則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

讀んで戴ければ幸甚です。

コメントについての回答の間違いとお詫び

  I 樣へ

今回、「久遠天上理想國實現の神示」が「大生長の家に就いての神示」の件について、間違って囘答してしまったことをお詫び申し上げます。すみません。

 

 その詳細については「亀の子ブログ」さんがご記入いただております。申し訳ございません。

 

「大生長の家に就いての神示」が元々の名稱で戰後になってその部分を已む無く削除しています。どういう経過でそういうことになったのかも併せて、早急に發表させていただきます。

 

 「亀の子ブログ」さんから回答していただき、また御指摘いただき深く感謝申し上げます。

 

 現在、『生命の實相』・『久遠の實在』・黑布表紙版『生命の實相』の比較檢討の作業を四日前から行っております。黑布表紙版について、当時の内務省警保局からの檢閲など、その内容について變遷している部分があります。それについては何頁かにわけてどうして、それが生じたのかを説明させていただきます。また、戰前と戰後の『生命の實相』比較を詳細に檢討していこうと思っています。

 

 何故、「大生長の家に就いての神示」から「久遠天上理想國實現の神示」と名稱が變更となったのかも、これはあくまで推測ですが探究していこうと思っています。
 

 「神示」についても、今後は少し詳しく書いていくようにしていきたい。

 

 今回の「大生長の家に就いての神示」の講義も『久遠の實在』宗敎篇から黑布表紙版『生命の實相』第六巻 萬敎歸一篇の移行とその初版については變更されていませんが、同じ初版でも黑布表紙版『生命の實相』第六巻 萬敎歸一篇の講義がごっそりと削除されております。そうした経緯も順次説明していこうと考えております。※初版でも日數のみの變更で内容が異なる巻があります。

 

 日數がかかることですので、暫くお待ち願いたい。今月中には對處させていただきます。

雑感余話-⑧

とかく人間というのは「権力」を持っている人ほど、「国民の爲」とか「市民の爲」とか嘯く。しかし、そんな人間ほど内心は弱い人間で「偏狭な精神構造」である。しかし、そんな人間だからこそ権力を糧に「好き放題」にする。しかも、そんなことしていても「自分は弱い人間」だとか、民主主義で組織を纏めなければならないとか云っている。

 

まさしく現教団の谷口雅宣総裁はそのような人間である。立憲主義とか云っているが、自分の嫌いな人物は容赦なく「左遷」や「更迭」である。そのひとの理由を問わず、反対意見だと思う人や気に入らない人は徹底的に強権を発動する。これは「立憲主義」と反していることは誰もが疑わない事実である。しかし、自民党の安倍政権が気に入らないから、信徒をそちらの方に「心を振向ける」ようにしているのだが、ちょうど、中国や北朝鮮や韓国の首謀者と似ている。自分の方に批判を背けるための政策であろうが、最早、そんなことで信徒は騙されないだろう。

 

兄弟や親の云う事も聞かないだろうが、なんとかこの“おぼちゃま”を叱る人はいないのであろうか。
   谷口雅春先生の意に背き、即刻辞めなければならない背教のひとは総裁自身ではないか。

『久遠天上理想國実現の神示』について

【合掌ありがとうございます。いつも拝見させていただいておりまして、ありがとうございます。ご教示いただきたい事があります。

神示で、『久遠天上理想國実現の神示』がありますが、これは昭和36年に改称でその前は、『大生長の家(たかあまはら)についての神示』であったと何かで見た事があります。その裏付けの為八方手を尽くしたのですが、不明です。ただ

『生長の家三十年史』395頁の年表に、昭和7年8月1日『生長の家についての神示』発表(生長の家誌第三十号)とありますが、この事なのでしょうか。私達は

今神示を3年余かけて全神示を勉強して来た者ですが、一番重要な神示の前で、立ち往生してしまいました。何か手がかりのようなものをご教示いただければ、大変ありがたいのですが・・・ご多用中大変申しわけございません。(社会事業団にと思ったのですが、つてがなくて)どうぞよろしくお願い申しあげます。

生長の家の真の使命が顕現されますよう、いつも祈っているものです。

ありがとうございます。】

 

 それでは、順序だてて説明させていただきます。

「久遠天上理想國実現の神示」についてですが、「大生長の家(たかあまはら)についての神示」ではなかったかということですが、名称そのものが変ったのは「自他一體の神示(報恩行に就いての神示)」だけであると思います。

 

 『生長の家五拾年史』26519行目から

《久遠天上の『生長の家(たかあまはら)』が地上に顕現して全世界が『生長の家(せいちょうのいへ)』にならねば永遠理想世界は地上に来ぬ。久遠天上とは地に対する天ではない、實相世界のことである。

 イエス・キリストも『み心の天に成るが如く地にも成らせ給へ』と祈ったが、実相世界では既にひとつの極身に統一せられて、常楽の浄土となってゐるのである。地上にも実相世界が形を顕して天国が地上に天降ってくる時期が近づいたが、今の世界は下照姫に心を迷はせてゐて下照姫の言ひなり通りになってゐるから、その迷ひの自壊作用として、地上全体が『生長の家(たかあまはら)』になるまでにまだまだ色々な難問題が起って来る。皇典にある下照姫と云ふのは地鉱の下で光ってゐる金のことである。全世界が一つの『生長の家(せいちょうのいへ)』となり、実相の世界の『生長の家(せいちょうのいへ)』が地上に顕って来る時には是非とも此の世界も一つの中心に統一せられねばならぬ』

 

 まことに「生長の家」の奥義が記載されている神示であるのです。その構想はさらに具体的な神示により明瞭となってきます。

 

 さて、『秘められたる神示』14812行目から記載されている箇所を読んで頂ければ「久遠天上理想國実現の神示」が元々の名称であることは記載されている通りであります。

 

  昭和三十六年の改称とご記載されておられますので、それ以降の『神示集』及び『聖光』を見てみたいと思います。

 

  私が所持している最新版は『新講 聖光録 生長の家信徒必携』平成五年一月五日二十九版発行です。そこには「久遠天上理想國実現の神示」は記載されています。

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『生長の家』誌第三十號ですが私自身は所持していませんが、『秘められたる神示』148頁に記載されている内容と同様です。

 

因みに『生長の家の神示』戦前は下記の通りです。

生長の家の食事の神示                  昭和五年十一月四日

完成(ななつ)の燈臺の神示    昭和六年一月十五日

萬敎歸一の神示            昭和六年四月五日

新天新地の神示            昭和六年五月六日

“心の法則”と“平和への道”の神示  昭和六年五月三十日

歸幽の神示                 昭和六年六月二十六日

生死の教(をしへ)              昭和六年九月五日

大調和の神示              昭和六年九月二十七日

“最後の審判”に就いての神示        昭和六年九月二十八日

信仰生活の神示            昭和六年十二月五日

聲字實相の神示           昭和七年一月十一日

自他一體の神示(報恩行に就いての神示)昭和七年二月四日

上求菩提・下化衆生の神示    昭和七年二月九日

「いのちのゆには」の神示         昭和七年三月十四日

使命邁進の神示            昭和七年三月十五日

無相圓相一切相の神示            昭和七年四月十日

無限供給の神示            昭和七年五月五日

久遠天上理想國實現の神示         昭和七年五月二十七日

万敎包容の神示            昭和七年七月七日

懺悔の神示                 昭和七年八月十二日

實相金剛身の神示           昭和七年九月二日

無病常樂の神示            昭和七年十一月十日

本來生、不滅の神示         昭和七年十一月二十五日

梅の花の神示               昭和八年一月六日

自然流通の神示            昭和八年一月二十五日

至上者の自覺の神示         昭和八年三月十六日

本当の信仰に就いての神示    昭和八年八月五日

靈魂進化の神示            昭和八年九月十五日

兒童敎育に關する神示       (日付不明)

