今の生長の家を語る時最早以前の「生長の家」とは異なった宗教であることを自覚しなければならない。
いや、そんな事ないという人もいるであろう。
「生長の家」の名前がある。
いろんな御託を並べても冷静にみればわかることである。現在の生長の家は偽物であることを。
それは断言してもよい。

安東先生が言っておられましたが、食材偽証問題で俄かに世を沸かした。阪急である。プライドの高いデパ-トである。私も2回程食べたことがあるが、職員は誇りを持っている。

これぐらいでは分からないであろうと、人間智で「聖経」を操作し、それを信徒に読ませているのに似ているのである。
「芝海老とイカのクリスタル炒め」には、安価なバナメイエビが使われていたが、美味しければそれでいいということをいう人がいるであるが。バナメイエビには申し訳ないが、芝海老にはなれないのである。
「生長の家」を環境という宗教とは程遠いことを平気で言う。それは「芝海老」を「バナメイエビ」と言っても、「バレナイ」だろうという邪悪な精神がある。

「生長の家」は昔から「天皇信仰」である。「日本国家を護る」愛国団体である。
「人々を救済」し、肉体無しであり、人間「神の子」の真理なのである。あらゆる政策方針が「天皇」に繋がるのが生長の家なのです。

それを「和解」などと人々を迷わすようなことを平気でいう輩がいる。しかし、そんな人間ほど「和解」についてなにもしないのである。傍観者で常にいたい人である。「良いこと」はいうが自分は嫌われたくないから、皆をヨイショしているのである。
そんな人間はそれでいい。反対に何もしないほうがいいのかもしれない。
世渡り上手な人なんだろう。
私はそんな人間にはなりえないし、なりたくもない。

世間というのを知らないで「生長の家」では先生とよばれているのであろう。だから、そういう人間になるのであろう。
一度世の中のいろんな場面に遭遇すればいいのであろうが、「生長の家」の職員でいる限り難しいであろう。

生長の家教団もそうである。雅宣総裁の姿は最初の出会いは互いに高校生の時である。全国大会の夜に「日比谷公園」で日の丸行進を行う時に「シュプレヒコ-ル」」を行っていたのが、現雅宣総裁である。
それから見たのが25歳位である。清超先生の後を番傘を講師に被されながら、歩く姿があまりにも異様であったことである。こんな人が生長の家の総裁になる人か非常に疑問を持ったことである。
その疑問が見事に当たっていたのは我ながら眼力をもっていたのであろう。
その後あったのが「顕齊」である。多くの信者でごった返している練成道場で靴を探しているのが私と現総裁である。

その後「生長の家」の本部で現総裁になれば大変になることを私の知り合いである。数人の本部職員が言っていたのを今でもはっきりと覚えている。
その危機感は凄まじいものを感じた。それが現在の起こっている状況である。本当に年経ち、それが現実となってきたのである。
やはり、そうした人が何人もいたことと「正夢」であった。「芝海老」が「バナメイエビ」といってそれが通用しているのである。しかし最後にはその偽物は光に当たり、消えていく運命なのであります。