則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

讀んで戴ければ幸甚です。

南朝の里、天川村

南朝の里、天川村。

毎年、この大峰山に登頂するのは修行の爲と南朝の遺構を偲ぶためです。

以前に後南朝の件でこのブログで説明させていただきました。シリ-ズで何回となく記入させていただき、私も南朝の件について年に一回以上は参らせていただいております。

最近では“みたらい渓谷”というハイキングコ-スもあり、せせらぎの音を聞きながら散策できます。

 

【御身拂(ミタライ)とも御盥(ミタライ)とも申されている天川村は、南朝・後南朝哀史の数々を秘めた邑で、村内各地に史実・伝承が残されていますが、河合寺・光遍寺・来迎院などの黒木ノ御所に潜幸遊ばされた南帝方や護良親王は賊徒襲来の砌、ここみたらい峡の頂上にある観音峯(1,347メートル)の洞窟に天川郷士がご案内して度々潜られ給うたもので、洞窟の下の岩石に御歌が刻まれています。

 

吉野山 花そ散るらん 天の川

 雲のつつみを くずす白波

 

伝承によれば長慶天皇、天川の黒木の御所をお出ましになり観音峯の洞窟に潜まれ給いしも、賊徒、観音峯に押しよせ来るを逃れ給いし折、河川の増水せる、ここ、みたらい峡の「光の滝」に御入水、御崩御ましまし「みたらいの淵」にて御遺体をお引上げ奉ったと申され、御物、御玉体は光遍寺・弁財天社・牛頭神社・伊波多神社・国玉神社等に夫々お祀り申せしと伝えられています。

 

臨くと 登りてみれは みたらいや 

 みいずの神器 ここにあるかな 】
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天川村観音峰登山口から

大峰山寺へ

 本日の新聞に掲載されていますが、昨日女人禁制である修驗者の道である大峰奥駈道の洞辻茶屋の直ぐ南側に陀羅助茶屋からは少し南側、手前には登り道と下山道が分かれています。その下山道の階段部分で滑落事故がありました。私が洞辻茶屋でトイレした後、今まで知らなかったのですが、荷物運搬用のモノレ-ルがあるのですが、そこに7人ほど消防隊員が乗車して登ってくるのです。
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洞辻茶屋、この左側の建物の中にモノレ-ルの終点があります。
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陀羅助茶屋
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ホバリングして下の様子を見ている隊員。
崖の直ぐ橫を飛行しているので、緊張は続きます。
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西ノ硯から撮影
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大峰山寺の到着
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山頂の山上ヶ岳です。
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レンゲ辻の女人結界門です。

 実は昨日の早朝430分。観音峰登山口の駐車場に二台のパトカ-がけたたましく走り去って行くのを聞いた。AM5時に観音峰登山口を出発した私は洞川温泉の旅館がある道を通り清浄大橋に向った。その清浄大橋には奈良県消防の捜索隊が結成され、ヘリコプターが上空を飛び回っていた。

そこから一ノ世茶屋⇒一本松茶屋⇒お助け水⇒洞辻茶屋と登山の登り道を利用した。最近は全く運動していなかったので、洞辻茶屋からかなり脚にきていた。9人の消防隊員は途中崖下の険しい道を二人が降りて行った。山笹が蔽い茂る道なき急勾配の山道である。その他の人は階段を上がって行く、陀羅助茶屋を通り約100mの位置。その途中で分岐の道がある。登り用と下山用である。その下山用に消防隊員は上がっていく。少し細い道があり、板の張り付けた階段がある。崖の方に鎖が据え付けてあるが、そこに消防隊員が15名程いた。既にロープを崖下に降ろしていた。今から収容の爲に準備している。

 そんな緊迫したなかで写真とか撮るわけにはいかない。私も滑落した崖下を見たが、かなり急勾配の崖である。助からないと思った。

 立ち止まるわけにはいかないのでそのまま西の硯という、修驗者の修行の場所がある。ロ-プを身体に巻き、崖を身体の半分以上、乗り出す所から写真を撮った。ヘリコプターで救出作業されている寫眞です。

 

 山上ヶ岳からレンゲ辻を通り、レンゲ辻分岐があるそこから直接の大峯大橋の道があるが、そこを通ったのが間違っていた。かなり荒れ果てていて、道もなく傾斜面である、レンゲ辻の所で早速、砂利道に足を滑らせて、尻もちをついた、何回も六甲山の「トゥエンティクロス」のように川を往復する、勿論橋などのようなものはない。大きな石を伝って歩いていく、そんな場所が12カ所ほどあった。ただ下りは厳しい。つま先が痛くて仕方がない。

 その道程は殆ど崩落した道である。しかし、そこから登って行く人が5名程いた。最後の人は山上ヶ岳や稲村ヶ岳はこの道を利用するという。

 悪戦苦闘して2時間かかって林道についた。運動していない人間にとってはかなりきつかった。やはりこの道は登りで利用すべきであるが、慣れていない人には滑落の惧れがあるので利用しないほうがいい。途中何度も滝に出遭う。滝の橫の大きな石を渡って歩くということを考えてみれば、危険な事は想像できると思う。
無題
分岐したところに下りという矢印がありますが、滑落されたのはその付近です。

 山というのは厳しい部分もあります。油断したり運動をしないのに急に大丈夫だと思って高い山に登ったりすると、本当に危ないのです。私も最近は運動もしていなかったので、かなり厳しかった。毎年この時期に来ているのですが、以前ならば大峰山系を50kmの道のりを走っていました。しかし、それは今は体力がないので出来ません。もう少し鍛えれば可能ですが、無理はしません。
昨日の走行距離は22km
また、お亡くなりになられた人は天川村の畳店を経営されている63歳の人です。ご冥福をお祈り致します。

雑感余話-①

  今回の『谷口雅春先生著作年譜一覧表』は思ったより大変である。その反面、助け舟をして頂いている人がいて、幸せである。また、指導していただいている人もいて、私は幸せ者である。

 ただ、チャレンジさせて戴くために、次から次へと「生長の家」信徒でもほとんど知らない「情報」を出していこうと考えております。今回は「則天去私」にも掲載していない情報も掲載したい。明日は本家に墓参りを行くために二日程、休むがそれまでは毎日が編纂するために没頭した。どうしたら見て頂けるかを考えております。また、「生長の家」の歴史をいろいろな史料を使って披瀝しています。


 前回の『谷口雅春先生著作年譜一覧表』(中)の朝日新聞廣告欄は一旦削除して新たに資料を200頁増補して作製しています。いままで語られなかった『大聖典』の神示の已む無く掲載しなかった神示など、「生長の家」教団として「禁書」対策として行った「聖典」への「削除済」の問題をきめ細かく掲載しています。青森の『東奥日報』の資料や『焼津港報』の『聖經甘露の法雨』の奇蹟の詳細や摂津紡績の場所等、様々な分野で増補しています。『生長の家五拾年史』を傍らに是非見て頂きたい。

 戦前の『谷口雅春著作集』『生命の實相』の書店版を掲載しています。戦後の『生命の實相』書店版は全部の網羅は出来ませんでしたが、ある程度までわかりました。

 