 

「生長の家の神示」を勉強されるということは本当に大切なことです。昨日その神示について、偶然にも或る方と話しておりました。生長の家の立教後の神戸に在住のときの運動の指針というのが「生長の家」の基礎となるべきものです。その時の「神示」を運動の流れとして実行されようとされた「谷口雅春先生」の言動は“生長の家”の基礎となるべき大切なことであります。

先輩、おめでとうございます。

同級生の友達からラインを頂いた。それは、今回のノーベル科学賞受賞者が私達の小学校と中学校の先輩だということです。吉野彰氏という立派な人です。

 私の同郷の人であり、小学校と中学校が同じ卒業生であり、その後は北野高校と京大ですから、頭も良かったのは確かです。連絡のあった友達も同じように北野と京大と歩んでいたので喜びは半端ではない。

私達には計り知れない努力と気力が有ればこそ成し得た賞であることを教えて戴いた。

しかも、私の家のすぐ近くに住まいされています。家は存じ上げないが、直ぐ近くであることは下記の言葉でわかります。

先輩に凄い人がいてるんだという、誇りとそして先輩にあらためて敬意を表します。おめでとうございます。私の家からも直ぐ近くに関西大学があります。

 

 「私は大阪生まれだし、ちょうど大阪の千里山の関西大学が家のすぐ近くにあり、(野球部で)村山実(元阪神タイガース投手、監督)がちょうど私の子供の頃に投げていた。キャッチャーが上田(利治・元阪急ブレーブス監督)だったかな。そういうこともあってね」

座右の銘は「実るほど頭が下がる稲穂かな」

 

   さて、話は私事ですが現在進行中の『谷口雅春先生著作年譜一覧表』作成でもそうですが、コツコツと地道に行う作業です。これが終わったから終了という作業ではないことを痛感致します。それは新たな発見があるからです。勿論、それは自分が知らなかったことだけです。諦めたらそこで終わってしまうのです。それをそこで気持ちを切らさない。そうでないと終了としないと思うことが大切なことです。もう自分は知っているので、知る必要がないとかでは発展はない。

吉野教授の『何とかなる』という気持ちと、『この研究成果が世の中の為になる』という精神が大切なことだと思います。

「葭原」墓地の大阪七墓

大阪には『その昔、大阪の町の周辺に『大坂七墓』という古いお墓がありました。大坂七墓とは「濱」、「梅田」、「葭原」、「千日」、「蒲生」、「鳶田」、「小橋」の7つといわれています。大阪七墓

 

その内のなかに「原」というのは名前とその周辺までは知っていた、場所は天六の駅の近くということまでです。今回はそれが目的ではなかったが、偶然に通りがかりに発見した。IMG_3152IMG_3151
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  名前は「葭原(よしはら)」福島区に蘆分という地名があるが、昔は海沿いにあり、蘆が多く産出していた地域であったという。そういえば「濱」という地名もそうである。以前にも書いたが

【豊崎1丁目2番地にある南浜墓地は昔、濱の墓と呼ばれていました。】

もちろん奈良時代ではここが大阪湾の入口であったことが名称でわかります。同じように「葭原」もそうです。そこに「沖向地蔵」というのがあったという。それが上記の寫眞である。

 

 その『大阪七墓』を江戸時代の貞享、元禄の昔から明治初期に至るまで、盂蘭盆(うらぼん)になると、七墓巡りと称して、7ケ所のお墓を参る習慣があったそうです。

由緒書には

【由緒書き 『沖向地蔵尊由来』

 

西暦645年大化の改新が行われ、都が難波長柄豊崎に移され、色々の改革が着々と進んでいた頃、行基菩薩 (668-749)は大阪の南から北にかけて七カ所の墓地を作り、大阪七墓と称された。そのうちの1つが天満葭原のこの地の墓地であった。こののち法然(1133-1212)によって開かれた浄土宗ではこの墓地を守るため西の坊というお寺を建立した。その当時この付近は大阪湾の海岸線に近く、葭(葦)の生い茂る地帯で、この通りも昭和の末期(1980-1990)までは葭原(吉原)通りと呼ばれていた。このお寺にこの地蔵尊 阿弥陀如来、勢至菩薩が併祀された。その後海岸線は土砂も堆積し、近代は盛んに埋め立てもされ、建物も多く建って、現在ではとても海は見えないが、当時はお地蔵様の正面、西の方に海を見渡すことが出来たので、沖向地蔵尊と呼ばれるようになった由である。

 大正10(1921) 大阪市がこの地に北市民館を建設するに当たり、この墓地は 現在の長柄墓地に移転されこの地蔵尊の堂宇のみ残された。10世紀に亘る度々の淀川の氾濫、最近では明治18(1885)の大洪水にも耐え、さらに昭和20(1945)3月の大阪大空襲にも付近一帯焼夷弾による大被害を蒙ったにもかかわらずこの堂宇は焼失を免れ、霊験あらたかなお地蔵さんと地域の人々に信仰され親しまれている。

ただ 堂宇は年代を経て老朽化が著しいため平成15(2003)隣接の太田診療所の新築と同時に建て替えられ現在のお姿となっている。

 

天六東通り商店会会長 川島長利 撰文】

現在の住まいの情報センタ-の建物が墓地であったことを考えると複雑な思いとなる。

また、都島通りの道の向こう側の国分寺には、大阪万国博が開催されている時に「天六ガス爆破事故」があった所でもある。79名の犠牲者をだした。複雑な思いで拝ませて戴いた。



真田幸村終焉の地と咊

大坂夏の陣

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、道明寺の戦い(56日)に参加。伊達政宗隊の先鋒(片倉重長ら)を銃撃戦の末に一時的に後退させた。

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真田幸村戦死跡の碑(大阪府大阪市天王寺区安居神社内)

 

ただし、この道明寺の戦いでは、先行した後藤基次(通称又兵衛)隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死している。この大幅な遅れの要因としては、当日の濃霧のため、真田隊が行路を誤ったためとする史料がある。また、毛利勝永隊はこの時、真田隊より早く戦闘現場に着陣済みで、真田隊の到着を待っていた。しかも当日の指揮権は、大坂城内の譜代の大野治長が持っていた。そのため、後藤基次討死の責任が、信繁や勝永ら現場の武将にあるとは断定できない。しかし、所定の時間に着陣できなかった信繁は毛利勝永に向かって「濃霧のために味方を救えず、みすみす又兵衛(後藤基次)殿らを死なせてしまったことを、自分は恥ずかしく思う。遂に豊臣家の御運も尽きたかもしれない」と嘆き、この場での討死を覚悟した。これを聞いた毛利勝永は「ここで死んでも益はない。願わくば右府(豊臣秀頼)様の馬前で華々しく死のうではないか」と信繁を慰留、自らは退却に移った。ここで真田隊は殿軍(しんがり)を務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させた。この撤退戦の際には、「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)と徳川軍を嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。この言葉は後世にまで語り継がれた。

 

信繁は兵士の士気を高めるためには、豊臣秀頼本人の直接の出陣を訴えたが、豊臣譜代衆や、秀頼の母・淀殿に阻まれ、秀頼の出陣は困難を極めた。

 

