則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

讀んで戴ければ幸甚です。

光格天皇御製

光格天皇(コトバンクより抜粋)

第一一九代天皇。閑院宮典仁親王の第六皇子。幼称祐宮、名は師仁のち兼仁。後桃園天皇崩御の際、同天皇の養子となり、安永九年即位。博学能文で知られ、作詩、管弦に長じた。また朝儀再興に力を入れ、幕府に働きかけて古制の復活に努め、在位中に石清水社・賀茂社の臨時祭を再開した。また実父典仁親王に太上天皇の尊号を宣下しようとして幕府の反対に遭い断念を余儀なくされた「尊号事件」は後の尊王思想に大きな影響を与えた。天保11(1840)崩御、69

 

獨述懐

君が代に あはずばしらじ たらちねの 道のをしへに こめし心も

 

よしやたゞ 道の恵に まかせ置て おろかなる身も 猶わけてみむ

 

社頭榊

ひくまへに 君が代いのる 袖かけて 三宝の榊 かほりきにけり

 

みづ垣や神のゆふしで ふく風に かほりもきよく なびくさかき葉

 

今回、『學生生活』を讀んでゐると、澤山の御製を掲載している。そう謂えば、最近は御製に觸れる機會も少なく、まったりと生活しているな、そう感じる。光格天皇は多くの御製を殘して居り、最近はそれを讀誦することもない。このブログにて掲載して勉強していこうと思います。

眞理は何囘でも讀む

谷口雅春先生は眞理と言うのは「何回も讀まなくてはならない」と繰り返して述べられておられます。

 若い時でもそうですが、一回讀めば理解しているのでもういいや、と自己の慾に限界を付けて、そこで閉じてしまう。私もその一人である。

 眞理と雖も二回讀むということは無かった。

「私は既に理解している」そういう増上慢があった。だが理解しているのは「その本を読んだ」ということだけで、内容について全く思い出せない。

 私は現在、微細にわたり『生命の實相』を讀んでいるが、全く新鮮で、今迄読んだことのないように新鮮である。それは過去では「読んだ」という自己満足だけが支配している胸中がそうさせているのです。

 しかし、「行」はどうかというと、全く怠っている。それでは、讀んでいないのと同じである。よく、私が発言する内容ですが、眞理はそうであっても現実はなかなかそういう訳にはいかない。とまるで悟り切ったような話をする。

 私は現在、そのような眞理と向き合うようにしている。二十歳代で讀んだ『生命の實相』と現在讀んでゐる『生命の實相』が全く異なった文章になるのが不思議である。

 二十歳代では「さっぱりわからなかった」言葉も理解出来るのである。その世代の様子が「ありありと理解」出来るのも年の功であるのか?

 本来は「現実」という私の言葉が「眞理」を阻害しているのです。「認めるものは顕れる」というのが感じられる。しかし、それではいけない。別に私は「現実逃避」する気持ちは全く持ち合わせていない。本来はそれがイコ-ルでなければならない。それを今後、行わなければいけないと思う。あまり屁理屈を付けていうことではないが、正直にそのように思える。

 

 先日來、このブログで「谷口雅春先生」の調べたい事が集まるものであるということで、『旧制市岡中学校』の資料や『變態心理』という資料など、谷口雅春先生の思想を知るが上にも大切な資料である。しかし、普段勉強していないと、そんな資料も「流れて」しまうのです。それをシッカリと握っていくのもあらゆるものに「アンテナ」を受ける準備をしておかなければならない。そこで「何か」を感じるのが「大切な」ことであると私は思っています。それは決して自分一人の作業ではなく、沢山の人々の補助があるから出来るのです。

 

 そのような人にいつも感謝をしている。私はそのような人に「恩返し」をしようといつも思っている。

 今回、『學生生活』という資料も本来「生長の家」と何等関係ないと思うのが普通であるが、私は「これは間違いなく関係する」という断言が心の中であった。それはこのような『谷口雅春先生』の歴史を深く調べて行くと、「理解」が出来るのです。

 本当に神様に感謝しなければならない。

『專賣』谷口雅春先生の寄稿

『專賣』谷口雅春先生の寄稿

昭和12年十二月號 第三百四號 62頁~73頁 「無限幸福への道」發行所 財団法人專賣協會


この雑誌は以前に「日本の古本屋」において見かけていたが、そのままで忘却していた。ある方からの御指摘で「そうだ、これを機会に購入しようと決意した」

谷口雅春先生はいろんな雑誌に御寄稿されておられます。私も知らない雑誌や新聞などにも寄稿されていると推察しています。

 今回、この雑誌を『谷口雅春先生著作年譜一覧表』に掲載していこうと思っています。
 また、全く知らない谷口雅春先生の御文章があるのではないかと思っています。そのままそれが「世の中」に知られないままに放置されてしまうと、今後「生長の家」の歴史として、封印されたままになると憂いています。

 度々、其の事をこのブログで書いておりますが、私の力が不足しているため、個人の単なる趣味にしか捉えられないのが本当に残念であります。


 本来は「生長の家」教団が行わなければならない事です。しかし教団には期待しても享楽に呆けているだけで、「唯物史観」の見本のような存在にしか、私は見えません。いくら「谷口雅春先生」のことを語ろうと、それを保存し、継承していくことを放擲しているしかみえないのが、私の視点です。

 しかし、私がこれを使命として行うのも現在の「生長の家」教団の歴史を放置しているお蔭かもしれない。


 それより、貴重な資料をもしお持ちであれば、教えて戴きたい。

宜しくお願い致します。

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光明綜合雜誌『いのち』はどうして廢刊の憂き目にあったのか