  また、社会的な状況からどうして宗教が弾圧されたのか、生長の家の聖典が何故「禁書」となったかを深く追求しています。読んで頂ければ納得して戴けると思っています。本来は現在の「教団」の幹部等は読んでもらわないと困るのである。生半可に知っている為に「谷口雅春先生」の生き方を知らないでいる。私のような「生長の家」教団から二十年前に去った人間が行う作業ではない。教団内に多くの資料が残っているのだから、それを使用すればもっと深い追及も出来たと思っています。それが残念でならない。それでも、見て頂ければ驚愕されると思います。

 
現況はA4サイズ上下巻 総数約700頁です。暫しお待ちください。

 

 

 

『いのち』誌より

『いのち』誌(昭和128月号)に記載されたものを抜粋させていただきました。

 

自然の寶石            谷口雅春

夏の朝露は

その一つ一つが寶石

その寶石の中に

全世界が宿ってゐる。

その澄んだ瞳から蒼空が物云ひ

生命がその神祕を囁いてゐる。

太陽がさしのぼれば

そのひとつひとつが

燦爛として亂舞する。

 

花咲く丘             谷口雅春

花さく丘に私は登って行った。

眞夏にも蝶々がゐる。

こゝは常住の花の世界だ。

蝶々がつがってゐる。

黄金蟲もすがってゐる。

おゝ、不可思議の世界だ、

燕が鰈のやうにひらりと空に翻る

雀が矢のやうに

また弾丸のやうに飛ぶ、

その飛んで行く先を見れば

お伽噺の繪にあるやうな雀の巢がある。

そこに小雀が親雀の運んでくる餌を待ってゐる。

御陵について謂(おも)う

『不二』誌の雑誌に天皇陵を巡拝したという報告書があり、このような青年がいることを嬉しくなる。私も皇陵参拝は全国巡拝しました。神代三陵も参拝させて頂きました。ただ、今回、青森相馬旧陵墓参考地や蜂子皇子などを廻ると、まだまだ巡拝していないなということを実感するのです。様々な逸話やその地方の傳稱を触れることは、まだ巡拝していないことに通じてます。蜂子皇子の八咫烏の伝説など知らなかったのもその一つです。

マダマダ、知らないことが多すぎることが私が巡拝させて戴いての感想です。

 亀の子ブログさんが日本武尊能褒野御墓(ヤマトタケルノボノ)を紹介されています。その三重県などは能褒野王塚古墳として名称を付けています。ここには出来るだけ“大和武尊”と云う名称を省きたいという願望が奥底にあるようです。

 

 私も参拝しましたが、陵域内の培塚が多く有り、それが細かく点在している。ただ、住宅地に囲まれてしまった陪冢(培塚)もあり、どうにかして欲しいという気持ちです。ほんとうにそんな事をすると陵墓の価値がなくなるのです。

ここは陪冢が「い号」~「ほ号」とあり、立て札には「飛地い号」とか書いています。それ以外に域内陪冢として「い号」~「り号」があり、「い号」陪冢の中に域内陪冢が「ぬ号」~「を号」があり少しややこしかったことを憶えています。陪冢が合計で12か所あります。

 

 現在、考古学という日本の伝統や歴史を無視するような学者が多すぎる。最近では「民放」「NHK」が“仁徳天皇”という表記をしているのが、その“仁徳”の名称が気に食わないので文句を付けている。なんという自己勝手な論であろうか、情けない。

 考古学者の偉いさんが何者であるかということです。考古学者が歴史をそんな唯物的な感覚だけで見ている。自分と意見が違うからと云って、そりゃないだろう。何か、韓国人や中国人の思想の人が多すぎる。

そんなに日本の「古事記」「日本書紀」が気に食わないならば“考古学者”など辞めてしまえと思って居ります。

旧假名を使いませう

戰前の文字を用いての譯語、難しさも觀じつつ「判」とかが私のパソコンでは打ち込みが出来なく、残念に思ってしまう。ただ、あまり使わないが、見かける平假名に「ヱ」という字があります。

あの“ヱビスビ-ル”がこの「ヱ」を使用してゐます。また40年前にはエスビー食品が「ヱスビ-食品」で使ってゐました。

 ヱは平仮名で書くとゑですが、發音は「うぇ」という發言になります。パソコンでWEとキ-ボ-ドを叩けば「ゑ」が出て来ます。

また、発音で「うぃ」となれば「ゐ」です。パソコンでは、WIとキ-ボ-ドを叩けば「ゐ」が出て来ます。

 

 さて、最近「ヱ」という言葉は意外と若者が知っています。それは「ヱヴァンゲリヲン」のアニメの影響からです。この「ヱヴァゲリヲン」を戦後の人であるならば「エバァンゲリオン」と書くのですが、「ヱ」は戦後の国語審議会で無くなってしまったコトバの一つです。これもGHQの戦後政策であったことは事實です。それが反對に若い人が使用するのもいいものです。

 

 それに關係はしていないが、ローマ字で「圓」は「YEN」です。これも實際何故「Y」が付くのがわからないと書いてゐますが、先ほど述べました「ヱビス」は「YEBISU」と記入します。だが、實際は“ワ行”です。これは「ヘボン」のロ-マ字の影響を受けています。「え、ゑ」で始まる語は「Ye」となってゐたからです。古地圖では江戸は「YEDO」と記入されてゐます。

 

 

 さて、この平假名でもう一つ苦労するのが「や行」です。“や (い) ゆ (え) よ”ですが、実際はヤ行のえは「いぇ」と発言していました。戦前ではまだこの「いぇ」という平假名は使用してゐました。「江」をもとにした字ですが、實はパソコンでは現在の私の實力では書けません。

 

 また、「変」の部首は「言」ですが、今の漢字ではその意味がわかりません。旧字体の「變」であるならば理解出來ます。「医」の部首は「はこがまえ」ですが、それがどうして「医」になったのかこれでは理解できません。「醫」や「」を書けば、その意味も理解出來ます。

 

 漢字で苦勞していますが、やはり歴史的假名遣いでないと意味がわからないのも、大変理解出來ます。

 また、それに戻すのも「ヱヴァンゲリヲン」のやうに若者に人気になるのかもしれません。

三次の朝靄

「三次の朝靄」 谷口雅春

 

蜩(ひぐらし)の 如くに河鹿 啼きてあり こころと聴え ほとほとときこゆ

 

河縁(かはぷち)の 宿に来りて 瀬音聴けば こころ浄まり 月澄みてあり

 

まんまるに 月のぼるなり 遠山は 靄(もや)にかすみて 静かなる春

 

三原より 三次(みよし)に来り 法(のり)伝ふ 河縁の宿に 河鹿鳴く聴く

 

河鹿の音 いよいよ深く 澄み切れば 静けさまさり 春更けてけり

 

河ぷちの 宿は静かに たそがれぬ かなかなのごと 河鹿きこゆも

 

満ん月は いよいよ高く 澄みきるに 瀬音しげくも 光くだけて

 

幾そたび 砕け散るとも 実相の 月ははろけく 澄み切れるかな

 

遥々と 三次に来り 法(のり)つたふ 我を迎ふと 河鹿啼くなり

 

河鹿の 三次の宿の 桜並樹(さくらなみき) 葉既に出でて 春老いにけり

 

春ふけて 遠山かすむ 河縁の 三次にをれば 此処実相なり

 

国を救ふ 今日も救への 旅の宿 行く先さきが 浄土なりけり

 

