松下幸之助と生長の家

石川芳次郎を介して

川上恒雄

 

1 はじめに

松下幸之助は生前、さまざまな宗教団体・運動と接した一方、特定の宗教に深く関与することもなかった。「PHPのことば」や「人間を考える」などで描いた世界観(人間観および宇宙観)は、幸之助がさまざまな宗教あるいはその周辺思想と接しつつ、自分なりに考え出したものだと思われる。ただ、接した宗教や思想が多様であるとしても、それらがすべて幸之助の世界観に反映していることはないだろう。人がだれでもそうであるように、意図的ではなくとも結果として自分の価値観に合うような宗教や思想を選択しながら、徐々に自身の世界観の枠組みを固めたり修正したりしたのだと思われる。本稿は、幸之助が(無意識的かもしれないが)・取り入れた宗教の一つが生長の家であったのではないかということを考察する。「あったのではないか」という断定を避けた表現は、幸之助自身が「生長の家から影響を受けた」とは発言していないからである。しかし、本稿は、影響関係を推察しうるだけの根拠と解釈を提示する試みで

ある。

 

 幸之助の宗敦とのかかわりというと、従来は主に天理教あるいは真言宗の影響が指摘されてきた。天理教については、前半生の自伝「私の行き方考え方」から、幸之助が一九三二年(昭和七年)に天理教(同書では「某教」とし、教団名を伏せている)の諸施設を見学して、立派で清掃の行き届いた建築物や信者の生き生きとした奉仕活動の姿に感銘し、物資の豊富とそれによる人間の精神的安心をめざした「産業人の使命」に思い至った経緯が、よく引用される。真言宗については、大正末期に取引先の山本商店の顧問役として幸之助と出会い、のちに松下電器の社内祭司となった加藤大観が真言宗醍醐寺派僧侶であることと、生地の和歌山県に真言密教の聖地である高野山があることがあげられる。ただ、幸之助が戦後に著した世界観と、天

理教や真言宗のそれとのあいだにどのような関係があるのか、教義やイデオロギー面から考察した研究はほとんどない。

 

 そのほかに、筆者はかつて本紀要で、新宗教や一部の近代仏教運動との関連を指摘した研究を短く論評した。これらの研究は、幸之助の世界観がいかなる背景に由来しているのかを、新宗教の生命主義や昭和初期ラジオの宗教番組などにみいだせると解釈している。こうした解釈は説得力があり、筆者も基本的に支持するものである。ただ、それはたとえていえば、「状況証拠」の積み重ねによる推論であり、幸之助本人がそのような影響を受けたと明確に語っているわけではない。もっとも、幸之助が自分の思想の由来を語っていないがゆえに推論によるほかはなく、またそうした推論的解釈こそ研究者の腕の見せ所でもあるので、批判や否定をすべきものでもないのだが、できれば天理教や加藤大観(真言宗)のような、明らかに接点のあった対象を

みいだせたほうがよい。

 

 そんなことを考えながら幸之助についての資料を調べているうちにたどり着いたのが、生長の家である。より正確にいうと、生長の家の信徒でもあった石川芳次郎(18811969)という実業家である。筆者はかねてから、幸之助の世界観には生長の家の教えと似た部分があるとは思っていたのだが、似ているというだけなら他宗教の可能性も考えられる。しかし、1948年(昭和23年) 1月の幸之助の講演録を読んでいたところ、始めてまだ1年強のPHP運動について、「だいたいまあ1ヵ年、本年の末から来年の初めにかけて、国民に光明思想を与える。再来年には具体案をつくる。一歩一歩具体的に緒につくというのが私の方針です」と述べているのが目に留まった。「光明思想」とは生長の家に特有の表現で、生長の家を知らずに自然と出てくる言葉ではない。そこで、生長の家との接点を調べることになったのが、本研究の出発点である。

 本橋は、しかしまず、幸之助がどのように生長の家と接点をもつようになったのかについて明らかにする前に、生長の家の教えが幸之助の世界観に与えた影響を解読する。先に述べたように、ある教団に接したからといって、その教団の教えが自身の世界観に影響を与えるとはかぎらないからである。たとえば、幸之助は天理教を見学して得るところ多く、「産業人の使命」を開明するに至ったが、天理教の教えが幸之助の世界観に深く影響を与えたという確たる証拠はない。このように、表面上の接触だけで影響関係を論じるのは危険である。観念上の接点があって初めて人間関係上の接点が意味をもつのである。したがって、教義上の関係性を考察したうえで、本稿は、生長の家の信徒でもある石川芳次郎という京都の実業家とその周辺の人物らが、幸之助個人および初期のPHP運動に直接間接に関与していた事実を明らかにする。

 

2 幸之助の世界観と生長の家

松下幸之助はその生涯において特定教団の信者となったことはないが、その一方で、数多くの宗教関係者と接したこともまた、事実である。つまり、さまざまな宗教を参考にしながらも、自分なりの世界観を幸之助は築いたのである。

