産経新聞で連載されている「巡拝 悠久の天皇陵」は是非読んでいただきたい。私は以前からこのブログで書いていますように、天皇陵の巡拝を心掛けて行っている。いままで、巡拝していない天皇陵は「安徳天皇陵」だけですが、培冢とか参拝していない天皇陵もありますので全てを完成していきたい。ただ、もう一度参拝したいとも思っています。歴代天皇の名前で実際の歴史などが振り返れるようになってきましたので、またこのブログで発表できればいいなと思っています。
さて、クイズを出題致します。
下図の表紙の天皇陵の名前はわかるでしょうか?
2基共お答えください。
中央の緑しげる中にポッツンと建っている建物もお答え下さい。
最近、天皇陵の鳥瞰図、航空写真の本が販売されていますが、だいたい8割はわかります。自分でもマニアックだなと思います。
先日、二度にわたり金剛山に登りました。その中でも二回目は金剛山の最高峰である、葛木神社にお参りが出来たことであります。その前に「雄略天皇」御狩の跡(矢刺神社)を参拝し、その後に葛木神社と葛城家御廟所を訪問しました。
さて、その「雄略天皇御狩の跡」とは日本書紀や古事記にも出てくる逸話であります。
さて、大阪の南河内郡地区富田林、藤井寺、河内長野や堺などの小学校では必ず金剛山に登るというのが年中行事になっている学校が多いのです。登山といえば「金剛山」といえます。さて、金剛山というのにお祀りしている神様は葛木神社と呼ばれているのです。どうしても水越峠の対等にある葛城山と思ってしまいます。
しかし、元々葛木神社の山号は金剛山ですので、そこから名前が付けられた。上記にある葛城家といえば「一言主大神」を思い出します。この「一言主大神」が祀られています。葛城山の南側にあります。「葛木坐一言主(かつらぎにいますひとことぬし)神社」は5回程行ったことがありますので良く知っております。祭神は二柱で
※葛城之一言主大神
※雄略天皇
私は葛城山や金剛山の東側の地区が大変好きな場所で以前に紹介しました秋津という場所であります。神武天皇が国見山で国見したと云われる場所や高天彦神社。高鴨神社、鴨都波神社、孝昭天皇陵、孝安天皇陵、日本武尊白鳥陵、孝昭天皇池宮跡伝承地など様々な古代のロマンがあります。
ウィキベディアから参照
明治の『神社明細帳』では事代主命・幼武尊の2柱とするが、『大和志料』では一言主神に雄略天皇の配祀とする。『延喜式』神名帳での祭神は1座で、同帳に「葛木坐一言主神社」と見えるように元々は一言主神1柱を祀った神社とされる。この一言主神は『古事記』等では「一言主」、『日本書紀』では「一事主」、『日本霊異記』では「一語主」とも表記される。凶事も吉事も一言で言い放つ託宣の神とされ、現在も一言で願いを叶えてくれる神として信仰されている。記紀に系譜は記されていないが、『先代旧事本紀』では一言主神を素戔烏尊の子とする。
雄略天皇と葛城山の大猪
この一言主神に関しては、『日本書紀』『古事記』における雄略天皇との対面説話が知られる。両書によれば、雄略天皇が葛城山中で狩猟をしていた際、天皇と同じ姿の一言主神(一事主神)が現れ、天皇と狩猟を競ったという。ただし、『古事記』では天皇が大御刀・弓矢・百干の衣服を神に献じて拝礼したとして一言主神の方が優位に記述されている一方、『日本書紀』では天皇が物を献じることはなく一言主神と天皇が対等に近い立場で記述されている。『古事記』の方が原初的と見られることから、『古事記』の説話は一言主神の奉斎氏族とされる葛城氏が皇室外戚として強い勢力を持った頃の政治情勢を反映したもので、『日本書紀』の説話は葛城氏勢力が衰えて一言主神の地位も低下した頃の情勢を表すと考えられている。
さらに時代が下り、平安時代の『日本霊異記』や『今昔物語集』では、一言主神は役行者(役優婆塞/役小角)によって金峰山・葛城山の間に橋を架けるために使役され、さらに役行者の怒りにふれ呪縛された、と記されるまでに神威の低下が見られる。なお、この使役の時に一言主神は自らの顔の醜さを隠して昼は働かず夜のみ働いたとされるが、その説話を受けて松尾芭蕉は『笈の小文』に歌を残している(「登場作品」参照)。
猶見たし花に明行神の顔
恥ずかしがらずに顔を見せてください、一言主神さま。この山の桜は全山満開、その美しいこと。あなたもきっと美しいに違いありません。
土佐神社(高知県高知市)
現在は一言主神と味鋤高彦根神を祭神とする。
なお、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、雄略天皇と狩りを競った「高鴨神」が土佐国に流されていたが、天平宝字8年に元の地に祀ったとある。しかし『釈日本紀』所引『暦録』の一説では、天平宝字8年に一言主神を土佐から迎えて葛城に祀ったと記されるほか、『釈日本紀』所引『土佐国風土記』逸文では、土佐の高賀茂大社(現・土佐神社)祭神は一言主尊であるが一説には味耜高彦根尊であると記され、文献上では一言主神と高鴨神(味耜高彦根命:高鴨神社祭神)との間で所伝に混乱が見られる。そのほかに音の類似や託宣神という性格から、一言主神を事代主命と同一視する説もある。
雄略天皇と
癒しの場所から抜粋
一言主大神
悪事も一言善事も一言言離の神葛城の一言主大神
(マガゴトモヒトコト ヨゴトモヒトコト
コトサカノカミ カツラギノヒトコトヌシノオオカミ)
一言主大神は、古事記上巻(神話)や日本書紀・神代の巻ではなく
雄略天皇記に登場する神です。
何事も一言で言い放つ託宣の神と言われていますが、
現代では「一言だけ願いを叶えてくれる神」と転訛して
信仰される場合が多いようです。
古代の豪族・葛城氏の祖神とも言われるこの一言主大神は、
登場する書物の中で、段々とその扱いが低下してしまう珍しい神様です。
古事記
ある日雄略天皇一行が葛城山で、
服装などが天皇一行と同じ一言主一行と出会います。
両者は一触即発の状態で対峙しますが、一言主が神であると知った天皇は
大刀や弓、百官の衣服を礼拝して献上したと書かれています。
(※葛城山=現在の金剛山)
日本書紀
雄略天皇が葛城山に狩りに出かけた時、
顔も姿も天皇によく似た一言主と出会った。
名乗り合ったあと二人は、仲良く鹿狩りを楽しんだと書かれています。
葛木神社摂社・矢刺神社
一言主大神とのご会見の地
このように古事記よりも後に編纂された日本書紀では、
天皇と一言主大神は対等の存在になっています。
続日本紀での一言主大神は、天皇と狩りの獲物を争ったため
土佐に流されたと書かれています。
そして歴史書ではなく説話集ではありますが
日本霊異記での一言主大神は、
同じく葛城一族であるはずの役行者(えんのぎょうじゃ)によって呪縛を受け
そのまま放置されたと書かれています。
この扱いの変化は、葛城氏の衰退を表しているという説もあります。
しかし私は、それ以上に藤原氏の仕業ではないかと想像しています。
高鴨神社やその周辺の神社の御祭神から考えると
葛城氏は出雲神系の氏族。
そして、あの蘇我氏も葛城系氏族だとも言われています。
雄略天皇の時代以降、出雲神系の血脈を天皇家から排除しようと
出雲系と天孫系の暗躍が延々と続いていたのかも知れません。
テンポウ
転法輪寺
記紀に書かれている一言主命と雄略天皇の逸話は葛城山が舞台です。
これは現在の金剛山のことだと言われています。
金剛山というのは、実はあの山の現在の通称名なんです。
葛木神社のすぐ下に役行者が開いたとされる転法輪寺があります。
役行者の命日とされる7月7日には、葛木神社と転法輪寺による
神仏習合のお祭があるそうです。
転法輪寺の山号は金剛山。
ここの山号がこの山の通称名となったそうです。
葛木神社のあるこの葛城山系の最高峰は葛木岳というのだそうで先日、ヤフオクでのことですが、『聖經』は京都発行の一番古いものとして、掲載されていた、それを購入した人がいるようだが、価格が12000円(30,000即決)となっている。確かに古いものだが、生長の家京都支部とは関係が無い。発行は光明思想普及會である。しかも昭和10年6月頃に京都支部で発行されたのが最初です。その発行は京都支部となっている。その後、昭和10年12月1日に現在の四部経と同じ『聖經』が販売されている。そのヤフオクで販売されたのは昭和10年12月25日のものであります。
その印刷所が京都である以外、京都支部とは関係が無い。ただ、売られたのが『おまもり型』の聖經であることは一番古いのであります。
だが、これについては、言い方が悪いが騙される人がいる。私はこの古書店に注意促したが、聞き入れなかった。だが私は騙されて購入する方が悪いと思っている。なんの勉強もせずに、古書店でも騙そうとして行う人もいることを知って欲しい。
ただ購入した人は京都支部で発行された一番古い『聖經』とは言わないでほしい。
前回、このブログで雅春先生は様々な御文章に御寄稿されていました。なかなかその一端が触れられないままになっていました。この内容は『生命の實相』に挿入されたりしています。一年以上にわたり心霊現象を研究して、この『生活者』に発表されています。立教前にはそうした心霊とか別の雑誌にはまた違った観点から「“新思想”式生活法」とか「お互ひに讃める生活」とかを発表されています。今回前回に途中抜けていた文章も発見されましたので、此処に発表します。
『生活者』倉田百三編集のご寄稿
大正15年
| 6月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(1) 研究 |
| P83~90 |
7月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(2) 研究 | P82~90 | ||
8月 | 石地蔵の如き善人 | P51~54 | ||
10月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(3) 研究 | P60~66 | ||
11月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(4)なし | 国会図書館になし | ||
12月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(5) | P58~65 | ||
昭和2年 | 1月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(6) | P38~47 | |
2月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(7) | P44~59 | ||
3月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(8) | P57~63 | ||
4月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(9) | P34~41 | ||
5月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(10) | P37~44 | ||
6月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(11) アンデルナハのハインリッヒ-(戯曲) /ウンルウ作 山口悌治訳 | P47~55 P128~140 | ||
8月
| 仏蘭西美術家の心靈現象(12) アンデルナハのハインリッヒ-(戯曲) /ウンルウ作山口悌治訳) | P43~50 P98~111 | ||
9月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(13) | P58~65 | ||
10月 | 仏蘭西美術家の心靈現象(14)完 | P32~39 | ||
12月 | 奉仕する者の悩み(1) | P45~54 | ||
昭和3年
| 1月 | 奉仕する者の悩み(2) | P80~87 | |
3月 | 神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(1) | P54~60 | ||
6月 | 神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(2) 或る男のカリカチュア(戯曲)山口悌治訳 | P47~52 P126~137 | ||
7月