河鹿の音 愈々澄めば わがこころ いよいよ澄みて 月まろきかな

 

霧晴れて のちの朝日に 輝きて 遠山ちかく 煙たつなり

 

国いのる 講習会に 集れる 人ををろがみ 我も国いのる

 

天皇は 絶対なりと 知りしより 神州不滅 いよゝ尊し

 

昭和16年春、谷口雅春先生は広島を始めとして呉、三原、徳山、岩国と中国路を御巡錫された。

 

昭和16年春、この年の『生長の家』誌新年号には「大日本神国観」を発表されて

「(この)神想觀を、正月元日から実修して御覧なさい。度重なるにつけて、真に日本国家の荘厳極りなく聖恩限りなく有り難きことが感得せられるでありませう。」

日本的なるもの

1. 日野智貴

 20190731 10:38

 丁寧にご教示くださり、ありがとうございます。

 私も歴史学を学ぶものとして、より現地の古墳を調査したいと思います。

 箸墓を卑弥呼の墓扱いする違和感は、私も抱いています。

 『古事記』『日本書紀』をどう読んでも倭述述日百襲姫の陵墓以外の解釈はあり得ませんもんね。

 

現在、左翼的思想に凌駕されている考古學を彼のような“日本的思惟”を持つ人が早く物質的な考古學ではなく、靈學的な價値ある“古事記”“日本書紀”から發露する「考古學」を生み出して欲しい。それは言靈的解釋による「日本的なるもの」であります。

單に銅鐸という物質を視て、これは紀元何百年のものであるとか、須恵器も見て年代だけの興味をもつのではなく。

 

例えば、三角縁神獣鏡は日本だけにしか産出していないものである。それをより“日本的”なる解釈で考察していただきたい。先日、桜井市にある「谷」という地名の所に行ってきた。ここは磐余という地名で昔は呼んでいた。この磐余こそ「神日本磐余比古命」の名前の由来となった地であります。

日本書記に記された神武東征の物語には、「磐余の地の旧名は、片居または片立という。大軍集(つど)いてその地に満(いは)めり。因りて改めてその地を磐余とする」との記述があり、神武天皇の和風諡号にも神日本磐余彦天皇と「磐余」が含まれています。この地は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています。また、履中天皇の条には、「磐余池を作る」と記されています。

 

このように、その地域に行って昔の暮しや憧憬の念で思い浮かべて戴きたい。

 

期待しています。

"月曜随想”を讀みつつ感涙す。

人には夫々の“人に対して”の観点というのがあります。

「あの人は嫌だな」という思いがあれば、それが頂点としてその気持ちが癒されないでいる。それが意外と幹部の人に多いのは驚く。「谷口雅春先生はこのようにおしゃっておられる」と文面を引用して宣言されている人でありますが、引用するのは悪くない、しかも中々“素晴らしい”発言をなされている人です。しかし、同じ「生長の家」として昔は一緒に行なっていたにも拘わらず、“憎しみ”“嫉妬”“憎悪”とその人の感情は癒えないでいる。

 

 そういう私もそういう感情は持っている。どうしてもそれが癒されないでいることもある。だから人の事を云えない気持ちもある。だが、出来る限りそんな感情を棄てようとしている。雅春先生が書かれている。

剣聖中山白道の語録に曰く「剣道の極意は敵なきを以て極意となす」

そんな心境になれるのかと思ってしまうが、しかし人を審判いたりしていて、心痛を起こさないのであろうか。「天地一切のものに感謝せよ」とは、不平不満や憎悪ではない。

 

 現在は色々な感情が渦巻いているが「谷口雅春先生」だけを観て、眞理を宣布しようではないか。現在の総裁は余りにも現象世界で「悪感情」に充滿され、闇の世界に埋没しているようにみえる。それを一切擲って『生命の實相』を讀もうではないか。

 

 今、私は再度『やまと新聞』の“月曜随想”を読みながら、涙を出しながら、感謝しながら読んでいます。

心の障碍

最近は何か不信なことがあれば、深く考えるような人間がいますが、以前ならば「そんな人間もいる」というだけでありましたが、最近はそういう人間を「発達障害」という向きで考える場合がある。

 例えば、おのれの考えを公平に見ることが出来ずに、そうした思考に極度の不信感や嫌悪感でみる人であります。厳密にル-ルを守ろうとするあまりに人との接し方がわからずに孤立する人であります。また相手の反応や状況を察することが出来ないでいる人であります。

 

 最近はそんな人を自閉症スペクトラム傷害(ASD)という。そういう特徴に当てはまった人が近くにいるのかもしれません。ただ、当本人はそういう自覚がない。そういう人は周りの人の多くは気が付くのですが、本人には全く自覚がないため、難しくしているのではないか。

 

 自閉症スペクトラム障害(ASD

 

自閉症スペクトラム障害は先天的な発達障害の1つで、特徴として

①社会性と対人関係の障害

②コミュニケーションや言葉の発達の遅れ

③行動や興味の偏り

3つがあるといわれています。

 

従来、世界保健機関(WHO)の定めた国際疾病分類(ICD)やアメリカ精神医学会の精神疾患の診断・統計マニュアル(DSM)では、アスペルガー症候群などとともに広汎性発達障害というカテゴリーのもと自閉症という診断が位置づけられていました。2013年に刊行された「DSM-5」では、自閉症という障害名は廃止され、自閉スペクトラム症/自閉症スペクトラム障害の障害名のもとに統合されました。

 

 今回の京都アニメなどの青葉容疑者もそのひとりであろうと思います。小説に応募して、そこから「自分の小説がパクられた」という強い思い込みがあったとされている。その為に34人の人を殺傷する理由にはあたらない。だが、思い込みというのはこうした危険な場合もあるが、通常は穏やかな生活をしている人が大半である。

 

 以前はそんな人が「宇治別格本山」に研修にきて、そうした治癒にあたっていたことがある。近年は発達障害の認知度も高まり、病院などで受診する人も増えて来ている。

 

 相手に対する思いやりや深切など様々な行為がありますが、周囲に解け込むことにより、自分の行いなどを深く観察すればいい。一方的な押し付けや「そうでなければならない」という固定観念を呪縛してしまう人はもう少し解放すればいい。そうすることにより穏やかに生活出来るようになる。心の障碍を解き放つ爲に、ゆっくりと神想觀をするのがいい。

再度「擬陵」について

「「擬陵」という考え」にコメントがありました。

http://tecnopla1011.blog.jp/archives/79737866.html#comments

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Posted by 日野智貴

 

仰られることは判るのですが、最近、FBFで天皇陵発掘反対の理由として

 

「天皇陵を発掘すると、万世一系が間違いであることが証明される恐れがある。神話は守らないといけない。」

 

等と言っている人間がいました。そういう人間は、神話は学問的検証に耐えられない虚構であると思っているようです。

 

しかし、私は確かに天皇陵の比定には間違いもありはしますが、万世一系の証拠はこれからどんどん見つかってくると思います。

 

ところで、天皇陵に指定されていない古墳の中には、古くから仲哀天皇陵の説がある五色塚古墳、継体天皇陵であるという有力な学説の存在する今城塚古墳があります。

 