57日、信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させるというものだった、とされている。

 

先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し、射撃戦を始めた。信繁は、かねての作戦計画に齟齬をきたすため、毛利隊に射撃中止の伝令を遣わし、勝永自身も中止を促したが、射撃戦は激しくなるばかりで、ついに本格的な戦闘へと突入したため、作戦を断念せざるを得なくなった。これを受けて信繁は、軍目付の伊木遠雄に向かって武運拙きことを嘆き、己の死を覚悟したという。そして死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行した。この突撃は真田隊のみではなく、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至った。信繁率いる真田隊は、越前松平家の松平忠直隊・15,000の大軍を突破、合わせて10部隊以上の徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行。精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入した。真田隊の攻撃のあまりの凄まじさに家康は自害を二度も覚悟したほどだった。

 

なお、家康の本陣が攻め込まれ馬印が倒されたのは「三方ヶ原の戦い」以来二度目であり、家康は武田家ゆかりの武将に二度馬印を倒されたこととなる。

 

大野治長は秀頼の出馬は今しかないと考え、自ら言上しようと大坂城に引き返した。しかしこの時、治長は秀頼の馬印を掲げたまま帰ろうとしたため、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り、落胆が広がった。さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍った。徳川家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知した。東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めた。

 

この時、真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩したという。真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまった。数度に渡る突撃で信繁の疲弊も頂点に達した。兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされたのである。真田隊が撤退をはじめたのを見た毛利隊も攻撃続行をあきらめた。こうして大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となった。

 

信繁は四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され、「儂の首を手柄にされよ」との最後の言葉を残して討ち取られた。享年49。実際は、真田信繁という首が多数あったと言われている。一方、近年発見された新史料では、生玉(生國魂神社の周辺)と勝鬘(勝鬘院の周辺)の間の高台で身を休めていた信繁に、西尾が相手を知らずに声をかけ、互いに下馬して槍で戦った末に討ち取り、後に陣中見舞いに来た知人が過去に真田家に仕えていたことから信繁の首と判明したと記述されている。

 

この地は上町台地の少し西側にあり、豊臣時代にはこの付近の北側には沢山のお寺が建立されている。現在でも寺が密集している場所である。この地を夕陽丘と呼んでいます。家人藤原家隆は

 

ちぎりあれば 難波の里に やどり来て 

 

波の入り日を おがみつるかも

 

天王寺七坂と呼ばれる七つの坂(真言坂、源聖寺坂、口縄坂、愛染坂、清水坂、天神坂、逢坂)の南側にある逢坂という坂の途中に安居(安井)神社がある。この地は真田幸村終焉の地としても有名である。

 

道明寺の戦いを終えてこの地にて夢果ててしまったのですが、大阪城からは約5km南にある。

 

高低差が分ればこの地の楽しさがより理解出来るのです。

 

さて、その「安居神社」に昭和の「和」の逆さ文字、「異字体」があったのには驚きました。

 

珍しい異字体
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昭和九年の”和”が”咊”
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「咊」は、「和」の異体字です。同じ字です。「和」は辞書によっては口偏に分類されています。意味が「口」で、音が「 禾(か)」だから、本来なら「咊」の方がいいんでしょうが、多く「和」を使いますね。だから、今はこちらの方が正字とされています。

 

 旧字は、「辺」に対する「邊」ですが、異体字は「邊」に対する「邉」といった関係です。

  

「咊」この辭は以前に使用されていましたが、次第に無くなってしまいました。その字が石碑に彫られているのを見ました。
それが上図です。


和とは

1 仲よくすること。互いに相手を大切にし、協力し合う関係にあること。「人の和」「家族の和」

2 仲直りすること。争いをやめること。「和を結ぶ」「和を講じる」

3 調和のとれていること。

「大いに身体の―を傷(やぶ)り」〈中村訳・西国立志編〉

4 ある数や式に他の数や式を加えて得られた結果の数や式。

 

和は部首としては「口偏」です。考えて見れば禾偏と思ってしまうのですが、禾偏では理解出来ない言葉になります。

 

『禾』は“か”と呼びます。「禾」は「穂の垂れた粟(あわ)の形」を表す象形文字だそうで、穀物の総称を示すそうだ。

 

「穀物を口にする」と書いて「和」と読ませます。

穀物を口にすることは「和」に繋がることを思えば、感謝して食事をする大切さを実行していきたい。


真田幸村-1

江戸時代の天王寺村です。矢印が安井神社です。
上部に生玉宮は現在の生國魂神社です。イククニタマと呼ぶのですが、どうしてもイクタマと私たちは呼んでいます。


『生命の實相』單行本について

テキスト ボックス: 『生命の實相』単行本版
巻数	書名	発行日
第一巻	運命の神秘	S26.6.15
第二巻	生命に到る道	S27.2.25
第三巻	現實の救ひ	S28.5.10
第四巻	光明の健康法	S25.8.25
第五巻	人間の運命	S26.3.01
第六巻	地湧の浄土	S27.7.01
第七巻	生活の値打	S28.6.01
第八巻	生命の神秘	S27.9.20
第九巻		
第十巻	神を見るまで	S26.11.05
第十一巻	『甘露の法雨』講義	S26.11.15
第十二巻		
第十三巻	人間を作る法	S26.9.15
第十四巻	久遠生命の道	S26.10.05
第十五巻		
第十六巻	イエスは十字架にかゝらず	S28.6.01
第十七巻		
第十八巻		
第十九巻	毎日の修養  日輪めぐる	S29.1.01
第二十巻	あなたの愛兒	S28.7.10
※上記で不明な第九巻、十二巻、十五巻、十七巻、十八巻が『生命の實相』單行本として何巻かお持ちの方は是非教えて下さい。
当時(昭和24~30年)の出版された御本に「日本教文社出版だより」というチラシが入っている場合があります、その中で記載されている場合があります。また、昭和22年の『運命の原理』に『生命の實相』新修第一巻と記載されていますが、この本は途中で断念されたのだと思います。

厳しいものの中に本当の“愛”

今回の製作にあたって、当初は簡単に済ませようという魂胆が私の胸中にあった。724日に阪田成一先生の自宅にお伺いして、色々な御意見を聴いた。今回の文章については、柔らかく、「この本だったら、私は購入しない」とはっきりと言われた。

 

その言葉の裏には、購買数についても30冊と言った私に、「それじゃ駄目だ」それがある程度見切りをつけたような言葉だったことを思い出す。だが、反面私にはそういう言葉を期待していた。「これでいい」と云われたならば、甘えてそのままにしたかもしれない。

よし、それならこれ以上のものを作成してみせる。次回もう一度来させていただきます。阪田先生はそういう私の考えを見越したように笑っていた。

 

人間の信頼関係というのは、単に甘えたような馴れ馴れしいものではない。厳しいものの中に本当の“愛”があるように思える。そこに本当の師弟関係がある。何度も突き返されても、それに耐えるようなことも人生には必要だと思う。もう少し頑張ってこの史料を作成しよう。

「忙しいからこそ、夢は実現する」

昨日、『亀の子』ブログから『人間醫學』という雑誌を紹介していただき、国会図書館や大学図書館などを調べました。それでも置いているところがないようである。そこで『人間醫學』を出版している会社を調べました。どうやら近くにあるようで、大阪の梅田ということでした。