光明綜合雜誌『いのち』はどうして廢刊の憂き目にあったのか

 今回、偶然に違う人を検索をしていた、その人は打越孝明氏(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)という人物について詳しく知りたいということで、著作である『明治天皇の聖蹟を歩く』―西日本編という著書を昨年の八月頃に購入していて、『明治天皇聖蹟』を巡ることをしていきたいという願望があった。そこでその著書で打越孝明氏を探究していくと『日本主義的学生思想運動資料集成』という本の存在に到達してこの書を初めて知った。それは綜合24冊になるという重厚なる本の編纂されておられることがわかった。私の知り合いにも尋ねたりしていたが、著作が見れないかどうか図書館などを検索していた。丁度、私の家からすぐ近くにある『関西大学図書館』が所有しているので、二日間にかけて閲覧をしてきた。

 『日本主義的学生思想資料集成』というのが戦前の東大を中心とした高校生、大学生の雑誌です。雑誌名が『學生生活』『新指導者』『思想界』である。この扱う本の意図などが記載されているのが、小田村寅二郎著『昭和史に刻むわれらが道統』(日本教文社刊、1979年)です。

 この本は主に戦前における帝大(東大)の「小田村事件」関連から、それに反駁する小田村寅二郎氏、その他の学生や著名人が発刊したといっても過言ではないのです。この雑誌を出版する動機というのが『いのち』という雑誌の昭和139月號で「東大法學部に於ける講義と學生思想生活」小田村寅二郞 (頁151161)これが東大法学部を揺るがす大問題となったわけです。(その詳細についてはここでは省きます。)それが「小田村事件」といわれています。その『いのち』誌と『學生生活』との関連は昭和141月號において、「東大法學部學生處分問題に抗議す」編集部や「學生生活」中河與一とかの論文で見て頂いても御理解していただける。さて本題である『いのち』誌の廃刊であるが、それが『學生生活』三月號に「雜誌『いのち』の廢刊について」に記載がある。

 【日本主義綜合雜誌『いのち』は二月號限り廢刊さられることゝとなつた由である。その二月號は小島威彦氏の論文は「汪兆銘聲明を駁す」の一文が内務省圖書課の方針によつて削除の運命に立ち至つた。而も右小島氏の論文は内容的に何ら變改することなく、末梢的字句の修正のみで本誌前號に掲載さられたことは當局の良心的検討によること言ふ迄もないが、我等の陣営の一歩前進ではなくとも後退せざりし記念であつた。その『いのち』が右の削除をうけつゝその號限り廢刊するに至つた事は一抹の寂寥を感ぜざるをえない。のみならず小田村兄が河合教授の講義内容を發表したことのため光榮ある無期停學處分に附せられたのもこの『いのち』への執筆であつたし『いのち』は本年正月號に特に多大の紙面をさいて小田村兄のために正しき辯論をやつてくれたのである。かく重ね重ねの緣故ある『いのち』の廢刊は遺憾至極といふ外はない。(後略)】

『いのち』という雜誌の小島威彦氏の論文「汪兆銘聲明を駁す」の一文が内務省圖書課の方針によつて削除という憂き目が大きく、光明思想にも大きく変更せざるを得ない岐路にたたされるのです。IMG_3927
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いのち
昭和13年9月號の『いのち』「小田村寅二郎」の記載した「東大法學部に於ける講義と學生思想生活」が掲載されています。

明治天皇聖蹟-④明治天皇大演習御統監之地

明治天皇御行幸で奈良の橿原神宮に来られた際に「今井行在所」では場所が曲がり切れないので拡張したという話が今でも語り草になっています。

 

明治10年(1877)、明治天皇は、御父孝明天皇の十年祭を行うとともに、初代神武天皇の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)にご参拝するために関西へ行幸しました。

 

2月10日、天皇は神武天皇陵に近い今井行在所(あんざいしょ)(称念寺)に到着されました。称念寺では、天皇の御代替りなどに舞われる国栖舞(くずまい)が天覧(てんらん)に供されました。

 

翌11日は紀元節(きげんせつ)です。幕末、それまで定かでなかった神武天皇陵が現在の地に定められ、明治6年には紀元節が制定されました。『日本書紀』に記された神武天皇即位の日を建国の紀元とし、その日を太陽暦に換算して2月11日を紀元節としたのです。欧米の文物を取り入れて文明開化が進められていたこの時期、天皇は我が国の悠久の歴史に思いをいたして紀元節を制定されたものと拝されます。

 

天皇は、この紀元節に神武天皇陵にご参拝し、明治日本の安泰を念じられたのでした。 

 

  みそぎして君がまつれる畝火(傍)山

    神もうれしとうけ給ふらむ

 

行幸に供奉(ぐぶ)していた熾仁(たるひと)親王が天皇のご参拝を言祝(ことほ)いで詠んだ歌です。

 

この日の夜、地元の人々は畝傍山の山腹に提灯で「幸」の字を描き、天皇のご来訪を奉祝しました。

 

 さて、明治天皇大演習御統監之地は明治411111日(1908)に陸軍の大演習があった。明治天皇はこの地に立ち統監した。この関係で予算は奈良県が拠出しなければならなかった。IMG_3805
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大和三山と橿原神宮周辺

今日(2/11)は紀元節の佳き日。例年通りに橿原宮に行ってきた。今回は大和八木駅から耳成山(耳梨山)と香久山(香具山)と畝傍山(畝火山)と神武天皇陵、綏靖天皇陵、安寧天皇陵、懿徳天皇陵とそれと以前から気になっていた「安寧天皇社」である。安寧天皇陵の南側にコンモリとした丘のような所がある。そこが「安寧天皇神社(社)」である。よくみかけるのが「神武天皇社」というような「社」が付く神社です、例えば「清和天皇社」や「神武天皇社」というのがある。昨年初めに「孝昭天皇社」とかある。

