぐにする。

    それは対峙や対抗させるのは論議ではおもしろい。
    しかし、数年前から「生長の家」教団はおかしな方向へ向かっているのは、ほとんどの人が思っていることである。
    しかし、それをどうするかを「トキ掲示板」に問題をすり替えたり、反対に「本流側」にすり替えたりしている。

    本当はそうじゃないだろう。常識的に考えても、雅春先生時代から現在の生長の家が変節しているのは間違いない。そんな論点はいままで幾多の人が唱えてきた。

    『生命の實相』を蔑ろにしているのも事実である。裁判での経緯でもあきらかである。

    『生命の實相』が大事だと思うなら。地域に『生命の實相』を読むなとかの方針など唱えないなろう。
    『生命の實相』は生長の家教団の根本因である。教義でもある。それを蔑ろにしていて、環境はないのである。

    それじゃ『生命の實相』を破棄していいのですか?

    「そういうことはほぼ100%はそんなことない。」
    と教団の人はおしゃるでしょう。

    その通りなのです。しかしそれを放擲しているのが現在の教団なのです。

    皆はそれはおかしいとはいいます。だが実際の活動指針などはその方向であります。

    それをどうしていくのか。というのが第一義の問題なのです。
    それをその方向に導いていっているのが、「雅宣総裁」なのです。

    そこを改めない限り「おかしな方向」へいくのであります。

    よく「雅宣総裁」に一人責任を負わせるのはおかしいというが。そんな人は社会の常識を知らないからそんな我儘な発言をするのである。

    社会では会社で社員が悪ければ、会社が悪いといわれます。しかもその責任者の社長の責任があるのです。
    厳しいが社会とはそういうものであります。

    だから、その職員は教化部長もどうしようもないかもしれないが、その「辞令」を出しているのが社長でありますから、その代表取締役の印鑑も押している限り、その社長の責任から逃れられない。

    私はそういう責任を感じない宗教者の人が多いのが大きな問題であると思っています。

    信徒数激減の責任もとらない人は宗教だから許される問題ではないと思っています。

    いろんな論議があると思います。和解とかおしゃるが、和解するためにどうするのかが「ポッカリ」抜け落ち。主論のみ唱えてもダメなのです。

    和解というのはそんな「簡単」なものではありません。

    例えば現在の共産党の志位書記長を生長の家に入信させるより難しいのであります。

    それならば、不可能はないとかおしゃるならば、それを実行して下さい。それを実行させて下さい。

    それが出来ないならば、そんな事軽々と言うなと言いたい。

    私は辞めていただくのも「和解」であると思っています。

    「え~」とおしゃるかも知れないが、現在の総裁は宗教家としては最低である。真理も説かない。
    口を開けば「環境」にうんざりしている。
    それならば、環境団体に入ってそれを実行すればいいのであります。
    その人が行いたい処に指針させるのは人間として温かい行動であります。

    人間にはその職業が天職かどうかは意外と他人がわかることがあります。それが本人の為だというのも温かい進言であります。
    だから、辞めていただくのも「温かい」進言なのであります。
    それが全体の和解として相応しいのであります。

    それを「悪」と見るのは根性が曲がっているからそうであります。

    自分が絵描きで才能がなく、漫才をするのが大変得意でしかも、会社の社長としての業務が滞り、支障がある場合は「そういう進言」をするのは何も悪くないことなのです。

    私はそういうことを知ることも大切であると思っています。

    内憂外患に思う

    私は今回の谷口雅宣総裁の再々の日本侵略論に対しては義憤とかいうより、呆れてものがいえない状況であります。

    しかし、こういう左翼被れというのは日本の歴史を勉強しないのですね。こうだと決めつけ、物事を歪めてでも、自分の考えに向けていくという作業を行うのであります。本当に困ったものであります。

    二回にわたり『日本は侵略国ではない』という雅春先生と武藤貞一様の共同執筆を謹写致しました。

    昭和57年当時から33年経っても中韓と日本の軋轢は変わりません。当時雅春先生が思われてその憂いは未だに矛を治めるような事態にはいたっていません。

    しかも内憂外患でしょうか?生長の家総裁ともあろう人が雅春先生と異なったことを発言しても許されるような事に教団内部はなっています。

    私は鎮護国家の為に石清水八幡宮へと参拝しましたが、少しでも日本が生長の家がよくなってほしいものです。

    日本は侵略国ではない-2

    日本は世界無比の平和国家

     

     韓国については、「合邦」が失敗であり、過まりであったことを日本人は痛感している。あたかも大東亜戦争が失敗であり、過まりであったことを認めると同じように。

    けれどもそこに到るまでの過程においては、のっぴきならぬ事情が錯綜しており、勢いの赴くところ、その選択以外に道のなかったことは、事実の証明するところである。

     

     われわれ日本人は、痛いほどの体験をもって当時の事情を知悉しているだけ、それだけ深刻に、当時の日本の行動を是認する気持で一杯である(一部の左翼破壊分子は論外だ)。ということは、失敗を二度繰返してはならぬ、また繰返すはずもないというのと同義語なのである。

     明治の大功臣伊藤博文を、朝鮮侵略の悪玉として教科書に記せと、いくら韓国が求めても、そうはいかない。安重根こそ、兇漢である。かといって、日本がまたも韓国を侵略するつもりはない。そのくらいのことは、韓国の人々もわかってくれてもいいのではないか。

     

     韓国併合前後の経緯は、簡単ながら前号の武藤論文「排日・排日貨の大謀略」に尽きるから、ここでは省く。

     

