則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2013年11月

讀んで戴ければ幸甚です。

『人生は心で支配せよ』

昨日、ある古本屋で随分古めかしく痛んだ谷口雅春先生の著書『人生は心で支配せよ』昭和151120日発行の本です。手に入れた本は4版であり、函もない。既に5冊程所有しています。(今年谷口雅春先生の戦前本は20冊購入。本当に安く手に入れています。)

 

さて、戦前のこの時期においては沢山売れた本です。下記にその“はしがき“を記入したが『如何にせば運命を支配し得るか』は拾版を重ねて出版された、その当時ではよく売れた本です。この本は私も四冊程所有しているので、いろんな人が購入したことが推測できます。

この本の出版される少し前に雑誌『心霊研究』にご投稿されている。大正1311月号と11月号であるが、『如何にせば運命を支配し得る乎』。その後も続刊されていたかは不明です。だが『如何にせば運命を支配し得るか』は大正14610日発刊であるから、出版されていたことが考えられる。

さて生長の家の神想観はホ-ムズの黙念法が基本となっている。そこから唯心所現の世界への祈念する方法が現れたのが「神想観」である。光明思想の出現は如何にして現れてかがこの文章で明らかにされている。

 

はしがき

本書は私の神想観入門である。一日に一種の黙念法を行ひ、三十日で大体その初歩的実修が完了し得るやうになってゐるところに特長がある

 私が『新佛教の発見』に於て這べたやうな思想的過程で発見したところの佛教的真理―人間は本来自己内在の大自在・大円覚を有すと云ふ真理―は、関東大震火災当時の私に於てはまだ理念の大自在に過ぎないのであった。その大自在を理念より現実に成就する道はまだ私に発見せられてゐなかった。釈迦は法華経に於て入間本来すべて仏子であることを説いたが、観普賢菩薩行法経に於て、人間本来の仏性を実現する方法を説いた。私も観普賢菩薩行法経を読んで見たが、『端坐して実相を想へ]と書いてあるけれども、本当に如何に端坐し如何に念ずるかゞハツキリ解らなかった。その頃、恰も私は関東大震火災に遭っったのが動機で、私は郷里神戸に帰ったのである。そして神戸で私は私の自伝『超宗教を建つるまで』に記載してあるやうな径路で、フエンウイック・ホームズ著の“The Law of Mind in Action”なる書を獲る機会に接したのである。後者は唯今『新百事如意』なる題で私の訳補書が出てゐる。

 

 ホームズの“The Law of Mind in Action”を得て読んだとき、別著『新仏教の発見』に於て私が到達してゐた人問内在の大自在―本来の仏性を現実に成就する道に一つの行法を暗示されたのである。あるところの『大自在性』に転ぜしむる行法を発見せしめられたのである。と同時に、ホ-ムズの思想はクリスチャン・サイエンスやニュ-・ソ-トの流れを汲むものであったが故に、爰にはからずも仏教と基督教とを一つに一致せしめる道に大いなる示唆を得た。此の書は全く私にとつての普賢菩薩行法教の役目を果してくれたのである。大自在の『知』が『行』に成る契機が茲に与へられたのである。

 その当時、この書を得た私は悦びに満たされて翻訳し始めた。やがてそれは『如何にせば運命を支配し得るか』と題して実業之日本社から出版して貰った。それは謂はゞ私自身の運命革新書であつたのである。其の書は相当好評を博して当時拾版ばかり重版したが、其の後思索が進んで来た私には意に満たぬところがあるので、爾来絶版にしてしまつたのである。もうそれは約十八年前のことである。その後も私の思想は進歩し、向上し、今日に到達した。   ・

 

 最近此の書をもう一度出版して欲しいと云ふ要求が諸方にある。眼を通して見ると、現在の私の心境からは、以前の文章の儘では到底出版する勇気がない。現在の生長の家の思想には劣る点や、相異する点が眼に着く。『「悪」も「病気」も、一切は唯心所現であるから、現れてゐろ限りは存在する』と云つたやうな、アルとアラハレとの重大な混同をホームズがしてゐるのも気になるのである。筆を入れ出したら限りがない程である。私は以前の版を真黒に活字が見えなくなるほど筆を入れてしまったのである。以前の版を有ってゐられる人は対照して見られゝば、どんなに変ってゐるかゞはっきり判る。

 斯うなれば、もう翻訳とは称(い)へない。訳補と云ふ程度さへ超えてしまった。全然新たに書き卸したと云っても好い位である。と云って元来ホームズの著作に筆を入れ光明思想を伝へようとしたのであるから叙述の順序はホームズの儘である。叉其の順序は巧妙である。一ケ月を三十日に分けて毎日異なる言葉を思念する行法―ホームズの行法の順序は大変面白いと思ふ。私も現在の神想観を始めるまでは、大体このホームズの行法によって思念法を行ひ、神の叡智を流入せしむろことによって、私の性格は明るくなり、自由自在性が加はり、私の運命は暗黒から光明に転回して来たのてある。

 

本書に掲げたる黙念の言葉は、順序はホームズの行法に順って一ケ月三十章に分ってあるが、内容は私が実際やって見た結果、原著の黙念の言葉に洗練に洗練を加へて今日のものに達したのである。ホームズ行法と云っても好いが、原著とは随分改められてゐるから、今は一層有名になってゐる『神想観』になる名称でこの思念法を呼ぶことにしたのである。

 

 佛教、キリスト教、クリスチャン・サイエンス、ニュー・ソート等が生長の家の『生命の實相』哲學と如何なる関係にあり、日本に於て夫れが何故成就しなければならなかったか、そしてそれが世界史上如何なる位置を占むべきものであるかに就ての文献は、拙著『人生必ず勝つ』の第一章に掲げて置いたから併読せられゝば其の点はハツキリして来るだらうと思ふ。

 

 諸君が本書によって人生に勝者となり、一肩の幸福を得られんことを念願して世に送るものである。

 

  皇紀二千六百年明治節の佳き日に

                                著者職

 

内務省警保局 『社会運動の状況』-2

「生長の家」現勢一覧表

本部   東京市赤坂區檜町4(昭101102

開教 昭和53

  於兵庫県武庫郡住吉村

教信徒数  21743

生長の家 (光明思想普及会)

総  裁      谷口雅春

顧  問      野村義隆

理事長       辻村楠造

総務部長     清都理明

企画部長     秋田重孝

編集部長     岡田昇

婦人部長     松本恒子

光明普及会会長 服部仁郎

家庭光明寮主事 瀧内孝綱

 

北海道   札幌支部                ‥昭11711 ―荒井 豊  ‥170

      名寄支部          ‥昭111120―斎藤佐又郎 ‥15

      帯広支部          ‥昭111025―宮本政好  ‥20

      函館誌友相愛会連合会    ‥昭050327―高橋祥介  ‥400

      函館誌友相愛会杉並支部   ‥昭050327―清都理之  ‥120

            函館誌友相愛会曙 支部   ‥昭050327―大塚三平  ‥60

            函館誌友相愛会新川支部   ‥昭050327―堀尾繁太郎 ‥80

      函館誌友相愛会蓬莱支部   ‥昭050327―後藤邦治  ‥50

       留萌誌友相愛会      ‥昭050304―重泉正雄  ‥40

       旭川誌友相愛会      ‥昭110108―立川繁一  ‥20

       野付牛誌友相愛会     ‥昭1107  ―寿原常次郎 ‥30

       釧路支部         ‥昭100815―石黒キクノ ‥55

 

東京     神田・牛込・本郷・

       小石川連合誌友相愛会   ‥昭111116 ―難波停吉  ‥630

       牛込誌友相愛会      ‥昭100801 ―難波停吉  ‥50

       神田中央誌友相愛会    ‥昭110606 ―安田茂助  ‥5

       神田三埼町誌友相愛会   ‥昭100630―成島乙次  ‥50

       駿河台誌友相愛会     ‥昭101022 ―清水たけ  ‥30

       飯倉誌友相愛会      ‥昭110505 ―長谷部角次 ‥3

       小石川誌友相愛会     ‥昭110201 ―馬場原郎  ‥10

       小石川柳町誌友相愛会   ‥昭101225 ―平井寿一  ‥60

       小石川白山御殿町誌友相愛会‥昭100709 ―大居倉之助 ‥150

       青山誌友相愛会      ‥昭110620 ―古川賀庸  ‥

       芝 誌友相愛会      ‥昭1101   ―上条たか  ‥

       日本橋巽誌友相愛会    ‥昭091001 ―巽忠蔵   ‥200

       濱町誌友相愛会      ‥昭101001 ―五十嵐千年 ‥45

       寶町誌友相愛会      ‥昭101020 ―富井享三  ‥

       雷門誌友相愛会      ‥昭110401 ―山内喜一  ‥30

       厩橋誌友相愛会      ‥昭100829 ―海端善一  ‥30

       本所誌友相愛会      ‥昭101002 ―平澤潔   ‥56

       江東誌友相愛会      ‥昭101001 ―小西政治  ‥15

       大井誌友相愛会      ‥昭110211 ―白壁八重子 ‥18

       大井瀧王子誌友相愛会   ‥昭100705 ―伊佐義親  ‥12

       大森誌友相愛会      ‥昭100705 ―前田馨   ‥50

       蒲田誌友相愛会      ‥昭100403 ―大西種次郎 ‥250

       戸越誌友相愛会      ‥昭100705 ―坂野嘉雄  ‥15

       東洗足誌友相愛会     ‥昭100915 ―上西正太郎 ‥35

       荏原誌友相愛会      ‥昭101001 ―新田億一  ‥15

       若林誌友会        ‥昭110801 ―尾形亀五郎 ‥20

       世田ヶ谷誌友相愛会    ‥昭11     ―毎田寛二  ‥30

       中町誌友相愛会      ‥昭110310 ―山川安子  ‥50

       西落合誌友相愛会     ‥昭100725 ―栗原保介  ‥

       下落合5丁目誌友相愛会  ‥昭1103   ―宮沢清一郎 ‥

       下落合誌友相愛会     ‥昭100725 ―松村美智子 ‥10

       戸塚誌友相愛会      ‥昭100726 ―福田清   ‥15

       西池袋誌友相愛会     ‥昭100720 ―室井正夫  ‥3

       神宮誌友相愛会      ‥昭110511 ―村上義雄  ‥30

       板橋誌友相愛会      ‥昭101101 ―浅野サダコ ‥60

       城東誌友相愛会      ‥昭110301 ―吉池廣美  ‥30

       池上誌友相愛会      ‥昭100509 ―森 数馬  ‥52

       城西誌友相愛会      ‥昭110601 ―高橋直治  ‥430

       金町誌友相愛会      ‥昭1001   ―宮尾 秀  ‥10

       葛飾誌友相愛会      ‥昭1105   ―平松康子  ‥50

       八王子誌友相愛会     ‥昭100520 ―松村貞良  ‥200

       上目黒誌友相愛会     ‥昭100802 ―飯田ひろ  ‥10

   (重復)飯倉誌友相愛会      ‥昭110505 ―長谷部角次 ‥3

       瀧野川誌友相愛会     ‥昭111202 ―瀧内秀綱  ‥80

       麻布誌友相愛会      ‥昭100805 ―伊藤三郎  ‥120

       赤坂誌友相愛会      ‥昭100619 ―小澤純二  ‥118

 

京都     京都誌友相愛会本部    ‥昭090227 ―荒川清逸  ‥1500

       京都誌友相愛会衣笠支部  ‥昭0904   ―大江憲二  ‥50

       京都誌友相愛会東山支部  ‥昭1007   ―村田武三  ‥35

       京都誌友相愛会西大谷支部 ‥昭1007   ―澤田長四郎 ‥3

       京都誌友相愛会高辻支部  ‥昭1002   ―尾本輝三  ‥30

       京都誌友相愛会福知山支部 ‥昭101023 ―中川喜一郎 ‥110

       京都誌友相愛会綾部支部  ‥昭100715 ―大槻卯一郎 ‥35

       京都誌友相愛会木津支部  ‥昭100701 ―木村龍太郎 ‥10

       京都誌友相愛会下川口支部 ‥昭110516 ―須藤浅夫  ‥5

       北丹誌友相愛会      ‥昭100720 ―船戸正治  ‥8

       宮津誌友相愛会      ‥昭1110   ―生形三郎  ‥50

       新田辺誌友相愛会     ‥昭1106   ―中野彌次郎 ‥30

       京都誌友相愛会洛西支部  ‥昭111025 ―山田良恭  ‥30

 

神奈川    横浜誌友会連合会     ‥昭0908   ―高橋綏次郎 ‥150

       潮田誌友相愛会      ‥昭10     ―望月芳光  ‥35

       鎌倉誌友相愛会      ‥昭101008 ―橋口兼吉  ‥104

       大岡誌友相愛会      ‥昭100831 ―大沼定朝  ‥39

       誌友座談会        ‥昭110513 ―堀内艶子  ‥30

       小田原誌友相愛会     ‥昭101003 ―山本幸太郎 ‥36

       鶴見誌友相愛会      ‥昭090901 ―松田資満治 ‥90

       厨子誌友相愛会      ‥昭1010   ―岡畑トシ  ‥50

       保土ヶ谷誌友相愛会    ‥昭090801 ―高橋綏次郎 ‥47

       平塚誌友相愛会      ‥昭091010 ―谷口雅春  ‥30

       中央有志会        ‥昭110301 ―川北林吾  ‥40

       子安誌友相愛会      ‥昭100307 ―沖眞登平  ‥20

       白幡誌友相愛会      ‥昭110720 ―岩橋良三  ‥30

       高北誌友相愛会      ‥昭110501 ―田口丈輔  ‥48

       湯ヶ原誌友相愛会     ‥昭091212 ―中本才次郎 ‥5

       湯ヶ原誌友相愛会     ‥昭110615 ―神埼一郎  ‥25

       横浜誌友相愛会      ‥昭111108 ―橋伊與之助 ‥62

       野毛町誌友相愛会     ‥昭101101 ―杉本仁市  ‥1

       反町誌友相愛会      ‥昭1004   ―高田守保  ‥7

       帷子誌友相愛会      ‥昭0908   ―金先友太郎 ‥3

       藤沢誌友相愛会      ‥昭120124 ―朝比奈正一 ‥35

       伊勢原誌友相愛会     ‥昭111007 ―山田伊兵衛 ‥23

 

兵庫     西宮夙川誌友相愛会    ‥昭110618 ―山田兵一  ‥20

       西宮高潮誌友相愛会    ‥昭091130 ―木船金雄  ‥40

       西宮山中誌友相愛会    ‥昭090220 ―松沢 實  ‥35

       明石誌友相愛会      ‥昭1111   ―小倉藤吉  ‥50

       宝塚誌友相愛会      ‥昭110115 ―坂本嘉二郎 ‥20

       西宮津門誌友相愛会    ‥昭111008 ―矢野 勲  ‥15

       月見山誌友相愛会     ‥昭100101 ―木下五郎  ‥4

       権現誌友相愛会      ‥昭1007   ―貴島 昇  ‥10

       西宮今津誌友相愛会    ‥昭100305 ―坂井重義  ‥50

       誌友相愛会洲本支部    ‥昭111208 ―山畑安吉  ‥70

       光明思想普及会楠支部   ‥昭100829 ―山田乃二子 ‥30

       宍栗誌友相愛会      ‥昭1008   ―秋田 仁  ‥7

       塚口誌友相愛会      ‥昭101026 ―佐々木末吉 ‥21

       光明思想普及会寺池支部  ‥昭100915 ―馬場 敏  ‥20

       阪神間誌友会       ‥昭090301 ―井上喜久麿 ‥30

       西宮内座談会       ‥昭1110   ―松村千太郎 ‥17

       相愛会港区支部      ‥昭1001   ―眞下宣久  ‥40

       夢前誌友相愛会      ‥昭111113 ―大盬秀雄  ‥32

       姫路誌友会        ‥昭120314 ―井田竹治  ‥39

       光明思想普及会長田支部  ‥昭100915 ―米田勲司  ‥20

       光明思想普及会常盤支部  ‥昭100806 ―中澤正司  ‥15

       誌友相愛会三宮支部    ‥昭100829 ―三澤直次郎 ‥50

       誌友相愛会元町支部    ‥昭100829 ―山崎友二郎 ‥50

       誌友相愛会三二支部    ‥昭100829 ―坂東好章  ‥40

       上野誌友会        ‥昭1104   ―大畑覚雄  ‥ 4

       灘味泥誌友相愛会     ‥昭1104   ―藤尾 正  ‥40

       西宮川東誌友相愛会    ‥昭060817 ―龍本金太郎 ‥45

       加古川支部        ‥昭110110 ―永田 清  ‥35

       神戸教化部        ‥昭100829 ―戸澤淳吉  ‥1300

       住吉支部         ‥昭110210 ―松本秀樹  ‥

       龍野教化部        ‥昭0509   ―田平義勝  ‥30

       山東北部誌友相愛会    ‥昭110106 ―高尾喜代蔵 ‥50

       春日部支部        ‥昭101101   ―畑正義 ‥50

       生郷支部         ‥昭110620 ―谷口 晋  ‥15

       成松支部         ‥昭100915 ―富島亀治  ‥6

       光明思想普及会林田支部  ‥昭101210 ―亀井栄一  ‥

       光明思想普及会尼崎北支部 ‥昭100706 ―大塚邦松  ‥15

       光明思想普及会尼崎支部  ‥昭0909   ―杉江重誠  ‥15

       光明思想普及会小田支部  ‥昭100210 ―奥 小金吾 ‥20

       誌友相愛会        ‥昭100812 ―原 義一  ‥20

       光明思想普及会生長の家誌友会‥昭100820 ―新庄寛嗣 ‥17

       光明思想普及会生長の家誌友会‥昭1007   ―添田修二 ‥5

 

長崎     長崎支部                ‥昭100715 ―森 勝輝  ‥270

       生長の家          ‥昭110222―後藤 博  ‥16

       光明思想普及会佐世保支部  ‥昭101015 ―中村鐵六 ‥500

       壱岐誌友相愛会‥昭101002       ―津元仙舟   ‥11

 

新潟     誌友会                 ‥昭104   ―下 幸四郎 ‥7

       光明思想普及会村上支部     ‥昭117     ―山貝寅蔵  ‥23

       東蒲原支部(準)         ‥昭110708 ―小野里 國作‥11

       新潟支部                ‥昭1011   ―須賀田與八 ‥70

       相川支部                ‥昭1103   ―本田為之助 ‥42

 

埼玉     熊谷市誌友会              ‥昭110727 ―中澤保太  ‥13

       光明思想普及会浦和支部     ‥昭100401―伊藤 和  ‥14

       光明思想普及会杉戸支部     ‥昭100921 ―大木サク  ‥9

       光明思想普及会杉戸支部     ‥昭110310 ―猪俣 博  ‥9

 

群馬     総社支部                ‥昭0909   ―福島 博  ‥30

         高崎支部                ‥昭0909   ―相川はま  ‥

       館林誌友相愛会             ‥昭0909   ―川田あい  ‥29

 

千葉     房総誌友会               ‥昭101122 ―松崎武雄 ‥50

         勝浦支部                ‥昭04(?)  ―渡邊彦蔵  ‥8

       光明思想普及会東総支部   ‥昭1012    ―山中常吉  ‥20

 

茨城     水戸誌友相愛会             ‥昭110405 ―工藤寛次郎‥40

       多賀誌友相愛会             ‥昭110405 ―吉田幸一 ‥30

 

栃木     栃木誌友相愛会支部          ‥昭110325 ―植竹正二 ‥20

       宇都宮誌友相愛会支部        ‥昭1009   ―鶴巻源守 ‥70

       鬼怒川相愛会支部            ‥昭110120 ―柳本 渉 ‥6

 

奈良     奈良誌友相愛会             ‥昭0503   ―平野初造 ‥230

       郡山支部                ‥昭101308 ―平井保三 ‥25

 

三重     光明思想普及会松坂支部      ‥昭100815 ―加藤精一 ‥30

       神都支部                ‥昭110715 ―上村安太郎‥50

       誌友相愛会濱島支部          ‥昭110405 ―豊水久彌 ‥50

       伊賀誌友相愛会             ‥昭110110 ―杉山鐡之助‥34

 