そこで、現在もその出版物は発行されているようなので、その人間医学社と連絡をとり、バックナンバーとか聞いて、昭和48年の一月号の谷口雅春ということを確認しました。後で連絡があり、コピ-をさせて欲しいということで連絡を頂き、その箇所を指示しました。これならば遠くにいてでも発送は可能である。それに要した時間はたったの15分である。

インタ-ネットの使用は5分です。それですべての状況を把握して、会社を調べて連絡した時間は10分だけである。合計15分でその手配をしたのです。

 

私は今回の一連の作業で電話などで色々な指示をして刊行物を送ってもらったりしています。それは国会図書館と宮城県立図書館です。大学図書館等は行かないと駄目の場合が多くありますが、それでも、結構簡単に作業をおこなっております。ただ、どのように作業して指示すればいいのかが把握できないから、忙しいという気持ちが優先して、そこまでの気持ち、その気にさせないことで出来ないと勝手に判断することがおおいのであります。

 

前回の出版では間違い箇所もあったが、仕事を抱えながら出版したことを考えると、「自己限定」してしまうのが最も「出来ない」根本的要因なのであります。私は常に「忙しいからこそ、夢は実現する」と思っています。時間があれば私の場合には大概は「堕落」「變な趣味」をした生活になっています。ここはあまり突っ込まないで下さい。

以前は世の中に認められていた「生長の家」

時折、勘違いされています、信徒の人がいます。しかもその人数が多いのですが、雅春先生は愛国の書だけを戦後になって御寄稿されているという勘違いです。例えば『やまと新聞』ですが、確かに多くの愛国の気持ちを吐露されておられますが、その中には醫學的なことなども多数ふくまれています。また、宗教講話というような話も多くされています。

 

「小児癌、先天的聾啞、吃音の真理療法」「国立精神身体医学研究所の設立」「人間不在の体育行政を改められよ」「病気を武器としてはならない」「公害病の増悪と潜在意識」「道徳的廻心による癌の治療」「スモン病の精神分析」

また、「講話の断片」について

私の随想は国家問題や政治問題だけではなく、宗教的な問題も時々載せてほしいとの希望があるので、月に一、二回は宗教講話を載せることにしましたから御期待下さい。(やまと新聞)

『安楽死は人間の救済になるか』

『ガンの精神的治癒』

 

今回、「亀の子」様から貴重な資料の提言がありました、調べて見たいと思います。ありがとうございます。

私は戦後という「生長の家」が発展した時期というのは、雅春先生が先導して「戦ってこられた」歴史だと思っています。一般の人からや企業の社長まで幅広く信頼を集め、「なるほど」と思うような言葉が溢れていました。それは何故かということです。人々を納得させるには、それを知り得る能力というのが備えなければならない。それがあらゆる職業に適していたということです。碩学であり、未来を予測する能力は長けていました。

『精神科學』という雑誌は医学部門でも本当に凄い雑誌であったということです。当時では著名な人も多く「生長の家」の愛読者であったということです。以前に著名な人を記入しましたが、また後日、落ち着いたら発表したいと思います。

亀の子様へ

亀の子様へ

いつも見苦しい愚書である「ブログ」を見て頂き感謝申し上げます。

さて、今回記入させていただきました件で、いつものように偉そうに書いているなと思われています、山ちゃんです。

現教団への「谷口雅春先生」を蔑ろにする言動を、この二か月半にわたり、尊師の歴史に再度触れて居ても立っても居られない気持ちになるのです。愛国の情が迸る言説などは、本当に現在の雅宣総裁が真逆なことを行っていることを感じるので、ついついブログで書いてしまいました。また、『谷口雅春先生著作年譜一覧』の作成では教団は非協力で温故資料館に行った時は、私を蔑んだような眼で見ていることがわかり、もうこんな団体は「生長の家」とは全く異質な教団であることを再確認した次第です。

 

ただ、このブログで協力を何回か呼びかけても梨の礫です。最後にはもう頼らない事にしました。ただ、昔から協力して戴いた人には「今でも尊敬」しています。以前に大きく協力して戴きました人には「一生」御恩返しをする気持ちでおります。

 

前回では『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を欲しいと要望された人には差し上げた人も何人かいましたが、そんな人は「協力」はして戴けません。貰っただけで「見る事」もしていないのではないかと思っています。でも人とはそんなものです。やはり、購入して戴いた人はさすがに読んでおられます。


 仕事を一旦辞職してこの作業に取り掛かっております。それほど価値ある仕事だと思っています。本来は前にも言いましたが、給与を貰っている人は何もしない。私は無給でこの作業に取り掛かった。
それは「谷口雅春先生」の恩返しだと思っています。

 現在は雅春先生の「レファレンス集」や功績など全く何もない現在の状態を憂うる人がいてもいいのではないかと思っています。

 

それと名前は云えませんが、今回出版にあたり、大変協力をして頂いている人がいます。挫けそうなことも度々あります。それでも、協力して戴いている、其の人の爲にも頑張ろうという気持ちでおります。

 

その方もそうですが、丁寧にこの本を讀むことにより、雅春先生の「偉大さ」がわかるのです。今回は『生命の實相』の全聖典のレファレンス集を敢行しました。それを讀むだけでも、本当に『生命の實相』はいいな、と思います。私はどれ程この何か月間、「眞理」の書で沐浴しているのか、それを考えただけでも、光栄な作業です。また、本当に苦労されて『生命の實相』を出版されたことを垣間見たので、なんとも言えない気持ちにもなりました。

構想段階ですが-②

7. 奇蹟篇

1. 話を聽くだけで難病が全治するとにいふ『生命の實相』とは何か?

本誌記者奇蹟的な精神療法の眞相を探る  『主婦之友』 昭和十年五月号

()        惡性の脊髄癆が奇蹟のやうに治った 巽忠藏氏の經驗

()        肺炎と肋膜炎を治して療法を體得した 服部仁郎氏の體驗

()        暗黑の家庭を光明に導いた 窪田菊子夫人の經驗

()        腺病質と近眼が不思議に治った 桑原和子さんの經驗桑原和子さんの經驗

()        我が子の肺炎を治し療法を體得した 栗原保介氏の經驗

()        何故難病が全治するか? 谷口雅春氏を訪(と)ふ

2. 田中静壱大将と甘露の法雨 -

①  歴代陸軍大将全覧より

            聖經『甘露の法雨』の由来

            中島與一(「生長の家四十年史」から抜粋)

            『ああ!皇軍最後の日』から

            將軍病篤し 

            將軍起死囘生す

            中嶋與一先生『無血終戰夜話』『光明生活の手引』中嶋興一著

            大いなる使命のために (『もっと深く愛そう』谷口清超先生著より抜粋)

           人の生命と全体の生命

           分裂した治療の悲劇

           播かれた種子は生える

           神癒

           終戦時の使命

           使命

            川口放送所占拠事件

            終戦時における住吉大神の働き

⑪  あとがき

3. 焼津市の市営焼津焼却場で起こった奇蹟

4. 燃えひろがる聖火 御巡錫始まる

5. 谷口雅春氏來盛す

6. 谷口雅春先生の初の青森県の御講演會

8. 総覧篇

1.比較・レファレンス集

2.『生命の實相』の戦前版と戦後版の比較(新修普及版・新修特製版)

3.『生命の實相』黒布表紙版とそのレファレンス

4.谷口雅春選集とそのレファレンス

5.『眞理』とそのレファレンス

6.単行本とそのレファレンス

7.谷口雅春先生著作索引集

8.光明主義文化雜誌(綜合文化雜誌)『いのち』のレファレンス集

①谷口総裁を悼む 中川与一(中河興一)

