則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

讀んで戴ければ幸甚です。

『大航海時代の日本人の奴隷』

歴史というのは単純ではない。そんな事、貴方に言われなくても解ると、よく歴史を知っている人に御叱りを受けそうですが

最近では江戸時代においての「鎖国」政策というのはなかったというのが、ほぼ定説になっている。私もそれが正しいと思う。

私は今、二冊の本を読んでいる。ひとつは

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』

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一つは

『大航海時代の日本人の奴隷』

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以前に

『バテレンの世紀』渡辺京二著

を讀んでから、日本における伴天連というのは何か、それにより何をもたらしたのかである。鎖国という教科書で習ったが、貿易は繁栄をきわめているではないか?

 

「日本人奴隷は神の恩寵」という言葉が秀吉の逆鱗に触れたイエズス会である。

日本人の奴隷は何人いたのかははっきりとは現在ではわからない。だが、黒人と違ってその当時は日本人が奴隷として重宝されたのは事実である。とりわけ、女性は優先されたのである。どれぐらいの人数だったのかわからないが、50万人ともいう人もいる。

欧州に連れて行かれて過酷な生活を余儀なくされたのであろう。

 

   それを見て伴天連の行動に反対したのは秀吉であった。

宣教師という名のもとに着々と侵略を進めていたという事実もある。長崎県の平戸に行けば、キリスト教会が残り、文化遺産とする声もあるが、宣教師による今までの仏教寺院は徹底的に破壊され、その地方では1500年以前の貴重な文化遺産も破壊されたのは間違いない。仏像という偶像崇拝を徹底的に嫌った伴天連や洗礼を受けた日本人がキリスト教に洗脳された人々によって破壊されたためほとんど残っていない。

そう考えると果たして文化遺産としてどうなのかと考えてしまう。

 

 当初、アフリカがヨーロッパに近かったという理由から、日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、その魔の手は着々と伸びていたのである。

 

 この問題に関しては、岡本良知氏の名著『十六世紀日欧交通史の研究』に詳しいので、以下、同書により考えてみたい。

 

 日本でイエズス会が布教以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次のとおりである。

 

(1)ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。

(2)買い取った日本人奴隷を解放すること。

(3)禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。

 

 当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。

 

■無視された命令

 安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見たとおりである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね2つに集約することができよう。

 

 1つ目の理由は、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジアの諸国のポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。

 

 植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのであった。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。

 

 もう1つの理由は、イエズス会とポルトガル商人に関わるものであるが、こちらは機会を改めて論じることにしよう。

 

 歴史というのは、そんなに単純なものではない、士農工商という身分制度は幕末ではほぼ解体していた。以前に寛政時代の土地売買の念書のようなものを古本屋の人にみせてもらった。士農工商より更に厳しいのが、切支丹である。はっきりと和紙に「切支丹」と書いている、親族が同等の罪となるので大変厳しかった。それが身分の一番低かったのも何となく頷ける。

「正義の味方」という中毒で相手を傷つける

 他のブログを見ていて、色々と批評や批判を今回の緊急事態宣言延長であるが、自分に責任を被らない人間は自由な発言で相手を「徹底的に叩きのめす」ことをしなければならない、そうすることで自分に満足感にしたるのである。何かに「難癖」をつける。反対に職を辞さなければ、執拗に「難癖」をつけるのである。自分が正義であるから、私の方針に従わない人間は「受け入れられない」という体質にいつから日本人はなったのであろうか。相手を徹底的に潰し「謝るまで」赦さない。「辞表」するまで赦さない。その人の人間性までズタズタにして、自分に從わない人間は「馬鹿」であり、最低の人間となる。

 そうした行為して“ほくそ笑む”“満悦な表情”となるのである。そんな人間が果して正義なのかである。しかし、自己がそんなこと行えば、きっと自分にその反動として返ってくるのは自明の理である。心の法則で云えばその反動として返ってくるのである。そういう人はそうした「心の法則」を学ばなければならない。

 

 少し話は変わるが、私は昨年の九月末に「帯状疱疹」という病状になった。それはほぼ完治したのであるが、不思議なことにその治ったはずの「ウィルス」が少し悪戯をすることがある。「エ!そんなのわかるはずがないよ」と反論されるが、そこは人体の不思議というべきものである。何かのはずみで「帯状疱疹」の箇所(胸や背中)に「チクリ」と軽い痛みがはしる。帯状疱疹の発状と同じである、それが「ウィルス」が表面に出て来て人間の身体に何らかの発信をしているのである。それがわかるのが不思議である。それは「心の法則」でも同様で「人を貶める」感情は体内に「毒液」として必ず残るのである。

 

戦前・戦中は鬼畜米英で敗戦となると「親米」となり、日本は「悪い国」となる。そんなスタンスがおかしいと思わないのかである。

 

今回、戦後の「プランゲ文庫」の260巻のフィルムを見終わり内心ホッとしている。それでも、まだ「プランゲ文庫」の調査は終了していないのです。以前に書いたが約半年はかかるのです。最近は仕事をしながらですので、時間がとれないことが多い。ただ、それを理由に出来ないということはありません。

あまりにも莫大な調査なんですが、『生命の實相』黑布表紙版の戦前の調査も約4ケ月の時間を費やしました。それでもまだ、完成したとは思っていません。それは何が完成していないかというと、『生命の實相』黑布表紙版の昭和18年頃の重版があるのですが、見つけ切らないということです。谷口雅春先生の愛国書についても費やした日数は約1カ月半でした、これも多くの人の協力を得て完遂しました。

 

 下記は「産経抄」の36日である、抜粋しますので、是非読んで下さい。「汝等の中、罪なき者まづ石を擲て」であるが、みんな自分は「罪がない」と思っているのであろうか、「悔恨」するものが何もない「純粋な人間」であると勘違いしているのであろうか、私はそんな「人をあまりにも責め立てる」精神が「悪の連鎖」のように中毒のように世に蔓延るのがオカシイと思う。それならば宗教もいらない。

 

幼い頃から、なぜか強者や正義の味方に反発を覚えていた。少年時代に熱中した仮面ライダーでは怪人を、ウルトラマンでは怪獣を応援した。悪役にだってそう生きざるを得なかった理由や、言い分はあるだろうにと。子供心に、正義一色で染められた世界は気味が悪かったのだろう。

 

 ▼元首相は女性発言で東京五輪・パラリンピック組織委員会会長を辞め、前内閣広報官は接待問題で辞任を要求され、今度は五輪相が選択的夫婦別姓に反対していたのは担当相として不適格だと追及されている。「正義」は際限なく生贄(いけにえ)対象を欲し、たたきのめす。

 