     古来、日本と韓国とは密接なつながりがあり、混血も相当行われて来た。古代既に日本に大移動して来たと見られる朝鮮人は広い範囲に分布し、宮廷勢力の一角をも占めていた。日本人もまた半島に進出して、任那の日本政庁のごとき、七百年も続いた歴史がある。いわば兄弟国同然で、侵略の被侵略のと言い争う仲ではない。両民族はなぜもっと打融けて共存共栄の道を歩まないか。現在のような相互不信は、好んでお互いの不幸をもたらす以外の何ものでもないのではないか。

     

     現時の韓国や中国の人々は、過去百年の日本の躍進が目覚ましかったために、嫉視と敵意が交錯し、加えて、いわゆる親近憎悪が先に立った。そして日本の効用ということにわざと眼をそらした嫌いがある。日本の効用とは何か。ここが一番大事な点である。

                          

     日本は欧米露白人勢力の洽々たるアジア侵略に対し、最初に目覚めて立ち向った唯一の国である。もし日本が逸早く決起しなければ、何国が一体これに措抗したであろうか。白人侵略の防ぎ手は日本以外になかったことは、炳乎たる歴史の真実である。

     

     日本もまた白人侵略の亜流に伍し、結局はミイラ取りがミイラになったではないかととがめる前に、中国や韓国がむしろ白人に迎合して日本のみを目の仇にしたフシはなかったかどうかを反省してみる必要があろう。一例をあげれば蒋介石の凄まじい排日、排日貨運動の背後には英米が糸をあやつっていた。このため日本をどのくらい焦立たせ、激化させたか知れない。日蒋を戦わせて得をしたのは白人侵略勢力ではなかったか。日本の最初からの行動を、もっと寛容に、もっとアジア連帯的視野に立って、同調して行ってくれたら、日本ひとり苦闘惨苦の道を辿らなくて済んだのに、といえばいい過ぎだろうか。

     

     特にロシア帝国(後にソ連)の南下戦略に対して、韓国も中国も、もっともっと総力を挙げて日本と共同作戦をとるべきではなかったか。今日の事態についてもこれはいえることである。中国にとっても韓国にとっても最大の脅威はソ連であるはずである。

     

     もっとも、中国のように、その政策が変転極まりなく、最近急角度に親米・日から親ソ路線に切り換えつつある情勢下においては、以上の忠言は全く無意味なものであるかも知れない。去る九月三日、中共党第十二回大会における胡耀邦演説では、公然と日本の軍国主義化を非難すると共に、一方ソ連との和解の可能性を説いた。これでは既に中国はソ連を主敵とせず、あたかも「日本非難」をソ連傾斜への引出物にする観があり、容易ならざる意図を孕んでいる。中ソは同じ社会主義国、根本において資本主義国と相容れるものではない。教科書問題が端しなくもこれに火をつけたとすれば、今後の推移が思いやられる次第で、日本が中国の近代化に欠かせぬ協力国であるとか、パートナーたらんとするとかいう甘い考えは、一掃してかからなければならぬだろう。

     

     鄧小平氏が来日して述べた「子々孫々までの友交親善」はどこまで本音だったのか。まさに日本人として冷水を浴びせかけられた思いである。そして、このような中国の態度が改まらぬ限り、両国の不信は増すばかりで、アジアにとって不幸この上ないことといわざるを得ない。

     

     最後に、中国ならびに韓国の人々にぜひ望みたいことがある。それは日本の歴史をよく識ってほしいということだ。

     

     胡耀邦氏が何といおうと、日本が再び軍国主義化する懸念は毛頭ないことは、歴史を読み、日本の民族性に触れればおのづからわかることである。

     

     日本は大戦に至るまでの約半世紀間、戦争に明け暮れた。しかし、これは二千年の長い歴史のなかでの特異現象であって、日本は国土豊穣、自足自給が叶い、平和の暮らしに満足していた農耕民族である。殺伐な狩猟民族とは選を異にするのだ。

     

     日本は、四面海で、侵しもせず、侵されもせず、鎖国の体制を維持して来たことは、近世三百年に限らない。太古から、鎖国であったことは、外洋に出るほどの大船を建造した例しがないのにも証拠立てられる。

     

    二、三の例外はあり、倭寇というものの事実はあるが、あぶれ者の所業に過ぎなかった。

     

    これを世界の他の種族に比べると、全く比較にならぬ平和種族であった。日本人がいかに穏和で、恭順で、清潔で、礼儀正しき種族であったかは、魏志東夷伝やポルトガル、スペイン等の宣教師の記述を見ればわかる。

     

     日本の肇国の象徴は「鏡」である(伊勢皇大神宮の御神体)。古来皇居には城塞がなく、王朝時代、武土の昇殿は許されなかった。このような国柄は世界のどこにもない。日本は世界無比の平和国家であった。

     

     この国の伝統は、いまもなお国民の血脈のなかに受け継がれている。

     だからこそ、一時の激憤に駆られて大戦に臨み、敗衂するや、一億総崩れで虚脱状態に陥るほど、ぶざまな姿を露出したのも、根が戦争に適しない極めてウブな民族だからであったろうと思われる。

     

     日本人を称して好戦国民であるとか、侵略主義の国であるとかいうのは、あまりにも民族の特性を理解し得ない。もしくは、強いて歪曲した言辞といわざるを得ない。

     われわれは、内と外との別なく、この点を切に力説したいのである。

    日本は侵略国ではない-1

    JPG
    『動向』昭和
    5711月号より

    内外の蒙をひらく


    日本は侵略国ではない


           谷口雅春

           武藤貞一



    【編集部まえがき 教科書問題は、日本左翼破壊分子(マスコミ)の煽動工作に悪乗りした中国、韓国政府が内政干渉的抗議行動に出たものであるが、わが政府がひたすら低姿勢で「修正」を約束したことにより一応の決着を見たようである。しかし中国政府は「今後目本の行動を見守り、論評する権利を留保する」と云い、まるで日本教科書検定の権利がかれにあるような態度である。また共産党機関紙人民日報は、教科書に止まらず首相以下の靖国神社参拝、憲法改正の動き等を日本軍国主義化として攻撃の矢を放っているし、国営新華社通信は、大戦末期におけるソ連の対日参戦、満洲侵攻を改めて是認しているところから見て、問題は決して落着とはいいがたい。よって本誌はここに谷口、武藤両先生の共同執筆による権威ある一文を掲げて弘く内外に訴え、その蒙を啓かんとするものである。】