 ジャーナリストの下村満子によるインタビュー集『松下幸之助「根源」を語る」において、幸之助は『人間を考える』で表明した世界観をどのように育んだのかについて質問を受けた際、宗教をはじめ、いろいろなところに話を聞きに行くうちに、「自分でそういうことが浮かんできたんですな」と答えている。それではどこに聞きに行ったのかといえば、「キリスト教とか、あるいはまた仏教とか、天理教とか」と記されているのみである。

 

 実は、もともとのインタビューでは、幸之助はそのほかに複数の教団名をあげており、そのうちの一つが生長の家であった。幸之助の影響力の大きさを考慮して、訪問したことがすでに知られていた天理教を除いては、編集段階で教団名を削除したのだろう。しかし、このインタビュー集が出版される前の1980年(昭和五十五年)に、幸之助が生長の家の機関誌『精神科学』で、「私も、谷口先生のお話をこれまでに三、四回、聞かせていただいたことがあるのですが、その際にお問きしたことは、今日まで、陰に陽に参考になっているという気がする」と述べているので、厳重に秘密にするほどのことでもなかったようである。「谷口先生」とは教祖の谷口雅春(18931985)のことである。

 幸之助はいろいろな宗教の話を聞きに行ったけれども、すべてを受け入れた教団は、生長の家を含めて、存在しない。「聞きに行ったけど、ええ話やなあ、ということは思うんですが、信仰にまでは至らない」と述べている。しかし、「ええ話」と幸之助が感じ取った部分は、捨て去ることなく、自身の世界観に反映した可能性はある。全部捨て

去ってしまったら、『PHPのことば』や『人間を考える』でみられるような世界観を表明できるはずがないからである。ここでは生長の家の教えのうち、幸之助が「ええ話」と受け止め、自身の著作にも採用したと思われる点について検討したい。

 

生命力に満ちた世界

生長の家の教えとは何かについてひとことで述べるのは難しいが、教祖の谷口雅春の言葉を借りると以下のようになる。

 

横に広がる真理は現象界は本来空無であって唯心の所現であるから心に従って自由自在に貧でも病でも富でも健康でも不幸でも幸福でも現わすことが出来ると云うことであります。それから縦を貫く真理は、人間本来神の子であり、佛子であり、無限の生命、無限の智慧、其他すべての善徳に充ち満たされている。それが吾々の実相

であるというのであります。

 

ここでのポイントは、我々のみる経済・健康状態などの幸・不幸は現象であって実相ではなく、現象は心の現れであるという見方である。

 

 幸之助は無論、現象が空無であるとか人間神の子などとは主張していない。ただ、心のあり方が現実化する可能性を否定はしていないし(この点については後述する)、「実相」という概念は「素直な心」との関連で頻繁に用いている。たとえば、「素直な心が生長すれば、心の働きが高まり、ものの道理が明らかになって、実相がよくつかめます」という表現がそうだ(しかも、「成長」ではなく「生長」と表現している)。もちろん「実相」は仏教の概念だが、生長の家を通して学んだ可能性は、あとで述べるような生長の家関係者との交流から、十分にありうる。

 

 もう一つ注目したいのは、こうした部分的な生長の家の概念の利用だけではなく、谷口の意味する「実相」における生命力にあふれた世界観を、幸之助ももっていたということである。

 生命力にあふれた世界観とは、さらに谷口の言葉を借りれば、次のようにも表現される。

 

実在する宇宙は、完全円満、光明無限、生命無限、智慧無限、愛無限、従ってまた調和無限、供給無限、自由無限である所の一大生命力によって支えられ、その一大生命力の展開として一切の生命は存在に入ったと云う事実です。此の一大生命力を「神」と称するのであります。(中略)「生命」は同時に智慧でありますから、真理を悟らないでは、その「生命」は生きていないと云うことになるのであります。

 

幸之助は、1951年(昭和二十六年)発表の「人間宣言」より前の時期においては、こうした見方と比較的似ている世界観をもっていた。たとえば、「PHPのことば」の一つである「信仰のあり方(ニ)」(194911月発表)を引用する。

 

天地の恵みは、何の分けへだてもなく、われわれ人間にさんさんとして降りそそいでおります。それはあまりに広大なために、無心の如くに思われます。この恵みの根源には、万物を生かし人間を生かそうとする宇宙の意志が大きく働いております。この大いなる宇宙の意志を感得し、これに深い喜びと感謝をもち、さらに深い祈念と順応の心を捧げることが、信仰の本然の姿であります。

 われわれがこの信仰に立ったとき、宇宙の意志が生き生きと働いて、ものを生み出す知恵才覚が湧いてまいります。そこから力強い労作が生まれ、繁栄への道がひらけてまいります。

 

谷口雅春の用いる「智慧」という言葉は「真理を悟る叡智」を意味する仏数的用語であり、幸之助の「知恵」とは異なるものの、「天地の恵み」を「生命力」に、「恵みの根源」を「神」に置き換えれば、谷口と幸之助とのあいだには、生命力あふれる世界観という、重なる部分のあることをみいだすことができる。

 

