則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

讀んで戴ければ幸甚です。

日本学術会議の研究

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日本学術会議の研究 (WAC BUNKO 331) 新書 – 2020/12/17

白川 司  ()

202010月、日本学術会議の会員任命で同会議に推薦された105名中6名が菅義偉首相によって拒否された。これを受け、やれ「学問の自由が侵された」だの「憲法違反だ」とか的はずれな批判が6名によってなされた。そのうちの1人は「とんでもない所に手を出して来たな、この政権は」と上から目線でうそぶいた。ならば「日本学術会議の闇」を明らかにしよう。

 

◯なぜこの騒動の始まりが赤旗のスクープだったのか!?

◯任命拒否された学者の「呆れた主張」

◯いつまでも、これからもず〜っと「戦後」を引きずる硬直左翼脳の輩

◯科研費(血税)が反日活動に使われている

◯日本学術会議は中国への「抜け穴」ほか

 

以前に購入した本であったが、脇道ばかりでこの本は読まなかった。ようやく、読んでみて成る程な、こういうことかとわかりやすく解説をしている。現在「日本学術会議」が共産系の主義者で跋扈しているかがわかる。こうした結果が出るのも、戦後GHQ政策の「日本を起ち上がらないようにする」爲の政策が効果を発揮していることがわかる。未だに戦後そのままの主張を繰り返し、「軍靴の音が聞こえる」とか「共謀罪」法案とか「スパイ法」が出来るとみんなスパイとして疑われるとかデマばかり主張している。一度でもそんなことがあったのかと聞いてみたい。それが一流の大学の教授の発言であるから呆れる。

 

ただ、中国だけは別で、「原子力発電所」の計画中のものがいくつあるか、いまやドンドン計画している。(中国の原子力発電所 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)中国の原子力発電所 - Wikipedia

もはや、ただ事ではないのに、そうした中国には批判したことがあるのか。北朝鮮を研究して日本とのパワ-バランスを考えたことがあるのか。

tapirさんはこの谷口輝子先生の全體の文章を把握して書いておられるのかどうか

最近の主張というのか、一部を切り取って反対というのは如何なものかということを考えます。
 現在の風潮として、どうしても出て来るのが下記の意見です。それでもtapirさんはよく勉強されているが、それでも厳しいようだが、まだまだ把握が出来ていない。

このtapirさんはこの谷口輝子先生の全體の文章を把握して書いておられるのかどうかであります。私はある方からこの昭和46年の『白鳩』誌の全体の文章をPDFでメールにて送信していただき、それを読んでおります。それを讀みながらの賛同です。この天照大神を引用された谷口輝子先生の御文章は平塚らいてう氏の言葉と御文章を引用されながら、この言葉を書かれております。また『皇道靈學講話』などを「亀の子」さんは読破されての御文章であります。簡単にこうして批評したりするのはどうなのか、「亀の子」さんからの反論もあると思います。

 また、戦後のGHQの検閲により、「生長の家」にも大きな影響があった。そこでこうしたtapirさんの考えも出て来るのも仕方がないにせよ、私から言わせれば、完全に「生長の家」を把握出来ていないと判断するしかない。全体を把握して、もう少し熟読して欲しい。何としてもこの『白鳩』誌を取寄せて、それから反論するなら理解出来るが、少しの引用のみで“拡大解釈”とする意見は如何なものか。

 『白鳩』誌には
平塚らいてうさんの最初の出会いや共同生活された奥村博史氏の事や戦後の婦人の国会議員のことなどについて『白鳩』誌には書かれています。

 平塚らいてうさんは女性は太陽だ、男性は月だと主張されています。『元始、女性は太陽であった』を是非読んで欲しい。

 

最近、生長の家の講師などは「谷口雅春先生」の御文章を理解しない人が多い。言い方が悪いが理解出来ないというのが正直な考えが私にはあります。何故理解出来ないのかは戦後に育った(私もそうだが)敎育というのが大きな影響を与えています。

 

【亀の子様が谷口輝子先生のご文章をご自身のブログで紹介してくださいました。輝子先生のご文章を丁寧に保管されていた亀の子様に敬意を表し、貴重なご文章をご紹介いただいたことに、深謝申し上げます。

ご文章を元に、亀の子様は、谷口雅春先生と共に歩まれた輝子先生が、男子男系天皇を支持しておられる、それこそが生長の家の教えであると述べておられます。

しかし、輝子先生のご文章を元に「天皇の男系男子限定の皇位継承を絶対に固守せよ」というのが生長の家の教えであると主張されるならば、それは拡大解釈だと思います。

ご文章を熟読すれば、そのように読めません。】

  tapirさんの文章を読んで、新人に「生長の家」の信仰を傳える難しさを感じてしまう。

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  私は諸先生から厳しい言葉も沢山言われております。それは叱責であったり、激励であったりするのですが、当初は「貴方が「谷口雅春先生」を理解するなんてとんでもないことだ」と中傷されるような言葉もありましたが、「ナニクソ」という気持ちもあり、人一倍勉強もしました。また、手探りだが自分で訪ねて検証もしました。そうした努力というのが人を育てます。
 調べたい文章など「国会図書館」等に行って何度も見ています。東京本館も8回程行ってます。関西館は20回程訪ねています。大本にも8回訪ねています。誰にも負けないぐらい勉強して欲しい。私も現在、戦後のGHQによる検閲文章から「谷口雅春先生」を少しだけでも理解しようと努めています。

 

妙見山周辺のトレッキング

トレッキングの趣味としながら、なかなか行けないのだが、今回意を決してチャレンジした。

 今日は二カ月ぶりに妙見山周辺の低山登山を実施した。何カ所かの山頂を目指して午前725分目的地から出発した、最初は青貝山である。最初にキツイ勾配があるが、慣れているので問題なくクリアである。次に天台山も途中の鉄塔までに滑りそうな急勾配であるが、まだまだ元気です。次に光明山も順調に登った。そして、妙見山である。これも頑張って登った。そして距離があるが、妙見寺奥の院の脇を通って、歌垣山である。ここの登りが前回でも疲れ果てていた、大変キツイです。たった頂上まで900mだが、標高380mから552mまでの標高差172mである。

何度か休憩しながら登った。それでもゆっくりした休憩でもない、息が乱れているのを恢復する時間だけである。ここは大変眺望もよく、先ほど登った妙見山や亀岡の山々が眼下に広がる。

ここまでは目標であった午後12時までには登頂は出来た。次に高台寺山である。そこまではアスファルトの道である。約6.8kmある。何回か休憩しながら走った。

妙見口駅の手前に吉川八幡神社がある。そこが登山口である。そこから吉川城跡がある。山城である。そこから暫く尾根伝いに歩くと頂上付近手前に高台寺があり、そこに熊がいる。それを見てから、山頂を目指した。なんとか登れたというのが正直なコトバである。

そんな言葉が合う、疲れ方である。通常これを讀んでゐる皆様はハイキングのような道だと理解されていると思いますが、滑りそうな急斜面につま先のみで走行する。ふくろはぎが痙攣を起しそうな状態である。

それを何度も繰り返す。歌垣山まで行かないが、トレッキングのコ-スや大会などが一年に一回は行われている。猛者達が健脚を競う。

スマ-トフォンのアプリの旅ログで記録はあるのですが、そのアウトプットの方法がわからなく、地図と断面が表示出来ないのが残念である。

ぐるりと妙見口駅の周辺を一周した。元の位置に到着したのは午後430分である。走行距離34km、久々のロングコ-スである。約9時間、結構時間を費やした。もう2時間は短縮出来る。

このコ-スはいくつものアップダウンを繰返しながら、今回は妙見山周囲の主な山頂は全てクリア出来た。やはり、高低差のあるトレイルはさすがに疲れた。

六甲全山縦走よりは距離的にも4244kmなので、大きな大差はない。ただ整備されていない箇所もあり、そこが楽しい。もう少し体力が恢復したら東海自然歩道の箕面駅から嵐山駅まで挑戦したい。(52km)4年前に9時間36分が最速のタイムである。もう少し早く走れるようにしたい。武漢ウィルスが終息すればの話であるが、それまではなんとか体力を付けたい。

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青貝山山頂

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靑貝山と天台山の中間の鉄塔付近
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天台山山頂の周囲は眺望は全くない
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天台山と光明山の中間点
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光明山山頂、ここも眺望は望めない。(上図3枚)
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妙見山の山頂手前の昔の鳥居
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妙見山山頂
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妙見山のお寺の門の中間が県境になっている。
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妙見山の山頂近くに郵便局
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歌垣山登山口
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歌垣山山頂 
男山です。
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男山、女山からなる双耳峰となっています。上図は女山です。
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女山側
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もう一方の登山口
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吉川八幡神社と神馬と高台寺登山口
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吉川城趾
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高台寺で飼育されている熊
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高台寺山

地理院地図|国土地理院 (88sekaiisan.org)
歌垣山はこの地図の上の方です。


「今」存在することに感謝することの大切さを学んだ一日

今日は妙見山の山頂の三角点の前に「彰忠碑」がある。ちょうど登った時に女子大生と思われる、女性5人組が何やら「彰忠碑」の前で一人の女性が大きな声で喋っていた。

【「此の碑」は日本の為に亡くなった人を讃えているのです。私達はこの人達がいて、現在の私達がいるのです。感謝しなければなりません。】

彰忠碑
画像がボケていてすみません。

 

なかなか大したものです。本当にそうだと思います。私たちはこの日清日露を戦った人達がいたからこそ、現在の私たちがゐるのです。そこに感謝してこそ、不満や文句など発言する人がいるが、最初に感謝の念がないからなんです。

 

最近は「生長の家」の信仰をしている人でも「天皇信仰」がわからないと云う人が多いと聞きます。それはある面致し方がないのかも知れません。現在の『生命の實相』には「天皇信仰」などは掲載されていない。だから仰慕するような気持になれない人も多い。また、マスコミとかで「女系天皇」がどうして駄目なのだ。現在の世の中「男女共存」である。古臭い考えでは新しい人は付いてこない。そのように言われたら「言い返す」言葉が出てこなかったという人もいました。今、私がこうして書いているから、直ぐにインタ-ネットで調べて反論出来ると思いますが、立ち話でそういう論争が起きたら、果たして筋を通して話が出来るのかどうかであります。男系で護ってきた歴史があるとか、そんな内容でしか話が出来ないのではないか。もっと多方面から歴史を掘り下げて「男系」の大切さを説明しなければならない。

 

それと、日教組で受けた授業で育って来ているので。なかなか強者であります。私はやはり「日本の歴史」を再度、教え直す必要を「生長の家」信徒、「学ぶ会」信徒に拘わらず行わなければならないことを感じております。

 

例えばです、谷口雅春先生は旧制市岡中学で学ばれたのでありますが、その旧制市岡中学というのは当時、どんな場所だったかを説明しなさいと「テスト」があったとすると、皆さんはどのような回答をしますか?