神社という名前が付くのもあるが、珍しい。写真を撮ったので掲載していきたい。ただ、昼から用事があったので急いで廻った。走行距離が20キロ、最近はよく走っているので、爽快である。近鉄大和八木駅に810分なんとか午後12時に橿原神宮前駅に到着した。写真撮影もしているので、要所ではゆっくりした。

 

 大和八木駅に着くなり、南の方から愛国歌が流れる。最近は取締が厳しく、遠慮しながら流しているようである。此処には「金鵄像」が待ち受けている。さて、最初に耳梨山である。

勿論、正確な表現は耳成山であるが、色々な表現を古代では使用していた。耳無山でもそうである。(耳成山の南側に耳梨池がある)

中大兄皇子の長歌である、原文をそのまま記入すると

 原文: 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉

 

香具山は畝火(うねび)雄々(をを)しと 耳成(みみなし)と相(あひ)争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

 

何かこの言葉がス-と這入って来るのです。畝火(畝傍)というのが「大和三山」で一番高い山です。円錐の山で遠くから見ても「畝傍山」だと感ずる。ただ葛城山の麓からみる大和三山でもはっきりと「畝傍山」がわかる。藤原京を中心に添え、ちょうど三角形の頂点を結んだような配置となっている。

 

 この耳成山は頂上まで8分位であっという間に着く(標高139m)、途中に耳成山口神社に参拝してきた。この神社は「山口神社」としていつが、八合目位に在り、山麓ではない珍しい神社である。祭神は高皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)大山祗神(おおやまつみのかみ)である。

 それと 明治天皇大演習御統監之地 明治411111日(1908)に陸軍の大演習があった。明治天皇はこの地に立ち統監した。(明治天皇聖蹟-④)に記載。

 

 その後、南下して醍醐町という周濠の所を通り、藤原京に出た。

 

宮都を写真撮影して、東側にある古い集合住宅のような箇所に出た。この地は到る所に水郷があり規模は小さいが、住宅のあらゆる箇所に水路がある。私の仮説であるが、藤原京は水の関係で衛生面で宮都が長く続かなかったと思う。今でも藤原京は泥濘地域が多くある。

 

 その後、香久山へ向けた、香久山駅(JR)はこの字である。また観光目印にもこの字が多いが、橿原市のパンフレットは「香具山」である。

 

 原文

高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]

天皇登香具山望國之時御製歌

山常庭村山有等  取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者(A 扁左[][] は外字)

 

「国見」の歌

大和には群山あれど とりよろふ天の香具山登り立ち 国見をすれば国原は煙立ち

立つ 海原はかまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島大和の国は

 

「大和にはたくさんの山々があるが、特に頼もしい天の香具山に登り立って国見を

すると、広い平野にはかまどの煙があちこちから立ち上がっている、広い水面には

かもめが盛んに飛び立っている。本当によい国だね(あきづ島)この大和の国は」

(小学館「日本古典文学全集萬葉集」巻一より)

 

私も最初は「海原」というのがわからなかった。だが原文を讀むと理解出来た。「國原」である。「海」というのは『古事記』『日本書紀』にはよく出て来る漢字であるが、その語源と「当時」香具山からみた藤原京付近は泥濘の地であり、池があちこちにあり、それが國原のように感じたに相違ない。私も何度も尋ねているが、やはり香具山だけではない、藤原京の周辺も何度か歩いた。その高低差を脚で感じて、古代を感じながら歩いてみた。

紀元節の歌の三番に

第二章

うなばらなせるはにやすの。いけのおもよりなほ
ろき。めぐみのなみみしを。あふぐ
けふこそたのしけれ。

海原と書いているが、池の面よりと書いている。海原というのは草原のような場所をさす。

 

 また、大和の枕詞である、蜻蛉島は現在では蜻蛉など飛んでいないが、それを感じたのが現在の御所の秋津という地域である。トンボが沢山飛来している。

 

 香具山はそんなに高くない山であるが、所々で山が見える、私は畝傍山がはっきりと見えた。何か近いのに、遠く感じた。

 

 現在、香具山の南側の田んぼのような所で発掘調査している。藤原京の遺跡が出て来るんだろう。

 

 さて、畝傍山を登頂するのにル-トで迷った。道を迷うとかではない。神武天皇陵を先に参拝して、その後、綏婧天皇陵で畝傍山を一周するかどうかで迷ったが、それを止めて、二カ所の御陵参拝を先行して橿原神宮に参ることにした。参拝の人数はそれほど多くは感じなかったが、参拝した時は1040分である。それから懿徳天皇陵に参拝した。そのあと安寧天皇社とネットでは記載されているのである。とりあえず、そこから向かうことにしたが、近道で東側から登ったが、竹林で道を塞いでゐる。近くで訊ねたが、知らないということです。ほんの10mでも参拝しないのである。そこから西側に大きく周回しながら辿り着いた。細い路地には何の目印もない。手前に軍人さんの墓があるだけである。人一人の細い道は直ぐに階段、それを登ると「社」がある。昔は近くで祀っている人も多かったのであろう。

 

 その後、安寧天皇陵に参拝。そして畝火山口神社に参拝して、畝傍山に登頂であるが、少し髙い山だが15分位で登れた。あまり時間がないので、初めての下り道を利用した。急な下りの道があった。そこを下った。昔、畝傍山の北側を登ったときは、そんな道を登ったな…そんな思い出に浸りながら下った。登山口はイトク古墳のある所が登山口であった。

 

 その後、再び橿原神宮境内に入って、橿原神宮前駅まで歩いた。
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近鉄大和八木駅の金鵄像です。
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耳成山を西南側から撮影。
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耳成山登山口です。案内板が目立ちます。
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八合目にある「耳成山口神社」です。
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耳成山の頂上に到着
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耳無の池
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醍醐町周濠地である。
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藤原京から耳成山を撮影。木が邪魔。
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醍醐の住人達の供養です。