これらの古墳は公園になってしまっているわけですが、仲哀天皇陛下や継体天皇陛下への祭祀は宮内庁が別の古墳で行っているのだから、他の人が「仲哀天皇陵だ!」とか「継体天皇陵だ!」とか言っている古墳は別に公園にしても構わない、等ということでは無いはずです。

 

神社でも式内社の比定には複数の説が存在することは珍しくありませんが、その場合も双方の神社の説を尊重して参拝する、というのが当然のマナーなわけです。

 

宮内庁は、天皇陵の可能性が指摘された古墳については、もっと積極的に陵墓参考地にしないといけない、天皇陵の可能性が指摘されているのに公園にしてしまうような今の行政ではいけないと思うのですが、山ちゃん様の意見を伺いたいです。

 

コメントありがとうございます。

 

神話というのは日本の財産であり、その點は守護しなければならないと思いますが、私は畏れているのは、権威というのであります。それは例えば、仁徳天皇陵をヘリコプタ-で廻って見学しようとする輩であります。例えば、永年に亘って仁徳天皇というのは祭祀が行われています。ここは皇室祭祀の厳かな場所であります。

 

仁徳天皇陵で「正辰祭」宮内庁が初めて取材許可 1613回目の命日

 

 世界最大級の墳墓で、宮内庁が仁徳天皇陵に指定している堺市の大山古墳(5世紀中ごろ)8日、仁徳天皇の没後1613回目の命日祭「正辰祭」が行われた。

 皇室が祖先を慰霊する私的祭祀の一つ。全国の天皇陵や陵墓参考地など約600カ所でそれぞれ年に1度行われているが、国民の目に触れる機会はほとんどなかった。宮内庁は今回、共同通信に対し、メディアとして初めて取材と撮影を許可した。

 堺市などが大山古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録を目指し、同庁に陵墓の情報公開を望む声が高まる中、天皇陵での祭祀の実態を知る貴重な機会として関心を集めそうだ。

 仁徳天皇陵は3重の堀と堤に囲まれており、正辰祭は一般の人が立ち入れない最も内側の堤上にある拝所で行われた。

 午前10時、同庁書陵部古市陵墓監区事務所(大阪府羽曳野市)の職員や地元関係者ら12人が手を清めた後、堀にある橋を渡り、巨大な墳丘の前方部を臨む拝所へ。

 鳥居の前に設けられた台に供物の米、酒、海の幸のするめ、山の幸のリンゴとミカンと大根、塩、水を載せた五つの三方を職員が一つ一つ丁寧にささげ、参列者全員が拝礼。職員らは終始無言で、静寂が包む中、儀式は約20分で終了した。

 同庁によると、供物費は皇室の私的経費である内廷費から支出される。

 古代の天皇の命日は文献の没年月日を当時の太陰太陽暦から現在の太陽暦に換算。仁徳天皇は28日に当たるという。

 学界には仁徳天皇を古代中国の史書「宋書」に記された「倭の五王」の1人とみる説や、父の応神天皇と同一人物とする説があり、墳丘の年代や被葬者像をめぐって議論が続いている。

 

 上記は、スポニチ(Sponichi Annex)より転載させて頂きました。

 

年に一回の正辰祭が行われている。仁徳天皇のお亡くなりになられたのが、二月八日ということで毎年行われている。これには近くの住民達も清掃とかの協力があり、各御陵もそのようにして行われています。それを土足で踏み込むような行為は辞めて頂きたいということであります。

 

ただ、考古学者という多くの人は余りにも勝手であります。何が勝手であるかというと、例えば宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている所謂「箸墓古墳」ですが、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。築造年代は3世紀末から4世紀前期とする説もあるが、卑弥呼が死亡したとされる3世紀中期との時期にずれがあることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっている。しかし記述や其処を訪問すると、卑弥呼の墓と看板があがり、誰もが「箸墓古墳」は「卑弥呼の墓」と称して憚らない。

 

それに対して、考古学者は何ら文句を言わない。それがおかしいというのです。『魏志倭人伝』だとすると、全てを信じてしまう。『古事記』『日本書紀』に記述してあるとすると、俄かに疑義を抱くという、曲った思想であります。

 

 例えば、『陵墓参考地』ですが、それは大いに行うべきだと思いますが、高槻にある『今城塚古墳』のように荒れ果てた、古墳をみると情けなく思います。行かれたと思いますが、そういう古墳は『陵墓参考地』に治定すればいいのではないかという古墳は沢山あります。

 

 現在のように宮内庁であるならば文句は言うが、その市の教育委員会の粗末な治定にはゲンナリとしてしまう。それに文句をいう考古学者はゼロであるのも情けない

 

 また斉明天皇陵が有力地とされている牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。ここは小さい古墳ですが、私は斉明天皇陵に間違いないと思っています。ただ、確定していない部分もありますので、いろんな意見があります。この付近には古墳も多く存在しますので、是非行かれたらいいと思います。

 

 擬陵という考えですが、「長慶天皇」などはそうです。長慶天皇は傳稱地や陵墓参考地、旧陵墓参考地などその数は大変多い天皇であります。最近になってようやくその存在が知られ天皇として認められるようになったのであります。

 

長慶天皇陵(嵯峨東陵)→京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町

  

 長慶天皇陵(旧河根陵墓参考地)→和歌山県九度山町丹生川

 

 長慶天皇陵(旧相馬陵墓参考地)→青森県弘前市紙漉沢字山越174

 

  長慶天皇陵(南帝陵・御首塚)→奈良県十津川村上野地

  

  長慶天皇陵(御陵山)→富山県南砺市安居4941

 

 長慶天皇陵→富山県南砺市下梨2497

 

 長慶天皇陵→富山県砺波市庄川町隠尾

 

 長慶天皇陵→岩手県二戸市浄法寺町御山久保33-1

 

 長慶天皇陵→鳥取県鳥取市桜谷

 

 長慶天皇陵→群馬県太田市新田上田中町154

 

 長慶天皇陵→奈良県野迫川村弓手原

 

 長慶天皇陵(御陵石)→徳島県板野町大寺亀山下66

 

 長慶天皇陵→愛媛県東温市牛渕

 

私は物的な論証で出土しない場合は「擬陵」として認めたほうがいいのではないかと思っている。先日、青森県まで長慶天皇陵だとされていた「旧相馬陵墓参考地」を訪問しましたが、やはりそれを「証拠」がないからだとかで、それに「駄々を捏ねる」発言は、古来から信じてきた人達に大変失礼であります。

 

神話というのは、物証だとかだけではなく、その「精神」を大切にしたいわけであります。日本人が先祖代々信じてきたものを、その物証がないから信じないというのは、反対にオカシイのです。

 

自分の先祖は行き着く所は天皇という名前に到達するという人もいます。私の祖先も残念ながら「江戸後期」でプツッと途切れてしまいます。しかし、前回に書きましたように、江戸前期には「家系」というのが売買されてきました。ただ、多くの人はそれを信じており、例えば源氏の末裔であると信じている人はそれはそれでいいというのです。粗探しするようなものではないと思っています。

「擬陵」という考え

仁徳天皇陵について下記のような新聞が発表した。

 

 世界文化遺産に登録が決まった「百舌鳥(もず)・古市古墳群」(大阪府)について、日本考古学協会など考古学や歴史学でつくる14学協会の代表が23日、大阪市内で記者会見し、一体的な保護対策や公開、学術的な名称の併記などを要望した。