殆どの人は回答出来ないと思っています。それは何故でしょうか。簡単なことです。そこまで考えたことがないからなのです。『生命の實相』にも掲載していない事だからわからない。ある人は怒って「そんなものわかるわけがない」というでしょう。

 

しかし「谷口雅春先生」のことを深く勉強しましょうと言いながら深く勉強しないのです。ただ、私のブログをシッカリと讀んでゐる人は回答出来ます。ちゃんと答えを書いているからなんです。だから『生命の實相』に掲載されていないからではなく、何処かに掲載されているのではないかと注視して勉強することなんです。

 

今回「亀の子」さんが大変よく勉強されていて、『白鳩』誌の昭和468月號に谷口輝子先生が「天照大神の靈系を繼いで居られるのが日本天皇であり、男性であることが正しいとされてゐる。」の文章を読んで書いて居られた。だから、谷口輝子先生もそのように考えて居られるから、谷口雅春先生は間違いなく「男系」です。とわからない人には説明出来ます。

 

今後は、どの會においても歴代天皇の御製やその日本歴史を勉強し、「天皇陵」の参拝など身体と頭と両方に滲みこませる敎育をしなければならない。それと祖先に感謝する生き方をするように敎えることです。本日、「日本の為に犠牲となった人」が存在して、私たちが「今」存在することに感謝することの大切さを学んだ一日です。

生きる道

【今起きている事は先祖が同じような事を繰り返しているとも考えられます。自分たちだけが苦しんでいるのでなく。繰り返している。輪廻である。

そういう見方はどうでしょう。

そして、抜け出せましたか。】

 

コメントありがとうございます。

 

谷口雅春先生は50歳くらいの時に自分が親不孝であったことを吐露されている文章があった(それが何処の文章か思い出せません)。どんなに、完全だと云っても、まだまだ自己満足出来ない、自分に悔やまれることはありますが、ただそれで落ち込んだり、歎いたりしていません。

 

肉体的には衰えて、気持ちも萎えるようなことがあっても、信じた道を歩むだけだと思っています。幾つかの目指したい道があり、此処ではその内容は省略しますが、それは壮大な目標なのでそれを目指して頑張ります。それまでは、コメント欄の“抜け出せましたか”というのはどういう内容であるかは私自身知る由もありませんが、生き甲斐をもって実行していますので、私の進む道は間違いはないと思っています。

谷口雅春先生のGHQによる「公職追放」に当時の厳しさを垣間見る

谷口雅春先生が戦後のGHQによって、「公職追放」という憂き目に遭う。それはどれ程、屈辱的なことか、それを現代の世の中で理解して戴こうとすると、反対に難しく感じてしまう。昭和234月號までは「近況通信」を記載されていたのですが、5月號は「異議申立書 公職追放假指定に對する意義申立公開狀」の内容となっている。つまり、「近況通信」は中断せざるを得ない状況となった。「異議申立書 公職追放假指定に對する意義申立公開狀」を読むと戦争中には軍部との関わり(協調)はない、反対に軍部から色々と軋轢があり、執筆も儘にならなかった。私も微力ながら戦前の内務省警保局の資料や当時の新興宗教に於ける取締の激しさを勉強させていただき、それがどれ程のものかを理解しています。

「異議申立書」も御講習会の列車において一気にお書きになられました。しかし、当時のGHQはそんなことを証明することなしで。折角の異議申立も聞く耳をもたない、無理矢理に断罪します。

 

ここで、福田和也氏が書いているのが参考になる。松下電器の松下幸之助氏も「公職追放」の処分とされている。公の社長として活動が出来なくなる。その悔しさは如何ほどであるかである。

 

【昭和二十年の八月十五日、昭和天皇により終戦の詔勅がラジオ放送された。

門真本社の社長室で、松下は起立して謹聴した。

松下以下、社員のみなが涙を流した。その日は解散し、翌日幹部を招集した。

松下は、敗戦を率直に認めた後、会社の客観的状況について述べた。

松下の工場は、そのほとんどが大阪の郊外にあったので、大きな被害は受けていない。

会社には、借金はあるが、それに見合うだけの資金がある。

人もいるし、物資もある。

即刻、生産をはじめることが、企業の社会的使命であろう。

勇躍し、生産がはじまった。が一月して、生産停止が命じられた。

 

七つの問題が、GHQから松下電器に課せられたのである。

財閥指定、公職追放、賠償指定工場、持株整理、制限会社指定、特別経理会社指定、集中排除法であった。

 

 なかでも財閥指定は、松下にとって不本意なものであった。三井、住友、三菱といった財閥とは、規模も違うし、歴史も違う。徒手空拳から一代で築いた会社なのだ。

 

「アメリカは日本の財閥を解体するということで、大きな会社はどこどこと指定した。それでは当然、その指定されたものは財閥でなければならない。しかし私のところは財閥と違う。私は自分一代で会社をきずいた。先祖代々やっているわけじゃない。間違ったことはしないと、進駐軍は自分でいっているが、これは明らかに間違いだ。そこで私は辞職しないで異議を申し立てた。もう一ぺん考えてくれというわけだ。

 

しかし、異議の申し立ては受付けてくれたけれども、やはり解除してくれない。それから四年半の間に、五十何回も進駐軍に財閥指定を解いてくれと頼みつづけた。しかし、なかなかそれでも解けない」(『仕事の夢 暮しの夢』)

 

さらに応えたのは公職追放であった。追放処分を受けた事により、松下は経営に携わる事ができなくなったのである。それは『経営の神様』にとって、不治の病に冒されるよりも、辛いことだった。】

 

私は現在谷口雅春先生をメインに「戦後のGHQの検閲」を繙いています。まだ時間がかかります。何度も『生長の家五十年史』を読み直し、更に『生長の家四十年史』『生長の家三十年史』と読み重ねています。また昭和20年から24年までの検閲承認の文章など見ています。ただ、どの文章が検閲に引っ掛るかは書いてはいません。何頁の何行目にあるとか、タイトルのみ記入で検閲対象を想像しています。

 

それと、それに関わるものを年代別にと雑誌別に記載しています。そこで『光の泉』誌においてサブタイトルが昭和236月號「谷口雅春監集」から「メンタル・サイエンス子供雑誌」にタイトルが変更になっています。更に7月號から「The Truth Movement For Children」となります。これも「異議申立書 公職追放假指定に對する意義申立公開狀」を『生長の家』昭和235月號を御記述された翌月です。GHQの検閲の厳しさを垣間見ます。

ワクチン接種について

 先日、第1回目のワクチン接種を行いました。筋肉注射ですので、袖を捲し立てて出来る限り腕の上部にして頂きました。私の場合、その後、軽い痛みだけで済みましたが、他の人の多くは「かなり痛い」と言っていました。その接種した夜に痛みがあるようです。私は前述したように痛みもなくそのまま経緯しました。

 

 厚生労働省は下記のチラシを配布しています。

https://www.mhlw.go.jp/content/000738739.pdf

 

2回接種しないといけないのと、接種後30分は其の病院で待機することです。チラシには15分と記載しています。

 

自治体でもかなり接種期間に差があるようですが、私の自治体も接種日時などは決まっていません。

結核の大流行と新修版『生命の實相』

昨年の6月9日に『生命の實相』黑布表紙版(戦前)と新修版(戦後)の異同を調べていてその違いがあり、それが下記の内容でした。現在武漢ウィルスという途方もない、ウィルスにより混乱しています。また、変異株というその発症した国により、少しウィルスが違った形で蔓延し始めている。これにはイギリス変異株というように国名が附くのに、どうして最初の発症源である「武漢」という名前が付かないのは誰が見てもおかしい。日本政府は中国に遠慮しているのが根本要因である。今迄の歴史において、それで日本の外交の成果が示されたという話は聞かない。きっちりと発症した国名を付けるべきである。

100年前に猛威をふるった「スペイン風邪」というのがある、全世界で2千万人~4千万人が死亡したとされている。パンデミックと表明した武漢ウィルス。「スペイン風邪」も当時の人はどれ程驚異であったか想像に難くない。

 

下記は戦後に追加された文章であるが、それを敢て掲載された所以というのが昭和22年から昭和24年において結核が大流行したのである。明治時代では結核を勞咳と呼んでゐた。あの新選組の沖田総司もそうであるように、治らない病気であった。また有名な話であるが、正岡子規も結核を患っていた。

正岡子規は1895年(明治28年)4月に近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの予定通りにはゆかず同年5月には帰国の途につくはめになり、帰国の船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院し、結核と思われ、当時は結核は「不治の病」という位置づけであったので、自分に死・死期が迫っていると覚悟した。喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトトギスにちなむ句を一晩で数十も作ったという。そして、ホトトギスの漢字表記のひとつの「子規」を自分の俳号とした。ホトトギスは「冥土を行き来する鳥」ともいわれておりそこから「子規」と付けたのです。

さて、下記にその当時の結核の流行と谷口雅春先生の追補された『生命の實相』の内容とを考慮して讀んで戴きたい。

 

【私は皆様のように『生命の實相』を正確に読んでいたわけでもありませんので、最近復唱しながら読んでいるわけですが、それでも『生命の實相』を深く読み、熟読され全てを把握され、知っている人がおられることに、深く感心いたしています。

先日、ある文面が分らなく、脚注も記載がなく、想像でしか理解できない言葉が出て来ました。

現在の『生命の實相』は戦前の例えば黑布表紙版と新修版という戦後出版されたのと異なるのは、御存知の通り章立てや文面など細かく変更されておられます。それには大きくわけて二通りの意味がありまして、一つは戦後のGHQによる検閲を免れる為ともう一つは戦後の進歩というのか、発展による解釋の違いと科學や医療の発達によるものです。

下記は後者である醫學の發達による追加であります。

 

新修版『生命の實相』第二巻879行目に黑布表紙版にない追記された文章があります。長いので中略しました。

《最近日本でも問題になつたのは、BCG乾燥ワクチンの制接種が、却つて結核を誘發するとか、潰瘍を生ずるとか云ふ實例が出て來て、橋本厚生大臣が、そのやうな人命に關する問題では制接種をお願いします。差控へても好いと云ったと云ふやうなことに端を發してをります。