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持統天皇文武天皇藤原宮趾です。こんもりした小さな丘にそれはあります。
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藤原京
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左側にこんもりと見えるのが「畝傍山」右側に遠くの山が「二上山」です。左に岩橋山、葛城山と連なっています。
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何だろう?
以上、藤原京です。
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高殿町です。昔はこの付近も藤原京でした。床下式の住居があったことを想像させてくれます。
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香久山という表記
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林野庁は香久山、文部科学庁が香具山
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国見台とされている。天香山という表記です。
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「畝傍山」を撮影。頂上の手前です。
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香具山と表記
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香久山と表記
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香具山と香久山という表記
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香具山では三角点が見当たりません?
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東側から「香具山」を撮影。道路のすぐ後ろが遺跡発掘現場です。
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藤原京の南側です。本薬師寺があった場所です。
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本薬師寺趾です。
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人数が少ない時間でした。神武天皇御陵です。
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宮内庁書陵部です。
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神武天皇陵を横から撮影
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綏靖天皇御陵でした。
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橿原神宮でした。
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懿徳天皇陵です。
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安寧天皇神社です。
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安寧天皇陵です。
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畝火山口神社です。
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畝傍山は三角点がありました。
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出雲と大和

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「亀の子ブログ」で興味のある研究をしている。『生長の家』という題字である。いつの間にか私も慣れてしまって、そこまで気持ちが行き届かない。

 

 「そういえば、そうだな」そんな感想を持ちつつ、

このような立派な人に「生長の家」を委ねて行かなければならない。

 

昨日は「紀元節」で大和三山の登頂と橿原神宮と「神武天皇陵」「綏天皇陵」「安寧天皇陵」「懿德天皇陵」と「安寧天皇神社」という所に行ってきた。神武天皇陵までは参拝する人もあるが、それ以外は殆どいない。

 

昨年は「神武天皇聖蹟」に各地を訪問して、私は誰よりもその思いがあると確信している。

 

 本年で『日本書紀が編纂されて1300年』東京国立博物館では『出雲と大和』という展示を行っている。

 

令和2年(2020)は、我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲り神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。

 「幽」と「顕」を象徴する地、島根県と奈良県が当館と共同で展覧会を開催し、出雲と大和の名品を一堂に集めて、古代日本の成立やその特質に迫ります。

 

なるほど、そういう観点で見るのもいいのではないかと思う。「古代の人」は「神」としての幽を観じ、その祀りごとを行う顯祭が政治である。

明治天皇聖蹟-③明治天皇砲艦之所-天保山

新型コロナウィルスの影響は観光地においてはっきり現れている。先日大阪の観光地である「大阪城」と「海遊館」に行ってきたが、入館者が少ないのに驚いた。こんなに少ないのは「海遊館」に関しては初めてである。

今回の行ってきた目的は『明治天皇聖蹟』を調査するためである。海遊館の隣接する「天保山」は数年前までは「日本で一番低い山」として国土地理院地図に記載されていた。現在は宮城県仙台市宮城野区の日和山で3m、天保山4.53mです。その天保山に堂々と建立されているのが下図です。

 

明治元年に次々現れる諸外国の船など内憂外患の時代に御視察されました。

1868(明治元)年 明治天皇の大阪行幸と第1回観艦式(大阪市港区ホ-ムペ-ジより抜粋)

 

 

江戸幕府が倒れ、1868(慶応4)年、最後の将軍徳川慶喜が天保山から敗走すると、明治天皇自らが軍を率いて大阪に来られ、326日天保山台場から各藩の軍艦をご覧になり、これが日本で最初の観艦式となりました。このとき、天皇はおよそ500年ぶりに京都を離れたのでした。

 

現在、天保山にはこの時の記念碑「明治天皇観艦之所碑」が立っています。






下図は海遊館から見る大阪湾

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ジンベイザメが壁面で泳いでいます。右に人がみえます。
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中村古峡氏への反駁

「心理學者の妄論」小倉七美―靈魂の問題は心理學の領域外―中村古峡氏もって如何とする―

 

ということでブログにて掲載させていただいたのですが、實はこの掲載以前に『神靈界』にて『變態心理』にて掲載されるのではないかという雰囲気が当時の新聞などを賑わしていた。それを云えるのが『神靈界』大正八年七月十五日掲載の谷口雅春先生の御記載の「つかれたる人」(實話)での

「その頃丁度新聞が大本の惡口を盛んに書き立てゝゐました。好奇心に駈られて素見し半分は私の宅へ遣って來る人もあれば、病氣を直して貰ひたい目的でやつて來る人も出來て來ました。」

 

 この「つかれたる人」というのは「憑かれたる人」ということで揶揄しているのですが、谷口先生が大本に入信されたのが大正八年一月中旬頃だと推測できますが、「大本」教団内で中村古峡氏が来訪したのが大正七年九月です、「大本」ないでの糾弾というのがそれなりに「噂」として拡大していたのではないか。

 

 それが大正八年六月一日號『神靈界』での谷口雅春先生の「大本靈學より觀たる變態心理」ということで、神靈療法について碩学であった先生が堂々と反論しているのです。

 

 内容は当初は讀んでみていても理解出来なかったが、最近は『變態心理』など当時の状況の心理學を讀むうちに次第に理解出来るようになってきた。何れは公開してその真相を発表していきたい。当時の神靈學や憑依霊、潜在意識や顕在意識などの理論説明出来る人は雅春先生以外は見当たらない。それは公開したら御理解できると思います。

『生命の實相』大聖典は飾り物の價値しかない?

下記の投稿を“視て”どのように思うのであろうか?