 

  構成資産のうち中核となる複数の巨大古墳は宮内庁管理の「陵墓」で、一般に公開されていない。また、それらは「仁徳天皇陵古墳」などの名前で推薦されたが、学術的に被葬者の多くは確定していない。

 

  学会側は「陵墓の多くでは宮内庁管理地と外側の民有地や史跡に分かれ、全域を統一的に保存するシステムは構築されていない。名称も、学術的に認定されたような先入観を世界に与えてしまう」と問題視。(1)構成資産の十分な保存・管理と公開を原則とした活用(2)刊行物や教育文化施設での学術的な観点に基づく名称の併記、などを求めた。(朝日新聞)

 

これは考古学という学者などは、日本の全体の縦の歴史というのを考えないのである。仁徳天皇陵というのが特定されたかわからないから駄目であると、駄々を捏ねているのである。

 例えば、自分の先祖には源氏を祖とするという家系があるといっても証拠など殆どない家系が多いのであります。私の親戚にも「菅原道真」を祖先とする家系図を所有する家があるが、成程、辿って行けばそれに突き当たる。江戸時代初期にはそうした家系を売買するようなことがありました。本人の実力よりも家督を重んじていた時代ですから、そういうこともありました。

 

 ただ、私の考えでは実際に“大きな古墳”がある。この事実と昔から先祖は「仁徳天皇」であると考えていた人が多かったということであります。否、あれは「大仙古墳」と昔から云っていたという人も書籍に書いている人もいますが、長い歴史の上で、「仁徳天皇」の御陵であると言った人が多いのが事実であります。それを証拠がないからと云って“採用”出来ないというのは「考古学」の悪い考えであります。物証のみを信じるからそうなるのです。昔からの傳稱というのは、色々な場所を巡ると大切な事が分かってきます。また「擬陵」ということを述べました。再掲させていただきます。

 

 仁徳天皇陵に関してですが、別の掲示板にて標様が書いていることもあり別の次元にて考察していきます。

 

以前にも書いていますが、現在の御陵というのは古代はほとんどがその御陵として人物が確定できないとして無理やり古墳と言う名称を使っている所が多いのです。

それは伝御陵のように明治以降に変わったものやら、様々あるのです。

例えば仁徳天皇陵は大仙という地名だったからそういう地名を古墳に付けているのです。しかし考えてみればそんな古いものがなかなかわからないのが普通です。

わからないから、伝承であってもそういうことを古代から日本人が思っていたということが大切なのです。

 

私はその点、擬陵という考えで巡拝します。そこに日本人の魂があるという考えなんです。

 

例えば、何何家というお墓で明治以前のお墓などなかなかわからないものです。余程武士の出身とかでなければ明治以前は残っていない所が多いのであります。

家系図においてもそうなんです。江戸時代でも苗字が許されない身分であると殆どが残っていない。また明治初期に勝手に苗字が変えられていたとかあります。

だから家系図もデタラメがあるのです。

 

しかし、先祖代々の墓を拝むときここに先祖様がおられると思って拝みます。そうしたものも擬陵と同じなんです。無理矢理に墓の中を暴こうとはしません。

そういう考えはシナ人です。

仁徳天皇陵として長年拝んでいるわけですから、それが違うという証拠もないわけなんですから、証拠がないから違うというのはおかしい。

無理やり暴こうとするのは、考古學で名前が欲しいだけの大学教授が多い。変な名誉のようなものが欲しいだけなんです。

そういうのに反論できないのはなんともいえない。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

先日ある方に「宇治別格本山」は無くなっているという噂を「学ぶ会」の人から聞いたという話です。私は先日ある用事で「宇治別格本山」で行きましたが、そんなことはない。職員は少なくなっているが、そんな「無くなっている」ことはない。「学ぶ会」の本部でもそんなことは言ってはいないと思う。

 

ここで、實に人間の可笑しさが出てくるのです。それは伝聞というものなんです。

しかし、可笑しいからといっても油断だけはしてはいけません。心に隙間があれば「まさか」が起り得る場合があるからです

「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉がありますが、その確率を計算した人がいます。

それが、なんと“0.8%”なんです。

 

それでは「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは多くの人は御存知であろうと思いますが、再度失礼ながら書きます。

 

1.大風で土ぼこりが立つ

2.土ぼこりが目に入って、盲人が増える

3.盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)

4.三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される

5.ネコが減ればネズミが増える

6.ネズミは桶を囓る

7.桶の需要が増え桶屋が儲かる

 51BK1MNXFQL

 

さて「伝聞」というのは實に「人間」を良くしていく場合もあるが、「駄目」にしていく場合もある。

 

トキさんが

大量の退会者が出たそうです (15308)

日時:20190721 () 2234

名前:トキ

 選挙が終わったので、書きます。

 

 教区の事務局によれば、3度目の教団の政治宣言を理由にして大量の退会者が出たそうです。おそらく、他の教区でも大量の退会者が出たことは容易に想像できます。最初、「今回のみ」と言っておきながら、何度も同じような宣言を出すので、さすがに「大嘘付き」という印象を持ち、信用できないという事になったのでしょう。

 

 そうなると、現場の幹部は、ますます本部の方針に疑問を感じるようになります。

 

 教区では、一人でも多くの新人を、という方針で伝道をしています。ところが、せっかく会員を増やしても、総裁が思いつきで好き勝手な方針を決めたら、それに反発して大量の退会者が出ます。

 

 これでは、せっせと伝道をしている現場の人間にしたら、賽の河原で小石を積み上げているような感覚になります。そのため、なんとか本部のアホな方針を信徒には隠そうと努力しているのですが、何せ、今はネットというものがありますから、信徒には知れ渡り、結果、大量の退会者を出すだけの結果になります。

 

 この先は、どうなることやら、いい加減にして欲しいと思います。

 

ただ、トキさんを擁護すれば確かにこれは事実であるが、「トキ」さんはいったい「谷口雅宣」総裁を擁護しているのか、「学ぶ会」を援護しているのか、どちらなんだと思うであろう。しかし、このような「トキ」さんの言葉を発言する人は実際のことを考えると多い。  
 

地方などでは多くはそうした発言であろう。内部では決してそんなコトバを発しないが、親しい人だけには眞實を話をするであろう、ウワベだけでは人間はわからない。あの、スリ-パ-・セルという総裁の言葉である。

 

あの言葉の意味をなすのは「総裁」は信徒の誰も信用していないという言葉の裏返しになるわけです。それ以前には「原理主義」という言葉で古参の信徒を排除した。これも内部を恐れているわけなんです。それは、おのれ自身が行った過去を見ればわかるのであるが、あまり善徳を積んでいないことは誰が見てもわかるであろう。實の母を排除するのであるから、なんという人間であろう。人を信用できないから、そんなコトバが出てくるわけです。

 

今は昔と違って、インタ-ネットを通じて、いろんな情報が飛び出す。あのアメリカ大統領のFacebook により、電撃的な北朝鮮訪問が実現出来た。だから、伝聞ではなくSNSで実際に写真を貼付したりして、よりリアルなことで発言するのもよしである。

 