| 神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(3) 汝ら人生のあるうちに道を進め(詞) | P46~51 P77~79 | ||
8月 | 神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(4) | P47~53 | ||
9月 | 神異と奇蹟(傅記)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(5) | P53~57 | ||
10月 | 神異と奇蹟(翻訳)/ウツドワ-ス・エツタ-(翻訳)(6)つづくと記入していますが、本文もって終稿 | P63~66 | ||
昭和4年 | 6月 | (パウロと猶太人/フランツ・ヴエルフェル山口悌治訳) | P85~99 | |
8月 | (パウロと猶太人/フランツ・ヴエルフェル山口悌治訳) | P92~110 |
昨日は三週連続でのダイヤモンドトレイルに行ってきた。
6:48 近鉄二上山駅
7:23 途中、コンビニとトイレ休憩して屯鶴峰。ここは何回か来ているが実際は入り口のみで中に入ったことが無いので今回は40分程、屯鶴峰の中を歩いた。
7:48 二上山登山口から入った。今回は雌岳と雄岳には登りませんでしたが、ほぼ頂上まで登ります。ここからの二上山登頂は大変キツイので有名です。もう葛城山まで行きたくないといつも思う。
8:41 二上山
9:02 竹内峠。今回はダイトレの正規のル-トです。
9:22 平石峠。これから階段地獄である。
10:12 岩橋山
10:21 岩橋峠
10:46 持尾辻
11:49 大和葛城山、今回は頂上まで歩くが、それが一番つらかった。ほんの10mが
12:44 水越峠
14:19 金剛山 一の鳥居の到着 金剛山を登るのに時間を費やしました。
14:27 金剛山の葛木神社に参拝(この地が金剛山の頂上)ここでゆっくりしました。久しぶりの金剛山頂上です。いつもダイトレではここには来ません。
ソフトクリ-ムを食べたりして約30分間寄り道の休憩です。
14:49 金剛山の頂上から紀見峠へ向けて歩きます。
15:42 中葛城山
15:55 高谷山
16:16 千早峠
16:26 福神山
16:35 金剛山トンネルの上
16:47 行者杉
17:02 杉尾峠
17:25 西ノ行者堂
17:53 紀見峠に到着
18:10 南海高野線 紀見峠駅に到着
走行距離 40km
今回は結構走ったりしましたので、疲れました。
それと新しい靴もどうやら良かったです。脚の痛みもなくスム-ズに走れました。ただ、以前の速さと比べて遅いことは痛感致します。今後、その速さも徐々にアップしていきます。
先日、参加しましたチャレンジ登山のビデオが公開されていました。どんな感じかわかると思いますので、見て下さい。相当ハ-ドな大会だとわかります。
www.youtube.com/watch?v=o6huw7-A5lE
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/15501/00092565/omote15_2.pdf
信仰者としての生き方として「亀の子」さんが詳細に記載しているが、その中で「第一印象」という記入されたところがあります。
谷口雅春先生の著書『眞理』第2巻基礎編には、第一印象の大切さが説かれている。
< 人に会っても第一印象として受ける感じは大抵、その相手の人の誤魔化しのない真実を語るものであって、間違いがないのである。第二印象以下になって来ると、相手の人の体臭に慣れて来て、その性格の体臭がハッキリと感じられなくなるのである。それと同じく、パッと直感的に浮かんだことには往々にして純粋なる神の啓示であるのである。>
( 新版『真理』第2巻 基礎編「日常生活の勝利と幸福」283頁より)
私は昭和62年頃の夏の宇治での盂蘭盆供養祭に参列した時に以前、高校生時代に遠くから見ていた雅宣氏との違和感を大変強く感じたのが「第一印象」といっても良い、感想であります。
その違和感というのが、
「この人、生長の家の人間ではない」ということでした。
だから、この人の言葉は信じない。それが私の信条のようなものでした。
当初はこの人の書いた本を読んだりしましたが、反論ばかりが頭に過ってきます。これは間違いの書物である。
そう確信したのであります。
しかし、あの人にも「好い所がある」とか、「生長の家」だから和解せよ。とか何か話の論点が違うような事ばかりが出てきました。私は当初、インタ-ネットの「2チャンネル」とかでそういう論に反対してきました。
それは、そういう人が責任者であることが「良い所がある」とか「和解論」とかが間違っているということなんです。
その人が間違った書物や発言により、幾多の人々がその間違った論を鵜呑みにするわけなんです。所謂、マインドコントロ-ルです。その間違った論が正々堂々と世の中に広まるわけなんです。
例えば「雅春先生」の書物は古くて「時代に合わない」ということがまかり通っていますが、この論も大変おかしな論なんです。
真理は時代を超えて「永遠不滅」なものなんです。それに時代遅れというのがあるのかどうかであります。ならば『聖書』何ぞは古すぎて、時代に合わない物であると断言出来るのでしょうか?そんな真理は使えないと云えば、貴方は全世界を敵にまわすことになるでしょう。「それならば時代に合わない」というのは何んでしょうか?
それは谷口雅春先生の愛国的なものと、天皇陛下が谷口雅宣氏自身は本音では大嫌いなものなんです。だから愛国書を絶版にしたり、座談会では「愛国的」な話をするなと強要したりするのです。また天皇陛下の話などあまりしないのも、そういう根本には反天皇論があるわけであります。反天皇論というのは「生長の家」とは別対照のものであるから直ぐには出せない、一昨年からそういう素顔が徐々に現れてきた。
私はそういう人の見極めは大変大切なことです。知らずに行う所業は罪が重いといいます。「生長の家」を実践して業の深いことをするのも、両刃の劒となります。「見極め」こそ大切になります。
『いのち』1937年12月号
國際思想戰の激化と日獨伊防共協定の意義 / 杉山謙治/p2~16
實彈戰と宣傳戰 / 水野廣德/p17~28
思想戰とは何か / 松下正壽/p29~33
國家と人間 / ブリントン/p125~139
世界平和の敵英國を駁す / ボース・ラスビハリ/p34~38
堯舜大帝國の建設案 / 黑田禮二/p39~51
北支資源のブロツク的意義 / 松井淸/p103~108
東洋民族運命共同體再建の急務 / 藤澤親雄/p78~89
滿洲の今と昔 / 長與善郞/p90~95
北支建設と支那ルネツサンス / 中谷武世/p96~102
永遠よりの抗議 / 倉田百三/p54~61
自由主義と戰爭 / 本莊可宗/p62~77
觀念形態の轉換時代ジヤナリズム批判) / V・X・W/p109~118
戰時體制下の農村 / 草野心平/p119~124
隨感斷想 / 谷口雅春/p142~155
書きたきこと / 武者小路實篤/p156~164
日本への囘歸 / 萩原朔太郞/p165~169
光明一元の生活を語る(求道座談會)/p172~195
星 / 金子光晴/p140~141
或朝 / 高橋新吉/p170~171
銃後の秋 / 江口隼人/p196~197
街頭小歌 / 齋藤茂吉/p52~53
新劇近事 / 中林政吉/p199~202
楠見の話 / 中谷孝雄/p203~221
光り合ふいのち(長篇) / 倉田百三/p222~242
『いのち』1938年1月号
世界歷史の進行と國際諸會議 / 杉森孝次郞/p2~13
新きし社會形態と人間觀の變革 / 本莊可宗/p14~31
文化創造者としての日本 / 淺野晃/p32~39
人間主義を超えて / ハアトション/p40~47
スペインの眞相 / P・J・ゲッペルス/p61~74
南京陷落と日英一戰の序幕 / 田中正明/p52~60
ソ聯は危機を克服するか / 平竹傳三/p75~82
普遍原理としての日本精神 / 藤澤親雄/p83~94
革新理念としての日本精神 / 高須芳次郞/p95~107
古典精神の問題 / 中河與一/p137~143
古典復興の問題 / 保田與重郞/p146~157
日本精神の政治的展開 / 津久井龍雄/p108~116
日本精神の哲學 / 蓑田胸喜/p117~136
實と根 / 武者小路實篤/p158~162
日本の巡査 / 萩原朔太郞/p163~169
北支に潜行する女(現地隨筆) / 中島與一/p223~229
石原純氏に與ふ(文化的心理の豫言的性格について) / 倉田百三/p174~187
河合榮治郞氏及び矢内原氏へ / 高橋敏/p188~196
現文壇への公開狀 / 希吐拉/p197~200
自由主義的政治指導層に與ふ / 中谷武世/p201~206
ユダヤ民族運動概觀 / 四王天延孝/p1~27
日本を救ふ道――ユダヤ經濟主權より脱却せよ / 谷口雅春/p60~71
英國政府と米大統領を圍む猶太色彩 / 長谷川泰造/p92~100
ユダヤ主義の文化的擬態 / 增田正雄/p72~79
理念の實現――闘爭より建設へ / ローゼンベルグ/p80~91
支那事變を繞る猶太問題の諸相 / 宇都宮希洋/p28~60
特別附録解説付 全譯 シオン議定書 / 愛宕北山/p101~198
愛雪記【繪と文】 / 松本弘二/p220~222
不死生還記(健康秘話) / 丸山熊太郞/p213~219
演劇雜記 / 山本安英/p207~212
詩四篇 / 高橋元吉/p170~173
海行かば / 松崎武雄/p48~51
赤彦歌碑 / 森山汀川/p144~145
春を待つ / 西村陽吉/p230~231
北の旅 / 深田久彌/p232~250
光り合ふいのち(長篇) / 倉田百三/p251~265
いのち懸賞創作論文豫選發表/p157~157
谷口雅春著作集第一篇 出世前・生・死・死後の研究 生命の藝術社 S9.7.01
-この一篇を今井楳軒老師の古希の慶びに献ぐ- 黒ポプリン銀箔装
谷口雅春著作集第二篇 生命の烈風(いのちのはやて) 生命の藝術社 S9.9.15
谷口雅春著作集第二篇 いのちのはやて-生命と光明の書- 生命の藝術社 S10.5.25
(生命の烈風と同じ)
谷口雅春著作集第三篇 生命の奔流 生命の藝術社 S10.3.21
谷口雅春著作集第四篇 新生活の出發 生命の藝術社 S10.4.21
谷口雅春著作集第五篇 地湧の浄土 生命の藝術社 S10.5.21
谷口雅春著作集第六篇 生命の神祕 生命の藝術社 S10.5.21
谷口雅春著作集第七篇 本當の教育 生命の藝術社 S10.6.25
谷口雅春著作集第八篇 光明の思想 生命の藝術社 S10.9.21
谷口雅春著作集第九篇 生命の行方 光明思想普及會 S10.10.25
谷口雅春著作集第十篇 生ひ立ちの記 光明思想普及會 S10.11.25
谷口雅春著作集第十一篇 智慧の言葉 光明思想普及會 S10.12.15
谷口雅春著作集第十二篇 光明の生活法 光明思想普及會 S10.12.15
谷口雅春著作集第十三篇 光明主義 光明思想普及會
「谷口雅春著作集」戦前版の第11篇は『智慧の言葉』ではないかということを考える上で二回にわたって検証してきました。
何故『智慧の言葉』であるかということを、販売日や何篇の連続性など様々に行ってきましたが、確証というのがありませんでした。
そこで次に廣告宣伝に於いての検証をしてみたい。
この『智慧の言葉』の発行日は昭和10年12月15日です。そこで昭和10年12月26日東京朝日新聞の一面に掲載された廣告です。上図
その廣告には『智慧の言葉』の横に記載している字は読みづらいが、書店版 第十一巻と書いている。下記に記載しているが、「谷口雅春著作集」は何篇である。何巻とは言わないのです。しかもこの当時に廣告をみていくと「全集版」もしくは「普及全集版」というと『生命の實相』黑布表紙です。
「縮刷豪華要典版」もしくは「縮刷豪華版」というと革表紙版であります。
書店版で何冊という表現で行っているものとその「谷口雅春著作集」の函に何篇というのがありますからどうしても混乱します。
だが、何巻というコトバを使ってはいません。表記のミスなのかであります。だが考えてみると『智慧の言葉』は11篇ではないかということがある面裏付けるには確たるものではないのでしょうか。
皆さん如何思いますか?