 その發端は武見太郎氏が文藝春秋昭和廿六年四月號に「結核撲滅對策を撲滅する」といふいはゆる武見論文を掲げたことから始まつた。それから參議院厚生委員の武見、隈部、熊谷(岱)證人喚問となり、文春五月號では―――(中略)――――917行目から 人類から病氣の根本原因を除くことにはならないのであります。》

 

上記に昭和264月という文章がありますが、昭和10年以降も長く醫學の本などを読んでおられたのです。

 

また、新修版『生命の實相』第二巻

9510行目       

《尤もこれはサルファ劑やペニシリン劑の發見せられなかつた當時の肺炎の治療でありますが、サルファ劑には『第九日事件』と稱される複作用が、服用又は注射後、いつか可成り後に原因不明の症としてあらはれる(病氣の轉位)と云ふことは有名であり、ペニシリンは無害と云はれてをりますが、毒性を伴ふ安息香酸と併用されるのであります。兎も角、激烈な藥物を用ひて自然療能を攪亂させる位ならば、無藥と、信仰による精神の安靜が最もよいと云はねばなりません。》

※複作用の複は誤植ですが、其の儘引用しました。

 

この中の言葉で『第九日事件』がわかりません。それとペニシリンは1942年に実用化されるので、戦後に書かれたことがわかります。少しだけ醫學の本を読んでも、このような文章は書けない。

 このような知識をもっておられたということは、相当醫學の本を読んで理解しないといけません。今迄、何気なしに讀んでゐた『生命の實相』だが少し考えを新たにする必要を感じています。

 

【サルファ劑には『第九日事件』と稱される副作用が、服用又は注射後、いつか可成り後に原因不明の症としてあらはれる(病氣の轉位)と云ふことは有名であり、ペニシリンは無害と云はれてをりますが、毒性を伴ふ安息香酸と併用されるのであります。】

 

サルファ剤などインタ-ネットで調べて見れば少しは理解出来るのですが、毒性を伴う安息香酸というのは何のことなのか、少しの理解では把握出来ません。また、ここで『第九日事件』というのがわからなかった。ネットで調べても掲載されていない。

 

ある雑誌にその文面が掲載されていることを事前に調べていたので、それを調べるのに国会図書館に行きました。頭注版でも記載がなかったので、新編版においても調べられたと思いますが、やはり調べ切れなかったと推察します。

 

「第九日事件」

【「第九日事件」ということばはフランスやアメリカで世間一般にも知られるようになった突発事故の名前であるが、ひとくちに言えば、しろうとが医薬を濫用することによって起る思いがけない事故である。

即座におこる中毒ではない。その名の通り、ある薬を使い初めた日から数えて、第九日目ごろ忘れたようなときになって始まることが特有で、それより早く、あるいはおそく突発する場合も少なくない。

医学上のほんとうの呼び名は、まだ日本の医界でもほとんど知られていない「ミリアン・ツァンク症候」というのであるが、それよりもフランス人の作ったアクシダン・ド・ヌビエムジュ-ル(第九日事件)という俗称のほうが印象的だろう。なにか政治上のさわぎを思わせるが、社会動乱のように表面には現れず、それでいて長い間にずいぶん多くの被害者をうみだす出来事に相違ないからである。】

 

とある。後半が少し分りづらいがなんとなく理解出来る。

戦後間もない頃、医薬は海外からの輸入が多かったのと、その時代はわからずに服用していたという時期でもありました。それでも、サルファ剤などは戦争の傷の手当てでも有効でありました。日本ではそれを戦中に塗布されたのかはわからない。バイエル薬品は元々、塗装関係の会社だったのが、驚きである。会社にとっては思わぬ発見があった。

日本大百科全書(ニッポニカ)から抜粋

サルファ剤開発の先駆となった化合物。橙赤(とうせき)色の色素で、プロントジル・ルブルム(プロントジル赤)ともいう。1935年に、ドイツのバイエル社の前身であるIG染料会社のドーマクにより、プロントジルの化学療法剤としての有効性が発見された。内服により化膿(かのう)性球菌による感染症の治癒をみたが、プロントジルの化学構造中、有効なのはパラアミノスルホンアミドであることが解明され、サルファ剤開発の道を開いた。昭和初期に繁用されたサルファ剤で、バイエル社の商品名である。

 

最初はこれを服用すると全身が赤く染まったという。染料会社から医薬という会社であるが、発想がすごいからこんなことが可能であったと思う。】

石上げ?


生長の家の「石上げ」の行でふと思った。

京都の今宮神社には、石を両腕で抱えるように持って、上げれば身体の何処も悪い箇所がないというものがある。今回の生長の家の「石上げ」の行でふとそう思った。

 

今宮神社は「炙り餅」で有名で、京都を舞台としたサスペンス劇場などでは、度々撮影に利用される。石上げで下記に説明を抜粋する。

 

阿呆賢(あほかし)さんは、「神占石」(かみうちいし)とも呼ばれ、病弱な者がこの石を軽く撫でてから、自分の体の悪いところを摩れば健康の回復が早まるという。この石は「重軽石」とも言われ、願いが叶うかどうかを占ってくれます。但しそれには条件があって、石を怒らせては願いは叶いません。

 

  手のひらで軽く三度打った石を持ち上げ、次ぎに願い事を込めて三度手のひらで石を撫でてから持ち上げます。重さが軽くなっていれば願いは叶います。

 

  石をたたくと石が怒ってしまって重くて持ち上がらないそうです。何事もやさしい心で念じなければなりません。

 

さて、昨年の8月1日の谷口雅宣総裁は「唐草模様」に書いている。

 このような学問的なアプローチを採用すれば、生長の家が「石上げ」などの行事を通じて岩石を利用する場合、また自然解説/文化遺産

 

解説の過程で岩石に言及する場合も、教義との矛盾を起こさずに行えるだろう。言うまでもなく、生長の家は唯一絶対神を信仰する宗教だから、上記の信仰対象の意味で岩石を使用することはあり得ない。しかし、媒体の観点から利用することに教義上の矛盾はないのである。だから、2011年3月の東日本大震災を契機として、その2年後に、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の敷地内には、「自然災害物故者慰霊塔」が建てられた。この慰霊塔には、兵庫県で産出される安山岩の一種「生野丹波石」という自然石が使われている。また、私が勤める“森の中のオフィス”の敷地内には、そこを流れる沢に5つの橋がかかっているが、その傍らにはそれぞれの名前を記した石碑(=写真)が立っている。これらも「信仰の対象」ではなく、信仰の内容を言葉で表した「媒体」としての石の利用なのである。

 

ただ、粗探しではないが「信仰の対象」ではなく、信仰の内容を言葉で表した「媒体」としての石の利用なのである。という意味不明の言葉がある。信仰の内容を言葉で表した「媒体」というのは「信仰の対象」としての石であることは間違いない。総裁は今迄「嘘」を平気で付いてゐた。だから、昨年度から考えていたのであろう。それが「新しい文明」とは哄笑である。真面目に信仰を行っている人には「馬鹿らしい」と一笑するだろうが、総裁本人は真面目(不真面目?)に考えているのであろう。勿論、谷口雅春先生の信仰とは意に沿わない。

 また、媒体の観点から利用することに教義上の矛盾はないと書いているが、私はそういうの発言は総裁として、どうしてもオカシイのである。教義上でもオカシイ。誰も止める人がいないと組織は違う方向になって、オカルトとなる。

 

 あの後醍醐天皇で有名な笠置山の磨崖仏は巨石としての信仰と山岳信仰とが重なって、それに佛教が加わっての信仰の対象物としての巨石である。最早、巨石というより「弥勒菩薩」である。全国には磨崖仏は沢山存在している。大阪では「剣尾山」の登山では巨石に大日如来等数体が彫られている。能勢温泉から一周のコースでは、花崗岩が剥き出しの山が点在している。そうした巨石に佛を掘るというのも、古くからの山岳信仰と佛教が重なって「信仰」としての山であったことを証明する。この「剣尾山(行者山)」の開祖は役行者であるから納得する。
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現在の塚本幼稚園と瑞穂の國小学校の現況

塚本幼稚園のマイクロバスが走っていた。一体どうするのであろうか。マスコミの攻勢に小学校も廃校である。一体何が悪かったのであろうか、誰か左右両派の思想とは関係なしに純粋に調べて欲しい。
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4月6日撮影
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瑞穂の國小学校の現在(4月7日撮影)豊中市野田

 

森友学園の幼稚園閉園に「管財人も裁判所も森友学園をおとしめている」 園長が自主運営を準備(ABCニュ-スから抜粋)

 

学校法人「森友学園」が大阪市内で運営している塚本幼稚園が4月1日、休園する見通しです。これに対して園長が記者会見を開き「(休園を決めた)管財人や裁判所の言い分の趣旨が不明だ」と反発、1日以降も園を続ける意向を表明しました。

 

「森友学園」はかつて大阪・豊中市で進めていた小学校開設計画の中止などに伴い多額の負債を抱えたため、管財人による民事再生計画を進めています。管財人の弁護士によると、当初は学園が運営する「塚本幼稚園」の収益で弁済する計画でしたが、思うように園児が集まらず毎月赤字が続いたため、3月末までで休園することを決め、大阪府教育庁に届け出ていました。一方、園長の籠池町浪氏は園の存続を求めて1300人の署名と嘆願書を集め、大阪府教育庁に提出したといいます。そのうえで31日、記者会見を開き「管財人も裁判所も、森友学園をおとしめるために動いている」と批判。新年度も園に残ることを希望する園児らのために、園の自主運営を準備していると明らかにしました。町浪園長は報道陣を前に「休園に対して違和感を持っているし、(みなさんにも)持ってほしい」などと訴えました。

『「保守主義者」宣言』の紹介

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本の紹介

出版社内容情報

「全世界の保守主義者よ、団結せよ!」

コロナ禍に乗じて台頭する権威主義国家、節度なき個人主義、人権の名の下に封殺させる言論……

私たちはどこへ向かおうとしているのか?

日本と世界を守る「思想の力」を問い直す!