伝聞というのは「誇張」したり「嘘」が入る場合がある。だから誰かに確かめたりするのがいいのである。「私は出来る」という確信もいいが、その確信というのは結構「確かめたり」「検証」することをしない。自分の思いだけで自由に発信する場合は自分のブログではよいが、掲示板などであくまで「自分の主張」が正しいと意見するのもよくない場合がある、意見する場合は根拠(左右)や「確信」が必要である。

 

 「答えを決めるのは、(中略)『法律家共同体』のコンセンサスです」。憲法解釈は、国民が選挙を通じて選んだ政治家ではなく、憲法学者が決定するというのである。

 

著名な憲法学者の長谷部恭男氏が発言した言葉である。いったいこの憲法学者は何様であろう。一定の尺度しか法律をみれない、この「憲法学者」は私の考えで断じていい。「憲法学者」ではない。物事には「様々」な考えがあり、それを排除する必要のある意見もある、だが重要な場合もある。それを見究める能力がなければ、駄目である。

 

最近の「学ぶ会」誌の或る人の意見に疑問も多い。それは違うであろうという意見である。その人は幹部の人だから、周囲の人は何も言えない環境になっているからである。現在の「雅宣」氏の環境に似ている。こんな時どうすればいいのであろうか?

 

意見を云えば「村八分」にされる。排除されるであろう。

 

私はそれこそ自分が要職だからこそ、意見を聴く姿勢というのが必要である。自分がなんでも知っているのではなく、他人の意見を聴いて間違っているかどうか、確かめることも必要である。それにより、より斬新な意見も出てくるであろう。間違っていることが本当に発見することもある。意見を云って下さる人を反対に重宝すればいい。自分の弱点を云う人に感謝することである。否、弱点ではなく「大切なこと」を知らして戴ける人である。それを自覺して進めばいいだけである。

 

何事にも「総本山」「宇治別格本山」が“無い“というようなつまらない噂に左右されることなく、人に云う前に自分で確かめる必要がある。別に行かなくても「インタ-ネット」や電話があるのだからそれによって確かめればいいだけの話である。

『生命の實相』單行本という存在

戦後昭和23年頃から30年にかけて“『生命の實相』單行本”という名称で『生命の實相』全集以外にそういう存在があったことも知らない人も多い。

谷口雅春先生は『明窓浄机』戦後篇において、(頁135136)は

○久しく待望されてゐた『生命の實相』第一巻及び、その書店單行本版『生命の神祕』が愈ゝ發行されました。(後ろから2行目)

 

私はその『生命の實相』單行本というのは、どれがどの本かを知らなかった、ただ知らなかったと謂えど、20巻の中から8巻程はわかっていたが、それ以外は全く知らない。本のはしがきに書いているのですが、書いていない場合も多くあります。私はその存在を知っていたのは『生長の家三十年史』に記載があるからです。

ただ、それが何巻かは記入されていない。また10巻しか記入されていない。それを理由にまったく不明の儘にしていた。

 だが今回『谷口雅春先生著作年譜一覧表』作成にあたり、間違って同じ一巻に二つの本を入れてしまった。ある方から指摘を戴いて、嗚呼、調べないでいた結果である。

 今日はそれに時間を割いた。それでも九巻、十二巻、十五巻~十八巻は不明です。もし御存知であれば教えて下さい。

また、その下段にある「谷口雅春選集」の本を選定するにあたり、出版年月日を記入しました。但し、『聖道へ』は戦前に出版された本を再版されています。

『生命の實相』単行本版

第一巻

生命の神秘 

 

第二巻

生命に到る道  

 

第三巻

現實の救ひ  

 

第四巻

光明の健康法    

 

第五巻

人間の運命

 

第六巻

地湧の浄土       

 

第七巻

生活の値打       

 

第八巻

運命の神秘 

 

第九巻

 

 

第十巻

神を見るまで     

 

第十一巻

『甘露の法雨』講義

 

第十二巻

 

 

第十三巻

人間を作る法

 

第十四巻

久遠生命の道 

 

第十五巻

 

 

第十六巻

 

 

第十七巻

 

 

第十八巻

 

 

第十九巻

毎日の修養  日輪めぐる

 

第二十巻

あなたの愛兒

 

 

 

 

谷口雅春選集

第一巻

神癒への道

S24.11.10

第二巻

幸福の原理

S27.11.22

第三巻

生命の謎

S26.6.10

第四巻

心と運命

S28.9.13

第五巻

健全の眞理

S274.25

第六巻

親鸞の本心

S28.9.20

第七巻

聖道へ

 

第八巻

人間性の解剖

S24.2.01

第九巻

人間死んでも死なぬ

S28.2.20

第十巻

優良兒を作る

S28.3.20

第十一巻

善き人生の創造

S28.12.12

第十二巻

人生は心で支配せよ

S24.2.01

第十三巻

美しき生活

S23.5.10

第十四巻

祈りの科學

S24.12.25

第十五巻

戀愛・結婚・母性

S27.3.20

第十六巻

愛と光との生活

S24.1.20

第十七巻

運命の原理

S21.10.01

第十八巻

靜思集

S22.12.25

第十九巻

限りなく日本を愛す

S28.11.20

第二十巻

善と福との實現

S23.12.20

第二十一巻

光明の健康法

S25.8.25

第二十二巻

生活と人間の再建

S29.4.28

第二十三巻

叡智の斷片

S24.2.01

宇治の事件と地名

京都アニメで悲惨な事件があって久しい。

 私はあの辺りをかなり詳しく散策したことがあるので地形はよくわかる、また宇治川がすぐ南にあるので、水害とかで昔から苦しめられた地域でもある。あの「太閤堰」も直ぐ近くにある。

 ちょうど菟道稚郎子御陵(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ)の横に遺跡として残っている。

 ただ、宇治川をはさんで南側にも巨大な太閤堰があったことが知らされている。

 

 京都の難しく読みづらい言葉として一口(いもあらい)という言葉がありますが、宇治川が氾濫するとこの地域の南側がすぐに巨椋池がありますが、その一帯が湿地帯となり、住めるような地域でもなかった。ただ現在の京阪宇治線付近になると標高も高くなり、街道も発達して、往時から行き来があったのではないかと推測出来る。一口はその巨椋池の西側にあり、「忌みを祓う」という語源ではないかという説は信憑性がある。湿地帯というのは毎年川が氾濫し、洪水だけではなく、疫病が流行り、そうしたことを神仏の助けを借りて、人々は信仰を篤くしていったのではないか。(”いもあらい”とパソコンのキーボ-ドで打てば「一口」と出て来ます)

 

 この六地蔵にも「小野篁」というこの世とあの世を行き来した人物が来て、六像を祀ったとされている。何故祀ったのかというと、沢山の人々が洪水とかで亡くなって、それを祀る為ではないかと思います。(小野篁に関しては六道珍皇寺や千本ゑんま寺など行かれたらその人物像に触れることが出来ます)

 

 この地域は六地蔵の大善寺や黄檗寺など有名な寺院も多いが、昔はこの地域は藤原家の菩提寺が沢山あった。

 六地蔵、木幡、黄檗と広範囲にある。現在、宮内庁の「宇治陵」の管轄には

藤原温子/藤原穏子/藤原安子/藤原遵子/藤原(女皇)子/藤原懐子/藤原詮子/藤原彰子/藤原超子/ 藤原(女成)子/藤原妍子/藤原威子/藤原嬉子/藤原寛子/藤原歓子/藤原茂子/藤原苡子/藤原生子/敦実親王/敦道親王(以上陵墓制札による)