谷口雅春著作集第一篇 出世前・生・死・死後の研究 生命の藝術社 S9.7.01
-この一篇を今井楳軒老師の古希の慶びに献ぐ- 黒ポプリン銀箔装
谷口雅春著作集第二篇 生命の烈風(いのちのはやて) 生命の藝術社 S9.9.15
谷口雅春著作集第二篇 いのちのはやて-生命と光明の書- 生命の藝術社 S10.5.25
(生命の烈風と同じ)
谷口雅春著作集第三篇 生命の奔流 生命の藝術社 S10.3.21
谷口雅春著作集第四篇 新生活の出發 生命の藝術社 S10.4.21
谷口雅春著作集第五篇 地湧の浄土 生命の藝術社 S10.5.21
谷口雅春著作集第六篇 生命の神祕 生命の藝術社 S10.5.21
谷口雅春著作集第七篇 本當の教育 生命の藝術社 S10.6.25
谷口雅春著作集第八篇 光明の思想 生命の藝術社 S10.9.21
谷口雅春著作集第九篇 生命の行方 光明思想普及會 S10.10.25
谷口雅春著作集第十篇 生ひ立ちの記 光明思想普及會 S10.11.25
谷口雅春著作集第十一篇 智慧の言葉 光明思想普及會 S10.12.15
谷口雅春著作集第十二篇 光明の生活法 光明思想普及會 S10.12.15
谷口雅春著作集第十三篇 光明主義 光明思想普及會
S10.12.15
今回は『無一物の哲學』ということを考察していこうと考えます。
ただ、難しく「無一物」の言葉を検証したり、哲學とは何ぞやというようなことではありません。先日のブログで『谷口雅春先生』の昭和10年頃に出版された『谷口雅春著作集』というのがありますが、これは以前にも記入しましたが、何篇という記載は函にしかありませんので、函が無ければ何巻というのが全くわからないのであります。
さて、先日の『無一物の哲學』は無かったのではないかという疑問なのです。
それならば、なんであるかという質問を頂ければ、あくまで推測ですが『智慧の言葉』ではないかと思っています。
下記のコメントを「亀の子」さんから頂戴いたしました。
【いつもお世話になり、ありがとうございます。『生命の實相』書店版のご紹介ありがとうございます。「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」掲示板でご質問の、『谷口雅春著作集第十一篇 無一物の哲學』については、以前も古書店の在庫検索、公共図書館Webサイト等、色々調べましたが全くヒットしません。似たような名称の『無一物の医学』(『生命の実相』の一節)ならヒットするのですが・・・。当時は、まだ『生命の實相』全集も12・13巻までの出版だと思われますが、他の書店版の内容から推察して『無一物の哲學』の内容を山ちゃん1952様はどのように推測されていますか。私は、数冊しか所持していないため推測が難しいです。ただ本當に本流派と言われる方々も『生命の實相』に関心が薄いことには、驚きと切なさしか感じ得ません。合掌】
私は上記に書いたように『智慧の言葉』ではないかと推測しています。前回のブログの内容と少し被ってきますが、検証していきたい。
当時(昭和10年前後)出版されて似たような書物は『無一物の醫學』という『生長の家叢書』の第二弾で出版されました第十巻に『無一物の醫學』があります。これは昭和7年10月3日に発行されています。しかし頁数は47頁と小冊子なんです。
それ以降『無一物の醫學』というタイトルの本は谷口雅春先生の著作物ではみあたりません。
その後に同じタイトル『無一物の醫學』で昭和10年3月20日に出版されているのですが、これも47頁です。この発行は無料頒布で使用されていたものだと推測されます。立教の間もない頃はよく無料頒布で『吾が心の王國』『生きとほし』『生命の神秘』『光の新生活へ』『無限生命の泉』『いのちのゆには』等様々な本が無料進呈ということで印刷されているのです。
ただ、このような本は『生命の實相』から抜粋された内容を記載しているので、それがそのまま本のタイトルが著作になるということはありませんでした。
それでは『谷口雅春著作集』を記入します。
出世前・生・死・死後の研究 生命の藝術社 -この一篇を今井楳軒老師の古希の慶びに献ぐ-(谷口雅春著作集第一篇) | S9.7.01 |
生命の烈風(いのちのはやて) 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第二篇) | S9.9.15 |
いのちのはやて-生命と光明の書- 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第二篇)函 (生命の烈風と同じ) | S10.5.25 |
生命の奔流 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第三篇)函 | S10.3.21 |
新生活の出發 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第四篇) | S10.4.21 |
地湧の浄土 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第五篇) | S10.5.21 |
生命の神祕 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第六篇) | S10.5.21 |
本當の教育 光明思想普及會 (谷口雅春著作集第七篇)函 | S10.6.25 |
光明の思想 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第八篇) | S10.9.21 |
生命の行方 光明思想普及會 (谷口雅春著作集第九篇) | S10.10.25 |
生ひ立ちの記 生命の藝術社 (谷口雅春著作集第十篇) | S10.11.25 |
無一物の哲學 (谷口雅春著作集第十一篇)? | S10.6.25? |
光明の生活法 光明思想普及會 (谷口雅春著作集第十二篇) | S10.12.15 |
光明主義 光明思想普及會 (谷口雅春著作集第十三篇) | S10.12.15 |
ここで昭和10年6月25日の出版となっているが、発行日から推測していくと第二篇の『いのちのはやて』は名称を変えての出版ですから発行日はずれているのは当たり前のことなんです。ただ『無一物の哲學』だけが昭和10年6月25日なんです。本来ならば昭和10年11月25日~昭和10年12月15日の間で印刷されていて発行されている書物となるわけなんです。
そこで『生命の實相』の書店版で同じ本が多くあるのですが(重複しています)それを探ってみたい。
第一冊 生命の奔流 生命の藝術社 S10.3.21
(谷口雅春著作集第三篇)
第二冊 新生活の出發 生命の藝術社 S10.4.21
(谷口雅春著作集第四篇)
第三冊 いのちのはやて-生命と光明の書- 生命の藝術社 S10.5.25
(谷口雅春著作集第二篇) (生命の烈風と同じ)
第四冊 地湧の浄土 生命の藝術社 S10.5.21
(谷口雅春著作集第五篇)
第五冊 生命の神祕 生命の藝術社 S10.5.21
(谷口雅春著作集第六篇)
第六冊 本當の教育 光明思想普及會 S10.6.25
(谷口雅春著作集第七篇)
第七冊 光明の思想 生命の藝術社 S10.9.21
(谷口雅春著作集第八篇)
第八冊 生命の行方 光明思想普及會 S10.10.25
(谷口雅春著作集第九篇)
第九冊 生ひ立ちの記 生命の藝術社 S10.11.25
(谷口雅春著作集第十篇)
第十冊 光明の生活法 光明思想普及會 S10.12.15
(谷口雅春著作集第十二篇)
第十一冊 智慧の言葉 光明思想普及會 S10.12.15
第十二冊 光明主義 光明思想普及會 S11.1.20
(谷口雅春著作集第十三篇)
第十三冊 人を作る敎育 光明思想普及會 S11.9.20
第十四冊 明朗の宗敎 光明思想普及會 S11.10.20
となると該当する著作は
第十一冊 智慧の言葉 光明思想普及會 S10.12.15
となるわけなんです。
それではそれ以外でこの年代で出版された御著書はあるかという疑問です。
あるのにはあるのですが、重複版であったりしてパンフレット(小冊子)だけなんです。
つまり、突き詰めて考察すると『智慧の言葉』しか見当たらないというわけなんです。
それでは、その『智慧の言葉』は以前に目次を紹介しましたが、それは『生命の實相』の何巻に該当するかということです。
以前に書いた内容をそのまま記入致します。
『智慧の言葉』の本はその後『生命の實相』黑布表紙、第十一巻『經典篇・参考篇・宗教問答篇』となります。否、實は『生命の實相』第11巻の方が早く出版されています。
『生命の實相』第11巻は昭和10年11月25日発行となります。
『智慧の言葉』は昭和10年12月15日発行です。
この本は最初に『生命の實相』は元版があり、それをそのまま活用して表紙だけを『智慧の言葉』としています。
『智慧の言葉』目次
經典篇(一) 智慧の言葉 /1~118
經典篇(二) 『甘露の法雨』講義 /119~342
第一章 神と佛と靈/121
第二章 物質と實在/174
第三章 智慧と無明と罪/230
第四章 人間の實相及び假相/281
参 考 篇 精神分析による心の研究/343~416
佇立地獄の患者/345
ブロイエルの催眠法/348
ステケル氏の自由會話法/350
ユング氏の連想試驗法/350
ステケル氏の自由單語法/351
病気でありたい意志/351
精神分析の質問の仕方/352
彼の遅刻/354
彼の夢/355
妻の秘密/358
復讐の激情/359
患者の夢の分析/361
正しき生活病気を全治せしむ/365
其の他の治驗例/366
精神分析實施上の注意/367
醫者への愛/372
勝利の欲望/372
公衆恐怖症の解剖/380
私の取り扱った複雑な治驗例/389
宗教問答續篇 人生の惱みに答う/417~432
一、繪を書くのを使命と感じながら境遇に苦しむ人に/419
二、未婚青年の性欲の解決/426
その後に『光明の生活法』(谷口雅春著作集第十二篇)が出版されるわけなんですが、おや?
戦前の『生命の實相』黑布革表紙は第4巻なのに何故?