    過去をあばけば水掛け論


    まず、最初にいっておきたいことは、現在はもちろん将来にわたり、日本「軍国主義」が二度とふたたび近隣諸国、中国や韓国に「進出」することは、天地がひっくり返ってもあり得ないということである。大戦を経て、日本は大きく変貌した。それは大戦の経験があまりにも酷烈であったことに因由する。すなわち、日本は戦い敗れて、焦土と化した本土を残すのみで、固有領土を含む一切の版図を喪った。元の杢阿弥どころか、明治維新前までわが領土だった樺太、千島までも奪い取られてしまったのである。

     中国や韓国の眼から見れば、これも刑罰と映るかも知れないが、日本人自身にすれば耐えがたい痛恨事であり、これで懲り懲りしないわけはない。戦争の惨禍が骨の髄まで浸み込んでしまったから、一億二千万人悉くが戦争といっただけで怖じ気立つのみである。戦後の平和福祉国家への転化がここから来ている。

     今日、世界広しといえども、戦争放棄を憲法に明記している国は、日本以外のどこにあるだろうか。自衛隊は米占領軍の命令によって創設されたものであるが、占領解除、独立後も、日本はあくまで憲法に準拠して、いわゆる専守防衛に徹し切っている。その後、ソ連の驚異的軍事力大増強に伴い、わが固有の北方領土にまで軍事基地を構築するに至って、北海道をはじめ、わが本土が直接侵略の脅威に暴される事態となったが、なお日本国民の防衛意識は極めて稀薄であり、アメリカから防衛力強化について矢の催促を受けながらも、なお日本政府は頑として応ずる気配を見せない。そしてわずかにGNP%未満の軍事費をもって極限としているのである。


    これもまた世界に類例を見ないところであって、ソ連はGNPの一三%、アメリカは七%、欧州各国は概ね四乃至五%、韓国は六%、北朝鮮は一五%(中国は不詳)、に比べて目本のそれがいかに低いかは一目瞭然である。この日本にどうして軍国主義化の恐れかおるのか。儼然たる事実を判断の基礎にしなければすべてがウソになってしまうのではないか。

     中国は、鄧小平時代に入って、その対ソ戦略上、改めて日米安保条約を評価すると共に、日本の軍事力増強の必要性を認め、中日間にある種の軍事的交流をさえ促がすようになって来た。すなわち中、米、日の対ソ包囲網が必要との認識の上に立つものと思われる。


     このように、一面において日本の軍事力強化を国益に合致すると考える中国が、今度の教科書問題に籍口して、にわかに日本軍国主義化を喧伝するに至ったのは、矛盾も甚だしいといわなければならない。


     教科書問題発生以来、日本政府は、中国および韓国からは軍国主義化の悪罵を浴びせられながら、傍らアメリカからは軍事力増強を迫られて、相反する二重の責苦に遭っている状態である。一体どうすればよいのか、途方に暮れざるを得ない。

     しかし、中国も韓国も、日本の国内事情には精通しているから、日本がふたたび軍事大国になるなどとは考えていないに相違ない。かれらが今更日本軍国主義化を憂うるなどは全く荒唐無稽であって、心にもない言いがかりに過ぎないであろう。


     ただかれらは、過去の怨念に取り憑かれている。日本は中国を侵略した、朝鮮を支配した、この過去の記憶が怨念として頭脳の中に焼きついているから、些細なことがキッカケとして激発する。それが今度の教科書問題であろう。すべては過去のことに属するのだ。


     過去と現実とは深い雲霧に距てられている。怨念といっても、過去は過去であり、そのまま現実に適応させることは無理である。ましてや四千年の歴史を持つ古い国であれば、外冠はさまざまの形をとって史上に刻み込まれており、「怨念」は必ずしも一つではなく、また、逆に近隣に怨念を抱かせた事例も数多いであろう。ひとり日本にのみその怨念をしぼるというのは、いささか条理を越えているというべきだろう。

    この点を、中国の人々も韓国の人々も篤と考えてもらわ  ねばならぬ。


     欧州に例を引けば、かれら国民は、二千年来、互いに侵略と虐殺を繰返し、国境の変動は驚くばかりである。昨日の敵は今日の味方であり、かと思うと、英仏のように百年戦争の経験を持つ国もある。今日、ナポレオンに侵略された怨念を抱く国民はどこにもいない。「侵略」をした方は忘れるが、された方は忘れないといっても、闘争に終始して来た国民は、旧怨などさらりと忘れ去っている。でなければ苛烈な現実に処しては行かれないからだ。


     日本と中国の場合は、世界史に異例といわれるほど、両国間の葛藤はなかった。日清戦争はどうか、「日

    支事変」はどうか。たしかに中国に損傷を与えた。しかし、この過去の日本の罪業を永久不変に許せぬというなら、いやでも日本は元寇にまで湖らねばならなくなる。(弘安の役の侵略軍主役は蒙古人ではなくて、南宋の漢人大軍団だった)


     過去を洗えば、結局水掛け論になるのが落ちである。加えて日清戦争でも目支事変でも、日本軍の中国本土進撃は、「侵入」ではあったが「侵略」ではなかった。抗日軍を膚懲するのが目的であって、その領土を奪おうとする意図は微塵もなかったのである。断じて侵略ではない!