通常ならば“見て”と書くのであろうが、今回は敢て、この字にしました。

 さて、その投稿というのが

 

大聖典も只の古書 トキさんが買ってあげたら (22753)

日時:20200202 () 1609

名前:どうでもいいですが

信徒の子孫にとって「大聖典」と仰々しい名のついたものでも、大した価値あるものと認められないと云うことでしょう。

 

日常読むための真理の書と云うよりも、飾って置くものとしての価値を高めるために、大層な装丁のものを売り出したと云うことでしょう。

 

雅春先生は付加価値の付け方が商売上手であったようです。

 

『生命の實相』大聖典はここで書かれているような、野暮ったいものでもないし、商売上手とかでもない。この人は“全く勉強をしたことがない”からこそ云えるのであろう。どれ程の苦労をされて作られたかを…、またどれ程の價値があったかを知ることもないだろう。

 

 以前にも書いたが「ある団体」に訪問した時の衝撃的シ-ンでしたが、誰も居ない机に無造作に開かれており、使いまわしのような状態で『生命の實相』大聖典が開かれて置かれていた。

 

 果して何をしたいのか、日頃は「谷口雅春先生」と口にする。人を結構批判している。そんな団体の本部がこんな状態でしたら、本当に情けない限りでした。

 

 しかし、よく考えれば、この人の云っていることも“合致”するところもある。殆どの人は『生命の實相』大聖典は飾り物でしかない。本当にそれでいいのかである。黑布表紙版との違いや菊装版では大聖典の縮尺版との記入があるが、果たしてそうだろうか?一言一句変更なしなのか、もし変更されているとしたら、どうして変更したのかである。また、已む無く記載されなかった「神示」です。何故、記載されなかったのかです。そんなことも検証すら出来ていない。

 

 今後、私が大きく「検証」する内容です。それは「神示」と合わせて検証することとなります。“個人”“団体”の所有されている『生命の實相』大聖典は飾り物の價値しかない。こんなことで本当にいいのであろうか?

理屈無の天皇観

生長の家における「天皇陛下」の御心ということを考えると、いつもこれで満足というのがない。先日ある勉強会に出席したときに熱心な元信徒さんがおられた、現教団には分かれて、新教連に所属されておられる。

 あることがきっかけで、「天皇陵」という話をしたことがあった。その方は一度ども、どの「御陵」も参拝したことがないと云われていた。参拝しないから「天皇の御心にかなわない」とかではない。参拝しない人でも立派に信仰されている人もいる。だからということではない。参拝している人でも現代の考古学者のような観点の違いもあるから、そこに何が秘められるであろう。私は現在の歪んだ思想の歴史観というのを、唯物的歴史観から唯心的歴史観への相異ということから学ばなければならない。私のような理屈先行では「天皇観」などまだまだ達成感など得られない。理屈無の「天皇観」である。そこには「その人」の生きた歴史観がなくてはならない。

『變態心理』についての谷口先生の反論

『神靈界』大正八年七月十五日  (第九十號)

讀者欄「心理學者の妄論」   小倉七美

―靈魂の問題は心理學の領域外―

―中村古峡氏もって如何とする―

 

小熊虎之助氏は本月號の『變態心理』の質疑應答欄で心理学の領域を明瞭に規定してゐる。即ち『世界に於ける総ての心理學者は實にこの精神とはいかなる物なるかと云ふことを、(心)學理的に詳細に説明し解明せんとして、一生をあげて努力してをるものです。そしてその研究は二千年來から始ってをるのですが、然し今だに於いてその説明は少しもその結局(論)に向って近づいて居ないのです。

然し注意すべきことは、現代の心理學は「精神」とか「靈魂」とか「心魂」といふ樣な本體や實體を研究するに留るものではなく、單に意識の現象精神の現象を現象するに留るものであります。若し「精神」といふ吾々の本體を知らんと欲せられるならば貴下は哲學書に就かれなければなりません」と。これは心理學者の本音である。同じ雑誌で靈魂とは如何なるものなるかを解決しない前から靈魂や憑依を否定して、皇道大本に難癖をつけてゐる中村古峡氏に敎へる。

 

靈魂の憑依の問題については靈魂とは如何なるものかを解決し得た人だけに論議し得るのである。蚤も蚊も實在しないのである。唯痒いと云ふ心理現象が實在するのである。と云ふやうな盲目的論議は何の権威もないではないか。なにゆゑ痒いと云ふ現象が存在するのか、何故人格転換と云ふ現象が存在するのか、何故暗示感受性に強弱があるのか。それ等を解決し得ないで徒らに神憑と云ふ事實を否定すべく「變態心理」の殆ど三分の二を提供して、愚劣なる虚構記事を作爲して、(鎭魂中の誘導暗示らしい對話は明瞭に捏造せるものである事を私は證する)紙面を埋めた恥知らずの濫書と云ふものは、古峡氏の言葉に從へば今日の精神病學で云ふ妄想性痴呆(古峡氏の際には特に心理學的色彩を帯びてゐる)患者に屡々現はれる濫書症と云ふ一種の症狀に外ならないとは云はれても仕方があるまい。

 

そして古峡氏は綾部滞在中出來るだけ大本敎を詳細に取調べた積りでありそうなが、氏の滞在日数は(自分は昨年が參陵の當時在綾したので、是等のことを證しする)僅々二日に滿たないのである。そして氏は鎭魂を受けずに逃げた人の一人で、惡靈に憑かれてゐるものは大本の審神者の前に瞑目して坐することを非常に嫌ふのであるが、氏がさうであつたかどうだか言明する限りでないが、氏が鎭魂について一二回傍観した他何等の經驗がないのは否定すべからざる事實である。古峡氏は淺野氏が催眠術を知らずして鎭魂は催眠術に非ずと云って見た所で何等権威もないと云はれるが、それなら問はう、氏自身は何らの鎭魂の内的經驗をもたずして鎭魂は催眠術の一種なりと書いたとてどれだけの権威があるのだ。