それは発行日が昭和10年10月25日で『光明の生活法』は昭和10年12月15日と差異はありません。
また『光明主義』の目次は
目次
藝術としての生長の家(序文に代へて) / 1-10
常樂篇久遠常樂の生活 / 11
第一章 常樂生活への道しるべ / 13
第二章 無限能力を汲む道 / 22
第三章 不壞の生命を說く / 34
第四章 生きとほしの生命 / 56
第五章 全面的自由としての宗敎的救ひ / 87
第六章 平等愛の絕對神と偏愛の相對神 / 100
經典篇聖經『天使の言葉』講義―特に『近眼は治る』原理に及ぶ / 117
參考篇心が肉體に及ぼす力 / 199
心が肉體に及ぼす力 / 201
想像の作る病氣と想像の治す病氣 / 210
健康を左右する暗示の力 / 218
愛は癒やす力 / 228
人間は何故老衰するか/ 230
長く若さを保ちし人々 / 240
精神力にて老衰を防ぐ法 / 242
質疑篇眞理の應用及び拾遺 / 267
これは戦前の『生命の實相』黑布革表紙は全集第十二巻『常樂篇・經典篇・参考篇・質疑篇』と同じ内容です。
推測というコトバでは書きましたが、『無一物の哲學』の発行日が昭和10年6月25日は『本當の教育』と同じ出版日なんですが、その当時の廣告宣傳などでも検索しましたが、『無一物の哲學』だけは何処にも該当する検索はありませんでした。
『いのち』1937年10月号
扉カット / 武者小路實篤/p1~
歐洲の政治形態と日本國家 / 藤澤親雄/p2~21
民族的展開と軍事的衝突 / 西村眞次/p22~34
現代時局と哲學の責務 / 大江精志郞/p50~56
戰爭と平和 / 本莊可宗/p35~49
ソ支不可侵條約と我が外交の立場 / 伊藤正德/p87~97
日獨伊の提携を繞る英蘇佛 / 黑田禮二/p98~104
軍事紙幣發行論 / 谷口雅春/p57~76
非常時に蠢動するもの / 奧津彦重/p77~86
支那を亡ぼすものは誰か / 村田孜郞/p105~109
支那事變と香港 / 田中正明/p110~120
賣國の支那政府を撥く / 草樹野人/p121~137
第二次世界大戰と列強の資源 / 小島精一/p138~146
第二次世界大戰は必至か?座談會/p148~170
城米さんその他 / 武者小路實篤/p171~179
五十になって / 長與善郞/p180~189
歸鄕雜記 / 佐藤春夫/p190~199
内にある日本 / 西村陽吉/p310~318
必勝の哲學 / 柳舜三/p319~330
[榛名湖畔にて] /兒島善三郞/p347~350
秋風の聲 / 中川一政/p269~277
血と文化と日本民族 / 永井潜/p202~221
西洋文化の沒落と日本 / 龜井勝一郞/p249~255
英米文化に要求されるもの / 田部重治/p233~240
日本への反省 / 門屋博/p222~232
世界不安の深化と歐米哲學思潮 / 鶴田眞次郞/p241~248
ラマクリシュナとヴィヴエカナンダ / 片山敏彦/p256~267
山の旅山日記 / 眞船豊/p351~358
人生と仕事を語る座談會/p278~307
生命の奪還記 / 伊藤光雄/p331~
文藝時評 / 保田與重郞/p373~381
今秋の美術界の展望 / 摩壽意善郞/p359~363
早大を通して見るリーグ戰と時局 / 小島六郞/p364~366
面白い整色寫眞の撮り方 / 福井勝秋/p367~372
夢について(斷章五篇) / 萩原朔太郎/p411~417
黄裳詩鈔(詩) / 高橋元吉/p308~309
自分は歩む(詩) / 草野心平/p200~201
戰時體制(短歌) / 森川汀川/p147~147
死の床の花嫁(讀物) / 荻原俊三/p382~409
光り合ふいのち / 倉田百三/p485~511
一時期 / 岡本かの子/p418~439
漣子と男達 / 中河與一/p440~484
『いのち』時局文藝・思想大講演會豫告
第一囘『いのち』懸賞創作論文募集/p410~410
『いのち』1937年11月号
國際日本の必然 / 杉森孝次郞/p2~8
美しき協同體を創らん / 倉田百三/p9~17
日本の將來 / 武者小路實篤/p18~23
美の傳統と日本精神 / 中河與一/p24~30
日本文化の現在と將來 / 萩原朔太郞/p31~37
新しき指導を何處に求むべきか / 本莊可宗/p38~47
僞瞞擧國一致を排す / 谷口雅春/p107~123
立場に於ける體系性と歷史性 / 佐竹哲雄/p50~58
みそぎの精神は蘇る / 佐藤得二/p67~75
生の哲學と死の哲學 / 藤原定/p59~66
飛行機用法の變遷と列國航空事情 / 有馬廣士/p78~88
科學戰に於ける電氣の威力 / 紅谷嘉一/p89~97
果して日ソ開戰の危機か / 平竹傳三/p98~106
董玄宰の言(繪と文) / 福田貂太郞/p202~206
明けゆく空 / 杉江重誠/p126~127
道心・懺悔・往生 / 百島春二/p174~176
ふるさと / 工藤直太郞/p150~155
ホイツトマン雜記 / 宮崎安右衞門/p137~149
心象風景 / 古谷綱武/p156~161
山本有三論 / 十返一/p128~136
新劇の行方(演劇近事) / 中林政吉/p162~165
秋夜 / 高橋元吉/p200~201
詩四篇 / 佐藤一英/p76~77
富士見高原 / 窪田空穗/p48~49
囘想 / 西村陽吉/p124~125
腕を切られた男(童話) / 白石實三/p166~173
兵(完結篇) / 吉田初太郞/p177~199
光り合ふいのち(長篇) / 倉田百三/p207~227
ある女の位置 / 芹澤光治良/p228~239
第一囘『いのち』懸賞創作・論文募集/p23~23
残念ながら第六篇『生命の神秘』は所持をしていない。下記の目次は国会図書館から抜粋させていただいた。
さて、「亀の子」さんから第五篇『地湧の浄土』の函付を所持されているということで、ブログに書き込んでいただいた。早速、パソコンに取り込んでいきたいと思います。
私は以前に『谷口雅春先生著作年譜集』を出版し多くは贈呈させていただいた。なかには、ある人からの紹介で送って欲しいということで送りました。だが、礼状はあれども、それきりであります。エ-送って欲しいということで送っても、それで終わりですか。送付代も私が払いました。「生長の家」の人というのはそんな義理のない人でしょうか?
先生とよばれ、尊敬されているのでしょうが、人間として失格のように感じます。
だが、殆どの人は本の紹介をして下さったり、いつまでも御礼の贈物を送って下さる人ばかりです。そんな人は反対に「生長の家」を卒業されている人です。
話は元にもどしますが、それっきりになった人は何か私の所持していない雅春先生の御本の紹介があるかと思ったが、梨の礫である。
そのなかでも、永井古書店様は常にいろんなことを紹介してくださいます。
それと、私も人のことがいえないことがあります、義理のないことをした人です。それはパソコンを一昨年11月の壊れて、内部に書き込んでいた住所録が無くなってしまい。送れていない人もいます。この4月までにはお世話になったので送りたいと思っています。
また、いつまでもお世話になっている人はまた再版したら送付したい。
それでは『生命の神秘』の目次を記入したい。
『生命の神祕』 (谷口雅春著作集第六篇)
はしがき/4
『七つ燈臺の點燈者』の神示/6
總説篇 七つの光明宣言の解説/1~40
實相篇 光明の眞理/41~406
第一章 近代科學の空卽是色的展開/43
第二章 『生長の家』の健康學/59
第三章 あらゆる人生苦の解決と實例/77
第四章 心の世界に於ける運命の形成/113
第五章 生きた事實を語る/145
第六章 愛と眞理によつて更生せよ/169
第七章 『生長の家』の超生理學/194
第八章 『生長の家』の超藥物學/220
第九章 無礙自在の『生命の本性』を發揮せよ/267
第十章 『生長の家』の神人論/305
第十一章 讀んで魂の歡ぶ話/322
第十二章 神への道しるべ/345
第十三章 經濟問題の解決/374
今回は今までに本や冊子などで発行されてこなかった『生長の家』誌昭和12年1月1日号で極めて重要な文章であります。『招神歌』講義であります。
この『生長の家』には重要な文章が他にもあります。それは生長の家の誌友徽章標準図つまり生長の家の光輪卍字十字架のデザインが始めて書かれたことです。
それ以外に『古事記』講義など有用な神誌です。
此の度は全謹写することを考えたのですが著作権の関係でギリギリです。ご容赦願います。
尚、ここにあります文章を添付して他の掲示板には貼付けはご遠慮願います。
全文章を要望される方はご連絡下さい。
『招神歌』講義
谷口雅春
神想観をいたしますには聖典『生命の實相』に書いてありますような姿勢で、瞑目合掌してそれから招神歌を唱えるのであります。
何時も皆さんがやっていられる通りで、道場や誌友会でやるのは多勢で指導する為にやるので多勢に聞こえるように朗々とやる必要があるのですが、自分自身でやる時は必ずしも人に聞こえるような大きな聲でなくても宜しいのであります。
隣の人同座の人に恥ずかしいから大きな聲が出せないと云う人は出さなくても差支えないのですけれども、大きな聲で多勢の中でも唱えるようでないと本当に信仰が深いと云うわけではないのであります。
どこの宗教でも、祝詞とかお経とか誦げるときにでも、何だかきまりが悪いと云うような人はまだ本当の信仰が徹底していないので、何となく人にきまりが悪いのであります。
ところが平気で誰の前でも誦(とな)へ言が出来るようになると、大分信仰が深くなっているのであります。さて、第一の歌の講義に進みます。
生きとし生けるものを生かし給へる御祖神(みおやかみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきはえ)へ給へ。
この歌の意味は要するに我々の生きている生命と云うものは、どこから来るかと云うと、御祖神元津霊は元の霊(みたま)であります。大元霊と云っても好いでありましょう。これは日本読みにすると元津霊となるわけで、元津霊ゆと云うのは『田子の浦ゆふりさけ見れば』という歌がありますが、”ゆ”というのは”より”と云う事であります。
元津霊より幸へ給へ、元の霊から幸へ下さい、この霊(みたま)を分ち与えて下さいと云う意味であります。サキハヘに幸と云う字が書いてありますが、幸福を何故幸延(さちは)へと云うかと申しますと、本当に幸と云うのは自分の力で利己的利益を得たから幸であると云うのではないのでありまして、神の大生命、それを分ち与えられるその事が幸なのであります。
霊(みたま)がなければ幸でなくなるのであります。我々の生きる力、喜びの感じ幸福の感じ、生き甲斐の感じと云うものはこの大生命を余計頂くか少く頂くかによってその程度が変わって来るのでありまして、何時も嬉しい感じ、魂の幸福な喜び、生き甲斐があると云う感じがしている。それだけ大生命から霊を余計与えられていると云う事になるわけであります。
そう云うと大生命、大元霊、御祖神と云うものは、我々に不公平に霊を与え給うものであるかと云うと決してそうではないのでありまして、我々の心の持方がよかろうと悪かろうと、常に無限に平等に与えてゐ給うのが元津霊であります。それを自分の心で、心の重荷や苦しみで遮って邪魔をして、それによって本来の自分、既に幸福に充ち満ちた本来の自分に帰って来ないと云う事になるのであります。
何時もラジオセットの例を引きますが、アナウンサ-が放送をしますと、どのラジオセットにも皆一様に同じ距離に置けば、同じようにそこにラジオの波が来ているのであります。来ているけれども良いラジオセットと悪いラジオセットとでは、その感応が各々違うのであります。
良いラジオセットは本当にアナウンサ-の聲其の儘をそこに再現する。悪いラジオセットはアナウンサ-の聲その儘は再現しない。耳障りな不快な音をたてる。或は良い具合に聞こえないで小さな聲が出たりする、アナウンサ-其の儘の聲が必ずしもそこに再現しないのであります。