 

私の執筆動機は、危機に瀕する日本を現実にどう救うかに関する、実行可能なヴィジョンとプランを打ち出す事にある。保守主義の概念を思想史上から丹念に跡付ける包括的な研究書はいまだ書かれておらず、それは必須の仕事だが、本書はそれを目的とはしていない。その事を示す為に表題を『「保守主義者」宣言』とし、かつてカール・マルクスによつて書かれた『共産党宣言』と、あえて意図して、対に出た。(まえがきより)

 

【目次】

序  平成日本「失敗の本質」

 

第一部 「保守主義者」宣言

一 「保守主義者」宣言

二 「保守主義」とは何か

三 戦後日本の保守主義はいかに戦つたか

四 日本の保守主義はいかにして崩壊したか

 

第二部 国家の危機にどう立ち向かうか――イデオロギー戦から逃げるな

一 安倍政権――その漸進主義の勝利と限界

二 自由の為の国家百年戦争を準備せよ

三 「働き方改革」を廃し、地方創生・デジタル革命・人口政策に集中せよ

四 愛子天皇論といふ「無血革命」

 

第三部 文化の危機にどう立ち向かふか――保守主義の血脈を継ぐ

一 三島由紀夫 没後五十年の宿題

二 福田恆存の戯曲――政治的言語空間の創造

三 追悼 岡崎久彦――昭和史を「物」にするとは

四 追悼 岡田英弘――歴史は文化である

五 対談 小林秀雄、宣長、源氏、古今…… 石村利勝×小川榮太郎

 

[付録]日本の保守主義の為の読書案内

 

内容説明

全世界の保守主義者よ団結せよ!コロナ禍に乗じて台頭する権威主義国家、節度なき個人主義、人権の名の下に封殺される言論…私たちはどこへ向かおうとしているのか?日本と世界を守る「思想の力」を問い直す!

 

目次

序 平成日本「失敗の本質」

第1部 「保守主義者」宣言(「保守主義者」宣言;「保守主義」とは何か;戦後日本の保守主義はいかに戦つたか;日本の保守主義はいかにして崩壊したか)

第2部 国家の危機にどう立ち向かふか―イデオロギー戦から逃げるな(安倍晋三政権―その漸進主義の勝利と限界;自由の為の国家百年戦争を準備せよ;「働き方改革」を廃し、地方創生・デジタル革命・人口政策に集中せよ;愛子天皇論といふ「無血革命」)

第3部 文化の危機にどう立ち向かふか―保守主義の血脈を継ぐ(三島由紀夫 死後五十年の宿題;福田恆存の戯曲―近代政治言語の創造;追悼 岡崎久彦―昭和史を「物」にするとは;追悼 岡田英弘―歴史は文化である;対談 小林秀雄、宣長、源氏、古今―石村利勝(詩人)×小川榮太郎)

付録 日本の保守主義を身につける為の読書案内

 

著者等紹介

小川榮太郎[オガワエイタロウ]

文藝評論家、一般社団法人日本平和学研究所理事長。昭和42(1967)年生まれ。大阪大学文学部卒業、埼玉大学大学院修了。フジサンケイグループ主催第十八回正論新風賞、アパ財団主催第一回日本再興大賞特別賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

 

今回、育鵬社に於いて出版された『「保守主義者」宣言』小川榮太郎著は是非皆様に読んで欲しい。それはまったく内容は私の思いと同様であるのと、この本の基本は今後運動としての指針を示している。この本の75頁では

   私見として記入されていますが

  第一は根源の歴史に根差した「日本」の在り方そのものを、きちんと国民の心に定着し直す事だ。日本の美風、日本人の誇りを取り戻す啓蒙活動を無理なく浸透させる、国民運動の穏やかな連合体を作る事である。縄文の平和、天皇の祈り、様々な道の教え、神仏を敬ひ先祖を大切にする心ーかうした日本人が伝へてきた心を守る草の根の運動こそは、結局、以下に示すあらゆる思想・政治戦の最も揺るぎない基礎となるであろう。

第二に保守主義共通の課題であった共産主義批判を現代の主敵に合わせて更新し、イデオロギー戦を戦ひの主軸に据ゑ直す事。

第三に戦後レジームからの脱却である。日本史、所謂「国史」への検証である。私の場合は『古事記』『日本書紀』への探求であろうか。先日。NHKが放映していた「誕生 ヤマト王権〜いま前方後円墳が語り出す〜」しかしこの中で「仁徳天皇陵」を「大山古墳」でしかナレーションでは言わない。表示も「大山古墳」だけである。

   今の考古学者の言い分のみを優先している。江戸時代から言われてきた「仁徳天皇陵」は今では左派の勢いに完全に牛耳られている。

  戦後のGHQの詳細なる検証等も現在の左派といわれる人達を凌駕するダイナミックな論証が必要である。

   勿論、江戸時代の国文等の論議も必要である。また、「日本国憲法」の制定過程の再度の検証も必要であることは、勿論である。

 

第四に価値観を守りながら国力を増強する保守の政治理論の構築、政策実現を至急に図る。

第五に日本の原像を求める文化保守主義の深化である。

第六に日本の中核価値としての皇室、天皇伝統を再強化する事である。

 

「生長の家」は法統継承において、多くの間違いを起こした。血統ということで、「生長の家」の哲学を誤った思想の持ち主に継承してしまった。本来は外部から見たら、全く現在の様相では法統継承したといわれない。法統継承は何処の宗派に於ても、基本的な中核は護持するのである。「天皇信仰」や『生命の實相』を中心として、そこから派生するのが、本来の在り方である。

私は度々列挙しているが、戦後GHQの検閲により、「生長の家」という思想に何らかの違いというのが、あるのかどうかである。谷口雅春先生は戦後では「日本の保守主義の牙城」を構築した。しかし、それを伝授した弟子と云える人々の多くはその根本眞理を放逐してしまった。

また、それを語る人は少なくなった。発祥の言葉こそが、如何にしてこの日本を救おうと切望したのかである。

今後、私は谷口雅春先生の思想を更に勉強して、いこうと思うが、それに続く人、それを語る人が登場してくることを待望している。また、現在の退廃した状況に楔を打ち込む人を待望す。

「国家」というものは何か。それを護持するのはどのような精神であるかを勉強する必要がある。

G7首脳会議が今年の229日にテレビ会議という形式で開かれた。そこでの内容の一つとして中国の新疆ウイグル自治区での人権弾圧、アメリカ等はジェノサイドを行っているとして痛烈に批判している。

そのなかで、アメリカ、イギリス、カナダの3か国と、EU=ヨーロッパ連合は22日、中国の新疆ウイグル自治区での人権侵害に関わったなどとして、自治区の当局者らに対し、資産凍結や渡航禁止などの制裁を発動しました。

 

G7=主要7か国では日本以外の国すべてが制裁で足並みをそろえる形になりましたが、政府は、中国と地理的に近く、経済面でも密接な関係にあることに加え、人権問題を理由に制裁を科すための根拠となる法律が存在しないなどとして、制裁の実施には慎重な姿勢です。

 

日本という国家を考えると隣国で実際起こっている事態を世界に先駆けて人権問題や人種問題を率先して行わなければならないことを、中国に遠慮してG7などでは歩調を合わす事が出来ない。制裁を課す法律がなければ日本ではお馴染みの特措法を作ればいいじゃないか。日頃、人権になれば過度に主張する共産党や左翼連中は大きく問題を発信することはない。マスコミも遠慮して大きく発言する事はない。中韓の問題となれば口を閉ざしてしまう。マスコミはまるで中韓の雇われ人間である。

 

 尖閣諸島の領海侵犯についても野党は政府を追及することは殆どない。新疆ウイグル自治区での人権侵害については前安倍首相が力を入れていた政策でもあった。どれほど「ウィグル人」のアメリカに亡命している人やそれを支援している日本人は期待していたかを報道されていない、マスコミは当時においては殆ど関心がなかったことである。

 

 さて、GHQの検閲資料を目のあたりにすると、日本を貶めて、その呪縛から今尚、抜けきらない幼稚な日本人が今も沢山いることを思い知らされる。今尚、呪文のように「平和」と叫べば「平和」が来るような錯覚に陥っている。戦後、この憲法で日本は果して平和になれたのかというと、それは反対である。より危険が迫っている状態である。物質的な平和は確かに謳歌しているようにみえるが、この尖閣諸島の前にも「核搭載可能な潜水艦」が日本領海に度々侵犯していた。あの中国漁船サンゴ密漁問題でも日本の軍事関連の防備の弱体は明らかであった。

 

 本当に「国家」というものは何か。それを護持するのはどのような精神であるかを勉強する必要がある。

組織の多様性とは

【「生長の家」の左展開について】トキさんが紹介していた。

だが、別の人が「酷いですね」という項目で

日時:20210401 () 1934

名前:ツッコミ

赤ちゃんのいのちを否定する人。こんな弁護士がいたのですね。

雅春先生が聞くとどう思われることか!

 

その徳永信一氏は

【僕は3代目の就任のことを言っているのですが、中絶はキリスト教の禁忌ですが。日本では生れてからが人間でした。彼我の文化の違いを無視して中絶の禁止を訴える生長の家には当時から違和感を感じていました。

 

と記載している。確かに日本では「生れてからが人間」ですから、殺人罪には問われないのです。刑法の堕胎罪と母体保護法のハザマである期間では中絶しても罪に問われない。

 

ABORTION JAPANから抜粋

日本での妊娠中絶は、基本的には、刑法堕胎罪で禁止されていますが、母体保護法に定める中絶の要件を満たしている場合に限り、配偶者の同意を得た上で、合法的に中絶手術を受けることができます。母体保護法指定の病院、あるいはクリニックで行われます。合法的に人工妊娠中絶手術を受けられるのは、22週未満、つまり21週6日までです。中絶手術は、健康保険の適用外で、費用は1015万円です。

 

日本で合法的に中絶をできる要件とは、第一に、「妊娠の継続または、分娩が身体的または、経済的理由により母性の健康を著しく害する恐れのあるもの」、第二に「暴行もしくは脅迫によってまたは抵抗もしくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠したもの」です。配偶者(つまり胎児の父親)の同意は、配偶者が知れない時、もしくは、その意思を表示することがでいない、または、妊娠後に配偶者が亡くなった時には、本人の同意だけで足ります。日本の中絶のほとんどのケースが、経済的理由適用の下で行われています。

 

個々人のケースで、要件を満たしているかどうかを判断するのは、母体保護法指定医です。

 

私も一度だけ徳永氏に会ったことがあります。やはり、全ての意見が「生長の家」の思想と合致しなければ、受け付けないというのも了見が狭いような気がする。生長の家教団の総裁は現憲法支持者であり、反自民であります。天皇陛下についても、谷口雅春先生の考えとは異なる。それでも受け入れているではないか。(やむをえない?)