     近衛内閣の不拡大方針か示したように、日本車は、中国側の「ここまでお出で」政策に、つい引っかかって、のめり込んで行った。非はもちろん日本軍にある。だからこそ、日本は開国以来初めてという大刑罰を受けたのであり、日本はこれ以上果たしようのないほど物心両面の報いを甘受したのであった。


     もし、それ「南京大虐殺」を日本の教科書に盛れというなら、その起因である通州大虐殺も中国の教科書に記載してもらわないと公正を欠くことになろう。(通州事件とは、中国軍、か朝鮮人住民を大量虐殺した有名な事件である。そのとき、山なす屍体はみな眼の玉をくり抜かれ、惨鼻を極めていた)


     いわんや「南京大虐殺」は、まぼろしの伝説というの、か正しいらしく、実態は決して中国側が喧伝するようなものではないようである。


     要するに、過去よりも、現実に、日本が変貌を遂げ、徹底した平和国家、軍事小国(精々行っても軍事中国)にたり果てている以上は、中国としてこれにまさる大安心はないではないか。今におよんで過去をあげつらうことに何の意義があるか、何の得かおるか、とわれわれはいいたいのである。中国に対する「贖罪」は田中訪中の日中共同コミュニケに尽きているはずだ。


     教科書問題は、中国や韓国が日本教科書を検定する条約でも締結しない限り、決してかれらの満足するものとはならないのである。言っておくが、日本は独立国である。独立国である限りは、自国の誇りと子孫への教育徳目を放擲することはない。日本には日本の歴史かおる。諸国には諸国の歴史かおる。外国の干渉におびえて、歴史を狂げ、誇りを捨てることは決してない。干渉によって教科書がどうにもなると、かれらが思うならば、われわれは断乎としてこれに対処しなければならない。


    満洲建国の背景


     現在、共産中国が東北地区として領土に編入している旧満洲について、中国はしきりに「日本の侵略」をわめき立てている。既に中国領土となっている同地域の帰属についてわれわれはとやかくいい立てるものではない。中国領土、結構である。固より異存はない。


     ただしかし、現在と過去を混同し、現在中国領であることをもって、過去もそうであったように、歴史を歪曲し、そこを基礎として物事を律しようとする企らみには反捉せざるを得ない。


     いうまでもなく、清朝以前は満洲も蒙古も中国からは異域であった。これを併合したのは清朝時代だが、満洲は社稜の地であるため、漢民族の移住を厳禁し、満洲族のみの専住地として、関内関外は厳重に区別していた。


     清朝を倒しだのは、革命軍ではなくて、逆臣の袁世凱である。袁世凱を倒しだのは、そのまた逆臣の馮玉章である。清朝以後は、南北に二つの中央政府、が井立したかに見えたが、その実は国内は四分五裂し、馬賊の頭梁どもが群立して、全土、が乱簸荒亡の姿となった。いわゆる軍閥割拠時代を迎えた。満洲に羽振りを利かせたのは張作霖である。


     遼東半島は、もともと日清戦争で清朝が日本に割譲した土地だ。これを東洋平和に害ありとして、独仏を誘い、日本から奪い去ったのはロシア帝国であり、還付は事実上清国の頭越しに行われ、まんまとロシアが横取りするという結果を招いた。ロシア帝国南下の野望は物凄く、勝手に駐兵し、勝手に版図化を推し進めて来た。既に清朝は実効支配の能力を失っていたからどうすることもできない。ただ指を唾えて侵略者のなすがままに任せた。満洲のみならず、侵略者の魔手は朝鮮半島に延び、果ては釜山にまでロシア兵の姿をチラホラ見かけるようになった。


     その間、日本の焦慮と苦悩は筆舌につくせないものがあり、日露の外交折衝は多年にわたって続けられたが、何の妥結も見出されなかった。わが日本はついに一大勇猛心をかき立て、全国民が大の玉となって、単独で強露の南下に立ち向わざるを得なくされた。日露戦争である。当時世界最大最強の陸軍国ロシアの前面に敢て立ちはだかるということがいかに冒険であるかは世界中が聳目するところであり、斉しく日本に同情を寄せた。世界史上、これほど悲壮な防衛戦が他にあったであろうか。しかるに、この実態をも忘れて、今になってこの日露戦争を日本の侵略戦争だったなどというものがある。何という悪意の囈語か。


     かくて日本は辛勝し、多量の生霊の犠牲において一応ロシアの南下を喰い止めることができた。東清鉄道の南半は南満洲鉄道となって沿線一帯の治安はわが関東軍が受持つこととなった。

     ひとたび満洲の治安と秩序が整いはじめると、まるで堰を切ったように、どっと雪崩れ込んで来たものは、山東および河北方面からの窮民であった。日本が進出するまでの満洲の全人口は、満洲族を主として精立一百万に過ぎなかった。それが後に満洲国建設時には三千万にも膨れ上ったのはシナ本土からの移民殺到によるもので、朝鮮人移民も相当の数に上ったが、日本からの移住者はわずかに百万を数えるだけであった。日本の進出、すなわち日本車の治安保持が、どれだけ中国本土に恩恵をもたらしたかは、この一事によっても明らかである。中国本土の窮民飢民からすれば、満洲は「王道楽土」だったわけである。


     もし仮りに、目本の進出がなかったとすれば、満韓はいうに及ばず中国本土自体がロシアの飽くなき侵略の犠牲とされて、現在ある歴史も地図も大きく変ったものになっているだろうことは、想像にあまりありといわなくてはならない。