それはアナウンサ-が悪いのではないのであります。ラジオセットの方が悪いのであります。同様に大生命から放送する神が悪いのではないのであります。神は常に一様に大生命の生きる力を放送していられる。それを再現する事が出来ないのは、我々のラジオセットの不完全さによるわけであります。それで我々は出来るだけラジオセットを完全にしなければならぬ。そうすれば神様から来るところの霊波(さきはへ)其の儘の状態、それをそこにさながらに再現する事が出来るわけであります。
では神様の霊波その儘がそこに再現するには如何(どう)したらいいかと云うと、心を整えてそうして神様の波長に、自分の波長と云うものを、ぴたりと本当に完全に合わさねばならぬ。その時、神の聲がそこに再現する。神の聲即ちアナウンサ-の放送は、放送局のセットと聴く方のラジオセットとがぴたりと波長が合った時に初めて完全に再現して来る、人生の幸福も放送者即ち神の聲が完全に再現して来るところに在るのです。
要するに何よりも先ず心を整えることであります。これは神様の性質を考えればよく分かるのでありまして、神様は光である、太陽のように総てを照らすところの光である。明るいのが神様なのであります。それですから我々は常に明るい心持を持つと云う事によって、神様の霊波をここに再現し得、生きる力を感じ、生きる力そのものをここに再現して来ることが出来るのであります。それから神は光であると共に神は万物を育むところの大いなる愛である。
大いなる愛であるから、神の生きる力、大生命の力と云うものは、それをここに再現して来させようと思いましたら自分を神の愛の波長に合わせなければならないのであります。
換言すれば我々の愛が神と同じように総てのものを慈しむと云うような大いなる愛にならなければならないのです。誰は憎いけれども誰は可愛いなどと、そう云う差別の気持ちになったら、それは神様の波長と合わないと、斯う云う事になるわけであります。
それから神様は総ての事に行届いていられる、そうして一つとして知り給わないところがないのであります。神様は無限の智慧であると生長の家では云っているのでありますが、神様の智慧と云うものは大きく云えば宇宙全体に繋がっておりますし、小さく云えばこの分子原子電子の中にまで行き通って、そこに神の不思議な力が活動しているのであります。
それで神の波長を合わせようと思ったならば、神と同じように大きな広々とした心を持たなければならない。それでは気が大きいばかりで呑気にさえ構えておれば宜しいかと云うとそうではないので、時には小さな細かに行届く心にもならなければならないのであります。分子電子のところまでも行届くような心を持つと云う事が必要なのであります。
自分は神と一体であると悟ったとて悠々と構えて、そうして小さな事など如何(どう)だってもいいのだと考えている人があるかも知れませんけども、それでは神の智慧に一致しないのであります。何よりも総ての事に行届くと云うことが大切であります。
神の智慧と云うものは、本当に微細なところ、埃ひとすじ、鉛筆一本のところまでも行届いているのでありますから、我々の智慧もそこまで行届いて、気が大きいと共に細かいところに行届いた心を持たなければならないのであります。
それから神様は生きとし生けるものを生かし給えるところの命でありますから、やはり我々も同様生きとし生けるものを生かすような心、先刻(さっき)、育む心と申しましたが、育むよ云う事は生きているものばかりではない。在りとし凡ゆるもの、一切の物を生かす気持ちになることであります。
神は大生命であると云うのは何でも生かして使う事であります。吾々生長の家の人達は『節約』と云う余り云わない、一切を生かして使えと斯う申すのであります。生かして使えと云って、『節約』には反対であると申しますと、往々節約反対と云う事に執(とら)われて、滅多やたらに費(つか)ったらそれで経済循環がよくなると考えるような人がありますけれども、決してそうではないのであります。物は生かして費(つか)った時に始めて真に経済循環がよくなって来るのであります。
それでも何でも生かして使う、金でも生かして費(つか)はねばならない。生かす事を考えないで安物のくだらないものを高い値段を出して買うというようなことでは、これは金を生かさない事になる。金を生かすには十銭のものも十五銭の値打に使うのがこれが本当に金を生かすと云う事であります。そういう風に紙一枚でも之を生かす、一行書いて一寸下記損なったから直ぐ捨ててしまう事になると、これは紙一枚、全体に書かれるために捧げられているものを、一寸だけ使って、それは要らんと云うのでは、この紙は生かされていないと云う事になるのであります。
それで総てのものを生かして使う、生かし生かし使っているところに、そこに無限の供給と云うものが開けてくるのであります。誰でもいかされることを喜ぶのです。
生かされない物は殺されているのです。それでは人が、物が、喜んではいない。
誰だって殺されたくないですから、紙一枚でも殺されたら恨みに思う。物質を単なる物質であると思うのは大きな間違いであります。これには生命がある、夫々に生きた用途がある。紙屋さんの生命(いのち)も籠り、こういう細工をする人の生命も籠り、之を売った人から運搬した人の精神も籠り、それらが集まって、ここに紙一枚でも形を現しているのでありまして、これはもう決して単なる物質ではないのであります。
生長の家では物質本来ないと云うのは、例えば扇子にしても、これは決して単なる物質ではない、それには色々の人の生命が結合し結晶している、扇を使って風が起ると云うのも単に貼られた紙を操作すると云う物質的関係から生ずるのではなく、實は之を造り拵えた人達の愛の力、生かす力そのものが現れて我々を煽いでくれているのであります。そうすると實にこれは有難い風であって皆さんの生命が煽いで下さるのです。だから扇子一本にも拝まなければならないわけであります。
要するに吾々は自身の心を整えることによって生きとし生けるものを生かし育む神の大いなる愛の心と同じ心を起すと云うことにならねばならないのであります。
吾々日常の生活の一言一行、これを吾々の良心が内から照らしてみて是は喜びであると云う風に常に何となき心の喜びを感ずるようになったならば、既にそれは自心が神の波長と一致したことでありますから、そこに不断に大生命の波長が感じてくるという事になって、これが本当の幸というものであります。
それでは幸と云うのは霊(みたま)が増えるということである。吾々は既に始めから神の大生命無限の霊(みたま)と云うものを分け頂いておるのでありますけれども、それを迷で遮っている。丁度ラジオの音が、小さく明瞭に出ないようなものであります。それを完全に発言させる、そうするとその程度につれて霊(みたま)が増えて来る。霊(みたま)が増えると吾々は常に心楽しく生命は生生(いきいき)として来るのであります。
神の生命は影を映して吾々に形を現すのでありますから、神の全生命の放送がここに姿を現すのでありますから、吾々の霊が殖えれば殖える程吾々の全生活はいよいよ生生(いきいき)としてくる。
生生(いきいき)として来た程度だけ、霊が殖えたわけであります。吾々は死にかかっている場合には、決して生生(いきいき)していない。もう一度逆に考えますと、生生(いきいき)したら霊(みたま)が殖えると云うのは、これは波長の共鳴が引起すので、生生(いきいき)とするのが大生命でありますから、それは生生(いきいき)した波を起しまして、そこへ生生(いきいき)とした生生(せいせい)の波動が映ってくるわけであります。それで、我々は常に明るく、常に生生(いきいき)と、そうして人を育むような、小さなものを生かすような、広々とした、しかも細かいところに迄よく行届く心を持てば、吾々は完全に神の生命を受けて、それをここに自在に生生(いきいき)と発現させる事ができるのであります。次の歌に移ります。
『人生は心で支配せよ』は以前にこのブログで貼付いたしました。雅春先生が如何にして「生長の家」を心の法則で人生を幸せにしたい。この日本の全ての人を幸せにしたい。その熱望がこの文章に現れています。是非、読んでいただきたい。
さて、戦前のこの時期においては沢山売れた本です。下記にその“はしがき“を記入したが『如何にせば運命を支配し得るか』は拾版を重ねて出版された、その当時ではよく売れた本です。この本は私も四冊程所有しているので、いろんな人が購入したことが推測できます。
この本の出版される少し前に雑誌『心霊研究』にご投稿されている。大正13年11月号と11月号であるが、『如何にせば運命を支配し得る乎』。その後も続刊されていたかは不明です。だが『如何にせば運命を支配し得るか』は大正14年6月10日発刊であるから、出版されていたことが考えられる。
さて生長の家の神想観はホ-ムズの黙念法が基本となっている。そこから唯心所現の世界への祈念する方法が現れたのが「神想観」である。光明思想の出現は如何にして現れてかがこの文章で明らかにされている。
はしがき
本書は私の神想観入門である。一日に一種の黙念法を行ひ、三十日で大体その初歩的実修が完了し得るやうになってゐるところに特長がある
私が『新佛教の発見』に於て這べたやうな思想的過程で発見したところの佛教的真理―人間は本来自己内在の大自在・大円覚を有すと云ふ真理―は、関東大震火災当時の私に於てはまだ理念の大自在に過ぎないのであった。その大自在を理念より現実に成就する道はまだ私に発見せられてゐなかった。釈迦は法華経に於て入間本来すべて仏子であることを説いたが、観普賢菩薩行法経に於て、人間本来の仏性を実現する方法を説いた。私も観普賢菩薩行法経を読んで見たが、『端坐して実相を想へ]と書いてあるけれども、本当に如何に端坐し如何に念ずるかゞハツキリ解らなかった。その頃、恰も私は関東大震火災に遭っったのが動機で、私は郷里神戸に帰ったのである。そして神戸で私は私の自伝『超宗教を建つるまで』に記載してあるやうな径路で、フエンウイック・ホームズ著の“The Law of Mind in Action”なる書を獲る機会に接したのである。後者は唯今『新百事如意』なる題で私の訳補書が出てゐる。
ホームズの“The Law of Mind in Action”を得て読んだとき、別著『新仏教の発見』に於て私が到達してゐた人問内在の大自在―本来の仏性を現実に成就する道に一つの行法を暗示されたのである。あるところの『大自在性』に転ぜしむる行法を発見せしめられたのである。と同時に、ホ-ムズの思想はクリスチャン・サイエンスやニュ-・ソ-トの流れを汲むものであったが故に、爰にはからずも仏教と基督教とを一つに一致せしめる道に大いなる示唆を得た。此の書は全く私にとつての普賢菩薩行法教の役目を果してくれたのである。大自在の『知』が『行』に成る契機が茲に与へられたのである。
その当時、この書を得た私は悦びに満たされて翻訳し始めた。やがてそれは『如何にせば運命を支配し得るか』と題して実業之日本社から出版して貰った。それは謂はゞ私自身の運命革新書であつたのである。其の書は相当好評を博して当時拾版ばかり重版したが、其の後思索が進んで来た私には意に満たぬところがあるので、爾来絶版にしてしまつたのである。もうそれは約十八年前のことである。その後も私の思想は進歩し、向上し、今日に到達した。 ・
最近此の書をもう一度出版して欲しいと云ふ要求が諸方にある。眼を通して見ると、現在の私の心境からは、以前の文章の儘では到底出版する勇気がない。現在の生長の家の思想には劣る点や、相異する点が眼に着く。『「悪」も「病気」も、一切は唯心所現であるから、現れてゐろ限りは存在する』と云つたやうな、アルとアラハレとの重大な混同をホームズがしてゐるのも気になるのである。筆を入れ出したら限りがない程である。私は以前の版を真黒に活字が見えなくなるほど筆を入れてしまったのである。以前の版を有ってゐられる人は対照して見られゝば、どんなに変ってゐるかゞはっきり判る。