愛知     名古屋東支部           ‥昭100201 ―安江 汪 ‥90

       名古屋中央支部          ‥昭110401 ―伊藤 静 ‥100

       名古屋広小路支部         ‥昭100701 ―磯部水伯 ‥100

       愛知支部             ‥昭110301 ―長谷部與吉‥50

       名古屋中部支部          ‥昭110110 ―伊藤鑛一 ‥50

       教育連盟中央支部         ‥昭1104   ―大崎千代子‥50

       光明思想普及会名古屋支部    ‥昭100201 ―北西彌一 ‥1000

       光明思想普及会名古屋北山支部‥昭0603   ―柴田藤太 ‥80

       豊橋支部            ‥昭100130 ―中西武雄 ‥100

       安城誌友相愛会         ‥昭110318 ―平松計司 ‥67

       光明思想普及会宮津支部     ‥昭0603   ―長坂鐡次郎‥56

       光明思想普及会葉東支部      ‥昭100615 ―森 茂三郎‥2

       東海誌友連合会          ‥昭120429 ―長谷部與吉‥1600

 

静岡     見付誌友相愛会          ‥昭110623 ―木村義雄 ‥19

         浜松支部             ‥昭1012   ―柳本誠之 ‥530

       光明思想普及会静岡支部   ‥昭100701 ―竹中秀吉 ‥130

       誌友相愛会西遠支部     ‥昭100110 ―船越富平 ‥23

       駿遠支部          ‥昭110405 ―渡邊簾一 ‥45

       富士誌友相愛会       ‥昭100720 ―和田佐太郎‥46

       合掌の家          ‥昭1007   ―中島喜七郎‥

       新津誌友相愛会       ‥昭110706 ―本間政一 ‥35

       熱海誌友相愛会       ‥昭1109   ―巽忠蔵  ‥25

 

山梨     光明思想普及会甲府支部   ‥昭110413 ―石原勘五郎‥10

       都留誌友相愛会       ‥昭110331 ―上條 節  ‥6

       光明思想普及会甲運支部   ‥昭1004   ―山本賢五郎 ‥

 

滋賀     大津誌友相愛会       ‥昭1104   ―守永彌惣次‥144

         日野支部             ‥昭060927 ―野澤宗一 ‥80

         長浜誌友相愛会        ‥昭110210 ―河合源一郎‥18

 

岐阜     光明思想普及会大垣支部   ‥昭101120 ―加藤俊二 ‥43

       生長の家          ‥昭100501 ―西邑豊春 ‥5

       小坂町誌友会        ‥昭110810 ―大森長兵衛‥35

       白鳩会高山支部誌友会    ‥昭110707 ―藤田てつ ‥25

       白鳩会八幡支部誌友会    ‥昭120215 ―筧 甚七 ‥55

 

長野     飯田支部          ‥昭100301 ―黒田蔵治 ‥15

       南信支部          ‥昭100710 ―熊谷惣一 ‥5

       伊賀良支部         ‥昭100615 ―宮下喜内 ‥3

       長野誌友相愛会       ‥昭100710 ―藤本政吉 ‥25

       読書会           ‥昭1007   ―宮坂善蔵 ‥15

       光明思想普及会須坂支部   ‥昭1003   ―盬田定治 ‥8

       飯田光の恵誌友会      ‥昭120601 ―齊藤誠逸郎‥15

 

宮城     仙台第一誌友相愛会     ‥昭100321 ―蟻坂 仲 ‥30

       仙台第二誌友相愛会     ‥昭100301 ―大内俊岳 ‥27

       仙台第三誌友相愛会     ‥昭110324 ―里見司馬太‥35

       仙台第四誌友相愛会     ‥昭100910 ―志田良相 ‥40

       仙台誌友連合会       ‥昭100914 ―蟻坂 仲 ‥170

 

福島     光明思想普及会郡山支部   ‥昭101215 ―柏木週蔵 ‥

       光明思想普及会会津支部   ‥昭100520 ―中森ヨシ ‥30

       光明思想普及会猪苗代支部  ‥昭1005   ―鈴木粂次郎‥11

       光明思想普及会福島県菊田支部‥昭100701 ―松本 津 ‥10

         中村支部          ‥昭100915 ―池田亀之助‥10

       光明思想普及会湯本支部(準)‥昭101215 ―門野俊次 ‥31

 

岩手     釜石台村誌友相愛会     ‥昭111110 ―鈴木鯉三郎‥14

       釜石鈴子誌友相愛会     ‥昭111121 ―鈴木 武 ‥30

       光明思想普及会盛岡支部   ‥昭0910   ―堀合正身 ‥150

       大迫町誌友相愛会      ‥昭101005 ―小野清次郎‥13

 

山形     山形誌友相愛会       ‥昭1010   ―谷 盛之 ‥31

       酒田誌友会         ‥昭1009   ―加藤伊佐美‥13

       飽海誌友相愛会       ‥昭1007   ―土田周治 ‥18

       酒田白鳩会         ‥昭110719 ―井上チヨ子‥10

       光明思想普及会米沢誌友会  ‥昭110510 ―木村周蔵 ‥13

       誌友会鶴岡支部       ‥昭100512 ―諏訪孝三郎‥150

       誌友会温海支部       ‥昭1101   ―清水 均 ‥60

 

秋田     光明思想普及会秋田支部   ‥昭110424 ―大塚猪一 ‥9

 

福井     福井誌友会         ‥昭1106 ―吉田圓助   ‥158

       遠敷誌友相愛会       ‥昭110325 ―瀧 彦右衛門‥6

       光明思想普及会敦賀支部   ‥昭1006   ―前田美代 ‥16

 

石川     生長の家          ‥昭101110 ―松本伝七 ‥20

       光明思想普及会羽咋支部   ‥昭110424 ―疋津重一 ‥24

       光明思想普及会金沢支部   ‥昭1007   ―森 吉三郎‥70

       光明思想普及会江沼支部   ‥昭1009   ―榮枝君子 ‥6

       誌友相愛会         ‥昭080310 ―圓後登記 ‥45

       光明思想普及会金沢第一支部 ‥昭1007   ―北島是隆 ‥20

 

富山     光明思想普及会生長の家

新湊誌友相愛会       ‥昭100106 ―高橋治一 ‥21  

       富山誌友相愛会       ‥昭100212 ―藤岡義孝 ‥34

       高岡誌友相愛会       ‥昭100310 ―江守貞二 ‥190

 

鳥取     米子誌友相愛会       ‥昭100101 ―北村英一 ‥30

       山形誌友相愛会       ‥昭120307 ―東地治作 ‥20

 

島根     松江支部          ‥昭1007   ―小野チヨ ‥40

       大社誌友相愛会       ‥昭100701 ―三原宰三 ‥5

       平田誌友相愛会       ‥昭100816 ―土井末吉 ‥7

       石東誌友一齊会       ‥昭120207 ―三谷可孝 ‥41

       今市誌友会         ‥昭110705 ―石倉圓一郎‥15

 

岡山     岡山中央誌友相愛会     ‥昭1008   ―門田 博 ‥200

       門田屋敷誌友相愛会     ‥昭1102   ―吉田徳一 ‥20

       岡山誌友相愛会       ‥昭1010   ―渡邊宗次郎‥80

       赤磐誌友相愛会       ‥昭100301 ―花房芳太 ‥30

       南備誌友相愛会       ‥昭101103 ―北殿定吉 ‥31

       備中誌友相愛会       ‥昭101101 ―佐藤康光 ‥30

       宇野誌友相愛会       ‥昭100701 ―中谷正一 ‥10

       月田誌友相愛会       ‥昭100201 ―門田 清 ‥2

       邑久誌友相愛会       ‥昭101113 ―吉永正雄 ‥40

       和気誌友相愛会       ‥昭110404 ―森 寿野 ‥3

       総社誌友相愛会       ‥昭100601 ―横田益吉 ‥18

       井原誌友相愛会       ‥昭120305 ―茂原 榮 ‥7

 

広島     呉支部           ‥昭100414 ―黒原良三郎‥32

 

山口     山口教化部         ‥昭100501 ―及美忠治 ‥300

       下関誌友相愛会       ‥昭100201 ―古谷自助 ‥50

       小島誌友相愛会       ‥昭110201 ―藤本憲介 ‥70

       彦岸誌友相愛会       ‥昭100715 ―三輪圭介 ‥15

       長府誌友相愛会       ‥昭081001 ―福原雄二 ‥30

       宇部誌友相愛会       ‥昭0606   ―三隅若市 ‥200

       神の山炭鑛誌友相愛会    ‥昭120708 ―網野若策 ‥50

       萩誌友相愛会        ‥昭100201 ―古谷自助 ‥50

 

和歌山    和歌山支部         ‥昭050304 ―佐藤セイ ‥20

       新宮支部相愛会       ‥昭110530 ―濱田一義 ‥30

       海南支部          ‥昭101007 ―出口春雄 ‥40

       有田支部          ‥昭101104 ―小槇茂代 ‥5

       御坊町支部         ‥昭1008   ―津村藤太郎‥4

       比井崎村支部        ‥昭1008     ―池田與一郎‥7

 

徳島     徳島誌友相愛会       ‥昭101120 ―岡 信章 ‥60

       誌友撫養相愛会       ‥昭101020 ―門田 博 ‥231

 

香川     高松誌友相愛会       ‥昭101123 ―東山半之助‥200

       誌友相愛会大川郡支部    ‥昭110614 ―根本庄三郎‥22

       誌友相愛会小豆島支部    ‥昭110101 ―大下榮十郎‥76

       誌友相愛会善通寺支部    ‥昭1106   ―鈴木君子 ‥15

       誌友相愛会観音寺支部    ‥昭100701 ―眞鍋守行 ‥25

       綾南誌友相愛会支部     ‥昭110915 ―田岡松太郎‥13

 

愛媛     松山誌友相愛会       ‥昭110220 ―出口時之輔‥100

       今治誌友会         ‥昭101101 ―常賀松之助‥50

       相愛会宇和島支部      ‥昭111005 ―山田勝利 ‥20

 

高知     高知県誌友連盟       ‥昭110516 ―島村互兄 ‥350

     高知誌友相愛会       ‥昭110110 ―島村互兄 ‥50

     高坂誌友相愛会       ‥昭110501 ―上原兵三郎‥30

     城東誌友連合        ‥昭110923 ―小松龍猪 ‥30

     窪川県相愛会        ‥昭110605 ―西尾正秋 ‥20

     三里村相愛会        ‥昭110902 ―杉本幸次郎‥20

     須崎誌友会         ‥昭110530 ―上原義三郎‥350

 

内務省警保局 『社会運動の状況』-1

内務省警保局 『社会運動の状況』昭和11年P1671

昭和11年

2)生長の家

①沿革

「生長の家」は現主宰者谷口雅春が、昭和5年(神戸在住中)個人雑誌「生長の家」誌を編集発行して所謂光明思想の普及を提唱したるに濫觴する類似宗教団体」にして、其の創立経過は概ね谷口個人の経歴に相通ずるものある実情なり。

而して谷口は明冶261122日神戸市港区夢野町に生れ、大正3年早稲田大学文科を中途退学後一旦大日本紡績株式会社に入社したるも、後大正8年皇道大本教に入信して同社を退き、綾部本部に到りて同教機関紙「あやべ新聞」の編集に当る傍ら、同教の所謂心霊学、鎮魂帰神法等を修習し、又は各種宗教の教義教説等を熱心に研究しつつありたり。

斯くて偶々大正10年所謂大本教不敬事件発生するや、同人は直ちに大本教団を去って上京し、暫く宗教上の著述を為すべく閑居し居たるが、更に大正13年末神戸市所在の外国商館ヴァキュ-ム・オイル会社に就職して赴神し、引続きクリスチャン・サイエンスの教義所説等の研究を続けつつありたる模様なり。

 

其後谷口は昭和5年3月自ら「図らずも神の啓示に依り後述(教義の項参照)の如き真理を体得せり」云々と吹聴して人類の光明化運動を提唱し、当時神戸市外住吉にあたる自宅を「生長の家」本部と為して雑誌「生長の家」を発刊し、卑近巧妙なる布教手段に依り漸次誌友(信者)を獲得して其の教勢を拡張しつつありたるが、遂に昭和8年8月には前叙会社を辞して専ら教勢の拡大及生長の家関係の著作出版に従事することとなり、次で翌9年8月には在京誌友有志等の勧誘に応じて上京し、同時に生長の家本部を東京市渋谷区穏田に移すと共に其の組織を整備拡大し、更に同年11月には「生長の家」関係書籍の出版竝販買営業を目的とする株式会社光明思想普及会(資本金25万円)を設立し、翌10年10月には同じく其の附帯事業を目的として設立したる株式会社見真社を合併して資本金125万円の大会社となし、此等の大資本を擁して東京市赤坂区檜町所在山脇女学校後を購入し、同社事務所及生長の家本部を同所に移し、爾来旺に各種の機関紙単行本類の出版頒布、又は新聞広告講演会等を利用して宣伝に努め、或は見真道場、花嫁学校「家庭光明寮」等を開設して誌友の結束を図る等に依り逐日教勢を拡大し、創始以来僅々数ヵ年にして別表の如く全国各地に支部700余信者を擁する大教団を組織するに至れり。

 

②教義の概要

「生長の家」に於ては所謂万教統一を標榜して或は仏典、聖書を論述し、或は古事記日本書記等の国典を講述して惟神道の解説を試みる所依の教派・経典分明ならず、而も自ら教化団体なりと称して宗教団体視せらるるを慊忌しつつある模様なるも、他方に於ては神仏一如の観点より独自の神格を信奉し、時には其の神格に「生長の家大神」なる呼称すら与へて誌友信仰の対象となし、或は「人は神の子仏子なり」との信念を根基として総て」の教説をなす等の状況にして、其の本質寔に補足し難きものあるが、之を究極すれば、諸神諸佛を融合若は超越したる神格を想定して之を信仰の対象となし、神、儒、佛、基等の教説の各一部を綜合混淆して独自の教説を樹てたる宗教類似の団体たるものの如くなり。

而して其の教説の核心を為すと認めらる所説を要約摘記すれば、即ち極端なる唯心主義を強調して、「三界は唯心の所現にして唯心の所現にして森羅万象は悉く實相の仮象なり。吾人の眼に見、耳に聴き、手に触るる等の五官の感応は総て本来無なるを有と謬想しつつあるものにして、人の肉体の如き亦心の影象に過ぎず。唯在るものは神、光明、円満具足せる神の心と神の心の顕現とあるのみ。而して人は此の神に依りて造られたる神の子にして総てに無限の可能性を内包する神そのものたるものなり」と観じて之を生命の實相なりとなし、更に「人若し之の生命の實相を自覚して以て人の全存在なりと確信するときは、悩める者も苦しめる者も忽ち疾病苦痛を脱却して神の子たる本然の生命の實相に生活し得べし」云々と教説しつつあり。

而して谷口は神の啓示に依りて右の真理を徹悟し、所謂「善き言葉の創化力」により人類の運命を改造し、地上に天国を建設すべき使命と霊能とを体得して「生長の家」を組織し、以て人類の匡救指導に当りつつあるなりと揚言し、自ら後記①の如き「七つの光明宣言」を発表し、「生長の家は総ての既成宗教を超越して『生命の實相』が無限生命の道なることを把握確信し、其の真道を歩むことに依りて病苦其他一切の人生苦を克服し、以て人類が相愛協和する天国を地上に建設せんことを理想とするものなり」と誇称しつつあり。

 

更に本教団に於ける特異の教説二、三に就て略述すれば「神の子たる人は各々思念することに以て其の思念は一種の霊波となり、其の対象に何等かの作用を及ぼすものにして、若し治病招福を思念すれば必ず其の霊波は其の対象の上に作用して具体的霊験を示すべし」云々との説を為して除病攘災の伏線となし、或は曾て元大本教が旺に利用したる鎮魂帰神法の転化と認めらるる精神統一法を自ら「神想観」と称し、「人は皆、正座、合掌、瞑目して神想観を行ひ、精神統一して後記②の招神歌を誦し、只管神を思念すれば融然として天地の大生命に帰一し、徹すれば神姿にも接し又神告をも耳にし、遂には「吾即神」の境地に到達し得べし」云々と吹聴して前記「思念の霊波」の所説と共に其の霊験を誇称しつつあり。

又元大本教に於ける言霊学より転化発展し来れるものと認めらるる「言葉の創化力」なる所説を為して即ち、「言葉は思念の霊波と等しく其の対象に著大なる影響を与ふるものにして、殊に生命の實相を徹悟してる谷口の言葉は、神の子の内包せる無限の可能性を啓発して大自在の境に達せしむるの創化力あるもの」となし、更に言葉のみならず谷口の編著せる機関紙単行本等も共に「之を能く閲読する者をして直ちに生命の實相に徹せしめ、一読難病を快癒し、跛者にして歩行せしめ、失業者をして職を得せしめ得べし」云々と宣伝しつつある状況なり。

尚谷口が本部講習会席上に於て講述せる疾病観を試に掲記すれば後記③の如くにして、以て略々本教団の教説の概貌を推知し得るものあるべし。

 

 

③組織及現況

「生長の家」本部は其の創始者谷口雅春を総裁として総てを其の独裁的支配に委せ居る実情なるが、一応の組織は谷口を中心とする理事会を以て本部最高機関となし、其の下に企画、教化、総務、編集、教育、婦人の各部を置き、夫々各部に理事一名を配して部長となし以て諸務を処理せしむることとなし、更に地方組織は別表の通り全国各地に七百余の「生長の家誌友相愛会」を組織せしめて布教開発の事務を鞅掌せしめつつあり。

而して株式会社光明思想普及会は「生長の家」本部とは全く異名同体にして、自ら「生長の家」を教化団体なりと公称せる建前より其の企業的方面を担当せしむるが為の手段便法として組織したるものなり。

其の役員は取締役社長の外に取締役各五名を置きて社務を管掌せしめ、谷口は表面之に関与し居らざるものの如くなるが、其の實権は殆ど同人の壟断する所にして、前記各役員の如きは殆ど空位を擁しつつあるの実情なり。

又同社の株主は概ね誌友信者たるものにして、殊に地方支部たる「誌友相愛会」の責任者は必ず株主を以て之に充て、誌友獲得に依る書籍の売行は直接自己の利益に反映せしむるの巧妙なる術策を弄し居れり。

更に生長の家の教育事業として経営しつつある花嫁学校「家庭光明寮」は高等女学校卒業程度以上に対し結婚準備の教育を施すことを目的とするものにして、谷口の妻輝子を寮長として目下四十名内外の寮生を収容しつつあり。

而して「生長の家」の現勢は概ね後記別表の如し。

④活動状況

「生長の家」本部に於ては文書伝道を根本方針として、「生長の家」「白鳩」「光の泉」「光明の音信」等各種の月刊機関紙を編集発行するの外、「生命の實相」「久遠の實在」等多数の

浩澣なる単行書籍を出版し、全国一流の各新聞紙に厖大なる宣伝広告を為してその読者誌友を募り、他方に於ては随時各地に講演会座談会又は誌友講習会を開催する等に依り急速に其の教勢を伸張して今日に及べるが、該方針は其の対象が教養乃至財政上に於いて読書能力あることを条件とするが故に、其の普及範囲には自ら一定の限度あるものの如く、而も其の普及限度は既に昭和拾年頃を以て飽和の極点に到達したる模様なり。

従って本年中に於ける新規入会者は逐月逓減して旧刊書籍の売行は漸く減退し、更に新刊書籍も亦其の内容濫刊旧著と殆ど同巧異曲にして特に誌友の熱狂を呼ぶに足らず、多額の広告費は徒に失費を嵩むのみにして其の業績は下降の一途を辿り、本教団教勢の指針たる光明思想普及会の株式配当も、本年度下半期に於いては遂に従来に半減して5分配当を決行するの止むなきに至れる実情なり。