     その頃、関東軍管轄以外の満洲は、奥地に行くほど馬賊の跳梁甚だしく、住民は掠奪を恐れるあまり、壁の一部をこわしてその中に大事な物を塗り込んで隠すという有様だった。また当時、満洲と蒙古とは、どこからどこまでという境界絆かおるわけではなく、満洲族、蒙古族、そして移住漢民族、白系ロシア人、朝鮮人、日本人が遊牧民のごとく境を分たずに雑居していた。


     蒋介石軍の北伐によって中国本土は統一へ歩みを進めたものの、軍閥割拠は依然としてつづき、関外に中央の威令が及ぶことはなかった。この無政府状態で満蒙全域の住民はその堵に安んずることはできない。そこで一つの統治形態の樹立、か必要になって来た。すなわち、五つの人種が協和して新秩序を建設すべく国づくりが構想されるに至った。それには本来の満洲宗主である宣統廃帝を皇帝に推戴することが最も適切と考えられた結果、ここに満洲国誕生となった次第である。五族協和、平和の理想国、王道楽土のキャンペーンが高く掲げられた。もちろん、それは関東車の治安能力を核心としてのみ可能だったのである。


     固より、中国に儼然たる中央政権、か確立しており、ロシアの南下勢力を排撃するほどの力を待ち、国家としての統治能力に間然するところ、かなかったならば話は別である。現実にそれが皆無だった以上、満洲は満洲のために最善の道を選ぶしか方法はなかったのである。


    満洲国出現後、これをもって日本に「侵略」の熔印を捺したものは国際連盟のリットン報告である。日本人にとって屈辱極まりないこの文書にさえ、その中には、日本の苦心努力によって満洲が開発されたこと日本軍によってよく治安が保持されて来たことだけはいみじくも明記しているのである。


     歴史は、経緯を抜きにして論断すべきものではない。今日、中国は至極簡単に、日本が中国の東北地域を侵略したといっているが、それがいかに事実に即せざる妄断であるかは、以上の記述によっても明らかであろう。


     事、満洲に限らず、たとえば台湾について中国は「神聖な固有領土」を連唱しているが、過去の歴史で、いつ中国が台湾を「神聖な領土」扱いした事実があるか。あるなら教えてもらいたい。古来台湾は台湾、中国は中国だった。かつて台湾がオランダに占領されていたとき、中国は何をしたか。琉球人が台湾人に虐殺され、日本から大久保利通が出向いて抗議した際、「化外の地」として中国政府は一蹴し去っている。その後台湾は日本領となって開発、発展した。そして現在の台湾がある。台湾が今日まで中国の神聖な領土として発展して来て居らぬことだけは確かである。


     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    三輪山の登拝

    P1150389
    大神神社の入り口(階段のぼればそこに拝殿があります)
    P1150381

    狭井神社の鳥居前
    P1150387

    大神神社の本殿の様子
    P1150378

    三輪山登山口(鈴の襷をかけて登ります)

    昨日は三輪山の登拝出来ます、平成25年の最初の日です。
    その登頂の為に大神神社に行ってきました。
    車の為大変混雑していました。
    自宅を11時に出発したのですが、着いたのが午後1時40分でした。その為2時には閉門となります。

    この山は三島由紀夫も登頂した山として有名であります。ただ今回も裸足は失礼ながら止めました。

    裸足の辛さは経験しましたが、約1か月足裏に豆のようなものが残りました。ただ、また裸足で挑戦はしたい。
    昨日は急いで登りました。
    新鮮な神体山ですので、登山される人は多いです。下山時は混雑していました。登りは約25分で下山は15分で磐座ではしっかりと参拝しました。
    往復で約50分で済ませました。
    通常は約2時間はかかります。467mの山です。

    その後に箸墓として有名な第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみこと おおいちのはか)です。

    あの卑弥呼の墓として一般では有名でありますが、私はそうした学者が論ずる天皇の御名前を隠そうとする魂胆には辟易しています。

    それならば、不確定な「魏志倭人伝」などまともな根拠など少ないのに何故確定していないのに信じるのかであります。
    今回参拝した崇神天皇陵などを行燈山古墳と呼ぶのかであろう。歴史とか軽々と叫ぶが江戸時代の文久修復などは有名だが、陵墓を参拝するときによく感じるのが、その地域でその村民などがその陵墓を大切に守ったという歴史があります。確かに不確定な陵墓もあるのも事実ですが、それならば反対にそういう反対している考古学者に問う。

    貴方の先祖代々の墓は間違いなくその墓が貴方の祖先の墓であることを証明できますか?
    寺などの家系図など信用できないものなど沢山あります。

    それを別の名前にしてもいいのかどうかであります。
    信用出来ないから名前を変えるなど可笑しい。

    私は擬陵という言葉は非常に日本的であると思っている。

     現在定められている天皇陵がすべて正しくその天皇が埋葬されている場所というわけではないが、その点に関しては、「擬陵(ぎりょう)」という考え方を安徳天皇陵・長慶天皇陵の章で紹介している。すなわち、「稜になぞらえる」ということである。遺物が埋葬されていなくても、御陵として決められていれば、「皇霊を安んじ奉り御追遠(ついえん)奉仕に万全を期し得る」というのである(p160)。祖先祭祀という面から、どうしても祀る場所が必要なのである。