斯うなれば、もう翻訳とは称(い)へない。訳補と云ふ程度さへ超えてしまった。全然新たに書き卸したと云っても好い位である。と云って元来ホームズの著作に筆を入れ光明思想を伝へようとしたのであるから叙述の順序はホームズの儘である。叉其の順序は巧妙である。一ケ月を三十日に分けて毎日異なる言葉を思念する行法―ホームズの行法の順序は大変面白いと思ふ。私も現在の神想観を始めるまでは、大体このホームズの行法によって思念法を行ひ、神の叡智を流入せしむろことによって、私の性格は明るくなり、自由自在性が加はり、私の運命は暗黒から光明に転回して来たのてある。
本書に掲げたる黙念の言葉は、順序はホームズの行法に順って一ケ月三十章に分ってあるが、内容は私が実際やって見た結果、原著の黙念の言葉に洗練に洗練を加へて今日のものに達したのである。ホームズ行法と云っても好いが、原著とは随分改められてゐるから、今は一層有名になってゐる『神想観』になる名称でこの思念法を呼ぶことにしたのである。
『いのち』1937年8月号
政治意識の擡頭とその指導原理 / 杉森孝次郞/p2~14
世界的と國民的 / 本莊可宗/p16~29
日本的教養の根據 / 芳賀檀/p50~54
現代救濟の方向 / 藤原定/p30~37
日本的なる性格に就いて / 石久保重義/p38~49
國民體位の貧困時代に着目點の一轉を高唱す / 柳舜三/p96~105
恐怖政治と人間性の報復 / 倉田百三/p89~95
トハチエフスキー事件の教訓 / 龜井勝一郎/p82~88
ソ聯對日外交秘話 / ペセデフスキー/p76~81
スターリン主義への懐疑 / エフ・バウエル/p69~75
ソ聯内紛の眞相 / 馬場秀夫/p62~68
日支決裂の危機を前に暗雲の祖國に進言す!中國を赤化の魔手より救へ / 陣泰玩/p55~61
船旅 / 原奎一郎/p144~149
夏の太陽と鄕愁(繪と文) / 海老原喜之助/p142~143
海の斷片 / 三岸節子/p139~141
蟹 / 山口繁雄/p150~152
夏の小さないきもの(デツサン) / 野間仁根/p187~187
隨筆放つもののみ生きる / 谷口稚春/p116~127
家庭教育の重大なる使命として夏期休暇を利用せよ / 霜田靜思/p160~171
生命の醫術 / 船橋作二/p130~134
一死以つて醫家に抗議す / 岩本賢治/p106~115
夏の釣場所案内 / 佐藤惣之助/p172~179
八月のカメラ初等講座 / 猪野喜三郞/p180~186
自然の寳石 / 谷口雅春/p135~138
聲 / 江口隼人/p222~223
螢 / 菱山修三/p273~273
みくまのの旅 / 合田艶子/p188~189
光の座 / 天津日尚/p15~15
光明ゴシツプ / 中島 ; 馬場 ; 星丘/p128~129
新劇近事 / 山本安英/p153~159
心の影を追ふ / 谷口輝子/p190~200
時代小説兵(第四囘) / 吉田初太郞; 木下大雍/p201~221
ひかり合ふいのち(五) / 倉田百三/p274~291
息子の結婚(二) / 武者小路實篤/p292~318
創作獄中の統制者((八十八枚)) / 中本たか子/p224~272
第一囘『いのち』懸賞創作論文募集規定/p320~
((編輯後記))/p319~319
『いのち』1937年9月号
世界秩序の崩壊と再建 / 谷口雅春/p2~15
戰爭と倫理 / 石久保重義/p16~23
抗日支那の全貌 / 長野朗/p24~43
支那及び支那人の考察 / 鷲澤與四二/p44~60
抗日支那とソ聯の動き / 平竹傳三/p85~93
英國を恃む支那 / 田中香苗/p76~84
北支事變と歐洲列強 / 板倉進/p61~75
足柄便乘記日本から英國まで / 藤澤親雄/p94~103
南支旅行(カメラと文) / 奥村博史/p104~109
戰爭と宗教 / 辻村楠造/p110~113
戰爭と文學 / 林房雄/p114~119
戰爭と經濟 / 石山賢吉/p129~133
戰爭と科學 / 三宅驥一/p120~128
時局東京新風景 / 原奎一郎/p134~138
非常時局と女性の認識 / 板垣直子/p208~213
戰爭と婦人 / 岡本かの子/p220~223
銃後に於ける家庭婦人の覺悟 / 神近市子/p214~219
上海事變と北支事變の比較 / 柳舜三/p225~247
座談會時局と日本文化を語る/p145~166
『いのち』文藝思想大講演會豫告
文學者は何を爲すべきか / 本多顯彰/p167~173
中河與一論 / 十返一/p174~181
秋を待つ心 / 相馬御風/p189~195
秋田津輕行 / 結城哀草果/p182~188
パートリツチの話 / 谷口雅春/p196~205
風鈴 / 高橋新吉/p206~207
空の飛瀑 / 江口隼人/p262~262
星と語る / 日比野友子/p260~261
デツサン / 奈知安太郞/p248~248
繪と文秋風の花束 / 長谷川春子/p264~269
日米對抗陸上競技の興味 / 小島六郞/p249~256
嗤ふ手紙を觀る(新劇時評) / P・Q・R/p258~259
秋の落葉(創作) / 千家元麿/p270~297
長篇光り合ふいのち / 倉田百三/p298~319
第一囘『いのち』懸賞創作論文募集
(
編輯後記)/p320~
320
9月号の岡本かの子というのは万博の太陽の塔のデザインで一躍有名となった芸術家岡本太郎の実母であります。亡くなる前年の投稿であります。短編小説「一時期」その作品に募らせた思いを感じる。
それは「現實を廻避せず、あくまでもそれに直面して人生の本然を味得すること。本當に生きる强味は其處から出る。」
ウィキペディアを参照
岡本かの子(おかもと かのこ、1889年3月1日 - 1939年2月18日)は、大正、昭和期の小説家、歌人、仏教研究家。本名カノ。東京府東京市赤坂区(現東京都港区)青山南町生まれ。跡見女学校卒業。漫画家岡本一平と結婚し、芸術家岡本太郎を生んだ。小説家として実質的にデビューをしたのは晩年であったが、生前の精力的な執筆活動から、死後多くの遺作が発表された。耽美妖艶の作風を特徴とする。私生活では、夫一平と「奇妙な夫婦生活」を送ったことで知られる。
幼少期
代々幕府や諸藩の御用達を業としていた豪商の大貫家の別邸で誕生。大貫家は、神奈川県橘樹郡高津村(現川崎市高津区)二子に居を構える大地主であった。腺病質のため父母と別居し二子の本宅で養育母に育てられるが、この病気は晩年まで続いた。養育母から源氏物語などの手ほどきを受け、同村にあった村塾で漢文を習い、尋常小学校では短歌を詠んだ。
歌人として活動
16歳の頃、「女子文壇」や「読売新聞文芸欄」などに投稿し始める。この頃谷崎潤一郎と親交のあった兄の大貫晶川の文学活動がはじまり、谷崎ら文人が大貫家に出入りするようになり影響を受けるが、谷崎は終生かの子を評価しなかった。17歳の頃、与謝野晶子を訪ね「新詩社」の同人となり、「明星」や「スバル」から大貫可能子の名前で新体詩や和歌を発表するようになる。
岡本一平との出会い
19歳の夏、父と共に信州沓掛(現長野県北佐久郡軽井沢町中軽井沢)へ避暑、追分の旅館油屋に滞在した。同宿の上野美術学校生を通じて岡本一平と知り合う。21歳の時、和田英作の媒酌によって結婚、京橋の岡本家に同居するが、家人に受け入れられず2人だけの居を構える。翌年、長男太郎を出産。赤坂区青山のアトリエ付き二階屋に転居する。
暗黒の時代
その後一平の放蕩や芸術家同士の強い個性の衝突による夫婦間の問題、さらに兄晶川の死去などで衝撃を受ける。一平は絶望するかの子に歌集『かろきねたみ』を刊行させた。しかし翌年母が死去、さらに一平の放蕩も再燃し家計も苦しくなった。その中で長女を出産するが神経衰弱に陥り、精神科に入院することになる。
翌年退院すると、一平は非を悔い家庭を顧みるようになるが、長女が死去。かの子は一平を愛することができず、かの子の崇拝者であった学生、堀切茂雄(早稲田大学生)と一平の了解のもと同居するようになり、次男を出産するが間もなく死去してしまう。
仏教に救い
かの子と一平は宗教に救いを求め、プロテスタントの牧師を訪ねるが、罪や裁きを言うキリスト教には救われなかった。その後親鸞の『歎異抄』によって生きる方向を暗示され、仏教に関するエッセイを発表するようになり、仏教研究家としても知られるようになった。
1929年(昭和4年)、『わが最終歌集』を刊行して小説を志すが、12月から一家をあげてヨーロッパへ外遊。太郎は絵の勉強のためパリに残り、かの子らはロンドン、ベルリンなどに半年ずつ滞在し、1932年(昭和7年)、太郎を残したままアメリカ経由で帰国。帰国後は小説に取り組むつもりだったが、世間はかの子に仏教を語ることを求め、仏教に関するラジオ放送、講演、執筆を依頼され、『観音経を語る』、『仏教読本』などを刊行した。
小説家として活動
かの子が小説に専心したのは晩年の数年間だった。1936年(昭和11年)6月、芥川龍之介をモデルにした『鶴は病みき』を、川端康成の紹介で文壇に発表し作家的出発を果たす。川端の知遇を得るきっかけは、青山に住んでいた頃、同居した恒松安夫の中学時代の同窓・三明永無(川端の一高からの友人)の紹介であった。1923年(大正12年)8月に銀座のモナミ(レストラン)で、夫・一平と共に初めて川端と会合して以降、3人は親交を持つようになり、かの子は1933年(昭和8年)頃から川端から小説の指導を受けていた。
パリに残した太郎への愛を、ナルシシズムに支えられた母と子の姿で描いた『母子叙情』、自由と虚無感を描き、当時の批評家に絶賛された『老妓抄』、女性が主体となって生きる姿を、諸行無常の流転を描いて確立させた『生々流転』などは代表作となったが、1939年(昭和14年)、油壷の宿にある青年と滞在中に脳溢血で倒れた。その頃には恋人ができた恒松安夫は去っていたが、岡本一平と同居していた新田亀三がかの子を献身的に看病するのである。2月に入って病勢が急変、2月18日に東京帝国大学附属病院小石川分院で死去。49歳没。戒名は雪華妙芳大姉。
また、草野心平は有名な詩人でもある。
自分は歩く
草野心平
無辺大の。
神々だってわからない。その。
正確な神秘。
熱烈無量な饗宴にはんべるため。
自分は。
歩く。
炎天の。
遠い向ふの積乱雲に。
稲妻ははしり。
その。
がつとひらいた電道に。
大歓呼する空気のなだれ。
大歓呼する空気のなだれ。
ああ。
ギラギラさ。
しずけさ。
自分は歩く。
此の翌年に「帝国日日新聞」の記者として昭和13年2月から4月まで滞在し、その後も終戦まで南京に滞在する。
『いのち』1937年6月号
文明批評の座標 / 本莊可宗/p2~20
眞理と人間との間 / 藤原定/p54~62
ヘーゲルの人間論・基督論・奇蹟論 / 柳舜三/p80~92
若き時代へ / 吉田絃二郎/p22~36
日本のことなど / 武者小路實篤/p46~53
新しき古心 / 佐藤惣之助/p67~75
支那靑年の政治的關心 / 谷口啓次/p93~98
米國學生の宗教運動 / 津世文/p99~102
座談會時局と青年を語る/p104~132
非常時の母として靑年を如何に導くか/p133~151
靑年に與へたい言葉/p36~36
いのち修養講座生命を禮拜する / 谷口雅春/p161~173
第二世の父が語る大和民族の優秀性 / 鈴木孝志/p152~160
『ひとのみちの御利益しらべ』の著者として満天下に告白してその眞相を述ぶ / 富田岩夫/p174~182
彼等は何故に日本的なるものを嫌ふか?大森義太郎の所論に駁す / 萩原朔太郎/p37~43
新映畫紹介/p183~183
第一囘『いのち』懸賞創作論文募集規定/p319~319
新綠 / 河野通勢/p63~66
初夏の女性 / 猪熊弦一郎/p258~259
初夏の話 / 海老原喜之助/p184~185
夜 / リルケ/p186~187
無著の人 / 高橋元吉/p76~79
雨霽點景 / 吉田泰司/p44~45
山への思慕 / 田部重治/p188~192
初夏の山々 / 冠松次郎/p193~204
初夏の山とカメラ / 岡田紅陽/p204~209
雨の幕營 / 深田久彌/p210~214