  

 藤原冬嗣/藤原基経/藤原時平/藤原兼家/藤原道隆/藤原道長/藤原頼通/藤原師実

 

 木幡の近くには上記(8人)の藤原家の人が祀られているが、どの人がどの場所であるかがはっきりとわからない。ただ、宇治橋からすれば宇治川が北側に水が流れており、東側が山になっている。その為標高も高くなり、宇治陵も大きくなっている。道元もこの木幡で生れたとされている。(山間に生家といわれている場所があります)

 

 さて、京都には「四神相応」という言葉があるが、宇治は京都からすれば南側にあたる。

【北】玄武 背後に高い山

【東】青龍 東に清き流れ

【南】朱雀 広く開けた湿地帯

【西】白虎 大きな道が続く

 

その南側の朱雀である地域は巨椋池があり、湿地帯でもあった。
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宇治(うじ)は菟道(うぢ)が本来の語源である。「うち」とは「中(うち)」であり、宇治別格本山を行かれたらわかりますが、宇治川に北側は開けていますが、その三方は山に囲まれている、己がその中心に座しているような心境になる。

 目を閉じてみれば、まるで極楽浄土の世界觀があったのではないか。それが「宇治鳳凰堂」でないかと思っています。

 

また、橋姫伝説を御存知であろう、あの「丑の刻参り」で有名である。これには全く真逆な二説がありますが、宇治橋の守り神であるのは確かであります。

 

◆『平家物語』による橋姫 日本伝承大鑑より抜粋

ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして7日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に21日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は髪を松脂で固めて5つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその3本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。そして念願通り、人々を取り殺したという。さらに室町期に後日談が作られ、この橋姫は安倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。このあたりの伝承や創作から謡曲『鉄輪』が作られ、丑の刻参りに繋がっていったと見るべきである。

 

◆『山城国風土記 逸文』による橋姫 日本伝承大鑑より抜粋

つわりがひどい橋姫は、夫に海草を採ってきて欲しいと頼む。そして夫が海辺で笛を吹いていると、美しい龍神が現れて婿に迎えてしまう。そして3年経ってようやく橋姫は夫の所在を尋ね当てる。夫は竜宮の火で作られたものを食べることを嫌い、老女の家に食事に来るという。そこで二人は再会するが、泣く泣く別れることになる。その後、夫は橋姫の元に戻ってきた。

このときに夫が詠んだとされる歌が、詠み人知らずとして『古今和歌集』に収められている。「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」

この悲劇のヒロインの流れを汲むのが『源氏物語』第四十五帖【橋姫】に登場する大君と中の君であると推察できるだろう。

 

 

これを読んで頂きました皆様、極楽浄土と餓鬼の世界、つまり六道の地蔵菩薩の六分身をいう。生前の行為の善悪のいかんによって,人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道の境涯を輪廻,転生するといわれる。そうした世界觀がこの宇治や伏見という地域に根付いていたのではないかと推測しています。極樂の世界にあるなかで、人の心の醜い處、地獄や畜生の世界を現実に持った人。本来そんなものは「無い」とはいえど、「現象」世界では醜い世界が蔓延している所があります。

 

今回の京都アニメでは若い命が失われています。犯人は自分の「心」だけを唱え、それを勝手に正しいと解釈して犯行に及んだとされています。今回の選挙に関連しても同じことがいえます「安倍政権」を自分が気に入らないからという理由で「愛国掲示板」に書き込みをしていました。ああ、この人は世間知らずのボンボンである。少し間違えると「犯人」の世界觀と同一になってしまう。

 

一言云いたい、安倍政権ではなく「日本」を護ってくれる政党であろう。こんな人には「日本觀」が缺如している。どうしたら「日本が救われるのか」谷口雅春先生の書物を讀むと、そのあたりのことがわかるのですが、とても残念であります。そういう人は「片手落ちの日本觀」なのです。その片方が無くなってしまうと、間違った解釈になってしまうのであります。

 

大善寺とは

京都市伏見区桃山町西町にある浄土宗の寺、大善寺の通称。境内地蔵堂に等身の石地蔵立像を安置する。もとは六体あったものか。小野篁(おののたかむら)が冥土で生身の地蔵菩薩を拝し、娑婆に帰って一木で六体の地蔵尊像を刻み、ここに安置したと伝える。また、大善寺付近の地名。京都市と宇治市とにまたがる。


宇治陵は一号(遥拝所)から37号まであります。二回程巡拝しました。

https://umap.openstreetmap.fr/ja/map/map_164538#15/34.9249/135.8089

相手を拜む心

私のような個人的に「谷口雅春先生」という偉大な人物にふれ、様々な事柄を探究していくと「生命の實相」に日付や名称などの間違いがあります。ただ、それを修正するかどうかは、個人的な見解に分れるものだと思います。ただ、後世においての間違いはやはり修正すべきだと思っています。『生命の實相』はそのままにして欲しい。

 

 私が指摘した『尊師 谷口雅春先生の偉大なご生涯』の綾部新聞という記載ですが、今年の4月にその本を見た時には、修正されずにそのままで販売されていました。間違いを指摘したのが、昨年の59日でした。しかし、修正しなかったのか、忘れたのかわかりませんが、やはり考えるべき点であると思います。

ただ、私でもそうした編纂に直に関わると、言い訳ですが間違いが多く山積してしまう場合があり、それを考えてみると人を責めるようなことはしないようにしたい。

 

ただ、その編集長の心づもりというのが大変大切になってきます。それは素直な気持でいる人物かどうかであります。幸い私の場合はそういう「間違いの指摘」は大変有難いと思っている人物ですので、ドンドンと指摘して欲しい。今回も見て頂く人物も多く有り。本当に有難いなと思っています。間違いは早く修正するようにしています。

 

 その心づもりというのは意外と出来そうで出来ない。それは自我というのが強い場合に起ります。自分が正しいというのを強調しすぎて、多くの人との調和を生かせなくなる場合です。そこで大切なのは「ひょっとして私、間違っているかもしれない」という気持ちも反対に大事になります。そこからもう一度調べるのも大切なことであります。

 

そうした素直な気持が大切なんです。それと度量も必要です。それは間違った相手を責めるのではなく、拜む事です。相手を拜むことにより、本当の真我というのが見出せるのです。

常に相手を責めたり、責任追及をしていても、自分の實相(本当の心)が心に満足というものがあるかどうかであります。それにより、自己が満足出来ても、相手が不快になったり、傷つけられたりしていないのかを考える。

 

今回の『霊性の目覚め』という事について、そのように観じたのです。

『霊性の目覚め』について

私はその件についてある方から詳しく説明を受けました。

内容は前に書いた内容と詳細を付け加えた内容です。

 

 それは、私の出版した『谷口雅春先生著作年譜一覧表』の挨拶文で私の知人が書いていたことに触れ、

「この内容は違うのだ」

「実はこういうことなんだ」

『霊性の目覚め』についても説明を受けました。しかもその説明で、谷口清超先生が『聖使命』で詳しく説明していた内容もお聞きしました。

 