而して他方本教団内部に於いては、予て首脳幹部内に感情的軋轢ありて意見事毎に対立し、更に光明思想普及会の経営に就いても、首脳幹部等の専擅的行為に対する青年社員等の反感不満漸次蘊醸せられつつある等、漸く内訌惹起の気運を孕みつつありたるが該気運は遂に本年四月以降相亜で表面化して其の醜状を社会に曝露し、益々教勢の伸展を阻害するの結果を招来せり。

而してその内紛が第一に表面化したるは、花嫁学校「家庭光明寮」主事立仙夫妻の罷免問題にして、即ち家庭光明寮の事実上の創始者たる立仙由松夫妻は常に熱誠以て寮生の教育に当り、深く其の敬慕を蒐めて教団内にも重きを為しつつありたるが、寮長谷口輝子(谷口の妻)は其の驕慢狭量の性格より之を嫉視して喜ばず、種種辞を構へて同夫妻の退寮を迫らんとしつつありたり。

斯くして本年四月其の術策愈々露骨に加えるや遂に寮生等の推知憂慮する所となり、寮生等は一致して谷口に立仙夫妻の留任方を嘆願するに至りしが、谷口は却ってこの純情に出づる寮生の運動を一蹴して「立仙は純真なる少女をして労働運動の如き型態策動を為さしめたり」と激怒し、直ちに同夫妻を招致して同人等に面罵を加え即時辞任せしむるに至れり。

之が為寮生等は極度に憤慨して退寮するもの相亜ぎたるが、時既に其の大部分は卒業直前にありたる為格別の事もなく落著せり。

而して右問題漸く落著するや、豫て光明思想普及会運営上に就いて不満を抱きつつありたる青年社員川上義明等十八名は、本年五月十二日の改革を標榜して「光明青年同志会」を結成し、同月十六日同会の結成宣言、公開状及趣意書、社内改革案等を社内一般に発表流布するに至りし為、

漸く改革の気運社内に伝播激化せんとしたるが、其の後谷口を初め幹部等の巧妙なる断崖切崩に遭って同会は五月末解散の止むなきに至り。次いで六月十八日同会の指導者たりし川上義明外二名の馘首断行に依って該運動は全く壊滅するに至れり。

 

更に光明思想普及会取締役社長佐藤勝身は、豫て谷口が巨細を分かたず会社の運営に干渉容喙

し、社長は殆ど空位を擁して其の責任のみ負担するの実情にあるを快しとせず、縷々其の干渉緩和方を進言したるも遂に容れられず、又地方に於いては夙くより鼎立抗争を続け来たりし谷口の義兄清津理門及大株主小塚公平等との葛藤愈々激化し来れる等の為、遂に本年六月編集部長佐藤彬(勝身の長男)顧問弁護士島田庄七郎、宗教連盟部長柴田武福、婦人部員松本禎子、社員松本俊介等と共に連袂辞職し、爾来脱退派は本教団の理論的誤謬、教団組織上の醜状等を指摘暴露して教団を攻撃し、谷口等は佐藤一派には背教者の名を冠して之に応酬する等益々醜悪なる抗争を重ねつつありたり。

概況叙上の如くにして、曾て谷口を以て絶対的大哲人なりと妄信し、其の命ずる所易々として盲従し来れる本教団内部に於いても、漸く谷口の言動を批判的に考察せんととするの風潮を生じつつありたるが、其の後谷口は佐藤一派の脱退を好機として光明普及協会の陣容を整備再建して其の統制力を強化すると共に、或いは生長の家教育法なるものを提唱して全国教育界に働き掛け、或いは機関紙類多数を軍部其の他に寄贈して同方面への誌友獲得を企つる等に依り、鋭意教勢拡大の新方面開拓に狂奔しつつあり。

 

更に財政的窮乏打開の方策に就いては、或いは誌友の自社持株を寄付せしめて減資を断行せんことを計画し、「持株寄付」慫慂の記事を恰も一誌友の自発的提言なるが如くに偽装して機関紙上に登載発表し、或いは従来の方針たる「寄付を受けぬ主義」を自ら抛棄して「任意の寄贈献金は本部に直送せられし度し」云々との通告を発し、或いは又二十圓以上の寄付者には谷口の揮毫一幅を贈与する旨を発表する等極力寄付献金の慫慂に努めつつあるが、其の反響は格別のことなく、減資案は勿論、谷口の揮毫も意の如く進捗し居らざるものの如くなり。

 

後記(一) 生長の家七つの光明宣言

△ 我等は宗派を超越し生命を禮拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

△ 我等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

△ 我等は人類が無限生長の眞道を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

△ 我等は生命の糧は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を表現する言葉の創化力なりと信ず。

△ 我等は神の子として無限の可能性を内に包有し言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し   得ることを信ず。   

△ 我等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改造せんがために善き言葉の雑誌「生長の家」及び聖典を結集して発行す。

△ 我等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法と正しき社会改造とに依り病苦其の他の人生苦を克服すべき実際方法を指導し相愛協力の天国を地上に建設せんことを期す。

 

後記(二)   招神歌

生きとし生けるものを生かし給へる御祖神元津霊ゆ幸へ給へ。

吾が生くるは吾が力ならず天地を貫きて生くる祖神のいのち。

わが業はわが為すにあらず天地を貫きて生くる祖神のちから。

天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家大神護りませ。

 

後記(三) 本部講習会に於ける谷口雅春の講義内容

寝小便―親達が又子供は寝小便をするだろうと言う気持ちを去らなければ子供の寝小便は癒らない、親が小便はしないと思へばするものではない。

皮膚病―総ゆる皮膚病に犯される者は先祖の霊よりくるものである。

脊髄病―心が曲がって居るから起る。常に感謝する様に努め柔軟の心を失はぬ様に心掛け事にすれば完治する。

痔―身体を常に不潔にするために発する。

脱腸―親が秘密の心を持って居る時に起る又陰気の心を持ち不平を言う人等に多い。

腎臓病―祖先の霊より来るものであるから祖先を祀ることに心掛くべきである。甘露の法雨に依り癒る。

婦人病―等は産婆の暗示に依ること多きを以て暗示にかからぬ様に。乳房の小なる人は乳が出ないと言うが絶対に左様な事はない。

乳癌―筋を引くものである。祖先に感謝せしめて甘露の法雨をなさしめると良い。

癲癇―迷える霊魂の障りを放っておくから起る。甘露の法雨により全治す。

鳥眼―五官の病気である。有難い心の足りぬ結果から起る。

扁桃腺―祖先の霊魂より来るものである。

肺病―心の不平より来る。有難さを感ぜしむること。

癪―突っ張る心より来る。油断の無い人に多い。

麻疹―せかせかした心より生ず。

火傷―争う心より生ず。

フケ―不平の持主にて迷える霊魂より来る。

臍の病気―憂鬱の者に多い。

骨の病気―先祖を軽んずるより起る。甘露の法雨によりて癒った例がある。

眼病―天地の神を有難いと思はぬ人に起る。

パセドウ病―夫婦の争いより生ずる。

乱視―心の乱に取越苦労より起る。

トラホ-ム―不平の心より来る。不潔より来るものではない。ぶつぶつ言う時に発するものである。

心臓病―気苦労に取越苦労之等の人は霊多界に行くと癒るものである。

胃腸病―感謝の心足りぬから起る。

胃痙攣―心が解けば癒る。

伝染病―因縁より生じる心の影である。縁に触れて出て来るものである。同じ種類のものであるから同じ因果に依って来るものである。潜伏期等も押え隠れて居る心から来るものである。

熱病―争いより起る。

嗜眠性脳炎―祖先の霊の病気、高慢を押える心持でなくては癒らぬ。

脚気―祖先の霊から起る病気。

中毒―慾張の不調和の心、毒は元気ないものである。

流産早産―霊魂が入って居ない時に起る。若し入って居ても直ぐに出る場合に起る。近時避妊法等が流行して居るが神に懺悔して赦しを受けなくてはならない。

 

『日本思想の源流』

『日本思想の源流』

昨年、この本を久しぶりに購入した時に下記のように書いている。

 

>今日三河の古本屋で三十年振りか『日本思想の源流』-歴代天皇を中心に―を見つけた。もちろん所有はしているが何か求められるように購入した。

この本は小田村寅次郎著です。『日本思想の系譜』はその親本のような存在です。この『日本思想の源流』は日本教文社出版なのです。昔は当たり前のような愛国書が日本教文社から出版されていた。以前にこのブログに記載さしていただいたのでご存知の人も多いと思います。さて、この本ははしがきに記載されているように谷口雅春先生の推挙があり出版されています。

この本の重要な項目として日本の歴史は日本人は天皇とともにあったという事実であります。それは隠しも出来ない事実なのです。それを和歌を通じてしきしまのみちとしてこの本は捉えています。

敷島の道とはいかなるものであるのか。和歌を通して天皇についての理解を書いています。是非、これからこの本の中から抜粋して記入していきたい。<

歴代天皇の無私の精神とはどうして生まれてきたのか、それは風土もあるであろう。地理的なものもあるであろう。だが、唯一のものは日本人は祈りの民族であり、全てを神として、仏として拝んだのである。小さな山には必ず祠がある。鳥居がある。こんなに自然災害の多い国のなかであっても、その災害を究極に感謝することでその災難を乗り越えたのである。

悪霊に対してもさえその畏怖から感謝に変化している実例はたくさんある。以前にこのブログで記入した“もののけ”ということを記入したときに、それを痛感した。荒魂と和魂を一つの魂として捉えるそれが、直霊(なおひ)であり、また奇魂(くしみたま)や幸魂(さちみたま)ともよばれるものが一つに内在している。

そうした日本人観は天皇なくして考えられない。それは祈りの主というものが天皇であるからである。

さて本題に移ります。この『日本思想の源流』にはしきしまの道ということがわかりやすく書いています。天皇を知ろうとすれば「和歌」や「御製」を読む事が早道と書いています。なるほどですが、更にいえば「陵」を巡拝することである。本当に身体全体に天皇陛下の「たましい」を感じて欲しいものである。

日本人は古くから先祖を大切にしてきた、先祖の墓参りはするけど、どうして天皇陵に参拝しないのか不思議である。やはり、戦後教育が要因であるのであろう。

 

一 「私」と「個人」と―

 

日本人にかぎったことではなかろうが、人の心というものは、

 (1) 常に、自分のことだけに執着して、どちらかと言うと醜い「我執」につきまとわれるものであるが、ときには、

 (2) 自己以外の人(多くは、具体的に自己と深い間柄の関係に立つ人―親とか子とか友人とか夫とか妻とか兄弟姉妹とか隣人など―に相対しての場合が多いが、そうでない場合もよくある)に相対して、その相対する人が示す″まごころ″に感動して、その人の全姿態、とくに顔、なかでも眼の光り具合などを直視しながら、その人の’心’のなかに、わが身心わが心も融け込ませてしまうような“没我の境”を生み出していくことがある。

 

 日本人は、古来、人の“心”がもつ性情のなかに、この二つの特質があることを知っていた。しか

も、前者については、人はだれでも、人間本能としてこの性情を持っているが、後者については人はだれでも、その素地は本能的に持っているにしても、人間同士の努力によってはじめて養なわれていくもの、と考えたようである。そして、この世に生きていく人間同士は、同じ生きていくなら、楽しく和合し合って、お互いに仲よくしていきたいという(これも本能の一つであろうが)希望に基づいて、さきの後者、すなわち第二の点を、お互いに″価値あるもの“美ししいもの”と感じ合うように努力してきたものと思われる。こうした生き方、考え方が、どうして日本人の心のなかに、また意志のなかにやしなわれたかはわからないが、おそらく日本列島の温暖な大自然の移り変わりが、人の心に影響をおよぼしたことが、それなりの原因であったであろうとおもわれる。

 

 いずれにしても、こうしたことから、日本人が考えようとしてきた「私」とか「自己」なるもの

は、明治以後、西欧から日本に移入された「個人」という言葉と同じ意味を持つ言葉のように見えながら、実は、かなり違うものであったようである。すなわち、日本人は、「自己」をめぐる“私情”

について考える場合でも、右の(2)で見たように“相対する人の心のなかに没入する心の働き

“をも、”私情”における心の美しい発動とみてこれを重視し、「私」とか「自己」とかを考える前提のなかに、すでに、相対する人―要するに自己以外の人-の“心”のなかに自己の“心”を投入させうるところの、美しい「私情」を、ごく常識的に、ごく自然に考えるようになったものとおもう。

 

これがもとになって、日本人の“心情”のなかには、他の人びとに対する“感謝の心”が生まれて

いったもので、その’感謝する心‘は、自分に生活する力と栄養とを与えてくれる大自然の恩恵に対しての感謝の念とも通じ合い、また自己を生み育ててくれた親に対する謝恩の心となり、おなじく、自己が生活する現実社会に安寧と統一とを作り出してくださった天皇に対する感謝の心ともなっていったものであろう。しかも天皇は、権力などというトゲトゲしいものを決して重視なさらずに、本書でくりかえして述べてきた如き“大御心“によって、人問はお互いに信じ合いながらともどもに楽しく生きていこうでぱないかと呼びかけられたから、人びとは、なんの疑念を抑むこともなく、大自然への感謝と身内の親へ感謝するとおなじように、天皇への感謝の心を持つようになったもの、とおもう。

 

 日本人は、もともと“現実ありのまま”を大切にした人びとであったからして、人びとの心のなかには、このような「私情」が、具体的・現実的に、実在することを確認でぎたし、この美しい「私情」に出発して、時には、モの対者であり感謝する相手のために、自己の尊い生命を捧げても決して

悔いない、という「没我の精神」を生み出すようになったものであろう。さらに一方では、平時にお

いては、私事を擲って公の事に献身するところの「公のために自分が役に立ったという喜び」を生み、さらには、ひとたび祖国の危急に臨めば、にっこりと国のために笑って死ぬことさえできる「殉国の精神」を生んでいったものである。

 

 それゆえに、日本人が国土防衛に生命を賭してきたことも、天皇を大切にしてきたことも、親・兄

弟との間に、家族生活の意義を高く評価してきたことも、すべて、「自己」自身の心の中から納得を

伴なって営んできたことであって、一部の人びとがいうように、「日本人は個人の人格の尊敵さに目覚めなかった未開人なるがゆえに、忠義や孝行などという馬鹿げたことが大事にされたのだ」などというのは、とんでもない錯覚だとおもう。

 忠義とか孝行とかという言葉は、漢字が日本にはいってきてからの言葉であるが、それよりもずっとずっと前から、日本人の“心”のなかには、それらの言葉のもつ意味の実内容が、すでに十分な体験を得て綜合統一されていたと見てよいと、おもう。

 

 以上のように、人の“心”が向上していくプロセスというか、“心“の内部での「個」なるものからの克服経過というか、とにかく、「我執」→「私情」→「没我の精神」→「公のために役立つ喜び」→「殉

国の精神」と見てきた一連の“心”の発露の経緯は、実は、人の“心”のさまざまな現われかた諸相に過ぎず、ただその中で、はじめての「我執」だけが、人の“心“に常につきまとっているもので

あり、この「我執」を除くあとの四つの心情(私情、没我、公共心、殉国の精神)は、いずれも「我執」に常につきまとわれながらも、これを振り切りつつ、これを遠ざける努力を続ける時に、はじめて生生まれてくるものであったのである。そして日本人は、そのことを遠い昔から、ずっとよく理解してきた人びとであったのである。

 

 言い替えれば、人間はどんなに美しい“心”を発露させる場合でも、「我執」を遠ざける努力が、

その都度その都度その人の“心”の働きによってなされていて、それを遠ざ得た時に、得た時に、美しい「私情」があらわれ、「没我の精神」が生まれ、発して万朶の桜となると評された大和魂の発露ともなっていったのである。従って“日本思想”の“流れ“を見ると、この点がとくに顕著に注目されていて、「「人の”心“なるものは、時に美しい発露を示しても、次の瞬間には、もとのもくあみのごとく醜い『我執』の虜にされてしまうもの」と考え、それゆえに「人の”心,“は常に揺れ動くもの」と理解し、それが「人問のありのままの姿」である、と人間を把えたのが、古代日本人たちであり、聖徳太子であり、万葉の歌びとたちであり、古事記・日本書記、祝詞などの文脈に流れる思想もまた、この同じ人間観に立っていたと見うけられる。そして日本人が、二千年にもわたって天皇を崇めてきたということもまた、このことと深い関連に立つことであったのである。

 

 私は本書の第二章の中で、聖徳太子の御言刺「人皆心有り、心各執有り」また「共に是れ凡夫のみ」などか引用・指摘しながら、古代日本人の人間観をそれらの御言葉に代表させて記したのであるが、いま、改めて述べてきた、人間の本能ともいうべきこの「我執」というものに対する“心”の処し方において、古来から今日にいたるまでのあいだ、日本人はどれほど神経を使ってきたか、それは測り知れないほど真剣なものであり、また多岐にわたるものであった、と思われてならない。以下、わずかな紙数ではあるが、日本思想のいくつかの特異な点を、西欧に発違した思想と比較しながら見ることにするが、両者の相違点のことごとくが、この「我執」という人間の本来的な性向に対する、対処のしかたの相違に出発していることがはっきりしてくるのである。

 

     二 日本人も西欧人も、人の“心”から「我執」というものは

             離し切れない、と同じように認識したのだが

 

 われわれ人間は、自己を大切にする心情の働きによって、ともすれば利己心、我執が醜く働き、このために、人の世には争いが絶えず、時に骨肉相食むという悲劇、民族間の死闘などを生むことになる。しかしこの利己心・我執は、同時に自己の幸福を願い望むことから、人類社会の向上発展に役立つことにもなった。従って、この「利己心・我執」というものは、いねば両刀の刃の働きをしてきているものであり、これに対して、どう扱っていけば良いかが、古今東西を通じての人間の知恵の絞りどころになったのである。

 

 西欧の思想においては、この好ましからざる「我執」の発露は、これを如何とも阻止することが出

来ない、という見通しを立てたためであろうか、そこに「法の精神」を生むことになった。すなわち、社会公認の規則を樹立して、人間同士はお互いにその規則に服従することを約束し、以て「我執

」の悪的発露を「法」で規制したのである。その一方、人の心“の内面的反省を求めるために、「宗教」が創始せられ、豊かな情操のために「芸術」が、また思考の発達を促進させて人びとが良識

を持つようにと「哲学」という学問が起きてきた。この法も宗教も芸術も哲学も、総じて人間が自ら

進んで、自己の持つ「我執」の如何ともしがたい宿命を知っているが故に生み出した知恵であり、規制と自省による社会の秩序保持を求めての、すばらしい英知であったというべきであろう。

 

これに対して古代における日本の思想においては「法的規制」に気づきもしたが(「古事記」の神話におけるスサノオノミコトの乱暴に対する罰則的処分など)、そうかといって法的規制ということにはそれほど依存することをせず、また日本では、帰依・礼拝の対象である神や仏と、われわれ実在の人間とを特に別のものと考えるいわゆる「宗教」なるものも生まれず、さらには冥想や観念的思考を排したことに起因するのであろうが、西欧的「哲学」もまた、日本には全くといってよいほど発達し得なかった。

 

では日本人は、どのようにして、人間のもつ「我執」に対処したかと言うと、人間が「我執」から離れようとする“心の働き”そのものを、最大限に評価し合い、その“心の働き”を信じ合って、なまの人間だけで、人間そのものの、ありのままの姿において、“心”の中に大きな「振幅」を樹立したのである。日本人が古代から今日にいたるまで、何よりも大切にしてきた言葉に“まごころ”という一語があるが、この言葉の意味するところは、実は「我執」から離れようと努力するその“心の働き”に対して名づけられたものであり、その“心の働き”によって発露する美しい「私情」「没我の精神」「公に役立つ喜び」「殉国の精神」のすべてに、“まごころ”が発揚しうるものと考えた。それらの中で私とくに「私情」を大切に見、そこに発露する“まごころ”を日常生活における相互の注視のまとにしてきたことは、注目すべきことであった。

 