           天成の哲人 佐藤通次 皇學館大学前学長

           新宿の一夜 難波田春夫 関東学園大学前学長

           掛け替えのない先達 浅野晃  詩人

⑤ 小田村寅二郎

9. 著名な女流作家と女流歌人を輩出した『白鳩』篇

平塚らいてう、柳原白蓮、與謝野晶子、北見志保子、川上小夜子、生田花世、茅野雅子、中河幹子等が挙って寄稿した『白鳩』誌

1. 柳原白蓮(柳原燁子)空白の文章と短歌を明らかにする

           白蓮年譜の空白

A:柳原白蓮詠草、歌壇選評、柳原燁子寄稿文(昭和十一年~昭和十九年『白鳩』誌所載)

一、散文『白鳩』昭和十二年十二月號 3537頁 牡丹と戰爭             柳原燁子

二、散文『白鳩』昭和十三年六月號 3541頁 よしなしごと                  柳原燁子

三、短歌『白鳩』昭和十三年十月號 2021頁 出陣                                柳原白蓮

四、短歌『白鳩』昭和十四年三月號 4445頁 春のあけぼの          柳原白蓮

五、歌壇選評『白鳩』昭和十四年四月號 5557  「歌籠」              柳原白蓮

六、歌壇選評『白鳩』昭和十四年五月號 6062頁 「歌籠」                  柳原白蓮

七、散文『白鳩』昭和十四年五月號 3742頁     掛詞                  柳原燁子

八、短歌『白鳩』昭和十四年九月號 1415頁    山荘日記        柳原白蓮

九、短歌『白鳩』昭和十四年十二月號 1819頁冬の浪(ふゆのなみ)    柳原燁子 

十、散文『白鳩』昭和十五年一號 3643       おみかさん               柳原燁子

十一、歌壇選評『白鳩』109號 昭和十七年八月號 5153頁「生活の歌」 柳原白蓮

十二、散文『白鳩』119號 昭和十八年六月號 1822  二人の印度人   柳原燁子

           『朝日新聞』昭和3522日 朝刊5面 無題     柳原燁子

           『朝日新聞』昭和3620日 朝刊5面 逸題     柳原燁子

           光明主義文化雜誌『いのち』昭和121月號 新しき太陽 柳原白蓮

           光明主義文化雜誌『いのち』昭和126月號「我が息子へ」柳原燁子

2.           與謝野晶子と『白鳩』

3.           平塚らいてうと『白鳩』

4.           北見志保子と『白鳩』

           短歌『白鳩』昭和十四年五月號       「山吹の花」

           短歌『白鳩』昭和十四年十月號       「みのりの秋」

           『白鳩』昭和十六年六月號                  「奈良」

           「平城山(ならやま)」

           「甲斐の峡(さは)」

5.           女流歌人 川上小夜子と『白鳩』

① 『白鳩』昭和十四年六月號 (2728頁) 「野にすみて」

           『白鳩』昭和十五年六月號 (2526頁)  槻若葉(つきわかば)

           『白鳩』昭和十五年十二月號 (4849頁) 祝典の秋

6.           生田花世と『白鳩』への随筆

7.           歌人 茅野雅子と『白鳩』

    ①『白鳩』昭和十四年一月號 2021頁  嶋をおもふ

8.           国文学者 中河幹子と『白鳩』

    ①『白鳩』昭和十四年十一月號 3031頁  子をつれて

           『白鳩』昭和十五年二月號 2829頁  きさらぎの海

           『白鳩』昭和十五年七月號 2529頁  御苑の花

           『白鳩』昭和十五年十月號 2829頁  越路の旅

10. 年譜篇  

1. 谷口雅春先生年譜(著作を中心に掲載)

11. 総説篇

1.谷口雅春の御文章

2.耳寄りな話

3.『耿耿の言』(『動向』より抜粋)

4.谷口雅春先生を讃仰する

5.谷口雅春先生の大本教時代の和歌

6.お願い

 

別冊

谷口雅春先生著作年譜一覧(下)

谷口雅春先生レファレンス篇

構想段階ですが―①

『谷口雅春先生著作年譜一覧』(上)の構想が出来た。今回は大きく資料ごとに整理して行った。

何を云いたいのかをわかるようにしていった。現在の信徒の人ならば、理解出来ない箇所もあると思います。だが、色々な資料や史料などを整理して、興味をもてるような本とした。

字が小さいですが、拡大して御覧下さい。

 

1. 資料篇

1.           谷口雅春先生著作一覧表-(年代別)

           『生命の實相』戦前版 

           『生命の實相』戦後版 

           生長の家立教以前の著作

           生長の家立教以後の著作

           その他  

           著作集の注釈 

           参考文献  

2.           立教以前の執筆と寄稿の著作集

           谷口雅春先生の摂津紡績退職後の寄稿―『彗星』への寄稿全文―          

 ⑴「心靈療法の眞髄」(上)

⑵「心靈療法の眞髄」(中)

⑶「心靈療法の骨子」(下)

           大本時代の谷口雅春先生の雑誌及び新聞の編輯期間 

           『神靈界』編輯及び寄稿

           對語 ある國 谷口正治『神靈界』大正七年十一月一日號(頁2728)『神靈界』最初の文章

           『綾部新聞』における谷口雅春先生の文章    

           『大本新聞』における谷口雅春先生の文章    

           『大本時報』における谷口雅春先生の文章    

           『神の國』(B五判)掲載の文章   

           『皇道大本研究資料 龜岡叢書』 

           『大正日日新聞』における谷口雅春先生の文章  

           『光』誌への寄稿文章     

           『心靈界』『心靈と人生』誌への寄稿文章

           『生活者』倉田百三編集主宰の寄稿文章

           『新時代』綜合雑誌 主幹・杉中種吉、三土社 鳥谷部陽太郎

           『兄弟通信』 鳥谷部陽太郎主宰

⑯ 『爐邊者』への書簡

⑰ 『靈光』への御寄稿

3.           立教以後の御執筆と御寄稿集―戦前―

           生命の藝術社と光明思想普及會と著作集 ―著作一覧―

           戦前谷口雅春著作集全十三篇

            戦前『生命の實相』書店版全十四篇

           『朝日新聞』からの生長の家(谷口雅春)についての記事

           『逓信協會雑誌』昭和1010月号への寄稿

           『不惑の信念を語る』の寄稿(モナス発行 真渓涙骨編)