 ▼「茶の間の正義」。コラムニストの山本夏彦は、テレビがとめどなく発信し、過激化していくうさんくさい正義をこう呼んだ。それから半世紀がたち、茶の間の正義はさらに蔓延(まんえん)し、日本社会を覆っている。異を唱える者は邪悪と認定されてしまう。

 

 ▼世の中が正邪・善悪の二元論で成り立つような単純なものではないことは、誰しも分かっているはずである。もちろん反省すべきは反省し、正すべきは正していく必要はあるが、特定個人を断罪し、攻撃し続けても息苦しい社会を生むだけだろう。

 

 ▼こんな嫌な風潮が広がるのはなぜか。脳科学者、中野信子さんのベストセラー『正義中毒 人は、なぜ他人を許せないのか』によると、他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質が放出されるからだという。中野さんは、正義に溺れてしまった状態を正義中毒と名付けた。

 

 ▼脳の仕組みがそうできている以上、誰もが正義中毒に陥る危険性はある。国会でも、自身は絶対に正しいと陶酔し、一方的に相手を責め立てる質問者を見受ける。抄子もそうならぬよう気をつけたい。

今年は聖徳太子没後1400年

太子道について

 

先日のブログにおいて耳梨行宮(みみなしかりのみや)について書きました。その中で「太子道」について周の部分を記載しましたが、際は「斑鳩から飛鳥」までの道です。「聖太子」にことを知りたくて、「上之太子」「中之太子」「下之太子」と「四天王寺」「法隆寺」と「叡福寺」や「法隆寺夢殿」「斑鳩寺」と見てました。は不思議なことが、私事で大恐縮ですが父方が法隆寺から直ぐ近くの龍田に本家があります。聖太子ゆかりの地です。また、母方は兵庫県の路の西側に太子町という所がありますが、そこが母方の本家です。周は聖太子ゆかりの地として「斑鳩寺」があり、家系では明治初めには遠い親戚だということが以前、疑問でしたが偶然にある親戚の名前を言したことを太子町の役場が懇切丁寧に調べて戴き、籍等を通じて遠い親戚だと云うことがわかりました。ただ明治時代の初期ですので、何故親戚なのかまでは判明しませんでした。

 

 播磨から奈良斑鳩の里までの交通手段は大和川を下って、大阪に出るのか、それともで奈良街道(龍田道)から龍田越え道(https://4travel.jp/travelogue/11507913)で河の國へのル-トではないかと推測できます。

それらを含めて私の家系は「聖太子」に何らかの係があるのかと「勝手に」思っています。大阪には「聖太子ゆかりの地」があります。先ほどの下之太子は大阪の八尾という所に在ります。太子堂という名前でよばれ、地名があります。ジャンジャンの南側に太子という交差点に太子という町名、大阪市旭には太子橋今市の太子は聖太子のことでゆかりの地である。

 

 法然が憧れた「聖太子」、親鸞もそうである。六角堂に参篭した際の救世音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていった。「弘法大使」もそうであった。良忍上人もそうであった。

 

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 今年は聖太子1400年となる。4月3日というちょうど「神武天皇祭」と同日である。神武天皇2605年になる今年。聖太子は飛鳥時代の622222日に亡くなったとされる。1400年目の今回は、旧暦222日が43日にあたることから法隆寺で法要の日程を決めたという。同じ日程だと知らなかった、何か因があるのか?

コロナ感染

コロナウィルス感染情報というのが各都道府県や市町村で人数が発表されます。今はどこの病院や職場や学校等で発生したというような情報は入ってきません。それが悪いとかそんな文句を付ける必要もありませんし、私もそんなことを発表する気持ちもありません。

非常事態宣言解除で大阪も気持ちも緩んでいるのかしれませんが、病院名は云えませんがクラスタ-が発生した。病院程衛生やそうした対策を施しているのにも拘わらず、どうしてもすり抜けて侵入してしまう。病院入室の場合は体温検査など厳密にやっております。他の人の御見舞とかとは現在では出来ませんので患者が入室してマスク着用を行っているのだが、どこかの隙間で職員に感染してしまう。患者ですが、様々の人が出入りします。元気な人もいますが、重篤な患者もいます。ここで職員というのは看護師である。責任の重い仕事にも拘わらず、患者の不注意で感染してしまうのだから、気の毒である。私もそうした人との接触もありますが、個人的にも衛生面やマスク着用、体温の検査など日々行っています。油断せずに仕事をしていきたい。

 

毎日の体温検査は一秒検温器を購入してそれで行っています。それと毎日、二万歩を目指して、歩いたり走ったりして健康維持もしています。トレッキングも出来る限りするようにしています。

 

それとワクチン接種が遅れています。今週に予定していたのが、ワクチンが来ないということで延期になっています。

「葵の御紋」が好きなようである

最近は新聞紙上を賑やかにさせている、幹部に女性登用を盛んに紙面に書き立てている。まるで女性登用をしない会社は時代遅れのように書いている。

  しかし、その書いている新聞社当人の役員に女性は何人いるのであろうか。多分一割もいたらいいであろう。何故少ないのか自問自答すれば、政府の批判等出来ない。しかし、新聞社の腹黒さはこれに限ったことではない。表向きには外部から女性の役員を置いているが、それはあくまで、表向きである。そんなものどうにでも出来る。理事、監事、評議員とかそんな役員ではない。実質に働いている人の役員構成である。それは掲載しない。掲載すれば自分達の足元を掬われる。その、足元の土台である。あまりにも脚下照顧出来ていないのにどうして気が付かないであろう。

 どこの企業や構成団体でもそうである。主義が同じだからといって、どこかの会社の社長や学校の校長先生や大学の教授の名前を掲載したがる。そうした役員構成に「葵の御紋」が好きなようである。名前に箔を付けたがる人が多い。そんな役員の人達は殆ど活躍などしていないのに、こんな凄い人がいるんだ。塚本幼稚園で「安倍前首相」の名前を使い、巧みにそれを利用した。しかし、実質その企業を発展させているのは、名もない企業戦士がいるからである。だが、下積みした人はいくら頑張っても、多くは日の目を見ることはない。

しかし、実際に働いて頑張っている人は女性が役員に登用出来ない理由も知っている。影では使い物にならないとか、平気で思っているのであろう。そんな人は完全に言葉を使い分けているのである。腹黒い人は表しかみない、そんな人は「葵の御紋」が好きなようである。

コメントありがとうございます。

私のブログのコメント欄に記入された内容が日数は異なりますが

 『和歌で読み解く天皇と国民の歴史』著 古宮春人を推奨されておられます。

私も讀みましたが、大変良い本です。私の知らない事も多く有り、和歌を沢山讀まれている人の率直な考えに驚きました。私もそれと同時に『天皇の国史』も讀みましたが、久々に昔の『歴代天皇の御歌―初代から今上陛下まで二千首』や『新輯 日本思想の系譜 文献資料集』上・下や『日本思想の源流―歴代天皇を中心に』などを思い出しました。私が天皇信仰を揺るぎないものにしたのも、こうした良書を讀んだからだと思います。