※注( )内は誤植と思われる箇所を記入しました。
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小倉七美は谷口雅春先生のペンネ-ムです。

前年度九月に綾部の大本に訪問されておられています、その時に中村古峡氏と同席されています。その件については『彗星』『神靈界』に記載されておられます。

井原西鶴の墓所

井原西鶴とは多くの日本人ならば知っていることであるが、あの『好色一代男』を著した人である。

 大阪の商家で生れ俳諧、その後「浮世草紙」で『好色一代男』を著した。生國魂神社に座像がある。それは大阪教化部からすぐ近くにあり、一度も訪れたことが無く、反対に私は恥ずかしかった。少し東には「契沖の墓」(円珠庵)もあり、この上町台地付近にはいろいろなものがあることを実感した。

 

日本大百科全書(ニッポニカ)より抜粋

1693年(元禄6810日、辞世の句「人間五十年の究(きはま)り、それさへ我にはあまりたるにましてや 浮世の月見過しにけり末二年」を残して、大阪市中央区谷町3丁目にほど近い錫屋(すずや)町の草庵(そうあん)で、52歳の生涯を終える。絶筆となった草稿を北条団水が編集し、『西鶴置土産(おきみやげ)』と題してこの年の冬追善出版するが、遊女遊びの果てに零落した男たちを描いた15章は、『好色一代男』で出発した西鶴の最期を飾るにふさわしいものとなった。「人には棒振虫同前に思はれ」(巻2)の主人公のように、どん底に落ち込んだ人間たちが、ぎりぎりのところで示すせつないまでの心情の美を描いた作品がみられ、人間的な感動を表現している。転変きわまりない人世の諸相に限りない愛着を示し続けた西鶴は、人生の真実をはっきりと見据えたのであり、ここに後世の批評に堪えうる真価がある。「仙皓(せんこう)西鶴」の4字を刻んだ墓は、大阪市中央区上本町4丁目の菩提寺(ぼだいじ)誓願寺に、遺弟北条団水と下山鶴平の両名によって建立されている。

 

また、谷町七丁目の交叉点には「近松門左衛門」の墓もある。




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https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/view.html?token=2e9f5ef3dbcd3343ac979e9bca23778b




明治天皇聖蹟-②

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旧明治天皇記念館の明治天皇泉布観行在所です。


泉布観は造幣寮(現在の造幣局)の応接所として明治4年(1871年)2月に落成しました。泉布観の「泉布」は「貨幣」、「観」は「館」を意味し、明治天皇が訪問した際に自ら命名されたものです。明治天皇自身も3回も訪れ、皇族や外国の要人を数多く迎えた。


明治天皇駐蹕之処の碑(めいじてんのうちゅうひつのところのひ)と明治天皇御上陸之所の碑があります。

淀川からこの地に入られたことがわかりますが、年代が不明です。



明治天皇聖蹟-①

明治天皇絵画と聖蹟「第6回 大阪行幸諸藩軍艦御覧」(明治神宮崇敬会より抜粋)

 

五箇條の御誓文が布告されてから一週間後、明治元年(1868)3月21日、明治天皇は大阪行幸を断行されました。2月の二条城行幸に続くもので(第4回参照)、京都外への初の行幸となりました。移動には慎重を期し、石清水八幡宮と守口の難宗寺にお泊りになりました。八幡宮ご親拝(しんぱい)は、文久3年(1863)御父の孝明天皇に続くもので、明治天皇は国の安泰を祈願されました。

 

行幸は、鳥羽・伏見の戦いで敗走した旧幕府軍を親征することが名目で、49日間に及びました。天皇は、本願寺の津村別院を行在所(あんざいしょ)と定め、3月26日に天保山(てんぽうざん)沖の海軍、4月6日には大阪城内の陸軍をご親閲になりました。

 

聖徳記念絵画館壁画「大阪行幸諸藩軍艦御覧」の絵は諸藩の軍艦による操練の様子を描いたもので、天皇は天保山に設けられた御座所で御覧になっています。海を御覧になるのは初めてのことでした。佐賀藩の電流丸の甲板では、聖護院宮嘉言親王(よしことしんのう)や藩主鍋島直大(なおひろ)が直立して御座所を望んでいます。

 

この日は、わが国初の観艦式が挙行された記念すべき日となりました。

 

聖蹟(せいせき)とは、天皇行幸(ぎょうこう※1)の足跡のことです。このページでは、全国各地に遺されている明治天皇の聖蹟についてご紹介します。

 

 明治元年(1868)2月、明治天皇は京都の二条城に行幸されました。天皇にとって初めての行幸です。その後、天皇を中心とする新しい時代の到来を国民に知らせるため、また将来の立憲君主としてのご修学を目的として、たびたび行幸や巡幸が実施されました。主なものを挙げると、明治元年の大阪行幸・東京行幸・京都還幸、2年の東京再幸、5年の九州・西国巡幸、9年の奥羽・函館巡幸、11年の北陸・東海道巡幸、13年の甲州・東山道巡幸、14年の山形・秋田・北海道巡幸、18年の山口・広島・岡山巡幸などです。

 

皆様は何処か日本の観光地で『明治天皇聖蠋』『明治天皇行在所』とか様々な石碑を見られたことがあると思いますが、意外と小さな石碑もあり、天皇陛下が立ち寄られた場所を『聖蠋』といいますが、現在はあまり関心もなく石碑もあっても何の関心も示さないのも現実だと思います。そこで全国にある『明治天皇聖蹟』を辿るということはなかなか出来ませんが、大阪府だけは最初の一歩として、歴史を刻んで行きたい。何れ地図とか掲載出来るようにしていきたい。