           『日本作曲年鑑』(昭和12年)に於ける雅春先生の作詞の掲載

4. 谷口雅春先生の『いのち』誌の寄稿

5. 本のサイズ

6. 今では使われない昔の本のサイズ

7. 立教以後の御執筆と御寄稿集―戦後―

① 『産業と産業人』における谷口雅春先生の文章 

② 『宗教時報』における谷口雅春先生の文章 

③ 『家庭よみうり』私の顔より      

④ 『信仰と人生』現代宗教講座Ⅲ   

 ⑤ 『不二』昭和3612月合併号  

⑥ 『週刊朝日』における谷口雅春と徳川夢声

⑦ 書店のための『仕入と販売』における谷口雅春先生の文章

⑧ 『青少年問題』昭和401月号における谷口雅春先生の文章

⑨ 『出版ニュース』における谷口雅春先生の文章

⑩ 『実業之世界』における谷口雅春先生の文章

⑪ 『社会人』における谷口雅春先生の文章

⑫ 『学校教育』における谷口雅春先生の文章

⑬ 『読売新聞』の投稿の谷口雅春先生の文章 

⑭ 『憂国箴言』公安資料調査会発行への御寄稿

⑮ 『ガンの精神的治癒』千島喜久男著

8. 谷口雅春先生の愛国への執筆と寄稿

           『帝都日日新聞』(やまと新聞)・『中外日報』・『新日本春秋』の寄稿一覧表

           『動向』の寄稿

           『民族と政治』に寄稿の文章

           『在家佛教』の寄稿

           『祖國と靑年』の寄稿

           『神宮の森―随想百人集―』の寄稿

⑦ 『書簡-天皇と靖国神社をめぐって-』

⑧ 『安楽死は人間の救済になるか』

⑨ 『日本は生き残れるか』の寄稿

9. 谷口雅春先生について書かれた本・論評 

10. 生長の家に対しての反論本

11. 月刊誌の変遷

12. 谷口雅春先生の投稿及び寄稿された雑誌

13. 『聖経』、『生命の實相』の内、翻訳出版配布されたもの

2. 旧制市岡中学時代篇

1.           一柳安次郎先生と谷口正治先生と旧制市岡中学校の校風

           一柳安次郎先生とは

②その当時の谷口正治先生

③校歌と送別の歌の作詞

3. 皇道大本時代篇

1.皇道大本と谷口先生

① 『国訳大蔵経』の読破

② 雑誌『彗星』と岡田建文

③ 心靈治療法の骨子を讀んで

④ 皇道大本へ

⑤ ―大本の入信の動機を語る―

⑥ 序にかへて―『皇道靈學講話』より抜粋

⑦『神靈界』の編集長までの経緯

⑧『言霊と神通力』

()        宇宙の一大神劇

()        三種の寶(たふと)き鍵

()        言靈學の槪念

()        ウの言靈

()        エの言靈

()        ハ及びスの言靈

()        シの言靈

()        其他の言靈

4. 聖光錄篇

1. 聖光録の歴史

5. 評論雑誌一覧篇

1. 生長の家の評論を雑誌に見る

6. 生長の家における検閲篇

1. 戦前、戦後の「発禁図書」と生長の家

① 戦後における「谷口雅春」著書の焚書(検閲)

            戦前の「谷口雅春」著書の禁書

A:戦前における内務省の検閲の詳細

             運動状況

             特異の言動調

B:安寧秩序妨害

           「禁安」「禁風」について

            安寧不問となった『余の國家主義』の本

            国会図書館の資料から

             結論

C:戦前の「生長の家」の発行の「発禁図書」の検証

           百事如意

  ② 生命の實相 第二巻 黒布表紙版

           『生命の實相』信の巻について

           『生命の實相』 第六巻 菊判

           『生命の實相』菊判装第二巻

           『生命の實相』菊判装第九巻 女性敎育篇・家庭敎育篇・佛敎篇

           『生命の實相』黑布表紙版 第八巻 人生問答篇における検閲とその対処

『生命の實相』全集第八巻昭和10325日 黑布表紙版

『生命の實相』全集第八巻昭和16920日 黑布表紙版(第六版)

『生命の實相』全集第八巻昭和18515日 黑布表紙版(第七版)

E:「内交」の本

           内交とは

F:戦前の『生命の實相』及び『大聖典』における検閲除外対策

             「検閲」除外対策を『生命の實相』第七巻からみる

             『生長の家叢書』と『光明叢書』のおける検閲除外対策

             『生長の家叢書』の検閲除外対策

             『光明叢書』の検閲除外対策

              黑布表紙版『生命の實相』第七巻六章「唯心思想の經濟的展開」から「價値の本質」の変更について

G:『大聖典』の生長の家の神示の差し控え

① 差し控えた神示

2. 戦前の御著書について

3.『生命の實相』携帯版叢書について

4.『生命の實相』大聖典物語(『生長の家宮城教区の歩み』より抜粋)

雑感余話-⑧

今回の出版の準備において、約700頁。しかし校正や執筆などで消費する紙の量はハンパではない。校正やその資料でその数倍の量のものが必要となる。その本の題材となる本はその夥しい資料の約2%程度に凝縮されたのが、出版する本となる。どれほどの日数がかかり、資料を集めるかといえば、今回は資料に掲載しないが「松本俊介」この人の資料も蒐集した。しかし、今回は『白鳩』を一つのテ-マとして掲げていたので、其処に重点を置いた。

 一冊の本を出版するのに、3,000冊の資料が必要であった。

何故?といわれるであろうが、これが眞實である。資料蒐集で約40年を経過した。谷口雅春先生の御本だけで約1,500冊の資料である。そこから、谷口雅春先生著作一覧表を作成したのです。膨大な資料から、どれを引出して書いていくかといえば、多くは眞理の書だから「雅春先生」の謹言であるのといえば正直そのほうが簡単であるが、しかしそんなことすれば著作権にもひかかってしまいますので、そうではないのです。

本の判の大きさ、頁数、奥付、目次が必要になってくるのです。勿論、雅春先生の著作内容も読まないと書けません。今回は何十箇所もあったのが、目次と本文の内容が異なることでした。また忠実にその当時の歴史的仮名遣いを使用していますので、その修正だけでも、一箇月を要しました。多分、行った人しかわかりませんが、どれ程大変なことかです。


 一番多く修正したのが「神」を「神」です。次に「教」を「敎」です。次に「霊」を「靈」です。これなどは見てすぐにわかる字ですが、中には「難」や「涙」「様」などはついつい見逃してしまいます。「説」や「脱」なども見逃してしまっている漢字も多くある。

本来はもう少し「歴史的仮名遣い」にしなければならない箇所もあったが、「パソコン」では出ない漢字や、現在は使われていない漢字など、悪戦苦闘でした。たとえば「聖」という字ですが、今回はそのまま使用しましたが、下の王という字の上の横線が片仮名で「ノ」が正しい。そういうことが度々ありました。「半」などは旧字体では使用できないので、そのまま「現代仮名遣い」を使用しています。ただ、出来るだけ、変えています。

また、ややこしいのが昭和30年代です。旧仮名遣いと現代仮名遣いが交叉してしまっている年代です。どの字で書けばいいのかわからない事があります。

 此処に書いていることは、本を見て頂ければ「納得」されます。
いままで、誰も行わなかったことですので、何とか頑張って完成させるしかない。

雑感余話⑦

度々同じような事を書きますが、「谷口雅春先生」の歴史を勉強させていただくと、矢張りとてつもない「哲學者」であり、「言語学者」であり、「医学者」でもある。そうしたことを感ぜられること故は、現在の私は常にそうした夥しい本を通して観じながら勉強をさせて戴いているからである。常に新しい発見があり、この問題はこうして発見するのだとか、何度か今まで講師に話を聞いても、また同じ事かととかそういう場面がこの校正と執筆においてないのです。次々と發見がある。そうした状態がこの2か月半続いていることになっている。

 

当初は今回の三度目の出版はあまり、気にして居なく「楽勝」というイメ-ジで発行を考えていた。それが今では、頭に閃光を受けたような衝撃があり、「もっといいものを出版」しなければならない。その気持ちが強いのです。前回も書きました「初筆」その言葉から頭から離れない。発行が遅れるのは仕方がない。「初筆」というチャンスのコトバを戴いた。それに「復興」を架けた、大きな橋脚のように、更に丈夫な更にデザインが満載された。アイデアが満ちたものにしていこうと決意したからである。