 

 それと下記のコメントありがとうございます。

「大田田根子」で思い出したのが大神神社の摂社大直禰子神社です。この神社は何回も行っていますが、まだその時は『日本書紀』と繋がらなくて、名前だけは憶えていたのです、「大物主神」との関連しかわからなかった。やはり『古事記』『日本書紀』をシッカリと讀まないといけません。

 

光の子様

著者 古宮春人さんのご本

 「和歌で読み解く天皇と国民の歴史」

を読ませていただきました。

 天皇家の二つの家訓を信頼し、天皇と国民の一体性を信じたいと思います。

 

日本史ファン樣

意富多多泥古(オオタタネコ)の話は『日本書紀』にも書いてあるようです。『日本書紀』には「大田田根子」とも書いてあるようですね。

 

 「谷口雅春先生に帰りましょう掲示板」が推薦していた『和歌で読み解く・天皇と国民の歴史』を読んでいたら、この話と同じ話が書いてありました。

 

 著者の古宮さんという人が、

 

 日本には「国民のために祈る天皇。祈られる国民」という「天皇と国民の関係」が伝統として古代から二一世紀の天皇にいたるまで連綿と受け継いでいる。これは世界に類を見ない驚くべき奇蹟である…

 

と書いているので、「本当か?」と思って最後まで読んだら本当でした。

 

 崇神天皇だけでなく、日本の歴史は素晴らしい歴史だと思います。

意富多々泥古

私はコロナウィルスのワクチン接種を三月に接種することになります。コロナウィルスのワクチン接種を三月第一週と第三週に接種をすることになっています。65歳以上は四月から開始となりますが、市町村により異なります。なかには、戸惑っている人もいます。

 

『古事記』の原文には

此天皇之御世、病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河之美努村、見得其人貢進。

 

爾天皇問賜之「汝者誰子也。」答曰「僕者、大物主大神、娶陶津耳命之女・活玉依毘賣、生子、名櫛御方命之子、飯肩巢見命之子、建甕槌命之子、僕意富多多泥古。」白。於是天皇大歡以詔之「天下平、人民榮。」卽以意富多多泥古命、爲神主而、於御諸山、拜祭意富美和之大神前。又仰伊迦賀色許男命、作天之八十毘羅訶此三字以音也定奉天神地祇之社。又於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛、又於大坂神、祭黑色楯矛、又於坂之御尾神及河瀬神、悉無遺忘以奉幣帛也。因此而氣悉息、國家安平也

 

 私は『古事記』に記載されている崇神天皇時代の疫病の流行りであります。国民の半分が亡くなったという記載があるほどですから、大変な時代であったことです。

 

崇神天皇はこの疫病について悩み、神牀(かむとこ)という夢で神様に助言を求める為に清めた寝床で眠ると、その夢に出てきたのが大物主神でした。

 

その夢の中で大物主神は「この疫病は私の御心だ。意富多多泥古(オオタタネコ)に我が御魂を祀らせなさい。そうすれば神の祟も起こらず、国は安らかに治まるだろう」と言いました。

 

すると崇神天皇はさっそくそのオオタタネコを探し出します。

 

そしてついに河内の美努村(現在の大阪府八尾市あたり)という所で見つけると、すぐに大物主神を祀るように祭主として任命しました。

 

すると、すっかり疫病は止み、国は安らかに治まったのです。

 

私はこの文章を単なる『古事記』の記載されていることで関係ないと言われると思いますが、重要な預言が含まれているように思っております。

 

大物主は三輪神社に祀られている神様であります。さて、私はまだ行ったことがないですが、意富多々泥古の河内の美務村ですが、下図に祀られています。小さな祠があるようです。

加茂神社趾となっています。

 

加茂神社跡 - Google マップ

 

 

 

 

 

 

「貼り付け引用」の怖さ

私は「貼り付け引用」の怖さというのを前回のブログで記入しました。しかし、一番それを行っているのは野党やマスコミであります。

 

それを「生長の家」教団の総裁が実際行っているのも事実であります。下記がその文面です。これだけみれば、「日本ビイキ」が駄目であると皆さんは思うでしょう。谷口雅春先生はそのようにお説きいただいていると思うでしょう。同じ占領期間で検閲を受けていた時代でも下記の昭和2011月號は事前検閲が必要であります。私が前に書いた『白鳩』誌の昭和213月號ではどうでしょうか?本文も事前検閲がありました。だがどうでしょうか?わかるように長く引用させていただきました。(令和3221日-夫々の随想-参照)

 

この文章では「日本を救いたい」という谷口雅春先生の熱烈たる思いが伝わると思います。

そこが印象操作であります。私も戦後GHQ検閲時代(昭和2010月~昭和2410月)の御文章を拝見していて、様々な文章を讀む機会が与えられました。そこにどのような気持があるのかを讀むことが大切であります。ただ教団は昭和時代の『生長の家』誌や『白鳩』誌の復刻版を作成しないでしょ。何故だと思いますか?雅宣総裁の行っていることが間違いだと云うことがわかるからです。

 

今回の文章はトキ掲示板から抜粋させて戴きました。

 

昭和20年、194511月号の月刊誌のご文章から引用します――

 

“今後の教化方針は「天地一切に和解」「従って天下無敵」(敵あって「勝つ」と云うのは本来の生長の家の教ではない、戦争無の哲学が生長の家の哲学である)を説き、今後の日本の運命も、苦難が来る荊棘(けいきょく)の道だなどと「言葉」で云っていると「言葉は種子」であり苦難が来るから、吾々は今後日本国民に明るく生きる方法を教えるのに全力を尽くさねばならぬのです。吾等は対立国家としての日本ビイキ的なことを説かず、世界人類は一様に「神の子」として説き、特に『人生は心で支配せよ』『新百事如意』を中心に説いて行けば好いのであります。”

 総合的に讀むことの大切さを私は学んでおります。その時に私でもそうですが、理解して欲しい爲に、自分の都合のいい言葉の「谷口雅春先生」の引用をどうしても行ってしまいます。やはり、それは注意しなければなりません。

 どれぐらいの割合でそれが書いているのかを注意しながら引用するようにしなければなりません。

夫々の随想

■『谷口雅春先生著作年譜一覧表』の件ですが、本来なら既に発行していたのですが、発行すると云いながら次から次へと課題が見つかり、編集や校正などとともにその準備や別の発想が湧いたり、何をしているのだと自問自答しながら行っております。その作業は前進しているのか、それとも後退しているのかと問われれば、それもわからずに進行している時期もありました。作業途中に生長の家の愛国書というのはどういうものが聖典としてあったのかを探求しながら、脇道に反り、前段階では『宮崎白蓮、與謝野晶子、平塚らいてう等一流歌人などが挙って投稿した『白鳩』誌』の出版に付加するための資料探究等をしていたりした。