また、「学ぶ会」では一昨年ですか、竹田恒泰氏を講師として招きましたが、「反原発」のオピニオンリーダーです。

学ぶ会の中でも、完全な肉食拒否する人と少しぐらいの肉食は認めている人もいます。だから全て合致するような人は少ないのが現状であります。それを雁字搦めで硬直化したような考えではいけないように思います。

 

多様性というコトバが左翼からよく聞かれますが、本当の多様性というのは多少の考えの違いがあれども許容することも必要であることが多様性であります。

とりわけ、組織のなかにいると、「あの人とは遊んではいけません」というような幼児が言われる様な言葉が聞かれます。私はこれ程、おかしな「コトバ」はないように思っています。よほど悪行に晒されるのならまだしも、全くその人を知らない内から決め付けたりするのもおかしな話である。

憲法について

憲法について私はこのブログで語ることが少ないが、昨年に谷口雅春先生の愛国書を一覧の作業や、それをレファレンス集としてこのブログに書きました。それ以前に『やまと新聞』の記載などその中にはたくさんの憲法について書かれています。また『明治憲法復元改正』を主とした考えがその中枢にあることは忘れてはいけません。

 

或る人は谷口雅春先生のお考えは「明治憲法復元改正」であって「現憲法の改正」ではないと主張していたが、それも正論である。だが、現在の種々の考えの中で「明治憲法復元改正」が世論を喚起して実現可能であるかといえば、残念だが「No」である。それは雅春先生の主張する考えと異なると謂われる。だが、果たしてそうであろうか。「明治憲法復元改正」論をそのまま主張していくのも、現在の世論の形成は以前と異なり、自民党の政権だが、考えは左翼抬頭の時代でその難しさを考える。ようやく、政権で「憲法改正」が堂々と云える時代になった。それも何年もかかってである。そういうことは段階があることを知って欲しい。現在はマスコミ等が平気で人を責め立てる時代である。

 

男女共同参画大臣に就任した丸川珠代氏が、選択的夫婦別姓制度に反対する自民党議員有志の文書に署名していたことが、わかり痛烈な批判をしている人達が居る。

制度導入を訴える市民団体「選択的夫婦別姓・全国陳情アクション」事務局長の井田奈穂さんは、「ジェンダー平等を一番進めるべき立場の人が、家父長制のシステムを維持しようとしていることが残念で仕方がない」と憤るが、私も「ジェンダ-」について少しだけだが齧った経験がある。だが、内容を具体的に見ると酷いものである。自分達の主義は正しいものだとそこから一向に引かない。反対勢力があると人種差別だと脅す。果して人間の寛容性など全く無いように思える。しかも共産党の赤旗などがその会議が配布される。そういうのをみると「明治憲法復元改正」等を主張するとマスコミなどが糾弾して会議にもならない。  

そういうことを経験して、本当に難しさ感じる。

谷口雅春先生のお考えは「明治憲法復元改正」であって「現憲法の改正」ではないと主張している人はそのような共産党の牙城に入って主張して見ればその難しさは理解出来るであろう。

  谷口雅春先生と言葉では発言するが、その詳細を調べた人は少ない。検証する資料も少なくなってきている。「温故資料館」は唯の飾り物を展示する博物館である。そこで検証作業は現在では殆ど行われていない。仮に行われていたとしても、発表しなければ行われていないと同様である。谷口雅春先生の弟子と言われている人は次第に少なくなり語れなくなる危惧を感じてならない。

園井惠子にみる生長の家の生き方--被爆された大女優

 園井惠子という元宝塚のスターをご存知であろうか。

トキ掲示板に少し話題として出ていたので少し知っている人もいるのであろうが、私が髄分と昔に宝塚に生長の家の人が居られたという微かな話であった。それは知らないともいえる程度の記憶である。

   ただ、興味があったのは、一つは『昭和の遺書』梯久美子著にその名前が掲載されているのと、もう一つが 『不屈の日本人』関厚夫著である。

昭和の遺書
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   一つの夢をかけて宝塚を目指した、園井惠子(本名;袴田トミ)である。幼い頃は菓子製造業を営んでいたが父親が借金の保証人になっていたため、貧窮した生活を送らなければならなくなった。

   それでも小さい頃の夢であった宝塚スターの願い、小さい頃の家は岩手県川口村という所であった。岩手女子師範附属小学校高等科に入学、翌年叔父が小樽市に移転したため、祖母と同行したため、女学校は北海道の叔父の家から近い小樽高等女学校である。

 

二年の時に帰郷して、家出同然で二晩かけて宝塚に向かったのである。だが、入学試験も終了していて、事務員は断った。来年に試験を受けて下さいという返答である。それでも必死に食い下がり再三粘った、帰宅しようと思ってもその電車賃もない状態であった。行きの交通費は借りて盛岡駅から阪急電車の宝塚へと来たのであった。宝塚に中途採用等あまり実例はない。

   そこを押しきっての採用である。昭和4年6月17歳の時である。

    その翌年には父親が借金の保証人になっていたため、岩手県で営業を閉じて、岩手県から家族全員が引っ越ししてきた。生活も出来なくなり貧窮した生活を送らなければならなくなった。

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『園井恵子・資料集』から抜粋 1617

 小林一三(阪急百貨店・阪急電車の創始者。ターミナル駅の構想等、全国の駅などの集客は小林一三氏が手本となった)校長から昭和十年8月3日に園井惠子を校長室に呼び、一通の封書を渡している。

 その封書の表に

「園井惠子殿」

(宅に帰ってからあけなさい)とある。

中には温情溢れる手紙と百円紙幣が一枚入っていた。

その手紙というのが下記である。

 惠子 殿 

あなたは家庭で非常に苦労をし  

てきたという話を 初めて聞いて

私はかわいそうだと思いました。

もっと早く私が聞いていました 

ならば どんなにでも補助してあ

げたのに……と思いました。

また あなたは親孝行だという

を聞いて 嬉しいと思いました。

ご褒美として 私の小遣いを少

しですが 百円あげます。お礼状

も なんにもいりません。

なお これからも困った時は丸

山先生にお話しなさい。私がどう

でもしてあげます。

 

  その当時でもそうだが宝塚に入学する人は裕福な家庭が多く、仕送りをして生計を経てる人が殆どである。

  その中で両親を養い、家族を養って生活している園井惠子を見て、小林一三は何とかしてあげたいという思いであったのである。

 

  病弱の父はその事で病み、昭和121116日に阪急電車に飛込み自殺している。

 

生長の家のきっかけは

『園井惠子.資料集』122頁には

  愛国文学の先駆者である木村毅先生に会ったとき、こんな話が出たことがあります。

   「僕の同級生のなかじゃ、谷口雅春君がいちばん出世したかな……」

この谷口雅春氏の崇拝者なのです。つまり、生長の家の信者なんです。

苦しいときには、彼女は必ず『生命の實相』をひもといて自ら慰めます。

   「太陽に輝く時刻のみを記録す!

などと、彼女は難しい哲理を吐きます。

このように記載されている。

哲学的な話など少し小難しい話がとても好きな園井は『生命の實相』の内容にグイグイと入っていくのであった。

 

   袴田トミと「生長の家」の縁は父が送った『生命の實相』である。父を大変尊敬していたトミは父の話を素直に聞く娘であった。『流れる雲を友に―園井恵子の生涯』千和裕之著から抜粋

【啄木のこの歌がしきりにうかぶ。

非凡なる人のごとくにふるまえる

後の淋しさ何にたぐえん

自分が舞台生活で得た役とか表現を親しい人達と話合っている時にさえ、ふとそんな歌が頭を中を横切る。父様の送って下すった『生命の實相』を読んでいると少し位明るく気分を転換させられる。

(園井惠子の日記 昭和十一年二月頃)

 

ちょうどこの時期に父親から送られて来た『生命の實相』により、生長の家を知るのであります。

宝塚での苦労を『生命の實相』を手元にして明るく振る舞った園井惠子があった。

親友であった桜緋沙子とは何度も意見を語り論争をしていた。(ウィキペディアから抜粋)

 

【同時代に谷口雅春が創始した右派宗教団体・生長の家の信者であった。桜緋紗子にも生長の家の典籍『生命の実相』を読むよう勧め、しばしば人生・人間論を語り、それはときに2時間以上に及ぶこともあったという。桜は芸能界から引退後に出家して小笠原日凰を称し、日蓮宗の門跡寺院・瑞龍寺の第十三世門跡となったが、「宗教的な縁のきっかけは、ハカマからだったかもしれない」と述べている。また、宗教的信仰とは異なるが、父・清吉から口伝された「極楽は地獄の底を突き破ったところにある」という言葉を座右の銘とし、清吉が病没してからは11回必ず口ずさんでいたといわれる。】

 

昭和二十年八月十七日

     袴田トミから母・袴田カメ宛(絶筆)

先日、お手紙書きましたが、まだ高山さんの熱が引かなくて、いまだに中井さん方にご迷惑をかけています。

丸山さんと仲みどりさんが助かったとの報告を、いま連盟本部の方から知らせていただきました。

本部と関西支部から同時に、お使いの人がみえて、

 「園井さんが助かって、神戸に来ていられるかもしれないというので、おうかがいしました」とのことでした。

 盛岡へ帰るつもりだったのが、そんなわけでまた東京で仕事をするようになると思います。

 戦争も、こうした形で終わりになるとは思ってもおりませんでしたし、いまのところ、体も精神もくたくたの有様です。高山さんが元気だと、もっとスムーズになんでもできたと思いますが、いまのところ、六甲のお家の方々に、お世話やら、ご迷惑やらおかけしている次第です。

 いつか赤山さんが、「丸山さんは南へ行くと頭を打つ」と言われたことがありましたね。

 首の骨を強く打たれたそうで、いま、巌島で養生していられるそうですが、熱が高くて、うわ言みたいなことを口走っていられるし、ロクマクに水がたまっているので、それをとるので大変らしいんです。

 高山さんも、熱で歯が痛くなり、のどか痛くなり、今日は朝からお水も通らなくなりました。三十九度、四十度の熱が続いて(十日間)、食物はおも湯、クズ湯、スープ、卵ぐらいしか、それも、たまにしか通っていないので弱る一方です。

しかし時局がこういうときですから、いつまでも中井さんのお家でご迷惑をおかけすることも心苦しいし、いまのところ、私は元気になりつつありますが、どうにも仕方がありません。

 中井さんのお家も六日の明け方、すぐ裏の家まで焼けたので、大騒ぎなさったあとだったし、町会長の方が焼け出されたので、その方の家族をおいてあげて、応接間を事務所に貸してあげて、バタバタしていらっしゃるところへ、私たちまで押しかけて、母さんは疲れていらっしゃるのに、何かと大変です。

