明治26年11月22日  父・谷口音吉 母・つま様の次男として兵庫県矢部郡鳥原村字東所(現在の神戸市兵庫区鳥原町東所)に生まれる。

         陰暦1015日、暁の満月西山の端にあり、旭日東天に昇り、太陽と月との光輝く午前6時なり。

明治29年     谷口雅春先生、石津又一郎氏 谷口きぬ様(実父音吉の妹)の養嗣子となる。(4歳)

明治29年3月7日  谷口輝子先生 父・江守又一氏 母・志げ様の8女として富山県高岡市片原横町10番地に生まれる。

明治31年4月1日  大阪市立蘆分尋常小学校に入学。(6歳)(現在の野田小学校(統合)・大阪市福島区野田六丁目)満4歳5ヶ月

明治32年     大阪市北区信保町に移転(現在の北区天満)

         二学期以降・私立滝川尋常小学校へ転校(現在の滝川小学校・天満一丁目)(造幣局の隣)

         養母神戸に移転のため先生神戸市立兵庫市立兵庫永澤小学校へ転校。(現在の大開小学校・新開地駅の近く)

         再び大阪市立蘆分尋常小学校に復校。

明治35年3月    大阪市立蘆分尋常小学校に卒業。(10歳)

明治35年4月    大阪市立春日出尋常高等小学校に入学。(現在の大阪市此花区春日出小学校)ウィキペディアに卒業者として掲載されています。

明治39年3月    大阪市立春日出尋常高等小学校を首席で卒業。(14歳)

明治39年4月    大阪市立市岡中学校に入学。中学時代『中学世界』『文章世界』等に投稿。(現在の大阪府立市岡高校)大阪市港区市岡

明冶43年・中学五年生のころ、『維摩経』を読む。(18歳)

※国語の先生(一柳安次郎に感化されて文学の道にこころざすようになった。


明治42年10月   『文章世界』10月号 「ある友へ」(葉書文)

明治42年12月   『文章世界』12月号 「女へ」(葉書文)

明治43年3月   『文章世界』3月号 「幼き日」(葉書文)

明治43年5月   『文章世界』5月号 「破れ洋服」(葉書文)

明治43年7月   『文章世界』7月号 「伊豫より」(葉書文)谷口秋花

明治43年8月   『文章世界』8月号 「琴の音」(葉書文)谷口小畦

明治44年2月   『文章世界』2月号 「ランプの下」(散文)谷口赤秋

明治44年2月   『文章世界』2月号 「成績表」(散文)谷口赤秋

明治44年3月   大阪市立市岡中学校に卒業。(19歳)

明治44年4月8日  早稲田大学高等予科(文科)に入学。

明治44年6月   『文章世界』6月号 「本所の二階から」小倉七美

明治44年7月   『文章世界』7月増刊号 「若き子より」小倉七美

明治44年6月~8月   『新潮』678月号に小倉七美のペンネ-ムで「戯曲『首級』に見た二人の若い女」「若やかな情緒の舞踏」「沙翁の女―デスデモ-ナ」を投稿し入選。
明治45年7月3日  早稲田大学高等予科を首席で修了し特待生となる。(20)

大正元年9月11日  早稲田大学文学部英文科乙組に進学。同窓生に直木三十五・西条八十・青野季吉・坪田譲治・岩淵辰雄・細田源吉・細田民樹がいる。(当時の文学界第一級の人達)彼らは雅春先生を絶賛している。

大正3年2月24日  早稲田大学を中退。(22歳)
大正3年2月末   中退後、大阪の摂津紡績(現在のユニチカ)株式会社攝津紡績本社に技術練習生として入社。(50年史には木津川工場と記入しているが、(ユニチカの歴史年表から本社として記載)

夜は大阪府立職工学校(後の西野田職工学校)(正式には大阪府立職工学校・附属工業補習職工夜学校)明冶41年12月7日開設(西野田職工学校は明冶41420日開校。現在は西野田工業高校を経て西野田工科高等学校に(大阪市福島区大開町2丁目。(校舎の東隣に大開公園があるがそこが松下電器(現パナソニック)の創業地である。)

50年史には西野田職工学校と記載しているが、現在の西野田工科高校の歴史年表から記入)



大正5年   摂津紡績 明石工場に転勤



大正6年   この年、摂津紡績を退社し、神戸市東川崎4丁目の養母の許に帰る。社会改造と人類救済の道を求めて心霊研究を始める。このころ『国訳大蔵経』を読む。(国民文庫刊行会)

全31巻(菊版900頁及ぶ)

松江市の岡田健文氏より雑誌『彗星』が谷口先生の許に送られ、皇道大本を知る。