 

「生長の家」信徒だけが讀むのではなく。一流の作家や大学教授にも読んで欲しい。私は現教団の情勢などはどうでもよい。ただ、谷口雅春先生の「人類救済」という大きなテ-マは済崩しに崩落させ、大きな宮殿は崩落してしまっている現在の現状を「谷口雅春先生」の事を考えると「情けなく」「恥ずかしく」「申し訳ない」。

今回はそういう批判は最小限度にしておきたい。ただ、私の感想や思いなどは最小限度に抑えている。事実を積み重ねて記入しているだけである。

 

だから、「真理の言葉」が満載とかではない、事実を記入しているだけである。『谷口雅春先生著作年譜一覧表』という本の題名がその根本因を書いているが、それ以外も書いている。今回は「生長の家」が戦前に内務省警保局の検閲について詳細に記入している。また、前回も書いたが、宮崎白蓮についての「空白の短歌集」も書いた。今回私のブログでは書かなかった。聖経『甘露の法雨』の奇蹟についても、分り易く書いた。

 

前回では、光明思想社の出版物も少なかったが、今回は全てを網羅出来た。また旧制市岡中学の「一柳安次郎」を通しての、作家志望という、気持ちの発露となったのか、運命を切り開くことが出来たのかも書いています。

 

最近の生長の家の信徒は歴史を勉強しない、生長の家の真理を勉強しないのは、総裁がその程度であるから致し方がない。総裁以上の器が育たないのは、総裁がその程度であるから、トキさんがいくら嘆いても、成るべくして成ったのです。ただ、以前は真面目であった人物が急に遊び呆けているのは「その方が楽だからです」人間と云うのは“樂”な方に気持ちが向けば、そちらに行くものである。敢えて辛いようなことはしない。自転車遊びは辛いとかいうが、反面「静座」して神想觀を毎日やるのとどちらが辛いかといえば、わかるであろう。

 

 早く発行出来るようにしたいが、何せ「昔の資料」からもう一度漁っているから時間がかかる。今は仕事を休憩して行っているが、以前は仕事をしながら発行したのであるから、とてつもない事をしたのだと、我ながら感心する。

誰にも問い合わせが出来ない、それでも一歩前進します。

今回の出版予定の本を校正や校閲とかを行ないながら、疑問が生ずることが多くある。その一つが、

例えば『生命の實相』に関して何故もう少し早く調査しなかったのであろうかである。

!調査?

と思われるのは当然である。

『生命の實相』は変わっていないというのは容易い。しかし、それは間違いである。

また、戦前と戦後の違いであるという人もいるだろう。

それも、多くは判明しているのである。しかし、それならば何が疑問かというと

①『生命の實相』での編輯されている部分が未だに謎のある箇所がある。とりわけて昭和1418年に出版されている黑布版『生命の實相』である。ほぼ間違いなく検閲を想定しての削除が行われている。明らかに頁数が違うのである。間違いなく限定本5000部として出版されているのであろう。先日も人造羊皮版での違いもわかったこともある。その検閲と言うべきか、自主的に削除したのかはわからない。

そんなものを調べて何になるのだ。という人も当然いるであろう。しかし、こういうことを今迄何故調べなかったのかという疑問というのが当然の心境だと思っている。

 

戦前での出版にあたり、『生命の實相』は本当に苦労していたことを今回の本では書かせて戴いている。内務省警保局による弾圧、GHQによる弾圧と二重三重の苦心がこの『生命の實相』にあるのである。云うに云われぬ苦心の跡が『生命の實相』の中から私は垣間見る。   

ある一部の人は「この章立てがおかしんだ」という人がいるのは知っている。しかし、其の人に問いたい。貴方は『生命の實相』を隈なく、隅々まで見て発言されているのですか?

どのように、今迄に章立てして、検閲されて、削除して、検閲を除外されるために苦心されているのが、どの箇所か御存知かと問いたい。たぶん、何も知らないから反対にそういう発言をされるのである。今回、私は完全ではないが、隅々まで『生命の實相』というのを見てきた。それでもわからない部分がある。それは私の勉強不足である。

 

本来はこういう作業は「温故資料館」で行うのが正式な作業であるが、その本来行うことが出来ていない、レファレンスなどの作業などしていないからである。今のシステムならば出来ないであろう。裁判ばかり考えるような人に任せるのは本当といえばおかしい。もう何年も裁判ばかりしている。裁判が終わったら見せるのかといえば、見せないであろう。

 

前にも云ったが、「全国の図書館」や「大学図書館」では雅春先生の著書が見ることが可能です。本の中身を見れないのが「生長の家」教団です。こんな情けないことが世の中にあるものか、憤慨というより、こういう所の所業というのか、発言には気を付けた方がいい。「嘘」が多いのも顕著な事である。

 

宗敎が嘘を平気でつくのは實例を挙げて、このブログで書いたので読んでいただいている人は御存知だと思う、詳細については今迄のブログを読んで欲しい。

 

最近は或る方の疑問に答えられないでいる。本当に私も知らないことが多すぎる。情けなくなり、自暴自棄にすらなる。どこにも回答を問い合わせすることが出来ないので苦心している。誰もその回答を知らないから、誰も聞くことが出来ない。でも私は其の人の爲に「悦んで作業」をすることにしている。内容は後日記入することにします。今日も二カ所程、公立図書館へ行く、その回答を求めて歩むことにします。

神代古墳に調査

以前にこのブログで発表した、私の本家の橫にある「古墳」神代古墳だが、盆休みの時に初めての調査が入ると聞いていたので、ようやく調査するんだと安堵した。

http://livedoor.blogcms.jp/blog/tecnopla1952/article/edit?id=76666733

 

自治会が後押ししてくれたようである。

https://blog.goo.ne.jp/yayoitekken

 

奈良大学文学部文化財学科と斑鳩町教育委員会による古墳調査である。この周辺は有名な「藤ノ木古墳」を中心に周囲に古墳がある。「藤ノ木古墳」は円墳だが「神代古墳」は方墳ではないかと本家と話していた。

御坊山古墳群や寺山古墳群、竜田横穴群と「藤ノ木古墳」の北側に存する。それ以外にも沢山ある。「藤ノ木古墳」と「御坊山古墳」と「神代古墳」は直線で200m間隔にある。「藤ノ木古墳」のように未発掘であればいいのだが、盗掘されているのではないかと思う。ただ、正式な調査は初めてなので期待したい。

雑感余話-⑥

先ほど、私の姉と電話で話した。その内容の一部が「萩尾望都」のことである。

姉とは同じ学級で塾が一緒であった。萩尾は占いとかを友達などにしていたようである。それが“よく当る”のである。姉の結婚した歳と子供の数などを当てたようである。それと「萩尾望都」の事は漫画家で女子美術大学の客員教授である。中学時代から漫画の素質があったようである。当時の美術の先生が褒めていた。変な意味ではないが、中学時代などでちょっと変わった人間がそうした才能を伸ばすことを思う。

私の同級生の「高村薫」もそうであった。昼休み男子は運動場で、女子は其々のグル-プで話をしたりしていたが、彼女は独り勉強していた。そんな人が却って、才能を発揮することがあるのである。同じクラスの「本澤巳代子」でもそうである。だから、決して「疎外」などしないで褒めることが大切である。

 

萩尾望都

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E5%B0%BE%E6%9C%9B%E9%83%BD

 

高村薫

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%91%E8%96%AB

本澤巳代子

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%BE%A4%E5%B7%B3%E4%BB%A3%E5%AD%90

