『招神歌』講義 生長の家誌 昭和12年1月号より抜粋
【生長の家大神とは『天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家の大神』と云う神様として、宇宙に充ち満ちていながら、同時にここ生長の家に形をあらわしたまうていると、斯う云うわけなのであります。
それは方便もありまして、姿を見せなければ満足しない人がある。そういう人には時に形として現れ給うことがるのであります。
必ずしても凡ての人に見えると云うわけではない。ラヂオセットが完全でないために見えない人が多いのでありますけれども、百人中二三人見えたとか、千人中十人が見たとか云うように、既に十人なら十人の人が同じ姿を見たというならば、矢張りこれは幻覚ではなかった。本当に神様の姿があったんだなと云う事が吾々に感知される。
成程神様はいらっしゃるのだと云うことになり、神様が神通力によってそこに形を現し給うたのだと云うことになるわけであります。
普賢菩薩はこの実相の浄土に坐して、宇宙に満ちておって姿がない、けれども閻浮提(えんぶだい)の世界に身を縮めて小さくなって、六牙即ち六つの牙の小さい象に乗って、こう云う姿であるぞと現れ給うたと云う事がお経に書いてありますが、これも同じ事なのであります。
大宇宙に居ながらまた同時にここに矢張り姿を現し給う事になる。
生長の家では特に神想観中にお現れになりまして、そうして我々を守護し給う働きをせられているわけであります。それで我々の生命は大生命から与え」られたところの生命でありまして、人格的な存在でありますから、矢張りどうしても親子兄弟であると云う親密な感じを持たずにいられない。
また持っているのが、これが本当の姿なのであります。吾々にはこの世界に親子兄弟と云うものがあり、或は夫婦と云うものが有ると云うのは、それは偶然に現れているのではないのでありまして、大生命界の神の生命の法則がここに影を映していて、大生命界にあるものその侭がここに現れているのでありますから、矢張り親子関係とか夫婦関係とか兄弟関係とか云うものは夫々に大生命そのものの分身であると云う事が出来るのであります。
神は人格的な存在であり、吾々も亦人格的な存在である。それで御祖神に対して本当の親子のような親しみを感じ、懐しさを感じ、これを礼拝帰一すると云う事になるのは当然な事であります。】
生長の家の招神歌にしてもそうですが御祖神から元津霊(もとつみたま)に幸(さきは)へなければならないと思います。
生長の家は大生命から神様の御徳が滔々と吾が身体に流れていくことを観じるのですが、「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命射照し宇宙(くに)静かなり」
これは総裁が誤解している文章がありますが
天照大御神について
こんな題をつけて本欄を書き始めることに、私は躊躇している。なぜなら、この題からは、何か大論文を書くかのような印象が生まれるかもしれないからである。学者のように「アマテラスオオミカミ」と片仮名で表記してもよかったが、そうすると読みにくいだけでなく、何か突き放すような、その反面小馬鹿にしているようなニュアンスがある。とすると、それは心外だ。私は毎年、正月に伊勢神宮に参拝して神宮の「角祓い」を買い、自宅の神棚の小社に納める。その霊代には「天照皇大神宮」と墨書してあるから、「アマテラス」より「天照」の方が、これから書こうとしている主題をよく表していると感じる。さらに、『古事記』や『日本書紀』なども同様の表記であるし、私が毎日の神想観で「光明思念の歌」を唱えるときには、「アマテラス」ではなく「天照す」を心にイメージしているから、やはり漢字表記のほうが適切だと感じるのである。
その神について書く理由は、日本の天皇家の“皇祖神”として考えられているだけでなく、神話の中では明確に「太陽神」として位置づけられているため、21世紀の人類最大の課題である地球温暖化・気候変動の問題にも深く関わっているからである。つまり、この神は、古代の神であるだけでなく、現代において新たな意味を付与されて息を吹き返しつつある重要な神さまだと感じるのである。そのことは、拙著『“森の中”へ行く』の第5章(p.146)でも触れたし、2009年5月27日の本欄にも書いた。また、世界中で祝うクリスマスに関連して、これを12月25日に定めた由来がローマ時代の太陽神信仰と密接に関係していることも、本欄で何回か(2005年11月17日 、昨年12月21日 )取り上げてきた。つまり、太陽からくる数多の恵みを認識し、それに感謝し、その思いを宗教的に表現することは、時代や民族を超えて人類に共通するものなのだ。それをひと言で表現しようとすると、日本人の私には「天照大御神」という言葉しか思い浮かばないのである。
私はかつて「天照大御神の御徳を讃嘆する祈り」というのを書いたが、この祈りは、上記のような私の知的理解を情的に表現したものである。その祈りの言葉を読んでいただけば、それが一宗教の神を讃嘆しているのではないことが分かるはずだ。例えば、そこには「天照大御神は“愛なる神”の別名である。キリストの愛の別名である。自ら与えて代償を求めない“アガペー”の象徴である。また、三十三身に身を変じて衆生を救い給う観世音菩薩の別名である」と書いてある。また、その祈りの最後近くには、次のようにある--
「太陽は、地球から何の報いを得なくとも、無限に与え続けるのである。この偉大な力によって、地上に多様な生命と生態系が出現し、おびただしい数の生命が支えられていることを思うとき、人類も“与える愛”を駆使することで、地上の平和と秩序と、多様なる生命の共存共栄を実現できることを知る。われは今、天照大御神の日子・日女として、その高邁なる目標を掲げて生きるのである」。(p.66-67)
だから、私がここで使う「天照大御神」という神名を、東洋の片隅にある国の宗教が説く、数多くの神々の名前の1つ--つまり、固有名詞だと考えないでほしいのである。そのことは、谷口雅春先生も『詳説 神想観』(新版)の中で強調されている。すなわち先生は、「天照す御親の神の大調和(みすまる)の生命(いのち)射照し宇宙(くに)静かなり」という光明思念の歌を、次のように解説されている--
「光明思念の歌は決してただの呪文でもなければ、伊達に荘厳味を添えるために歌うのでもないのである。“天照す御親の神”というのは天照大神という固有名詞ではなくて“あま”は宇宙で、宇宙を照らし給う御親の神、本源の神様のいのちが宇宙一杯に光明輝いて照らし渡って神の慈光の下に平和に、大調和に一つの世界を実現している--その実相を諦視し、言葉の種子を天降して、世界平和が実現するように祈るところの荘厳な行事なのである」。(同書、p.111)
このような理解のもとに、本シリーズを読まれたい。
谷口 雅宣
別に天照というのは尽十方を照らす役割であり、人格的な役割として生長の家大神とかがあるのです。
天照大神そのものは本源神としての神であり、より具体的に唱えるほうがわかりやすいのであります。
ここから雅宣総裁は本祭神を変えようとしている意図が見え隠れするのであります。
私には「天照大御神」しか浮かばないというのは、個人の度量のなさであり、私ならば他に沢山の神様を浮かべます。
それは神道や古事記に常日頃接しているからなんです。
荒御魂(荒魂)や和魂や様々な神様が現れます。そうしたものを知らないから、天照御大神しか創造できないのです。
その自分の創造できないからといって、信徒にそれを強要するのはおかしい。
本当に生長の家は総裁によって「宗教ごっこを演じている」のであります。
本人の書いた「神を演じる前に」ではなく「神そのものを演じて」いるのです。
大それたことであります。
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