本書の第一章に記したように、日本に「和歌」という形式で“まごころ”を鍛える道があったということを、ここで思い返していただければ幸いである。そして歴代の天皇がたが、この道を熱心に踏み続けて来られたことも、思いあわせていただきたい。とにかく、日本人がこの“まごころ”という言葉を何よりも大切にし、人びとの“まごころ”を讃めたたえ合ってきたというその一事で、「我執」からの離脱に対する日本人の異常な努力と、共通した思想とが堅持されてきたことが、十分に証明されているとかおもうのである。

 

日本人がこのように“まごころ”というものに最大の価値を見るようになったことから、当然の帰結として、人を見る眼にも自ら基準(さきにいった心のゆれ動く「振幅」に基づいて)が生まれてきた。すなわち、この世の人びとの社会的地位の上下や貧富の差異や、また頭脳の優劣などという外的な差異よりも、モの人の“心”の「振幅」のなかに″まごころ″の発露が見られる人かどうか、という点を重視して人物の評価をするようになったのである。そして同時に、生きている人に対してそうした評価のし方をするばかりでなく、すでにこの世を去っていった人びとに対しても、その人びとがこの世に在りし日々に見せてくれたその“まごころ“の発露を、いつまでも感銘深く心に宿し在りし日々のそのまごころ”を、死して後も敬い崇める習慣が生まれていった。そしてそこに日本人の考える「神」が生まれるのである。

 

 かくて、日本人は、“まごころ”を大切にしたことから、いつしか「宗教的情操」と呼ばれる“敬虔な心”を互いに持ち合うこととなり、亡き人びとと生きている人びととのあいだに“心”を往き来させることかありうる、とする「神人交通の思想」が生まれるのである。西欧や東洋の他の地域に生まれたいわゆる「宗教」と、日本におけるこの「宗教的情操」とは、その宗教的ニュアソスにおいてきわめて類似してはいるか、礼拝の対象に取り組む側の人の心情という面から見ると、この二つは、全く本質を異にするものというべきであろう。

 

 日本に「宗教」が生まれなかったのは、日本人が「宗教的情操」を持ち続けていたがためで、「宗

教」の必要性を痛感しなかったからにほかならない。日本人は、宗教のなかに彼岸を求めず、現実のお互いの人間生活の中に、それに匹敵しうるものを求め続け、それに向かって実践し続けた民族であったのである。また、日本に「法」と「宗教」と「哲学」が生まれなかったことは、一部の人びとの言うように日本思想の後進性を意味するのではなくて、それどころか、人間の「我執」に対する取り組み方において、日本人の方が西欧の人びとよりも、もっともっと人間そのものに素直に取り組んだからこそ、人間の生命の大切なことを痛切に感じ、それゆえに人間の人格を綜合的に高く評価したといってもよく、単なる「個」の人格の尊厳などという中途半端なものには目もくれずに、この世に生きた人としての最高の喜びを、「没我」の高き価値の中に求めていったのである。

 

     三 「神(かみ)」と「神(ゴッド)」の混同から来る現代日本

            における思想混乱の重大性について

 

日本人は「宗教」を創始しなかったが、「宗教心」よりもひときわ現実人生的な「宗教的情操」を

持っていたために、これを基盤にして「宗教」そのものを理解することが出来、また「宗教的情操」を大切にしながら、「宗教のもつ思考」を、その「情操」をさらに鍛え上げ磨き上げるために、きわめて謙虚に学ぶことができた。かくして仏教は、日本において大乗仏教として開花し得たのである。

 しかしながら、明治になってからの日本は、一つ重大な失敗をしてしまった。それはいまから約百年前のことであるが、西欧文化を移入する際に、キリスト教および西欧思想で言うところの「ゴッ

ド」という言葉に対して、誤って日本語の「神」という言葉をその翻訳語にしてしまった、ということである。「ゴッド」という言葉が意味するものは、「全知全能」であり、かつ「人は神の子であって、決っして神にはなれないもの」と考えられている。

 ところが、「神」という日本語は、それ以前二千年あるいはそれ以上の長いあいだ、日本人が、そ

れなりのイメージをこめて使ってきた言葉で、「全知全能なるゴッド」は、「神」の中には存在して来なかったものであった。「古事記」の中にも、数え切れないほどの神の名が見られるが、僅かに一番はじめに出て来られる天地創造の根源を示される御名として、すべての「中心」という意を含めての意味を示すところの「天御中主神」が、それに近い観念的な神かと見られるが、日本人が全国津々浦々に祀ってきた神社の御神体の中に、この神が祀られてきていないという事実は、その良し悪しは、別として、少なくとも日本人が心に画き、具体的に礼拝してきた神は、観念的に考え出された神ではなかった、という証拠でもあろう。

 

 そして「古事記」に見られる神々は、西欧の多神教の神々とも趣を異にし、あくまでも具体性の中

にその存在が考えられてきたものであった。日本人が太古から農耕、漁業に従事しつつ、天然自然の森羅万象のすべてに感謝しながら生きてきたその感謝の思いを示すかのように、古事記の神々のなかには、天地万物ことごとくに神の名が冠せられて讃えられているのを見る。これらもまた、目で見、耳に聞くことのできる具体性あるもの、であった。

 

 これらの神々を除けば、あとはすべて人間の延長ともいうべき神々ばかりであって、人の心のそのままに恋愛し、泣き悲しみ、慟哭し歓喜し、[我執」の擒にもなり、美しい「私情」の発露を見せる

もあり、というぐあいに、その神々は、すべてわれわれにとって親しみ深い祖先たち、という感じで

ある。「全知全能」とはおよそ縁も遠く、いねば「欠点だらけ」の、「共に是れ凡夫のみ」式の人間性

の延長した姿を、その言動の中に素直に、そしていかにも人間味豊かに繰り広げる神々ばかりである。この神々は、人間の心情にあらわれる数限りない諸相を、それぞれ分担して身につけておられるかのようにさえ見えて、「古事記」の神話をつくり上げた人びとが、いかに人間の心情をありのままに確認しようと努力したか、くだらない価値判断などを介入させずに、もろもろの神々の言動の中に、人という人のありとあらゆる心情と行動の発露を移し置いた試みは、人間尊重の趣旨において、まさに卓絶したものを示しているのであって、実にすばらしい、の一言に尽きるような気がしてくる。

 

日本人は、人間の心情そのものを、まずこのように大切にし、良いも悪いもなくこれを凝視してい

くあいだに、やがて亡き人びとの在りし日の“まごころ”を敬慕し憶念して、その亡き人を「神」に「祀る」ことになっていった。明治天皇の明治三十五年の御歌に、「浜川懐古」と題して建武中興のをりの忠臣、楠木正式を偲ばれて、

 

  あた波を ふせぎし人は みなと川 神となりてぞ 世を守るらむ

 

と詠まれたのを拝しても、“正成はいまは神となって”というお考えがはっきりとうかがわれる。

 

 かく見てくれば、西欧思想に生まれた「ゴッド」は、決して日本の「神」とおなじでないことは、もはや贅言を費す必要のないことである。要は、われわれ日本人が、各自の“心”のなかで、その整理をしなければ、この混乱から抜け出す道はないだけである。それにしても、異質の概念、しかも一

方は観念的概念、他方は具体的心情、こうまで相違するものを、同じ一つの文字「神」にしてしまった明治初期の翻訳語の選択の軽率さは、何としても取り返しのつかない間違いを起こしてしまったことになる。このことも大きく関連してしまって、明治以降百年の日本の歩みが、自然科学の吸収に大成功を納め得た反面、文化学科としての西洋文化の摂取をいまだに果たし得ずにおり、いまなお西欧思想心酔のムードのなかに、日本中の大学の多くの法・経・文科系列の講座が持たれたままで放置されているのである。ましてや、日本の大学では、天皇についての勉強などは、まったくといってよいほど見られないありさまで、いつ果てるともない混迷の淵をさ迷い続けている如くである。現在の日本は、その誤った流れの末流に漂っているかのごとく、思想の混乱はその極に達しつつあるのかも知れない。

 

 試みに、大学の学生たちに問うてみられるがいい。彼らが大学で学びつつある学問には、憲法学をはじめ、哲学。倫理学・政治学・社会学・法学その他多数あるが、その中で登場してくる「神」と読ませる言葉は、大部分西欧思想で意味する「ゴッド」である。日本文学で「神」と書いて、「神」と振り仮名でもつけられていればよいがそれもない。彼らは「神」の文字に相対して「全知全能のゴッド」を連想させられている。それは、学生のみならず、教える先生も、同じ渦中にはいっていることが多い。このことは、日本人が日本の古典を読む基本的な力をすでに失ないつつある、ということではないか。

 

 いなそればかりではない。最近の日本では、とくに知識階層のあいだで、天皇というものの価値が判らない、という声が圧倒的になってきた。これもまた「神」と「ゴッド」の混同に起因することであって、これを証する一つの適例をここに述べておきたいと思う。

 

 いまから二十五年前、日本が大東亜戦争に敗れ去って、占領軍の進駐をうけたときのことである。マッカーサー総司令官は、日本の天皇が「現人神」と呼ばれてきたことを取り上げ、その否定を天皇自らの宣言においてなさるべきことを主張した。彼は「現人神(あらひとがみ)」を勘違いして「現人神(げんじんゴッド)」と理解したからにほかならない。しかし悲しいことには、彼の周辺に群がり寄った日本の学者、政治家、官吏、新聞人などのことごとくが、すでに明治以来七十五年のあいだを「神」と「ゴッド」の混同の中に過ごしてきたため、マッカーサーが解したと同じ意味にしかその言葉を理解し得なくなっていたのである。それで日本の指導者層の人びとは、マッカーサーの声を受けて、待っていましたとばかり、天皇はいよいよ神の座から降りられることになった、などと得意気に書き立てたものである。

 

 だが、これらはすべて「神」という文字をめぐっての大変な誤解と認識不足に発したことであっ

た。まず第一には、天皇御自身は、「神」または「現人神」と自称されたことは、有史以来一度もな

かった、ということ。第二には、従って天皇をしてそのことを御発言させようとすること自体に、重

大な見当違いがあったこと。第三には、「現人神」は「全知全能のゴッドがこの世に生きていて天皇として立っている」という意味では全然なくて、さきに見たように、天皇の“まごころ”を国民側か

ら讃えた言葉であり、かつその意味は、「生きておられる方としては、他に比類なきほどの“まごころ”の持主であられる」との意味であったのである。したがってマッカーサーとともに、天皇を神の

座から降したと得意がった人びとは、無知、不勉強のなせるわざとは言いながら、日本の文化人とは言えぬような、何とも評し得ない悲しい出来事をしでかしてしまったのである。

 

 私は本書において、歴代天皇がたの“御歌”の一端に触れてきたが、そこでは歴代の天皇が、「神」を念じたまい「神」を念(おも)われて詠まれた“御歌”が、沢山にあったはずである。天皇を語るには、歴代の天皇が具体的にお持ちになられたその“お心”をお偲び申し上げてからにすべきことは、改めていうまでもないことであるが、それには、歴代天皇がたが「神」についてお詠みになった無数の“御歌”を拝することが最も正確な方法の一つであろう、とおもう。歴代の天皇がたが、つねに“皇祖皇宗の神霊“をいつきまつられ、日々夜々、二千年以上の歴史を一貫して御祖先の尊い御志をうけつがれたことこそ、世界に類を見ない祭政一致の御実践であられたのみならず、天皇政治の本旨が、権力者流の権力依存のものと、つねにまったく別のものであった根源をもなしてきた原因であったのである。

 

四 日本における歴史教育は「土器」

      の説明から始めるべきではない

 

さいごに一言しておきたいのは、わが国における歴史教育の在り方についてである。いままで述べてきたような歴代の天皇がたの御事ならびに“大御心”については、モれが歴史的真実なるがゆえに、これを咀嚼しながら、ありのままに御歌そのものを提示して、幼い人びとの、大人たちよりもすぐれている情操で受けとめさせるべきだ、とおもう。天皇についての教育では、何もしかつめらしい理屈はいらないのであって、むしろそれらのない方が正しい知らせ方になるとおもわれる。

 

 なお、それとともに、いま一つ一言しておきたいのは、終戦後の日本の教育において、日本歴史が 「土器」などの物的遣物のことから説き起こされていることについてである。私は、これに大いに異議を感じてきた一人であって、縄文武土器や弥生武土器などが解明されていくことは、もとより喜ばしいことであるが、土器類の持つ「生活文化」的意義に先立って、「精神文化」の源流をさぐり当てようとすることこそ、教育の本義ではないかとかもう者である。「土器」から説き起こされている歴史教育を、私はそれだけの理由で唯物史観に風扉されてしまったとはいい切らないが、それは少なくとも、精神文化の源流を遡及していこうとする逞しい意欲が減退してしまうおそれがあり、あるいは、精神文化の値打ちをわからなくしてしまうおそれもあるからである。

 

 人類の歴史は何十万年ともいわれ、その起源を辿ることは全く不可能と思われるが、人間としての価値を確認しうる原点は、やはり「話す」ということと、ついで「文字を書く」という時点に把えるべきものと思う。すなわち「言語」を発明し得たところから、人間の歴史を考えるのが、一番妥当であると考えたい。「言語」のあるところには、自らそれなりの客観的な思想の形成を伴なうし、人間

的情操と名づけられるものも、言語を介して相互理解の度合いを深めていったとおもう。

 そこで、歴史教育が、太古の時代における「生活文化」から説き起こされるか、それとも「精神文

化」から出発すべきかは、きわめて重大な問題にならなければならない。ことに日本においては、それは一肩深い意味を持つと思う。

 

 というのは、日本民族は、地理的に大陸と隔離されていたばかりか、その気候も、四季の変化を幅広く伴なって、人間の心情が豊かにIあらゆる外資文化を拒否しないほど豊かに―鍛えられてき

ているうえに、さらに、「一言語・一民族」という内容で、ながいあいだその文化的主体性を守り続けてきた民族であったからである。こういう国の歴史を、幼い後継者に伝達するという使命に立つのが歴史教育であるとすれば、歴史教育の出発点を、さぎの二者のうち、どちらにするかの問題は、もはや論議の余地のないほどはっきりしてくると思う。日本思想も、日本文化も、日本精神についても、すべてその中核的な性格は、恐らく、いま教えられている「生活文化」の初期時点よりも、はるかに遠く、かつ古いことであったにちがいないからである。

 

 

 

天皇信仰の根源と生長の家

天皇信仰の根源と生長の家

天皇信仰という言葉は『無門関解釈』に詳しいが、本来『生命の實相』にも天皇信仰が出ているのです。さてその「天皇信仰」の初出はどうであろうか

 

生長の家の天皇信仰の根源というのは戦前の昭和15年「宗団法による宗教結社届解説『生長の家』誌第輯第十一号所載」に最初に記載されています。

それによりますと

宗教団体法第三十六条に依り宗教結社として届出の生長の家の概略左の如し

生長の家宗教結社届(抜粋)

名称 教化団体 生長の家

教義の大要

「国体を明徴にして皇室の尊厳を明にし、各宗の神髄を 天皇信仰に帰一せしめ、尽忠報国、忠孝一本の国民精神を昂揚し悪平等を排して一切のものに、人、時、処、相応の大調和を得せしめ、
兼て天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す」
その実行目標として次の「七つの光明宣言」あり。

  七つの光明宣言

△ 我等は宗派を超越し生命を禮拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す。

△ 我等は生命顕現の法則を無限生長の道なりと信じ個人に宿る生命も不死なりと信ず。

△ 我等は人類が無限生長の眞道を歩まんが為に生命の創化の法則を研究発表す。

△ 我等は生命の糧は愛にして祈りと愛語と讃嘆とは愛を表現する言葉の創化力なりと信ず。

△ 我等は神の子として無限の可能性を内に包有し言葉の創化力を駆使して大自在の境に達し   得ることを信ず。   

△ 我等は善き言葉の創化力にて人類の運命を改造せんがために善き言葉の雑誌「生長の家」及び聖典を結集して発行す。

△ 我等は正しき人生観と正しき生活法と正しき教育法等により病苦その他の人生苦を克服し、相愛協力の天国を地上に建設せんが為に実際運動を起す。

 

儀式及行事に関する事項

冠婚葬祭等―に「生長の家」特殊の儀式なく、誌友は先祖崇拝の美風を顕揚するため各自の先祖伝来の儀礼に則るものとす。

但し、先祖が無信仰等にして伝来せる宗教なき場合には、臨終に際して慰霊するための引導文あり「久遠いのちの歌」あり又顕幽を問わず、人の霊魂の開悟のために聖経「甘露の法雨」「天使の言葉」等を読誦することあり。

観行―座禅観法と祈りとを合併せる如き精神統一的行事に神想観あり(「生命の實相」観行篇詳細説明参照)左の4首の招神歌を誦して後、宇宙大生命の生命自己に流れ入ると観じて精神統一に入るものとす。

 

(招神歌)

生きとし生けるものを生かし給へる御祖神元津霊幸へ給へ

吾が生くるは吾が力ならず天地を貫きて生くる祖神の生命

わが業はわが為すにあらず天地を貫きて生くる祖神の権能

天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家大神守りませ

 

奉齊主神、安置佛等の称号

道場又は集会室に特に顕斎せる主斎神又は安置佛なし。

心に幽齋する主神としては宇宙大生命(みおやのかみ)(その幽之幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照皇大現人神としての天皇)を禮拝す。

宇宙大生命は宏大無辺にしてその仁徳一切に及び一切を包容するが故に各自は先祖伝来の宗教を信じ又は自宅にて如何なる斎神又は安置佛を奉するも差支えなし。

宇宙大生命(みおやのちから)の道を顕揚し、日本の国威を発揚し皇威を顕揚する東道(みちびき)の神として心に幽齋する副神として生長の家大神(古事記日本書紀に顕れたる住吉大神即ち後に盬椎神、仏典に顕れたる釈迦、観世音菩薩及びその応化神基督教の黙示録第一章に顕れたる七つの燈台の点灯者)を禮拝す宇宙大生命は宇宙生命の根本実相にして、宗派に偏らざる哲学的表現を用うれば「生命の實相」なり。

この意味にて道場又は集会室に「生命の實相」又は単に「実相」の掛軸を掲出することあり。

 

この宗教団体法の実施は昭和1541日からで、文部省の管轄として認められたことは『生長の家30年史』谷口雅春先生の御文章に詳しい(P12~)ここで谷口雅春先生は古事記にあらわれた住吉大神のお働きをお説きいただいたおります。さてこのときが最初に天皇信仰という言葉が最初かというと、そうではありません。

『中心(すめろぎ)に帰一する道』谷口雅春先生、松山茂、高橋綏次郎共著というのが昭和11223日に出版されています。それを更に詳細に書かれたのは昭和114月号から11回に亘って『生長の家』誌に連載されたのです。その冒頭に次のように述べられている。(『生長の家40年史』P179

『古事記』と申しますものは皆さん御存知のとおり、元明天皇が、天武天皇の国史撰述の御遺志を継がせられて、和銅4918日に安万侶に詔して、稗田阿礼が覚えておった古くからの国史を口で喋ったものを筆記せしめて和銅5年正月28日に古事記三巻を書き終わって、天皇陛下に奉ったということになっているのであります。これが日本に於ける最も古き正確なる歴史であるということですが、そこで歴史というものは何であるということですが、そこで歴史というものは何であるか、何のために研究するかを申し上げたいのであります。

歴史というものは一体何であるかと云いますと、現象界に実相が如何に投影し表現されて来るかということの、その顕われ方、即ち実相が現われる場合の作用、反作用という風なものを次第を追うて並べて行くことによって、その民族に如何様に実相が現われ、実相が現われんとするに当って如何に反作用を起し自壊作用を起したかを知り、それをずっと時間的に貫いて観てそこに実相が如何なる相を以て現われるかということを知ることによって、大宇宙に於ける日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何に生きて行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかということをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります。

ですから歴史というものは単に過去の記録を書いたという風なものではないのであって、生命の生生流動の流れの相、実相が現象界に貫いて輝き出る時のその儘の相が書いてあるのであります。

その相を見ることは自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見ることであり宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、今後、如何に発展すべきであるかということを知ることであります。

ですから、この『古事記』を研究致しますのも単に過去にこういうことがあったということであるとか、神話やお伽噺がこうであるとか、そういう死んだような物語を読むようなつもりで読んで頂いては間違いで、実相が迷を通して輝き出るときの波動紋理というものを掴み出さなければならない。換言すれば、吾々日本人が如何に実相を生き、如何に自壊作用と戦うて来たか、ということの記録が、この『古事記』に現われているのであります」

 

この「古事記」に対する観方を基調に、その本文の解釈が『生長の家』誌に11回にもわたって連載されたのであったが、この「古事記」解釈は生長の家の奥義ともいうべきものであり、この大宇宙の成り立ち、実相本源世界の活動、現象界に今後くり広げられる光明への展開、その為の日本の為すべき役割、そのための生長の家の為すべき役割を、先生は詳細に御教示されているのである。

 

波動紋理とはどういうことなのであろうか?それを掴み出すとはどういうことなんだろうか?