 また『聖光録』についての資料を探ったりして、その年代の違いなどを研究し、或る時は「光明思念の歌」についての正式な資料はあるのかを調べてゐたりしていたのですが、或る時は谷口雅春先生の旧制市岡中学時代、それでも何か物足りないものが心中にあったことは確かであった。それが何であるかも想像出来ないで、わからないでその時は進行していた。あれやこれやと思いつくまま、行っていました。それが、その物足りないものが、やはり戦後のGHQの検閲であった事なんです。戦前の検閲を詳細に書いておりながら、戦後になれば事実として知らしただけで内容の検証など全く行っていない

 

これは度々書いていますが、戦前の内務省の検閲はとことん追及して『生命の實相』黑布表紙版の比較検討を行いました。戦前の『生命の實相』黑布表紙版は改訂版とか記載されているものもほんの一部ありますが、ほとんど記載されていません。なかには初版として記載はあるが、発行日が違うのが多く存在して、内容までも変更しているものが二十巻全てに存在する。「生長の家」を邪教として扱った本を数冊見ましたが、どれもこれも確かめないで、決め付けているものばかりであります。

 

その内務省の検閲と邪教として圧迫されたときの思いとGHQ占領について当時の白鳩誌に谷口雅春先生は書いておられます。少し長い文章ですが引用させていただきます。《『白鳩』昭和二十一年三月號(敗戰の現實と今後の日本)P10P13

【『生命の實相』で、古事記に言及したところは何十分の一に過ぎないが、日本の敎も他敎の敎も同じ眞理だと示すために説いてある眞理は一つなのであります。ところが褊狹な日本主義者は中々一つにならうとしない。天照大神は日本獨特の特別に偉い神樣だと云ひ出した。そして『生長の家』が、『神は本來一つ』だと云ふ吾々に『皇室に對する不敬』だと云つて壓迫を加へたのであります。

これでは萬敎は一つにならない。どの宗敎も手を繫いで仲よくやらうと云つて實現した生長の家を彼等は邪敎だと云つて排斥したのであります。生長の家が『人間はみな神の子として無限の力を内部に包藏する』と云ひますと、彼らは『天皇のみが神の子である。國民のくせに神の子と自稱するのは不敬だ』と云ひ出した。吾々は苦しい辯解をして『天皇は神の親、吾々は神の子卽ち天皇の赤子である』と云ふことによつて彼らから不敬罪の告發を免れたのであります。併し彼らは吾々を『石にて打て』とは言はなかつたけれども、色々の迫害を加へ、言論を封じ、用紙を與へず、出版の自由さへ拒絶したのであります。

かゝる迫害の中にも原始基督敎の樣に今現に奇蹟が實現してゐる宗敎は生長の家のみであります。跛者は起上り、盲は眼を開き、脊髄カリエスは治り、そのほか醫者難治の病氣が續々として治つてゐる。その事實に對してもそれだけの實力を持つてゐる宗敎に對して、政府と結託したり、政府から手厚い保護を受けてゐる成宗敎團體からは、新興の宗敎にさう云ふ奇蹟があらはれては、成の老舗をもつた宗敎が衰へると云ふので、ジャ-ナリズムに資金を出して、吾々の宗敎運動を邪敎だと云ふ記事を執拗に書かせたのであります。『病氣の治る宗敎は邪敎だ』と彼らは呼號した。

 

 キリストも病氣を治した。釋尊も病氣を治したことがある。けれどもキリスト敎を邪敎と云はず、佛敎を邪敎と云はせないのは、自分がそれを職業として飯を食つてゐるからでありました。吾々は他の宗敎を排斥したことはなかつた。キリスト敎、釋迦の敎、古事記に説かれてゐる所の敎―――

 

それが全く一つであることを指摘して、天地一環の眞理を傳へんとして居つたのであります。それを擬似宗教だとか言つて成宗團からジャ-ナリズムは金を貰つて攻撃してをりました。疑似宗敎、類似宗敎が悪いのではありませんが、疑似と云ふと、疑似コレラ、疑似ペストなどと同じやうに、何かしら惡い感じを與へる。そこをつて彼らは吾々を排斥したのであります。

 

世界の宗敎は皆一つの『神』なる本源より發すると云ふ萬國の親善が宗敎を通じて自然に出來るやうな平和愛好の宗敎たる『生長の家』を反對に叩き伏せようとしたのが日本人であります。それは日本人の全部ではありませんが―――兎に角日本人は考へが小さかつたですね。自分より偉大なるものが出現しようとすると皆んなよつてたかつて叩き伏せようとする。そんな狭い考へでは日本は伸びることは出來ない。良きもの偉大なるものが出て來たら何所までも伸ばしてやらうと云ふ精神でなければよいものは出て來ないのであります。科學的發明にしてもさうです。原子爆弾若くはそれに對抗し得るものは又はもつと立派なものは、そんな狭い心では對に生れる譯はないのであります。キリストは『罪なき者先づ彼女をて』と言つた。そしてそこに跼くまつて地面に何か書かれたと云ふことが聖書に出てゐます。恐らく心の中では、『汝ら互に相愛せよ』と祈つて居られたのだらうと思ひます。『汝等互に相愛せよ』と云ふ言葉は『生命の實相』の巻頭にある「汝等天地一切のものと和解せよ」「和解するとは感謝し合ふと云ふことである」と云ふ敎と、全くひとつなのであります。こゝに生長の家の使命がある。

 

この平和の敎、和解の敎、親善の敎、感謝の敎でなければ日本を救ふことは出來ないと云ふ感を愈々深くするのであります。だから吾々はどうしてもどんなことしても、日本を救ふ爲に立上がらなければならないと思ふのであります。こんな狹い部屋だけで喋つてゐたのでは、こゝにゐる人にだけしか眞理を知らせることが出來ない。それでは不可ない。もつと多勢の人に知らせなければならない。

 

この生長の家の『和』の精神が政治の上にも持ち來たさなければならない。かう考へるのであります。言論の自由は聯合國司令部から與へられて居りますが、日本國内はまだ舊體制で、言論はまだ自由になつてゐません。それはある人の都合の好いことだけに自由であるかも知れませんが、『生長の家』などには少しも自由はない。

 