 筆者は本紀要ですでに、幸之助の世界観が新宗教の生命主義に相似しているという指摘のあることに触れたが、具体的教団名をあげるとすれば、幸之助の接した教団の中では生長の家以外には考えづらい。ただし、谷口と幸之助との世界観に相違点も一方であるのは、幸之助はもともと真言宗の世界観に触れていたからだと思われる。身近な加藤大観が真言宗の僧侶であることから、宇宙生命の根源が大日如来であるという話を頻繁に耳にしていただろう。そして、PHP研究の一環として自分の世界観を言語化する過程において、自分の中にあった真言宗的な宇宙観に合ったかたちで生長の家の教えを取り込んだとも解釈できる。

 

富の無限供給

 もう一つ、幸之助が「ええ話」だと感じたと想像される点は、生長の家が「繁栄」を肯定していることである。これは、谷口雅春が、アメリカの成功哲学に影響を及ぼした「ニューソート(New Thought)(『生命の実相」では「新思想」という訳語をあてている)とよばれる、19世紀終わりころに発生した宗数的な運動に強い関心を抱いていたこ

とによると思われる。このように、成功哲学との関係もあるためか、和田一夫(元ヤオハングループ代表)や稲盛和夫(京セラ名誉会長)をはじめ、本稿でもこれから取り上げる石川芳次郎など、谷口雅春の教えに影響を受けた実業家が少なからずいることはよく知られている。幸之助は、経済的富裕を「現象」だとした谷口の教えを受け入れたわけではなかったものの、加藤大観などを通して接していた伝統仏教とは異なり、繁栄の意義を積極的に説くという点において、生長の家に親近感を抱いたと推測される。

 一般に、ニューソートの影響を強調した場合、積極的思考の重要性(つまり、心のもち方が事業活動において現実化するという見方)に力点が置かれるが、1932年(昭和7年)の「産業人の使命」において物資の無尽蔵な供給を掲げた幸之助にとっては、ニューソート的見方よりも、谷口雅春の「富の無限供給」観のほうが納得のいくものであっただろう。谷口によれば、富は、能力や健康と異なって、ある人の分が増えれば他の人の分が減る、つまり総量は一定だと思っている人が多いが、それは誤った考え方だという。現実に、会社が旧来とは異なる便利な品物を生産し、消費者がそれを購入すれば、富が増大する。

 

不況になると、会社が従業員の減給や解雇をしたり、消費者が節約を美徳とみなしたりするのは、特定の見方に心がとらわれているからである。本来、人間神の子、無限の生命に満たされている。消費や労働力の節約ということは、そうした生命を生かしていないことである。

 

神による生命の無限供給は本来、富の無限供給でもある――というのが、谷口の教えである。したがって、「人間は本来貧しくあるようには造られていないのであります」ということになる。

 

幸之助も、人間神の子という見方は採っていなかったものの、たとえば「PHPのことば」に出てくる以下のような表現をみると、谷口雅春の経済観と重なる部分のあることが確認できる。

 

人間が貧困や不安に悩むのは、人知に捉われて、真理をゆがめている生産も消費も、これを抑えることは繁栄に背きます。(「生産と消費」より)

 

人おのおの、その与えられた生命力を生かしてゆくことによって、身も豊か、心も豊かな繁栄の社会を実現することができます。(「繁栄の社会」より)

 

蓄積された物財だけが富ではありません。その物財を生産し消費する力が真の富であります。(「富の本質」より)

 

幸之助のこれらのことばは、まだ日本が経済的に豊かではなかった1940年代後半から50年代初めのものである。1932年(昭和7年)の「産業人の使命」は文字どおり、繁栄の実現に向けた「使命」にとどまっていたが、幸之助は、戦後に「PHP」誌で毎月「PHPのことば」を発表していく過程において、その「使命」を「天命」という次元に高め、人間には本質的にそうした.「天命」を遂行しうる力が与えられているという世界観を構築していく。こうしたなか、生長の家から学んだと考えられる点は、先に述べたように、現世が宇宙の絶対的超越者(神)のもたらす生命力に満ちあふれており、そしていま述べたように、その生命力を自覚し、生産・消費からなる経済活動に生かすことで、人間は繁栄を実現できるのだという信念である。

 

 筆者は以上のような点において、生長の家の教えが幸之助の世界観に影響したのではないのかとみている。次は、どのようにしてこうした影響関係が成立したのかという点を考察する。幸之助は宗教に関心をもつ人物ではあったが、学者ではないので種々の聖典などを自分で研究した可能性は低い。下村満子の質問に答えたように、いくつかの宗教の関係者の話を「聞きに行った」のである。しかし、聞いた話が「ええ話」だからと、幸之助がただちに自分の著作に反映させたとは、到底思えない。幸之助にかぎらずだれでも、聞きなれない概念や思想は、そう簡単に自分のものにはならないものである。生長の家が幸之助に影響を与えたのだとすれば、幸之助がおりに触れて話を聞くことのできた生長の家関係者の存在があったはずである。次節では、その存在の代表格が石川芳次郎であった可能性が高いことを明らかにする。