 申しわけがないと思いながら、どうにもなりません。

 東京へは、今月末ごろまいることになりましょう。

 お会いしたくて、たまらなくなりました。

 ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。

 母さんや、赤山さん、油町のおばさん、おりつおばさん、それにみよちゃん、きみちゃん、哲ちゃん、康さんまでが、いつも私のことを心配していてくださる。その気持ちが、今度のこの幸せを生んだものと思います。

 三十三年前の、しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。

 時局のこうした流れのなかにも、日本国民として強く立ち上がるようにと、神様の思し召しかもしれないと、おおいに張り切っています。

 ほんとうの健康に立ちかえる日も近いでしょう。そうしたら、元気で、もりもりやります。やりぬきます。

 これからこそ、日本の国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うための、なんらかのお役に立たなければなりません。

 皆さんお元気で、食糧増産に励んでください。

 いよいよきみちゃんのお望みのお百姓時代が来ました。

 母さんと、みよちゃんと、三人でどうぞしっかりおやりください。

 哲ちゃんと康ちゃんは、うんと勉強してください。

 何でも知ることです。何でもやることです。

 実行し、反省、そして実行です。元気で頼みます。

 皆さんによろしくお伝えください。

 母 さ ん へ      八月十七日                真 代(園井惠子)

 

女優・園井恵子略歴(本名・袴田トミ) 園井恵子資料集から抜粋

・大正二年八月六日 岩手県岩手郡松尾村に生まれる

・大正九年四月   岩手郡川口村立尋常高等小学校入学、十五年三月尋常科卒業

・大正十五年四月  盛岡市岩手女子師範附属小学校高等科入学

・昭和二年四月   北海道庁立小樽高等女学校入学、二年一学期末まで在籍

・昭和四年六月   宝塚音楽歌劇学校入学、六年三月本科卒業

・昭和五年四月   宝塚少女歌劇団「花組」笠縫清乃で初演、年の暮れ、園井恵子に改名

・昭和六年一月   「月組」に編入、八年五月までの間“ライラックタイム”“女王万歳”他、出演 

・昭和八年六月   「星組」に移る。十三年十二月まで所属。この間“指輪の行方”“花詩集”“リュシュヤシュリンガ”“アルルの女”“憂愁婦人”“マリオネット”“花嫁特急”他、出演

・昭和十四年一月  「星組」の解散により「雪組」に編入、十七年六月退団まで所属。この間“連隊の娘”“みち草”“赤十字旗は進む”“ピノキオ”他、出演。古川綠波一座の客演など

・昭和十七年十一月  東宝演劇研究会第四回公演“ファースト”出演、十二月苦楽座第一回公演。玄関風呂”他、出演

・昭和十八年十月 第四週公開封切り、大映映画“無法松の一生”出演

・昭和十九年十一月 苦楽座の一員となり、西日本各地を巡演。十二月苦楽座解団、国策に沿い結成される「苦楽座移動演劇隊」(桜隊)に参加

・昭和二十年八月 西日本巡演中、六日、広島の原爆に遭遇、二十一目、神戸の知人宅において絶命(三十三歳)、盛岡市北山、恩流寺に眠る

東京都目黒区、五百羅漢寺境内、ならびに広島市平和大通り「移動演劇さくら隊殉難碑」に祀られる。

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2016年には宝塚歌劇の105人目の「宝塚の殿堂」入りが決定した。故郷の岩手県岩手町川口には銅像が建立されています。

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あの木村毅の『谷口雅春君が一番出世したかな…』というコトバには大いに讃えている言葉と感じます。園井惠子が信じて居た人こそ「生長の家」の創始者である。

参考文献
『園井惠子・資料集』『不屈の日本人』『昭和の遺書』『流れる雲を友に』『櫻隊全滅」『戦禍に生きた演劇人たち』『原爆供養塔『東寶』『スエスエ』
等を読破したものを参考に簡単に列記させていただきました。

八ヶ岳という「神域」と「信濃宮」追補

或る方から『生長の家』誌二月號がPDFで一部送付されてきた。その記入したのが総裁である「谷口雅宣」氏である。最初は三角のムスビとか本来の生長の家と言葉の「むすび」だけを取って来て本来の姿や教えとは全く異質な、本来の生長の家とは全く関係のない説明とその内容の幼稚さに私は呆れ果てている。

だが、その説明とは異なる八ケ岳の権現岳(6頁)のことが記入している。私が権現岳の説明をネットで調べて、このブログに記入しているのである。それと、少し離れているが信濃宮には巡礼に訪れた地でもある。

権現岳を安っぽい御札でお参りして欲しくない。この雅宣総裁はつくづく「どうにかしている」としか思えない。神様を愚弄しているとしか思えない。とんでもない総裁である。少し考えてみたらと進言する。

さて、その権現岳について2016920日のブログにおいて【八ヶ岳という「神域」と「信濃宮」】で記入している。少し長いが是非読んで頂きたい。

八ヶ岳とは関係ないが「信濃宮」という富士山から近くに在り、是非そんな場所があるということを知って頂きたい。

生長の家の神髄である「天皇信仰」を粗末にする輩には到底理解できない内容であるが、少し付加して転載します。

 

【最近は私のようにトレッキングなどを志す人が多くあり、山岳信仰である修験道の道を歩くことが多くある。昔はその修験者は滝による修行や獣道を自ら登り、急斜面の岩を登り、動物の臭いを嗅ぎ分けて、自然界における”神霊”や”山の神”を慈しみ、その霊力を身に付けるために修行をした。

 

その霊場はいまや観光化となってしまっている。

 

神仙の棲む山を「深山」といい、「そこには神様が住んでいて、この山を護って下さっているんじゃ」と昔は教えられたものです。そこに登る人は修験者であり、その霊力を身につけた人のみが許された。

 

そのために、今もなお「山の神」という石碑があるところも多くある。また「結界」という石門や石碑などで霊域と人の住む境界線を作った。その有名な処は大峰山であります。女人結界の門は未だ「女性の入山」を拒否している。

 

しかし今やそんなことを知らないで平気で山に登ったり、そこを住処として居住する人がいる。

 

「生長の家」も本部として「森の中のオフィス」として建てられた場所も「神仙」なる地域であり、その山岳修行した人のみが許された「禁足地」であった。

 

そんなことを知らずに平気で「自然はいいな」などと言っている人がいることが情けない。

 

八ヶ岳には古くからの伝説がありその一つが

八ヶ岳には、地元の人なら小学生でも知っているというくらい親しまれている神話が伝えられている。

 

 遥か昔、八ヶ岳と富士山は、どちらが高いか勝負することになった。長い筒を互いの頂上に架け、中央から水を流すと水は、富士山の方に流れていった。勝負に負けた富士山は悔しさのあまり、その筒で八ヶ岳を叩き割ってしまった。

こうして八ヶ岳は、現在のような八つに割れた姿になったのだという。

私はこの八ヶ岳には古くから修験者が修行の場としてある。

 

甲斐の国から見た八ヶ岳

 甲斐の国での権現岳開山は早かったようだ。甲州から見れば霊峰富士に対峙する権現岳である。八ケ岳の由来でよく語られる天孫降臨神話の大山祇神の娘、木花之開耶姫命を富士山、磐長姫命が八ケ岳に、というのも甲州から見た環境での話ではないだろうか。

権現岳 - Google マップ

 甲斐の武人達は鬼門の守護神として権現岳(檜峰、薬師岳)に八雷神を祀った。開山時期は不明というが山祠は檜峰神社檜峰神社 - Google マップと称する。檜峰神社の里宮はなぜか権現岳と縁を感じない御坂山塊にある。甲府盆地を隔てて対岸ではあるし、釈迦岳や神坐山神座山 - Google マップといった霊場を思わせる山々に囲まれた土地なので鬼門の恐れや穢れを遠ざけ鎮めるという信仰の形なのかもしれない。八雷神を祀ったこの檜峰神社の由来は古く三代実録に貞観10年(868年)とある。古来より諏訪信仰が厚く神官による統治に近かった諏訪に対し、豪族による武士団の形成も早く霊峰富士を擁する甲州にも役の行者以降の修験道の定着が早かったことは容易に想像がつく。

 

 また観音平に八ケ岳神社、大泉に八嶽神社、天女山付近に八ケ岳神社前宮社などがあり、諏訪側が開山で賑わった江戸時代後期の登山ブーム?では、権現岳を檜峰ではなく八嶽として登拝していたようである。八ケ岳神社前宮社は冬季でも庶民が参拝できるよう作られたというから、いわゆる修験道とは違う庶民の信仰を形成していたものと思われる。大泉の八嶽神社は諏訪神社を合祀したこともあるが八ケ岳信仰を起源とする社には珍しく、現在でも地域の産土社としてお神楽なども催され七五三などで活躍しているようである。

 

権現岳頂上からは鎌倉末期から室町初期とされる薙鎌、北宋銭が出土しているという。その頃(13001600年頃?)には権現に登拝する講も武田武士団と共に栄えていたのだろうか。薙鎌は諏訪大社の神具だから諏訪人が甲斐から登拝し奉納したとも考えられる。もっとも武田氏は諏訪信仰にも厚く御射山祭の狩猟にも参加していたというから別の思惑の結果かもしれない。出土物が奉納されたものである以上、その奉納者の思惑という事情がすべてで、奉納品の製造年がその神社の誕生を示すものでは無いと思う。

 

しかし、甲斐の国の山岳信仰の主流、富士講に関しては701年に建造された役の行者ゆかりの円楽寺が桓武天皇の( 781806)には甲斐修験道の中心になって栄えていた、ということなので古い歴史があることは間違いない。甲斐の国一の宮浅間神社は貞観七年(865)富士の噴火を鎮めるべく勅命により駿河、甲斐の両国に祀られた。一説にはこれは河口湖の浅間神社だといわれるが、前宮、里宮として、ほぼ同時に出来たとしても良いのではないだろうか。ちなみにアサマという言葉もフジ同様、漢字伝来前から火山の神を示す言葉だという。三代実録の檜峰神はこの直後に従五位下を受けている。 しかしその後の、延喜式神名帳には記載されなかった。

 