しかもこの古事記解釈を生長の家の奥義であるというのである。誠に古事記とは日本人の条理を考える上で大切な本である、それを理解出来なければ生長の家の根本義が理解出来ないのである。

誠に誠に深遠なる真理である。

 

これは前年昭和101111日より20日までの10日間、各地区支部における指導者の養成を目的とした「第一回生長の家指導者講習会」(定員200人)が、谷口雅春先生の御指導のもとに東京赤坂の本部道場にて始められた。(『生長の家40年史』P180

その講習会の中心になったのは、ほかでもないこの「古事記講義」だったのである。

参加者の中には病気を治すコツを取得する目的で来たような人もあったが、谷口雅春先生は生長の家の根本教義を諄々とお説き下さった。受講者は、日本国体が実相至妙世界の展開として理想的であること、「中心帰一」の実相が他民族よりも明らかに顕現されている素晴らしさ、即ち天津日嗣の天皇を、大宇宙に鳴りひびいている天之御中主(親神様)の全徳の御表現(あらわれ)として崇め奉り、全ての国民が「神の子」として親神様の御表現なる天皇に中心帰一することの素晴らしさ、をも理解したのだった。

 

この「第一回指導者講習会」が天皇信仰が始めであるかというとそうではない。

生長の家が最初に「天皇信仰」を唱えたのが昭和818日、雑司ヶ谷「友の家会館」にて『中心(すめろぎ)に帰一する道』と題して熱誠にあふるる御講演をいただいた。(『生長の家40年史』P177

これは東京の松本恒子代表の懇願により、谷口雅春先生がお応えした講演である。

されば、もう少し遡り考えてみたい。

それは「大本教」における谷口雅春先生の役割であります。

『古事記』解釈も元々大本教時代からの流れを汲むものであり、その根源を考えてみたい。

 

浅野和三郎氏が谷口雅春先生の処女作である『皇道霊学講話』の序にてこのように述べている。

 


谷口君が初めて其姿を大本の修行場たる金龍殿に現したのは、大正七年の9月であった。近頃は毎日の修行者が二三百人に上るが、当時はせいぜい四五十人位のもので、講演も鎮魂も主として私一人の受持であった。

谷口君は其蒼白な、いささか憔悴気味ある顔を聴講者の間に並べて、黙って聴いて居た。坐談の際にも、その人々とは混らず、控え目な、超越したような態度を執って居た。かくて約三週間ばかりが経過したが、私は其間に極めて簡単な一二語を交えたに過ぎなかった。

大本修養者の中にの随分熱性のものが多い。立替の時間の切迫、日本人の使命天職、神の実在とその経綸、各自の改心、未曾有の国難来―今迄夢にも想わなかった是等の問題が、一つ一つ実証的に心の鏡に映じ出して来るとモ-矢も楯も耐えらない。在来の仕事も何も手に附かぬようになって、血眼になって来る。

谷口君には其様な熱はない、何所までも冷えて居る。大声せず、叱呼せず、孤坐独棲、そして空想と思索に耽ると云った風である。何ちらかといへば詩人肌といわんより、哲学者肌の要素が多い。感情よりは、寧ろ理性に縋りて信仰の険路を一歩一歩に踏みしめて登り行くという趣味がある。私はこの人は早く綾部に来る人ではないと見当をつけた。

黙って来、黙って聴き、黙って去った谷口君は爾来数ヶ月間杳として其消息を知らさなかったが、その頃神戸に新設された支部などにも出入りし、数々の奇抜な霊的現象を調査する傍ら、大本神諭の研究し、漸く大本で説く皇道霊学の真味を捕え得たらしい。

情熱のみで働く人は、ややもすれば冷め易い。

頭脳の悪い人は、下らぬ議論や薄っぺらな学説に迷される。

金銭や地位のある人は妥協的に流れる。老人は兎角優柔不断に陥る。谷口君には幸い此等の何れにも煩累が無かった。そして翌くる大正8年の早春には、神戸を後に綾部に移住して来た。私は案外早く形がついたと歓んだ。

それから谷口君は全然皇道大本の畑の人となった。雑誌『神霊界』の編輯に当ったり、霊学に関する谷口一流の研究を筆に書いたり、口で説いたり、やがて大本の機関新聞『大本時報』の刊行されるや、其編輯を助け其間に大本神諭類纂という大仕事にも専心努力した。が、何と云っても、谷口君の三年続きの研究の肝脳ともいうべきものは本書に収められている。

皇道霊学は天地の創造と其淵源を均うし、これほど古い学問は無い。が、崇神天皇が和光同塵の神策を取らせ給い、全然世に埋もるること爰に2千歳、今回綾部に国祖神と共に復活したのであるから、これほど新しい学問は又外に無い。

それ丈頑冥不霊な腐儒、学究をはじめ、殆ど満天下の非難、攻撃、讒悔、嘲弄の標的と成りつつあるは無理もない話である。谷口君が敢然として其鋭い研究のメスを之に向けたのは寔に天下の快挙と謂わねばならぬ。

皇道霊学の範囲は広くして且つ深い。実は天地間一切の事物、哲学も、科学も、宗教も、政治も、軍治も、経済も其他有ゆるものも悉く此内に抱擁されて帰一融合されねばならぬ。

此質のものである。これからは苟くも研究的良心のあるものならば、天下を挙げて此方面に殺到して来るに相違ない。

百人や千人、百年や千年、人間がド-切っても、それで際限窮極が見付かる学問ではない。谷口君が兎も角も先鞭を之につけたのは、それ丈で既に燗眼である。後日何人か現われて研究の歩を進めるにしても、此第一人を無視することは出来ない。

真信仰に入るべき途は、人毎にめいめい異なると云って可い。奇蹟から入るもの、神諭からも入るもの、病気から入るもの、不幸災厄から入るもの、燗悶焦慮から入るもの等数え尽すべきもない。が、知識尊重の癖をつけられた現代人士は、矢張り霊学方面から入りたがる。本書は現代人士の要求の大半を充たすものであると確信する。

此点から見ても本書出版の意義は充分だと思う。

大正964日修齋会本部に於いて

   浅野和三郎

 

このように谷口雅春先生を称しているのです。この分を読むと大本神諭は谷口雅春先生が類纂したことになる。霊学の根本に於いては谷口哲学が修められているのである。

されば、その内容に天皇信仰があるのかということです。

だが『皇道霊学講和』の著述のなかには天皇信仰という言葉はないが、宇宙の本質と言葉元子という項目がある。新約聖書を引き合いに掲載し(『皇道霊学講話』P36~)

『大初に道あり、道は神と偕にあり、道は即ち神なり、この道は太初に神と偕にありき。萬の物これに由りて造らる。造られたる者一つとして之に由らで造らしれはなし。之に生命あり、此生命は人の光なり。光は暗きに照り、暗きは之を暁(さと)らざりき。』

この基督教徒にとって頗る難解なる一章は皇道霊学に仍って忽ち容易に開明されるであろう。是は何のことはない、言霊元子の一元論を説いたのである。

言霊元子は天地に満ちている。

天地に充満する言霊元子は常に霊霊浩浩活機臨臨乎として不断の振動を続けている。この言霊元子の振動が聲音ある。

吾人の聴覚に触れる所の聲音は単なる空気の振動かも知れぬし、宇宙の無限に霊妙なる声音に較

ぶれば僅かにその一部分に過ぎぬのであるが、宇宙には常に鳴り鳴りて鳴りやまぬ聲音満ち満ちている。即ち聲音(言葉)は満ちであり道であり、道は言葉であり、宇宙に満ちているのである。

宇宙に満ちている最初の言葉が◎(す)(皇)(す)の一音であったのである。

余は物質分子に於ける普遍的原則は宇宙の根元実証に於いて見本的に真理であるところのものの再現であることに曩に少し少し言及したのであるが、物質の分子、原子を験するに、一個の陽電体を中心にして、それの反対性の数個の電子が、その周囲を回転しつつあることを知るならば、大宇宙に於いても一個の中心天体を中枢として、幾多の遊星その他が回転しつつあることを知る事が出来る。

而して又之と同時に、各言霊元子に於いても或は陽性の言霊元子を中心とし、或は陰性の言霊元子を中心として、その反対性の言霊元子の回転し振動しつつあることを推定することが出来るのである。

真とに言霊元子にも陰陽があるのである。その根元実体たる言霊元子に陰陽あるが故に、それより生成化育し来れる宇宙の森羅万象にも陰陽の別が生じ来るのである。

陰陽太初より備わればも未だ剖れざる状態の言霊元子の活機臨臨乎たる振動による聲音、これが宇宙の聲音であり、◎(す)(皇)(す)の聲音である。

 

このなかに皇を「す」と発音したことである。これは明らかに天皇の皇であり、統(す)べらくの「す」であり「未発の聲」であるのが「す」である。

『古事記』では天之御中主神であるのが「す」である。

このようにして大本時代においても天皇信仰を皇道霊学により説いていたのです。つまり「生長の家」発祥以前より未発の聲であり、天皇信仰は現存していたのです。

 

『皇道霊学講話』

目次


序にかへて

第一章 総説

1.科学界の覚醒

2.驚異すべき大本神諭の内容

3.泰西に於ける交霊術の価値

 

第二章 最近の世界思潮と其矛盾

 1.霊学なき改造運動と芸術批評

 2.霊的問題は社会改造の根本義

 3.民主主義及無神論跋扈

 

第三章 宇宙の本質と言霊元子

 1.全大宇宙の本質

 2.言霊元子の活動と時間空間

 

第四章 言霊元子活動の天則

 1.全大宇宙の活動を表現する言霊

 2.陰陽火水霊体二元の誕生

 3.産霊の意義と新陳代謝の天則

 4.積極性と消極性との共同活動

 5.御筆先に現われたる天地の創造

 6.人類の聲音と宇宙の言霊

 7.葦芽比古遲神と微分子の構成

 8.霊系と体系との複雑な交錯

 9.体と霊とは何れが主か

 10.男女の社会連帯と母性の復興

 11.霊の男女性と体の男女性

 12.産霊と霊主体従との根本原則

 13.産霊の究極目的は何であるか

 

第五章 神力の発現と自然現象

 1.最近科学と自然哲学の批判

 2.至大天球の位置のエネルギ-

 3.八力の諸神の顕現とその分担

 4.宇宙に遍遲して個体を有せる神

 

第六章 基督再臨問題と其意義

 1.  基督再臨問題の貫き鍵

 2.如何にキリストは再臨するのか

 3.所謂秘密の経綸とは何ぞ

 4.再臨の基督とは如何なる人ぞ

 5.大本神諭とバイブル

 

第七章 世界の立替立直と其時期

 1. 立替立直とは何ぞ

 2.ダニエル書に現われたる世界の終末

 3.建替切迫せる今日の男女問題

 4.古事記に現われたる三貴士

 

第八章 人類の起源と其進化

 1.大本神諭の教ゆる人類の起源

 2.天孫民族は猿の子孫にあらず

 3.人類発生率より観たる日本人

 4.天孫降臨前の先住種族

 

第九章 日本対世界の大葛藤

 1.古事記に表はれた大預言

 2.神政成就世界統一後の楽天地

 

第十章 日本人の使命と世界統一

 1.宇宙の普遍意思と日本の使命

 2.平等の差別と差別ある平等

 3.日本は世界統一の資格ありや

 

第十一章 霊魂と宇宙意思

 1.生物の霊魂と無生物の霊魂

 2.肉体の龍神と霊魂の龍神

 3.受胎に現われたる宇宙意思

 4.細胞霊魂の神権君主組織

 

第十二章 霊魂の人格的存在

 1.人格我と細胞霊魂の関係

 2.死後の霊魂の生活状態

 3.死といふ現象の真意義

 4.所謂交霊現象の本体

 5.動物霊は人類に憑依するか

 

第十三章 憑霊現象と心理学者の誤解

 1.心理学者の潜在意識説

 2.心理学者の提供せる一実例

 3.所謂潜在意識の自働現象

 4.心理学者の所謂第二人格

 5.精神交感に伴ふ幽霊現象

 6.様々の隠身と神憑現象

 7.悪霊の駆逐と其方法

 

第十四章 守護神とは何ぞ

 1.自己の霊魂と正守護神

 2.守護神の三種類

 3.守護神の奉齋と其歴史

 4.祖先の霊魂の奉齋

 

第十五章 鎮魂帰神の価値

 1.正守護神の司る役目

 2.鎮魂帰神と催眠術の暗示

 

 

天皇陛下と三島由紀夫

天皇陛下と三島由紀夫

谷 口 雅 春

大君は神にしませば天雲の雷のうへに庵せるかも

 

 これは万葉の詩人が、天皇の神格を歌ひあげたるものである。万葉の詩人のみならず、古代の日本人は、天皇さまについて、このやうな尊崇の観念をもってゐたのであり、その天皇が建国したまうた日本の国を神国として本当に信じて、日本の国に生まれたことに生き甲斐を感じ、栄誉に思っていたものである。

 ところがひとたび日本軍が敗戦の結果、占領軍が押しつけたる日本国憲法によって、天皇の統治権は否定せられ、「主権は国民にありと宣言し」という国家主権の顚倒を見るに至った結果、天皇を“神”にましますという観念は、日本国民の大多数が希薄になったのは明らかである。しかしまだ純粋な日本精神をもちつづけてゐる国民も少なくないのではなかろうか。

 

その本当の日本精神の権化となり、天皇を“神”にましますと信じ、今上陛下が、占領軍の圧迫に抗することを得ず「人間宣言」の詔勅を下し給うたことを歎いたのは三島由紀夫であった。

氏はその作『英霊の声』の中で、「いかなる強制、いかなる弾圧、いかなる死の脅迫ありとても、陛下は人間なりと仰せらるべからざりし。世のそしり、人の侮りを受けつつ、ただ陛下御一人、神として御身を保たせ玉ひ…祭服に玉体を包み、夜昼おぼろげに、宮中賢所のなぼ奥深く、皇祖皇崇のおんみたまの前にぬかずき、神のおんために死したる者らの霊を祭りて、ただ斎き、ただ祈りましまさば何ほどか尊かりしならん。などてすめらぎは人間なりたまひし (繰返し)」と二・二六事件の英霊をして欺かしめているのは、三島由紀夫自身の欺きを天皇にぶちまけたものなのである。三島由紀夫氏はこの作品を世に発表した後、ある人に、「これを天皇に対する言葉として発表した以上は、必ず私は責任をとる」と話されたことがあったさうである。   

 氏が割腹自殺をとげて最後に「天皇陛下万歳」と叫んで息が絶えた死は、まさに、その責任をとるために、あらかじめ準備された死であったに相違ないのである。三島氏は唯一の深い理解者として親友なる伊沢甲子麿氏に時々乃木大将のことを話されたさうだが、乃木大将は旅順の攻略戦に於いて、明治天皇の股肱である陛下の軍人を多く戦死せしめた責任をとって自刃する日を待ちつつ準備していられたのか、恰度、明治天皇崩御せられ大喪のご発引の時を期して自刃せられたのである。

 

 三島氏にとっては、天皇は“神“であらせられ、絶対者であらせられる。その天皇に対し「天皇の人間宣言」について天皇の赤子の欺きをぶちまけて、再び「神としての御宣言」あること要請し奉った以上、それは肉体人間として許さるべきことではなかった。三島氏自身が「肉体」であるといふ「仮面」を棄てて、自己が霊となり「神の子」として天皇の玉座の前に脆くほかなかったのである。そして氏はその日を十一月二十五日陰暦に換算すれば吉田松陰が小塚原で処刑された日と定め、松陰の死が明治の王政復古の原動力となったよう自己の死をもって”万世一系の天皇これを統治す“といふ”大日本帝国憲法“復原の原動力たらんことを欲したのである。きっとその日の来らんことを庶幾ふ。(46年3月)                 <生長の家総裁>

神と噛む

三輪山は酒の神の山です。

大神神社の隣に狭井神社がありますが、ここから三輪山に登るのですがここに三輪山とお酒の由来があります。

酒という言葉には「処女が米を噛み、それを醸成して酒が出来る」のです。そのためそれを入れる入れ物をかめ)といいますが、これも「噛む」という語源からきているのではないかと思います。

噛むというのは神を現わします。噛む→神

この言葉には三輪山が大いに関係しています、三島由紀夫の「奔馬」には

 

『官幣大社大神神社は俗に三輪明神と呼ばれ、三輪山自体を御神体としている。三輪山は単に「お山」と称する海抜四百六十七メ-トル、周囲約四里、全山に生ひ茂る杉、檜、赤松、椎などの、一木たりとも成木は伐られず、不浄は一切入るをゆるされない。この大和国一の宮は、日本最古の神社であり、最古の信仰の形を伝えていると考えられ、古神道に思ひを致す者が一度は必ず詣でなければならぬお社である。
「みわ」の語源には二説あって、古へ酒を醸した素焼の器の甕(実際の字は瓦ヘンに長)(みか)の訛であるという説と、韓音の米うん(実際は酉へんの日の下皿)(みおん)の義だという説とがある。神酒(みわ)と神そのものとを同一視して、神(みわ)と訓ずるようになったのである。祭神大物主神(おおものぬしのかみ)は、大国主神(おおくにぬしのかみ)の和魂(にぎみたま)であり、古くから酒造の神とする信仰があった。』

 

またあるブログには

「かみ」ということばの語源は、「噛(か)みしめる」の「かみ」である。この世界に気づいてときめく体験を「かみ」といったのであり、そんな心の動きから「起源としての神話」が生まれてきた。

私も前に「神」ということばの発想はどこから来るのだろうか思考をめぐらしたことがあるからです。

 作者は天性の自由な発想でその結論を出しているのですが、これは私も同じように考えたことがありました。

 「神(かみ)」は、カ行とマ行の組み合わせです。神と同じような使い方をするにことばに「上(かみ)という言葉もあるのです。同じ「かみ」ですので現代は同じ発音で使われているのですが、古代は「み」の発音でことばの意味を変えていたことが音韻学で明らかにされています。神の場合の「み」は口を前に尖らして発音し、上の「み」は、普通に発音したようです。

 マ行の「み」は、このような口の使い方をしても実は普段人によってですが発音している時があると思います。古代人はしっかりとこの発音のしかたが確立していたようです。

 例えば何気なく意識しないの「噛む」と発音の仕方は上記の「神」と同じで「上」とは異なります。

 古代の噛むで発想されるのは、酒造りです。そして古代では酒は神と非常に関係が深い存在でした。三輪山は神の山であるとともに「三輪」はお酒のことでもあるのだそうです(万葉学者犬養孝先生)。

 醸(かも)し出すという字は、醸造の「醸」で、酒に関係すること承知の事実です。

 「かもす」は何か得体の知れない「もの」の気配を感じますが、これが「神徳」から生じるものとされ、今日の写真の昭和2年な発刊された国文学者倉野憲司先生の『古事記の新研究』の記載の一部でも「噛む・醸す」の神徳を示すことばとして考察した学者の名が出ています。