吾々の機關雜誌を出版するにしても紙の配給が一つもない。吾々が使つてゐる紙は、闇の紙ではない。それは光の紙であつて、配給所から丸公(※日中戦争下の価格等統制令および第二次大戦後の物価統制令による公定価格を示すの表示。また、その公定価格。)でやつてくる紙ではない。吾々が本を出すには、紙代がいくら、印刷代がいくらと云ふやうに算盤をはぢいて計算をして合理的計算の立つ過程に於ては決して引き受け手がないのであります。そこで雜誌を出すには、一切の費用を籠めて要るだけ支拂ふと云ふことにして、やつと出來る。その費用の中には倉庫から印刷屋へ印刷屋から製本屋へ用紙を運ぶトラック代なども法外な値段で入つてゐるのかも知れません。だから皆さんの所へゆく雜誌は非常に薄つぺらいで値段が高いけれども仕方がない。高い値段の用紙でも兎も角吾々の主張を實現させる爲に金錢のことは考へないで一句でも多くの眞理の言葉を載せたものは、一字千金の値打があると言ふ氣持でこんな薄つぺらな雜誌でも全力を擧げて光の言葉をそれに載せてゐるのであります。

 

吾々は公會堂で喋らうと思つても、なかなか公會堂の席は、空いて居りません。新聞に投書しても、共産黨の人の話は載つても、私のものは載せてくれません。皆没書です。私は共産黨の人よりも有名ではないのか、共産黨の人のやうに爭闘的精神を持たないで平和愛好的であるために、載せなくとも、尻をまくられる虞がないから、兎に角載せてくれません。ラジオの波にも載せてくれない。

 

併し吾々はもつと光明思想を全國に弘めねばならない。それでなければ日本を救ふことは出來ない。そう云ふ自覺を以つて、出來るだけ色々の方法を講じてゐるのであります。と云つて私は吾々を壓迫する人を責めようと云ふのではありません。さう云ふ吾々が人から責められ、壓迫される環境が出現するのはみんな自分の過去の他を責め壓迫した精神が環境にあらはれてゐるのだと觀じ、反省し懺悔しつゝ、出來るだけの努力を盡させて頂くのであります。】

 

■亀の子ブログにおいて「女系天皇」に就いて書いておられたが、谷口雅春先生は「男系」という書き方はその当時、その言葉も考えられなかった時代に、昭和21年『白鳩』誌に

【爰に日本には、天皇制護持の理由があるとして、何故現在の御血統の方が、天皇であられねばならないのかの問題が最後に殘る。それは二千六百年(或る人は六百年を減じて二千年だと云ふ)も血統連綿として、深き平和と尊貴の感情の中に生活し給うことにより、その御性格にも、その御態度にも、御容貌にも自ら尊嚴と平和とが備つてゐ給うことである。(中略)平和と慈愛と尊貴との感情の中にその生命を歷代二千年にわたつて育成せられ、その遺傳の渾然たる生成の中に、吾等人民の粗野性とは異なる高貴性を人格の中に備へ給ふのである。日本に於いては國家の尊嚴の具體的表現としては天皇の他に求むべくもないのである。ここに吾等は日本民族の特異性と、天皇の特異なる高貴の遺傳性とにより、天皇制を護持することが、日本再建上、日本民族に生命と理想とを吹き込む最善の道であることを信ずる。】

これを讀む限り、谷口雅春先生のお考えは「男系」であることは明白である。その言葉が“血統連綿として、深き平和と尊貴の中に生活し給うことにより”御血統というのは「男系」であるということである。

そういう「谷口雅春先生」の御文書を讀まずに「女系天皇」という考えは単純である。

 

■戦後に発行予定であった平和版『生命の實相』も断念せざるを得なかったと想像する。

また、戦前で使用されていた言葉の制限がありその数は多大である。勿論、戦後のGHQ政策の一貫として戦前の「大東亜戦争」「天皇陛下を尊崇」するような言葉も事細かに指令があり、使えなかった言葉も多い。その抑圧化のなかで『生命の實相』の戦後版の発行となった。

勿論、含まれている眞理には変更はないのは申し添えておこう。

  『生長の家』誌や『白鳩』『光の泉』等は検閲前と検閲後の文書がある。

 一部で所有されている戦後の雑誌は検閲後の雑誌であることは多くの人は承知されていない。何処をどのように変更されたのかは誰も探求して発表されていない分野である。私はプランゲ文庫のマイクロフィルム260巻の調査を行っている。二月の初めは大学入試試験の為、休館となっていた。現在230巻迄見てきた。内容は本当に腹立つ事ばかりで、何故日本が敗戦の憂き目でこんなこと遭わなければならないのか、怒りが収まらない。

 

■さて、私が投げ掛けた唱歌「紀元節」について、亀の子さんの深い洞察力と御判断に感心した。確かに作詞家の作詞された言葉と違うのを善しとして独断で判断するのは決して「善なる行為」ではない。そうした判断が過ちを犯しやすい。また立葵さんとの遣り取りは私にとっても勉強になりました。

 

■現在新編『生命の實相』のですが、編纂を行っていますが、何ヵ所か頭注版でも間違いがあります。人の呼び方の間違いや年代の齟齬等を私が調べても何ヵ所かあります。

ただ、それは大きく変更したりするのもいいのかどうかを最近の新編『生命の實相』の編集されている人は實に丁寧に見ておられます。私はそれだけでも新編『生命の實相』の讀む価値があると思っております。

實に微細なる言葉の文(あや)というのを見ておられるのには頭が下がる。私も戦前と戦後の比較をしなければ、そこまで見ていなかった。新調された新編『生命の實相』を頭注版と比較されればわかります。ここでは詳細は記述しないが、これを読まれている諸氏には是非確かめて戴きたい。勿論、断わっておくが章立て変更は良くないことである。人間というのは、これを善なる行いだと勝手に思い込むと、それを勝手に判断して、英雄気取りで変更してしまう。そうした「クセ」のようなものはベテランの人に多い。それが折角の新たな考えから疎外していることであることは本人は気が付かない。また、それに携わった人に聞かなければならない、いくら年が離れていても、自分よりは知っていると思う人には、聞かなければならない。そういう人は何故、聞いてくれないのか?と思っている。だが、意固地になり、そういう人は聞かない。信仰をしているのであろうか、意地が強いからであろうか、最後は自分の間違いだと神様は知らせるであろうが、その時は遅いのである。

 

但し「名称」「年代」「齟齬」の間違いなどとは異なる。それは変更しても善いであろうと思っています。それは過去の時代ではどうしても探れなかった文章や年代など「インターーネット」を使うことにより、新しい発見もできるわけですから、それを利用したり、『国会図書館』で公表されているものも最近では多くなってきておりますので、それを引用したりするのであります。何れはそういうことも発表しなければならないであろう。

 

 

樋口神社=耳梨行宮(みみなしかりのみや)推古天皇

樋口神社

https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.5160079,135.8027631,18z/data=!4m5!3m4!1s0x6001333dbabd2765:0x2618a28c92aa912d!8m2!3d34.5170754!4d135.8025357