    倭迹迹日百襲姫命の大市墓の詳述は後ほどとします。

    さて倭迹迹日百襲姫命の墓に参拝した後は「ホケノ山古墳」に初めて参拝しました。詳述は後ほどにします。
    その後景行天皇の陵と陪冢と景崇神天皇の陵と陪冢を参拝しました。詳述します。
    最後の崇神天皇陵では鴨であろうか写真のフラシュに驚いたのかわからないが、空中で鴨の飛行で接触があり、ドンという激しい音で一羽の鴨が羽を痛め、アンド山陵域内陪冢に墜落しました。生きているようでしたが、かなりの衝撃であったようです。暗がりで見えにくかったのですが、空中接触で鳥が落ちるのは二回目です。

    P1150465
    狭井神社で販売されています「御神水」です。この狭井神社は酒の神様としても有名です。

    P1150397
    東側から大市墓を写しました。

    P1150399
    大市墓から三輪山を撮りました。
    P1150390
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    P1150398



    正月二日目

    正月二日目には宝蔵神社へと参拝した。
    着くのが遅かったため、最初に錬成道場の地下食堂へと行った。

    正月の雑煮の接待はこの地下食堂のみとなったのは寂しい。

    信徒数の激減により、今まで溢れ返っていたいた宇治別格本山は閑散としている。ここまで信徒数の激減は驚くばかりである。

    聖使命など什一会員や護持会員では人数は減っているのは顕著であるが、ここ数年の信徒数の激減はこうした宇治での参拝者数でも明らかです。

    だからこそ、外での雑煮接待を中止したのでしょう。

    やむ得ないとはいえ、寂しい限りである。

    さて、その後京阪宇治駅から近い場所にある。宇治天皇の陵墓に参拝した。宇治天皇とは
    菟道稚郎子です。
    楠本加美野先生が講和でよく話された天皇です。

    この陵墓は京阪電鉄からの車窓から見えます。

    まあ、生長の家の人はほとんど参拝されたことがないと思います。天皇信仰とかいっていても、仰慕をされているのか不思議です。

    さてこの莵道稚郎子の御陵には小さな陪冢があります。そこも参拝させていただきました。


    さて、そこから京阪の八幡市駅(やわたしえき)に下車して、その小さな山がありますが、男山と呼んでいます。
    そこは石清水八幡宮があります。
    5時30分頃に着いたのですが、辺りは仄暗く、今まで賑わっていたのであろうか屋台が所々,開店している。

    私はここのケ-ブルには乗ったことはなく、石段を歩いて山の上まで行く。

    この石清水八幡宮は清和天皇の由緒ある神社です。

    平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました。

    天慶2(939)年に起こった平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷よりご請願があり八幡大神様の御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の御崇敬は益々厚いものとなり、 天皇の行幸や上皇の御幸は、円融天皇(第64代)の行幸以来、実に240余度にも及び、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟とも称されました。

    明治の初めには官幣大社に列せられ、「男山八幡宮」と改称されましたが、「石清水」の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と改称され現在に至ります。

    私はこの神社は国家鎮護のため昭和天皇や歴代の天皇は勅使を派遣され、行幸には度々訪問されておられます。
    国難になればこの石清水八幡宮に詣でるのが歴代天皇の役目となっています。

    いはし水 きよき心に 住むときく 神のちかひは 猶もたのもし
    後嵯峨院


    〝やわたのはちまんさん〟と親しまれる石(いわ)清水(しみず)八幡宮は、京都の西南、桂川・宇治川・木津川の合流する所、男山にご鎮座されている。 平安京が造営された後、貞観元年(八五九)、都が騒然となってきた際、弘法大師の弟子であった行(ぎょう)教(きょう)律師が豊前国(現・大分県)宇佐宮に籠り日夜祈りを捧げたところ、八幡大神の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」とのご託宣を賜り、その翌年、清和天皇の命により社殿を建立したのが石清水八幡宮の起源である。

    ご祭神として、ご本殿中央に応神天皇・西に比咩(ひめ)大神・東に神功皇后がお祀りされており、この三座の神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)と申し上げている。

    天慶二年(九三九)に起こった平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷よりご請願があり、八幡大神のご神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として朝廷のご崇敬は益々篤いものとなっていった。歴史的に有名なのは、元寇に際して亀山上皇が参詣されて、御自ら山上の本殿において「敵国降伏」を祈願されたこと。また幕末には、「ペリー来航」に伴い、攘夷か開国か、勤皇か佐幕かで、日本が大いに揺れ動いた時期に、孝明天皇は、文久三年(一八六三)四月十一日、後村上天皇以来実に五百十一年ぶりに、「文久の石清水行幸」を決行され「国難打開の祈り」を捧げられた。このように八幡大神は基本的に国家の難事、国民の危機に強い守護をされる神様とされ、皇室のご参拝は実に二四〇余度に及んでおり、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟とも称されている。

    日本三大勅祭(葵祭・春日祭)として知られる石清水祭は、八幡大神が男山の裾を流れる放生川のほとりにお臨みになり、生ける魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う儀式として始まったもので、後には天皇より、毎年勅使が遣わされ国家の安寧と国民の幸福を祈誓せられるようになった。 今年も祭典は、九月十五日午前二時、山上・ご本殿にて御(ご)鳳輦(ほうれん)(神輿)に神霊を奉遷する儀式より始まり、総勢五百人余りの神人(じにん)と呼ばれるお供を従え、暗闇の中を提灯や松明の灯りだけで山麓の頓宮へとお下りになる。

    石清水八幡宮史・日本人として知っておきたい皇室のこと 他より


    因みに石清水八幡宮が有名なのがもう一つあります。
    それはエジソンが電球のフィラメントを探していた時にこの男山の真竹を見つけ、それを使用したという話です。


    残念ですが石清水八幡宮は夕暮れでしたので写真を撮りませんでした。
    P1150367
    P1150369
    P1150371
    P1150370
    下図の二枚は陪冢です。住宅の前にあります。
    P1150373
    陪冢い号 伝賀陽豊年墓 正式な名前として政令があります。通常は陪冢い号

