ここ数年間「生長の家」の衰退は砂上の楼閣のように崩れている。
何故そのようになるのであろうか?
私は復興G様の書いている文章にどうしてもひかかってならない。
例えば、決めつけるような言葉を出しながら、人類兄弟というようになっていく。
それは下記の文章である。
>>3402 :曳馬野さん
私は “本流派” ではありません。
<< もう既にすべての人類が悟っている、それが実相であるのであります。>>
だから、
>>教団を現象悪の権化のように見る<<
ことはしておりません。
また、
“本流派” を悪現象の権化とも見ません。
>>3392で ユタカ様が
<< ハッ!!
夢か!! 夢だ! 夢だったんだ!!!
汝らの先づ悟らざるべからざる真理は、
『我』の本体がすべて神なることなり、
汝ら億兆の個霊も、
悉くこれ唯一神霊の反映なることを知れ。
喩へば此処に一個の物体の周囲に百萬の鏡を按きて
これに相対せしむれば一個もまた百萬をの姿を現ぜん。
斯くの如く汝らの個霊も
甲乙相分れ、丙丁互に相異る相を現ずるとも
悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば
これを汝ら互いに兄弟なりという。
生長の家が分裂しているように見えるのは夢だ!! 夢だ!!夢だった!!
異なる姿をしていても全て谷口雅春先生の生長の家だ!
みんな兄弟だった! どこに所属していてもそこが生長の家だった。
外形に捉はるること勿れ。
分かち難く一体なる事を知り、
おのづから愛と賛嘆の心湧き起こらん。
そうか!!!! そうだったんだ~~~~~!!!!
復興Gさま、 卒業試験の問題を解答できたような気分です。それか、長い悪夢からの覚醒。?? >>
――と書いて下さったように、
また a hope さまが >>3395で 「生命の實相」 第39巻 佛教篇 P41~から謹写引用してくださったように、
<<…悟ってみれば、天地間のものことごとくが生かし合いならざるものはない、実にありがたい世界だったのであります。
すべてのもの一つ一つに仏の命が現れている、仏の慈悲が現れている、神のいのちが現れている、神の愛が現れていることが悟れるのです。
神の生命(いのち)が現われ、仏のいのちが現われているからこそすべてのものが互いに愛し合い生かし合っているのです。
今まで殺し合いだと思っていた世界は神の、仏の、無限の生命(いのち)、愛、智慧に満たされているところの立派な世界だったのです。
互に憎しみ合い争い合っていると見えた生命(いのち)も、その敵と見えたものは、自分にとっては自分をみがく砥石であってわれわれの生命(いのち)がだんだん砥石にかけられて、いっそう立派な霊性が啓(ひら)かれてゆくために仕組まれている仏の慈愛、神の愛の現れだったのです。
天地間、ありとあらゆるもの、生きとし生けるもの、みんなこうして愛し合っている者はもちろん、憎しみ合っているかのごとく見えている者同志さえも生かし合っている世界なのです。
みんな愛し合いの世界なのです。
みんな解け合いの世界なのです。
そういうことが釈迦に解ってきたのであります。
そこで釈迦は、十二月八日の暁(あけ)の明星を見ながら、「「有情非情同時成道、山川草木土悉皆成仏」と悟られたのであります。
すなわち「有情」――生きとし生けるもの、「非情」」――ありとしあらゆるもの、悉く今仏になっている。
山も川も草も木も悉く仏の姿である。
みんな生かし合い、拝みあいの相(すがた)である。
今まで地獄の相(すがた)だと思っておったのはまちがいだったとお悟りになったのであります。
これが釈迦のお悟りになった縦の真理であります。>>
――と、そういう世界がすでに実在することのみを、ただひたすら観じております。
ありがとうございます!
>>教団を現象悪の権化のように見る<<
ことはしておりません。】
何故、そのようにして対比させるような文章となるのか、「現象悪の権化」などは本流派には無いとわざわざと断わるような文章がそうである。
それでは何故、雅春先生の教えが隠れてしまうのであろうか?
そこを真剣に復興G様は答えていないからであろうか。
そうした現象には光を当てれば自ずから消え去るのであろうが、現象というのは認めては為らないのかであろう。
もし、現象が歪んでいれば、それを正統に歪みを正すのが「生長の家」ではないのか?
生長の家が分裂しているのは、現象世界では夢でもなんでもない。それを夢と否定していても、現象は正常化には程遠いであろう。まさに「生長の家」は分裂しているのである。
認めようが認めないようが現象世界では分裂しているのです。現象を如何に正していくのも「生長の家」の信仰として重要である。
それならば、自然環境と雅宣総裁は説いているが、これは現象世界だからやらなくてもいいとなります。
現象世界を何故、正していこうとするのでしょうか?
「貴方の心」が現象にひかかっているから、ダメであると言われそうであるが、それはどうであろうか。
祈りは大切であるが、それに伴う「行」も大切である。
家の前がゴミが溜まっていれば、「祈る」のであろうか。私は掃除をします。
それが「生長の家」だと思います。人知れずに善行を積むような人は素晴らしいと思います。
例え信仰を持っていなくても、そうしたことを行ずるような人は素晴らしい。
だから、「生長の家」が分裂しているような原因を探れば、自然とわかるような気がします。それを正していくのが生長の家が分裂を防ぐ「第一」のものであります。
復興G様は長いこと「生長の家」の組織内で重要な職責をなされていた人物だと思っています。
だからこそ、見えないものがあるような気がしてなりません。
私のように社会の醜い組織や人々の争いなど垣間見るような所に住んでいなければ、そうした現象に対処していくことが復興G様には現段階では難しいであろう。
しかし、悪を認めることはできる限り避けるようにしています。しかし、多くの人は心底信じなければ、友達も出来ません。
そうした、現象と実相の混在したなかで如何にして対峙しなければならないのかを真剣に考えていかなければならない。
そのためには、批判と見えることもしていかなければなりません。雅春先生が日の丸か赤旗かで徹底した論戦に挑まれたのを真摯にかんがえていかなければならない。