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祭神 :豊饌炊屋姫命 (推古天皇)

 

『日本書紀』に推古天皇9(601) 5月耳梨行宮(みみなしかりのみや)時、大雨が降り行宮の庭に水が溢れるとある。 金本朝一氏は『大和三山の道』に木原町の長老の言として神社から東が行宮の跡との伝があり、天皇という地名があると伝える。こうした伝承から推古天皇の霊を当社に祀ると『橿原市史』に記されている。

 

推古天皇に時代に遡ります。

 

日本書紀

九年春二月、皇太子初興宮室于斑鳩。三月甲申朔戊子、遣大伴連囓于高麗、遺坂本臣糠手于百濟、以詔之曰、急救任那。夏五月、天皇居于耳梨行宮。是時大雨、河水漂蕩、滿于宮庭。秋九月辛巳朔戊子、新羅之間諜者迦摩多到對馬、則捕以貢之、流上野。冬十一月庚辰朔甲申、議攻新羅。

 

現代語訳

即位9年春2月。皇太子(=厩戸皇子)は初めて宮室(ミヤ)を斑鳩(イカルガ)に建てました。

 

3月5日。大伴連囓(オオトモノムラジクイ)を高麗に派遣して、坂本臣糠手(サカモトノオミアラテ)を百済に派遣して詔(ミコトノリ)して言いました。

「速やかに任那を救え」

夏5月。天皇は耳梨(ミミナシ=現在の奈良県橿原市木原町)の行宮(カリノミヤ)にいました。この時、大雨(ヒサメ)が降りました。河の水は漂い、広がり、宮庭(オオミヤ)に満ちました。

秋9月8日。新羅の間諜(ウカミ=スパイ)の者の迦摩多(カマタ)が対馬に到着しました。すぐに捕まえて、上野(カミツケノクニ)に流しました。

冬11月5日。新羅を攻めることを話し合いました。

 

この宮は太子道(耳成道)の橫を通り斑鳩から飛鳥への道として古くからありました。此処で記載のように大雨が降ると宮庭に満ちるほど、それほど高台にはなかったのです。現在でも大雨対策をしなければ、が降ると其の辺一体が池のようになる。ただこの付近に通る太子道(筋違道)は重要な幹線の一つであり、周辺に通る河川の関係で斜めとなる。

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マスコミの切取り放映は人心侵害ではないか

東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)について吉本興業の小籔さんが発言していることについて、私は同感します。

今回の伝え方に問題があったように思います。全體を聞いてみると、それほど、女性蔑視するような発言ではない。それなら多くの男性は女性蔑視の発言をしている。自分がそんな発言をしたことがないような、自分だけ良い子になる人には“うんざり”である。それで「ボランティア活動」を辞めるような人はやって貰わなくてもいいのです。ボランティアというのは人がどうやこうやで行うものではない。人が困っているのを「救いたい」という熱望である。だから、人が悪いことするからということで「困っている人」を放置するような、途中で辞めるような人は自分の都合で退去する人は本気でやろうとしていない。そんな人はやらない方がいい。

 

また、テレビで評論家などお気楽そのものである。もし、辞任してパラリンピック組織委員会の組織委員長が調整出来ない場合、評論家を辞めることを要求する。自分は腹を切らないでとやかくいうのは無責任そのものである。また、「森氏」を止めて貰いたいというおかしな団体が蠢いているのは気持ちが悪い。

 

人をとやかくいうのは自分に責任が伴わないからだ、常に自分だったらどうするのか、自分は女性を軽視するような発言をしたことがないのかと自問して発言しなければならない。また、自分は法犯罪を犯しながら発言するテレビ職員がいる。こういう人は論外である。放送法を護ることを原則とした人が自分は良いのだと勝手に決め付けて法を破りながら、人の事は許せない。

また、テレビ局もそうである。その極みが『おぎやはぎの「ブス」テレビ』である。又平気でテレビで“ブス”だとか発言が流れる。女性軽視であることは間違いない。

 

お笑い芸人の小籔千豊(47)が12日、毎日放送「ミント!」に出演し、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)の辞任表明について言及した。

 

〝女性蔑視発言〟が発端となったが、小藪は「一部の発言を切り取って、印象を強めようという報道は別に今回だけでない」とした上で「僕も最初ネットかなんかで文字見たとき『あ、えらいこと言いはったな』と思ったんですけど、全文読んだら、多分みんな印象代わると思うんですよ」と分析。

 

さらに「別に今回だけじゃなくて、どっかの市長の発言も切り取ってバン!って出たら『えらいこと言うたんやな』と。でも全部のこと見たら『そらしゃあないわ』って人、多かったと思うんです。変な発言したから『おい責任とれ! 辞めろ!』っていう空気にするなら、変な切り取り方して、後任決まらへんような状態にした報道の仕方をした人も、辞任とかせなあかんのちゃうかなと」とメディアにも責任ありとした。

被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げます。

福島県沖で13日夜に起きた最大震度6強の地震は大阪に住んでいる私はすっかり寝込んでいて、その時点ではニュ-スも知らなかった。朝にスマ-トフォンで地震の大きさを知った。

 令和元年613日~16日間のたった4日間、南相馬市ボランティア活動センタ-で東日本大震災のボランティア活動に従事させていただいたので、とりわけて心配である。震災後のボランティア活動は11年を経ても現在でも行っていることは凄いことだと思っている。

 

 あの現状を見ると、東日本大震災の傷もなかなか癒えない。今回、被害に遭われた方々にはお見舞い申し上げたい。今回の地震は東日本大震災の余震だと言われているが、大陸プレ-トの変動など見えないことなんで、理解しにくい處もあるが、出来る限りその地に行けば、どのような地質なのかを見るようにしている。

 昨日は用事で箕面の滝に行ったが滝の周辺の断層は浸蝕しにく砂岩が固まった地質である。崩壊した一部の岩が箕面山から滝道までゴロゴロした岩が転がっている。唐岩というのも、その一部であろう。これも有馬高槻断層の一部である。

安寧天皇神社

安寧天皇陵を巡ってもこの神社は知らない。それほど目立たない神社でもある。Mapに記載があっても関心は無い。

 神社が消えていくことをまざまざと見ている私はそんなことあってはいけないと思っています。地域の人が是非守ってほしい。

 

安寧天皇神社

https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%AE%89%E5%AF%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.4886588,135.7784749,17z/data=!4m5!3m4!1s0x6006cd327da05555:0x87adb20914f4ea33!8m2!3d34.4883307!4d135.7801024