 したがって、「神」を「噛む」に語源を求めることは一概に否定できないことです。

皇道大本と谷口雅春先生-12

亀岡叢書第参編 御筆先の解説せる 大本霊学は谷口先生の著述された御本です。


大正9615日(第一号) 「やさしいおはなし」(一)        谷口白龍王

大正9625日(第二号) 「大本教のフランシスたれ」(一)     まさはる

                 「やさしいおはなし」(二)        谷口白龍王

 「御筆先による大本霊学の解説(上)」   谷口白龍

大正975日(第三号)  「大本教のフランシスたれ」(二)     まさはる

「やさしいおはなし」(三)        谷口白龍王

「御筆先による大本霊学の解説(中)」   谷口白龍

大正9715日(第四号)  「大本教のフランシスたれ」(三)     まさはる

「やさしいおはなし」(四)        谷口白龍王

「御筆先による大本霊学の解説(下の上)」 谷口白龍

大正9725日(第五号)  「大本教のフランシスたれ」(四)     まさはる

大正985日(第六号)  「神示の比較宗教論」(上)        谷口白龍

「大本教のフランシスたれ」(五)     まさはる

大正9815日(第七号)  「神示の比較宗教論」(中)        谷口白龍王

                                                                 (王が付いている)

 「幽霊を見た話」(上)          谷口白龍王大正9825日(第八号)  「大本教のフランシスたれ」(六)     まさはる

「幽霊を見た話」(中)          谷口白龍王

大正995日(第九号)    「幽霊を見た話」(下)          谷口白龍王

「神示の比較宗教論」(下)        谷口白龍王

「鎮魂帰神の要諦」(上)         まさはる

大正9915日(第十号)   「形骸の藝術より霊魂の藝術へ」

△小倉未明君に答ふるための對和      まさはる

「やさしいおはなし」(五)        谷口白龍王

「鎮魂帰神の要諦」(下)         まさはる

大正9925日(第十一号) 「日の出の守護と云ふ意義」       谷口白龍王

大正9105日(第十二号) 「基督再臨の真相」          谷口正治講述

                (一)仏法滅尽と月光菩薩

                (二)ヨハ子黙示録の研究

                (三)黙示録と今後の預言

                (四)基督再臨問題

                (五)基督とヨハ子

                (六)問題の出口王仁三郎

                (七)誤解せられた基督

                (八)基督再臨の時期

                (九)月光菩薩から弥勒菩薩

                (十)基督再臨の意義

大正91015日(第十三号) 「社会主義と皇道大本」(上)     谷口正治講述

                (一)民主思想存在の意義

                   △民主民本の思想

                   △デモクラインは

                   △解熱剤を服用

                (二)自由と平等の問題

                   △個性の尊厳

                   △正義と自由と

                (三)民族的個性の尊重

                   △民族的天分

                   △個性の尊厳

                   △大日本天津日嗣陛下

                   △外国人の藝術

                   △霊相学の見地

                   △言葉が清明豊富

                (四)民主政治の欠陥

                   △民主政治は素人政治

                   △個性の選択及淘汰

                   △代議政治の運用

                   △個性の被覆

                   △宇宙の大々的祓ひ式

大正91025日(第十四号) 「宇宙及び人生の目的」       まさはる

「社会主義と皇道大本」(下)     谷口正治講述

                   △個性発揮の誇り

                   △行詰った現代

                   △個性の選択淘汰

                   △国家社会主義者

                   △個性の発揮と自由

                   △人間的陰謀を企画

                (四)大祓詞と資本主義

                   △資本の蓄積

                   △神霊の底流

                   △資本主義蓄積が不可能

                   △剰余価値の産出

                   △不労利得の略奪

                   △貨幣制度は改造

                   △貨幣制度の全然廃止

                   △大産業制は改廃

                   △労動の享楽化

                   △経済政策の原理

大正9115日(第十五号)  「非醫治療法批判」(一)      谷口正治

1)岡田虎次郎氏の死と静座法の眞価

大正91115日(第十六号) 「大本教祖と古事記の預言」      谷口正治

「非醫治療法批判」(二)       谷口正治

2)濱田光哲氏の念射術

大正91125日(第十七号)  「非醫治療法批判」(三)      谷口正治

3)大祓詞治療法

4)道徳的病気解決法

大正9125日(第十八号)   「言霊と神通力」         谷口正治

                (一)宇宙の一大神劇

                (二)三種の寶(とうと)き鍵

                (三)言霊学の概念

                (四)ウの言霊

                (五)エの言霊

                (六)ハ及びスの言霊

                (七)シの言霊

                (八)其他の言霊

「アイスタインの相対性原理について」  まさはる

「非醫治療法批判」(三)      谷口正治

5)気合術批判
6)鈴木美山氏の哲理治療法



上図は彗星にご寄稿された『彗星』大正七年九月十日号(心霊治療法の骨子)

 

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皇道大本と谷口雅春先生-10

「谷口先生と武者小路実篤」

下記の文章は『谷口雅春とその時代』小野泰博著の抜粋です。

ここでとりわけ、武者小路実篤の『皇道霊学講和』を読んでの反論である。

茲に書いていますように

「御手紙拝見正直な処君の本を読むまでは君に随分好意をもっていたのですが、君の本をよんでがっかりしたのでした。正気の沙汰と思えないことが多く書いてあったので嘘もいい加減にしろと云う気がしました。君があの本を書いたことを後悔されることをのぞんでいます。君には某子が耶蘇の再生に見えるのですか。龍が日本人になると信じているのですか。正気に帰るか正直になるかどっちかを望みます。」

この文章は大正10年である。その年の八月三十一日付で「谷口先生」に届いている。

谷口先生は武者小路実篤の「新しき村」というユ-トピアを目指し、実際宮崎県の児湯郡木村町大字石河内に人間の理想郷を目指し開拓した村がある。

それを好意的にもっておられ、それが谷口先生はこの「大本」に理想郷をめざしておられることがわかります。

谷口先生はここで「正しき信仰」とは如何なるものかを、切々と説いておられます。

「正しき信仰」とは常に動揺変化する時代の科学や常識には超然として不変なるものであると喝破されている。

この谷口先生の反論は実に爽快である。これほどの有知識者に泰然と怯むことなく反論されておられるのが感心致します。

それでは長文ですが引用させて頂きます。


武者小路実篤批判

明治四十三年(一九一〇)四月、『白樺』が創刊された。そのとき志賀直哉二十八歳、武者小路実篤は二十六歳の青年であったが、谷口正治はまだ十七歳の中学生であった。「白樺派には元来「遊ぶ」仲間と、「道ばぬ」連中とがあり、前者には志賀や里見惇があてられ、後者には武者小路や長与善郎が属し、一体に〔遊ぶ」仲間の方はリアリスティックな型の作家で、「遊ばぬ」連中の方は、アイディアリスティックな型に入るといわれる(本多秋五「白樺派の文学」)。この武者小路がトルストイの強い影響のもと「新しき村」の建設に乗り出すのは大正七年(一九一八、三十四歳)であり、布局武郎が、父の死後、父のもっていた北海道の広大な農場をその小作人たちに解放したのは大正十一年のことである。

武者小路は青年時代を回顧してこう述べている。


 「自分が今日あるのはトルストイのおかげだと思っている。自分にとってトルストイは最大の恩師であった。今自分はトルストイの思想と同じ思想を持っているとは、言えないが、しかし自分か人生に深い信頼を失わずに今日迄来られたのはトルストイのおかげである……」


 また、恋する程に愛していたトルストイの感化は強く、「自分は冬中、火を遠ざけたり、うす着したり、殺生するのが気を引け、家出を考えたりした」(「トルストイ」の序文)ともいう。そうした理想を生かす場としてのユートピアが新しき村であり、一種の原始共産体というものを夢みていたのである。

この武者小路について谷口正治は、大本数を出てゆく直前の大正十年に公開状を書いている(「新しき村の開拓者武者小路実篤氏に贈る公開状」「神の国」大正十年十月号

その中で正治は、「新しき村」の精神はけっこうであるが、そこには、「神に対する観念が不明瞭なために、村に臥っている龍に晴が黙けられておらず、本当に村の精神が生きて来ない。何だか薄紙を隔てて物を見ているような歯禅さを感じないではいられない」と問いかけている。


大正九年に出た谷口正治の『皇道霊学講話」に対する武者小路の評であろうか、谷口宛に、「……君の本をよんでがっかりしたのでした。正気の沙汰と思えないことが多く書いてあったので嘘もいい加減にしろと云う気がしました。君があの本を書いたことを後悔されることをのぞんでいます。君には某子が耶蘇の再生に見えるのですか」と、暗に出口王仁三郎をキリストの再臨に擬している谷口の論を、正気の沙汰とは思えなかったとしている。そして武者小路は、「真の信仰は健全な常識や科学と矛盾しないもの」という立場で押してくる。また彼は雑誌『新天地』の記者に対し、「大本数は理性に反する処が多いので無視しています。調べる気もありません」と回答している。


 これに対し谷口は、聖書こそ正気の沙汰と思われないことで満ちており、例えば、「耶蘇が五つのパンと二つの魚を五千人に摯いて予えた時に、皆々食いあきて、その余りたる屑が十二の箆にI杯になったという記事や、耶蘇が海の上を徒渉した」という記事など、理性では解しがたいにしても事実ではないかと遣る。綾部の皇道大本にしても、その修行場の実況を見るに至り、在来の科学的常識では到底肯定しがたい幾多の霊怪現象をまのあたりにすると、聖書の嘘にみえる記事が文字通り超理性の奇蹟に見えてくるものだとやりかえす。

 そして武者小路の神観念があいまいで、「我々はこの宇宙をつらぬく力を信じている。神の如き力である。この力に自己を任せることより他に、自己を生かし切る道のない事を信じる」という表現について、なぜ「この宇宙をつらぬく力」を「神の如き力」としかいえず、はっきり「神の力」と言い切れないのかとつめよる。


谷口にとっては神の力を霊的実修として鎮魂帰神の中にその働きを体験していたからであろう、この強い語気は。谷口は、武者小路に、自分の書いた本で満足できなければ「旧約の予言書が書いたようなきびくした御筆先を読んで下さい。序でに綾部でも亀岡へでもお立寄り下さい」、そうすればやがて新しい村の信仰にも神観念がはっきりつかめることになるであろうと反駁している。たしかに新しき村は、「生かそう」という神様の意志を漠然ながら感じてはいるようだが、大本の方はすでに「生かそう」という神の意志をはっきり把握しながら生長しようとしている。


新しき村も、大本もそうした意味で生かそうという神の意志から出たものだという。ここにはやがて「生長の家」活動の基本になる「生長」の概念が強く押し出されているのに気づく。「生かそう」という神の意志にもとづき法爾自然にその形式が大きく神のおはからいに委せて出来あがろうとしているのが皇道大本なら、自力の限りと、人間的なはからいの限りを尽して、その形式の方が出来つつあるのが新しき村だという。

 まだこの時点では、谷口は懸命に大本の立場を擁護するための論陣を張っている。つまり、「兎もかく某氏(出口王仁二郎)を耶蘇の霊魂の再来であることを信じ得れば信じて下さい。信じ得なくば信じて下さらなくとも宜しい。唯これだけは某氏を知る私として断言し得ることなのです。某氏が仮令耶蘇の再生でないにしても彼は救世主として是非有たねばならぬ渾沌そのもののような風格を備えていると」(「新しき村の開拓者武者小路実篤氏に贈る公開状」「神の国」大正十年十月)。

こうした真剣な問いかけが当時の大本にはみなぎっていた。

 彼らはキリスト数の魅力は、そのバイブルに記せる最後の審判と天国の福音とにあるとし、これを大本流にいうと、「最後の審判は、幽界と顕界との一括的大淘汰」であり、後者は「地上の理想的世界建設」であり、この二大目標を除けば大本数の出現はほとんど無意味だ(池沢原治郎「大本数は果たして邪教乎」大正十年、ヱ八九頁)とさえ述べている。かくて明治二十五年(一八九二)に誕生した大本数は、三十年足らずの間に教団の勢力が全国的規模に広がり、大正九年(一九二〇)には、「信徒十万」を数えるようになったという。

 この当時(大正七~九年)入信した人たちの「入信の経路」を雑誌『神霊界』や『大本時報」はのせているが、それによると四十五例のうち軍人が五例、社会主義からの転向者八例、立替え立直し、世界統一の考えに共鳴してやってきた者十二例、哲学的な悩みからきた人十例、病気直しにより入信した者二名となっており、年齢的には二十歳入二十歳が過半数をしめたという(「大本七十年史」上、四六八言。この『神霊界』に谷口正治(神戸、二十七歳)として「入信の経路、参綾の動機」をしたためたのは大正八年二月〒五号)のことである。

 谷口はここで、例のメーテルリンクに惹かれると共にオスカー・ワイルドの華爛な美装に充ちた生活に憧れたことを述べた上、例の女性遍歴のことを告白し、「永い間不満足に思って居た社会組織が根底から立替えられる皇道大本なることを知った」ことが動機であるとする。また、すでに彼は、今まで独学で勉強してきた「心霊療法の骨子」なる小文を松江の『彗星」誌に送り込んだところ、それが受理され掲載されたことが動機で参綾の時節を迎え、「綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥じない生活を見出しました」と桔んでいる(ちなみに、この当時オスカー・ワイルドに心を惹かれたのは谷口だけでなく、作家谷崎潤一郎あり、和辻哲郎があった。和辻はその耽美派的発想で、谷崎の感心する処と自分の感動する個所の違いを知り、とても谷崎に及ばないと悟り、作家志望を捨てたという)。

 いずれにせよ大本発展の盛期大正七年から元年へかけては、大本数の出版物は約三十種にのぽり、「文書宣教」を主とする新しい教団活動のあり方を如実に示すものであった。そして、その中心的機関誌『大本時報』の編集は浅野(前出、四九頁)が指導的な立場に立ち、今井楳軒と並んで、谷口正治も参画している。後の「生長の家」活動が、主として文書伝道でその数勢を発展させてゆく方法は、すでに大本においてそれを見ることができる。文書による意見の表明が盛んになると、自ら見解の相違も表面化してくる恐れもあった。





大本の入信の動機

谷口先生は綾部の大本へ行かれる。それを「参綾」と呼んでいます。その動機では「自叙伝」より、こちらの文章のほうが詳しく書いています。当時の大本ではそこで寝泊りされている人達をみて今までの悩みとかが払拭されたような事であったと推察されます、それは基督の如く感じられたような気がします。


『私は綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥ぢない生活を見出しましたそれは実に各人の働きが人類の喜びであるような生活でした。過去を振返って見ますと凡てが大本へ入る前の予備試験のやうに考へられます。』


大本の入信は「過去を振返り、今までの生活は大本に入る予備試験」と云っておられます。余程感銘受けられたかは想像難くない。

下記の文章は『神霊界』大正七年二月十五日號(第八十號)より抜粋致します。

また、大本入信前に『彗星』大正七年九月号に『心霊療法の骨子』を投稿されておられます。その時のやりとりが書いています。

『皇道大本』の特集が大きく組まれていたのと相対するような形で掲載されていたのを書いておられます。それは『彗星』という雑誌を送って戴いている御礼として『投稿』されています。

なお、岡田射雁はそのまま書きましたが、三十年史や五十年史や自叙伝には岡田建文と記載されております。

大正初めに松江には心霊や霊術とかの人物を排出しております。『彗星』の岡田建文という人物はあの柳田國男とも親交があり、この『彗星』以外にも『心霊不滅』『妖怪霊異誌』など多数出版している。また木原氏の耳根圓通法と記入しているのが五十年史では木原鬼仏と記入しているが木原通徳の事である。大本にも大正八年に入信し、第一次大本事件で辞めている。入信していた時期に『霊明法』という本やそれ以外に『精神修養 冥想法講話』『心身強健養気療法』を出版している。松江では『心霊界』という雑誌を出版していた、後程、谷口先生は『心霊界』にも多数、ご投稿なされています。

松江には永井霊洋という霊術家がいる最初は法華行者のもとで修行してエクソシストになり、憑依的な世界観を捨てて霊術家に変貌したという、興味深い経歴の持ち主で、優秀な術者、治療家ではあったようである。霊子板のような木板を使った霊能開発法があり、ポスト太霊道の霊術家なのか、あるいは田中守平よりも先駆的な術者なのかという興味深い問題もある。この永井の団体は、桑田欣児の団体と同様、戦後は宗教法人に衣替えして子息が後を継ぎ、「みちから教」と名乗り、松江で活動を続けていた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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皇道大本と谷口雅春先生-8


『皇道霊学講話』 谷口正治著
  大正9年六月初版 新光社発行 全332

 かの谷口雅春氏がまだ谷口正治と称していた時代に書かれた古典的名著ですが、現在入手は殆ど困難な本です。
 友清氏の「霊学筌蹄」と双璧をなす書籍と云われていますが、その名のみ知られ本書に就いてはその希少性から殆ど語られることはございませんでした。
 霊学筌蹄は誰にでもすぐに買えますので是非お読み比べをして戴きたいと思います。

尚、序文は浅野和三郎氏が書かれています。
 
目次 
 第一章 総説
 第二章 最近の生活思潮と其矛盾
 第三章 宇宙の本質と言霊元子
 第四章 言霊元子活動の天則
 第五章 神力の発現と自然現象
 第六章 基督再降臨問題と其意識
 第七章 世界の立替立直と其時期
 第八章 人類の起源と其進化
 第九章 日本体世界の大葛藤
 第十章 日本人の使命と世界統一
 第十一章 霊魂と宇宙意思
 第十ニ章 霊魂の人格的存在
 第十三章 憑霊現象と心理学者の誤解
 第十四章 守護神とは何ぞ
 第十五章 鎮魂帰神の価値

 本書は神道のみならず様々な視点から書かれており、この時代にしてこの卓見に達したる谷口氏には敬伯するしかありません。

又本書では田中守平の太霊道の批判などもしており、とても興味深いものがあります。
「太霊道の田中守平氏は宇宙独一眞神を指して太霊と称しているが、氏は一方には太霊には意思を有せずと称してその超越的思想を誇るかに見るると同時に、他方に於いて宇宙一切凡総事物太霊の霊勅に出づると称しているのは、甚だしい幼稚な矛盾に陥ったのである。太霊の霊動とは天之御中主大神の智情意の他の何であるか?それは余りにも明白な錯誤であると云うべきである。云々」
とかなりのページを割いて弾劾しており、これも当時の文献ならではの記述であると思います。

また著者は「六六六」を「みろく」と解し、また神は「火水」とも云えると持論を展開している。キリストも独自のことたま論にて一太刀で斬り捨てています。
独自の言霊理論を縦横無尽に展開し、持論を懇々と説いております。

よくもまあこれだけの内容を要所を掴んでテキパキと書かれたものだと関心します。
谷口氏はまさしく稀代の方だったと再確認出来る書であろうと思われます



 

 

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皇道大本と谷口雅春先生-7

『神の國』の御寄稿文章

、『神霊界』の後を継いで発刊された大本教の機関誌『神の國』(大正十年八月號より発刊)の御寄稿文章は、

『神の國』(大正十年十月號)第三號
「『我れ爾救ふ』の著者 山中峰太郎氏に贈る公開状」 谷口正治
 (大正十年九月六日稿)

『神の國』(大正十年十一月號)第四號
「新しき村の開拓者 武者小路実篤氏に贈る公開状」 谷口正治
 (大正十年九月二二日稿)

「美代子さん」 谷口輝子
この「美代子」さんは谷口姓として始めての輝子先生の投稿文です。しかもこのような長文も初めてです。





『光』誌御寄稿文章

『光』大正1110月号

文化生活と憐憫道」14頁の御文章)

『光』昭和2年4月号 「再び『呪わざる生活』に就いて」6頁の御文章 (昭
和2年1月3日奉天木谷様方にて)

『光』昭和25月号 「大調和の世界」7頁の御文章
(今、昭和2年4月29日午前5時です。ひどいインフルエンザで妻子40度の体温を上下したのがやっと病状が落ち付いたらしいので、久しい
間の負い事を果さして頂きました)





『神の國』(大正十年十一月號)第四號

「美代子さん」 谷口輝子
この「美代子」さんは谷口姓として始めての輝子先生の投稿文です。しかもこのような長文も初めてです。

御結婚されたのが大正九年十一月二十二日、二八歳の誕生日に結婚されておられます。輝子夫人は二十五歳です。その後床に伏したまま苦しい生活がはじまったと記入されています。
当時は心臓弁膜症といわれ、谷口先生は当時を回想してつぎのように言われている。

