【『七つの燈台の点燈者』の神示

 汝(なんじ)ら天地一切のものと和解せよ。 天地一切のものと和解が成立するとき、天地一切のものは汝の味方である。 天地一切のものが汝の味方となるとき、天地の万物何物も汝を害することはできぬ。 汝が何者かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に犯されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。 われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献(ささ)ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。 汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。 神に感謝しても父母に感謝しえない者は神の心にかなわぬ。  天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。 本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。 怺(こら)えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。 感謝し合ったとき本当の和解が成立する。 神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。 争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。 皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。 一切の人々に感謝せよ。 天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。 その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。 われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。 われは此処(ここ)に見よ、彼処(かしこ)に見よと云うが如くにはいないのである。 だからわれは霊媒には憑(かか)らぬ。 神を霊媒に招(よ)んでみて神が来ると思ってはならぬ。 われを招(よ)ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招(よ)べ。 われは愛であるから、汝(なんじ)が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕(あらわ)れる。 
( 昭和六年九月二十六日夜神示 )

 時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである。 最早、あなたにとって病気は存在しない時が来たのである。 二千年前、キリストが『汝の信仰によって汝の信ずる如くなれ』と云う唯一語で、遠隔の地にいる病人を癒したその真理が、すべての人類に開顕される時期が来たのである。 『生長の家』を読み真理を知るだけで遠くにいて病気が治る事実を見よ。 『生長の家』は今かの黙示録が予言した『完成(ななつ)の灯台』として人類の前に臨むのである。 此の灯台より真理の光を受くるものは、創世記のエデンの楽園追放以後、人類を悩ましたところの『罪』と『病』と『死』との三暗黒を精進するのである。 光が近づくときすべての暗黒は消える。 『真理』が近づく時、すべての『迷』が消える。 『迷』が消える時、『迷』の産物なる『罪』と『病』と『死』とは消える。 疑わずに吾が光を受けよ。 われは『完成(ななつ)の灯台』に灯を点ずるものである。 
( 昭和六年一月十五日神示 )】

聖経『甘露の法雨』を読誦するときは必ず、両方を唱えます。最初の昭和6年9月26日夜神示は大調和の神示とよばれとりわけ生長の家信徒にとっては大切な行事であります。

ところが谷口雅宣総裁という人は余程、この神示の一部が嫌なんであろう、最も大切な項目を無理やり中略にしてしまうのであります。

【2014年8月 8日 (金)

なぜ肉食から遠ざかるべきか? (7)                                                                               


「汝ら天地一切のものと和解せよ。…(中略)…天地の万物(すべてのもの)に感謝せよ。その感謝の念の中(うち)にこそ汝はわが姿を見、わが救いを受けるであろう。われは全ての総てであるからすべてと和解したものの中にのみわれはいる。…(中略)…われを招ばんとすれば天地すべてのものと和解してわれを招べ。われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。」 
 
 この神示にある「すべて」という言葉は、人類だけを指すものではありません。文字通り「天地すべてのもの」です。動物、植物、菌類、鉱物などすべての被造物と和解することによってのみ、神は姿を現され、私たちを祝福されるのです。別の言葉でいえば、自然界のすべてのものと和解することによってのみ、私たちの内部の神性・仏性が輝き出し、世界に平和が実現するということです。 

ごらんのように下記の文章をこっそり抜けています。
勿論、良心の呵責に耐えられなくて?書かなかったのであろう。

【われ嘗て神の祭壇の前に供え物を献(ささ)ぐるとき先ず汝の兄弟と和せよと教えたのはこの意味である。 汝らの兄弟のうち最も大なる者は汝らの父母である。 神に感謝しても父母に感謝しえない者は神の心にかなわぬ。  天地万物と和解せよとは天地万物に感謝せよとの意味である。 本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。 怺(こら)えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。 感謝し合ったとき本当の和解が成立する。 神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。 争いの念波は神の救いの念波を能(よ)う受けぬ。 皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。 一切の人々に感謝せよ。】

ここには両親や兄弟と和解していない自分自身を少し恥ずかしく思ったのか、抜粋しないのである。
だが、そこから無理矢理に自然を持ち出すから、話がおかしな方向へと移行する。
天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。と書いています。そこが抜けており自然との調和とかそういう話じゃなく、総裁自身がどうなのかであります。

自分のいいように文章をつまみ食いしながら谷口雅春先生の御著書を引用するのはいいが、いくら腹黒いとはいえ良心というのがあるのかどうかであります。
自然とか言う前に、和解とか言う前に自分の発言や行動を振り返ることが必要であります。

そういうのを断章取義というのです。
和解を称える人の多くはそういう過ちを犯していることが多い。和解といいながら「本流」とは與しないという。
それじゃ「和解」ではない。
自ずから実践していこう。