    P1150374

    初詣へ産土神社

    元日の日に垂水神社に参拝した。垂水神社は由緒ある。式内社の古くからの神社であり、あの万葉集にも三首掲載されています。


    石走いわばしる 垂水の上の さ蕨の 萌えいづる春に なりにけるかも
    志貴皇子 巻8-1418


    石走る 垂水の水の 愛しきやし 君に恋ふらく わがこころから
    作者不詳 巻12-3025


    命をし 幸
    さきくよけむと 石走る 垂水の水を むすびて飲みつ
    作者不詳 巻7-1142


    ただこの三首が全て吹田の垂水神社で詠われた疑問もあります。それは神戸市垂水区にもこの歌碑が建立されています。この垂水にも滝の茶屋駅というところがあり、今も滝が流れている。

    別にその根拠を論うことは避けたい。


    ただ気になるのは、垂水神社にある歌碑である。

    「いははしる たるみのおかの さわらびの もえいつるはるに なりにけるかも」

    濁音とかの問題ではない、垂水の丘である。原文では

    石激 垂見之上乃左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

    とある。

    丘と呼べる歌が万葉集にあるのは


    藤原夫人の和(こた)へ奉れる歌一首

    わが岡のおかみに言ひて落(ふ)らしめし雪のくだけし其処に散りけむ



    この句は天武天皇に答えた句であるのですが、岡という言葉が広い範囲で使用されている。

    原文は

    吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武


    もう一つは

    明日香川(あすかがは)、行(ゆ)き廻(み)る岡の、秋萩(あきはぎ)は、今日(けふ)降るに、散りか過ぎなむ


    その原文は

    明日香河逝廻丘之 秋芽子者 今日零雨尓 落香過奈牟


    更に岡を使用した万葉集の最初の長歌として有名な雄略天皇の歌があります。


    篭(こ)もよ み篭持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この岡(をか)に 菜(な)摘(つ)ます子(こ)家(いへ)聞かな 告(の)らさね そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて 我(わ)れこそ居(を)れ しきなべて 我れこそ座(ま)せ 我れこそば 告らめ 家をも名(な)をも

    雄略天皇・巻一・1


    この歌は奈良県桜井市柏瀬朝倉の地で詠まれたとされています。そこには保田與重郎の石碑があります。

    原文は

    籠毛與美籠母乳 布久思毛與 美夫君志持 此岳尓 菜採須兒 家吉閑名 告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座 我許背齒 告目 家呼毛名雄母


    大らかな詩であろうか訳すと

    良いかごを持って、良い串を持って、この丘で菜(な)を摘むお嬢さん。君の家はどこかな、教えてくれないかな。私は大和の国を治めているものです。だから私には教えてくれるでしょうね、君の家も君の名前も。


    それ以外には恋を詠った


    「降る雪はあはにな降りそ 吉隠の 猪養の岡の 寒からまくに」

    (万葉集巻2-203・穂積皇子)

    穂積皇子とは天武天皇の第五皇子です。

    吉隠とは長谷寺(奈良)の西側にあたる地域を指します。


    ここでも、岡というのは少し平原があり、高台のような場所を指しています。

    今までの句はそうした広い平野を指す言葉として岡という言葉が使用されています。


    最初に話を戻しますが、

    垂水の丘という言葉は現地の土地からみて馴染めない。

    だが、昔から基岡とこの山が呼ばれていた、千里山と記入があるが畝続きとなっていたのであろうか、千里の丘全般をさしているのであろうか、現在では住宅開発のため土地は平坦となったのであろうか、鎮守の山としてはそれ程水量が出るとも思わないが、垂水神社の由緒書には


    神崎川・淀川が古来難波と呼ばれていたこの地を西に流れて茅渟の海にそそぎこむ、 その北岸に鎮座する垂水神社は、七世紀のはじめの起源を今日に伝えている。「新撰姓氏録」は、この地に勢力を持っていた阿利真公が大化の改新頃の旱魃のおり 、垂水基岡(千里山)から湧き出る水を、当時の難波長柄豊崎宮に送り、その功をた たえられ、垂水公の姓を賜るとともに、垂水神社を創祀したという。


     いははしる垂水の上のさわらびのもえいずる春になりにけるかも(万葉集・志貴皇 子)と、万葉集にも詠まれた神水が涸れることなく、今も一千数百年の時を越えて垂水の滝として流れ続けている。

     
    社伝によると、豊城入彦命は、崇神天皇の第一皇子でありながら、弟の垂仁天皇に皇 位を譲り東国開発の旅に出た。のちに四道将軍の一人に数えられる豊城入彦命が、第一歩を記したのがこの垂水の地であり、子孫が神として祭り社を阿利真公とその末裔 に伝えたという。なお、境内には弥生時代の住居址が確認されており、水にたいする 信仰はかなり古くからあったものと思われる。その後は、祈雨の神として朝廷をはじめ広く信仰をあつめ、平城天皇の頃に封戸の寄進をうけて以来、平安時代には、勲八 等従五位下から従四位下まで、祈雨のたびに神階を進めた。延喜式(九〇七年)制に おいては、名神大の社に列せられている。また、大嘗祭にさきがけて行われたといわれる八十嶋祭において、朝廷より奉幣と祭料布を下賜されたといい、これを証明するように神崎川畔から古鏡が発見されている。また垂水の地には、最近まで律令制のなごりを伝える条里の遺構も見受けられた。