『その頃、わたしはどんなに色々の医学書を読んだか知れません。民間療法の書物もたくさん読みました。
医者に負けないほどに私は病気の治療法や薬剤のことや、発病の原因などを知ろうとつとまました。若しこの家内が強健な身体でありましたならば、私は治病のことについてこんなに深く研究もしなかったでありましょうし、その研究から来た「本来人間無病」の生長の家の真理にも到達しなかったかも知れないのであります』

『神の國』に寄稿されておられるのですから、随分よくなられていることが推察できます。

なお、谷口先生が『その頃、わたしはどんなに色々の医学書を読んだか知れません。民間療法の書物もたくさん読みました。』
と記入されておられるのは、以前紹介しました、亀岡叢書のなかの

第十四編 非醫治療法批判      谷口正治 大正1021日発行

でいかに医療書を読まれたかが推察できます。
ここで記入されているのが「非治療法批判」ですから読まれた読書の中から体系的に纏められた書物です。

1)岡田虎次郎氏の死と静座法の眞価
2)濱田光哲氏の念射術
3)大祓詞治療法
4)道徳的病気解決法
5)気合術批判
6)鈴木美山氏の哲理治療法
(上巻終)と記入されていましたので、次回を書かれていたように推察できますので、治療法や薬剤の勉強されたことがわかります。


 


 


 

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皇道大本と谷口雅春先生-5

立教以前のご文章1

一燈園機関誌『光』-投稿文より

14 大正11(1922)8

「天香さんと倉田さん―或る日の私と私の妻との對話―」

P2831

16 大正11(1922)10

「文化生活と憐愍道―この一篇を敬愛する倉田百三氏に呈する―」

P922

26 大正12(1923)8

「光の友へ一つの申出で―業因断滅の根本的な実行方法について―

P2330

30 大正13(1924)3

「愛と恋と」

P3334

 

31 大正13(1924)5

「個人に於ける『宣光社』的はたらき」

文章の最後に以下次号とあり

 

P1831

32 大正13(1924)6

「個人に於ける宣光社的はたらき」                                

※ 第31輯と第32輯に二回に同じ題名で投稿文(32号は、”宣光社”は『』無し)

P18~22

 

34 大正13(1924)9

「奉仕者の雰囲気に就いて」                                         

 P27は引き続き文章

P612

P271頁のみ)

37 大正14(1925)1

「失業者たちの不幸に泣く―資本家達の良心に訴ふる言葉―」

P1420

39 大正14(1925)3

「或る奉仕生活者の夢―神と青年との對話―」   托鉢三昧についての意見

P611

40 大正14(1925)4

「無相の行者」の境地について」

P1824

 

41 大正14(1925)5

「藝術美以上に美しきものへ―『標立つ道』を通して観たる善と福との一致の信仰に立つてからの倉田百三氏―                                              

P1524

43 大正14(1925)7

「無相無縛の境涯へ」    

P915

44 大正14(1925)8

「雰囲気は語る」       

P2125

52 大正15(1924)4

「隠れたる純情の人々」

P3236

56 大正15(1926)8

「神と偕に生くること 倉田氏の『善悪を横に截る道』及び伊藤氏のその駁論を読みて」

P817

62 昭和2(1927)2

「『亡者』を読んで―呪はない生活の提唱―」

P1318

64 昭和2(1927)4

「再び『呪はざる生活』に就て」

P2732

65 昭和2(1927)5

「大調和の世界―生存は果して罪障なりや― 」妻子二人インフルエンザで40度の熱と記載 S2.4.29

P917

69 昭和2(1927)9

「迷ひ」                     S2.9.1

P3135

71 昭和2(1927)11

「かど掃き」                  S2.9.27

P1623

76号 昭和3(1928)4

「一つの提唱」              

P1823

80 昭和3(1928)8

「霊魂浄化過程の一要素としての苦痛の意義」  S3.7.1

P2127

83 昭和3(1928)11

「若き人道の戦士へ」     この文章のあと西田天香氏の「谷口さんの文を読んで」

P3136

130 昭和7(1932)10

「無一物の医学を語る」                                             

P2838

 

571号 昭和43(1968)8 (これより号と記載)

「明窓浄机- 一燈園の天香さんと金光教の高橋正雄さんの思い出-  『生長の家』第八号より 抜粋記載      

P2427

 

 

588号 昭和45(1970)1

「法喜をもって妻と為す」  谷口雅春著『維摩経解釈』より 抜粋記載      

P3435

 

589号 昭和45(1970)2

「仏教的善と民主主義-全沖縄軍労組の闘争に思う-」  中外日報45125日紙より一部転載 

P41

 

 

590号 昭和45(1970)3

「“元を正す“政治の姿勢」  中外日報4531日紙より一部転載 

P3

 

605号 昭和46(1971)6

「借金は払ったらよい」  『生長の家』6月号より一部転載 

 

18

626号 昭和48(1973)3

「十字架の道」  『生長の家』誌44輯第3号より一部転載

P6P8

633号 昭和48(1973)10

「“生かされてゐる“といふこと」  『生長の家』誌44輯第6号より一部転載

P13~P15

720号 昭和56(1981)1

「みたまの研げた人」  書き下ろし

P19~P20

570号 昭和43(1968)7 ※谷口輝子先生

「天香さんとキング牧師」  『白鳩』第6月号より 抜粋記載      

P26~30

立教以前のご文章2

心霊科学研究会誌「心霊界」第一巻 -投稿文より 

第六号(七月号)大正131923)年71                             

「浄土教擁護」

P3137

 

第八号(九月号)大正131923)年91

「新世界を支配する法則」                        

P1926

第九号(十月号) 大正131923)年101

「如何にせば運命を支配し得る乎」                    

P1524

 

第十号(十一月号) 大正131923)年111

「如何にせば運命を支配し得る乎」()                                    

※ ()の誤りか、詳細は不明。

心霊科学研究会誌「心霊界」第二巻 -投稿文より

 

P1418

 

皇道大本と谷口雅春先生-4

谷口雅春先生の御文章 大本時代

『神靈界』(B五判)掲載のご文章

 

※ 『神靈界』では、旧名の谷口正治、谷口政治、まさはる、白龍王、小倉七美 等のペンネームで投稿、記事を書かれていました。

※ 他に、谷口正治先生の役員紹介の一部は省略致しました。敬称は略させて頂きました。

大正七年十一月一日(第七十號)

「對語 ある國」(幽界の樹林、男女の幽体縺れ合ひながら語る)

『神霊界』初めての寄稿

谷口正治(神戸からの寄稿文)

大正七年一月十五日(第七十八號)

「對話 光りなき國」(舞臺永遠の沈みたる暗黒。佛霊の群縺れ合ひながら語る)

 

谷口 政治(ママ)(目次は正解)

 

大正八年二月十五日(第八十號)

「入信の徑路 参綾の動機」(目次タイトルは名は岩田鳴球となっている)

(私は綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥じない生活を見出しました、それは実に各人の働きが人類の喜びであるような生活でした。)大本の入信の動機を語る。

 

谷口正治 (神戸 二十七歳)

大正八年三月十五日(第八十二號)

「改心しかけた男の日記」○蟻と科学者 ○太陽のやうな神 ○智慧と運命

○時節と天分 (短文)

 

谷口 政治(ママ)

大正八年四月一日(第八十三號)

「邪神の發生と身魂の修秡」(古事記の解読と「神癒」への比較論文)

 

谷口正治(表紙の名前谷口 政治)

大正八年四月十五日(第八十四號)

「大本靈学の私的研究」(皇道大本の鎮魂が催眠術ではないことと、憑依霊の形式など…)

「改宗者の手帳より」○建替は残虐なりや ○悪の発生問題 ○お前とならばどこまでも ○ミロクの大神(キリスト再臨と弥勒菩薩の下生と尊師の567ヶ月に因んで“567殿”

「編集室より」   ※(編集後記)友清歓真より交替の旨

 

谷口正治

 

白龍王

 

白龍王

大正八年五月一日(第八十五號)

「金龍殿雑記」

「編集室より」

 

まさはる

白龍王

大正八年五月十五日(第八十五號)

「編集室より」(綾部新聞を執筆を記載)

 

白龍王

大正八年六月一日  (第八十七号)

「大本靈学より観たる変態心理」

「絶好なる過激思想對應策」

「金龍殿雑記」

 

谷口正治

まさはる

白龍王

大正八年七月一日  (第八十九号)

「皇道大本雑話」()

「つかれたる人」

「編集室より」

 

谷口正治

まさはる

白龍王

大正八年七月十五日  (第九十號)

「つかれたる人」

「心理学者の妄論」

「編集室より」

 

まさはる

小倉七美

白龍王

大正八年八月一日  (第九十一號)

「改宗者の手帳より()」神諭に現れたる天体の創造

 

白龍王

大正八年八月十五日  (第九十二號)

「幽界と色情」=改宗者の手帳より()

「編集室より」

 

白龍王

まさはる

大正八年九月一日  (第九十一號)

「大本靈学座話」=皇道大本雑話()

「食卓の十三人目」=改宗者の手帳より()

 

谷口正治

白龍王

大正八年九月十五日  (第九十四號)

「白と黒」=改宗者の手帳より()

「本守護神と正守護神」=皇道大本雑話()

 

白龍王

まさはる

※注:1 大正九年十月一日(第九十五號)-この號より編集内容が大いに変更となり、ほとんど出口王仁三郎師の文章となる  「おふでさき」や「神諭」、和歌等が中心となる。

 

 

 

 

大正九年一月一日(第百一號)

「歌留多百人一首」(自分の名前の入った歌一首) 

谷の戸を 明けて出口の 御教は 正しく直ゝ 國を治めむ

 

谷口正治

 

大正九年三月十一日(第百七號)

日の本を 神のみ國と 知らずして 見るもたふとし 秋津しま山

 

江守輝子

大正九年四月一日(第百八號)出版局図書編集主任 谷口 正治

 

大正九年六月十一日(第百十七號)

「八重垣神社参拝留守役 一人一首」(自分の名前の入った歌一首) 

谷派なる 神の出口の 正言に 丸く治まる 四方の國々

 

谷口正治

大正九年六月二十一日(第百十八號)

「亀岡萬壽苑紀行歌」(自分の名前の入った歌一首)  

谷派綾部の 大本の 出口教祖の 正言は 明冶二十五年より

千よろづの 寶も衣(きぬ)も 食物も みな大地(おおつち)の めぐみなりけり(募集歌)

 

 

谷口正治

江守てる子(ママ)

 

「桃山参陵記念歌 一人一首」(自分の名前の入った歌一首) 

谷派なる 出口の教子等(こら)が 襟正し 心治めて 参る桃山

谷口正治

 

大正十年三月一日(第百三十五號)

「靈の港」-最後の審判の豫兆-

1)基督を賣す者

2)基督再臨前の聖苦

3)基督の再誕と再臨

4)大本の神癒と建替の時期

5)大正維新の安政疑獄

6)運命と歴史の再現

7)妄(いつは)りの證者(あかししゃ)来る

8)総ての預言の完成

9)五月五日に何が来るか

10)吾等の使命

 

谷口正治

大正十年六月一日(第百三十八號 終刊号)

「わからせて頂いたこと」-他力と自力-  (大正1055日稿)

 

谷口正治

※大正10211日 谷口雅春先生宅にも召喚審問を受ける。(第一次大本事件)輝子先生が対応される。(雅春先生は神戸の実家に帰宅)

皇道大本と谷口雅春先生-3

「生長の家」の言霊学というのは大変重要な意味を持っているのは皆様ご存知であると思います。
だが、たとえばア~ワまでを云ってみて下さいといえばどれだけいえるのであろうか?
また、招神歌でも言霊を理解のうえ唱えられています。だが、大本教からの影響であろうという人がいますが、それは間違いである。それならば比較して下さいと言いたい。多少は似ているかもしれないが、発想そのものが異なる。
その大本の原点は大石凝真素美の言霊解釈と似ている否ほとんど同じである。
それは
『言霊の大要』とは『神霊界』誌上に連載された言霊学の記事である。

初回は大正72月号に掲載され、以後は『言霊学』という記事名で計5回にわたって毎月連載された。(3月号以降は1日と15日の月2回刊となったので毎号連載というわけではない。掲載されたのは31日号、415日号、515日号、615日号である)

署名はないが王仁三郎が書いた、もしくは監修したものと思われる。

この記事の中で六角切子の図を出して、75声の言霊の各方面への活用を説明している。
50
声については「体」と「用」に分けて、25声については「用」のみを説明している。
この「用」の内容は『大日本言霊』とほとんど同じである。
「体」は山口志道の『水穂伝』の「言霊一言之法則」がもとになっている。

八幡書店が昭和61年に発行した『神霊界(全九巻)』を原本として用いた。
これの第二巻に上記の5号が載っている。

例えば『神霊界』大正73月号(P13P20)には

言霊学
シ聲の言葉
昇水の霊也 始也 終也 死也 己也 幸也 司也 育也 石也

牛七 堅く締める言霊也、乾き締り也、子一、却面弛み撒る義、
丑二、寛(ゆる)み撒ねる也、後略

谷口先生は『言霊と神通力』(P13
スの声は中心に締め括る霊力をもっているからであります。スボム、統べる、主(す)、皇国(すめらくに)、天皇(すめらぎ)などの言葉にスが附いておるのはこの為であります。統一され混乱していないという意味から、澄む、住む、透くなどと云うスの声をもった言葉で出来ているのであります。

確かに堅く締める言葉とは書いてはいますが、中心に締める、統一するとは書いていません。

『生長の家五十年史』には
《谷口雅春先生は言霊学については既に大本時代において、江戸時代の国学者である堀秀成や、明治時代では川面凡児や林甕臣の著書を読まれて、その素養を身につけておられたが、この時には、これらの人の著述を典拠としているだけでは異説紛々として確実な解釈を得ることが出来ないために、言葉にヒビキがあり、ヒビキにハタラキ即ち命があると言う真理から、自らの言霊学を『日本霊学略解』(昭和133.01発行生長の家講習会テキスト:50音の霊性を解説同内容が『日輪めぐる』『幸福読本』に記載)としてまとめられている。また戦後は、それを改訂されて『真理』第4卷青年篇に「言霊の神秘について」と題して収録されている。》印は山ちゃん記載

だが、ここで見落とされているのが大本時代の『言霊と神通力』である。これが基本となっていることを見落とせば『古事記』との関連との発想が見出されない。それは大本に入信していたから結びつける事が出来るのである。

最後に『言霊と神通力』に

1)宇宙の一大神劇

何と言う皇典「古事記」は驚くべき大預言であるだろう。私は此頃つくづくこの書物が上中下三巻日本の国に逸散せずに残されているということは、吾等にとってどんなにか力強い事であるだろうと考えます。この纔(わず)かな書冊のうちには過去現在未来を通じて宇宙に起って来るべきあらゆる悲劇、喜劇のプロットがをさめられています。それは全く驚くべき秘密の玉手箱であります。

 このようにして直感にて古事記を預言されているのであります。

古事記を基本とする生長の家は古事記は聖典でもあるべきである。

 

皇道大本と谷口雅春先生-2


皇道大本研究資料 亀岡叢書 全14巻  

発行 大本新聞社 小冊子 ☆印谷口雅春先生

第壹編(T9.09)

皇道大本の教義 霊主體従

T9.10.20

 

 

 

P31

 

 

第貮編   正治先生の書物ではありません

佛説 法滅盡經の御話 加藤新講述

T09.10.20

 

 

P21

 

 

第参編    

御筆先の解説せる 大本霊学  谷口正治先生

T09.9.23

 

 

 

 

 

 

 

第四編    谷口白龍(ペンネ-ム)

神示の比較宗教論

T09.10.01

 

 

 

P31

 

 

第五編    谷口正治

ヨハ子黙示録(子はママ)

T09.09.28

 

 

P31

 

 

第六編    谷口正治講述

鎭魂歸神の要諦

T09.10.10

 

 

P28

 

 

第七編   谷口正治

基督再臨の眞相  今井楳軒翁の序

T09.10.20

 

 

P61

 

 

第八編    東尾吉三郎編纂

天理教祖の筆先と大本神諭

T09.11.10

 

 

P34

 

 

第九編    谷口正治講述

社会主義と皇道大本

T09.11.18

 

 

P39

 

 

第十編    谷口正治

行ふべき道

T09.11.20

 

 

P61

 

 

第十一編  正治先生の書物ではありません

大本大教祖

T09.11.20

 

 

 

 

 

第十二編   谷口正治

言霊と神通力

T10.02.01

 

 

P49

 

 

第十三編   東尾吉三郎

明治天皇御製と神諭

T10.02.01

 

 

P31

 

 

第十四編   谷口正治

非醫治療法批判

T10.02.01

 

 

P43

 

 

 


 

 

大本教では大正初年まで『綾部新聞』を編集発行していた。

これは内部では『神霊界』で外部の宣伝ではこの『綾部新聞』です。

大正810月には『大本時報』と改題する。その段階で谷口雅春先生は大本教に入信していた。この改題で編集の担当となっている。

ペンネ-ムを「まさはる」「白龍王」を使い分けていた。編集では「白龍王」をしている事が多い。

さて、『生長の家50年史』でも記載されていない内容を出来る限り書いていくようにします。

話が戻りますが、『綾部新聞』から『大本時報』ですが、ここでは様々な雅春先生の姿が見られます。この新聞に小説を連載しているのですね。

また、この『大本時報』で「皇道霊学講話」を連載している。途中から「ヨハネ黙示録の研究」を書いている。

また、大正985日~14日までの皇道大本夏季講習会で講師として講話しているのです。題名が『皇道霊学』です。

この時期では雅春先生の書籍の『皇道霊学講話』が一番売れるのです。それは判り易いからなのです。

だが、驚くのは大正8年の早春に大本教に入信し、しかも27歳という若さで翌年には講師を勤めているのです。

大正9322日 東京専修大学講演  「大本より観たる心理現象」

大正9323日 学士会館      「神力の科学的研究」

大正9324日 有楽座       「改造の根本義」

大正9325日 神田立花亭     「神と人との世界改造」

 

聴衆は付近の住人ですが、この若さでの圧倒的な講演に構内が感動に震えたという。

 

この昭和9年の3月頃は『皇道霊学講話』と『亀岡叢書』の編纂と超多忙な生活です。それ以外に『神霊界』の編集もあり、研究と執筆に専念していた。

亀岡叢書に『基督再臨の眞相』があるが、そこから雅春先生自身の預言を感じる。この本は後の出版の『神を審判く』の基本となる人生等の疑念が含まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『霊界物語』

大本教の『霊界物語』は当初雅春先生が口述の記録係をされていました。

その内容は『霊界物語』1巻・2巻と記載されています。

 

17章    神界旅行の四    大正10.1019

18章    霊界の情勢     大正10.1020

20章    日地月の発生    大正10.1020

21章    大地の修理固成   大正10.1020

22章    国祖御隠退の御因縁 大正10.1020

21章    大地の修理固成   大正10.1020

26章    魔軍の敗戦     大正10.1021

33章    エデンの焼尽    大正10.1022

34章    シナイ山の戦闘   大正10.1022

38章    黄金水の精     大正10.1023

39章    白玉の行衛     大正10.1024

43章    丹頂の鶴      大正10.1025

47章   エデン城塞陥落   大正10.1026

1章(51) 攻防両軍の配置   大正10.1026

5章(55) 黒死病の由来    大正10.1028

9章(59) タコマ山の祭典   大正10.1029

16章(66)梟の宵企み     大正10.1030

19章(69)夢の跡       大正10.1101

22章(72)言霊別命の奇策   大正10.1101

30章(80)十曜の神旗     大正10.1103

33章(83)焼野の雉子     大正10.1103

37章(87)長高山の悲劇    大正10.1104

39章(89)太白星の玉     大正10.1106

42章(92)甲冑の起源     大正10.1108

 