 聖蠋碑 
1大阪紙砂糖製造所址大阪市北区中之島5丁目リーガロイヤルホテル
2天王寺公園 
3臨時軍事病院跡大阪市中央区大阪城1
4大阪上等裁判所址大阪市西区土佐堀2丁目
5澄心亭 
6難波別院大阪市中央区久太郎町4丁目難波別院(南御堂)
7帝塚山大阪市住吉区帝塚山西2丁目
8造幣局大阪市北区天満1丁目 造幣局
9偕行社大阪市中央区大手前1丁目 追手門学院大手前中学校
10大阪城大阪市中央区大阪城1
11坐摩神社大阪市中央区久太郎町4丁目 坐摩神社
12大阪尋常師範学校址 
13元大阪府庁大阪市中央区本町橋2
14八軒屋元紀州藩邸址大阪市中央区北浜東3
15天下茶屋是斎屋大阪市西成区岸里東1丁目 天下茶屋公園
16津村別院大阪市中央区本町4丁目 本願寺津村別院(北御堂)
17住吉神社大阪市住吉区住吉2丁目 住吉大社
18砲兵工廠大阪市中央区大阪城3
19泉布観大阪市北区天満橋1丁目1泉布観
20大阪師範学校址大阪市中央区法円坂2丁目
21津守邸正印殿址大阪市住吉区墨江2丁目
22大阪裁判所址大阪市北区中之島1丁目 大阪市役所
23大阪医学校址大阪市中央区法円坂2丁目
24西井茶屋址大阪市城東区成育5丁目
25前大阪府庁大阪市西区江之子島2丁目 大阪府立江之子島文化芸術創造センター
26川口運上所址 大阪府外務局址大阪市西区川口2丁目
27製藍所朝陽館址大阪市北区堂島3丁目
28築港事務所大阪市港区海岸通1丁目
29天保山 
30大阪英語学校址大阪市中央区大手前3丁目
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明治元年(1868)3月21日、明治天皇は大阪行幸を断行されたときに立ち寄られた宿泊場所です。西井茶屋址になります。

東海道五十三次といいますが、この地は東海道五十七次です。伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿です。その守口の南であり、大阪城から鬼門の地である。関目という所にあります。
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須佐之男尊(関目神社)
関目発祥の地です。
明治天皇御駐輦之趾(めいじてんのうごちゅうれんのあと)の石碑があります。
概要 駐蹕とは蹕 (さきばらい) を駐めるという意で、天子の行幸中一時乗り物をとどめる意として使用される言葉である。



雑感余話

歴史というのは数年経つと“風化”する。最近では半年や一年で風化してしまうことがある。その為に過去での出来事や事象事項など忘れ去られてしまうことが多い。

 自分の団体などを依怙贔屓するのもやむをえない場合があるが、眞實を曲げて迄自己を正統化するのはよくある。その為に、曲ったことでも「正しい」、間違っている事でも「正しい」と教えられる。とりわけて歴史というのは、あらゆる方向から多面的に見なくては駄目だなとつくづくと思う。

 

 今回、第一次大本事件というのをある面からふれたのであるが、そこからの主張も正しい面もあるが、そうでないところもある。そうでない所というのが、悪いと思えば、徹底的に悪口方面でしか見えない。そして相手を罵る。“馬鹿”“邪教”だとか、もう少し違う方向から見れないものであろう。それが一流の精神学の権威ある人である。「憑依霊」や「帰神」や「精神療法」というのをどこが悪いか、どこが正しいのか検証がきちんと出来ていない。

 ただ、悪意でしか語れない人は論議出来ない。

 そんな人には「精神療法」での“憑依”というのは二重人格でしか見えないのか、戦前までは「イタコ」「梓巫女」「いちじょう」というような「巫女寄せ」および「口寄せ」というような独特の風習というのが各地区にあった。今では青森の方面でしかみられない。

 

 巫女(みこ)が、人々の求めに応じて神霊の尸童(よりまし)となって神意をことばで伝えること。あるいはこの行為を行う巫女のこと。生霊を寄せるのを生口(いきくち)、死霊を呼び出すものを死口(しにくち)、吉凶禍福を判断し、示すものを神口(かみくち)といい、鼓・琴・弓あるいは数珠(じゅず)などを手にして、音を鳴らしながら神霊の降霊を待つ。生口、死口、神口によって多少の変化はあるが、問口(といくち)といって、依頼者が問いかけ、それに対して口寄せさせて答えるものと、一人称で語りかけるものとがある。

 

 そうした、巫女の「口寄せ」というのを、簡単に批判してもいいのであろうか、そういうことを考えてしまうのである。ただ、最近ある宗敎でやたらと、そんなことを宗教として商売するようなものもあるが、これもまた可笑しい。事前に少し勉強して「特定人物」を語るのであろうが、なんでもかんでも行うのには滑稽である。

追補

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『變態心理』大正10年6月號

追補

『變態心理』大正十年六月號では大本教検挙に関しての内容が記載されている。今では信じられないが、当時の警察関係者が内容を記載している。名前も記入しているので間違いはない。京都府警察部警部 高柴氏である。綾部潜入の二年間という内容であるが、当時の警察というのは、怖ろしいほどのものである。信者に成り切って二年間入信していたのである。

 

 また、検挙されての出口王仁三郎の談話などもある。

『生命の實相』19146

【時の総務浅野和三郎と著名人吉田某とが起訴された。】

と記入があるが、吉田某というのが、吉田祐定という人です。

「大本教の迷信を論ず」から波及した影響

 「そのころ変態心理学者中村古峡氏が大本教を訪問して研究し、鎮魂によって出て来る憑依は、すでに憑依霊がついているかのごとき調子で問う言葉を使うからそれが暗示となって、人格の分裂を起こし、二重人格現象を起こすのであって、決して憑依霊がつくのではないという批評を雑誌『変態心理』に発表したのであった。