 

 

 

雑感余話-⑤

あの三島義挙を考えると「谷口雅春先生」をどうしても思い出す。

あの当時は

佐藤栄作首相(当時)は「憲法改正を考えるならば、他にいろいろな方法があるはずだ。暴力行為に訴える了見はわからない。気が狂っているとしか思えない」と語り、中曽根康弘防衛庁長官(当時)は「世の中にとってまったく迷惑だ」と言い放った。三島の行動を浅墓にもテロと見なした自民党政治は、学生運動の衰退に合わせて腐敗の度を増していった。

 

森茉莉は、「首相や長官が、三島由紀夫の自刃を狂気の沙汰だと言っているが、私は気ちがいはどっちだ、と言いたい」として、以下のように語った。

 

【現在、日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。(中略)滑稽な日本人の状態を、悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か?このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。

— 森茉莉「気ちがいはどっち?」】

 

三島が事件直前の1122(谷口雅春の誕生日に当たる)に谷口宅と教団本部に会いたい旨の電話を入れている。面会が叶わず「ただ一人、谷口先生だけは自分達の行為の意義を知ってくれると思う」と遺言を残したとされる。

谷口雅春先生は『愛国は生と死を超えて』でその意義を説いた。また『やまと新聞』で理解を示した。

私も「現教団」の批判をするが、やはり「谷口雅春先生」だけは私の行為に「理解してくれると思う」という気持ちがある。森茉莉の当時の政治状況を痛烈に批評したが、全くその通りである。それは現在の情況も変わらない。それを「生長の家」教団として置き換えても通じる。「現在の教団」の行状に平然とできる信徒は普通ではないと感じる。

 

 谷口雅春先生の『生命の實相』で救われて、生長の家に入信した多くの人は、自転車や園芸や絵はがきに「長閑な笑い」を浮べて「はい、生長の家」です。とよく言えるものである。

現在の教団を否定することから”本来の宗教”を再生させる

長く信仰という活動を行い、そして現在は「谷口雅春先生」の生涯を辿り。如何にして“生長の家”がここまで発展したかを考えると、感慨深いものがある。“生長の家”の歴史を学ぶことが如何に大切かを少しずつであるが、学習させていただいた。

とりわけ、【自分の脚で学ぶ】ことを私は基本において、努めて「その地」に憧憬の念を抱くように辿った。

 

トキさんが掲示板に書いている

【二・二六事件の時に反乱軍に参加した兵隊の尋問を担当した人の回顧録を読んだことがあります。この事件で、襲撃対象者の殺害行為をした兵隊を調べたら、普段、軍務に真面目で、昭和維新の運動などには関係せず、上官の命令を素直に実行した人が、命令されるままに殺害行為を実行したそうです。逆に青年将校の感化を受け、昭和維新の勉強をしていた兵隊は殺害行為に関与していなかったということです。普通に考えたら、陛下の股肱を殺害するなどはとんでもない行為です。ところが、素直な人は、上官の命令を受けると、何も考えずに殺害を実行したのです。生長の家では「はい」を大事にしますが、何に「はい」かを気をつけないといけないのですね。

 

 私の知り合いにも、安東さんが教化部長だった時期には安東さん万歳で、最近は総裁万歳という人もいます。その変節には仰天しましたが、普段、何も考えない人なので、妙に納得したものです。】

 

 トキさんが書いているような信仰者は“生長の家”とは何かを学習していないからそのようになるのです。単に盲目的な信仰はその本質が見えなくする危険なことであります。

 

だから『生命の實相』をしっかりと学習すれば、現在の教団の可笑しさが「理解」出来る筈なのです。簡単なことだが、それが理解出来ない人はどうしょうもない。例えば「生長の家」は中心帰一の信仰だから“総裁”に「ハイ」であるとかは、間違っている。

何が間違っているかは『生命の實相』を讀めばわかるのですが、その内容に例えば谷口雅春先生は「自分に中心帰一せよ」なんて書いていないのです。その中心帰一という根本教義は「天皇陛下」に中心帰一を何度も書いている。それを発言しなかったり、それを書かないことは「生長の家」根本教義から離脱していることなんです。故に“教勢の数位”が滑り台を下るように落ちて行くのです。生長の家は「天皇信仰」だということを忘れ呆けいることが、教勢が落ちる所以だということを学習しなければならない。

 

よく例えられるのが「良人にハイ」という言葉である。享楽を趣味として、賭け事を行い、女遊びを行うような人に中心帰一出来るかどうかであります。意見を云えば「暴力」を振るうような良人には中心帰一をすればいいのかであります。私の意見は「中心帰一することは間違っている」と指導しなければならない。「良人の實相」を観るとかで、現在の情況を否定することなんです。現在の情況を肯定する気持ちがあれば、良くなるものも、良くならないのです。

 

だから、現在の情況は総裁という“享楽”を趣味とした『生命の實相』を讀まない人は中心帰一を出来ないと“はっきり”と発言することなんです。それが出来ない人があまりにも多いことを嘆くしかない。現在の情況を雅春先生は

 【私は中学時代大阪市岡中学で学んだのであるが、教師は演壇にたったとき、生徒総代又は級長が号令をかけて「先生に礼拝・・・・直れ」などと音頭をとって「形式的に敬礼」させるのでは軍隊式で、形式が先に立って「先生に礼拝する」ごとき魂で恩愛を感じて自然にお辞儀が出てくるのとは違って、強制される礼儀形式ばかりが先に立つ。】

 

だから、その生徒や信徒に強制的な命令や指示などは反対に反感を招くだけである。また

【現在、学校で教職についている先生方は自分の知っている知識を生徒に授けるのが教職者の仕事であるとのみ思っているらしい。“授ける”“受ける”の立場に立って、先生と生徒の関係は、上位と下属との関係であると漠然と思っている先生が多いのではあるまいか、なまけていて進歩の少ない生徒は劣等の人間であると、先生はその生徒を軽蔑する。生徒は教師の自分に対する軽蔑を先生の表情又は雰囲気で直感する。生徒はこんなとき先生より霊感的であり、先生の軽蔑心をすぐ直感的に身を以って体感する-“何クソ”と生徒は先生に反感を起すのだ-もうこうなったら“正しい教育”は成り立たないのである。生徒は先生に対して敵意をもつ。生徒の教師に対する校内暴力は此の敵意のあらわれであるのだ。】

 

このように雅春先生がご説明されているように、現在の生長の家教団は斯くの如き「敵意」を知らず知らずのうちに抱いているから「正しい宗教」の教えが出来ていないから「本来の宗教的な情操教育」に適さないのです。だから現在の「教団」を否定することから始めなければ、本来の宗教の教えが分からなくなる。

 

大阪教化部では和泉葛城山をヒルクライムすることで『新天地』が書いていた。別に昔も「ピクニック」や「ハイキング」や「キャンプ」などを行ったが、それは本来の宗教活動をしていたから、私はそれも大切なことだと思うが、現在は自転車遊びは教団の活動指針に入っているから、それは間違っていることである。宗教は「人を救う」「国家を救う」ことを行わなければ「破滅」するしかないのである。

このことを証明するかのように「信徒数」は二十数年前とは1/21/3とガタ落ちとなっているのです。

そんな時期に「ヒルクライム」するのはどうもおかしいのですが、活動しているとその可笑しさに気が付かない。いくら嘆いても、駄目です。もう破滅するしかないことを覚悟するしか残念ながらありません。

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