これは現在御坂にある檜峰神社が明治維新以前までは神座山薬王権現という名称であり山祠はあったが、諏訪の守屋山のように神座山自体が御神体であったものを指して檜峰神としていたからではないだろうか。調査中に神座山薬王権現の祭神は大日如来という一文を見た。境内には確かに蓮華座の如来像が廃仏希釈が香るご神体ではないであろう状態で置いてあった。名前的に考えるならば薬王菩薩か薬師如来がご神体じゃないのかな、とは思うのだけれど本来の御神体は神座山、釈迦岳そのものなのであろう。甲斐武田家は鎌倉幕府の御家人であったし、御坂の地は鎌倉街道の要地。富士川筋の身延同様、当時最先端の仏教伝来の先進普及地でもあった。神仏混沌の時代であり、式外社とされた理由として神職が僧侶であった可能性も高い。

 

神座山(現在の大栃山、釈迦が岳)は眼下に甲斐の平を一望し、背後に噴煙を上げる富士山を望む立地にあり、甲斐の国に降り立つ神の座にふさわしい。なお、三代実録の貞観時代は河口湖付近まで溶岩流が来たという富士山の噴火や播磨の大地震、津波など全国的な天変地異多発の飢饉時代で、祭事の長としての朝廷もネコの手も借りたいというような勢いで、全国に官位を配りまくっていたように見受けられる

 

清里という行楽地が出来て、八ヶ岳という地は完全に歓楽地としている、しかし上記のように権現岳などは修験者が修行の場としての区域であり、私などはそんな所に住むということは「神様を恐れぬ所業」であるといわれたものである。

 

谷口雅春先生はそんな神域を汚さないで欲しいと訴えている。

『やまと新聞』昭和47年1月10

 

神官及び宮司諸賢に訴える「神社の淨域を汚さないで下さい」

 

【キリストは「神の庭を商売(あきない)の庭と為す勿れ」といってエルサレムの神域から犠牲の動物を売る承認を縄の鞭を揮って追い出したのであった。今や日本の有名なる神社神域は“投げ銭”を受けるための「乞食の庭」となっていないであろうか。神社の神域は汚され、神仙の住み家たりし霊山連邦は観光のための歓楽境と化し、神霊の鎮まりす御在所は最早や日本には無くなりつつあるのである。これこそ日本国家にとって最大の公害ではないだろうか。(やまと新聞)】

 

 

信濃宮について

「御所平」は後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が三十有余年居住された地である。場所は山梨県と長野県の県境にあり、大河原とよばれるその地域は「信濃宮」とも呼ばれている。

御所平(宗良親王居住地) - Google マップ

この御所平の近くに信濃宮神社があります。

名称     信濃宮神社

主祭神  称信濃宮 宗良親王

由緒     宗良親王は応長元年(1311)のご生誕にてご幼少から仏門に入り天台教学を研修し、称号を妙法院宮尊澄法親王という。二十歳にして天台座主に補せられ、比叡山延暦寺に在りて御父後醍醐天皇の討幕の偉業に参画し、建武の親政を実現したが、程なく足利氏の反により南北朝の動乱となり、法親王は東国南朝方勢力の拡充の重任を帯び還俗して宗良親王と改称し、以来各地に御奔走のうえ、信濃に入られ大河原(現大鹿村大河原)を根拠地とし、香坂高宗らの誠忠に依り東西にご活躍あり、因って世上信濃宮と称す。しかれども南朝方は諸勢力利あらず日々に減衰せり。親王御詠に

 

いわでおもう谷の心のくるしきは 身を埋もれ木とすぐすなりけり

 

谷深き雪の埋木まてしばし あわではつべき春ならなくに

と痛恨の極みなり。

 

元中二年(1385)親王は大河原にて薨御せられた。村人は永く供養を続け尊敬し今日に至っている。 親王は兵馬倥愡の間にあって梨花集の御編纂、新葉和歌集の御撰進をなされた南北朝第一の歌聖である。

 

神社の造営:時に昭和十五年皇紀二千六百年を迎え、長野県は記念事業として信濃宮神社造営を企画し、鎮座地を大河原上蔵に定めた。時折しも戦時下なり。国民精神高揚のためとして、国民学校以上全学徒の献金があり、青年は土木勤労奉仕を勤め、社地の造成をしたが、昭和二十年八月終戦後は、民間の奉賛会が造営に当たり、神社の規模を縮小して本殿のみ建立し、同二十三年十一月三日鎮座奉祝祭を挙げた。

祭礼     当初は単立の神社法人組織を以て祭事を行ったが、昭和三十八年九月神社本所属となる。経費は崇敬者の寄付に寄る。

例大祭:四月二十八日・祖霊祭:春分の日

六百年祭:昭和六十年例大祭において親王薨後六百年の祭文を奏上し、記念事業として社歴を掲示する(昭和60年10月 信濃宮神社)

場所     大鹿村大河原上蔵

この大鹿村といえば中央構造線にあり、断層で有名な場所である。そういう断層に引かれてきたのか、宗良親王の長く居住された理由があるのであろう。大鹿村中央構造線博物館 (mtl-muse.com)

 

私は以前に静岡県にある井伊谷宮という地に行きましたが、そこは「宗良親王」を祀った神社があり、墓所もあります。

 

宗良親王とは

建武の新政で知られる後醍醐天皇には、たくさんの皇子がおり、彼らはそれぞれ父の有力な駒として各地で転戦をしています。とくに有名なのが護良親王ですが、その他の皇子たちも強烈な個性を放った父・後醍醐天皇のために非常に苛烈な生涯を送っています。

 

 宗良親王は応長元(1311)年に生まれました。母親は歌人である二条為世(藤原定家の子孫に当たる)の娘で、同母兄弟には尊良親王がいました。彼もまた他の皇族と同じく、幼いときに出家し、15歳で妙法院の門跡に就任しました。出家した名を尊澄法親王といいます。そして元徳2(1330)年には、兄尊雲法親王(護良親王)に続いて天台座主(延暦寺の長)となります。これは当時鎌倉幕府打倒の計画を練っていた後醍醐天皇が、延暦寺の勢力の掌握を期待してのことでした。『増鏡』にも宗良がその役割を期待されていたことを示す描写があります。ところがその翌年、父後醍醐天皇の倒幕計画が露見(元弘の変)、京都を出奔して笠置山に籠るものの陥落、脱出を試みた所で捕らえられてしまいます。この時宗良も父と行動を共にしていたらしく、幕府軍によって身柄を拘束されてしまいました。

 

 倒幕運動の主要メンバーのひとりとして活動していた宗良ですが、彼本来の性分は、母方の影響からか、文人的な面が強く、兄の護良親王などに比べて文弱なところがあったようです。

 

 倒幕計画についても、父や兄たちにひきずられた感があり、幕府に捕らえらた後の尋問の際には「しきりに剃泣」したという証言が残っています。

 

ともあれ、幕府は宗良を首謀者の一人として、讃岐へと配流しました(後醍醐天皇は隠岐、尊良親王は土佐へそれぞれ配流、護良親王は逃亡し反幕活動を継続)。その後鎌倉幕府が滅びると再び天台座主に還任しますが、後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良親王と名乗ります。

 

そして北畠親房に奉じられて伊勢へ向かい、その後遠州の井伊氏のもとへ入城します。さらに北畠顕家と呼応しようとしたものの顕家が討ち死にしたために、父後醍醐天皇の行宮があった

 

大和国吉野へ入ります。そして再び伊勢の大湊から船で出た際に天竜灘で大嵐に遭遇、散々な目にあった末に遠州へ漂着、再び井伊高顕のもとに入りました。

ちなみに、この時北畠親房、顕信(顕家の弟)とともに奥州を目指して船出した宗良の異母弟義良(のりよし)親王も遭難し、伊勢へ漂着したために、吉野へ帰って父の最期に立ち会う事となり、後村上天皇として即位する事になります。

 

さて、井伊城に入った宗良ですが、ここから彼の流転が始まります。

 

 興国元(1340)年に北朝方の仁木義長に攻められた事を契機に遠州を退去し、その翌年には越後国寺泊に姿を見せます。その間にブランクが生じるわけですが、この間の足跡については、駿河へ行き、狩野貞長の館に滞在して興良親王(護良の皇子)と対面した後、甲斐や信濃へ滞在したとも言われていますが、これの時期にも異説が有るそうで、ハッキリしたことは分からない

 

 そうです。越後滞在の後には越中名子の浦、信濃大河原と各地の鎮撫を図るべくあちこちを漂泊しています。

 

さて、正平六(1351)年、弟の足利直義と対立した尊氏は、窮余の一策として南朝と一時的に和議を結びます(正平の一統)。しかし、翌年に直義は兄に降伏した直後に没し(尊氏が毒殺した模様)、結局この南北の和睦はすぐに瓦解します。潤2月15日には上野で新田義貞の遺児の義興、義宗兄弟が挙兵し数日のうちに鎌倉を尊氏から奪います。宗良親王も信濃の諏訪氏などを従えて碓氷峠へ進軍、鎌倉を占拠しました。なおこの直前の潤27日に宗良は征夷大将軍に就任しています。

 

 しかし、これも長くは続かず、尊氏の反撃に合い、義興らが敗れたため、結局鎌倉を放棄して義興、宗良らは撤退。宗良親王は越後から信濃へと移ります。それからかなりの期間信濃にいたようで、どうやら宗良親王の拠点となっていたようです。そして文中三(1374)年、36年ぶりに吉野へ帰ります。

 

これ以前、弟後村上天皇から「吉野へ帰ってきて欲しい」という旨の歌を送られていましたが、その弟も既になく、また、北畠親房や四条隆資、洞院実世など馴染みの顔もすでにありませんでした。

 

 吉野滞在の間、宗良親王は南朝に使えた歌人たちの和歌集を編纂するほか、歌合なども行われるなど歌人としての活動が目立ちました。しかし、南朝の情勢が好転しない中再び信濃へと向かいました。

 

この時すでに60歳をゆうに過ぎています(この最中再び出家)。信濃に赴いた後も和歌集の編纂は継続され、弘和元(1381)年10月には長慶天皇(後村上の子)から勅撰和歌集として認められ、12月に天皇に奏覧されました。これが世に言う『新葉和歌集』です。

 

しかし、これが明確な宗良親王の最後の活動となりました。これ以後は彼の足跡は定かではなく、どこで亡くなったのかすら分かっていません。『南山巡狩録』『南朝紹運録』には元中2(1385)年、遠江井伊城で没したと記されていますが確証はありません。他にも河内説、信濃説、越後説など諸説ありますが、現在では「三宝院文書」より信濃大川原で亡くなったとする説が有力となっています。

 

また、元中6年の花山院長親の歌集の記述にすでに宗良が亡くなったことを記しているので、138112月~1389年の間に宗良親王は亡くなったと思われます。

 