 最初わたしの研究でも確かに暗示に誘導されて、憑依現象を起こすと認むるべき者もあった。わたしもいろいろ心霊療法を研究したあげくだったので、十分の注意と観察とでその現象の正体を突きとめようとした。現象を観察しているうちに言葉の暗示ではない現象をわたしは発見したのだった。

 

《頭注版『生命の實相』第19巻((新編だと32巻)自傳篇135頁)》

 

 

 この雑誌を求めて昨日(1/25)は関大総合図書館に通った。『憑依霊』についての詳細は知らない。勿論、単純なことは知っていても、それを掘り下げて研究したりすることはなかった。中村古峡氏が大正七年九月に何泊かして、『變態心理』で発表することを旨に綾部に訪問して調査するために参加している。その対応したのが淺野和三郎氏であった。

そこで三箇条の質問を携えて要望してきた。

①鎮魂式に参列したきこと。

②敎祖の神懸り状態を拝見したきこと。

③所謂『お筆先』に現れたる経典を、許される限り、直筆のままにて拝見したきこと。

①は快諾

②長く滞在しているうちに機会があるだろう

③これは絶対的に拒否された

 

しかし、詳細は後に譲るとして、谷口雅春先生が「心霊現象」についてその当時の学説など随分と讀みこまれたことが『彗星』誌の主管岡田建文氏が書いている。そうであるならば、「もし」という言葉が許されるならば、中村氏が当時の「谷口雅春先生」にお会いすれば少しはかわっていたのかも知れない。そのような事を思いながら、今後心靈學などの分野でも関わっていけるようにしたい。今回は深い所までは考えないで所感だけ宣べさせていただく。

 

 その訪問して研究され推敲されて大正八年七月號『變態心理』の「大本教の迷信を論ず」に於いて発表された。だが、その内容は相手を「馬鹿」と罵り、迷信として一刀両断である。

『神憑り状態』など説明はしているが、「大本教」を低次元に見ている為、何しろ駁論である。

 

 ただ、冷静に見れば、『變態心理』記載されている文章のなかでも、疑わしいものがある。神癒とかの記載でも、大本教と変わらない内容もあったが、今回の主旨と違うのでざっと読んだだけである。

 

 大本教というのが予想以上に浅薄で且つ無稽なのに失望して帰京した。と書いているがこの『變態心理』の記載された内容が『大本教の解剖』として本に出る。

 

 出口王仁三郎氏は『神憑り』的な要素もあり、人格的には中々面白い。この『大本教の解剖』を最初に見たのが「大本資料室」であったから、反対に大本教の度量が大きいので驚いた。

 

 鎮魂帰神や憑依など今後研究として考えなければならない項目であることは間違いない。そこから「生長の家」に及ぼした影響というのは計り知れない。

 また、この『變態心理』雑誌が何回か「大本教批判」というのを繰返すが、それが「第一次大本事件」に影響を与えたことは間違いない。

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『献金取扱所』

  宗敎といふものは大きくなればなる程、段々穢くなり易いものである。私が皇道大本の土を踏んだ時には、大本教には献金取扱所と云ふものはなかったが、其頃になって何時の間にか、『献金取扱所』と書いた大看板が門前に吊下げられた。私はそんなものを吊下げて置いたならば、如何にも献金せよと參拜者の心に強ひることになり、献金しなければ極が悪くなって、心ならずも献金する人が出來て來、集って來る金が淨財のみとはならないから、そういふ看板を出すことは神業に不純なものを交へることになって、却って神業を妨礙することになると主張したが、老年の幹部達は私の説を採用しなかった。(『生命の實相』自傳篇 173頁)

神様の運動として

日時:20191229 () 1242

名前:トキ

 確か、戦前に書かれた「明窓浄机」に、谷口雅春先生が世襲について言及されていたご文章があったと記憶しておりますが、戦後の後継者問題については、いろいろな議論があったと聞いております。確か、本流復活派系統の掲示板に過去、その点についての議論が投稿されたことを記憶しております。

 

 ただ、仮に、世襲を前提としても、谷口家の中で当時すでに他に適任者がいたとの指摘があります。

 

 この点について、過去にも、詳細を知る方々に情報公開を呼びかけたことがありますが、議論が進展しておりません。生長の家の歴史の権威で知られるS氏が、谷口雅宣総裁への批判を展開しているところを見ると、いろいろな背景があるのかもしれません。

 

  私が青年会時代に次期総裁というのは「谷口雅宣」氏が総裁であるということは疑う余地もなかった。勿論、いろいろ問題があったが、それ以外に候補は聞いていない。

 その問題というのが、今回露出している。

①左翼的言動

②雅春先生の意向を継承出来ない

 

だが、総裁になれば変わるのではないかということで、考えていたのです。其の点はS氏も同様でした。やはり、今の批判的な人もそうですが、やはり「総裁」となれば言動も変るのではないかという期待があった。その期待をものの見事に裏切った人です。

 

谷口雅春先生が長く総裁として敎祖として勤められた時期は、独占的で谷口雅春先生の御発言でその活動が左右されてことも間違いありません。ただ、それが大変「意に沿う」ことであって。生長の家の発展の基礎ともなったのも確かでした。

 

しかし、それは谷口雅春先生にしか出来ないことであり、他の人が行えば「独裁」になり「オカルト」になるからです。また、谷口清超先生は「会議」やル-ルを尊び、独占的なことを行わなかったと聞いています。

 

 生長の家は調和を説く「宗教」です。それが総裁が率先して爭いを指揮していることを気が付いて欲しい。そんなこと誰も要求していない。裁判もいい加減に止めて欲しい、兄弟とも仲良くして欲しい。それも「正しい祈り」をすれば叶えられることであり、憎しみや憎悪等、神の運動に合致しないことを行っているからです。また、それを行動でしなければ何もならない。そんな勇気もないことで、神様の運動なんて出来ない。

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