 

以上出口王仁三郎の口述筆記です。

出口王仁三郎は寝ころんでいる状態でしゃべっていきます。

それを筆記するのですから、大変です。

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『霊界物語』の口述筆録とは

生長の家の信徒は私を含めて、大本の出口王仁三郎の記述した『霊界物語』など読むことはない。元大本の信徒であれば別である。言葉は難解ではあるが、内容は『霊界』の物語である。『霊界物語』の最初に谷口先生は担当(初日4人が担当)なされておられます。最初の口述筆録が下記の文章です。

皇道大本は第一次大本事件が起こり、すぐさまに今までの「大本神諭」からの脱却を図ります。それまでの「愛国的」な思想を捨て、言霊解釈を破棄して『霊界物語』を唯一の信仰本尊として唱え、出口なおの説いた「御筆先」は徐々に消えてくるのである。

つまり出口なおの開祖とその教えというのが「鎮魂帰神」というのがありますが、そうした考えに共鳴したのが浅野和三郎であり、「大正維新」であり「大正10年立替説」を唱えている。谷口先生もそうした「鎮魂帰神」に共鳴して入信しています。

 

そうした幹部がこの大本事件をきっかけに辞めていくのですが、この状況では致し方のない事であることが理解できます。大本からの分派は、菊花会(小田秀人)、真の道(萩原真)、璽宇(長岡良子、真の道からの分派)、惟神会(岸一太)、三五教(中野与之助)、神道天行居(友清歓真)、松緑神道大和山(田沢清四郎)、世界救世教(岡田茂吉)がいます。

大本は当時の教勢数は500万~700万の信徒がおり、その勢力がいかに強力であったか信徒数においても窺えます。

その当時の『大本神諭』火の巻というのがどういうものであったかは、後日書きます。また「鎮魂帰神」とはどういうものであったかも後程記載します。当時の大本の考えとしての「鎮魂帰神」と谷口先生の「鎮魂帰神」との比較をしてみたいと思っております。

え!と思われるかもしれませんが、谷口先生は大本では独特の考えとして捉えられていた部分があるからです。


大本教綾部総本部の金龍殿で「鎮魂帰神法」の神人合一の神懸り感合をする信者達。

(大正10年2月)

 

さて、それではどんな口述であるかを記入致します。

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最初は第一巻 第17章 神界旅行の四(17

 

神界の場面が、たちまち一変したと思へば、自分はまたもとの大橋の袂に立つてゐた。どこからともなくにはかに大祓詞の声が聞えてくる。不思議なことだと思ひながら、二三丁辿つて行くと、五十恰好の爺さんと四十かつかうの婦とが背中合せに引着いて、どうしても離れられないでもがいてゐる。男は声をかぎりに天地金の神の御名を唱へてゐるが、婦は一生懸命に合掌して稲荷を拝んでゐる。

 

男の合掌してゐる天には、鼻の高い天狗が雲の中に現はれて爺をさし招いてゐる。婦のをがむ方をみれば、狐狸が一生懸命山の中より手招きしてゐる。男が行かうとすると、婦の背中にぴつたりと自分の背中が吸ひついて、行くことができない。婦もまた行かうとして身悶えすれども、例の背中が密着して進むことができない。一方へ二歩行つては後戻り、他方へ二歩行つては、またあともどりといふ調子で、たがひに信仰を異にして迷つてゐる。自分はそこへ行つて、惟神霊幸倍坐世と神様にお願ひして、祝詞を奏上した。そのとき私は、自分ながらも実に涼しい清らかな声が出たやうな気がした。

 

たちまち密着してゐた両人の身体は分離することを得た。彼らは大いに自分を徳として感謝の辞を述べ、どこまでも自分に従つて、神界の御用を勤めさしていただきますと約束した。やがて男の方は肉体をもつて、一度地の高天原に上つて神業に参加しやうとした。しかし彼は元来が強欲な性情である上、憑依せる天狗の霊が退散せぬため、つひには盤古大神の眷族となり、地の高天原の占領を企て、ために、霊は神譴を蒙りて地獄に堕ち、肉体は二年後に滅びてしまつた。さうしてその婦は、今なほ肉体を保つて遠く神に従ふてゐる。 

 

この瞬間、自分の目の前の光景はたちまち一転した。不思議にも自分はある小さな十字街頭に立つてゐた。そこへ前に見た八頭八尾の霊の憑いた男が俥を曳いてやつて来て、高天原にお伴させていただきますから、どうかこの俥にお召し下さいといふ。しかし自分は神界修業の身なれば、俥になど乗るわけにはゆかぬと強て断つた上、徒歩でテクテク西へ西へと歩んで行つた。非常に嶮峻な山坂を三つ四つ越えると、やがてまた広い清い河のほとりに到着した。河には澄きつた清澄な水が流れてをり、川縁には老松が翠々と並んでゐる実に景勝の地であつた。

 

自分はこここそ神界である、こんな処に長らくゐたいものだといふ気がした。また一人とぼとぼと進んで行けば、とある小さい町に出た。左方を眺むれば小さな丘があり、山は紫にして河は帯のやうに流れ、蓮華台上と形容してよからうか、高天原の中心と称してよからうか、自分はしばしその風光に見惚れて、そこを立去るに躊躇した。 

 

山を降つて少しく北に進んで行くと、小さな家が見つかつた。自分は電気に吸着けらるるごとく、たちまちその門口に着いてゐた。そこには不思議にも、かの幽庁にゐられた大王が、若い若い婦の姿と化して自分を出迎へ、やがて小さい居間へ案内された。自分はこの大王との再会を喜んで、いろいろの珍らしい話しを聞いてゐると、にはかに虎が唸るやうな、また狼が呻くやうな声が聞えてきた。よく耳を澄まして聞けば、天津祝詞や大祓の祝詞の声であつた。

 

それらの声とともに四辺は次第に暗黒の度を増しきたり、密雲濛々と鎖して、日光もやがては全く見えなくなり、暴風にはかに吹き起つて、家も倒れよ、地上のすべての物は吹き散れよとばかり凄じき光景となつた。その濛々たる黒雲の中よりといふ古い顔の鬼が現はれてきた。それにはといふ古狐がついてゐて、下界を睥睨してゐる。その時にはかに河水鳴りとどろき河中より大いなる竜体が現はれ、またどこからともなく、何とも形容のしがたい悪魔があらはれてきた。大王の居間も附近も、この時すつかり暗黒となつて、咫尺すら弁じがたき暗となり、かの優しい大王の姿もまた暗中に没してしまつた。

 

ただ目に見ゆるは、烈風中に消えなむとして瞬いてゐる一つのかすかな燈光ばかりである。自分は今こそ神を祈るべき時であると不図心付き、天照大御神産土神をひたすらに念じ、悠々として祝詞をすずやかな声で奏上した。一天にはかに晴れわたり、一点の雲翳すらなきにいたる。 祝詞はすべて神明の心を和げ、天地人の調和をきたす結構な神言である。しかしその言霊が円満清朗にして始めて一切の汚濁と邪悪を払拭することができるのである。悪魔の口より唱へらるる時はかへつて世の中はますます混乱悪化するものである。

 

蓋し悪魔の使用する言霊は世界を清める力なく、欲心、嫉妬、憎悪、羨望、憤怒などの悪念によつて濁つてゐる結果、天地神明の御心を損ふにいたるからである。それ故、日本は言霊の幸はふ国といへども、身も魂も本当に清浄となつた人が、その言霊を使つて始めて、世のなかを清めることができ得るのである。

 

これに反して身魂の汚れた人が言霊を使へば、その言霊には一切の邪悪分子を含んでゐるから、世の中はかへつて暗黒になるものである。 さて自分は八衢に帰つてみると、前刻の鬼、狐および大きな竜の悪霊は、自分を跡から追つてきた。の鬼は、今度は多くの眷族を引連れ来たり、自分を八方より襲撃し、おのおの口中より噴霧のやうに幾十万本とも数へられぬほどの針を噴きかけた。

 

しかし自分の身体は神明の加護を受けてゐた。あたかも鉄板のやうに針を弾ね返して少しの痛痒をも感じない。その有難さに感謝のため祝詞を奏げた。その声に、すべての悪魔は煙のごとく消滅して見えなくなつた。 ここでちよつと附言しておく。の鬼といふのは烏帽子直垂を着用して、あたかも神に仕へるやうな服装をしてゐた。しかし本来非常に猛悪な顔貌なのだが、一見立派な容子に身をやつしてゐる。また河より昇れる竜は、たちまち美人に化けてしまつた。この竜女は、竜宮界の大使命を受けてゐるものであつて、大神御経綸の世界改造運動に参加すべき身魂であつたが、美しい肉体の女に変じての鬼と肉体上の関係を結び神界の使命を台なしにしてしまつた。

 

竜女に変化つたその肉体は、現在生き残つて河をへだてて神に仕へてゐる。彼女が竜女であるといふ証拠には、その太腿に竜の鱗が三枚もできてゐる。神界の摂理は三界に一貫し、必ずその報いが出てくるものであるから、神界の大使命を帯びたる竜女を犯すことは、神界としても現界としても、末代神の譴めを受けねばならぬ。の鬼はその神罰により、その肉体の一子は聾となり、一女は顔一面に菊石を生じ、醜い竜の葡匐するやうな痕跡をとどめてゐた。さて一女まづ死し、ついでその一子も滅んだ。かれは罪のために国常立尊に谷底に蹴落され胸骨を痛めた結果、霊肉ともに滅んでしまつた。

 

かくての肉体もついに大神の懲戒を蒙り、日に日に痩衰へ家計困難に陥り、肺結核を病んで悶死してしまつた。 以上の一男一女はの前妻の子女であるが、竜女との鬼との間にも、一男が生れた。の鬼は二人の子女を失つたので、彼は自分の後継者として、その男の子を立てやうとする。竜女の方でも、自分の肉体の後継者としやうとして焦つてゐる。一方竜女には厳格な父母があつた。彼らもその子を自分の家の相続者としやうとして離さぬ。の鬼の方は無理にこれを引とらうとして、一人の肉体を、二つに引きち切つて殺してしまつた。

 

霊界でかうして引裂かれて死んだ子供は現界では、父につけば母にすまぬ、母につけば父にすまぬと、煩悶の結果、肺結核を病んで死んだのである。かうしての鬼の方は霊肉ともに一族断絶したが、竜女は今も後継者なしに寡婦の孤独な生活を送つてゐる。 本来竜女なるものは、海に極寒極熱の一千年を苦行し、山中にまた一千年、河にまた一千年を修業して、はじめて人間界に生れ出づるものである。

 

その竜体より人間に転生した最初の一生涯は、尼になるか、神に仕へるか、いづれにしても男女の交りを絶ち、聖浄な生活を送らねばならないのである。もしこの禁断を犯せば、三千年の苦行も水の沫となつて再び竜体に堕落する。従つて竜女といふものは男子との交りを喜ばず、かつ美人であり、眼鋭く、身体のどこかに鱗の数片の痕跡を止めてゐるものも偶にはある。

 

かかる竜女に対して種々の人間界の情実、義理、人情等によつて、強て竜女を犯し、また犯さしめるならば、それらの人は竜神よりの恨をうけ、その復讐に会はずにはゐられない。通例竜女を犯す場合は、その夫婦の縁は決して安全に永続するものではなく、夫は大抵は夭死し、女は幾度縁をかゆるとも、同じやうな悲劇を繰返し、犯したものは子孫末代まで、竜神の祟りを受けて苦しまねばならぬ。

 

大正一〇・一〇・一九 旧九・一九 谷口正治録)

 

 

 

雅春先生が大本時代で執筆された『神霊界』や『神の国』を読みました。当時有名な小山内薫氏が大本の会員であったり、武者小路実篤も関心を示したり、芥川竜之介は神諭を読んでいたして、当時の大本の勢いは凄かった。倉田百三なども大本に魅力を感じたのです。
当時の文学博士物集高見は『大正日日新聞』で絶賛している。
これも松江市の出版であった『彗星』や『心霊会』が宣伝をして、一挙に教勢を拡大し、会員は増えていきました。

今では信じられないかもしれませんが、当時の閉塞した世で出口王仁三郎の書いた『大本神諭』火の巻はセンセ-ショナルであったのです。

彗星は何ヶ月にわたり「皇道大本」を宣伝していましたし、「心霊会」は大本特集号を組んで発刊しました。

当時の状況を把握していれば、雅春先生が入信した事がわかります。
『大本70年史』に
そのころ大本では、浅野和三郎を中心としてインテリア層が大本の所説の理論づけをおこなうとしていたときであったから、谷口はまたたくまに、その文筆の才をみとめられるようになり、文筆面で活躍するようになる。そして191920(大正89)年の、かれの文筆活動はめざましいものがあった。彼は浅野の直系として理論活動を展開するのである。

谷口はいう。「天地は審判の火に焼かれている。戦争と飢餓と疫病とは地上に恐るべき勢を以って氾濫している。
世界風邪はどうであったか。食料の欠乏はどうであったか。大火災の頻出はどうであったか。新聞紙は露都の食料欠乏甚だしく・・・人は人を共食し、人肉秘密にて販売せらると報じている。これでも愈愈の時でないといふのか」(「皇道大本の出現と世界の終末」大正87『大本信徒の主張』収録)

谷口の目にうつった当時の世界は、むごたらしくもまた悲惨なものであり、あたかも、キリスト教にいう最後の審判がやってきたかのようにうけとられた。彼はしきりにキリスト再臨論をといたが、それはいまのべたことと関連がある。「最後の審判の惨憺たる状態」を救うキリストはいつ再臨するかという問を提出して、それにつぎのようにこたえている。『聖書』のヨハネ黙示録によると、救世主は世界最後のたたかいとともにやってくる。
だからキリスト再臨の時期が世の立替え立直しのときである。
ところで『法蔵尽経』によると、月光菩薩五十二才が重大なる時期を示すが、王仁三郎は筆先によれば月の大神の霊魂なのだから、王仁三郎五十二才のとき、つまり1922(大正11)年こそ立替えのやってくるときだというのである。
谷口によれば、王仁三郎こそキリストの再臨であり、教祖なおは王仁三郎出現の先駆者であると結論づけられる(「基督再臨の真相」大正910

こうしてキリストこそが王仁三郎であったのです。しかしそれが徐々に雅春先生の気持ちが揺らぐのです。
それは王仁三郎の『霊界物語』の口述であり、正念場である大正1133日、55日であるのです。

 

『大本70年史』ですから、大本の立場になるのは当然であります。

ここでは、私の私論を述べますが『大本教70年史』のなかに

>したがって、「大本教祖の筆先と、仏説弥勒下生生経と基督教の聖書とを相列べて最後の審判の日を研究していた私は、周囲の神懸りたちの興奮した雰囲気と、自分自身の研究とに巻込まれて、矢っ張り最後の審判の正念場は大正1133日、55日と思えるのであった」ともいうのである。(『生命の實相』六巻)

そして立替えの日がせまり、これを一大事だとわかるもののみが救われる選民なのだ、と彼は説いた。こうした谷口の考えは、当時の大本のなかでもきわめて独特のものであった。だが、その考えもだんだんとぐらついてくる。

立替=基督再臨は、谷口にあっては、どうしてもそうあるべきものであり、またそうあってほしいという願望と、期待のほかならなかった。けれども、ロシア革命や米騒動などの激変がややおさまり、また官憲の目が光ってみると、彼の考えもしだいに動揺してくる。そのめだった変化は、彼のいう立替えをめぐる解釈の変化にもあらわれてくる。

「大正日日新聞」の英文欄に、あと数百日以内に立替え立直しがあると主張されているのをみて、彼は、これは正しくないと批判する。

そして筆先によれば、「建替えの最後の日は伸縮自在の日限に来るべき」ものであり、その立替えというのは「天上の事」に属し、この世のことではないのだ。それがいつこようと悔いのない生活をしなければならない、と主張している(「最後の審判の予兆」大正103)。

この段階になると、立替えについてのかつての説を、あっさりすててしまうというかわりかたであった。<

 

これは「大本神諭」を体系的に纏めた谷口先生が当初の「この大本にて世界が救われる」という思いが段々、縮小していくのは矛盾を感じてくるからである。

当初は周りからみれば特異な存在であったことは、薄衣に荒縄で生活しており。「大本の聖フランシス」と自称していた。

だが、それは真剣な思いで入信していることは、前述しましたが、その筆先というのが徐々に薄らいでくる。

谷口先生はあまり『霊界物語』の口述を書いていませんが、大正101019日に突然に筆先が始まり、その異様な感じはトランス状態に入っていたのを順次に口述する人を決め漏らさぬように記述していくのです。それをどうしても離れる要因の最初であるように思います。それは『生長の家50年史』に

谷口先生自身も。この頃の心境を「天香さんと倉田さん―或る日の私と私の妻との対話-」という文章にして、『光』誌(大正118月号)に発表されている。

《私、○○からこの仕事を頼まれて居るが、自分は頼まれたままにこの仕事を奉仕するのが本当に好い事か悪いことか考へすにいられないのだ、何故なら○○が本当に清いものだということが今の私にははっきりと保障出来ない。○○は私の奉仕するこの仕事を利用して何かよくない事を企てるかも知れないような気がするのだ》

 

そうしたのが、次第に矛盾に感じ、翌年では1週間一燈園の道場に行くのです。

それを王仁三郎に皮肉られて次第に「大本」から離れていくのである。

それは立替説が崩壊してことに一番の要因があり、それを『大本教70年史』に

三代目教主直日の回想によると、1921(大正10)年の秋のある日、谷口は王仁三郎をたずねたが、王仁三郎が不在であったため、直日にたいし、大本は1921(大正10)年に世の立替えがあるといったが、なにもかわったことがない。信者のおおくは家業を放棄し、会社をやめてきているので、いま生活ができなくて困っている。「大本はまちがいであったと天下にあなたの名前で謝罪して下さい」(「おほもと」昭和334)この「回想郎」によっても、谷口をさとらせた根本の原因が、立替え説の崩壊にあったことが明瞭となる。》

 

※ここに記入されている大正10年は大正11年の間違いですが、原文のまま記入しました

 

だが、一般的に考えると『霊界物語』に反発していた人も多くおり、編集者で常に掲載していた人で、大本幹部であった。浅野和三郎・岸一太・小牧斧助・浅野正恭・今井武夫・江上新五郎・岡田熊次郎であるがこの人達は《大本時報》《神霊界》の執筆者である。

勿論、尊王の立場からの論筆である。

 

 

茲で記入しております。『皇道大本研究資料 亀岡叢書』という本ですが、『生長の家50年史』やその他資料には出てきません。

だから、どんなものかはなかなか知ることができません。

ここを見ていただいています諸賢には何の事かを知る由がありません。

この本は当時の大本を体系的に理論的に組織した書物であります。この文章により更に論理的な大本となっていきます。

内容は前述しましたが、特に雅春先生が御執筆された8冊を主に記入していこうと考えています。

勿論、『皇道霊学講話』も基本的な論文と同じでもありますが、とりわけ『言霊と神通力』は言霊信仰には基礎的な学問であり、なくてはならない書物なのです。

意外とそれを知らないのが「生長の家」信徒なのです。

この本も徐々に記入していきますので乞うご期待下さい。

 

下記は既に記入しておりますが、重要な書物でありながら、生長の家では記載されていませんので再度掲載致します。

亀岡叢書というのは全14巻になる小冊子です。その中で


第三編 御筆先の解説せる 大本霊学  谷口正治(大本新聞での参照)


第四編  神示の比較宗教論     谷口白龍(ペンネ-ム)

第五編  ヨハ子黙示録(子はママ) 谷口正治

第六編  鎭魂歸神の要諦      谷口正治講述

第七編  基督再臨の眞相      谷口正治
                今井楳軒翁の序

第九編  社会主義と皇道大本    谷口正治

第十編  行ふべき道        谷口正治
     
第十二編 言霊と神通力       谷口正治
     言霊を詳しく書き表わしています。

第十四編 非醫治療法批判(上)   谷口正治

(下)は出版されていませんが、書かれた時に大本事件等ありそのままになったのではないでしょうか?
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