 

https://www.google.co.jp/maps/@34.4881892,135.7789595,3a,75y,82.35h,79.05t/data=!3m6!1e1!3m4!1swJUUObIrvnLUFJsUXc7j0A!2e0!7i16384!8i8192

幅の狭い道を辿ると石段があります。

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御祭神 磯城津彦玉手看命(しきつひこたまてみみこと)

※[別称]安寧天皇(あんねいてんのう)

[配祀l]豊受媛神/豊宇気毘売神(とようけひめ)

※[同義]宇迦之御魂神/倉稲魂命(うかのみかた)

 

ご祭神について 安寧天皇:第3代天皇

豊受媛神:食物・穀物を司る女神 

※[同類]宇迦之御魂神

 

ご利益 国家鎮護、商売繁盛、五穀豊穣 他

 

創建 −−−−−

 

由緒 創立時期は不詳となるが、もとは、アネイ山の陵上に祀ってあったという。その後、アネイ山が、安寧天皇陵に治定されたため、現在地に変座されたと伝えられる。

 

所在地 (〒634-0829)奈良県橿原市吉田町257

橿原神宮に行ってきました

今日は「建国記念日」で橿原神宮に行ってきました。混んでいるのも嫌なので、午後三時頃に橿原神宮に到着しました。その間は推古天皇を祭神として祀っている樋口神社の耳梨行宮伝承地から耳成山、そして持統天皇文武天皇藤原京趾、清寧天皇磐余甕栗宮、天香久山と神武天皇御稜、綏靖天皇御稜、畝傍山、そして畝火山口神社、安寧天皇御稜、安寧天皇神社、懿徳天皇御稜と橿原神宮です。他にも行きたかったが、近鉄電車がこのコロナ禍で電車の本数を減らしており、急行も便数が少ない状態です。それで橿原神宮の到着がこの時間になりました。宮都がどうして藤原京付近に少ないのかも解明することも出来ました。

   また、天香久山がどうして大和三山の一つで万葉集に歌われているのが多いのか不思議でした。耳成山や畝傍山のような単独山でポツンと山があるというのではない。その不思議も歩くことにより自分で解明することが出来ました。何度も歩いているのですが、前回は桜井市付近から橿原市の手前まで歩き、今回は橿原市から桜井市の手前まで歩いた。それが頭の中で繋がったのが今回でした。約25kmの走行でした。

 

また、谷口雅春先生も市岡中学校時代に大演習の見学に行った記念碑が耳成山にあります。明治41年11月11日
明治天皇の碑
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「大元帥陛下駐蹕之處」の碑が南側の麓にあります。
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「明治天皇大演習御統監之地」の碑が山頂にあります。

また、続きは後日にします。

紀元節式典を何故行わないのか?

生長の家大阪教化部の機関誌である『新天地』に二月度の予定がある。それを見ると、二月十一日建国記念日に「紀元節」としてなんの行事も開催しない。勿論、コロナ禍で開催出来ない事を考慮しても主要なメンバーだけでリモートで開催すればいいのであって、支障はない。他府県を見ていても開催するところが多い。

  森田元教化部長の時代は橿原神宮や神武天皇陵での神想観を実施していたのが、気持ち迄廃れてしまったことを痛切に残念に思う。何のための「生長の家」であるかわからない。それで平然と出来るのも、谷口雅春先生に申し訳ないという気持ちもないのか…

   

    現在の久利さんは本部の茶坊主である。生長の家の根本眞理より総裁に「ご機嫌を伺う、媚びるような、柔い性格」になってしまったのであろうかと残念ながら思う。

生長の家 大阪教化部 教区行事予定表 2021年2月 (ssfk.or.jp)

  

   今まで、生長の家の何を学んでいたのであろうかと失礼ながら考えてしまう。

 

   私は今回の建国記念日は会社を休んで橿原神宮に行く。大和三山、初代神武天皇御陵から懿徳天皇御陵は毎年参拝しているので恒例だが、その他に中尾山古墳等、飛鳥周辺迄脚を伸ばす予定である。この周辺は宮都が多く点在する。まだ、行けていない箇所もあるので、距離は長いが十数ヵ所の陵墓と宮都を廻る予定である。距離は3540キロの行程である。遅れればレンタサイクルになるが、今の所は歩いて行きたい考えである。高い山を登るでもないので、距離は長くてもそれくらいは歩ける。

 

   私の原点は歩いてその原像を体感することである。だから説得力も付くのです。

プランゲ文庫で感じるもの

プランゲ文庫を見ていて感じるのが、戦後間もない頃の少女の「身請け」である。所謂、少女売買である。戦後間もない頃は職にありつけない人が公娼性は全廃されたが、裏では私娼とよばれる、いわゆる「パンパン」という売春が流行した。また、取締があるにせよ、農村における貧困は「娘を売る」という最悪の状態となるのが、戦後間もない頃にもあった。

 

 戦前までは「からゆきさん」という海外で売春させる業者も沢山いた。そういう人が従軍慰安婦として兵隊達の相手として海外に出掛けるが、それ以外の国にも多くの被害にあった。売春防止法が成立したのはその後の昭和31年である。

 

 私は戦後間もない頃RAA(特殊慰安施設協会)という占領軍相手の売春を目的とした制度があった。この内容は三成美保(ジェンダー法学)氏に詳しいが、ただジェンダー法学という訳の分からないものがあるが、ジェンダー(社会的な男女の格差)という考えには私は懐疑的であることをまずは宣べておく。ただ歴史的なことは学ばなければならないこともあり、そうしたことを放置するのはよくない。

 

 さてその三成氏(奈良女子大)はその戦後のRAAについて

 

1945826日、RAA(特殊慰安施設協会)という売春組織が発足した。内務省の指令で、警視庁が指導し、大蔵省の融資を得て、貸座敷業者が設立したのである。占領軍兵士を相手に「特殊女性(売春婦)」に売春させ、「一般婦女子の貞操」(「民族の純潔」)を守ることが目的であった。衣食住など全部支給で1825歳の「女性事務員」が急募され、生活苦にあえぐ多くの女性が応募した。最盛期には7万人を数えたが、性病蔓延のため、翌463月、GHQは施設を閉鎖する。仕事を失った55千人の女性が町にあふれだし、「パンパン」とよばれる街娼となった。彼女たちは、しばしば警察や米軍憲兵の「刈り込み」にあい、強制的性病検診を受けさせられた。

 

 時代というのを一括りにしてしまうのはいけないが、そういう時代を経て、今日になっていることを感じると何ともいえない気持ちとなる。

「罪なきもの石にて打て」

東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(83)の発言で私の正直な感想ですが、医療従事などを、お年寄りの世話などしていると森喜朗氏より酷い話など多く聞く、謝っているのにそこまで攻めるのは、集団リンチに等しい。男なら森氏のような発言は誰もがしている内容である。反対する人にうさん臭ささが反対に出て来る。「九条の会」擁護の人達が出て来るのは完全に政治的な話である。