 まあ「本音の時代」さんは納得しないのであろう。まあそれは致し方ない。

 

 ただ、私ならば「きっちりと調べます」『聖使命』新聞があるならば、それを探します。

 また、当時の「谷口貴康先生」にお聴きします。

 

また、私の聴いた先輩を紹介しますので、礼を尽くして聞いてください。今回の「学ぶ会」誌で問題なのは風聞での内容を書いていることです。もう少し調べてから書くようにしないと、それを信じる人がいることなんです。それはW先生の話です。

夫々の事情というのがあります

私はこの件で前にその理由を軽く書きました。また下記の文は初版でも張り替えられた文章です。初めの文章内容は少し違いますが、変更した理由も谷口清超先生が『聖使命』にお書きになられています。簡単に云うと「多額な税金」が個人にかかるからです。変更した内容も考えてみれば納得出来る内容なのです。「学ぶ会」代表で元日本教文社社長がこんなことを書くのはおかしい。少しは自分自身の責任というのを感じないのであろうか。

「事情通」の書かれていることはその通りであります。校正をしっかりしないと少し曖昧さの残る文章でしたので、そのような処置は正しい。

 

聖典重版保留第1号 『霊性の目覚め』は昭和61年2月末、谷口清超先生の直接の指示 (「学ぶ誌」平成30年5月号に掲載された学ぶ会代表の記事)

学ぶ会の代表は何故、そのようになったのかを一番よく知っている人です。知れば書かないのが通常であります。

 

 

『霊性の目覚め』初版 171頁

 ここは生長の家が東京に移転して最初の、東京における拠点になった歴史的存在の土地であり、記念の建物であるから、そんな歴史的な記念の土地および家は保存しなければいけない。生長の家の永久の歴史的史跡として、保存すべきところであるという訳で、「これは本部で保存します」ということにしてあるんです。

 これは、寄付したら、私は固定資産税が要らんのですが、先生は税金逃れのために寄付した形をとったと勘ぐる人があるといかんから、僕は生きとる間は、僕が税金を払うから、それで死んだら、創始者の記念すべき住宅になるという、そういうことにしてあるんです。だから、わたしは“待たずして持っている”。(拍手)

雲巌寺 顕日王墓 後嵯峨院皇子

雲巌寺 顕日王墓 後嵯峨院皇子

八溝山地のふところ深く、清らかな渓流に沿う境地に、臨済宗妙心寺派の名刹、雲巌寺があります。

 

 筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれいるこの雲巌寺、俳聖松尾芭蕉は『啄木(きつつき)も庵(いお)は破らず夏木立』の句を残しています

 

当国雲岸寺(なぜか芭蕉は雲岸寺と記しています)の奥に仏頂和尚山居跡あり~。芭蕉がどうしても見たかったという、仏頂国師が書き残した句は『縦横の五尺にたらぬ草の庵、むすぶもくやし雨なかりせば』。いかに小さな庵であったかが、想像できます。

 

 以前に鎌倉の建長寺で顕日王として分骨された陵墓を紹介させていただきましたが、今回は最後の庵となった雲巌寺です。墓までは通行禁止となっている為、参拝は出来ませんでしたが、風光明媚な場所でも知られている。

 

後嵯峨院の皇子という。母は不詳。字は高峰、諱は顕日。

 康元元年(1256)、出家。東福寺の円爾弁円(聖一国師)と来朝僧兀庵普寧(ごったんふねい)に学んだ後、関東を行脚し、下野国那須に庵を結ぶ。弘安二年(1279)、上野国長楽寺で無学祖元に謁し、以後弟子となる。同四年、鎌倉建長寺において無学より伝法衣を授かる。弘安六年(1283)、北条時宗を大檀越とし、那須黒羽に雲巌寺を開山。同寺には仏国を慕って多くの僧が集まり、その中には夢窓疎石もいた。晩年は鎌倉浄妙寺・建長寺他の住持を務めるなどしたが、正和四年(1315)那須に帰り、翌年十月二十日、雲巌寺にて遷化。七十六歳。仏国国師と諡号され、のち応供広済国師と追諡された。墓は雲巌寺境内にある。

 『仏国禅師集』(「仏国国師御詠」など、標題は様々)がある。風雅集に二首、新続古今集に一首。冷泉為相との交際が風雅集所載歌から知られる。

 

月ならば惜しまれてまし山の端にかたぶきかかる老いのわが身を

 

夜もすがら心のゆくへたづぬれば昨日の空にとぶ鳥の跡

 

しげりあふ峰の椎しば吹きわけて風の入れたる窓の月影
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顕日王の墓の前
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https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/view.html?token=d249e3ed18f03bd99cac0a0c87d71667

闇の宗教

「生長の家」失われた35

生長の家は「生政連」を脱退してから、おかしくなっている。私は「生政連」を脱退するのを別に反対しているのではなく、そのやりかたが余りにも、急拵えの産物であるかを知っている。何の生政連の地方幹部も知らないまま一方的に通達のみで報告した。

 

谷口清超先生の生政連の活動停止宣言(昭和58715日)

<<このような状況に於いては、吾々の運動は立教本来の布教使命の自覚と人類光明化運動の根本的な基盤確立が欠くべからざるものとの観点から、出来るだけ多くの国民の中に『人間神の子』と実相日本の霊的使命を伝道し、全世界の組織網を確立する事が急務と考え、生政連活動は停止されたのであって、決して後退したのではない。

 

 それは新たなる前進である。今後は、人間神の子の真理・真理国家日本の理念を自覚した国民をもっともっと多数生み出すことにより、そうした国民の正信がおのずからに、政治家は勿論、凡ゆる階層の人々に反映され、生活・教育・家庭・事業、政治の変革が実現するような状況をつくり出して行こう、とするのである。

 

 それはこれまで以上に幅広く、根の深い雄渾な活動への重大な第一歩と云えるであろう。こうした目的を達するためには、生長の家の各組織を拡大・充実させつつ、飛躍的な教勢拡大を図るほか、安易な道はどこにもあり得ない。そしてそれこそが、人類光明化運動の原点でもあるのだ。吾ら信徒一同、この原点に立ち、菩薩行に邁進したいと決意を新たにする次第である。>>

 

 実際はどうであろうか、教勢は1/4も減退し、更にこれからも減少の一途を辿ることは、誰がみても明らかである。ここでいう『真理国家日本の理念』とは如何なるものであるのか?

 それを現総裁は継承しているのであろうか?勿論、真逆なことを行っている。谷口雅春先生の御意志など全く無視をして、自己勝手流の唯物論的な宗教に成り下がっている。

 それを崇める信徒も居るのだから、笑い種である。これこそ「カルト宗教」そのものではないか。やることなすことが全てマイナス要素となっているのが現状であろう。情けなくなるような現実であることは、信徒も大半が知っていることであろう。

 

 また、今般の選挙では「野党を応援しない」という通達を三度出している。どこまで「谷口雅春先生」を裏切る行為が出来るのであろうか、将来「生長の家」を悪魔に売った人物として言われるだろう。まあ、この人に云っても無駄な事は承知である。普通はいろんな意見を聴くものであるが、ドグマに犯され、立憲主義も出来ない、野暮な人である。また、嘘を付くことにより、悪循環になっているのであろう。本当の宗教家は「ウソ」はつかない。

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