    やがて、古代から中世の荘園の時代には、当社を含む垂水荘は、豊かな農耕の地ゆえ に東寺や春日大社などの有力社寺の有力権争いの対象となっていた。 近世にあっては、社寺の衰えという時代の情勢を越えて、熱心な信者に支えられ、天和三年(一六 八三)に社殿を改築し、朝廷から十六弁の菊を神紋として使用することが認められて いる。
    明治以後郷社となり、昭和四十九年(一九七四)、衰えることなき 氏子崇敬者の熱意で造営奉賛委員会が組織され、今日の本殿・幣殿・拝殿を完成奉仕 するに至った。

    かつての水がコンコンと湧き出でる様子は全くないが、その様式は素晴らしいものがあります。

    P1150303

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    十一面観音像-1

    十一面観音像について書きます。
    私は様々な十一面観音像を見ました。あの葛井寺の十一面千手観音像は圧倒的な迫力があり、見る人全てを魅了します。
    また、長谷寺の十一面観音像はその大きさに圧倒されます。衆生救済の為に我が身を捧げて助け給う十一面観音の慈悲に縋りたい気持ちが出てくるのも当然かもしれません。
    また、聖林寺の十一面観音像の美しさは見たものが硬直するような感覚があります。
    また道明寺の十一面観音像はやさしさ溢れた観音像であります。
    また室生寺の十一面観音像は丸みを帯びた、より人間に近い存在としてその観音像があります。

    六波羅蜜寺は何回か行きましたが、秘仏のためになかなか見る機会がありません。(12年に一回の開帳)
    法華寺の十一面観音像は光明皇后をモデルとされており、その妖艶な姿には驚きます。
    日本に国宝として十一面観音像が葛井寺以外は国宝です。それ以外に滋賀の向源寺と京都の観音寺はまだ行ったことがありませんが、それ以外に法隆寺に2体の国宝があります。(法隆寺の国宝は何回か見ました。
    法隆寺は国宝の宝庫のような寺ですから、どれが国宝か忘れてしまいます。

    このように7体の国宝が全て関西圏にあります。だから関東に住まわれている人には十一面観音像といってもなかなか馴染みがないのも当然かもしれません。私はその十一面観音像の集大成の祀りが「お水取り」と思っています。十一面観音像の障罪を懺悔し、それを供養する祀りです。
    松明をかかげ、二月堂で火の粉を飛ばす勇壮なまつりのように思いますが、そこは「お水」という慈悲の姿があの「十一面観音像」の水瓶になって表れています。

    左翼思想の宗教総裁

    2013年12月31日 (火)

    本年を振り返って

    さて、谷口雅春先生とは真逆な思想である。
    そこで、この雅宣総裁というのは自然崇拝であるのか?
    自然とは時には人を慰め、時には人を脅威に与えるものである。
    私は人より自然を謳歌しているが、自然の恐ろしさもまじかに見ている。

    普通では考えられない脅威が起こってくることもしばしばあります。

    大きな大木を破壊し、雪崩や氾濫を起こし、人の命を奪うことがあります。あの東日本大震災も自然の驚異である。

    そんな自然など来てほしくないのは当然であろう。
    それだけではない、この私の住んでいる間近でもい水害が起こっている。しかも吹田市は水災害に備えて水を蓄える貯蔵所のようなものを地下に製作していたのにも係わらず、それを超える災害が起こった。

    想定外などと簡単にいうが、自然というのは想定出来ない。

    日本では昔からそうした深い山には住まないことにしていたのです。
    そこには神としての山があり、今でも多くの山の麓には神社が建立され、神社がなくても小さな祠があるところが多い。それは「山」や「森」は神住む所であり、決して人間が足を踏んではいけない場所でもあった所が多い。

    山の神や海の神や石の神など様々な神が日本には存在しています。それを祀るのが「日本の祭り」です。
    自然の恵みとその反対に自然の驚異を鎮めるのがその神社の役割であります。
    私はそうした自然を人と対峙させるのは唯物思想そのままではないかと思っている。自然とはそのように脅威を醸し出すようなものが「信仰」の対象であるのか不思議な感覚を持っている。

    例えば「山」を信仰する場合、その祖霊などを祀り、畏敬の念としての「山」でなければならない。
    それが全く除外して何が自然かわからない。
    そうした雅宣思想は唯物思想を根拠としている場合が多いことを知って頂きたい。
    そうした思想は危険な思想と断言してもいい。

    今回のブログは「大東亜戦争」を侵略戦争として断言し、大東亜戦争で逝った尊い命を単なるA級という言葉だけで断罪し、なんら左翼の信条と変わらない思想の持主であることがわかります。

    そうした「八ケ岳」教団としての思想は大変危険だと知らなければいけません。
    その危険というのは「無知」であるからであります。
    その人達がどのような行為でA級と断罪されたのか知らないで、しかも事後法の間違った思想そのものである、東京裁判を肯定しているのでありますから、これほど醜いものはない。



    第3次小泉内閣下において民主党野田佳彦国会対策委員長は「『A級戦犯』と呼ばれた人たちは戦争犯罪人ではないのであって、戦争犯罪人が合祀されていることを理由に内閣総理大臣の靖国神社参拝に反対する論理はすでに破綻していると解釈できる」とし、「戦犯」の名誉回復および極東国際軍事裁判に対する政府の見解と内閣総理大臣の靖国神社参拝について質問を行った。これに対して2005年10月25日に提出した答弁書において、政府は第二次大戦後極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷が科した各級の罪により戦争犯罪人とされた(A級戦犯を含む)軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」とした一方で、戦犯の名誉回復については「名誉」及び「回復」の内容が必ずしも明らかではないとして、判断を避けた。。首相の靖国神社参拝に関しては公式参拝であっても、「宗教上の目的によるものでないことが外観上も明らかである場合には、日本国憲法第20条第3項(国の宗教的活動禁止)に抵触しない」との見解を示した。

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