一貫齊談語集(ユーモア實話) / 石橋一貫齊 ; 西國男/p216~225
新助と源四郞(喜劇) / 面足千木/p226~234
兵(第三囘) / 吉田初太郞 ; 木下大雍/p235~256
泡沫輕石株式會社 / 龍膽寺雄 ; 海老原喜之助/p260~277
戯曲春來たりなば / 眞船豐 ; 松本弘二/p280~316
編輯後記 / 山口悌治/p317~318
『いのち』1937年7月号
グラフ・ヨセミテの瀧
新しき時代を生むもの / 保田與重郞/p2~18
科學か宗敎か?(一問一答) / 谷川徹三 ; 本莊可宗/p102~113
生命の直觀と批判精神 / 中本たか子/p165~174
文藝の國際性と國内性 / 川路柳虹/p132~140
現代ジョアナリズム批判 / X・Y・Z/p116~131
現代物理學と時間空間概念 / 石原純/p19~29
科學的認識の論理と哲學の論理 / 坂田德男/p60~71
科學の崩壞と更生 / 柳舜三/p73~92
因果律と補足律 / ニールス・ボーア/p49~56
近代物理學の哲學的考察 / マックス・ボルン/p30~48
現今の物理學と科學の價値 / ルイ・ド・ブロイ/p57~59
現代日本の科學短評 / 三十餘名士/p72~72
浴泉即興 / 荻原井泉水/p152~153
四葉のクローワ゛ / 菊岡久利/p188~191
初夏の水郷 / 中川紀元/p114~115
デッサン / 猪熊弦一郞/p141~141
いのち修養講座 生命を禮拜する / 谷口雅春/p208~222
最後身に於て / 西村陽吉/p239~245
臨床醫學の革命 / 山崎直人/p192~207
精神による治療シュテフアン・ツワイグ/p175~187
佐藤春夫論 / 十返一/p142~150
魚の目の話(隨筆) / 前田よし子/p223~229
いのちは悦ぶ / 杉江重誠/p236~238
第一囘『いのち』懸賞創作論文募集規定
神風は何故成功したか / 熊川良太郞/p158~164
日大生殺しの母性愛 / 平林たい子/p154~157
ライ・デイテクター〝嘘の發見機〟の正態を觀る/p93~101
燈火の變遷史 / 石川芳次郞/p230~235
三升家小勝綠蔭放談/p246~157
新劇短評 / P・Q・R/p258~261
家庭大そうじ(喜劇) / 中野實 ; 吉田貫三郎/p262~287
笠女郞・家持・茅上娘子 / 中河與一/p288~297
曲戯息子の結婚 武者小路實篤/p298~317
編輯後記/p318~319
茲に記載しています「石川芳次郎」氏は現在のパナソニックの松下幸之助氏に生長の家を傳えた人です。また現在の「聖経 甘露の法雨」の作製に尽力された人であります。
チャレンジ登山の挑戦や日頃のランニングを復活して行っています。
ただ、このように毎日のように長距離のランニングを欠かさずにしていることは久しぶりのことです。
今回の二上山から葛城山と水越峠までのランニングは靴の不具合などで脚の痛みになっています。ただ、それだけではなく根本的に体力不足が歪めない。
葛城山の登りは厳しかったことも事実であります。もう少し体力をつけることを心掛けています。
万歩計では日常3万歩を超えることも普通になっています。ただもう少しランニングに力を付けていきたいのは私の思いです。
毎年恒例になっています「鯖街道」福井県小浜市のいずみ町商店街から京都の出町柳商店街まで76kmを一日で走破することです。800m越えを三回踏破して出町柳に向います。
今年の一月に自宅から和歌山市内(86km)までなんとか歩いたが、これでは駄目であることは実感していました。平坦な道を歩いても参考になりません。この鯖街道のチャレンジを五月のゴ-ルデンウィ-クに考えています。
新生活の出發 (谷口雅春著作集第四篇)
目次
序文 新生活への出發/3
人生問答篇 人生の惱みを解く/1~410
第一章 家庭爭議の解決を語る/3
第二章 生活に顯れた神通妙用/36
第三章 生きる道の座談會/73
第四章 基督の偉さと奈翁の偉さ/111
第五章 戀愛・相性・方位・家相/134
第六章 念の集積・業の流轉・念の憑/154
第七章 念の病氣に及ぼす力/203
第八章 治す念波の話/234
第九章 『みんな一體』の信仰を語る/253
第十章 世界は何處へ行くかを語る/329
第十一章 國と家庭を良くする話/366
先日のブログでの訂正
谷口雅春著作集第一篇 出世前・生・死・死後の研究 生命の藝術社 S9.7.01
-この一篇を今井楳軒老師の古希の慶びに献ぐ- 黒ポプリン銀箔装
谷口雅春著作集第二篇 生命の烈風(いのちのはやて) 生命の藝術社 S9.9.15
谷口雅春著作集第二篇 いのちのはやて-生命と光明の書- 生命の藝術社 S10.5.25
(生命の烈風と同じ)
谷口雅春著作集第三篇 生命の奔流 生命の藝術社 S10.3.21
谷口雅春著作集第四篇 新生活の出發 生命の藝術社 S10.4.21
谷口雅春著作集第五篇 地湧の浄土 生命の藝術社 S10.5.21
谷口雅春著作集第六篇 生命の神祕 生命の藝術社 S10.5.21
谷口雅春著作集第七篇 本當の教育 生命の藝術社 S10.6.25
谷口雅春著作集第八篇 光明の思想 生命の藝術社 S10.9.21
谷口雅春著作集第九篇 生命の行方 光明思想普及會 S10.10.25
谷口雅春著作集第十篇 生ひ立ちの記 光明思想普及會 S10.11.25
谷口雅春著作集第十一篇
谷口雅春著作集第十二篇 光明の生活法 光明思想普及會 S10.12.15
谷口雅春著作集第十三篇 光明主義 光明思想普及會 S10.12.15
第一冊 生命の奔流 生命の藝術社 S10.3.21
(谷口雅春著作集第三篇)
第二冊 新生活の出發 生命の藝術社 S10.4.21
(谷口雅春著作集第四篇)
第三冊 いのちのはやて-生命と光明の書- 生命の藝術社 S10.5.25
(谷口雅春著作集第二篇) (生命の烈風と同じ)
第四冊 地湧の浄土 生命の藝術社 S10.5.21
(谷口雅春著作集第五篇)
第五冊 生命の神祕 生命の藝術社 S10.5.21
(谷口雅春著作集第六篇)
第六冊 本當の教育 生命の藝術社 S10.6.25
(谷口雅春著作集第七篇)
第七冊 光明の思想 生命の藝術社 S10.9.21
(谷口雅春著作集第八篇)
第八冊 生命の行方 光明思想普及會 S10.10.25
(谷口雅春著作集第九篇)
第九冊 生ひ立ちの記 光明思想普及會 S10.11.25
(谷口雅春著作集第十篇)
第十冊 光明の生活法 光明思想普及會 S10.12.15
(谷口雅春著作集第十二篇)
第十一冊 智慧の言葉 光明思想普及會 S10.12.15
第十二冊 光明主義 光明思想普及會 S11.1.20
(谷口雅春著作集第十三篇)
第十三冊 人を作る敎育 光明思想普及會 S11.9.20
第十四冊 明朗の宗敎 光明思想普及會 S11.10.20
先日のブログで発表しました『谷口雅春先生著作集』で発行所の間違いがありました、訂正してお詫び申し上げます。
■著者 谷口 雅春
■定価 400円(税込)
■発行日 平成30年4月25日
■A5判・並製
■64頁
■ISBN978-4-904414-77-4
『生命の實相』のご文章中から、
「生長の家出現の意義」と教えの全体を
簡潔にまとめています。
今までになかった「教え」の手引書!
《目 次》
第1部 「生長の家」出現の使命
第2部 「生長の家」の教えとは何か
■発行日 平成30年4月25日
■A5判・並製
■64頁
■ISBN978-4-904414-79-8
月刊『谷口雅春先生を学ぶ』誌に連載された
「尊師・谷口雅春先生物語」より、
生長の家立教に至るまでの
先生の苦悩と喜びの軌跡。
今、蘇る先生のご生涯!!
《主な内容》
文学を志して/早稲田大学へ/
大本教へ救いを求めて/大本教との別れ/
光り輝く悟りの時―― 遂に神啓天降る/
神誌『生長の家』誌創刊/
人類光明化運動と日本国実相顕現運動 等
待望の「谷口雅春先生」の御生涯と御著書が出版される。
現在の谷口雅春先生の新刊の御著書が出版されない現実を顧みれば、著作権をたてにとる教団との
関係もあるが、こういう本を陸続と出版してほしい。
大正13年2月頃から『新時代』そして『光』『生活者』『兄弟通信』『爐邊者』『靈光』と教化のための御寄稿をされています。
また、新刊書として『神の牙城に迫る』『如何にせば運命を支配し得るか』『信仰革命』『錬心健康術』『心霊現象と宗教思想』『神と偕に生くる道』と次々と出版されておられます。
『光』誌と『心霊と人生』に「一つの提唱」を発表された頃から月一度の「求道者の会」を開催されるに至っては、
外に先生の思想を拡散していこうという試みをされています。
この御著書が沢山の人に読まれんことを希望します。
下記の文章はあの有名な堀浩二氏の文章である。
さて、下記の誤りはどこかである。
【生長の家が最近、国の事とか天皇の事を言わなくなったとして、生長の家は愛国運動や日本国実相顕現の運動を止めてしまったと言って、批判する人がいる。それで生長の家から離れる人もいるが、そもそもこれは生長の家及び日本国の本質の見極めが浅いからこういう事になるのである。
生長の家の運動は大和の国の運動と一致する。それは自らを主張せず、全ての存在の実相を拝み、これを生かす運動である。それは吾が日本国の使命と一致する。日本国の使命とは自らを主張せず、空っぽの心で全民族、全国家、全宗教を調和せしめ、かつそれぞれの個性を発揮出来る様に生かす働きであり、それを大和の精神と言う。そして、それが具体的に出て来たのが生長の家の運動である。
であるから谷口雅宣先生は講習会の御講話やその運動の主軸において愛国とか天皇という言葉は表だっては使っては居ないがその運動そのものが大和の国の理念の展開であるのである。】
だが、これは完全な嘘であることは皆様、御承知であろう。
それは何故嘘といえるかというと、総裁はいままで「愛国」や「日本」を語ったことがないのがその証左であろう。また、愛国書を発禁したのも事実である。大和の国などというコトバを総裁が最も忌み嫌う言葉であることを知らない堀氏が痛々しい。
空っぽの心で全民族、全国家、全宗教を調和せしめ、かつそれぞれの個性を発揮出来る様に生かす働きであり、それを大和の精神
このような空疎な論議は空々しい。まずは「日の本の精神」であるべきである。正しい「日本の歴史」を正統に学ぶことこそが、対等に諸外国に付き合うことが出来るのである。外国人は日本の文化の優位性を聞くだろう、天皇陛下とは日本の国家としてどういう位置付けなのかを聞くだろう。それを堂々と回答できるかである。
このような人が講師で活躍している現教団の実力など失礼ながら大したことが無いのがわかる。昔ならこんなこと言えば、コテンパにやっつけられるであろう。
『いのち』1937年5月号
目次
1燈臺
23海に題す
4岩礁 / いのち寫眞部 / p4~
車窓撮影(寫眞と文) / 谷口雅春 / p4~
新綠の森(扉) / 森有材 / p1~
美的精神の系譜 / 中河與一 / p2~12
我等如何に生くべきか / 三木淸 / p72~80
個人主義と人類の理念 / 藤原定 / p41~51
祭政一致に就いて / 辻村楠造 / p22~27
政教一致の新指標 / 倉田百三 / p27~33
佛陀の政治的理想 / 吉田俊夫 / p34~40
解散と其の後の政局 / 吉田明 / p172~181
社會種としての解散 / 新田寬 / p181~187
總選擧とその後に來るもの / 津久井龍雄 / p187~195
世界國際情勢概觀 / 谷口啓次 / p54~65
春いまだし / 相馬御風 / p84~90
ヴェートーベンの神 / 長與善郎 / p92~99
私の詩人とツアラトストラ / 萩原朔太郎 / p100~105
わが日わが夢 / 宮崎安右衞門 / p14~21
魂の眺望 / 陶山務 / p66~71
ひとのみちを如何に處置すべきか / 柳舜三 / p154~168
甲州昇仙峽(繪と文) / 兒島善三郎 / p281~285