 

 正義の面をして森氏を責め立てる発言するのは何ともイヤらしい感じさえする。無報酬で行っているのにも拘わらず。相手を叩きのめすまで行う。自分の過去の行為や発言に恥じることもなく、そういうことを忘れたかのように発言する。

 

 私など正直な発言で女性差別とは思わなかった。このような発言は男性同士なら誰でも行っている。ただ、それを口に出すかどうかだけである。思ったということはそういうことを感じたことがある人である。それを唯、発言するかどうかである。謝罪せよと迫る。謝れば辞任せよという。「罪なきもの石にて打て」のキリストの言葉をどのように捉えるかである。

神武天皇東征に関して

私は神武天皇東征に関して自ら脚を運び、その『古事記』『日本書紀』に書いている「伝説の地」を歩いてみた。だから他の人よりその思いは強いのかもしれない。東吉野の丹生の川が「埴安」の場であるという地を歩いた。本当にこのような場所なのかと驚く。また、埴安という地が橿原市の地にあるが、そこも歩いてみた。昔はもっと池が沢山あり、香久山の山頂から見れば、周囲は池だらけである。

 

舒明天皇の御製である

大和(やまと)には 郡山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あま)の香具山(かぐやま) 登り立ち 国見(くにみ)をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立つ立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は 

 

海原の表現でもわかるように池があちらこちらに面に波立ち、水鳥が一斉に飛び立つ風景を感じてしまう。

 

今年は広島と岡山に行って【神武天皇「東征」ル-トを歩く】の項を完成したいと思っているが、海上タクシーを使ったりして行かなければならない。まだ行っていない場所もあるが、出来れば早く行って完成したい。

歌詞には言葉の関連性がある

「学ぶ会」から何の意見もないので、私の方から取敢えず発することとしたい。別段、それにより叱責するつもりもない。ただ、基本を護る大切さを知って欲しい。堅い人間なのかも知れないが、『谷口雅春先生年譜』など研究していて、如何にその勉學により「谷口雅春先生」の凄さを身近に知る光榮に浴している。それだからこそ眞劍に考える。学ぶ会が眞劍ではないという意味でもない。ただ、折角唱歌『紀元節』を紹介して戴いていますのに、歌詞を間違えるのは私にとり、考えられないということです。

或る方から『紀元節歌の解』を紹介して戴いた。それに基づいて考えてみた。私は下記のように考える。

髙根おろしに艸も木も⇒靡きふしけん

面よりなほひろき⇒惠の波

千代萬に動きなき⇒基定めしその上を

萬の國に類なき⇒國の御柱たてし世を

上記のように其々の頌に關聯性があり、仮に千代萬に「ゆるぎなき」としてしまえば、「基定めし」の言葉が同様のことを二回発することとなり、日本語としておかしくなる。「ゆるぎなき」とは盤石なる意味にもなり、「基定めし」も基盤を定めることであり、それを考えると「動きなき」が正解であろう。


第一段 武德の

一、雲に聳ゆる髙千穂の 髙根おろしに艸も木も

  靡きふしけん大御世を 仰ぐけふこそ樂しけれ

 

第二段 仁德の頌

二、海原なせる埴安の池の 面よりなほひろき

  惠の波にあみし世を 仰ぐけふこそたのしけれ

 

第三段 皇基の頌

三、天津日嗣の髙御座 千代萬に動きなき

  基定めしその上を 仰ぐ今日こそたのしけれ

 

第四段 團體の頌

四、空にかがやく日の本の 萬の國に類なき

  國の御柱たてし世を 仰ぐけふこそ樂しけれ

 

何故、確かめないのか?

「紀元節」の歌で少し疑問があります。

 

それは「学ぶ会」から送付されてきた資料には第一章と第三章しかない。その理由はわからない。

何が疑問かというと、第三章の「千代よろずよに ゆるぎなき」である。

元を下記に併せて抜粋したが、「ゆるぎなき」の表示はない。「動きなき」が正解である。

下記の動画の歌詞も「動きなき」である。

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一、

雲にそびゆる 高千穂の

高根おろしに 草も木も

なびきふしけん 大御世を

仰ぐ今日こそ たのしけれ

 

三、

天津ひつぎの 高みくら

千代よろづよに ゆるぎなき

もとゐ定めし そのかみを

仰ぐ今日こそ たのしけれ

 

https://www.bing.com/videos/search?q=%e7%b4%80%e5%85%83%e7%af%80%e3%81%ae%e6%ad%8c&docid=608022792591379941&mid=2A4ED7D908DCA6FC2AD12A4ED7D908DCA6FC2AD1&view=detail&FORM=VIRE

 
動画も確かめて欲しい。ゆるぎなきではない。


 こういう場合は何度も確かめてから印刷して欲しい。一番大切な歌詞が間違いだと、「学ぶ会」も教団に偉そうに言えない。よろしくお願いしたい。

 

また、細かい處を云うと、草は艸にして欲しい。この表示はあとに掛かる、「靡きふしけん」というコトバに掛かる、風が靡いて「艸」が橫に倒れそうになっている。その風景を思い浮かべながら歌うのがいい。

奈良の桜井市にいくと近鉄桜井駅から南へ1km位に「艸墓古墳」がある。西側に「土舞台」があり、日本最初の「芸能発祥の地」と呼ばれている。平な台地にその艸墓古墳からすると「土舞台」までは登り坂となっている。一度訪問した時にその艸の意味が分らなかったが、周囲を歩くと解ってきたのである。字の大切さを知った。

 

「紀元節」

歌詞(現代表記)

一、

雲に聳(そび)ゆる 高千穂(たかちほ)の

高根おろしに 草も木も

なびきふしけん 大御世(おおみよ)を

仰ぐ今日こそ たのしけれ

 

二、

海原なせる 埴安(はにやす)の

池のおもより 猶ひろき

めぐみの波に 浴(あ)みし世を

仰ぐ今日こそ たのしけれ

 

三、

天(あま)つひつぎの 高みくら

千代よろずよに 動きなき

もとい定めし そのかみを

仰ぐ今日こそ たのしけれ

 

四、

空にかがやく 日のもとの

よろずの国に たぐいなき

国のみはしら たてし世を

仰ぐ今日こそ たのしけれ

 

高崎正風作詞、伊澤修二作曲の唱歌「紀元節」が1888年(明治21年)に発表され、1893年(明治26年)には文部省によって祝日大祭日唱歌に選定された。

 

一、雲にそびゆる髙ちほの髙ねおろしに艸も木も

  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ

二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき

  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ

三、天つひつぎの髙みくら千代よろづに動きなき

  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ

四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき

  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ

 

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