 墓所は遠州引佐郡に残っています。

 

なんというか、まさに流転の生涯です。後醍醐天皇の皇子はみなそれぞれ波乱に満ちた生涯を送っています。

 

しかし、壮年期以降の動向を見ていると、本来の文人的な性格を持ちつつも元弘の変時に「剃泣」したような文弱さというか、女々しさを感じさせません。それだけ彼が厳しい人生を歩んできたということでしょうか。残っている和歌も、流罪となった際のものは不安さがつたわってくる感じのものですが、

 

 後に後村上天皇や、九州の弟宮・懐良親王と交した和歌も見ると、不利な中でも何とか弟たちを奮起させ、励まそうとしている心情がつたわってきます。

 

ふるさとと なりにし山は 井でぬれど 親の守りは なおもあるらむ

(後村上天皇が吉野を逃れた時に詠みかわしたもの)

 

とにかくに 道ある君が 御世ならば ことしげくとも 誰かまどわむ

(九州を転戦する懐良親王に詠んだもの)

谷口雅春先生の御著書を多くの人が纏めたことがないのが冊数がわからない要因です。

先日、このブログで「護法の天使」様に偉そうに言いましたが、実はこのブログを見て居られる人はよく御存知であると思って書いております。実はそれだけのことが云えるのは、或る程度当方で纏めているからであります。基準を決めて、これを挿入すれば全体から何冊になりますとはっきりと言えるからです。ただ残念ながら私は全冊の所持はしていません、全体的には8590%程度は「谷口雅春先生」の御著書は所持しています。所持していないものを色々なネットワ-クを通じて発見し、それを『谷口雅春先生著作年譜一覧表』というタイトルで初版と増補改訂版の二回出版して発表しています。

 

以前にも、大見得をきって謂われている人がいました「私は全冊近く所持しているんだ」と、自慢気に多くの人の前で発言されておりましたが、私の著作集をみて愕然とされたことがあります。その人は最終的には30%も所持されていなかったのであります。こんなに戦時版や廉価版などがあると思っていなかった。『生命の實相』もこれほどあるのか。

そういうことが何故おこるのかといいますと、その原因は著作集として纏めておられなかったのが要因であります。

 

戦前の『新百事如意』でもそうですが、下記のように同年代でしかも二冊は同日付があるのですから、一冊あるからもう大丈夫とおもっておられる人も多い。

 

『新百事如意』(神と偕に生くる道の改題)初版 昭和13920日ハ―ドカバ―

『新百事如意』(神と偕に生くる道の改題)普及廉価版昭和13920日ソフトカバ―

『新百事如意』(神と偕に生くる道の改題)改装版 昭和131205日ハ―ドカバ―

 

例えば、「大本」での小冊子など、所持している人は見かけたことがありません。立教当時の小冊子も結構揃って所持されている人も少ないです。「生長の家出版部」「光明思想普及會」と小冊子があるのですが、私もこの部分が不明な所が多く有り、昭和6年~8年「生長の家出版部」の時代には5冊程出版されているのですが、私は一冊しか所持していないのです。初版の『神を審判く』など関東大震災でほとんどが消失しています。私が現存するのを知っているのはたった三冊です。滿洲版でも所持されている人が少ないのが現状であります。また京都教化部発行の『聖經』も私は再版ですが、その初版を所持している人は一人しかしりません。

 

そう考えると、全冊を蔵書としてあるのだと云うことを発言する人がいるのですが、大抵はこの『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を見て愕然とされるのであります。言っていた人が恥ずかしくなり、それ以上言わなくなりました。それは「谷口雅春先生」の御著書がどれだけあるのか調べたことがないからなんです。私は『生命の實相』と戦前と戦後を『年代別』で纏めています。著作は大本時代から書いております。戦後の萬成書房の発行など、多くの人が知らない本などを記載してほぼ95%は間違いなく記載しています。実は本の冊数もわかるのですが、どのようなカウントをすればいいのかということだけなんです。改訂版を数えるかとか、同じ本でもタイトルが異なるとか、いろいろとあるのです。また、この本は谷口雅春先生が著述された本だけども、違う人の名前が記入されているとか、世界光明思想全集を谷口清超先生の記述をどうするかということも含めてちゃんと考えなければいけません。

 

それと最近二カ月で発見した谷口雅春先生の御著書が二冊あります。こんな御本があるとは知らなかった。それは二冊とも小冊子なんです。前述したように今後さらに小冊子は新たに見つかると思っています。

 

それと、私は谷口雅春先生がそうであったように、このような資料本部でもマル秘となっており、誰も見せないとかで、なかなかその資料を手に入れることが難しい。私も或る人から本部のマル秘資料を戴きました。「生長の家」も今の組織とかになるとこれを見せないで隠してしまうのです。私はマル秘にして誰にも見せないぞというのが大嫌いですから、「谷口雅春先生著作索引集」などはメ-ルを教えて戴ければ添付して送信します。『年代別』でもメ-ルにて送付させて戴きます。ただし、この『著作集』以外に所持されているのがあれば教えて欲しいというのが条件です。なければ、「ない」とおしゃって欲しい、それが条件です。

秘められた『古事記』の預言

この度、ときみつる會から下記の書物が発行されました。少し前から発行されたのは存じ上げていたのですが、電話番号が不明で見つかれば依頼しようと思っていました。ようやく先日電話して、本日自宅に届きました。

 

 早速、全体を目を通して要点を讀むと、大変読みやすく『古事記と現代の預言』の解釋を上手く纏められています。『古事記と現代の預言』を讀まれた人もまた絶版になっているので、讀んだことがないという人も是非讀んで欲しい。

 電話で宣伝しても宜しいでしょうかとお尋ねして、承認を得て爰に推奨させていただきます。下記にお問い合わせください。

 ときみつる會

 〒780-0062 高知県高知市新本町1-13-3

  電話  088-872-7133

  FAX 088-803-8662

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秘められた『古事記』の預言―谷口雅春師のご解釈を仰いで 

 宮澤壽美著 

発行所 ときみつる會

発行日 令和三年二月一日

目次

はじめに/2

第一章  日本民族の直感把握

第二章  実相宇宙の特徴は

第三章  伊邪那岐・伊邪那美二神の使命とは

第四章  現代と未来の預言

第五章  霊的文化と物質文明

第六章  コトバによる宇宙浄化

第七章  三貴神のご誕生

第八章  「受霊」にて清明心を問う

第九章  地球霊の追放と八岐大蛇

第十章  国際情勢の預言

第十一章 日本国の建国、成る

おわりに

日本のうた

どうすれば多くの人に谷口雅春先生の御本を見ていただけるのでしょうか?

私も含めて自重しなければならないことは、いくら「谷口雅春先生」の御著書を所持しているからといっても、それを何もしないで放置しているのは良くない。どうにかして、一般の人でも近くにいて見れるようにしなければならない。私はいつも思うのであるが、この時間だったら見せてあげるから来いというような高慢な考えが何処かにその人の頭のなかに潜んでいたら、それは間違いである。「社会事業団」だけではない、「学ぶ会」でもそうである。それを谷口雅春先生から預かっているという思いを持たなければならない。谷口雅春先生の御本を隠し持っていることをとても残念だと思われています。私も最終的には「国会図書館」に献本をするのだが、そうしなければ、何処かの団体で埋もれてしまう。最早谷口雅春先生の御本が世に出ることは無いとまで思っています。

 

大袈裟でもありません。実際、今日も出ていないではありませんか。復刻版もないではありませんか、教団の責任だけではない。私達一人一人の責任もあります。「聖典」と呼ばれるのは蒐集家の満足のものでしかない。ヤフオクなどで高値にて売買される。高額で当選した人がそれを紹介して発表などしたと云う話を聞いたことがない。ましてや、その眞理がその時代にどうして発表されたのかを検証した人などいない。そんな馬鹿な事があってたまりません。私もブログで書いてはいるものの、見ている人が少ない。

 

それと普通の人ならば、私の家に来いといっても、遠くて行けないと考えます。それをどうして「社会事業団」などは考えないのでしょうか?この時間に来いと書かれても、平日など行きようがない。相談にのると書いているが、行っても私は断られた。そんな薄情なことをしておいて、その言葉はおかしい。今はインタ-ネットの時代である。それをどうして利用しないのか不思議である。

 

以前に一燈園の香倉院にお邪魔させていただいたが、当日あいにく休館日であった。だが、別の係りの人が当直でおり、その係りの人は「遠くから来て頂いて、そのまま帰すのは申し訳ない」と云って、その館内や資料を見せて戴いた。

大変感激したのを憶えている。私はその謙虚さに申し訳なさに大変恐縮した。「生長の家」の人の幹部と云われる人の一部にはそういう観念がないのが残念である。

 

護法の天使さんが書いていた

谷口雅春先生の図書資料については現在国立国会図書館の収蔵数を超える保存数の専門図書館となっています。

 

私はその「谷口雅春先生」著作の国会図書館所有の所蔵数はとっくの昔に凌駕している。そんなのではない、あまりにも国会図書館の所蔵が少ないのに驚いたのである。昨年何冊かは献本した。それでも少ない。だが、私が全ての本を献本すればどうであろうかと考える。何れはまとめて、献本して国会図書館で所有となる。そのほうがはるかに人類光明化が出来る。そうであるならば地方からも見れます。遠くに行かなくても見れるのです。また今後の保存についても考えなければいけません。ちょうど国会図書館での保存法に参考にされたらいいと思いますが、ただ高額な出費が必要です。

国立国会図書館と資料保存 (ndl.go.jp)

心が痛む

NTTの澤田純氏は私の中学校の後輩にあたる。京都の桂高校に行くのだが、元々吹田市の出身である。

 当時の先生が澤田君のことを誇りに思っていた、それを穢さぬようにして欲しい。また先輩に吉野彰ノーベル科學賞の受賞者もいる。国会招致するとかなると心が痛む、悪いことしていないにせよ、疑惑をもたれるようなことを避けて欲しい。

 

 以前にも書いたが、私の中学の同級生には優秀な人材がいる。セコムの会長の中山君、直木賞作家の林みどり(高村薫)、正露丸の社長の息子、元筑波大学博士であった本澤巳代子、本澤さんは中学三年生では同じクラスであった。彼女の経歴みれば優秀な人であることがわかる。その他、同志社大学の教授等優秀な人材が多い。

 私は経歴こそ何もないが、谷口雅春先生の「真理の寶」を包容している。それを胸に仕舞いこまないで今後放出していくようにしていきたい。それも自分では立派な仕事だと思っている。

ギャラリー
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