滿洲の商店街(デツサン) / 松本弘二 / p238~239
臺灣の旅(繪と文) / 奈知安太郎 / p240~241
古い胡桃の樹(詩) / リルケ ; 片山敏彦 / p82~83
愛する者(詩) / 逸見猶吉 / p106~107
いのち(短歌) / 松浦顯子 / p13~13
いのち修養講座 眞如を生くる / 谷口雅春 / p108~121
功德雜記――求道隨筆 / 西村陽吉 / p122~126
二宮尊德の家庭訓 / 松波治郞 ; 大石哲路 /p127~137
家出人の爲の救ひの家…積善寮を觀る / 本誌記者 / p139~144
春の史跡ハイキング(帝都の眞中の人の知らない史蹟探訪) / p196~209
職業野球春の戰線往來 / 小出武志 / p216~219
大相撲夏場所評判記 / 小島六郞 / p210~215
大衆向カメラで樂しむ / 永見德太郎 / p220~224
日本映畫の頭腦に就いて…映畫時評 / 花井隆夫 / p225~227
新映畫紹介 / p228~229
海外放送のこと(繪と文) / S・O・T / p52~53
運・鈍・根(漫畫漫文) / 杉田三太郞 /p152~153
時事漫評 / p170~171
我等の仲間(映畫物語) / ジユリアン・デユヴイヴイエ / p230~236
一貫齋談語集(ユーモア談語) / 石橋一貫齋 ; 西國夫 / p145~151
長篇時代小説兵(第二囘) / 吉田初太郞; 木下大雍 / p260~280
輸血とオベリスク(創作) / 阿部艷子 ; 神尾俊策 / p251~259
和邇魚(戯曲) / 吉田泰司 ; 鈴木朱雀 / p286~302
光り合ふいのち(第四囘) / 倉田百三 / p242~250
短篇小説隅田川 / 室生犀星 ; 田尻稻四郞 / p303~317
編輯後記 / 山口悌治 / p318~319
『いのち』1937年6月号
文明批評の座標 / 本莊可宗/p2~20
眞理と人間との間 / 藤原定/p54~62
ヘーゲルの人間論・基督論・奇蹟論 / 柳舜三/p80~92
若き時代へ / 吉田絃二郎/p22~36
日本のことなど / 武者小路實篤/p46~53
新しき古心 / 佐藤惣之助/p67~75
支那靑年の政治的關心 / 谷口啓次/p93~98
米國學生の宗教運動 / 津世文/p99~102
座談會時局と青年を語る/p104~132
非常時の母として靑年を如何に導くか/p133~151
靑年に與へたい言葉/p36~36
いのち修養講座生命を禮拜する / 谷口雅春/p161~173
第二世の父が語る大和民族の優秀性 / 鈴木孝志/p152~160
『ひとのみちの御利益しらべ』の著者として満天下に告白してその眞相を述ぶ / 富田岩夫/p174~182
彼等は何故に日本的なるものを嫌ふか?大森義太郎の所論に駁す / 萩原朔太郎/p37~43
新映畫紹介/p183~183
第一囘『いのち』懸賞創作論文募集規定/p319~319
新綠 / 河野通勢/p63~66
初夏の女性 / 猪熊弦一郎/p258~259
初夏の話 / 海老原喜之助/p184~185
夜 / リルケ/p186~187
無著の人 / 高橋元吉/p76~79
雨霽點景 / 吉田泰司/p44~45
山への思慕 / 田部重治/p188~192
初夏の山々 / 冠松次郎/p193~204
初夏の山とカメラ / 岡田紅陽/p204~209
雨の幕營 / 深田久彌/p210~214
一貫齊談語集(ユーモア實話) / 石橋一貫齊 ; 西國男/p216~225
新助と源四郞(喜劇) / 面足千木/p226~234
兵(第三囘) / 吉田初太郞 ; 木下大雍/p235~256
泡沫輕石株式會社 / 龍膽寺雄 ; 海老原喜之助/p260~277
戯曲春來たりなば / 眞船豐 ; 松本弘二/p280~316
編輯後記 / 山口悌治/p317~
318
ウィキペディアから抜粋
萩原朔太郎(はぎわら さくたろう、1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)は、日本の詩人。大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称される。
誕生から学生時代
群馬県東群馬郡北曲輪町(現:前橋市千代田町)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれた。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名された。1893年(明治26年)に群馬県師範学校附属小学校に入学。この頃から神経質かつ病弱であり、「学校では一人だけ除け者にされて、いつも周囲から冷たい敵意で憎まれている。」と孤独を好み、一人でハーモニカや手風琴などを楽しんだ。
師範学校附属小学校高等科を卒業後、1900年(明治33年)に旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)入学。この時代に従兄弟萩原栄次に短歌のことを教わる。校友会誌に『ひと夜えにし』と題してはじめて短歌五首を発表。在学中に級友と共に『野守』という回覧雑誌を出して短歌を発表する。作品には与謝野晶子の影響が見られ、1903年(明治36年)に与謝野鉄幹主宰の『明星』に短歌三首掲載され、石川啄木らと共に「新詩社」の同人となる。学校へ行くと言って家を出ながら、郊外の野原で寝転んだり、森や林の中を歩き回り、学校の授業中はいつも窓から空を見ていた。結局、中学で落第。
1907年(明治40年)9月熊本にある第五高等学校第一部乙類(英語文科)に浪人して入学する[3]が翌年7月落第し、1908年(明治41年)9月、岡山にある第六高等学校第一部丙類(ドイツ語文科)に転校。試験を受けないため教師の間で問題となり、翌年7月落第。1910年(明治43年)、六高に籍を残しつつ慶應義塾大学予科了組に入学するも直後に退学。同年の夏頃にチフスにかかり、帰郷し5月、六高を退学する。翌年、慶大予科に再入学する。比留間賢八についてマンドリンを習い音楽会やオペラを楽しむが、精神的苦悩に悩まされ、同年11月、慶大予科を中途退学。慶大への入退学が重なっているのは奇妙だが、これは旧制第六高等学校の教授が朔太郎の父・密蔵に手紙を寄せ、「朔太郎の学業に将来の望みなし」と諭告したことに関連する。
歌人・詩人としての出発
1913年(大正2年)に北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発し、そこで室生犀星と知り合い、室生とは生涯の友となる。1914年(大正3年)に東京生活を切り上げて帰郷し、屋敷を改造して書斎とする。6月に室生犀星が前橋を訪れ、そこで山村暮鳥と3人で詩・宗教・音楽の研究を目的とする「人魚詩社」を設立。1915年(大正4年)には詩誌『卓上噴水』を創刊。「ゴンドラ洋楽会」を組織してマンドリンやギターを教授して前橋や高崎で演奏会を開催する。またこのころから教会に出入りし、神や信仰、罪などの問題に悩み始める。
1916年(大正5年)春頃から自宅で毎週一回の「詩と音楽の研究会」を開き、6月に室生犀星との2人雑誌『感情』を創刊。高度に成熟した散文詩や評論を発表し始め、1917年(大正6年)32歳で、第一詩集『月に吠える』を感情詩社と白日社共刊により自費出版で刊行。内容・形式共に従来の詩の概念を破り、口語象徴詩・叙情詩の新領域を開拓し、詩壇に確固たる地位を確立。森鴎外の絶賛を受けるなど、一躍詩壇の寵児となり、5月『文章世界』誌上において神秘主義・象徴主義論のきっかけをつくる論文を発表。
1918年(大正7年)『感情』に詩3編を発表したのち、前橋市でマンドリン倶楽部の演奏会を頻繁に開催し、前橋在住の詩人歌人たちと「文芸座談会」を設ける。1919年(大正8年)5月、上田稲子と結婚。6月、若山牧水来訪。詩人団体「詩話会」の委員となり、機関紙『日本詩人』の創刊と共にアフォリズム風の文章を初めて発表し始める。1922年(大正11年)に『新しき欲情』を刊行。『短歌雑誌』に発表した「現歌壇への公開状」をきっかけに歌壇人と論争になり、朔太郎は万葉の浪漫的抒情精神の復活を唱えた。1920年(大正8年)長女萩原葉子誕生。1922年(大正11年)次女明子誕生。
再度の上京から「氷島」まで
1923年(大正12年)1月詩集『青猫』刊行、7月『蝶を夢む』を刊行し、谷崎潤一郎を訪問。1924年(大正13年)2月に雑誌『新興』創刊号に発表した「情緒と理念」一二篇により同誌が発売禁止となる。1925年(大正14年)には妻と娘二人を伴い上京し、東京府東京市大井町(現・品川区内)、田端(現・北区内)へ移り住み、近隣の芥川龍之介や室生犀星と頻繁に往来し、8月に『純情小曲集』を刊行。雑誌『日本詩人』の編集を後に妹・アイが嫁ぐ佐藤惣之助と担当し、ニヒリズムの傾向を強める。11月、妻の健康回復のため鎌倉に転居。
1926年(昭和元年)下馬込(現・大田区内)に転居。1927年(昭和2年)頃から三好達治、堀辰雄、梶井基次郎などの書生や門人を多く抱えるようになる。三好達治は朔太郎の4人いた妹の末っ子アイに求婚するが断られ、のちにアイが再々婚した佐藤惣之助に先立たれると、妻を離縁しアイを妻として三国町で暮らすが、まもなく離縁する。1928年(昭和3年)に「詩人協会」の創立に伴い評議委員となり、2月『詩論と感想』を、12月『詩の原理』を刊行。
1929年(昭和4年)7月に家庭破綻により娘二人を伴い前橋の実家に帰り、離婚と家庭崩壊の苦悩により生活が荒廃し始める。10月『虚妄の正義』を刊行。11月、単身上京、赤坂区檜町(現・港区赤坂)のアパート乃木坂倶楽部に仮寓。11月、父重態となり前橋に帰る。翌年7月父死去。10月、妹アイとともに上京、牛込区市谷台町(現・新宿区内)に居住。1931年(昭和6年)5月、万葉集から新古今集にいたる和歌・437首の解説を中心とする『恋愛名歌集』を刊行。1933年(昭和8年)に世田谷区代田一丁目に自ら設計して自宅新築、入居。個人雑誌『生理』を発刊。ここで、与謝蕪村や松尾芭蕉など、古典の詩論を発表し、日本の伝統詩に回帰した。
日本主義者への変貌
1934年(昭和9年)に詩集『氷島』を刊行。同年7月に明治大学文芸科講師となり、詩の講義を担当するようになる。1935年(昭和10年)4月『純正詩論』、10月『絶望の逃走』、11月には『猫町』を刊行。自らが発起人となって伊東静雄の出版記念会を行った。1936年(昭和11年)3月『郷愁の詩人与謝蕪村』、5月随筆論評集『廊下と室房』を刊行。前年に雑誌『文学界』に連載した「詩壇時評」により、第八回文学界賞を受ける。10月に「詩歌懇和会」が設立されると役員となる。
1937年(昭和12年)に上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷。3月『詩人の使命』、8月『無からの抗争』を刊行。「透谷会」の創立発起人となり、9月に「透谷文学賞」が設立されると、島崎藤村・戸川秋骨・武者小路実篤と共に選考委員となる。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになる。1938年(昭和13年)1月「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊。3月に『日本への回帰』を発表して日本主義を主張し、一部から国粋主義者と批判される。雑誌『日本』に「詩の鑑賞」を執筆した。4月、大谷美津子と結婚するも入籍せず。
1939年(昭和14年)にパノンの会(正式名・詩の研究講義の会)を結成。9月『宿命』を刊行。1940年(昭和15年)に『帰郷者』(第四回透谷文学賞受章)、『港にて』を刊行し、10月『阿帯』を刊行する。この頃から身体に変調を感じ始め、1942年(昭和17年)4月末付で明治大学講師を辞任。同年5月11日に急性肺炎で世田谷の自宅にて55歳で死去。墓所は前橋市榎町政淳寺。法名は光英院釈文昭居士。